三国志の呪い

今週初め、前からちょっと気になっていた場所を訪ねました。こちらのブログでも紹介した、愛知県田原市にある「阿志神社」です。この社の瓦には、ハングルに良く似た神代文字が使われており、ハングル読みではっきりと「アシ」と書かれている点を指摘しました。知人の調べによると、神代文字のアヒル草文字読みでも同じく「アシ」と発音されるそうです。

阿志神社-7月9日撮影

三方原の赤土

神社のある場所までは公共交通機関だと行きにくいので、浜松から知人の車に乗っての移動となりました。

浜松には三方原(みかたはら)という、台地が浜松市街地の西方に広がっています。織田・徳川連合軍が武田軍に敗れた「三方ヶ原の戦い」で知られた場所です。浜松起点ということで、今回はまずこの三方原を訪れました。

文献によって「三方ヶ原の戦い」の戦闘内容や規模はまちまちであり、実際ここで何が起きたのかは知る由もありません。個人的には戦国物には誇張が多く、そもそも日本通史における戦国ストーリーそのものに出来過ぎた感があると前から感じています。ある程度確実な事実があるとすれば、おそらく、合戦場所と記載された土地で多くの死者を生み出しただろうということくらいでしょうか。

この三方原台地の特徴は、一面に広がる黄色い土です。分類上は粘土分を多量に含む「赤土」とされており、耕作にはあまり向いていないようですが、馬鈴薯(じゃがいも)の生産地として知られています。含んだ水の量にも拠ると思いますが、その色合いは黄色がかった赤、あるいは赤味かかった黄色と呼ぶべきものです。埴輪の色と呼んでいいかもしれません。

三方原の赤土

この台地の不思議な点は、この特異な赤土が浜松西方にしか見られないことです。天竜川を挟んだ対岸の磐田市側の台地は普通の土色のようです。浜松市の中心部が鎮座する平野部は、一般的に天竜川が形成した扇状地と考えられますが、実際には南北に縦長の方形で、少なくとも浜松市北部は扇状と呼ぶには無理があると感じます。

とにかく衛星写真から見下ろしても、三方原の土色は際立って赤味が強く、その色合いも浜名湖北部の気賀付近になると途切れています。どうしてここだけ、地質が周囲とこれほど異なるのか、これは前から疑問でした。そこで、何か手がかりをと思い、とりあえず台地の上に築かれた三方原神社を訪れたのです。

浜松の平野部と三方原
航空写真でも土の色が他と異なるのが分かる

住宅地の中に比較的広い敷地を構えるごく普通の神社でしたが、陰陽道的に鑑定を行った結果、興味深いことが幾つか分かりました。専門的かつ煩雑になるので詳細については省略しますが、何故ここが「三方原」でなくてはならないのか、そして何故この地で「三方ヶ原の戦い」があったことにされたのか、それらの答に繋がるヒントを得ることができたと思います。

三方原神社

  ミカタハラ ハニミワタシテ ササグウタ

  コノオツチ コノアカツチヘト
   カミシメシ イマヨリイダク 
   アメメグミ キヨキミクニノ
   ヒトトナラムヤ

遠州灘の奇妙な海岸

この後、浜松市と湖西市を抜けて愛知県側に入り、県道42号線を通って豊橋から田原へと向かいます。42号線は緩やかなアップダウンが続き、視界には森林と畑が広がる、たいへん長閑な道です。地図上は遠州灘の海岸に沿って走っているのですが、南側に丘陵が続き海を見ることができません。そこで、田原に入る少し手前で脇道に入り、海岸線に出てみることにしました。

丘陵を抜けると、曇天ではありましたが目の前には遠州灘を一望できる砂浜が広がっていました。波も出ており、若干名のサーファーさんがすでに浜辺に佇んでおられました。非常に美しい風景なのですが、何か引っ掛かるものがあります。それは何だろうと周囲をよく見渡したところ、それがこの海岸を形作る地形であることに気付きました。

遠州灘と砂浜、右に切り立った丘陵

県道が通っていた丘陵よりもさらに高い丘陵が海岸近くまで迫り出しており、それが海側でストンと切り立っているのです。もちろん、海側が切り立った地形などいくらでもあるのですが、多くの場合それは波に浸食されたケースでしょう。ところが、ここは重機で削ったように丘陵が海岸線で途切れ、なんとその前方に狭いながらも砂浜が広がっているのです。しかもこの形状が20km以上は続いています。こういう地形はちょっと初めてです、他にもあるのでしょうか?

渥美半島の気になる海岸線地形
渥美半島断面のイメージ

阿志の字を考察する

阿志神社に到着する前に気になるお寺があったので寄ってみましたが、そちらは省略します。さて、同神社の境内は比較的狭いものの、社は手入れが行き届いており、全体として小ざっぱりした清清しい印象を受けます。どこにでもある普通の神社と言えばそれまでですが、やはり注目すべきは「アシ」と刻まれた丸瓦でしょう。そして瓦の縁に刻まれたもう一つの文字列は左から「ロシヤ」(右からだと「ヤシロ」)と読めるそうです。こちらは現代ハングルでは上手く読めませんが。

〇内はアシ、口内は左からロシヤと読める
ハングルと酷似しており大陸との繋がりを感じさせる

ここからは、筆者独自の想像と分析であると予めお断りします。

いつものように、まず「阿志」の字を分析します。神代文字で刻まれた「アシ」はおそらく表音文字なので、「阿志」の字は後から漢字を当てられたのだろうと考えられます。問題なのはなぜ、「阿」と「志」なのかです。

そもそも「アシ」とは何なのかですが、神社のすぐ近くに芦ヶ池という大きなため池があり、ここから、この「アシ」の字は水辺に生える植物の「芦」または「蘆」を表してると考えられます。なお、穂を付けた芦を「葦」とも書くようです。

「葦」は日本神話において極めて象徴的な意味を持ちます。天より日の御子が天孫降臨したのも、地上界の葦原中国(あしはらのなかつくに)であり、出雲の王である大国主(おおくにぬし)が天孫族に譲った国の名前も葦原中国です。葦原中国は豊葦原中国(とよあしはらなかつくに)と表記するのが正式のようですが、この「豊」の字を田原市に隣接する豊橋市、その隣の豊川市が市名に冠している (*) ことと何か関連があるようです。

*豊:会員ページに掲載された’19年3月の調査資料に、豊川・豊橋地域がかつて出雲族が治めていた地であり、後に秦氏によって支配されたことについて触れています。また、中国古代史における秦国とは、古代秦氏が日本を統治していた時代を指しているのではないかと、かなりまじめに考えています。つまり、アヒル草文字と同じく、漢字も日本国内で発明され使用されていたのではないか、そう考えるのです。

神代期に記述された地名に関連していること、また神代文字を伝統的に使用していることから鑑みると、この神社の本当の由緒は記紀が編纂されるはるか以前に遡れることは間違いないでしょう。もしかしたら、大国主と同時代またはそれ以前の出雲国の時代、いわゆる神代期に繋がるのかもしれません。

この国において、神武天皇より前の歴史は神代と称して、人の歴史として語ってはいけないことなっています。いわゆるタブーなのですが、有ったものを無きものとするため、後世の国史関係者は様々な呪術的工作を施します。その観点から見ると、「阿志」にもその工作の痕跡があると見るべきでしょう。

「阿」の字は一般的に「ア」の音に当てられることが多いので、ここでは深く分析しませんが、「志」の字にはちょっと問題があります。まず「志(シ)」の音そのものが「死」を意味することです。それだけならまだしも「志」の字は次の様に分解されます。

 志 → 土 + 心 → 心(人)の上に土 → 墓

死と墓で二重に「既に亡き者」の意味が完成しています。そして「ア」とは「天(あめ、あま)」など古代より広く「天」を表す音ですから、葦を阿志と二字縦書きにすることで、天地を分離し、地を死に満つる土地と定義しているようにも読めてしまいます。おそらく、その意味を込めてこの字を選んだのでしょう。出雲の国譲り神話に例えるなら、

 出雲国などなかった

と呪っているようにも取れます。

さて、豊橋・豊川との関連に触れましたが、そうするとその地続きの浜松についても何か関連があるかもしれません。そこで、前述した三方原との関連を調べてみました。まず三方ですが、方角を表すなら四方はあっても三方はちょっと変です。神事の供え物に使う三方もピントがずれている感じです。おそらくこの「方」の字は方形を表すと考えられます。いわゆる四角形(口)です。丸(〇)が日の天を表すなら四角(口)は地を表すのが象形のお約束ですので、

 三方 = 三口

人の住まう地面を古来「クニ」と読みますから、この口(地)はクニと読んで構わないでしょう。その土地を統べる王がいる場合には国と書きます。すると上等式は

 三方 = 三口 = 三国

つまり、三方原は三国原の意と捉えることが可能です。そして、三国原の「原」は豊葦原中国の「原」と同じであることは特に説明は要らないでしょう。

ここから、「出雲の三国?」というよく分からない概念が生じてしまいます。いったいこの三国とは何なのでしょうか?ここで、再び「豊葦原中国」とういう文字列に注目します。そう、まだ「中国(なかつくに)」が使われていません。「中国」と「三国」の字面から何を連想するかはもう聞くまでもありませんね、それはもちろん

 三国志

です。しかも、ここでは先ほど分析した「志」の字が使用されています。三国志と言えば、西暦200年代、中国大陸で魏呉蜀三国の覇権争いを綴った一大歴史スペクタクルですが、いくら後世の小説として脚色されているとしても、あの広大な中国中原で、推定800万人程度しかいなかったとされる人口、すなわち現在の東京都より少ない人口の人々が、レーダーも自動車も無い時代に日本全土の10倍以上もある広大な領地を互いに奪い合うなんてことが物理的に可能だったはずがありません。日本の東海地方に限定した話だったら全く別ですが。

何が言いたいかはもうお分かりだと思います。

三国志は現三河・遠州地方にあった出雲三国の歴史を中国史に置き換えたもの

だったのではないでしょうか?時代的にはヤマタイコク建国とほぼ同時代ですから、これまで詳細不明だった「倭国大乱」が何であったか、三国志を読み解くことで何か分かるのかもしれません。同時に、中国四千年の歴史というのもいよいよ怪しくなってきました。

ここまでの文字分析を下図に落としましたので、参考にしてください。

言霊による「阿志」・「三方原」の呪詛分析図


* * *

以前から、三国志が何故「三国史」でないのか疑問でしたが、もしかしたら、日本式呪詛の故に「志」の字が当てられていたのかもしれません。つまり、[三国志=三国死]です。

ここでは、「出雲の三国」という仮定で論を進めましたが、もしかしたら、この三国とは次の3国のことだった、あるいは意味を重ねていたのかもしれません。

 1.ニニギノミコトの天孫国
 2.ニギハヤヒノミコトの天神国
 3.オオクニヌシノミコトの出雲国

神代の系譜を辿れば、この三国の王はいずれも天界(高天原)に通じます。すると、これら3国全てを呪う存在とは、日本人の系譜から外れた「渡りてきた人々」なのではないかと予想されます。古代史上、天に弓引く外来種族とは

 球磨国(クマコク)=熊襲(クマソ)、隼人(ハヤト)

に推定されます。ヤマタイコク建国の時から1700年、これら渡りてきた人々の血脈は既に日本中に張り巡らされているでしょう。そして、その中には日本に同化した人々も居れば、出雲国造や尾張・橘氏のように高天原三国の中から外来種族の傘下に下った人々も多いはずです。

彼らは、大陸・半島にまで血脈を広げ、日本と同様その国の偽史を作り上げた後に、血縁外交を駆使し各国の戦力を動員して、恨み多き日本を奪おうとしているのかもしれません。これはまさに、ヤマタイコク建国時に起きたとされる大乱の繰り返し(*)なのではないかと思えてきます。

*繰り返し:明治新政府がどうして薩長関係者に主導されたのか、その意味をヤマタイコクの古代史から紐解く必要があるでしょう。警察内には今でも肥後閥なるものがあると聞き及んでます。また、新札の肖像に決定した北里柴三郎は、熊襲の地、小国(オグニ)の出身者であることに注目です。

古代に何があったか、本当のところは分かりませんが、1700年も共にこの地を生きた外来人は、もはや外来人ではなく日本人です。同国人として争いの愚を避け、共に手を取り合ってこの地に生きる、そのような選択肢が必ずあるはずです。

‘19.6.30 日本の頭越しに行われた3国首脳の電撃会談
日本の血縁外交は米国政府にはお見通しなのでしょう
引用元:日本経済新聞

参考:
 Trois Royaumes – Sol sur les coeurs (三国志-心に被る土 [仏語記事] ) 
 関東の地震と故山村新治郎氏 
 巫女っちゃけん。


奪い尽くされて、彼女は地に座る(イザヤ 3:26)
管理人 日月土


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