椿海とミヲの猿田彦

今回の記事は、前回の「天孫降臨とミヲの猿田彦」の続編となります。また、7月16日に発行したメルマガ掲載の記事解説を、加筆再構成した文章を含んでいます。

前回記事の最後に、ヲシテ文献研究者の池田満さんが猿田彦の宮の所在地を、三尾(ミオ)神社のある滋賀県の大津付近に推定していること、その地名に関連して猿田彦がミオノカミとヲシテ文献には記述されていることなどをお伝えしました。

私の解釈はこれと少し違います。それを説明するためには、まず猿田彦と椿(つばき)の関係を知らなくてはなりません。

■猿田彦と椿

前回ご紹介したように、三重県鈴鹿市には「椿」をその名に配した椿大神社が猿田彦を主祭神として祀っています。同社のホームページを見たところ、次のように書かれていました。

 当社は、伊勢平野を見下ろす鈴鹿山系の中央に位置する高山(入道ヶ嶽)短山(椿ヶ嶽)を天然の社として、太古の神代より祭祀されていた「猿田彦大神」の御神霊を、人皇第11代垂仁天皇の御代27年秋8月(西暦紀元前3年)に、「倭姫命」の御神託により、大神御陵の前方「御船磐座」付近に瓊々杵尊・栲幡千々姫命を相殿として社殿を造営し奉斎された日本最古の神社であります。

 (中略)

 天孫「瓊々杵尊」降臨の際、猿田彦大神、天の八衢に「道別の神」として出迎え、風貌雄大、超絶した神威を以って恙なく天孫を高千穂の峰に御先導申し上げ、肇国の礎を成したこの大神を、後に倭姫命の御神託により、磯津(鈴鹿川)の川上、高山短山の麓に「椿(道別)大神の社」として奉斎することになったのは、まことに神慮によるものと言うべきでしょう。

引用元:椿大神社の由緒 https://tsubaki.or.jp/yuisyo/

どうやら、猿田彦の陵墓があるとされる鈴鹿山系の山の名前「椿ヶ嶽」から取ったとするもの、または、書紀にも記載されている「道別(ちわき)」が「椿(つばき)」と訛ったものとする二つの考え方があるようです。

正直なところ、この説明からだけではピンときませんが、少なくとも看板たる社名に「椿」の一文字が冠されている、そこに大きな意味を感じるのみです。

さて、私の場合、「椿」の名を聞いて最初に思い浮かべる神社とは、実は福岡県久留米市にある水天宮なのです。何故なら、水天宮の神紋は「椿花」であるからです。

関東の方面にお住いの方ならば、東京の日本橋蛎殻町にある水天宮に馴染みの深い方が殆どだと思いますが、実は、総本宮は福岡県久留米市にあるものとされています。

私も花の季節に久留米の同宮を訪れましたが、境内に植えられた様々な種類の椿の花の見事さに思わず目を奪われたものです。読者の皆さんにはぜひ花の季節に同宮を訪れることをお勧めしたいです。

画像1:東京蛎殻町の水天宮(写真:Google)
画像2:福岡久留米の水天宮と椿の花々

水天宮はその名の通り水の守護、水難除けにご利益があるとされています。瓊瓊杵尊はおそらく船で福岡県糸島に上陸した(天孫降臨)と私は考えており、猿田彦の行った道案内とは、おそらく海上の案内であったと想定されるのです。その意味では水の守護と水先案内人としての猿田彦との繋がりもそれほどミスマッチとは言えないでしょう。

また、久留米と糸島はそれほど近いとは言えませんが、古代期は海が現在の内陸部まで入り込んでおり、小型船ならば川や水路などを通って比較的簡単に行き来できたのではないかとも想像されます(そういう説もあります)。

 参考:
  ・天孫降臨と九州天孫降臨と九州(2)

しかし、久留米水天宮の由緒には、「椿」の言われは、同宮の祭神である安徳天皇の物語から生じたものとされており、猿田彦とは直接関係なさそうです。興味深いのは、歴史上は壇ノ浦の戦で幼少8歳で没したとされている安徳天皇が、実は九州に逃げ延びて存命していたという伝承に則ってこの由緒が語られていることです。

御神紋椿の話 ―安徳天皇の恋物語―


 御祭神の安徳天皇は、壇ノ浦の戦で二位の尼に抱かれて入水され、 御年わずか8歳の生涯をお果てになったと国史には記述されております。

 ところが水天宮にはここで崩御なさったのではなく、官女の按察使局伊勢(あぜちのつぼねいせ)に守られ、生きて筑後に潜幸遊ばしたという伝承があります。

 筑後の豪族藤原種継は、平家の旧臣で潜幸中の天皇にお仕えしていましたが、その種継に玉江という17になる美人の娘がおりました。玉江は天皇お付の浄厚尼の薦めにより、日夜、天皇のお側に侍り、お仕えする様になります。

(中略)

 天皇は「椿は八千代を寿ぎ、井桁は契りを宿すとかや」 ~椿の花はいつの世も優しく愛でて映え、井桁はその愛を とこしえに深く育んでゆくと言われているが、いかがなものよ~と、玉江への想いを秘めて仰せられました。浄厚尼も、ならばどうぞ玉椿をお手折りなさり、幾久しく大切になさりませと申し上げて祝福しました。こうして天皇は玉江姫と契られたとのことです。こうして、安徳天皇と玉江姫の恋物語の由縁から、椿の花が御神紋となりました。
(以下略)

引用元:水天宮境内案内 http://suitengu.net/%E5%A2%83%E5%86%85%E6%A1%88%E5%86%85/#story

もしも、猿田彦が瓊瓊杵尊を案内して上陸したのが九州北部だとしたら、この椿花の神紋を通して久留米の水天宮と何か繋がりあるのかないのか、調べてみる価値は大いにありそうです。

画像3:福岡県那珂川市の安徳台上に置かれた安徳宮(写真:Google)
九州北部ではこの安徳天皇生存説にまつわる伝承が多い。この安徳台は安徳台遺跡で有名だが、台地がまるごと遺跡群のようになっている。目立たない所にあるこの宮は荒れてることが多く、何度か掃除をしに行ったことがある。

■千葉東部の椿海

本題から少々脱線してしまいましたが、椿の話に戻ります。さて、古代史と「椿」との連想で、水天宮の他にもう一つ思い浮かべるものがあります。それは、地質調査から古代期に存在したと考えられる「椿海(つばきのうみ)」です。記録には300数十年以上前に干拓されたとあるので、中世の頃までは内海が広がっていたと考えられます。

場所は現在の千葉県旭市の内陸寄りにある、南北に6㎞、東西に8㎞ほどの一帯です。そこを訪れると、椿海があったとされる場所は広大な田園地帯となっており、かつてここが開けた水をたたえた場所であったことが分かります。

以下は地図上から推定される椿海のあったと思われる位置です。

画像4:椿海は現在の千葉県旭市の田園地帯にあったと言われている
画像5:旧椿海の中心部から東の銚子方面を見た風景(写真:Google)
銚子側が切り立ったような高台になっているのが分かるでしょうか?

実は、この旧椿海のあった場所のすぐ東にある高台には、地元の信奉がすこぶる厚い「猿田神社」があり、同社が所在する地名も千葉県銚子市猿田町と言います。最寄り駅はJR東日本の猿田駅で、御祭神はもちろん猿田彦大神です。

画像6:銚子の猿田神社(奥社
画像7:銚子の猿田神社(本殿)

これまで、三重県鈴鹿市周辺、福岡県久留米市周辺に「猿田彦」と「椿」のセットを見出してきた訳ですが、今度もまた遠く離れて関東の東の突端に位置する千葉県旭・銚子市周辺に同セットが見出されるのです。これはいったいどういうことなのでしょうか?

※椿海の民間伝承については匝瑳市のホームページに2話ほど掲載があります。その一つには、猿田彦だけでなく、鹿島の建御雷(タケミカヅチ)、香取の経津主(フツヌシ)が登場し、時代関係的にも齟齬が無く非常に興味が惹かれます。両伝承に共通するのは、巨大な椿の木が抜けた後に海ができたという点です。

 参考:匝瑳市ホームページ「椿海」
    https://www.city.sosa.lg.jp/page/page001250.html

■隠されたミヲ

冒頭でも触れたように、池田説によると猿田彦が宮を構えていたのは滋賀県の大津にほど近い、三尾神社周辺ではないかと推定されています。

これもまた、鈴鹿・久留米とは随分と場所が離れているのですが、実は「ミヲ(ミオ)」という地名には、千葉県の銚子市周辺との共通点が見出せるのです。

それでは、銚子周辺に「ミヲ(ミオ)」なる地名があるのか?残念ながら、調べたところそのような呼び名の地名は見つかりませんでした。

しかし、ここで、有名な麻賀多神社の「麻賀多(マアカタ)」が、高天原の「高天(タカアマ)」を逆さに読んだものであることを思い出してください。これまで各地の地名を色々調べてきたところ、どうやらオリジナルの場所を知られたなくない場合は、元の名前を逆さ読みにする傾向のあることが分かっています。

その考え方を適用すると、「ミヲ(ミオ)」は「ヲミ(オミ)」と読み替えることができます。その操作を加えることで、果たして椿海のすぐ北側にミヲの変名が見つかったのです。それは、

 千葉県香取市の小見(オミ)

です。市町村合併前は小見川町(おみがわまち)と呼ばれた、利根川沿いの長閑な小さな町だったところの一角です。この旧町名はJR東日本の小見川駅という駅名から今でも窺うことができます。

画像8:椿海と他のランドマークとの位置関係
画像9:椿海の西方には記紀に書かれたヤチマタの地名が見られる
猿田彦はここで天鈿女(アメノウズメ)と瓊瓊杵尊を出迎えたのか?

■ミヲと銚子と123便

ここで、購読者の皆様に質問をします。「ミヲ」と「銚子」で何を連想しますか?

答は「澪標(ミオツクシ)」です。

澪標とは日本に古来からある海上に設置された船の案内版のことです。大阪市が市章のデザインにしていることでも有名です。

画像10:左は澪標(みおつくし)、右は同タイトルNHKドラマのシーン

ある程度の年齢以上の方は「澪標」と聞くと、女優の沢口靖子さんが主演したNHK朝の連 続テレビ小説を思い出すかもしれません。このドラマの舞台となったのが、千葉県銚子市なのです。ここでこのドラマタイトルに少し注意してください。

 澪標 → ミオ・ツクシ → ミオ・筑紫

ミオはミオノカミ(猿田彦)、あるいは現在小見と呼ばれている土地を表すと考えられます。そしてミオの猿田彦はヤチマタに瓊瓊杵尊を出迎え、筑紫へと案内するのです。ここに、このドラマタイトルが秘める天孫降臨との関係が見出せるのです。

ここでまた質問です。「澪標」が放映されたのはいつ頃ですか?

答は「1985年4月~9月」。この間、あの123便事件が発生するのです。(新)ブログの「芸能界の闇」シリーズでお伝えしているように、1980年代前半は、123便撃墜計画に向けて大衆心理を同事件へと誘導するメディア戦略が幅広く行われていました。

当時から高視聴率を誇っていたNHKのテレビ小説が、このメディア戦略の例外であったとはとても考えられません。それは「澪標」が「身を尽くし(死)」「ミヲ尽くし(猿田彦の死)」の意を含むことを見れば明らかでしょう。

これらから、古代史に登場する猿田彦と現代社会の関りは、思いのほか深いのではないかと予想されるのです。そして、それが123便事件に具体的にどう関わってくるのか、私の仕事は本当に終わりが見えません。最後に、

 わびぬれば 今はた同じ 難波なる 
  みをつくしても 逢はむとぞ思ふ
             元良親王

この百人一首にも採られた有名な和歌に、自分と123便事件調査に到った境遇を重ねてしまうのは、少々感傷が過ぎるのかもしれませんね。

誠の神力を現す世と成れる
管理人 日月土


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