麻賀多神社と高天原(2)

今回は、前回の記事「麻賀多神社と高天原」の続編となります。「日月神示」が大好きなスピリチュアル系の方も、ほんとうに今の理解のままで良いのか、これを読んで再考頂けたら幸いです。

何故、日月神示が降ろされたのが麻賀多神社だったのか、そして、どうして「日月」を「ひふみ(=123)」と読むのか、その意味がおぼろ気ながら見えてくるかと思います。

これはもう、解釈の問題なので、絶対にそうだとは言い切れないのですが、私は「ひふみ」とはまさしく「秘文」で、それは何かの「啓示」を表しており、35年前の123便事件(ひふみ)とはまさに「この世に体現された啓示」を意味しているのではないかと思っているのです。

その啓示の真意が何であるのか、その解釈については、後に重要なお知らせとして、お伝えすることになるかと思います。今はまず、事の背景を正確に押さえることが先となるでしょう。

■香取海の神社群

前回お知らせした、旧香取海周辺に見られる同名神社群の分布図ですが、これに香取神社、及び鹿島神社の分布図を追加し、アップデートしました。まずそれをご覧になってください。

画像1:香取海同名神社分布図
※有料メルマガの読者様には共有地図のアドレスを公開しています

この地図は地域的な偏在状況を比較するものです。当然ながら、八幡神社や浅間・稲荷神社など、全国どこでも見られる神社名は当該地域においても圧倒的に多くを数えるのですが、同図ではそれを省略しています。

これらの神社が全て古代期に作られたとは私も思いません。中には中世・江戸時代と比較的新しい時代に建てられた事が分かっているものもあります。しかし、後の時代に建てられた神社であっても、その場所・その名前を選んだ理由は当然あるはずで、私はその主な理由を、代々その土地に伝えられた先祖からの伝承であると考えます。

ですから、この神社群の分布を古代氏族の定住地の分布と見て概ね間違いはないだろうと想定しています。そうすると、分布図と主祭神から予想される各氏族の定住エリアとは次のようになるでしょうか。

画像2:古代氏族の定住エリアか?

この画像2に出てくる祭神名の多くは、記紀においては神代記に登場する、いわゆる神の名前です。神様と言うのは、どこかには祀られるかもしれませんが、この図の様に、一定の広がりを以って土地に偏在するものでしょうか?神を超自然的な霊などではなく、祖先神=開祖(人間)と捉えることにより、あっさりとこの状況は説明できてしまうのです。

もちろん、この予想が当たっているかどうかは今後更に検証を加える必要があると思います。しかし、秀真伝(ホツマツタエ)が今に伝える、実在した神武天皇以前の王とその関係者のリアルな姿、決して超自然的な神などではなかった人間の営みが、この予想分布図を得ることで更に真実味を帯びてくるのです。

■消された高天原の記憶

ここで、記紀で高天原がどのように表現されているかを再確認します。

日本書紀では、神代上に4箇所、神代下に1箇所の出現が見られます。ここでは神代上から2箇所引用します。なお、岩波書店刊の日本書紀では「高天原(たかまのはら)」とルビを振っています。「たかま」の逆読みは「まかた」ですから、より麻賀多(まかた)神社との関係性が感じられます。思うに、古代は「ま」を「まー」と長音で発音していたのかもしれません(「まーかた」→「まあかた」)。むしろ気になるのは、どうしてこれを今様に「たかまがはら」などと発声するようになったかです。

一書(あるふみ)に曰(いは)く、天地初めて判(わか)るるときに、、始めて倶(とも)に生(なりい)づる神有(かみま)す。国常立尊と号(まう)す。次に国狭槌尊(くにのさつちのみこと)。又曰はく、高天原に所生(お)られます神の名を、天御中主尊と曰(まほ)す。次に皇産霊尊(たかみむすびのみこと)。次に神皇産霊尊(かみむすひのみこと)。皇産霊、此をばミムスヒと云ふ。

  * * *

一書(あるふみ)に曰(いは)く、伊弉諾・伊弉冉(いざなぎ・いざなみ)の二(ふたはしら)の神、高天原に坐(ま)しまして曰(のたま)はく、「当(まさ)に国有らむや」とのたまひて、乃(すなは)ち天瓊矛(あまのぬほこ)を以(も)て、磤馭慮嶋(おのころじま)を画(かきさぐ)り成す。

日本書紀 神代上

ここに登場した神々の名前が実在した上代の人物のものだとすると、天皇を中心とする日本の歴史が始まったのは、実にこの高天原であるということになります。ですから、現代日本に天皇家が存続している以上、高天原の存在は「日本の始まりの地」として、決して切り離すことができないのです。

私は、その高天原は、現在の千葉県・茨城県に跨る旧香取海の沿岸地域に存在していたのではないかと予想していますが、どちらかというと、場所の特定よりも、どうして高天原の記憶が史実から消されてしまったのか、記紀における上代史の神話化と同様に、そちらの方が気になるのです。

「高天原」の記述は、有名なイザナギの禊(みそぎ)による三貴子(アマテラス、ツクヨミ、スサノオ)の誕生シーンの他、スサノオが高天原に居るアマテラスとの再会を乞い願うシーンでも出てきます。いずれも「神の在所」として登場します。

詳細は省きますが、「高天原」の登場シーンは古事記の方がやや多く、やはり神の在所としての架空世界を指しています。なお、秀真伝(ほつまつたえ)では「タカマノハラ」として登場しますが、こちらは、宮中の賢所(かしこどころ)、転じて朝廷そのものを表しており、記紀と比べてその具体度が全く異なるのです。

■芝海とユダヤ人埴輪

小見出しの「芝海(しばのうみ)」とは私が作った造語です。おそらく面積的にはそれほど大きくなく、正確には入江とか浅瀬と呼ぶべきかもしれません。かつてそれが存在したと思われる、千葉県芝山町(しばやままち)、旧横芝町(よこしばまち、現山武市)から「芝」の字を取って命名しました。ここでは、便宜的にこの名前を使わせてもらいます。

芝山町の高台には、有名な武人の埴輪が多く発見された芝山古墳群の殿塚・姫塚・その他があります。この武人の埴輪は、観る人が見ればこう言うかもしれません。

 ユダヤ人埴輪

これは、前回の記事でご紹介した「高天原は関東にあった」(勉誠出版)の著者、田中英道教授も、別の著書「ユダヤ人埴輪があった!」(育鵬社)で触れています。

画像3:書籍「ユダヤ人埴輪があった!」

これは以下の画像を見ると分かり易いでしょう。

画像4:田中英道教授の通信講座プロモーションメールから抜粋

つい最近、これらの埴輪の一部を展示している「芝山はにわ博物館」を現地まで見学に行ってきました。その時に撮影したのが以下の写真です。

画像5:ユダヤ人埴輪に該当するもの
画像6:その他の人物埴輪

この埴輪は、「正装したユダヤ人に似ている」ということで、古代史マニアや日ユ同祖論者などの間では良く知られているし、それ程目新しい話題でもありません。

私が注目したいのは、芝山古墳群のロケーションです。そこでやはり目を引くのが外洋に続く内海、「芝海」なのです。

画像7:内陸部まで深く入り込んだ入江(芝海)

そして、この芝海と香取海の位置関係を見て欲しいのです。

画像8:旧内海の位置関係と陸路
複数の港湾にアクセスしやすい成田、八街などは古代都市が発達した可能性がある

高天原推定地域である旧香取海と同古墳群がそれほど離れていないことにお気付きでしょうか?しかも、2つの内海(香取海・芝海)を結ぶまさに陸路の拠点に芝山の古墳群は点在してるのです。

ここから、漠然と「日本人の祖先は渡来してきたユダヤ人ではないか」とし、数多くの両者の類似点、状況証拠等を示してきた日ユ同祖論に、新たに「失われた始まりの地『高天原』との関係」、という視点が加わるのです。

日本の始まりの地である高天原とユダヤとの間に関係性が認められるとすれば、前節の議論から、

 天皇家とユダヤの間に何らかの関係性がある

と認めざるを得ません。ですから、日ユ同祖論はこれまでのように古代史ロマンのように扱うものではなく、私たち日本人や日本社会のルーツを辿る重要問題として真剣に取り上げる必要があると思われます。

あくまでも仮説としてですが、文献や地形を徹底的に改変してまで高天原の存在を隠そうとしてきた日本社会の体制とは、まさしく123便事件を隠し続けるそれに等しく、おそらく123便事件の背景には、古代日本とユダヤとの関係が深く横たわっているのだろうと思われるのです。

ところで、日月神示にはこういう記述があるのを覚えておられるでしょうか?


「十の流れ、十二の流れと今にわかる時来るぞ」

日月神示 光の巻 第7帖

十と十二をイスラエルの十支族、十二支族と捉えると、

 日月(ひふみ) > 麻賀多 > 高天原 > ユダヤ人埴輪 > 十二の流れ > 日月

とやはり繋がってくるのです。深く検証するほどにこうした関連性が実際に浮かび上がってくるので、私は日月神示を、単なるオカルト好きの愛読書として片付けられないのです。


奪い尽くされて、彼女は地に座る(イザヤ 3:26)
管理人 日月土


麻賀多神社と高天原(2)” への2件のフィードバック

  1. ピンバック: (神)日本の黒い霧

コメントする