犬神モロと下照姫

※この記事は、次の2つの記事の続編となります
 ・第一話 愛鷹山とアシタカ 
 ・第二話 もののけ姫と獣神たち

前回、映画もののけ姫に登場する獣の神、「乙事主」と「モロ」の古代史モデルを追っていく中で、次のような系図(秀真伝によるもの)に辿り着きました。

画像1:もののけ姫に登場した獣神のモデル
(© 1997 Studio Ghibli・ND)

犬神のモロのモデルはどうやら、出雲皇統オオモノヌシの2代目世代、画像1の赤枠内の人物の誰かではないかと予想したままでしたが、今回はこの中の人物について考察します。

この中にあるアジスキタカヒコネとは日本書紀で記述するところの「味耜高彦根」と同一であることは特に異論がないかと思います。

味耜高彦根が日本書紀に登場する記述は少ないのですが、そのシーンがいわゆる「天稚彦(あめわかひこ)」の一節であり、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の天孫降臨に到る神々の物語の中において、私も以前から何やら唐突で奇異に感じるエピソードだと思っていました。

天稚彦は行いの悪い国津神たちを平定するために、武器を持たされて高天原(たかあまはら)から地上に下されるのですが、なかなかその報告が帰ってきません。そこで、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の命令で様子伺いに天から雉が向かうのですが・・・

私が呪術用語としてよく使う「返し矢」の概念も、実はこの下りの中に記述されています。まずは日本書紀からその該当部分を読んでみましょう。今回は同部分の現代語訳文を引用します。

このとき、高皇産霊尊は、その使者たちが、長く知らせてこないのを怪しんで、無名雉を遣わして伺わされた。雉は飛び降って、天稚彦の門の前に立っている神聖な桂の木の梢にとまった。


そのとき天探女が見つけて、天稚彦に告げて、「珍しい鳥が来て桂の梢に泊まっています」といった。

天稚彦は、高皇産霊尊から頂いた天鹿児弓・天羽羽矢をとって、雉を射殺した。その矢は雉の胸を通りぬけて、高皇産霊尊のおいでになる御前に届いた。

高皇産霊尊はその矢をご覧になられて、「この矢は昔、私が天稚彦に与えた矢である。血が矢についている。きっと国神と闘ったのだろう」と。その矢を折り返して、投げ降ろされた。その矢は落ち下って、天稚彦の胸に当たった。
天稚彦は新嘗の行事の後で、仰臥していたところであったので、矢に当たり立ちどころに死んだ。

これが世の人が所謂射かけた矢が相手に拾われて、射返されるとこちらがやられる、と言って忌むこととする言われである。

天稚彦の妻下照姫は、泣き悲しんでその声が天まで届いた。

この時天国魂の神はその泣き声を聞いて、天稚彦がもう死んだことを知って、疾風を送って屍を天にあげ送らせた。

そこで喪屋を作って殯の式をした。川雁を持傾頭者(ききりもち)と持帚者(ははきもち)として雀を舂女(つきめ)とした。そして八日八夜泣き悲しみしのんだ。

これより先、天稚彦が葦原中国にいた時、味耜高彦根神と仲が良かった。それで味耜高彦根神は、天にのぼって喪をとむらった。

この神の顔かたちが、天稚彦の生前の有様によく似ていた。それで天稚彦の親族妻子は皆、「わが君はまだ死なないで居られた」と衣の端を捉えて喜び泣いた。

すると味耜高彦根神は憤然として怒り「朋友の道としてお弔いすべきだから、けがれるのもいとわず遠くからお悔やみにやってきた。それなのに私を死人と間違えるとは」といって腰に差していた大きな刀を抜いて、喪屋を切り倒した。

これが、下界に落ちて山となった。美濃国藍見川の川上にある喪山がこれである。世の中の人が生きてる人を死んだ人と間違えるのを忌むのはここからきている。

引用元:講談社学術文庫 宇治谷孟訳「日本書紀」巻第二神代下より

記紀やその他の史書を、記述のまま受け入れてはいけないというのが、私の基本姿勢ですが、ここの一節には何故か史書毎に混乱が多く、ますます気を付けなければいけません。上述の書紀本文を読む限りは

 天稚彦と下照姫は夫婦である -①

ということになっています。ところが、書紀の一書には、本文とほぼ同内容なのではありますが、次のような後段が付け加えられています。

時にこの味耜高彦根神は、よそおいうるわしく輝き、二つの丘・二つの谷の間に照り渡るほどであった。それで喪に集まった人が歌を詠み、―― あるいはいう、味耜高彦根神の妹、下照姫が集まった人たちに、岡や谷に照り渡るものは味耜高彦根神であることを知らせようとして詠んだともいう。
 アメナルヤ、オトタナバタノ、ウナガセル、タマノミスマルノ、アナタマハヤ、
 ミタニフタワタラス、アヂスキタカヒコネ。
 (天にいる弟織女が頸にかけている玉の御統 ―― その御統に通してある穴玉は
  大変美しいが、それは谷二つに渡って輝いている味耜高彦根神と同じである)


また歌っていう。
 アマサカル、ヒナツメノ、イワタラスセト、イシカハカタフチ、カタフチニ、
 アミハリワタシ、メロヨシニヨシヨリコネ、イシカハカタフチ。
 (夷つ女が瀬戸を渡って魚をとる。石川の片淵よ。その淵に網を張り渡し、
  網の目を引き寄せるように、寄っておいで石川の片淵よ)
この二つの歌は、いま夷曲(ひなぶり)と名付けている。

引用元:同上

ここでは、あくまでも諸説の中の一説となってはいますが、下照姫が味耜高彦根神の妹として登場し、天稚彦の妻子とは別人の扱いになっています。味耜高彦根神に向けて歌った歌もひたすら兄を讃えるのみで、とても兄の親友が死去し喪に服したばかりの状況とは思えません。

もうすでに訳が分からなくなったので、今度は古事記を開いてみます。古事記にも同様に「天若日子」、「阿遅鉏高日子根神」、「下照比売」として登場します。

天若日子と下照比売が夫婦であることは書紀本編と同じなのですが、困ったことに、天若日子は天津国玉神(あまつくにたま)の子、そして下照比売が大国主の娘であると記載されているのです。

秀真伝では大国主(オホナムチ)の娘にシタテルヒメなる娘は存在していませんが、もしも大国主の娘なら、書紀の一書にある「味耜高彦根神と下照姫は兄妹」という記述には整合してきます。

そして、上述の書紀から引用した最初の和歌は、古事記では阿遅鉏高日子根神の妹である高比売命(たかひめのみこと)が献上したことになっているのです。ちなみに秀真伝ではアヂスキタカヒコネの妹にタカテルヒメがおり、これだと秀真伝の記述に合致するという奇妙なことが起きるのです。

ここで既に、日本書紀・古事記・秀真伝の記述の間に齟齬というか系図の混乱が見られるのです。参考までに、秀真伝ではこの伝承をどのように記述しているか、その現代カタカナ表記を以下に掲載します。

カミハカリ ツカワスヒトワ
アマクニノ アメワカヒコト <天稚彦
キワマリテ タカミムスヒガ
カコユミト ハハヤタマヒテ
ムケシムル コノカミモマタ
マメナラス タカテルヒメオ <タカテルヒメを娶る
メトリツツ アシハラクニオ
ノラントテ ヤトセフルマテ

カエラネワ ナナシノキギス
トイクタス アメワカヒコガ
カドノマエ カツラノスエニ
シワザミテ ホロロホロロト
ナクオキキ サクメガツゲニ
ナモナクテ アメオナクヤト
ワカヒコガ ハハヤオイレハ <羽羽矢を射る
ムネトホリ トビテタカミノ

マヘニオチ ケンケンモナク
チノハハヤ タカミムスビワ
コレオミテ トガムカエシヤ <返し矢で天稚彦が死ぬ
ワカヒコガ ムネニアタリテ
ウセニシオ カエシヤオソル
モトオリヤ タカテルヒメノ
ナクコエノ アメニキコエテ
タラチネノ ハヤヂニカバネ

ヒキトリテ モヤオヅクリテ
カリモカリ オクルカワカリ
キサリモチ ニワトリハキシ
ススメイヰ ハトワモノマサ
ササキミソ トビユフマツリ
カラスツカ ヤヒヤヨイタミ
モオツトム タカテルノアニ <味耜高彦根はタカテルヒメの兄
タカヒコネ アメニノホリテ

モオトエワ コノカミスガタ
ワカヒコニ ウルリワケヱズ
シムノモノ キミワイケリト
ヨチカカリ ヤホタマユラト
タトフトキ イカルアチスキ
タカヒコネ トモナリワコソ
オチニトフ ワレオナキミニ
アヤマツワ アラケガラシヤ

ハラタチト モヤキリフセル
アオハカリ サケテカントオ
サラントス ムカシナカヤマ
ミチヒラク カナヤマヒコノ 
マゴムスメ シタテルオクラ <シタテルオクラとある
タカヒコノ イカリトカント <オクラはカナヤマヒコの孫娘
ミチカウタ ヨミテサトセリ

アメナルヤ オトタナバタノ <ここから歌
ウナガセル タマノミスマル
ミスマルノ アナタマハヤミ
タニフタワ ヤラズアチスキ
タカヒコネゾヤ

引用元:池田満校訂「記紀原書ヲシテ」上巻 10-7 (原文はヲシテ文字)より

秀真伝では下照姫とは表記されずとも「シタテルオクラ」と称する女性が登場し、この人物が上述の和歌を詠んでいます。記紀に下照姫の記述が見られることから、取り合えずオクラを下照姫とみなして良いかと思います。すると、赤の他人が味耜高彦根の怒りを鎮める必要はありませんから、下照姫は味耜高彦根の妹か妻ということになります(もしかしたら母ということも考えられます)。しかし、秀真伝では味耜高彦根に同名の妹は居ないので、必然的にその妻であろうということになります。すなわち

 味耜高彦根と下照姫は夫婦である -②

という、書紀の①とは異なる説明がここではなされていることになります。

■もう一人の下照姫

何度もお伝えしている通り、私は、秀真伝を含め、記紀など日本の史書は暗号の書だと理解しています。上記の様に史書によって異なる解釈・結論が出た時には、史書の編纂者が史実として記載するのを憚るような何か重要な事柄がそこに伏せられているのだと解釈するようにしています。

また、そのような重要事項であるからこそ、現代のアニメ映画でバックストーリとして使われるのあろうという考え方もできます。

前節の考察から、私は「下照姫」こそが隠された史実を紐解くキーパーソンではないかと考えます。実は、秀真伝には同時期にもう一人の「シタテルヒメ」が登場するのですが、その別名は「ワカヒメ」、

 アマテルカミの妹

なのです。日本書紀風に言い換えれば、天照大神の妹神ということになりましょうか。

画像2:三貴子と下照姫

秀真伝の系図上では二人のシタテルヒメは全くの別人なのですが、言葉、特に名前にたいへん慎重な古代の宮廷人が、世襲名でもないのにそんな簡単に同じ名を名乗るとは考えにくいのです。また、「シタテルヒメ」は8代アマカミ(現代の天皇)アマテラスの妹姫であり、いわゆる最高度に高貴な存在ですから、ますます同名の姫が他家に居るとは思えないのです。

「シタテルヒメ」が何故「ワカヒメ」と呼ばれたかも秀真伝は説明しています。まさに「和歌」の達人であるからそう呼ばれるようになったとあります。

上述の書紀の一書、あるいは古事記、秀真伝の全てにおいて、エピソード的で決して本筋ではない天稚彦の一節に、そこで初めて登場した味耜高彦根、そしてその妻か妹かもよく分からない女性の和歌をわざわざ載せたのはどうしてなのでしょうか?それも、味耜高彦根のことを最大限に褒め称えて。

私は、天稚彦の一節に登場する下照姫とは、アマテルカミの妹であるシタテルヒメと同一人物であろうと予想します。

画像3:繁華街のビルの狭間に鎮座する下照姫神社(福岡県博多)

本文は次回へと続きます。


玄海のその先に見ゆる茂侶の御社
管理人 日月土


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