土偶は何を語るのか?

今回もまた、今月上旬に津軽地方を調査した時の報告となります。津軽の縄文遺跡と言えば、忘れてならないのはやはりこれでしょう。

画像1:五能線木造駅の駅舎
全長17mの遮光器土偶を象ったデザインで有名

駅舎モデルとなったこの遮光器土偶は、木造駅から北西方向へ10km程度離れた亀ヶ岡石器時代遺跡から出土したものとされています。

画像2:亀ヶ岡石器時代遺跡から出土した遮光器土偶
Wikiペディアから(東京国立博物館展示)

亀ヶ岡石器時代遺跡も訪れてみましたが、基本的に発掘跡は埋め戻され、これといった展示施設もなく、草が刈られた空き地に写真のような説明パネルが申し訳なさそうに建てられているだけで、正直なところ少々期待外れだった感は否めません。

それでも、現場におられた発掘中の作業員さん(皆さん女性)に土地の状況や今後の発掘の展望などお話を伺うことができ、この地の発掘や研究などはまだまだこれからの課題であり、遺跡の分析が進むにつれて、何か大きな成果が発見されるのではないか、そんな期待を抱くに十分魅力的な土地であったことは記録に留めておきたいと思います。

画像3:亀ヶ岡石器時代遺跡の発掘現場

■土偶の謎

一口に土偶と言っても、遮光器土偶の他、様々な土偶が全国で発見されています。以下、Wikiや博物館などネット上で公開されている写真画像を幾つかピックアップしてみました。

画像4:様々な土偶と出土遺跡
1. 長野県棚畑遺跡      
2. 山梨県鋳物師屋遺跡     
3. 岩手県長倉I遺跡      
4. 長野県中津原遺跡     
5. 青森県三内丸山遺跡     
6. 青森県二枚橋2遺跡      
7. 山形県西ノ前遺跡(縄文のビーナス)
8. 群馬県郷原遺跡(ハート型土偶)

土偶を出土場所を調べていて気付いたのですが、やはり土偶類も縄文遺跡の密集度に比例して、琵琶湖以東に当たる東日本・東北地方での出土が圧倒的多数を占めています。近年、その精神性や芸術性の高さが見直されている縄文時代の出土品ですが、そうなると、日本人の精神性が古くは東日本を中心に形成されたとは言えないでしょうか?もしもそうなら、九州から関西を中心に記述されている日本古代史、特に神代の解釈は、今後大きく修正される可能性を秘めているとも言えます。

さて、土偶を取り上げたところで、そもそも土偶は何を象徴しているのかという疑問が生じます。考古学の一般的な解釈では、多産・豊穣・地母神など「女性性」の象徴と言われていますが、画像4を見れば分かるように、土偶の形状は必ずしも女性性を表しているものばかりとも言い切れません。実際の所、土偶が何であるかという問いについては、最初の研究から100年以上経った現在でも、核心的なことは分からず謎のままであるようです。

そうやって謎であるのをいいことに、私が子供の時に読んだ本の中には「土偶=宇宙人」説という奇説まであり、私も一時期はそれもあり得るかもしれないと本気で信じていたものです(笑)

ここで人類学者の竹倉史人さんによる土偶の新解釈に関する記事を見つけたので、その記事から私が重要と思う部分を抜き出して紹介しておきましょう。

日本考古学史上最大の謎「土偶の正体」がついに解明
「土偶は女性モチーフ」の認識が覆った!驚きの新説(前編)

 (中略)
土偶の存在は、かの邪馬台国論争と並び、日本考古学史上最大の謎といってもよいだろう。なぜ縄文人は土偶を造ったのか。どうして土偶はかくも奇妙な容貌をしているのか。いったい土偶は何に使われたのか。縄文の専門家ですら「お手上げ」なくらい、土偶の謎は越えられない壁としてわれわれの前に立ちふさがっているのである。
 (中略)
結論から言おう。
 土偶は縄文人の姿をかたどっているのでも、妊娠女性でも地母神でもない。〈植物〉の姿をかたどっているのである。それもただの植物ではない。縄文人の生命を育んでいた主要な食用植物たちが土偶のモチーフに選ばれている。
 (中略)
 古代人や未開人は「自然のままに」暮らしているという誤解が広まっているが、事実はまったく逆である。かれらは呪術によって自然界を自分たちの意のままに操作しようと試みる。今日われわれが科学技術によって行おうとしていることを、かれらは呪術によって実践するのである。
  (中略)
つまり、「縄文遺跡からはすでに大量の植物霊祭祀の痕跡が発見されており、それは土偶に他ならない」というのが私のシナリオである。このように考えれば、そしてこのように考えることによってのみ、縄文時代の遺跡から植物霊祭祀の痕跡が発見されないという矛盾が解消される。
(以下略)

引用元:JBpress https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65038

結論は既に本文冒頭に書かれていますが、改めて簡潔に書き直すと次の様になるかと思います。

 土偶とは植物霊祭祀の一環として食用植物を擬人化したもの

そして、竹倉氏の記事は後編へと続くのですが、そこでは新説の実証として、縄文時代から自生する食用植物と土偶の形状との比較をオニグルミを題材に細かくかつ具体的に検証されています。

この食用植物擬人化説が定説と成り得るかどうかは今後の更なる検証を待つとして、「呪術」や「祭祀」を当時の人々の純粋な「必然的実践」として捉え直した点はたいへん重要であると私も評価します。

当時の人々にとって世界がどう見えていたのか、それは現代社会の常識でいくら俯瞰してみたところで理解できるはずがありません。彼らにとっては、それが生き残るために絶対に欠かせない要素であるからこそ土偶を作ったはずです。

彼らが土偶を必要としたその時代の論理と背景、それを追求することこそが土偶の謎を解明する上での最初のステップである、その点において私は竹倉氏のアプローチには全面的に賛同できるのです。

ただ一つ付け加える要素があるとすれば、せっかく「呪術」という歴史観を得たのなら、それを植物霊祭祀に限定して議論することは少し性急ではないかということです。というのも、古代呪術とは森羅万象に及ぶものであり、草木魚貝の形状のみに拘るような小さなものではないと考えられるからです。

例えば、東北地方に多く見られる環状列石をどう説明したらよいのでしょうか?一般的に天体の運行に関係しているのではないかと言われる環状列石も、呪術における一つの形態と考えれば、植物霊祭祀と全く無縁であったとも言い切れません。植物は陽によって育ち、雨によって育まれることくらい古代人も理解していたはずです。そのような天体を含むこの世の万物に対する信仰姿勢や呪術的手法まで突き詰めない限り、早々に結論を出すべきではないと私は考えます。

画像5:大森勝山遺跡の環状列石跡(背景は岩木山)

■東日流外三郡誌が記述する土偶

前回の記事で、東日流外三郡誌(以下三郡誌と略す)をご紹介しましたが、ここでまた、三郡誌が遮光器土偶についてどのように述べているのか、参考までに書籍から一部を抜粋し掲載したいと思います。

画像6:東日流外三郡誌に登場する遮光器土偶
※八幡書店 東日流外三郡誌1古代編(下)320ページより

同書によると、この絵が転写されたのは寛政5年ということですから、西暦で言うと1793年ということになります。1800年代後半の明治期に土偶の研究が始まったとされていますから、それよりも100年前に三郡誌は既に土偶について触れていたということになります。もちろん、この記述が本当ならばですが。三郡誌は後年になってかなり書き足された形跡も見られるので注意が必要なのです。

一応、記述が正直なものであると受け止めて解釈すると、遮光器土偶は荒吐国(アラハバキ)で崇拝された神の姿を象ったものであるということになります。

同書によると、荒吐国の信仰対象とは日月水木金火土鳥獣魚貝などの自然物や、雨風病死などの自然現象だったと言います。大きく捉えれば自然崇拝となるでしょうか。そして、それぞれの自然物・現象を神として崇めたとあり、それらが各々偶像化されたものが上図にあるような土偶の意味であると言ってるようです。

同書には上図に続き、遮光器土偶の姿をした神、ハート型土偶の姿をした神、そして変わり種としてはユダヤ教祭司のような姿をした神まで挿絵として登場します。その中で圧倒的に多いのは遮光器土偶型ですが、正直なところそれぞれの形状の違いは明瞭に見分けが付きません。各挿絵には草神・木神・魚神などの神名が添えられています。食料に関する神々も多数登場しますが、ここで大事なのは、土偶は信仰の対象として作られたと記述されている点でしょう。

残念なのは、なぜこのような遮光器を被っているような形状の頭部になるのか、あるいはハート形のような不思議な形状の頭部になったかの説明はなく、ただそれを「荒吐の神々」と断じている点です。また、画像4で示したような、全国で見られる土偶のバリエーションについては記されておらず、この記述を以って土偶とは何かを論ずるのは、やや早計かと思われます。その点では竹倉氏の考察の方がより説得力があると感じます。

土偶の意味は古代信仰・呪術、引いては古代社会の世界観を知る上でたいへん重要であると私は見ます。よって、三郡誌が土偶について触れた点も含めて、後日改めて考察を深めたいと考えています。

 * * *

このブログでこれまで取り扱った古代とは、記紀の神代に相当する部分であり、現在の歴史学的な区分では弥生時代に相当します。しかし、縄文や弥生を時代を区分する記号として使用するのは少しおかしくはないでしょうか?

中世時代に至るまで東北地方が弥生以降の文明の侵入を阻んでいたと言うなら、東北地方は2000年近くも長く旧来の縄文文化圏のままであったことになります。つまり、縄文とは時代を指す言葉ではなく、あくまでも文化スタイルの違いを表す言葉に過ぎないことになります。

そうなると、弥生・縄文の文化的併存時代が長期に亘って存在したことになり、古代の時代区分として弥生と縄文を使い分けるのに意味はなくなります。むしろ、2つの異文化がどう混じり合い進化してきたのか、そこを問うことに大きな意味があるのでしょう。

その意味でも、縄文文化の影響をより強く残す関東以北、つまり日本の東半分に注目しなければ真実の日本古代史は見えてこないだろうと私は予想するのです。


古人の山と語りせば神とぞ見ゆ
管理人 日月土


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