先日、私の歴史研究における強力なアドバイザーG氏と共に、再び三重県の鈴鹿市を訪れました。同地の隣接地である菰野町の宿では、関係者に向けて次のようなタイトルで講演を行いました。
この講演では、鈴鹿の「スズ」なるキーワードがここ数十年の日本のメディア界に頻出している事実、そして、それが同地鈴鹿の地理的条件及び歴史的経緯と密接に関連することをお伝えしました。
ブログを通して何度もお伝えしていますが、アニメ映画「千と千尋の神隠し」の主人公「千尋」のモデルになったのは、日本神話に登場する栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)で、この姫はまた別名「スズカ姫」と呼ばれています。
スズとスズカ姫との関係とは何か?このテーマは既に(真)ブログなどでアニメ作品を題材に記事にしていますが、それらはまだ表面的なものでしかなく、スズカ姫と所縁の深い現地を再び訪れることにより、その奥行きの広がり・繋がりの深さが更に実感されたものとなったのです。
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■遺跡のまち鈴鹿
鈴鹿市における考古学資料を見ると、この一帯は遺跡が非常に多く出る地域であることが分かります。そうであるにも拘わらず、同地については椿大神社と鈴鹿サーキット以外はあまり知られていないのがむしろ不思議なくらいなのです。
上図を見ると、鈴鹿川流域に多くの遺跡が見つかっているのが分かります。そして、そのほとんどが、道路工事や建築工事など際に文化財保護目的で調査発掘されたものです。
市街化区域に関しては空白となっていますが、全体の分布を見ると、これは発掘調査が為されていないだけで、実際には広大な遺跡エリアが広がると見てよいでしょう。
何より気になるのが、市街区域の大きな面積を占める本田技研工業の鈴鹿工場、旭化成の鈴鹿工場、そしてF1レースでも有名な鈴鹿サーキットなのです。
上図でも分かるように、サーキットに隣接する御園町・稲生(いのう)町にも遺跡が見つかっており、サーキットが建設された丘陵地区には、まだ多くの遺跡が眠っていると考えられるのです。
鈴鹿サーキットは昭和37年に完成していますが、そこで大遺跡群が発見されたという話は聞いたことがありません。当時は遺跡に関する保護意識が薄く、地中の埋設物については関知することなく建設が進められたのではないかと想像されます。
しかし、聞くところによると、同サーキットの設計思想は、なるべく地形をいじらないということらしいので、もしかしたら、同サーキット及び工場の敷地内を発掘するチャンスがあるならば、日本古代史に関する何か重大な発見があるかもしれないのです。
それを予感させる事実として、鈴鹿サーキット周辺の土地は元々近くの伊奈冨(いのう)神社の神領であり、同神社は現在サーキットを見下ろす小高い丘に残された東ヶ丘神社の辺りにあったそうです。
サーキット建設に伴い現在の位置に移転したとのことですが、神域に手を入れてまで工事を優先したという事実を知ると、地形を活かすという設計思想というのも、何やら疑わしく感じてしまうのは、いつもの悪い癖でしょうか?
この疑いを抱くもう一つの理由が、サーキットの入口にほど近い、三行庄野線とサーキット道路が交差する交差点は、この辺の丘陵地の最高点であり、ここからは、天気の良い日には南の松阪や伊勢の街々、そして伊勢湾口や神島を含む伊勢湾全体までが一望に見渡せる場所であることです。
古代期の海上交通中心の社会を想像した時、伊勢湾全体を見渡せるロケーションというのは極めて重要です。
これまでの調査の例によれば、そのような眺望ポイントには海上からの目印、あるいは見張り台としての大型古墳が造られてもおかしくないのですが、同地にあったのは次の写真のような謎の建造物です。
まあ、謎と言うのは冗談で、これは鈴鹿市水道局の「道伯配水池」という水道施設なのです。ここに配水施設が造られたという事実がまた、ここがこの周辺で最も高い場所であることを示しているのですが、実は遺跡エリアと貯水池という組み合わせは、以前にも記事にしたことがあるように呪術的に見ると極めて意味深いものなのです。
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私見としては、明らかに鈴鹿サーキット周辺には重大遺跡があると見なせるのですが、埋まって見えないものをあれこれと詮索しても仕方ありません。まずは確認可能なものから鈴鹿の土地を見ていくことにしましょう。
■鈴鹿の地形と猿田彦伝承
次に、鈴鹿市周辺の地形について調べてみます。国土地理院のデジタル地図で起伏状態を調べると次の様になります。地図には各重要ポイントにマークを入れていますので、画像3と比較して眺めてみてください。
画像6の北西側にプロットされた椿大神社(つばきおおかみやしろ*)は猿田彦大神を祀る神社として知られていますが、G氏によると、その猿田彦(あるいは猿田彦一族)の鈴鹿上陸 地点は図中にある「大塚神社」付近だろうとのことです。
*椿大神社:ここには猿女(=天鈿女命)とスズカ姫(=栲幡千千姫命)が祀られていることも要注意です。
同地は現在海抜5m以下の低地で、古代海進期は海の底に隠れていそうなものですが、古代期はこの辺は海上から小島が幾つも顔を出す、おそらく小島群であっただろうと考えられます。現在平坦なのは、海岸線が後退した後に、おそらく小山が崩されて平地にならされたのではないかと考えられます。
この大塚神社近くの海側には、画像3にもあるように箕田遺跡という遺跡群があり、G氏によると、まだ本格的な発掘調査が行われていない(全体の10%以下)にも拘わらず、非常に多くの遺物が出ることで専門家にはよく知られた場所であるそうです。
ここからは古代期において、鈴鹿の古墳群がどのように発展したのか、G氏の予想を紹介したいと思います。
まず、大塚神社周辺の低地に根付いた猿田一族は、海水による浸水の影響を受けやすい同地を離れ、北西にある舌状台地に定住地を移す。
その台地で幾つも古墳を築きながら、その生活圏を少しずつ鈴鹿山脈側に広げていく。幸いなことに、この台地は画像6の②で分かるように、山が広く崩れたようななだらかな斜面を形成しているが、古代期においても起伏に乏しく開拓しやすい土地であった。
一団が入道ヶ岳(にゅうどうがだけ)付近に到達した時、そこに丹生(にう:水銀)の鉱山を発見する。後の水沢(すいさわ)鉱山だが、ここで猿田一族は古代社会では重要な丹生の鉱山利権を手にすることになる。
椿大神社とは、鉱山で発展した猿田一族の権勢を表し、また同地を支配運営する拠点でもあったのではないだろうか。
なお図中の①は台地に入り組んだ地形になっているが、古代海進期はここが入り江になっており、船着き場となっていたのだろう。国分寺がこの近くに造られたのも、実は海洋交通におけるこの利便性によるものと考えられる。
by G氏
画像6では、G氏の予想する「海から山」への発展移動ルートを黄色い点線で表しています。G氏の説明で非常に納得できるのが、現在の椿大神社の成り立ちが、私たち現代人が思い描く神社や鈴鹿山脈の「神聖さ」なる抽象的なものでなく、「丹生」という極めて現実的かつ実利的なものであったという点なのです。
椿大神社の後背にある入道ヶ岳も、「丹生道ヶ岳」と読み替えれば、その名の成立過程までもが見えてくるのです。
そして猿田彦のシンボルとして認識される「椿」の花なのですが、それについてG氏は次の様に語ります。
海洋民族は移動先の土地に椿を植えるんです。それは、後からやって来る海洋族に、そこが既に入植された土地であると直ぐに分かるよう知らせるためなのです。
by G氏
以上、なんとも大納得な話なのですが、冒頭の「スズ」あるいは「スズカ姫」の暗号と結び付けるにはまだ材料が不足しているようです。ここで、登場するのが前回の記事「少女神の系譜と日本の王」で取り上げた「少女神」なのですが、今回は長くなったのでその考察は次回に持ち越したいと思います。
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このコース、読者様には何を描いているように見えるでしょうか?図中の水色の◎印は道伯配水所、赤色の☆印は東ヶ丘神社の位置を表しています。
鈴鹿の浜の小高き社 沈む巫女神今ぞ出でたり
管理人 日月土
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