翡翠の姫と糸魚川

しばらく三重の話が続きましたが、今度はこの5月に実施した北陸、新潟県糸魚川市における現地調査についてお伝えしたいと思います。

とは言っても、北陸を訪れるのは数年振りで、調査として訪れたのはこれが初めてになります。よって土地の事情については不案内なので、私も知ったように深くは語れません。今回は、現地を訪れたレポートとして、糸魚川の地を総覧的にお伝えしたいと思います。

さて、糸魚川といえば、外の人間にとっては次の項目が比較的知られているのではないでしょうか?

 1. フォッサマグナの北西端
 2. 薬石で有名な姫川
 3. 翡翠の産地
 4.出雲神話に登場する奴奈川姫
 5.長者ケ原遺跡 

この内1,2は歴史テーマにあまり関係ないようですが、地形や地質がその土地に住む人々の生活環境を作ると考えれば全く無関係でないことは言うまでも無く、天然のラジウム鉱石と言われる姫川薬石がそこに存在するのも、当地の歴史的事情に何かしらの関与があるのかもしれません。

■フォッサマグナの不思議

フォッサマグナ(中央地溝帯)が何であるのかは他を参考にしていただきたいのですが、一般には、幅100km程度の新しい地層の帯が、本州のど真ん中を南北に貫いていると言われています。

画像1:フォッサマグナ(Wikiの画像を加工)

糸魚川は新しい地層と古い地層の西側の境界線の北端に当たり、両地層の接続面が観察できる地として知られています。

画像2:現地フォッサマグナパークで撮影した新旧境界面
左右で地層の色が異なる

フォッサマグナの生成プロセスについては一般にプレート理論による大規模な地殻変動が原因だと言われていますが、プレートの存在自体が証明されていないのにどうしてそんなことが言えるのかというのが私の立場です。

このフォッサマグナについては(真)ブログ記事「改めて問う、横田空域とは何なのか?」で、何故か在日米軍の管制空域と重なる不思議について触れています。

また、糸魚川より南の静岡から信州までの内陸に、何故か海にちなむ地名が多く見られる点について「アルプスに残る海地名の謎」で触れています。

一般論では数百万年前に海底が隆起して現在の新しい地層を形成したと説明していますが、その時の名残が現在の地名に残っているとでも言うのでしょうか?その答は分からないままではありますが、今は取り敢えず、糸魚川が地形・地質的にも特殊な場所の一つであるということは念頭に置いて良いと思います。

■糸魚川の翡翠

古墳から出土する勾玉や管玉など、日本全国で古代の翡翠加工品が見つかっていますが、その原石が全て糸魚川産であることは、古代ファンの間ではよく知られた話です。ファンならずとも、糸魚川で翡翠が採れることは有名でありご存知の方は多いと思います。

画像3:糸魚川の翡翠原石

実は昭和初期まで日本で翡翠が採れることはほぼ全く知られておらず、外国産だと思われていたと言うのですから驚きです。後の考古学の発展と、地元郷土史家の尽力によって、糸魚川が古代期における翡翠の一大生産地であったことが近代になって明らかになったのです。

たいへん興味深いのが、朝鮮半島など海外に輸出するまで広がった古代日本の翡翠産業が、奈良時代に突然衰退してしまったこと、それ以前の弥生時代中期に翡翠の生産が一旦止まった形跡があるなどが報告されていることです。

今でも同地の海辺や河原で見かけることもある翡翠が、なぜ1000年近く忘れ去られてしまったのか、この理由を考える始めると、祭具や宝飾として珍重される翡翠の性質から、必然的に当時の日本の政治・文化・信仰において何某らの大転換が起きたと考えざるを得ません。

その考察については今後の課題となりますが、これら「翡翠再発見」の経緯についてはWikiペディアの「糸魚川のヒスイ」に詳しいのでぜひそちらをお読みになっていただきたいと思います。

■縄文遺跡と翡翠

糸魚川には遺跡スポットが幾つもあるのですが、今回の調査では最も有名な長者ケ原遺跡を見てきました。

日本海を見下ろす小高い丘、いわゆる海に突き出た舌状台地ということになりますが、そこに広がる森林の中に同遺跡は残されています。まさに古代人が好んで住居を構える絶好の条件を満たしている地形だと言えるでしょう。

周囲には運動場や美山公園やフォッサマグナミュージアムも整備されており、現地にアクセスし易かったのも今回の調査では助かりました。

何と言ってもこの遺跡の特徴は、5~4千年前の縄文遺跡であるということ、そして、翡翠産出の土地よろしく、石器類に固く割れにくい翡翠を利用してるものが見られ、なおかつ翡翠工房跡も見つかっていることです。遺跡の詳細については私がくどくど書くよりは、原資料をお読みいただいた方が間違いないと思うので省略しますが、縄文時代の遺物に翡翠が含まれていることから、糸魚川の翡翠文化は数千年も続いたことが窺われます。

そこでやはり浮上してくるのが、その土地の生活に深く根付いていたはずの翡翠文化がどうして突然途絶えてしまったのだろうという、先ほどの疑問なのです。

画像4:長者ケ原遺跡の案内板
画像5:長者ケ原遺跡の復元された竪穴式住居
画像6:考古館に展示された長者ケ原遺跡の石器

■奴奈川姫と少女神

糸魚川には、天津神社と言う古い神社があり、その境内社に奴奈川神社が置かれています。祭神は「奴奈川姫命」です。この奴奈川姫は「沼河姫」という記述で古事記、先代旧事本紀に大国主命と共に登場します。

画像7:奴奈川神社
画像8:天津神社
主祭神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、奴奈川神社が後方に置かれている
ことに注目。おそらく天孫系、出雲系の力関係を示したものだろう

以下に、古事記に記載された該当部分の現代語訳を掲載します。

 この八千矛神(大国主命)が、越国のヌナカハ姫に求婚しようとして、お出かけになったとき、そのヌナカハ姫の家に着いて歌われた歌は、

 八千矛の神の命は、日本国中で思わしい妻を娶ることができなくて、
 遠い遠い越国に賢明な女性がいるとお聞きになって、
 美しい女性がいるとお聞きになって、
 求婚にしきりにお出かけになり、
 求婚に通いつづけられ、大刀の緒もまだ解かずに、
 襲(おすい)をもまだ脱がないうちに、少女の寝ている家の板戸を、
 押しゆさぶって立っておられると、
 しきりに引きゆさぶって立っておられると、
 青山ではもう鵼(ぬえ)が鳴いた。野の雉はけたたましく鳴いている。
 庭の鶏は鳴いて夜明けを告げている。いまいましくも鳴く鳥どもだ。
 あの鳥どもを打ちたたいて鳴くのをやめさせてくれ、
 空を飛ぶ使いの鳥よ。
  - これを語り言としてお伝えします。

とお歌いになった。そのときヌナカハ姫は、まだ戸を開けないで、中から歌って、

 八千矛の神の命よ、私はなよやかな女のことですから、
 わたしの心は、浦州にいる水鳥のように、いつも夫を慕い求めています。
 ただ今は自分の意のままにふるまっていますが、
 やがてはあなたのお心のままになるでしょうから、
 鳥どもの命を殺さないで下さい、空を飛びかける使いの鳥よ。
  - これを語り言としてお伝えします。

 青山の向うに日が沈んだら、夜にはきっと出て、
 あなたをお迎えしましょう。そのとき朝日が輝くように、
 明るい笑みを浮かべてあなたがおいでになり、
 白い私の腕や、雪のように白くてやわらかな若々しい胸を、
 愛撫したりからみ合ったりして、玉のように美しい私の手を手枕として、
 脚を長々と伸ばしておやすみになることでしょうから、
 あまりひどく恋いこがれなさいますな、八千矛の神の命よ。
  - これを語り言としてお伝えします。

と歌った。そしてその夜は会わないで、翌日の夜お会いになった。

引用元:講談社学術文庫 古事記(上) 次田真幸訳

これを素直に読むと、情熱的でかつ少々強引な大国主が奴奈川姫の元へ夜這いにきて、好意は受け入れつつもその時は大国主を家の中に入れようとしなかった姫の様子を描いていると捉えることができます。

毎度のお断りとなりますが、私は日本神話は史実を神話的ファンタジーに置き換えた一種の暗号文と見ているので、歌によるこの男女の交情シーンにも史実の解明に繋がる重要な鍵が隠されていると考えます。

その手掛かりの一つとなるのが、この訳文に出て来る「少女」で、原文には「嬢子(をとめ)」と記述されています。つまり、求婚された時の奴奈川姫はまだいたいけな少女であったと考えられます。

これは過去記事「少女神の系譜と日本の王」でも触れた、権力のある男性王が少女、それも特別な呪力を有する「神の御子(少女神)」を王権授与の証として求め訪ねる様と同じであり、古代王の記述の中に繰り返し登場するいつものパターンなのです。

つまり、今回取り上げた奴奈川姫も、ほぼ同時代の女性と考えられる栲幡千千姫(タクハタチヂヒメ)や木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)と同じように、同系の血を受け継ぐ少女神ファミリーの一員であった可能性は極めて高いと考えられるのです。

この奴奈川姫について、古事記・先代旧事本紀には書かれていないエピソードが、民間伝承として次の様に残されています。

【奴奈川姫の鏡】
 青海町の福来口(ふくがくち)に住んで居られた奴奈川姫は、出雲族に攻められ、夜しめ川(今の姫川)を渡り大野村に、秘蔵の鏡を埋めてかくされた。今の信用組合裏の地蔵さんの所だという。

【神社伝1】
西頚城(にしくびき)郡田海(とうみ)村を流るゝ布川の川上に黒姫山と云ふ山あり、奴奈川姫命の御母黒姫命の住座し給ひし山なり、山頂に石祠あり黒姫明神と称す、又黒姫権現とも云う、此の神こゝにて布を織り其の川の水戸に持出で滌曝(てきぼう)まししによりて布川と云ふ。此神の御歌に
 ここに織る此の荒たへはかの海の小島にいますわがせの御衣 と。

【神社伝2】
糸魚川町の南方平牛(ひらうし)山に稚子ヶ池と呼ぶ池あり。このあたりに奴奈川姫命宮居の跡ありしと云ひ、又奴奈川姫命は此池にて御自害ありしと云ふ。即ち一旦大国主命と共に能登へ渡らせたまひしが、如何なる故にや再び海を渡り給ひて、ただ御一人此地に帰らせたまひいたく悲しみ嘆かせたまひし果てに、此池のほとりの葦原に御身を隠させ給ひて再び出でたまはざりしとなり。

【神社伝3】
姫川の上流なる松川に姫ヶ淵と名づくるところあり、之れ奴奈川姫命の身を投げてかくさせたまへるところなりと。

引用元:糸魚川市公式HP https://www.city.itoigawa.lg.jp/dd.aspx?menuid=3790

これらを読む限り、大国主による奴奈川姫への求婚は、古事記の記述するようなロマンチックなものではなく、ほぼ強引に押し入られ、最終的に奴奈川姫は自害へと追い込まれたように読むことができます。

また、「神社伝1」では機織りと奴奈川姫の家系が紐付けられており、これは奴奈川姫が本来「布川」と書くのか、機織りに関係する姫であった可能性も示唆しています。数ある少女神の一人と考えられる栲幡千千姫の「栲幡(たくはた)」とはまさに機を織ることであり、ここにもまた奴奈川姫が少女神ファミリーの一員である痕跡がかすかに認められるのです。

さて、それでは翡翠と奴奈川姫はどう結びつくのか?それはこれまで登場した少女神とそれに関連する鉱物のストーリーを比較すれば自ずと見えてきます。

 サルメノキミ     → 丹生(水銀)
 タクハタチヂヒメ   → 琥珀、丹生
 コノハナサクヤヒメ  → ?
 ヒメタタライスズヒメ → 鉄

要するに

 ヌナカワヒメ  →  翡翠

となり、どうやら少女神の重要性とは、古代社会において最も重要な「鉱物」と何か関連付けられていた可能性が高いのです。

そう仮定すれば、大国主は翡翠の何を求めて奴奈川姫に近づいたのか、それがまた大きな問題となってくるのです。

※今回の調査中に遭遇した異変と最近の記事との関連性についてはメルマガで詳しくお伝えしたいと思います。


雪解けの花咲く丘に眠られし目覚めの時ぞと姫に語りぬ
管理人 日月土


コメントする