菊池盆地と古代

今月初旬、熊本県北部へ調査へと向かいました。同地への調査旅行は、2年前の11月に熊本県北部の山鹿市(やまがし)及び和水町(なごみまち)に出向いた時以来です。

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今回の調査ではテーマを設定し、改めて同地を訪ねることにしました。それは、「菊池川流域の遺跡を訪ねる」というものです。

改めて説明するまでもなく、古代の人々の生活や社会活動は土地の自然環境に大きく左右されていたと考えられ、その当時の気候や地形がどうであったかを見極めるのが非常に大切になってきます。

これまでも、縄文海進時の海岸線を推測したり、今に残されている地名などからなるべく古代の地形を頭の中で復元した上で当時を推し量るように気を付けていたつもりです。

■菊池川流域は古代湖だった?

かつて博多と熊本の間を国道3号線を使って良く行き来していたのですが、山鹿・菊池付近を通る度いつも気になっていたことがあります。それは、

 山鹿・菊池一帯に広く平野が広がっている

というものです。

海続きの土地に平野が広がるのは珍しい事ではありませんが、熊本から福岡方面に向かう際、熊本市の北部にある丘陵地帯を走り、植木付近の小山の間を抜けると、いきなりこの平野が目の前に広がるので、何でこんな開けた空間が内地の高台にあるのか、以前から不思議に感じていたのです。

菊池盆地、あるいは山鹿盆地とも言うらしいのですが、その地形の全容は国土地理院の地形図からもはっきりと窺えます。

画像1:菊池盆地 起伏が殆どない

盆地の標高は26m程度でそれほど高いとは言えず、台地の上にこれだけの盆地が広がっていると言うのも何か不思議な感じがします。

この盆地の中を菊池川が東西に走っているのですが、その流域の高台には方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡という、全国的に知られた弥生時代の大集落跡があります。また、菊池寄りの川の北側の山裾には、続日本紀に記述された鞠智城(きくちじょう)と推定される、600年代末頃の築城跡が見つかっており、現在は建物の一部が復元され、その独特の容姿を見せています。

さて、この高台の上に現れた平野の成り立ちについては、Wikipediaの「菊池盆地」の項に非常に興味深いことが書かれています。

約9万年前から弥生時代頃まで「茂賀の浦」(もがのうら)と呼ばれるサロマ湖に匹敵する巨大湖があったが、そこが干上がり肥沃な盆地となったといわれる。11世紀初頭になってやっと豪族が土着し、菊池氏を名乗り、有力化して中世に活躍した。

URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E9%B9%BF%E7%9B%86%E5%9C%B0

要するに、弥生時代(西暦200年代)までこの盆地が湖水の下にあったと言うのですが、それならば、見渡す限り一様に開けたこの土地の地形にも合点が行きます。方保田東原遺跡の大集落に暮らした古代人も、おそらく当時は湖畔の住民であったのでしょう。

問題なのは、どうして湖水が忽然と消えて無くなってしまったのかなのですが、一般には自然に水が引き始めたというのが定説の様です。しかし、歴史アドバイザーのG氏は次の様に推測します。

茂賀の浦は土木によって水が抜かれたと考えられます。水田などの耕作地を作る為、古代期にはこういう水抜き工事が全国で行われていた形跡があるのです。

湖岸の土が薄い箇所を反対側から少しずつ削っていくと、ある時点で湖水の水圧で湖岸が自然に決壊し、そこから一気に湖水が流れ出す。

現在の山鹿市から玉名市海岸までの菊池川下流は、茂賀の浦から流れ出た水が谷を下って作り出したものと考えられます。

by G氏

もしも、G氏が語るように人工的に水が抜かれたとするなら、これは大土木工事であり、弥生時代から古墳時代にかけてのこの頃には、このような高度な土木技術が既に存在してたとも考えられます。

そして、古代期における湖水の存在抜きには、菊池盆地周辺の本当の古代史も見えてこないのだと、しみじみと実感したのです。しかしながら、現地の博物館や資料館の学芸員さんにこの茂賀の浦について尋ねてみたのですが、残念ながらその存在をご存知だった方はいませんでした。

次に当時の湖水を抜いた場所だと考えられる、岩野川と菊池川の合流地点である山鹿市の鍋田に向かい現地を視察してきました(画像1の赤線部分)。ここは、以前お知らせしたチブサン古墳にも近いところです。もしかしたら、この古墳が造営された当時にもまだ湖水はあったかもしれません。ならば、ここに眠る王も湖畔の住民だった可能性があります。

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画像2:山鹿市鍋田 茂賀の浦の湖水を抜いた場所か?

河川整備された現在の様子から当時の地形を想像するのは難しいのですが、玉名方面に向かって緩やかに傾斜する谷間の地を、水抜きポイントに選んだ古代人技術者の頭にどのような情報が詰め込まれていたのか、それを想像するだけで当時の人々について思いが巡ります。

■鞠智城:これが大和朝廷の城なのか?

さて、以上までは菊池盆地の全体感をお伝えしたものですが、ここから私が訪れた菊池川周辺の遺跡について述べていきたいと思います。多くの場所を見てきたので、まずは当地の代表的な遺跡、鞠智城を見てみましょう。

画像3:再現された鞠智城

ちょっと驚くのは、このお城、どう見ても日本の建築のようには見えません。そもそも鞠智城とはどういうものなのか、「鞠智城と古代社会」という熊本県教育委員会から出されている論文があったので、そこから該当部分を抜粋してみます。

それでは、鞠智城についての基本的な史料について確認しておきたい。鞠智城についての初見記事は、『続日本紀』文武天皇二年 (六九八)五月条にみえる、大宰府によって大野、基肄の二城とともに繕治されたという記事である。

この記事は、鞠智城のいわば繕治記事にあたるもので、直接鞠智城の築城を示す記事ではない。しかしながら、七世紀後半に東アジアの情勢が緊迫するなか、鞠智城はそれに対応する形で築城されたものと考えられる。

当該期、日本は白村江の敗戦により火急なる対外防衛整備の必要性が求められた時期であった。すなわち、鞠智城も他の古代山城と同様に、外的防衛の意識をもって築城された城であったと考えられる。

このように、築城当時の鞠智城は、その目的のひとつに対半島情勢に対する防衛意識があったと考えられる。しかしながら、先行研究でもすでに言及されているように、次に再び鞠智城が対外防御の観点から注目されるようになるのは、九世紀に至ってのことである。

「 鞠智城と古代社会 」 本県教育委員会

お城というくらいですから、国土防衛の意図があって造られたのではないかと最初に想像してしまうのですが、文中にあるように、続日本紀にある記述は「繕治」(ぜんち)、即ち「補修」の対象になったということだけで、記載の同年に同城が建設されたことを意味していません。

推測として、663年に白村江の戦いがあったとされる中で、おそらく唐・新羅軍の九州への進撃を避けるために、敗退の直後くらいから対外防衛拠点としてこの城を築いたのだろうという推測が一般的には成り立ちます。

しかしです、画像1を見れば分かるように、鞠智城はあまりにも内陸に入り過ぎていて、大野城や基肄(きい)城のように明らかに博多湾からの上陸を阻止するために築かれた朝鮮式山城とは立地があまりにも異なります。

それにも増して画像3の示す建築様式は朝鮮式であり、一般的に言われる大和朝廷が造営したものと考えるのは少々無理があるように見えます。また、この見張り台のような建築物の周囲には多くの倉庫と思われる、高床式の建物が築かれていたようです。

画像4:復元された高床式の倉庫

上記論文を読むと鞠智城の建設目があくまでも「対外防衛拠点」、あるいはそれに準拠した目的に拘っているようなのですが、G氏はこの鞠智城に関して次の様な仮説を立てています。

白村江の戦の後、一般人を含め多くの百済人が日本に避難してきたはずです。国内をあまりうろうろされても困るので、当然、彼らをまとめて収容する施設が必要となり、その目的として鞠智城が建設されたのではないでしょうか?今風に言うなら難民キャンプということになります。

そして、なぜ内陸である菊池の山裾にキャンプを据えたかと言えば、当時はまだ茂賀の浦が残っており、山と湖水に阻まれて百済難民が自由に行き来しにくかったのもこの地が選ばれた理由だったのでしょう。

ここには百済難民のコミュニティが作られ、その中で朝鮮式の建築物が造営されていったと考えられるのです。

by G氏

ことの真偽はこれでけでは何とも判断できませんが、茂賀の浦という消えた湖の存在を考察に加えると、このような新たな考えも生まれるのだなと、私自身、この説には大いに感心してしまったのです。


* * *

今回は菊池川流域調査報告の初回と言うことでこの辺で筆を置きますが、次回以降も同じく菊池川に関わる報告をお伝えしたいと思います。この報告の中で、現地で遭遇したハプニング、陸上自衛隊ヘリに上空からしつこく追跡された件などもお伝えしたいと思います。


から国の民すまわれし丘の上水面に霞む遠きおや国
管理人 日月土


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