菊池と菊池一族

これまでに3回ほど熊本県菊池市、及び隣接する山鹿市の現地調査について記事にしています。そこで扱った内容を簡単にまとめると次の様になります。

 ・現在の菊池盆地はかつて茂賀の浦という湖であった
 ・鞠智城(きくちじょう)は百済移民の収容施設だったのではないか
 ・菊池川周辺は古代期から鉄の生産が盛んであった
 ・現地神社にみられるユダヤ文化の痕跡

これで、菊池という土地の様子が少しだけ見えてきたのですが、そうなると無視できないのが、その土地の盟主である菊池一族なのです。

■菊池氏は本当に藤原氏の末裔なのか?

菊池氏の由来をここで細かく記述しても、既にある書籍や他のWebサイトと同じになってしまうので省略したいと思いますが、当の菊池市の観光課がたいへん面白く分かり易い漫画ムービーのWebサイトを制作されていますので、ここを紹介することで説明の代わりとしたいと思います。

画像1:「まんがムービー風雲菊池一族」Webサイト
https://www.city.kikuchi.lg.jp/ichizoku/q/list/105.html

このムービーのプロローグ編では、平安時代に太宰府から藤原則隆(ふじわらののりたか)が同地を訪れ、この土地がたいへん気に入りその姓を「菊池」と名乗って定住したところから始まるとしています。

そして、終章では西暦1300年代の南北朝時代に、南朝に与した菊池氏の当主菊池武光(きくちたけみつ)が、後醍醐天皇の皇子である懐良親王(かねよししんのう)と共に北朝側の太宰府を攻め落とし征西府を樹立、後に北朝方に敗北するまでが描かれています。

基本的に中世史のことに私は不案内なのですが、このムービー解説で疑問に思うのが、藤原則隆がいきなり「菊池」と名乗ることで菊池氏が始まっていることです。それに加え、太宰府での職務を捨てて、いきなり良い土地だと思ったからそこに移り住むかのか?という都合の良い話への疑問も拭えません。

話の冒頭でいきなり龍が現れたのは古伝承におけるご愛敬だとしても、こんな簡単に後の大豪族となる菊池氏が誕生したとは到底信じる訳にはいきません。いくら高官であろうと、よそ者が突然人の土地にやってきて土地の人々がその支配下に入るというのもどこか不自然なのです。

菊池市内にある菊池神社には菊池一族の歴代当主が祀られていますが、境内には菊池神社歴史館なる資料館が置かれ、菊池一族ゆかりの宝物や文化財が展示されています。そこには巻物に記された家系図も展示されていました。

画像2:菊池神社
画像3:菊池神社歴史館内
画像4:藤原則隆の名が書かれた家系図
画像5:血統を遡れば当然こちらの人々に繋がります

これは私の推測なのですが、藤原氏のような名家の血筋を語ったのは、実は、中世の混乱期を生き残るために土着であるの菊池氏が取った高等戦略なのではないか?そうも考えられるのです。

ただし、この家系図が唯一の歴史伝承ですから、これを否定するとなると、またもや菊池氏の出自が分からなくなってしまうのです。

これまでの菊池関連記事で述べたように、菊池には弥生時代ごろから鉄生産を行ってきた形跡があり、地元の金凝神社には古代期の天皇である第2代綏靖天皇が祀られています。

比較的最近の鞠智城に至っても西暦600年台以前と推測されますから、藤原則隆の時代(西暦900年台)からみればいずれも数百年前の話であり、それまで同地を治めていた統治体が全くなかったとはちょっと考えられません。

ですから、私は菊池氏とは古代からそこを治めていた土着の一族であると予想するのです。そして、後に藤原の末裔と名乗ることが許され、南朝の懐良親王が身を寄せたところを考慮すると、おそらく中央政権にも知れた土地の名士、あるいは古代国の盟主であったのではないかと考えられるのです。

■菊池氏の出自を巡る仮説

菊池氏の出自については誰が言い出したのかよく分かりませんが、有名な仮説があるのでここではそれを紹介します。

 『三国志』の中のいわゆる『魏志倭人伝』と呼ばれている書の中に、狗古智卑狗という人物が登場します。狗古智卑狗は菊池彦ではないかという説が以前からありました。この事をもう少し詳しく考えて生きたいと思います。

 『魏志倭人伝』は、三世紀中頃の日本の事を書いた二千文字前後の文章ですが、解釈の方法は何通りにも及び、長年に渡って論争が続いているのですが今だ結論は出ていません。結論が出ない一因として、情報の不正確さの問題があります。二千文字前後と述べたのもその理由からです。その原因の一つとしては、原本がなく転記された物をもとにしているからなのですが、大方の話の流れは正しいと思われます。間違いや不正確な小さな事を論争するより、正しいと思われる情報の精度を高めていく事の方が重要だと思われます。

 『魏志倭人伝』には、女王国(邪馬台国)の連合の国々(三〇カ国)と狗奴国が長年に渡って戦争を続けてきた事が書かれています。女王(卑弥呼)は狗奴国との争いを有利にする為に魏に使者を送り、応援を求めましたが、魏の使者が日本に来た時には卑弥呼は死んでいました。卑弥呼が死んで国が乱れた後、台与(壱与)が新たな女王となり、魏に朝貢したと書かれています。狗奴国との争いがいつまで続き、どう結着したのかは書かれていません。

 狗奴国は女王国の南にあり、王がいて、官に狗古智卑狗がいたと書かれています。魏の使者は、当時の日本人に名前を聞いて、同じ発音をする漢字を当てはめていったのだと思われます。

 漢和辞典で狗古智の読み方を調べてみると、狗は漢音でコウ、呉音でク、古は漢音でコ、呉音でク、智は漢音も呉音もチと呼びます。そうです、呉音で続けて読むとククチとなるのです。しかし、ここで問題が一つあります。同じ発音の文字をなぜ二種類も使用したのでしょうか。不弥国の所に登場する官の名称は弥弥と連続して同じ文字を使用しています。同じ発音を表すだけならば、狗狗もしくは古古で良かったのではないでしょうか。そう考えるとクコと読むのが自然なのですが、この時代の中国の人が漢音と呉音をどう使い分けしていたのかを調べる必要があると思います。

 卑狗については、対馬国や一支国の官の名称の所にも登場しており、恐らく当時の日本人が使用していた尊称の彦にあたると思われます。彦のつく名は『記紀』の中に非常に多く登場します。『古事記』では、比古、昆古、日子、彦と書き、女性の神様は比売と書きます。ニニギの時には、名前の前に日高日子と続けて使用されています。「日本書紀」では一貫して彦と媛の文字を使用しています。

 『魏志倭人伝』と『記紀』の間には接点はないとされていますが、卑狗と彦が同じ事を意味していたならば面白いことだと思います。話をまとめますと、邪馬台国の南に狗奴国があり、邪馬台国と対立していた。狗奴国には王がいて、その下に狗古智卑狗という官がいた。狗古智卑狗の読み方は、クコチヒクと思われる。クコチはククチ=久々知=鞠智=菊池という人物の事で、卑狗は彦ではないかという推論が成り立つという事です。

 狗古智卑狗の事を菊池彦だと考える読は、邪馬台国九州説の方に多く、早稲田大学の水野祐先生の説などが有名です。しかし、邪馬台国畿内説だとしても狗古智卑狗の事を菊池彦と考えてもおかしくないと思います。

引用元:渡来人研究会 菊池秀夫氏の論文から https://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/r-kukuchi1.htm

この論文の著者は断定こそしてませんが、魏志倭人伝に記述されている狗奴国の官僚「狗古智卑狗」の発音から、それが菊池氏のルーツではないかと推測しています。

そして、魏志倭人伝の該当部分には次の様に書かれています。

原文:
 其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里

読み下し:
 その南に、狗奴国有り。男子が王と為る。その官は狗古智卑狗有り。女王に属さず。郡より女王国に至るは、万二千余里なり。

訳:
 その(女王国の)南に狗奴(コウド、コウドゥ)国があり、男子が王になっている。その官に狗古智卑狗(コウコチヒコウ)がある。女王には属していない。帯方郡から女王国に至るには、万二千余里である。

引用元:東亜古代史研究所 塚田敬章氏のページより https://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm

あくまでも古語の発音に頼った推論なので、これだけでは何とも言えないのですが、少なくとも、藤原則隆を起源とする菊池一族の説よりは説得力があるのではないかと私は考えます。

そうなると、菊池秀夫氏が述べるように邪馬台国九州説が俄然有力となってくるのですが、まだ記事にしてないものの、魏志倭人伝を古代の尺度で厳密に読むとそこが九州の阿蘇周辺、宮崎県から大分県の辺りに該当することで私も調べがついています。

そして、女王卑弥呼の正体を追った過去記事「ダリフラのプリンセスプリンセス」では、卑弥呼とは名前を変えられた神武天皇の双子の皇后、タタラヒメとイスズヒメの祭祀を受け持つ側の皇后ではないかとも予想しています。

また、神武天皇の移動伝承は何故だか福岡県の筑豊地方に集中しており、ここから神武天皇は九州で即位したのではないかという九州王朝説を私は有力視しているのですが、女王国(神武祭祀皇后の関係国)に神武天皇の支配地域である福岡まで含めると想定すれば、その南に位置するという狗奴国が現在の菊池市あってもそれほどおかしくはないのです。

如何せん、物証が絶対的に不足しているので断定はできませんが、邪馬台国が神武国であったとすれば、邪馬台国九州説及び九州王朝説の両方で辻褄が合ってくるのです。そしてその仮説をより鮮明にするのが狗古智卑狗の存在なのです。

かつて神武王朝と敵対していた狗奴国の末裔が、南北朝に割れた大和朝廷の南朝側と手を結んだ。この辺りに懐良親王を菊池に送り込んだ南朝後醍醐天皇の意図があったのではないかと思わず想像を巡らせてしまうのです。


聳え立つ不動の岩の守り手は今も眠らず湖(うみ)を見守る
管理人 日月土


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