玉名の疋野神社と長者伝説

この6月に実施した九州は熊本県、菊池川周辺(菊池市・山鹿市)の史跡調査について、これまで5回連続でお伝えしてきました。

気になる点を細かく掘り下げ続けているといつまでも終りそうにないので、今回はレポートの締めくくりとして、菊池川が海に注ぐ街、熊本県の玉名(たまな)市を取り上げてみたいと思います。

玉名レポートと宣言する以上、本来なら2,3日かけて調査した結果を報告するべきなのでしょうが、残念ながら、今回の調査日程では時間が十分に取れず、山鹿から帰りの便が待つ熊本空港へと移動するまでの数時間しか立ち寄ることができませんでした。

それでも、なかなか興味深いものが見れたのではないかと思います。

■古代菊池川流域文化圏

山鹿市から玉名市に入ってすぐに、私はまず玉名市街にある疋野神社に向かったのです。

画像1:疋野神社

ここで、、菊池川流域のこれまでに訪ねた史跡について、次の様に地図上にまとめました。なお、この地図には2020年に一度調査に訪れた、山鹿市のオブサン・チブサン古墳、和水(なごみ)町のトンカラリン・江田船山古墳も含まれています。

 関連記事:チブサン古墳とトンカラリンの小人

画像2:これまで訪れた菊池川沿いの史跡(元画像:Google)

この地図を見ればお分かりの様に、縄文から飛鳥時代初期まで、古代期とは言えそれぞれ少しずつ時代が異なるものの、菊池川流域にタイプの異なる様々な史跡が見られることに驚かされます。

ここから、かつての菊池川流域には、日本の古代期を知る上での重要なヒントが隠されているのでないかと考えられ、今回この調査を実行したのも、まさにそれを確かめる為でもあったのです。

この中で玉名は菊池川の最下流域であり、人が海から上陸し、菊池川沿いに遡上したと仮定するならば、ここが菊池川流域文化のスタート地点となり、同時に、菊池川流域と海外を繋ぐ重要拠点としてその後も発展し続けたのではないかと想像されるのです。

■疋野神社と日置氏

さて、話を疋野神社に戻しましょう。この神社の由緒については同社のホームページに非常に詳しく書かれているのでまずそこからの引用をご紹介しましょう。

由緒について:

疋野神社の創立は景行天皇築紫御巡幸の時より古いと伝えられ、2000年の歴史を持つ肥後の国の古名社です

祭神について:

・疋野神社は他の神社よりのご勧請の神様をお祀りした神社ではありません。大昔よりこの玉名の地に御鎮座の神社であり、この地方を古来より御守護なされてきた神様をお祀りする神社です。
・御祭神、「波比岐神」は日本最古の著『古事記』記載の神様であり、日本建国の場づくりをなされた神代の時代の尊い神様です。
・相殿には父神様であります「大年神」がお祀りされています。大年神は、天照大御神と御姉弟であります素盞鳴尊の御子神様です。

波比岐神(はひきのかみ)とは、古事記の中で大年神が天知迦流美豆比売(あまちかるみづひめ)を娶って生んだ神であると書かれています。しかし、日本書紀、秀真伝にその名は見当たりません。このように史書における出現回数が少ない神をどう解釈すれば良いのか難しいところですが、今でもこの神の名を掲げている神社が現存していることは、この謎多き神、ひいては実在した人物モデルが誰であったかを理解する上で大きなヒントとなります。

そして、疋野神社のホームページにはもう一つ重要なことが書かれているのです

当神社は奈良平安時代、玉名地方の豪族日置氏の氏神神社として、はなやかに栄え、また鎮座地の立願寺という地名は、疋野神社の神護寺であった「立願寺」というお寺の名前が起源です。

そう、神社の名となっている疋(ひき)とは日置(へき、ひき、ひおき)のことで、この神社は過去記事「菊池盆地の大遺跡と鉄」で紹介した、日置金凝(へきかなこり)神社の名前にもなっている同じ日置氏を指していると考えられるのです。おそらく波比岐神(はひきのかみ)の子孫という意味なのでしょう。

すると、祭祀族と考えられる日置氏が下流から上流まで菊池川の流域に進出し、この地域で一定の役割を担っていたことは容易に想像されるのです。

古代祭祀場の名残とも思われる菊池川流域の二つの神社に、日本書紀に書かれている祭祀族の日置部(ひおきべ)の名前が冠せられている、この事実は果たして古代のどのような事実を意味しているのでしょうか?

■疋野神社の長者伝説

さて、この疋野神社には面白い伝説が残されています。題して「疋野長者伝説」なのですが、これについて、やはり疋野神社のホームページから引用したいと思います。

千古の昔、都に美しい姫君がおられました。
「肥後国疋野の里に住む炭焼小五郎という若者と夫婦になるように」との夢を度々みられた姫君は、供を従えはるばると小岱山の麓の疋野の里へやってこられました。

小五郎は驚き、貧しさ故に食べる物もないと断りましたが、姫君はお告げだからぜひ妻にと申され、また金貨を渡しお米を買ってきて欲しいと頼まれました。

しかたなく出かけた小五郎は、途中飛んできた白さぎに金貨を投げつけました。傷を負った白さぎは、湯煙立ち上る谷間へ落ちて行きました。が、暫くすると元気になって飛び去って行きました。

お米を買わずに引き返した小五郎に姫君は「あれは大切なお金というもので何でも買うことができましたのに」と残念がられました。

「あのようなものは、この山の中に沢山あります」 との返事に、よく見るとあちこち沢山の金塊が埋もれていました。

こうして、めでたく姫君と夫婦になった小五郎は、疋野長者と呼ばれて大変栄えて幸福に暮らしました。

ほのぼのとした、如何にも昔話と言った風情の伝説なのですが、その基本プロットは以下のように整理されます。

 ・炭焼小五郎という貧しい男がいた
 ・美しい姫が夢のお告げに従い小五郎の元へ嫁ごうとする
 ・小五郎は貧しいゆえに初めはそれを拒む
 ・姫は金(きん)を携えそれで生活できると主張する
 ・小五郎は姫の金を石の様に扱う
 ・金は山の中にたくさんあったがその時まで小五郎はその価値を知らなかった
 ・二人は山の金で豊かに暮らした

さて、この話を取り上げたのは、実は同じような伝説が玉名以外にも見られるからなのです。その伝説の名は「真名野(まなの)長者伝説」です。

真名野長者伝説はWikiペディア「真名野長者伝説」に詳しいのですが、その中から疋野長者伝説と類似する箇所を拾い出してみましょう。ちょっと長いかもしれませんがご容赦ください。

継体天皇の頃、豊後国玉田に、藤治という男の子が産まれたが、3歳で父と、7歳で母と死に別れ、臼杵深田に住む炭焼きの又五郎の元に引き取られ、名前を小五郎と改めた。

その頃、奈良の都、久我大臣の娘で玉津姫という女性がいたが、10歳の時、顔に大きな痣が現れ醜い形相になり、それが原因で嫁入りの年頃を迎えても縁談には恵まれなかった。姫は大和国の三輪明神へと赴き、毎晩願を掛けていた。

9月21日の夜、にわか雨にあった姫は拝殿で休養していた所、急に眠気を覚え、そのまま転寝してしまった。すると、夢枕に三輪明神が現れ、こう告げた。「豊後国深田に炭焼き小五郎という者がいる。その者がお前の伴侶となる者である。金亀ヶ淵で身を清めよ。」

姫は翌年2月に共を連れて西へと下るが、途中難に会い、臼杵へたどり着いた時には姫1人となってしまっていた。人に尋ね探しても小五郎という男は見つからず、日も暮れ途方に暮れていた所、1人の老人に出会った。「小五郎の家なら知っておるが、今日はもう遅い。私の家に泊まり、明日案内することにしよう。」

翌日姫が目を覚ますと、泊まったはずの家はなく、大きな木の下に老人と寝ていたのであった。老人は目を覚ますと姫を粗末なあばら家まで案内し、たちまちどこかへ消えてしまった。

姫が家の中で待っていると、全身炭で真っ黒になった男が帰ってきた。男は姫を見て驚いたが、自分の妻になる為に来たと知り更に驚いた。

男は「私1人で食べるのがやっとの生活で、とても貴女を養うほどの余裕はない」と言うと、姫は都より持ってきた金を懐から出し「これで食べる物を買って来て下さい。」と言って男に渡した。

金を受取った男は不思議そうな顔をしながら出て行った。麓の村までは半日はかかるはずであるのに、半時もしないうちに手ぶらで帰ってきた男は言った。「淵に水鳥がいたので、貴女からもらった石を投げてみたが、逃げられてしまったよ。」

姫は呆れ返って言った。「あれはお金というものです。あれがあれば、様々な物と交換できるのです。」

すると男は笑いながら言った。「なんだ、そんな物なら、私が炭を焼いている窯の周りや、先程の淵に行けば、いくらでも落ちているさ。」

姫は驚き、男に連れて行ってくれるように頼んだ。行ってみると、炭焼き小屋の周囲には至る所から金色に光るものが顔を出しており、2人はそれらを集めて持ち帰った。

どうでしょう、ここまでの下りは殆ど疋野長者伝説と同じです。しかも炭焼小五郎の名は両者で共通しています。敢えて異なる点を挙げれば、真名野長者伝説には続きがあり、二人の娘である般若姫の話、舞台となった豊後(大分県)で有名な摩崖仏誕生の話へと繋がって行くのです。

疋野長者伝説の舞台は熊本県の「玉名」、一方、真名野長者伝説は大分県の「玉田」ですから、このあまりにも似通った地名から、どうやら二つの伝説は同じ出所から派生したと考えられるのです。ではいったい何がこの二つを繋ぐのか?

■長者伝説が繋ぐ百済と古代日本

実はこの二つの類似した長者伝説について、「(元)情報本部自衛官」さんが最近のブログ記事「炭焼き長者と百済王」でたいへん興味深い考察を述べています。

こちらを読んで頂くとお分かりになるように、古代百済にも「薯童(ソドン)と善花公主(ソンファゴンジュ)」という、日本の両長者伝説とそっくりな、

  貧しい男が美しい姫と結ばれ、金(きん)で成功する

というストーリーが存在するというのです。しかも、薯童は百済の王にまで登り詰めるというのですから、この辺は日本の長者伝説においてただ裕福になったとされるストーリーとは若干異なります。

しかし、男に嫁いだ姫が都(みやこ)出身の高貴な家の出であることは共通しており、ここから、これらの長者伝説がどうやらある高貴な女性の出自に関する一つの伝承から派生したことが見て取れるのです。

画像3:疋野長者伝説と類似する伝説を有する地
(他にあるかもしれません)

そして、同ブログ記事で最も興味深い記述とは以下の部分です。

タマナという地名は百済がかつて外地に設置した檐魯담로に由来するという説がある。

現代ハングル読みではDAM LOが鼻音化して ダムノ に似た発音となるが、古代語は概してゆっくり発音する傾向があるため、タムル、タマラといった発音だった可能性は高い。

何故なら古い済州島の呼称を耽羅と言い、日本語読みでもタンラ、現代ハングル読みでもタムナとなる。さらに屯羅、耽牟羅という表記も見られる。

屯という字はタムロと読むし、百済が駐屯した拠点にそうした地名をつけていたという百済研究家を笑い飛ばせる人は世間知らずである。

(元)情報本部自衛官さんのブログから

読者さんは、これがどのような意味かお分かりでしょうか?要するに、

 玉名・玉田は古代百済の拠点だったのではないか?

ということなのです。要するに、同じ百済民族であればこそ、この極めて似通った長者伝説がこれだけ離れた各地に残されたと考えられるのです。

もしもそうだとすれば、私たちが常識として思い描いている

  朝鮮半島の百済・新羅・任那と対馬海峡を隔てて存在する大和国

という古代史の地勢的な構図は全て再考し直さなければならなくなるのです。

一見とてもあり得なそうなことですが、この説を甘受したとき、過去記事「菊池盆地と古代」で紹介した次の写真にまた別の解釈が生まれてくるのです。

画像4:再現された鞠智城

私はここを、白村江の戦いに敗れた百済の難民を受け入れた、いわば難民キャンプのようなものではなかったのかと仮説を立てましたが、ここを元来の百済領地と見れば、無理なくここを「百済の城」または「百済の拠点」であると言い切ることができるのです。

この種の議論をする時に気を付けなければならないのは、そもそも古代期に現代のような国境概念があったのかどうか?いや、現代のような国民国家の認識があったかどうかも疑わしいのです。

もしかしたら、古代期は船が辿り着いた各地に点在する拠点こそが領土であり、いわば複数の「点」の集合で表現される国土認識ではなかったのかということなのです。

それと比較すれば、現代の国土感覚は国境で隔てられた連続する「面」の認識であると言えましょう。

つまり、現在鞠智城跡地とされているこの地こそが、百済の一部だったのではなかったのか、極端かもしれませんがその可能性を排除してはならないと思うのです。

そうすると、玉名から菊池にまで進出した日置氏とはどのような一族であったのか、また、菊池一族のルーツとは何であったのか、はたまたこの地で祀られる第2代天皇「綏靖天皇」やユダヤの痕跡とはどのような繋がりがあるのか、これらの疑問が古代百済との関係で読み解けるかもしれないのです。


大和とは大和成り為す諸国の国かも
管理人 日月土


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