佐用姫伝説の地を訪ねる

つい先日、佐賀県は唐津市へと知人と共に史跡を回ってきました。今回の記事はその記憶がまだ鮮明な内にと、調査の記録を綴ったものです。

佐賀県と聞くと、特に目立つ産物もなく、九州で最も地味な県と認識されている方も多いと思いますが、歴史研究においては謎多き魅惑の土地でもあるのです。

その中でも佐賀県の北部、玄界灘に接している唐津は、史跡の宝庫である福岡県糸島市の西隣で、博多からも電車または車で1時間少々しか離れていません。ですから、ここから大都市である福岡市内に通勤されている方も居られるようです。

画像1:佐賀県唐津市の地理関係 (Googleマップより)

上の地図をご覧になれば分かるように、福岡同様、唐津は対馬や壹岐などの離島、そして朝鮮半島にも近く、どう考えてもここが歴史の舞台にならない訳がないのです。もっとも、唐津在住の知人は「こんなところ呼子(よぶこ)のイカと名護屋城くらいしかありませんよ」と謙遜されますが、それはまた、唐津の歴史的価値が未だに埋もれたままになっていることの裏返しであると私は思っています。

そんな知人が、「何か歴史的に重要なものはないか?」という私の問いに対して示してくださったのが、地元で良く聞かされていたという「鏡山(かがみやま)と佐用姫(さよひめ)伝説」だったのです。

佐用姫伝説についてはWikiペディアの「松浦佐用姫」に詳しいのですが、何でも日本三大伝説の一つとも言われる、昔から全国的に有名なお話なのだそうです。とは言っても、私の場合はその知人から話を聞くまでは何も知りませんでしたし、読者の皆様でもそういう方は多いでしょう。

伝承については、複数のバリエーションがあるようなのですが、まずはスタンダードな伝承スタイルとして、佐用姫伝説ゆかりの地でもある、唐津市呼子町の田島神社、その摂社である「佐與姫神社」の案内板から次の解説文を引用します。

               佐與姫神社

松浦佐與姫を祭るこの神社は、宣化天皇二年十月、大伴狹手彦(おおとものさでひこ)は勅命によリ、任那を援護することになり、京の都を発し、松浦国篠原の里に滞在した。

篠原村長者の娘佐與姫は心優しく狹手彦と相思の仲となった。いよいよ出航の時、別れを惜しみ後を慕い、領布振山 (ひれふりやま=鏡山のこと)に登り遙に船影を望んだ。更に松浦川を渡り沖合遠く走る帆影は小さく雲間に没して見えなくなった。

姫の悲嘆はますます募り、田島神社の神前に詣でて夫の安泰を祈念しながらも泣き続け息絶えて神石となられた。世に言う望夫石である。これをお祀りしたのが当社である。

豊臣秀吉より文禄二年百石の御朱印以来、徳川将軍家に引継がれた。その後佐與姫の想いがかない、狹手彦は無事帰国した。以後唐津城主の姫君などがお忍びで再三参拝され、良縁の御守を持ち帰られた “以来縁結びの守神として信仰厚く、男女の参拝は習俗となって現在も続いている。

以上が佐用姫伝説として知られている一般的なストーリーなのですが、この美しい恋愛譚が人の心を打つのか、昔から縁結びの神様として崇敬を集めていたようです。

しかしこのお話、元々の土地伝承(風土記)とはかなりの相違点があるようなのです。

画像2:加部島の佐與姫神社(9/28撮影)

■付け加えられた石化伝承

佐用姫伝説の相違点、これについては現地の郷土史研究家の岸川龍氏が分り易く論文まとめられているので、ここではそのURLをご紹介すると共に、その要約のみを簡単にお伝えしたいと思います。

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岸川氏が指摘する風土記と一般伝承の相違点は次の通りです

 相違点1:風土記の佐用姫は石にならない(石化)
 相違点2:風土記の佐用姫は蛇に連れ去られ絶命する(蛇婚)
 相違点3:風土記の佐用姫は「鏡」を川に落とす(鏡)

どうやら、佐用姫伝説が紹介された鎌倉時代の説話集に、佐用姫伝説と中国由来の「亡夫石」伝承が併記されていたため、話が融合して記憶されてしまっただけでなく、土地伝承に含まれる気味の悪い箇所が切り捨てられたのではないかと、岸川氏は推察しているのです。

また、同論文は佐用姫伝説を題材にした万葉集の7首を例に上げ、そこには「蛇婚」もなければ「鏡」もない、そして「石化」の表現すら見られず、単に男女別離の悲哀を歌っただけであることも指摘しています。

万葉集を含む全ての表現に共通しているのは、山の上から夫に向かって「領巾を振る」という佐用姫の律儀で切ない行動だけなのですが、これらを、時間の経過による伝承の変化と結論付けるには、少し気になる点も多いのです。

画像3:佐用姫が領巾を振ったとされる鏡山から唐津湾を望む(9/27撮影)

■佐用姫は巫女であった

先代旧事本紀には、十種神宝(とくさのかんだから)というと饒速日命(にぎはやひのみこと)が天降りする際に、天神御祖(あまつかみみおや)から授けられたとする、皇統の証となる神宝について書かれた箇所があります。

この神宝の中には蛇比礼(おろちのひれ)・蜂比礼(はちのひれ)・品物之比礼(くさぐさのもののひれ)という3種の領巾(=比礼=ひれ)が含まれていますが、ここからも分かるように、領巾とは一種の神具であり、これを単純に「スカーフのようなもの」と解釈するとこの物語の解釈を誤ることになると私は思うのです。

また、領巾を振るとは明らかに何らかの呪(まじな)い事を意味しているのですが、文脈から素直に考えると、佐用姫の領巾振りは、夫の無事の帰還を願う祈りと捉えることができます。

しかし、ここで問題なのが、肥前風土記にある「鏡」の一節で、鏡が古代日本において特別な神宝及び神具であることを考慮すれば、これらの道具を携える佐用姫とは、ただの美しい豪族の姫ではないことに直ぐに気付かされるのです。

これらから、佐用姫が古代巫女(シャーマン)であった可能性は極めて高いと私は考えます。

また、一般伝承に「鏡」の伝承が抜け落ちてしまっているのに、どうして現在に残る佐用姫所縁の山が「領巾振山」と「鏡山」の二つ名であるのか、それは、巫女佐用姫の記憶が今でも強く残っているからと考えられないでしょうか?

画像4:鏡山展望台の松浦佐用姫像(9/27撮影)

すると、佐用姫と大伴狹手彦の関係、特に佐用姫の出身が唐津の山間部である厳木(きゅうらぎ)であることを考慮すると、海神族系の大伴氏との関係は奇妙であるばかりでなく、宣化天皇の一代前である継体天皇が大伴系の血筋であることも何か関連するように思えてくるのです。

大伴狹手彦の渡航から130年後には白村江の戦いが起きて日本は大敗北を喫するのですが、この新羅征伐が後の白村江に関わってくるのはもはや明白でしょう。この様に考え始めると、この伝承を巡る様々な当時の事情がもう一段深く見えてくるのですが、それらの考察については次回に持ち越したいと思います。


鏡山沼辺の小屋に湧き出づる人影隠れ蛇と現る
管理人 日月土


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