前回の記事「二人の姫犬吠埼」では、アニメ映画「千と千尋の神隠し」の舞台モデル地の一つと思われる千葉県東総地区(銚子市・香取市・旭市・東庄町)に、豊玉姫・玉依姫など、神話の中の龍宮城伝説に関わる神様を祀る神社が比較的多く見られることを指摘しました。
繰り返しになりますが、この映画の主人公「千尋」と脇役「リン」がモデルとしている日本神話上の登場人物(あるいは神)は、これまでの分析から次のような関係であることが分かっています。
千尋 = 豊玉姫 = タクハタチヂヒメ
リン = 玉依姫 = アメノウズメ
そして、二人が住み込みで働く「油屋」とは、神話に記述された「龍宮城」をモチーフにしているところまで見えて来たのです。
前回は、あくまでもネット上の検索から神社の当りを付けただけですが、そのままでは少々気持ち悪いので、記事で取り上げた以下の神社を実際に訪ねてみることにしました。今回はその時のレポートとなります。
今回の記事対象となる神社
・編玉神社
・豊玉姫神社
次回以降
・東大社
・渡海神社
・海津見神社
・雷神社
・仁玉姫神社
・二玉姫神社
■編玉神社
5月の下旬、まず最初に訪れたのは千葉県香取市阿玉台に鎮座する「編玉神社」です。この辺りは大地と低地が複雑に入り組んでおり、その複雑に入り組んだ高低差はやはり現地を訪れてみなければ分かりません。
古代期において、地形は神社や古墳の設置場所を決める重要な要素ですから、最近はそこの地形を見るだけ、古墳や神社、貝塚などの遺跡がそこにあるだろうと少し想像が付くようになってきました。
実際、編玉神社の近くには阿玉台貝塚、少し離れた豊玉姫神社には良文貝塚が見つかっており、後者の場合は地名も「貝塚」ですから、そこが古代から人が多く住み着いた土地であることを物語っています。

編玉神社は関東地方の農村ならどこにでもありそうな神社ですが、ここで目を惹いたのは、それが低地を見下ろす高台にあることです。
以前お伝えしたように、現在水田になっている利根川南岸の低地部は、かつて存在した香取海(かとりのうみ)の一部であり、ここに宮が設けられた当初は海を見下ろすように配置され、海上からは航行の目印としてこの宮が見えたのではないかと想像されます。
おそらく、このお宮の下にはここの集落の船着き場があったのではないかと考えられ、同時に、この周辺に多くの貝塚が見つかっていることから、かなり大人数の集落がこの旧海岸線に沿って形成されていたのでしょう。


もう一つ意外だったのが、事前の調べではこの神社の旧名が「編玉豊玉姫神社」で祭神も文字通り「豊玉姫」だと見当を付けていたにも拘わらず、現地の案内表示では祭神は次の三柱であると謳われていたことです。
天津日高日子穂々出見尊(アマツヒダカヒコホホデミノミコト)
大巳貴命(オオナムチノミコト)
少彦名命(スクナヒコナノミコト)
これだけ見ると龍宮城の姫神と関係ないように見えますが、日子穂々出見尊とは彦火火出見尊の別表記であり、これまでの分析から
彦火火出見 = 賀茂建角身 = 八咫烏 = 三嶋神
であることが分かっていますし、彦火火出見の皇后は豊玉姫・玉依姫ですから、その意味では、龍宮城関係者と言えないこともありません。
それよりも、意外なのは大巳貴命(=大国主命)と少彦名なるいわゆる出雲系の神々が併記されていることであり、その時の社会的な状況により扱う祭神名が変わることはあったとしても、どうして出雲系の神々が合祀されているのかについては少し首を傾げてしまいます。
この神社の社伝や地域の伝承を詳しく調べた訳ではないので、歴史的変遷については分かったように言えませんが、次に調べる時の留意点として覚えておきたいと思います。

案内表示の記述が正しいとすれば、勧請は第12代景行天皇の頃で、実は豊玉姫・玉依姫の時代からは200年位後になると推計されます。
時代的な隔絶を考慮すれば、龍宮城の神々と日本武尊の東征の間には特に関連性があるとは思えませんが、そもそも日本武尊がどうして東を目指して来たのかと考えた時、一般的には朝廷に逆らう東国の蛮族を征伐するためと言われていますが、何度も書いてるように、千葉県北部から茨城県南部の旧香取海沿岸は、神話に登場する高天原(たかあまはら)が実在していた土地と考えられ、そうなると、「東国の蛮族」という捉え方自体がそもそも誤った解釈だとも考えられるのです。
こうなると、龍宮城の神々の存在と日本武尊の東国遠征の間に何かしらの関係があるとも言えるのですが、これについてはまた別に考察してみたいと思います。
■豊玉姫神社
編玉神社から自動車で数分移動した所に豊玉姫神社は鎮座しています。直線距離だと2kmに届かない位でしょうか。
ここも編玉神社と同じく、低地(旧香取海)を望む高台に位置しており、おそらく元々は香取海の海上航行と深く関わる場所であったと考えられます。

こちらも、地方でよく見かける風の神社なのですが、さすがに社名に「豊玉姫」なる現皇室の始祖にも繋がる神名を冠しているだけに、神紋には元々皇室専用であった五三桐紋と十六菊花紋の両方が使われているのには目を見張りました。

(逆光で見辛い点はご容赦ください)
この神社についてはもっと詳しく調べる必要があるなと思いましたが、案内板によると、やはりこの神社も創建に日本武尊が関わっていることが記されています。

そして注目なのが4月8日の例祭に関する記述で、そこには
二十年毎に東大社、雷神社と共に銚子市戸川浜
まで御神幸し大祭を挙行する
とありますが、その例祭の様式にどのような意味が込められているのか非常に興味が惹かれるところです。そして、東大社・雷神社の両方だけでなく、外川浜のすぐ傍にある渡海神社も今回の現地調査の対象であり、今回の二人の姫を巡る探訪が、偶然にもここで何かしらの歴史的意味を持つことを直感したのです。
* * *
今回はこの2社までのレポートとしますが、日本武尊と豊玉姫の関係がやはり気になります。どうして、日本武尊は悪天候時の無事を祈った海神(わたつみ)の神ではなく、その娘とされる豊玉姫を祭神としたのか、その謂われの意味するものが非常に気になるのです。
管理人 日月土