ユダヤ人埴輪と六芒星

前々回の記事「麻賀多神社と高天原(2)」で、次の様な画像を掲載しました。

画像1:ユダヤ人埴輪と現代ユダヤ教徒の正装

これについて、知人であり遺跡発掘の専門家であるG氏にこの埴輪(はにわ)を見てどう思われるか感想を尋ねたところ、

「ああ、あのユダヤ人の姿をした埴輪でしょ?あれはどう見たってユダヤ人なのに、アカデミズムでは誰もそれを口に出さないんだよね。それがかえっておかしいと前から思っていたんですよ。」

他、次の様にも仰ってました。

「ユダヤ人の姿をした埴輪は、成田周辺だけでなく、少し離れた千葉市の人形塚古墳(椎名崎古墳群の一部)からも出土しています。おそらく、千葉県北総地区一帯にユダヤの影響があったのではないかと予想されるのです。」

画像2:椎名崎古墳群の位置

今回はそのユダヤ人埴輪について、形状及び、その形状が意味する呪術的側面から、これがほぼ間違いなくユダヤの教えの痕跡を示すものであることを説明したいと思います。

■武人ではなくユダヤ司祭か

このユダヤ人埴輪ですが、一般的には武人型埴輪と呼ばれています。それは、背の高い軍帽のような山高帽を被り、鎧のようなチョッキを着て、手には短剣を持っている。ぱっと見で武人に見えてしまうのはむしろ当然ではないかと思います。

画像3:姫塚から出土したユダヤ人埴輪

しかし、これが古墳と呼ばれるお墓に、当時の権威者と共に埋められたという点を普通に考えれば、直ぐに軍事と関連させて解釈するのは早計であると思われます。しかも、ユダヤ人埴輪は王の墓と思われる殿塚ではなく、そのお妃の墓とされる姫塚から出ているのですから。

日月神示には「玉とは御魂(おんたま)ぞ、鏡とは内に動く御力ぞ、剣とは外に動く御力ぞ、これを三種(みくさ)の神宝(かむたから)と申すぞ(富士の巻第3帖)。」とあり、また、ある神道関係者からは、鎧とは鏡を象徴するものであるという話を聞いたことがあります。

何が言いたいかというと、武具のように見える装束(鎧のような着衣と短剣)は、神示が語るように神宝(鏡と剣)を表しているのではないかということ、つまりこれらは祭祀道具であり、そうなると、この埴輪は武人などではなく、むしろ司祭を表しているのではないかということになります。

また、山高帽と表現とした被り物も、後方からの撮影写真を見ると、それが帽子の役目を全く果たしていないことが明らかとなります。

画像4:山高帽を後から撮影したもの

この画像4では、正面の三角に尖った部分を、後ろから支えているだけのように見えます。つまり、端から頭部を保護する目的ではないことは明らかで、古墳に入れられている点、前述の鏡と剣の関係性を考慮すると、これも祭祀道具として着用されたと考える方が自然なのです。

さて、この山高帽状の被り物、正面から見れば「烏帽子」、帽子の支えだけに注目すれば「冠」に見えてしまうのですが、読者の皆さんの目にはどう映るでしょうか?

画像5:(左)烏帽子と(右)冠 (Wikiペディアから)

中には、こんなにはっきりと冠の形としか思えない山高帽を被っているユダヤ人埴輪もあります。

画像6:冠形状の被り物をしたユダヤ人埴輪

また、左右にカールした髪型については、埴輪研究書でははっきりと「美豆良(ミズラ)」と書かれており、こうなると、この埴輪がユダヤ人司祭を指しているのか、それとも古代日本人の司祭を指しているのか、なんとも曖昧となってくるのです。

画像7:古代日本人像でお馴染みの角髪
または美豆良 (goo辞書から)

この曖昧さについて、古代ユダヤ人の影響ではないかと議論してきたのがこれまでの日ユ同祖論なのですが、この議論の前提にはこういう思い込みがあることに気付きませんでしょうか?

 古代ユダヤ人と古代日本人は別物

つまり、古代ユダヤ人が遠い昔に大陸の方から日本へ渡来してきたのだという思い込みです。前から同じことを言ってますが、お互いが遠く離れたA地とB地から同じ遺跡が出てきた場合、どちらが起源であるかなど、軽々に決められないのです。すなわち、

 ユダヤ人は日本発祥の民族

である可能性も、考察の一つとして残しておかなければ片手落ちなのです。

■ユダヤ人埴輪に見るカバラと陰陽道

Wikiペディアによると、「カバラとは、ユダヤ教の伝統に基づいた創造論、終末論、メシア論を伴う神秘主義思想である。」とあります。

日本にも同じ神秘主義的色彩の強い「陰陽道(おんみょうどう)」があります。一般的には、陰陽道は古代中国の陰陽五行思想から発展したものと理解されていますが、それについては今は議論しません。ここでは、日本独自に発展した暦などの実学的要素を含む陰陽道全般を指すことにします。

実は、このユダヤ人埴輪の出で立ちは、陰陽道の考え方であっさりと分析・説明できるのです。

画像8:二つの三角形状がポイント

顎鬚の末端が一点に集約され、全体で下向きの三角形を作っていることが重要です。これは地から登り空中で広がる「火」を表します。陽気です。

また、山高帽が上向きの三角形を形作っているのは一目で明らかです。これは天から下に落ちて広がる「水」を表します。陰気です。

これらを整理すると次のようになります。

 山高帽:△:水:陰
 顎鬚 :▽:火:陽

この二つの三角を重ね合すとどうなるでしょう?

画像9:ご存知、六芒星(ダビデの星)
またはカゴメ紋、麻紋、亀甲紋

この紋様が、海の向こうの某ユダヤ国家の国旗に使われていることは今更説明することではありませんね。加えて、このユダヤ人埴輪において重要なのは、この二つの要素が人の頭部で融合していることなのです。

「天地人」という言葉がありますが、まさに人とは天と地の間に生じる存在であり、人体の最も重要な器官が詰まっている頭部に、天地の創造のエネルギーを集約するという考え方が、この形状一つで理解されるのです。

また、カール状の頭髪(美豆良)は螺旋を表し、螺旋の中心部に気の流れが発生すると考えるのが気功術なので、ここからもまた、天地のエネルギーを頭部に集中させるという呪術的思考が垣間見れるのです。

このよく考えられた幾何学的なデザインだけを見ても、このユダヤ人埴輪が武人などではなく、宗教祭祀を象徴するものであることが見て取れるのです。

そして、ここでも前節と同じ疑問が生じます。この司祭像が執り行っている儀式は古代ユダヤ(カバラ)のそれを指すのか、はたまた、古代日本(陰陽道など)のそれなのか・・・

私は、両者に違いはないと思っています。つまりカバラも陰陽道も出所は同じであり、それを象徴するのが、姫塚のユダヤ人埴輪なのでしょう。但し、この埴輪は古墳時代のものですから、歴史的にはかなり新しい方です。この様式が本来のものであったかどうかは不明ですので、これより過去の時代に融合したという考えも捨ててはいません。

そうすると、古墳時代前後の日本の古代史はどう理解すればよいのか?

ここで、前から私が主張している次の考え方が極めて有効になってきます

 記紀とは真の古代を隠すために編纂された偽りの国史である

ここで言う「隠された日本の古代」とはまさにユダヤ人と日本人の真の関係性のことであると考えられるのです。加えて、現ユダヤ教、その派生であるキリスト教やイスラム教が一神教であることを鑑みれば、これはすなわち、

 日本人と唯一神との関係

と言い換えることができるでしょう。よく言われる「日本は八百万の神の国」という概念は、記紀が編纂された1300年前より以前に企図された、この古代史隠蔽政策の中で練り上げられた後代の創作であるということです。つまり、日本の伝統などではない。

言い換えれば、木は森の中に隠せと言うように、

 神は神々の中に隠せ

これこそが、実在人であった神武天皇以前の天皇一族を神と書き換えてしまった、記紀編纂の真の狙いであったと考えられるのです。

画像10:成田空港近隣の芝山町大里に建てられた
石井四郎書の忠魂碑

上の石碑は、旧帝国陸軍731部隊の創設者で有名な石井四郎氏の書が刻まれたものです。まさに、ユダヤ人埴輪の多出地域に建てられているのですが、この一帯は石井姓を名乗る家が多く、石碑の裏面にも、親族と思われる石井の名が多く刻まれています。

731部隊は初期の頃、賀茂村と呼ばれたこの土地の関係者を中心に設立されたと言います。おそらく731部隊の設立とユダヤ人埴輪は無関係ではない、つまり日本の古代史と現代史は密接にリンクしている。最後にそれを指摘して次回に繋げたいと思います。

※明日配信のメルマガでは、この関係性についてもう少し掘り下げて解説したいと思います。
※本記事で使用した埴輪写真は、六一書房刊、城倉正祥編「殿塚・姫塚古墳の研究 -人物埴輪の三次元計測調査報告書-」(平成29年)より抜粋したものです。


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管理人 日月土

隠された祭神と成田

これまで、「麻賀多神社」をキーワードに、同社が点在する千葉県の北総地域について調べてきました。

 ・麻賀多神社と高天原
 ・麻賀多神社と高天原(2)

また、同じ北総地域の話題として、神話に記された神、猿田彦(さるたひこ)が関連していることも既にお伝えしています。

 ・天孫降臨とミヲの猿田彦
 ・椿海とミヲの猿田彦
 ・麻賀多神社と猿田彦

話が少し複雑になってきたので、ここまでの流れがどのようになっているのか、できれば今一度過去記事を読み返していただくことをお勧めします。

■側高神社:新たな北総神社群

さて、前回の記事「麻賀多神社と高天原(2)」で、私は次の様な図を掲載しました。

画像1:主祭神による神社群の分布図(再掲)

上図にも書き込んでいますが、実はこの分布図にはまだ調査未確認のエリアがあります。これは、そこに何もなかったということではなく、単に私の調査が行き届いていなかったからであり、先日、同地区の調査を一部終了したので、今回はその結果を反映したいと思います。

必ずしも上図の未調査エリア内に限定される訳ではありませんが、同エリアを中心にやはり同名神社が香取海周辺に点在していることが後から分かったのです。その神社の名前は

 側高神社(そばたかじんじゃ)

であり、まだ訪れていない場所も含め、全部で15社あることが分かっています(他にあるかもしれません)。「そばたか」の漢字表記は複数あり、それらは次の様になります。

 側鷹・脇高・蘇羽鷹・相馬高・隣高

中には1か所で表記が混在している所もあります。おそらく万葉仮名よろしく、「そばたか」と読めることが大事で、漢字表記に拘る必要はあまりないと考えられます。

画像2:側高神社の分布

■祭神名を教えない側高神社(香取市大倉)

祭神については、私が訪れた社では直接判別できませんでしたが、ネット上の記載を見ると、場所によっては、「国常立大神(くにとこたちおおかみ)」や「火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)」と紹介されているところもあるようです。

今回訪ねてはいませんが、実は、千葉県香取市大倉の側高神社とその祭神については、知人から興味深い話を聞いています。なんと、ここの神社はその祭神名を「秘して語らず」とし、門外不出にしていると言います。あるいは適当に「側高大神」とし、祭神の由緒については多くを語らないという姿勢を取っているようです。この事実は、神社に詳しい関係者の間でも話題になっているようです。

画像3:香取市大倉の側高神社(写真Google)

通常、神を崇拝する場所であるはずの神社で、どうしてその名を参拝者に知らせないのか、ちょっと理解に苦しみます。

知人が香取市の側高神社を訪れた時、運よく祭事の日だったらしく、氏子さんたちが集まっていたそうです。そこで、改めて御祭神の名を教えてもらえないか尋ねたところ、

 「ここの神の名は教えられない」

と固く断られたそうです。それでも食い下がってお願いし続けたところ、とうとう

 「これをあげるから帰ってくれ」

と、縁起物を渡されて追い出されてしまったとか。

何とも解せない話ですが、それ故に、何かたいへん重要な史実がここに隠されている予感を禁じ得ないのです。そして、知人が同社を訪れた日付を聞いて、私はその思いをますます強めたのです。その日とは、年も押し詰まった

 12月24日

なのです。

■空港施設に取り囲まれた側高神社(成田市取香)

海外、関東地方へ行き来するのに利用することも多い成田空港。この空港敷地のすぐ脇にも側高神社があります。それも、空港ゲート、国道、ホテル、駐車場と四方を近代施設に囲まれ、まるでそこに取り残されたように、ぽつんと鎮座しているのです。

見たところ普通の神社なのですが、気になるのは、すぐ近くの成田市小菅の側鷹神社が空港建設に伴い移設されているのに、どうしてここはそのまま残されているのかです。見るからに邪魔に扱われているのですが。これには移設できない何か大きな理由があるのではと、ついつい勘繰り深くなるのです。

画像4:成田空港ゲート脇の側高神社(取香)
画像5:こちらは空港建設に伴い移設された側鷹神社(小菅)

成田空港と言えばかつてご紹介したように、その敷地そのものの形状が、コルナサインを表しています。コルナサインとは悪魔崇拝者の一員と思われる人物が、時々人前でみせる動物の角に似せたハンドサインです。偶然と言えばそれまでですが、私は、造形にシビアな建築デザイナーがそんな不吉な形状を見逃すはずはなく、むしろ、このコルナサイン型のデザインは意図して選ばれたのではないかと思っています。

画像6:成田空港上空写真とコルナサイン

そうなると、コルナサインを地上絵とする狙いはいったい何なのでしょうか?西欧の悪魔と日本の神社、何か関係あるのでしょうか?

その疑問への答の鍵となるのが、前節で取り上げた「12月24日」という、香取市大倉の側高神社の祭日なのです。

■ユダヤ人埴輪の地に建つ相馬高・隣高両神社

前回の記事で、千葉県の芝山町でユダヤ人の正装そっくりな埴輪が出土したというお話を紹介しました。芝山町は成田空港の少し南側に位置しますが、古代期にはここまで海の入江が入り込んでいたことが地形から窺えます。私はこの入江のことを「芝海(しばのうみ)」と呼んでいます。

その芝山の旧入江に臨む小高い土地に、相馬高神社は鎮座します。今ではすっかりさびれていますが、地形から判断する限り、かつては絶好の祭祀場だったのではないかと考えられるのです。

画像7:芝山の相馬高神社

そして、もう一つの隣高神社ですが、こちらはおそらく海に浮かぶ小島、あるいは土を盛った古墳と思われる小山の上に建てられています。

画像8:芝山の隣高神社

私が気になったのは、この神社よりも、小山の端にポツンと建てられた小さな祠の方です。立派な神社が山の上にあるのに、なぜこんな粗末な祠が全く別に作られているのか?

画像9:隣高神社の隅に建てられた小祠

そして、その不自然な配置に加えて印象深かったのが、この小祠をスマホで撮影しようとするとカメラアプリがフリーズしてしまうという、小さな怪異に見舞われたことです。

仕方がないので、呪術を取り除く作法を施し、それから撮影できるようになったのですが、呪詛技術的な観点で見る限り、かなり強力な呪いがここには掛けられていたようです。この小祠の何がそんなに疎まれたのでしょうか?

また、ここ芝山はユダヤ人埴輪が多出した土地でもあります。これを、「側高神社」に関わるキーワードに加えると

 12月24日 | コルナサイン | ユダヤ人

と、ここは日本なのか?と思わせる不思議な言葉の並びが現れてきます。これもおそらく、側高神社の隠された祭神と関係がありそうです。

■その他の側高神社

他にもいくつか同名の社を訪ねましたが、詳しい説明は省略します。これらに共通しているのは、いずれも香取の海を見下ろす高台の上に建てられているという点です。

画像10:印西市笠神
画像11:津冨浦(つぶうら)1
画像12:津冨浦2

■側高エリアの中心地は成田である

さて、決定的な祭神は不明ですが、側高神社も麻賀多神社などと同じく、同一氏族が居住した領域を表していると考えられます。

また、神社が点在している地形的位置関係をデフォルメして配置すると下図のようになります。

ここから、千葉県内にある多くの側高社が、実は古代期にあった内海のすぐ側にあることが分かります。同時に、成田市の取香(とっこう)と小菅にある社は海には面しておらず、下総台地の平らな部分、現在は成田空港、少し前までは三里塚の広大な牧草地の上にあったことが偲ばれるのです。

これは何を意味するのか?成田取香・小菅の社は周りの海辺のポイントから比較的短い陸路でアクセス可能ですから、古代期においては、南北に広がる海辺の海運を通して、人や物資がここに集中していたと考えられるのです。

画像13:側高神社の配置(デフォルメ図)

これは、成田国際空港を中心に空輸が行われている現在の姿と似ているとも言えます。そして、そのような土地にはおそらく宮が置かれ、どういう習俗かは不明なものの、都(みやこ)と呼ぶに相応しい古代都市がそこに広がっていただろうと想像されるのです。

ここで現代の成田を振り返ってみましょう

 ・真言宗の大寺、成田山新勝寺がある
 ・江戸時代は軍馬の生産地であった
 ・明治期以降、御料牧場が置かれていた
 ・731部隊の前身となる賀茂村があった
 ・空港用地買収に関わる三里塚闘争の長期化
 ・123便の残骸が一時的に成田空港に運ばれ保管された

他にもあるのですが、これだけ見ても、一癖も二癖もある土地柄であることが見えてきます。成田に関しては、私も123便事件の調査関係で、成田公安に執拗に追いかけられたことがあり、成田の地には国家的な何か大きな隠し事があるのだろうと、ずっと思っていました。

それが、今回の古代期におけるキーワードとどう関わるのか?実は私なりに一つの答に辿り着いたのですが、それについては、明日配信のメルマガで先行してお知らせしたいと思います。

事前に予告するなら、これこそが日本国の成立過程において決定的な事実であり、また123便事件を生み出した核心的事由であると、私は考えています。


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麻賀多神社と高天原(2)

今回は、前回の記事「麻賀多神社と高天原」の続編となります。「日月神示」が大好きなスピリチュアル系の方も、ほんとうに今の理解のままで良いのか、これを読んで再考頂けたら幸いです。

何故、日月神示が降ろされたのが麻賀多神社だったのか、そして、どうして「日月」を「ひふみ(=123)」と読むのか、その意味がおぼろ気ながら見えてくるかと思います。

これはもう、解釈の問題なので、絶対にそうだとは言い切れないのですが、私は「ひふみ」とはまさしく「秘文」で、それは何かの「啓示」を表しており、35年前の123便事件(ひふみ)とはまさに「この世に体現された啓示」を意味しているのではないかと思っているのです。

その啓示の真意が何であるのか、その解釈については、後に重要なお知らせとして、お伝えすることになるかと思います。今はまず、事の背景を正確に押さえることが先となるでしょう。

■香取海の神社群

前回お知らせした、旧香取海周辺に見られる同名神社群の分布図ですが、これに香取神社、及び鹿島神社の分布図を追加し、アップデートしました。まずそれをご覧になってください。

画像1:香取海同名神社分布図
※有料メルマガの読者様には共有地図のアドレスを公開しています

この地図は地域的な偏在状況を比較するものです。当然ながら、八幡神社や浅間・稲荷神社など、全国どこでも見られる神社名は当該地域においても圧倒的に多くを数えるのですが、同図ではそれを省略しています。

これらの神社が全て古代期に作られたとは私も思いません。中には中世・江戸時代と比較的新しい時代に建てられた事が分かっているものもあります。しかし、後の時代に建てられた神社であっても、その場所・その名前を選んだ理由は当然あるはずで、私はその主な理由を、代々その土地に伝えられた先祖からの伝承であると考えます。

ですから、この神社群の分布を古代氏族の定住地の分布と見て概ね間違いはないだろうと想定しています。そうすると、分布図と主祭神から予想される各氏族の定住エリアとは次のようになるでしょうか。

画像2:古代氏族の定住エリアか?

この画像2に出てくる祭神名の多くは、記紀においては神代記に登場する、いわゆる神の名前です。神様と言うのは、どこかには祀られるかもしれませんが、この図の様に、一定の広がりを以って土地に偏在するものでしょうか?神を超自然的な霊などではなく、祖先神=開祖(人間)と捉えることにより、あっさりとこの状況は説明できてしまうのです。

もちろん、この予想が当たっているかどうかは今後更に検証を加える必要があると思います。しかし、秀真伝(ホツマツタエ)が今に伝える、実在した神武天皇以前の王とその関係者のリアルな姿、決して超自然的な神などではなかった人間の営みが、この予想分布図を得ることで更に真実味を帯びてくるのです。

■消された高天原の記憶

ここで、記紀で高天原がどのように表現されているかを再確認します。

日本書紀では、神代上に4箇所、神代下に1箇所の出現が見られます。ここでは神代上から2箇所引用します。なお、岩波書店刊の日本書紀では「高天原(たかまのはら)」とルビを振っています。「たかま」の逆読みは「まかた」ですから、より麻賀多(まかた)神社との関係性が感じられます。思うに、古代は「ま」を「まー」と長音で発音していたのかもしれません(「まーかた」→「まあかた」)。むしろ気になるのは、どうしてこれを今様に「たかまがはら」などと発声するようになったかです。

一書(あるふみ)に曰(いは)く、天地初めて判(わか)るるときに、、始めて倶(とも)に生(なりい)づる神有(かみま)す。国常立尊と号(まう)す。次に国狭槌尊(くにのさつちのみこと)。又曰はく、高天原に所生(お)られます神の名を、天御中主尊と曰(まほ)す。次に皇産霊尊(たかみむすびのみこと)。次に神皇産霊尊(かみむすひのみこと)。皇産霊、此をばミムスヒと云ふ。

  * * *

一書(あるふみ)に曰(いは)く、伊弉諾・伊弉冉(いざなぎ・いざなみ)の二(ふたはしら)の神、高天原に坐(ま)しまして曰(のたま)はく、「当(まさ)に国有らむや」とのたまひて、乃(すなは)ち天瓊矛(あまのぬほこ)を以(も)て、磤馭慮嶋(おのころじま)を画(かきさぐ)り成す。

日本書紀 神代上

ここに登場した神々の名前が実在した上代の人物のものだとすると、天皇を中心とする日本の歴史が始まったのは、実にこの高天原であるということになります。ですから、現代日本に天皇家が存続している以上、高天原の存在は「日本の始まりの地」として、決して切り離すことができないのです。

私は、その高天原は、現在の千葉県・茨城県に跨る旧香取海の沿岸地域に存在していたのではないかと予想していますが、どちらかというと、場所の特定よりも、どうして高天原の記憶が史実から消されてしまったのか、記紀における上代史の神話化と同様に、そちらの方が気になるのです。

「高天原」の記述は、有名なイザナギの禊(みそぎ)による三貴子(アマテラス、ツクヨミ、スサノオ)の誕生シーンの他、スサノオが高天原に居るアマテラスとの再会を乞い願うシーンでも出てきます。いずれも「神の在所」として登場します。

詳細は省きますが、「高天原」の登場シーンは古事記の方がやや多く、やはり神の在所としての架空世界を指しています。なお、秀真伝(ほつまつたえ)では「タカマノハラ」として登場しますが、こちらは、宮中の賢所(かしこどころ)、転じて朝廷そのものを表しており、記紀と比べてその具体度が全く異なるのです。

■芝海とユダヤ人埴輪

小見出しの「芝海(しばのうみ)」とは私が作った造語です。おそらく面積的にはそれほど大きくなく、正確には入江とか浅瀬と呼ぶべきかもしれません。かつてそれが存在したと思われる、千葉県芝山町(しばやままち)、旧横芝町(よこしばまち、現山武市)から「芝」の字を取って命名しました。ここでは、便宜的にこの名前を使わせてもらいます。

芝山町の高台には、有名な武人の埴輪が多く発見された芝山古墳群の殿塚・姫塚・その他があります。この武人の埴輪は、観る人が見ればこう言うかもしれません。

 ユダヤ人埴輪

これは、前回の記事でご紹介した「高天原は関東にあった」(勉誠出版)の著者、田中英道教授も、別の著書「ユダヤ人埴輪があった!」(育鵬社)で触れています。

画像3:書籍「ユダヤ人埴輪があった!」

これは以下の画像を見ると分かり易いでしょう。

画像4:田中英道教授の通信講座プロモーションメールから抜粋

つい最近、これらの埴輪の一部を展示している「芝山はにわ博物館」を現地まで見学に行ってきました。その時に撮影したのが以下の写真です。

画像5:ユダヤ人埴輪に該当するもの
画像6:その他の人物埴輪

この埴輪は、「正装したユダヤ人に似ている」ということで、古代史マニアや日ユ同祖論者などの間では良く知られているし、それ程目新しい話題でもありません。

私が注目したいのは、芝山古墳群のロケーションです。そこでやはり目を引くのが外洋に続く内海、「芝海」なのです。

画像7:内陸部まで深く入り込んだ入江(芝海)

そして、この芝海と香取海の位置関係を見て欲しいのです。

画像8:旧内海の位置関係と陸路
複数の港湾にアクセスしやすい成田、八街などは古代都市が発達した可能性がある

高天原推定地域である旧香取海と同古墳群がそれほど離れていないことにお気付きでしょうか?しかも、2つの内海(香取海・芝海)を結ぶまさに陸路の拠点に芝山の古墳群は点在してるのです。

ここから、漠然と「日本人の祖先は渡来してきたユダヤ人ではないか」とし、数多くの両者の類似点、状況証拠等を示してきた日ユ同祖論に、新たに「失われた始まりの地『高天原』との関係」、という視点が加わるのです。

日本の始まりの地である高天原とユダヤとの間に関係性が認められるとすれば、前節の議論から、

 天皇家とユダヤの間に何らかの関係性がある

と認めざるを得ません。ですから、日ユ同祖論はこれまでのように古代史ロマンのように扱うものではなく、私たち日本人や日本社会のルーツを辿る重要問題として真剣に取り上げる必要があると思われます。

あくまでも仮説としてですが、文献や地形を徹底的に改変してまで高天原の存在を隠そうとしてきた日本社会の体制とは、まさしく123便事件を隠し続けるそれに等しく、おそらく123便事件の背景には、古代日本とユダヤとの関係が深く横たわっているのだろうと思われるのです。

ところで、日月神示にはこういう記述があるのを覚えておられるでしょうか?


「十の流れ、十二の流れと今にわかる時来るぞ」

日月神示 光の巻 第7帖

十と十二をイスラエルの十支族、十二支族と捉えると、

 日月(ひふみ) > 麻賀多 > 高天原 > ユダヤ人埴輪 > 十二の流れ > 日月

とやはり繋がってくるのです。深く検証するほどにこうした関連性が実際に浮かび上がってくるので、私は日月神示を、単なるオカルト好きの愛読書として片付けられないのです。


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管理人 日月土

麻賀多神社と高天原

麻賀多(まかた)神社と言うと、日月神示(ひふみしんじ)が降りた場所として、どちらかと言えばスピリチュアル界隈で有名の神社の一つです。

これについての文献や、それについて書かれたブログなどはたくさんありますので、敢えて私がそれについて説明することは避けたいと思います。

ただし、私も「ひふみ」、すなわち「一二三(123)」という言葉の響きがずっと前から気になっており、123便事件の調査を本格的に始めた頃から、主に事件と何か関係があるのだろうかという観点で同書を読んできました。

結局のところ、事件と関係があるかどうかは各自の主観的な判断に依るものであり、有ると見れば有るし、無いと見れば無いとしか言いようがありません。

同書がそれまでまったく関心の無かった日本古代史への興味を抱かせたくれたこと、結局、それにより日本航空123便事件の深い歴史的背景を理解するのに大いに有意義であった点などを考慮すれば、少なくとも私にとっては、同事件を理解するのに欠かせない一書となったことは確かであると言えます。

■一つだけではない麻賀多神社

麻賀多神社と言えば、千葉県成田市台方にあるものが全国的に有名ですが、実は同名の神社が千葉県北部地域に20社程あることをご存知でしょうか?

別の言い方をすると、日本全国でも千葉県北部地域に限られた20社にしか麻賀多神社の名前は見られないということでもあります(他所にもあるという話も聞きますが未確認です)。

画像1:千葉県北部図 (麻賀多神社)

上画像は、Googleマップにそれぞれの麻賀多神社をプロットした図です。これだけ見ると印旛沼(いんばぬま)の南側に固まって配置されていることが分かります。

実は、千葉県北部でこのように同名の神社が近い場所に固まって配置されている関係性は、麻賀多神社以外にも見られるのです。

画像2:千葉県北部図 (4神社群プロット)

麻賀多神社群に加えて、宗像(むなかた)神社群、鳥見(とみ)神社群、そして埴生(はぶ)神社群の4つです。それぞれの神社群の主たる祭神は次の様になります。

 麻賀多:和久産巣日神 (わくむすびのかみ)
 宗像 :宗像三女神
 鳥見 :饒速日命・宇摩志眞知命・御炊屋姫命・火産靈命・天日鷲命(忌部氏祖)
 埴生 :埴山姫命(はにやまひめのみこと)

それぞれの神社群は隣接しているにも拘わらず、祭神が全く異なるのが分かります。基本的に同系の一族が同じ先祖神を祭るのが古代の祭祀スタイルだと考えられるので、これら神社群の違いは、

 居住者集団の家系の違い

であろうと考えられます。

■香取海と海の民族

さて、画像2を見れば、それぞれの神社群がひと塊のテリトリーを構成していることは分かるのですが、なんでこのような配置になったのかはこの地図でははっきりしません。

そこで、江戸時代の大干拓事業が始まる中世頃まで、千葉県北部・茨城県南部に存在していたと言われる香取海(かとりのうみ)を地図上に加えてみます。なお、海岸線は現在の地形を参考に推測したものです。

画像3:千葉県北部図 (香取海)

図を見れば分かるように、ほとんどの神社が海岸線を望む高台に配置されているのが分かります。

特に、鳥見神社の場合は香取海に突き出した半島の北部沿岸を、そして宗像神社は南部沿岸を、そしてその南の対岸に麻賀多神社、東の対岸に埴生神社と、神社の配置が当時の地形に依存していたことがよく分かります。それはすなわち、同じ系統の一族が、それぞれお行儀よく場所を棲み分けてそこに暮らしていたことを想像させるのです。

画像4:麻賀多神社(台方)の田んぼの中の鳥居
 かつては海岸沿いに立って訪れる参拝者を迎え入れてたのだろう

海、それも穏やかで遠浅の内海が身近にあるということは、それだけで古代人の生活にとって有利だったに違いありません。海産資源はもちろんのこと、人や物資の移動に船が使えるからです。

そして、当時の神社とは海の見張り処でもあり、灯篭は船の道標、そして、淡水の補給地点であったことは容易に想像できます。

それを裏付けるように、宗像神社群が鎮座する地名には、海運に関する名前が多く見られます。さすが、「宗像」は海の一族と言われるだけあります。

 師戸、船戸、瀬戸、戸神、岩戸、清戸、大廻、船尾

「戸」の字は、古代は「港」を表していた。つまり、ここを拠点に船が行き来していたことを表します。

船を使った移動、これは、麻賀多神社の創建に関わったと思われる多氏についても事情は同じだったはずです。香取海の最も最深部を地盤にする麻賀多神社群、一見すると、大洋に出るのに香取海内を大きく迂回しなければならないようですが、わずかな陸路を許容することで、実は東京湾経由でどこよりも早く安全に香取海から外洋に出られるのです。

画像5:中世まで、この辺の陸路が発達していたのだろう
「四街道(よつかいどう)」という地名に当時の様子が窺える

ですから、見方によっては、麻賀多神社群の一族(多氏?)こそが、香取海内海の集落群と外洋を結ぶ最も要の場所を押さえていたとも言えるのです。

■隠された高天原(たかあまはら)

今回はスピリチュアル的な話は一切抑えて、観測できる事実から麻賀多神社の周辺状況を整理してみたのですが、そこから見えてくるのは、香取海の恵みに支えられた豊かな古代社会の姿なのです。

しかし不思議なのは、中世頃まで存在し、関東人の生活と社会を支えたはずの香取海なのに、日本史の教科書における関東の記述、例えば次のような事項に、香取海が触れられることはないのです。

 ・坂上田村麻呂の蝦夷征伐
 ・平将門の乱
 ・鎌倉幕府と東北を巡る役、

そして、香取海だけでなく椿海も、江戸幕府による大規模な治水工事と干拓政策により、ほとんど元の姿を残さず消滅してしまったのです。本当に食糧増産が目的なら、江戸から離れた香取海や椿海ではなく、東京湾を干拓すればよいのに。

まるで、何かを歴史から消しさらなければならないかのように、江戸幕府は香取海を埋め尽くし、現在の歴史教科書はそれが初めからなかったかのように触れようとはしない。

私は、日本書紀・古事記が編纂された目的自体が日本古代史の改ざん及び抹殺であると見ていますが。西暦700年代に始まった歴史改ざんプロジェクトは今でも有効であり、江戸時代を経てそれが現在でも続いているのだとすれば、本当に残念なことです。

では、その改ざんプロジェクトはいったい何を日本の歴史から消し去ろうとしているのか?

麻賀多は「まあかた」と読むことを思い出してください。逆さ読みが「事実の裏返し」を意味しているのなら、その答は簡単です。

 高天・原(たかあま・はら)

そう、曖昧なまま神話の世界に貶めようとした、麻賀多神社の周辺に実在していただろう高天原(たかあまはら)の存在こそが、この国のもっとも忌むべき時代と見なされている、そう考えられるのです。しつこいようですが、123便事件もおそらくその一件に関わっているようなのです。

なぜ日月神示が麻賀多神社に降りたのか?パワーやおかげを求めるフワフワしたスピリチュアルも結構ですが、たまには出来事の背景と真意を探く考えてみては如何でしょうか?

画像6:同じような主張の方がいらっしゃるようです


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管理人 日月土

麻賀多神社と猿田彦

前回、前々回と、神話に登場する道案内の神、猿田彦について取り上げ、最終的に現在の千葉県旭市・匝瑳市(そうさし)に存在したという椿海(つばきのうみ)、及びその北東方向に位置する千葉県銚子市に辿り着きました。

1985年のNHKテレビ小説「澪標(みおつくし)」の舞台がその銚子であることから、

 三尾(みお)-筑紫(つくし)

の言葉の連想により、三尾(猿田彦の宮があったと思われる土地名)と筑紫(瓊瓊杵尊が天孫降臨した土地名)が同時に出現し、神話よろしく「天孫降臨」に関わる何かを表現してようにも見えると結びました。

翌日配信のメルマガでは、私は次の様な歴史的事象が実際にあったのではないかと予想を立てています。

「瓊瓊杵尊一行を乗せた船は、猿田彦の先導の下、現在の千葉県銚子市周辺・あるいは内海の椿海から出帆し、筑紫(現在の福岡県糸島)に向かった。」

この仮説を裏付けるのが、旧椿海の西方には全国でもここにしかない八街市(やちまたし)があり、これが記紀で記すところの天八達之衢(あめのやちまた)に対応していると考えられることです。

しかし、この説の最も大きな障害となるのが、この移動ルートではかなり長い距離を黒潮に逆らって進むことになり、また、当時は関門海峡は陸続きだったと思われるため、糸島付近に上陸するためには、かなりの迂回を強いられることになるという事実です。

画像1:画像1:さすがにこの海路はあり得ない?

通常の考え方なら、速攻で却下されるべき仮説なのですが、そうではないというお話をメルマガではさせていただきました。

だいたい、記紀を読んでも、秀真伝を読んでも、当時のアマカミ(上代の天皇のこと)やスメラギ(天皇のこと)は、平気で1000kmくらい離れた場所に宮を移したり、遠征したりします。

いくら陸上だからといって、大勢の人員や大量の物資をそんなにちょくちょくと長距離移動させられるものでしょうか?通常なら船などの輸送手段を用いるはずですが、それを言い出したら天孫降臨の三尾-筑紫仮説と同じことです。

歴史研究家はこの点にほとんど疑問を持たず、平気で古代天皇が日本列島中を行脚する話を想定するのですが、飛行機や自動車、動力船もなく、舗装道路などおそらくない時代にどうしてそんなことができたのか、まずそこに疑問を持つべきはないでしょうか?

■猿田彦の本当の名前は何だろうか?

前々回の記事では、およそ高貴な人間に「猿」などという獣の字を当てるものだろうか?むしろそれは後世の人間が名付けた「呪い名」ではなかろうか?、そういうお話をさせて頂きました。

その件について、発掘を生業とする知人の歴史研究家G氏にお話を伺ったところ、概ね同意を頂き、加えて次のようなお話を聞かせてくださったのです。

「徳島県に大麻比古(おおあさひこ)神社という神社があります。そこの2柱のご祭神の内、一柱が猿田彦なので何か本名と関係があるのではないか?」

画像2:大麻比古神社

そこで、同社のホームページの由緒を調べてみました。

Q.何という神様をおまつりしてあるのですか?
A.二柱の神様がおまつりされています。大麻比古大神と猿田彦大神の二柱の神様です。

Q.御祭神はどのような神様ですか
A.まず大麻比古大神とは、大昔阿波国を開拓した阿波の忌部氏(いんべし)の大祖先の神様です。

神武天皇の御代に忌部氏の子孫が阿波国に入り国土を開拓して麻とか楮(かじ)の種を播いて麻布とか木綿をつくり郷土の産業の基を開いて人々の福利を進められました。

その氏族は今の吉野川市 元の麻植郡を拠点として開拓をされましたが国土開発の事業が漸く成った後に御先祖の神様 天日鷲命(あめのひわしのみこと)をおまつりしました。この神社が今徳島市に忌部神社としてまつられており、この神様の御神徳をたたえて麻植の神と申して敬ってきました。

忌部神社の御祭神天日鷲命様の大先祖の神様が天太玉命(あめのふとたまのみこと)で此の神様を大麻比古神社と申し上げ郷土の守り神としてこの地におまつりしたのが大麻比古神社と伝えられています。

猿田彦大神とは天孫降臨(てんそんこうりん)の時その道案内の役をつとめられた神様で、昔大麻比古神社の裏に聳えている大麻山(おおあさやま)の峯にお鎮まりになっていましたが、いつの時代かはっきり判りませんが大麻比古神社に合わせまつられたと伝えられています。

猿田彦の神様は私共に親しみの深い神様です。おまつりの時、神輿(みこし)の先頭に立って天狗のお姿をして神輿の先導をされている神様で、人々や土地のまわりに立ち塞がり、災難や禍をもたらすものを祓い退けてくださる神様です。

大麻比古神社にまつられている二柱の神様を総称して人々は「大麻はん」と申し上げており、方除(ほうよけ)、厄除(やくよけ)、交通安全の御加護をお授けくださる神様として今も多くの人々から信仰されています。

引用元:大麻比古神社公式ホームページ http://www.ooasahikojinja.jp/qa/

「(猿田彦は)昔大麻比古神社の裏に聳えている大麻山(おおあさやま)の峯にお鎮まりになっていました」

おやおや、これまで、猿田彦ゆかりの土地として、三重県伊勢市・鈴鹿市、滋賀県大津市、そして千葉県銚子市を候補に挙げてきましたが、なんと、徳島県鳴門市までもがそれに加わることになってしまいました。

これについてG氏は次のように説明します。

「そもそも猿田彦の一族は、現在の天皇家が全国統治を始める以前から、全国に赴いて農耕の普及や集落の形成など、日本社会の地盤を作り上げてきた主要な一族と考えられるのです。猿田彦の名前が全国に知れ渡っているのは、そうした経緯があるからなのかも知れません。」

なんと、神話の猿田彦は瓊瓊杵尊を導いたことで知られますが、それ以前に猿田彦の一族そのものが、古代日本を現在の日本社会の方向に導いてきたという、何ともスケールの大きな話になってきました。

そしてこの話は、ヲシテ文献研究者の池田満氏が「サルタヒコはかなり高貴な血筋であると考えられ、クニサツチノのヱノミコトの直系の子孫と推定する」という説にも合致してくるのです。

これだけでは名前の問題はまだ解決しませんが、ともあれ、猿田彦とその一族は古代社会においてなかなか侮れない存在であることは間違いなさそうです。逆に言うと、だからこそ、後世において猿田彦が「猿」でなければ都合の悪い輩も多くいたのではないかと考えられるのです。

■麻紋で繋がる徳島と千葉

さて、WEBで大麻比古神社のHPを見た時に、あれっと思ったのがその御神紋です

画像3:
大麻比神社御神紋

この神紋は、日月神示で有名なあの神社と同じです。

画像4:麻賀多神社(千葉県成田市台方)の拝殿と御神紋

これは麻紋と言って、一応麻を象った紋ということですから、同じ「麻」の文字を冠する神社がそれを使っても、特に不思議だということはありません。私が前から気になっているのは、麻の葉は基本的に奇数枚なので、どうして六葉のこの紋を「麻紋」と呼ぶのかです。

麻紋を幾何学的に分析すると次の様になります。

画像5:麻紋と亀甲紋は等価、とも読める

私の調べでは、亀甲紋は出雲オオモノヌシ系の古代氏族が家紋に使うことが多いと見ています。また、古代氏族の系列を陸海で分けるなら、亀甲紋を使う家系はほぼ海系(=水軍系)と考えて良いでしょう。これは、徳島が古くから水軍の町であったことと矛盾しません。

麻賀多神社は古代氏族の多氏(=おおし、意富、大とも書く)によって創建されたとする説があるのですが、G氏によると、徳島の吉野川北岸は、元々多氏が支配していた痕跡が色濃く残っているとかで、大麻比古神社と麻賀多神社が同じ麻紋を使用するのは、両者が元々同族であったからだと言えなくもありません。

考えてみたら、千葉県南部は「安房」(あわ)と呼ばれ、徳島はと言えば、「阿波踊り」で有名な「あわ」の地です。

ここで、ぼんやりとではあっても、どうやら千葉と徳島との関係はかなり深そうだということが分かってきたのですが、果たして猿田彦はそこにどう関わってくるのでしょうか?

■香取海と椿海を繋ぐミオ

古代の事情は古代の地形で考えないと分かりません。千葉県北東部の古代の海岸線をシミュレートしたのが以下の図です。すると、椿海と同時に、広大な香取海(かとりのうみ)が地図上に現れるのです。

画像6:香取海、椿海分析図(今より7m海面が高いとした)

まずこの図で、徳島と千葉との対応関係を調べてみましょう。

 --徳島--    --千葉--
 多氏        多氏
 大麻比古神社(麻紋) 麻賀多神社(麻紋)
 大麻比古=忌部氏祖 印旛(インバ)=忌部(インベ)?
 猿田彦       猿田神社
 鳴門の渦      渦海のまあかた(日月神示)?
 阿波(アワ)     安房(アワ)

?を付けたのは確証がないものです。現在でも残る印旛という地名が、果たして忌部氏由来なのかは分かりません。ただし、古代の人々は名前の音や綴りに非常に拘るので、全くの駄洒落と言う訳でもないはずです。

また、まあかたが渦海であったというのは日月神示にしか見られない記述ですが、香取海の奥行は広く、湾口付近とは大きな干満差が生じただろうと予想されます。すると、口の狭まった地形の場所では、時刻によっては海流が速まり、渦潮が発生していた可能性もあっただろうと予想されます。

私は、多氏は渦の発生する場所を選んで、徳島から千葉、あるいは千葉から徳島へと移動したのではないかと予想を立てています。何故なら、渦そのものが、大きな自然エネルギーの象徴であると、古代の人々は考えていたかもしれないからです。

さて、この図をみると、私が猿田彦の宮があったのではないかと考えているミオ(現在の小見)は、椿海と香取海を繋ぐ最短陸路上にあることが分かります。

これは地図上にも緑の点線で示しましたが、海路で銚子の沖合を回ると遠回りあるばかりでなく、海流もあるので操船が非常に大変であったと思われるのです。

安全に人や物資を香取海内の沿岸に届けるならば、椿海で一旦荷を下ろし、陸路を経由して再び香取海で船に積み込んだ方がはるかに合理的でしょう。すなわち

 ミオは古代海上交易の中心地

であったのではないかと考えられるのです。人が集まる場所には、それを治めるに相応しい人が要る。もしかして、それが猿田彦だったのではないでしょうか?

そして、現在の猿田神社は椿海ルート、銚子沖ルートの両海路の中央の台地に位置します。これは、鹿島神宮、香取神宮、そして息栖神社がかつては香取海へ船の出入りを監視する役割を担っていたことを考えれば、両ルートに対し睨みを利かせる最良の地に監視施設を置いた、そしてその名残が現在の猿田神社として残されている、そう考えると辻褄が合わないでしょうか?

まだまだ決め手には欠けるものの、この図から、猿田彦とその一族は海運と交易を司る一大要所を押さえていたと言えます。それは、同じく海運の一族である多氏の姿とも重なるのです。

その猿田彦の元へ、筑紫へと向かう瓊瓊杵尊の話が飛び込んできた。そして、神話ではないリアルな天孫降臨の物語が始まった‥…そこまで考えるのは早過ぎますかね?

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管理人 日月土

椿海とミヲの猿田彦

今回の記事は、前回の「天孫降臨とミヲの猿田彦」の続編となります。また、7月16日に発行したメルマガ掲載の記事解説を、加筆再構成した文章を含んでいます。

前回記事の最後に、ヲシテ文献研究者の池田満さんが猿田彦の宮の所在地を、三尾(ミオ)神社のある滋賀県の大津付近に推定していること、その地名に関連して猿田彦がミオノカミとヲシテ文献には記述されていることなどをお伝えしました。

私の解釈はこれと少し違います。それを説明するためには、まず猿田彦と椿(つばき)の関係を知らなくてはなりません。

■猿田彦と椿

前回ご紹介したように、三重県鈴鹿市には「椿」をその名に配した椿大神社が猿田彦を主祭神として祀っています。同社のホームページを見たところ、次のように書かれていました。

 当社は、伊勢平野を見下ろす鈴鹿山系の中央に位置する高山(入道ヶ嶽)短山(椿ヶ嶽)を天然の社として、太古の神代より祭祀されていた「猿田彦大神」の御神霊を、人皇第11代垂仁天皇の御代27年秋8月(西暦紀元前3年)に、「倭姫命」の御神託により、大神御陵の前方「御船磐座」付近に瓊々杵尊・栲幡千々姫命を相殿として社殿を造営し奉斎された日本最古の神社であります。

 (中略)

 天孫「瓊々杵尊」降臨の際、猿田彦大神、天の八衢に「道別の神」として出迎え、風貌雄大、超絶した神威を以って恙なく天孫を高千穂の峰に御先導申し上げ、肇国の礎を成したこの大神を、後に倭姫命の御神託により、磯津(鈴鹿川)の川上、高山短山の麓に「椿(道別)大神の社」として奉斎することになったのは、まことに神慮によるものと言うべきでしょう。

引用元:椿大神社の由緒 https://tsubaki.or.jp/yuisyo/

どうやら、猿田彦の陵墓があるとされる鈴鹿山系の山の名前「椿ヶ嶽」から取ったとするもの、または、書紀にも記載されている「道別(ちわき)」が「椿(つばき)」と訛ったものとする二つの考え方があるようです。

正直なところ、この説明からだけではピンときませんが、少なくとも看板たる社名に「椿」の一文字が冠されている、そこに大きな意味を感じるのみです。

さて、私の場合、「椿」の名を聞いて最初に思い浮かべる神社とは、実は福岡県久留米市にある水天宮なのです。何故なら、水天宮の神紋は「椿花」であるからです。

関東の方面にお住いの方ならば、東京の日本橋蛎殻町にある水天宮に馴染みの深い方が殆どだと思いますが、実は、総本宮は福岡県久留米市にあるものとされています。

私も花の季節に久留米の同宮を訪れましたが、境内に植えられた様々な種類の椿の花の見事さに思わず目を奪われたものです。読者の皆さんにはぜひ花の季節に同宮を訪れることをお勧めしたいです。

画像1:東京蛎殻町の水天宮(写真:Google)
画像2:福岡久留米の水天宮と椿の花々

水天宮はその名の通り水の守護、水難除けにご利益があるとされています。瓊瓊杵尊はおそらく船で福岡県糸島に上陸した(天孫降臨)と私は考えており、猿田彦の行った道案内とは、おそらく海上の案内であったと想定されるのです。その意味では水の守護と水先案内人としての猿田彦との繋がりもそれほどミスマッチとは言えないでしょう。

また、久留米と糸島はそれほど近いとは言えませんが、古代期は海が現在の内陸部まで入り込んでおり、小型船ならば川や水路などを通って比較的簡単に行き来できたのではないかとも想像されます(そういう説もあります)。

 参考:
  ・天孫降臨と九州天孫降臨と九州(2)

しかし、久留米水天宮の由緒には、「椿」の言われは、同宮の祭神である安徳天皇の物語から生じたものとされており、猿田彦とは直接関係なさそうです。興味深いのは、歴史上は壇ノ浦の戦で幼少8歳で没したとされている安徳天皇が、実は九州に逃げ延びて存命していたという伝承に則ってこの由緒が語られていることです。

御神紋椿の話 ―安徳天皇の恋物語―


 御祭神の安徳天皇は、壇ノ浦の戦で二位の尼に抱かれて入水され、 御年わずか8歳の生涯をお果てになったと国史には記述されております。

 ところが水天宮にはここで崩御なさったのではなく、官女の按察使局伊勢(あぜちのつぼねいせ)に守られ、生きて筑後に潜幸遊ばしたという伝承があります。

 筑後の豪族藤原種継は、平家の旧臣で潜幸中の天皇にお仕えしていましたが、その種継に玉江という17になる美人の娘がおりました。玉江は天皇お付の浄厚尼の薦めにより、日夜、天皇のお側に侍り、お仕えする様になります。

(中略)

 天皇は「椿は八千代を寿ぎ、井桁は契りを宿すとかや」 ~椿の花はいつの世も優しく愛でて映え、井桁はその愛を とこしえに深く育んでゆくと言われているが、いかがなものよ~と、玉江への想いを秘めて仰せられました。浄厚尼も、ならばどうぞ玉椿をお手折りなさり、幾久しく大切になさりませと申し上げて祝福しました。こうして天皇は玉江姫と契られたとのことです。こうして、安徳天皇と玉江姫の恋物語の由縁から、椿の花が御神紋となりました。
(以下略)

引用元:水天宮境内案内 http://suitengu.net/%E5%A2%83%E5%86%85%E6%A1%88%E5%86%85/#story

もしも、猿田彦が瓊瓊杵尊を案内して上陸したのが九州北部だとしたら、この椿花の神紋を通して久留米の水天宮と何か繋がりあるのかないのか、調べてみる価値は大いにありそうです。

画像3:福岡県那珂川市の安徳台上に置かれた安徳宮(写真:Google)
九州北部ではこの安徳天皇生存説にまつわる伝承が多い。この安徳台は安徳台遺跡で有名だが、台地がまるごと遺跡群のようになっている。目立たない所にあるこの宮は荒れてることが多く、何度か掃除をしに行ったことがある。

■千葉東部の椿海

本題から少々脱線してしまいましたが、椿の話に戻ります。さて、古代史と「椿」との連想で、水天宮の他にもう一つ思い浮かべるものがあります。それは、地質調査から古代期に存在したと考えられる「椿海(つばきのうみ)」です。記録には300数十年以上前に干拓されたとあるので、中世の頃までは内海が広がっていたと考えられます。

場所は現在の千葉県旭市の内陸寄りにある、南北に6㎞、東西に8㎞ほどの一帯です。そこを訪れると、椿海があったとされる場所は広大な田園地帯となっており、かつてここが開けた水をたたえた場所であったことが分かります。

以下は地図上から推定される椿海のあったと思われる位置です。

画像4:椿海は現在の千葉県旭市の田園地帯にあったと言われている
画像5:旧椿海の中心部から東の銚子方面を見た風景(写真:Google)
銚子側が切り立ったような高台になっているのが分かるでしょうか?

実は、この旧椿海のあった場所のすぐ東にある高台には、地元の信奉がすこぶる厚い「猿田神社」があり、同社が所在する地名も千葉県銚子市猿田町と言います。最寄り駅はJR東日本の猿田駅で、御祭神はもちろん猿田彦大神です。

画像6:銚子の猿田神社(奥社
画像7:銚子の猿田神社(本殿)

これまで、三重県鈴鹿市周辺、福岡県久留米市周辺に「猿田彦」と「椿」のセットを見出してきた訳ですが、今度もまた遠く離れて関東の東の突端に位置する千葉県旭・銚子市周辺に同セットが見出されるのです。これはいったいどういうことなのでしょうか?

※椿海の民間伝承については匝瑳市のホームページに2話ほど掲載があります。その一つには、猿田彦だけでなく、鹿島の建御雷(タケミカヅチ)、香取の経津主(フツヌシ)が登場し、時代関係的にも齟齬が無く非常に興味が惹かれます。両伝承に共通するのは、巨大な椿の木が抜けた後に海ができたという点です。

 参考:匝瑳市ホームページ「椿海」
    https://www.city.sosa.lg.jp/page/page001250.html

■隠されたミヲ

冒頭でも触れたように、池田説によると猿田彦が宮を構えていたのは滋賀県の大津にほど近い、三尾神社周辺ではないかと推定されています。

これもまた、鈴鹿・久留米とは随分と場所が離れているのですが、実は「ミヲ(ミオ)」という地名には、千葉県の銚子市周辺との共通点が見出せるのです。

それでは、銚子周辺に「ミヲ(ミオ)」なる地名があるのか?残念ながら、調べたところそのような呼び名の地名は見つかりませんでした。

しかし、ここで、有名な麻賀多神社の「麻賀多(マアカタ)」が、高天原の「高天(タカアマ)」を逆さに読んだものであることを思い出してください。これまで各地の地名を色々調べてきたところ、どうやらオリジナルの場所を知られたなくない場合は、元の名前を逆さ読みにする傾向のあることが分かっています。

その考え方を適用すると、「ミヲ(ミオ)」は「ヲミ(オミ)」と読み替えることができます。その操作を加えることで、果たして椿海のすぐ北側にミヲの変名が見つかったのです。それは、

 千葉県香取市の小見(オミ)

です。市町村合併前は小見川町(おみがわまち)と呼ばれた、利根川沿いの長閑な小さな町だったところの一角です。この旧町名はJR東日本の小見川駅という駅名から今でも窺うことができます。

画像8:椿海と他のランドマークとの位置関係
画像9:椿海の西方には記紀に書かれたヤチマタの地名が見られる
猿田彦はここで天鈿女(アメノウズメ)と瓊瓊杵尊を出迎えたのか?

■ミヲと銚子と123便

ここで、購読者の皆様に質問をします。「ミヲ」と「銚子」で何を連想しますか?

答は「澪標(ミオツクシ)」です。

澪標とは日本に古来からある海上に設置された船の案内版のことです。大阪市が市章のデザインにしていることでも有名です。

画像10:左は澪標(みおつくし)、右は同タイトルNHKドラマのシーン

ある程度の年齢以上の方は「澪標」と聞くと、女優の沢口靖子さんが主演したNHK朝の連 続テレビ小説を思い出すかもしれません。このドラマの舞台となったのが、千葉県銚子市なのです。ここでこのドラマタイトルに少し注意してください。

 澪標 → ミオ・ツクシ → ミオ・筑紫

ミオはミオノカミ(猿田彦)、あるいは現在小見と呼ばれている土地を表すと考えられます。そしてミオの猿田彦はヤチマタに瓊瓊杵尊を出迎え、筑紫へと案内するのです。ここに、このドラマタイトルが秘める天孫降臨との関係が見出せるのです。

ここでまた質問です。「澪標」が放映されたのはいつ頃ですか?

答は「1985年4月~9月」。この間、あの123便事件が発生するのです。(新)ブログの「芸能界の闇」シリーズでお伝えしているように、1980年代前半は、123便撃墜計画に向けて大衆心理を同事件へと誘導するメディア戦略が幅広く行われていました。

当時から高視聴率を誇っていたNHKのテレビ小説が、このメディア戦略の例外であったとはとても考えられません。それは「澪標」が「身を尽くし(死)」「ミヲ尽くし(猿田彦の死)」の意を含むことを見れば明らかでしょう。

これらから、古代史に登場する猿田彦と現代社会の関りは、思いのほか深いのではないかと予想されるのです。そして、それが123便事件に具体的にどう関わってくるのか、私の仕事は本当に終わりが見えません。最後に、

 わびぬれば 今はた同じ 難波なる 
  みをつくしても 逢はむとぞ思ふ
             元良親王

この百人一首にも採られた有名な和歌に、自分と123便事件調査に到った境遇を重ねてしまうのは、少々感傷が過ぎるのかもしれませんね。

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管理人 日月土

天孫降臨とミヲの猿田彦

本ブログでは、記紀においてすっかり神話ファンタジー化されてしまった「天孫降臨」なる歴史イベントについて、実際は何が起きたのだろうか考察してきました。取り分けてこのテーマを扱うのは、日本の成立史を考える上で、この一件が極めて重要であると考えるからです。

 参考
  ・天孫降臨と九州 
  ・天孫降臨と九州(2) 

これまでは、天孫降臨の主役である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)にフォーカスし、その天孫降臨の舞台も、現在の福岡県糸島市付近ではないかと推測を述べました。

今回はその瓊瓊杵尊の、糸島上陸に到るまでの経緯について更に考察することにします。

■瓊瓊杵尊を先導した猿田彦

さて、日本書紀の神代下の一書には、天孫降臨が行われるに先立って、次のようなエピソードが記述されています。

已にして降(あまくだ)りまさむとする間に、先駆(さきはらひ)の者還りて白さく「一の神有りて、天八達之衢(あめのやちまた)に居り。其の鼻の長さ七咫(あた)、背の長さ七尺余り。当に七尋(ひろ)と言うべし。且(また)口尻明(くちわきあか)り耀(て)れり。眼は八咫鏡の如くして赩然(てりかかやけること)赤酸醤(あかかがち)に似(の)れり。」とまうす。

即ち從(みとも)の神を遣して、往きて問はしむ。時に八十万の神有り。皆目勝ちて相問ふこと得ず。故、特(こと)に天鈿女(あまのうずめ)に勅(みことのり)して曰はく、「汝(いまし)は是、目人に勝ちたる者(かみ)なり。往きて問ふべし」とのたまふ。

天鈿女、乃ち其の胸乳(むなぢ)を露にかきいでて、裳帶(えひも)を臍(ほそ)の下に抑(おした)れて、咲㖸(あざわら)ひて向きて立つ。是の時に、衢神(ちまたのかみ)問ひて曰はく「天鈿女、汝(いまし)爲(かくす)ることは何の故ぞ」といふ。対へて曰はく「天照大神の子(みこ)の所幸(いでま)す道路(みち)に、如此(かく)居(を)ること誰(た)そ。敢へて問ふ」といふ。

衢神対へて曰はく、「天照大神の子、今(いま)降行(いでま)すべしと聞く。故に、迎へ奉りて相待つ。吾が名は是、猨田彥大神(さるたひこのおほかみ)」といふ。

時に天鈿女、復(また)問ひて曰はく「汝や將(はた)我に先だちて行かむ。抑(はた)我や汝に先だちて行かむ」といふ。対へて曰はく、「吾先だちて啓(みちひら)き行かむ」といふ。

天鈿女、復問ひて曰はく、「汝は何処に到りまさむぞや。皇孫(すめみま)何処(いづこ)に到りましまさむぞや」といふ。対へて曰はく、「天神(あまつかみ)の子は、当(まさに)に筑紫の日向の高千穗の槵觸峯(くしふるのたけ)に到りますべし。吾は伊勢の狭長田(さなだ)の五十鈴の川上に到るべし」といふ。因りて曰はく、「我を発顕(あらは)しつるは、汝なり、故、汝、我を送りて致りませ」といふ。

天鈿女、還詣(まうでかへ)りて報状(かへりことまう)す。皇孫、是に、天磐座(あまのひはくら)を脱離(おしはな)ち、天八重雲(あめのやえたなぐも)を排分(おしわ)けて、稜威(いづ)の道別(ちわき)に道別きて、天降ります。果(つひ)に先の期(ちぎり)の如くに、皇孫をば筑紫の日向の高千穗の槵觸峯に到します。

其の猨田彥神は、すなはち伊勢の狭長田の五十鈴の川上に到る。即ち天鈿女命、猨田彥神の所乞(こはし)の随(まにま)に、遂に侍送(あひおく)る。時に皇孫、天鈿女命に勅すらく「汝、顕しつる神の名を以て姓氏(うぢ)とせむ」とのたまふ。因りて、猨女君の号(な)を賜ふ。故、猨女君等の男女(をとこをみな)、皆呼びて君(きみ)と為(い)ふ、此其の縁(ことのもと)なり。高胸、此をば多歌武娜娑歌(たかむなさか)と云ふ。頗傾也、此をば歌矛志(かぶし)と云ふ。

これは日本神話の中でも有名な一節で、まさに地に降りようとした瓊瓊杵尊の行く手に、眼力が強く恐ろしい形相の神が何やら待ち受けているではありませんか。そこで、瓊瓊杵尊は眼力では負けない天鈿女を使わして、その真意を問わせます。果たして、その神は猿田彦の神であり、瓊瓊杵尊を筑紫の日向の高千穂のクシフル岳(槵觸峯)に案内するため、待っていたことが判明します。

猿田彦の神が待っていた場所を、アメノヤチマタ(天八達之衢)と言い、猿田彦の名を聞き出した天鈿女は、猿田彦をその出身地である「伊勢の狭長田の五十鈴の川上」に送り、猿田彦の氏姓を取って猿女(サルメ)と改名します。これはおそらく猿田彦の妻になったことを意味するのでしょう。

猿田彦の神と言えば、この一節からか導きの神、案内の神として知られ、多くの神社では、特に参道の入り口付近に祀られることが多いようです。猿田彦を主祭神とする神社としては、

 ・三重県伊勢市の猿田彦神社
 ・三重県鈴鹿市の椿大神社

が有名です。中でも伊勢の猿田彦神社の宮司さんは、猿田彦の子孫とも言われる「宇治土公(うじとこ)」の姓を名乗っており、私がかつて現地を訪れた際には丁寧に由緒を説明して頂いたのを今でもよく覚えています。

画像1:伊勢の猿田彦神社
画像2:鈴鹿の椿大神社

■呪われた猿田彦

前述した通り、猿田彦の一節は日本書紀の本編ではなく、あくまでも参考資料としての「一書(あるふみ)」に記載された下りです。その割には、記述量が多くまた詳細に至り、筆者・編者の意図を推し量るなら、この一節が極めて重要だということが窺えます。なお、古事記においては、猿田彦の記述は書紀と同趣旨ですがもう少しあっさりしたものとなっています。

私が最も気になるのは、神の名に「猿」という獣(けもの)辺の字を当てていることです。獣は人(霊止=ヒト)とは明らかに違い、人以下という認識で使われることが普通なので、神を寿(ことほ)ぐことを旨としている神道教義において神の名前に「猿」の字を用いるのは通常では考え難いことなのです。

もしも、「猿」の字を当てることに意味があるのなら、それは日本の呪術について多少心得のある自分にとって、次の理由しか考えられません。それは、

 神を呪っている

ということです。多くの神社で境内の隅っこの方に猿田彦が祀られているのも、「導き」とは言い訳で、実は同じような呪いの意味があるからかもしれません。

もちろん、私がここで意図する神とは、超自然的な神ではなく、おそらく実在していただろう神武天皇以前の人物のことです。つまり、大事な人物なので記録から消すこともできないが、その素性を正直に出す訳にもいかない、あるいは出られてはたいへん困る、そんな立場の人物であったことが想定されるのです。

■秀真伝に現れる猿田彦

ヲシテ文献の研究者、池田満さんは「ホツマ辞典」で猿田彦を次の様に解説しています。

サルタ・サルタヒコ・ミヲノカミ

八代、アマカミ・アマテルからカンタカラ(神器)を授かって、アメノミチ再興を託された人物。カクラオノコノキミの始祖でもある。チマタカミ・ツチギミ・シラヒケの別名もある。

 (中略)

サルタヒコの出自については、かなり高貴な血筋であると想像される。ナガタ(滋賀県高島郡内)生まれ、またミオノカミと褒め名を賜っていることなどからして、クニサツチノのヱノミコトの直系の子孫であろう、と筆者は推定する。

私が注目するのは、猿田彦が、初代アマカミ国常立大神の八人の皇子、その長子であるヱノサノサツチの系統ではないかと、池田氏が推察していることです。現在、ヱノサノサツチの血統がどうなっているのかは不明ですが、もしもこの家系が表に出たならば、

 現天皇家の在り方が大きく変わる

可能性があるのです。

そして、もう一つ注目すべき点は、猿田彦はミヲノカミ(またはミオノカミ)とも呼ばれており、ミヲ(ミオ)とは「三尾」、すなわち現在の滋賀県高島市安曇川町にある「三尾神社」の近辺ではないかと池田氏は推定していることです。

実は、重要なのはこの「ミヲ(ミオ)」が地名であることであり、池田氏がそれに気付かれたことで、私にとっても猿田彦の出自と天孫降臨との関係を解明する上で大きなヒントが得られたのです。

なぜ、私がそんなことにいちいち拘るのか?それは、1985年の123便事件の背後には、確実に猿田彦(あるいはヱノサノサツチ大神)への呪いが存在するからなのです。

 * * *

明日発行予定のメルマガでは、ミヲの地が本当はどこであるのか、池田氏とはまた違った視点で分析を試みてみます。

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管理人 日月土

富士山は突然現れた?

今回の記事はちょっと短めです。

4月14日に掲載した「アルプスに残る海地名」では、本州中央部の中央構造体(フォッサマグナ)に、海などない高原の土地なのに何故か海に関する地名がやたら多いことを示しました。

また同記事2日後の4月16日にはメールマガジンにて次のような内容を補足事項としてお届けしています。

■大和武尊の時代に富士山はなかった
 まず焼津の暗号について解答を述べます。大和武尊が相模国に入る前に立ち寄った「焼津」とは、現在の神奈川県足柄市付近を指します。どうしてそう解釈できるのかは、またブログで公表しますが、秀真伝には明確にその地名が書かれており、書紀の暗号名からもそれが論理的に導けることをお伝えしておきます。やはり記紀は暗号の書であり、解読次第では正確な史実に辿り着ける可能性が見えてきました。

 さて、正確な史実を暗号として隠している日本書紀が、どうして足柄を焼津と表現したのかそれを考えてみます。私はその意味を、「足柄と焼津の間に注目せよ」と解釈します。その足柄と焼津にあるのは、記事でも指摘した「富士山」と「伊豆半島」なのです。

 東征に向かった大和武尊が最初に降り立った地、それが足柄とはどういうことか?おそらく船で移動してますから、御殿場の辺りまで船で入って行けたということです。大和武尊の頃は海進時代と言われていますから、今より6,7m海面が高かったと思われます。しかしそれを考慮しても現在の沼津市街地は残っていると考えられ、そこより奥には入れず辻褄が合いません。

こうなると普通は、日本書紀、あるいは秀真伝の記載が間違っているとなるのですが、暗号化してでも史実を伝えようとした史書がそこまで捏造はやらないはず、なので、私はむしろこう考えます。

 富士山も伊豆半島もそこになかった

と。同時に、書紀の編纂者はこの二つの地理的存在の有無について何か重要な秘密を知っているのではとすら考えられるのです。

地理的に伊豆半島と富士山がそこになければ、富士山の北側は海水で満たされるはずです。すなわち、本文画像2に示した甲府盆地内に多出する「津」の字の地名は、実際にそこに海があり船着き場があったことを示しているのではないでしょうか?

大和武尊伝説では、大和武尊一行は関東を東から西に横断し甲府盆地にある酒折に到達したところで雁坂峠方面に進路をほぼ逆転しています。この一見不可思議な行程は、酒折の目の前に海が広がっていたと考えれば辻褄が合うのです。

大和武尊が存命したと言われる300年代後半、果たして富士山も伊豆半島もそこに存在しなかったのでしょうか?

但し、以上のメルマガ記事は、秀真伝に記述されている「アシガラヤマ」を現在の神奈川県の「金時山(足柄山)」、焼津を現在の静岡県の焼津と仮定した場合の推測であり、前回の記事「ヤマトタケと小野の城」で、焼津はどうやら神奈川県の寒川町の辺りを指すことが見えてきたので、新説の場合、この推測は当たらないことになります。

しかし、足柄山の位置が未だに不明であること、また、ヤマトタケが焼津に至る前に寄ったとされている伊勢が三重県の伊勢だとすると、相模湾からあまりにも距離が離れており、当時海岸線に沿って航行していただろうヤマトタケの移動記録に、伊豆半島や富士山の記述が全くみられないのはやはり不自然なままなのです。

そもそも、記紀には富士山の記述が全くない、そのこと自体が非常に不可解なのですが・・・

太古富士山はなかった?おそらくそんな話は聞いたこともないし、想像すらできないでしょう。富士山ははるか悠久の昔から火山運動を経ながらそこに鎮座していたはずだ、それこそが私たちの常識なのです。

だから、そんな勝手な推測を記事にするなと指摘されても確かに何一つ反論はできない・・・と思っていたところ、知人の歴史研究家G氏より面白い文献を紹介されました。以下にその文献資料の写真とその読み下し文を掲載します。

旧事紀(白川家30巻本)の抜粋
孝霊天皇36年の項

是の月、駿河国、東西南北に割れ裂け大海を成し、一夜にして大山涌出す。其の海は則ち埋もれり。一日、天自ずからして磐上を雨を以って其の嶺を續かせしめ、其の山の形は八坂瓊(やさかに)の如し。亦た、精米を累(かさね)るが如し。之を名付けて降土山(フジノヤマ)と曰ふ。

先代旧事本紀と言えば、一般書籍にもなっている10巻本が良く知られていますが、実は他にも30巻本、31巻本、70巻本と種類があるとのことです。10巻本はいわゆる30巻本のダイジェスト版であり、30巻本には10巻本に省略された記述がいくつもあるとG氏は語ります。

そこにはなんと、第7代孝霊天皇の時代、駿河の国が裂けて海が現れ、そして、たった一晩でその海が天から降ってきた土で埋め尽くされ富士山となったと記述があるのです。なお、八坂瓊とは赤い珠のことであり、その土質が赤土であったことまで詳細に記されているのです。

史書ですから、事実の省略化、表現の誇大化は当たり前だとは思うのですが、それでも、駿河の国から地続きのフォッサマグナ周辺が割れて海になったことは、現地に海地名が多い事実を説明し、また、富士山が一夜の内に現れたという記述は、時代の前後はあるものの、記紀に富士山の記述が見当たらないという事実をもうまく説明するのです。つまり、記紀の時代に

 富士山がない時代があった

ということです。

これがいったいどのような自然現象なのか皆目見当がつきませんが、少なくとも、この私の妄想とも思える発想が、私だけのものではなく、過去の文献にも記述されているのは確かなことなのです。


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管理人 日月土

ヤマトタケと小野の城

今回は日本古代史のヒーロー、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)についてその足跡を考えてみたいと思います。ここでは、簡略化のため「ヤマトタケ」と、秀真伝(ホツマツタエ)の記述に沿った表記に統一したいとします。

4月の記事「アルプスに残る海地名の謎」では、日本書紀におけるヤマトタケの焼津(現在の静岡県)から相模(現在の神奈川県)に到る経路が不明だとお伝えしました。同記事では、冒頭にて現代地名から古代地名を推測するのは時に危険だとお伝えしています。繰り返しになりますが、記紀やその他の史書は、正確な歴史の記述というより

 日本の古代史を分からなくする

という史実隠蔽の目的が含まれおり、同時に暗号的かつ呪術的な意味を人名や地名に付与していると考えられるからです。

現代に残された文章から少しでも真実に近づこうと思うなら、何故そのような文章を残したのか、作者や編纂を促した当時の為政者の意図を推し量り、そこから類推するしかありません。其の為には少々胡散臭い古文書でも、当時の雰囲気だけでも感じ取れるなら、毛嫌いせず見ていく必要があります。

どのみち正史を残した史書などなあり得ないのですから、嘘つきの嘘から何が本当なのかを類推するように、記紀を含む偽書の山から正史を読み取っていくしかないのです。

■日本書紀と古事記に書かれた焼津の比較

それでは、ヤマトタケと焼津の関係が記された項を日本書紀から抜粋します。有名な草薙の剣と向い火のシーンです。

[原文]
是歲、日本武尊初至駿河、其處賊陽從之欺曰「是野也、糜鹿甚多、氣如朝霧、足如茂林。臨而應狩。」日本武尊信其言、入野中而覓獸。賊有殺王之情[王謂日本武尊也]、放火燒其野。王、知被欺則以燧出火之、向燒而得免。一云、王所佩劒藂雲、自抽之、薙攘王之傍草。因是得免、故號其劒曰草薙也。藂雲、此云茂羅玖毛。王曰「殆被欺。」則悉焚其賊衆而滅之、故號其處曰燒津。

[読み下し文]
是歲(ことし)、日本武尊、初めて駿河に至る。其の處の賊(あた)、陽(いつは)り從ひて、欺(あざむ)きて曰(まう)さく「是の野に、糜鹿(おほじか)甚だ多し、氣(いき)は朝霧の如く、足は茂林(しもとはら)の如し。臨(いでま)して狩たまへ」とまうす。日本武尊、其の言を信(う)けたまひて、野の中に入りて覓獸(かり)したまふ。賊(あた)、王(みこ)を殺さむといふ情(こころ)有りて [※王とは日本武尊を謂(い)ふぞ]、其の野に放火燒(ひつく)。

王(みこ)、欺かれぬと知ろしめて、則(すなは)ち燧(ひうち)を以て火を出(うちいだ)して、向燒(むかひびつ)けて免(まぬか)るること得たまふ。 [※一(ある)に云はく、王の所佩(はか)せる劒、藂雲(むらくも)、自ら抽(ぬ)けて、王の傍(かたはら)の草を薙(な)ぎ攘(はら)ふ。是(これ)に因りて免(まぬか)るること得たまふ、故(かれ)其の劒を號(なづ)けて草薙(くさなぎ)と曰ふといふ。藂雲(むらくも)、此(これ)をば茂羅玖毛(むらくも)と云ふ。] 王の曰(のたまは)く「殆(ほとほど)に欺かれぬ」とのたまふ。則ち悉(ふつく)に其の賊衆(あたども)を焚(や)きて滅(ほろぼ)しつ。故(かれ)、其の處を號(なづ)けて燒津(やきつ)と曰(い)ふ。

次に同じシーンを古事記から引用します。

[原文]
故爾到相武國之時、其國造詐白「於此野中有大沼。住是沼中之神、甚道速振神也。」於是、看行其神、入坐其野。爾其國造、火著其野。故知見欺而、解開其姨倭比賣命之所給囊口而見者、火打有其裏。於是、先以其御刀苅撥草、以其火打而打出火、著向火而燒退、還出、皆切滅其國造等、卽著火燒。故、於今謂燒津也。

[読み下し文]
かれ、ここに相武国(さがむのくに)に到りましし時、その国造(くにのみやつこ)詐(いつは)りて白(まを)さく、「この野の中に大沼あり。この沼の中に住める神、いとちはやぶる神なり」とまをしき。ここにその神をみそなはしに、その野に入りましき。

ここにその国造、火をその野に著(つ)けき。かれ、欺かえぬと知らして、その姨倭比賣命(をばやまとひめのみこと)の給ひし嚢(ふくろ)の口を解き開けて見たまへば、火打(ひうち)その裏(うち)にあり。ここに先づその御刀(みはかし)もちて草を刈り撥(はら)ひ、その火打もちて火を打ち出でて、向火(むかひび)を著けて焼き退(そ)けて、還(かへ)りいでて皆その国造等を切り滅ぼし、すなはち火を著けて焼きたまひき。かれ、今に焼津(やきつ)と謂ふ。

日本書紀では明確にヤマトタケが駿河の国に至り、そこで火の難にあったとしてます。やはり焼津とは、現在の静岡県焼津市のことなのでしょうか?ところが、古事記ではヤマトタケが同じ火の難に遭遇したのは相武国、現在の神奈川県相模地方と記しているのです。

他にも細かい点でいくつか違いが見られます。その違いを以下の表にまとめました。

■秀真伝に記された焼津

記紀両者の記述でこれだけ差異が認められた、そしてヤマトタケが入った土地名が駿河、相模とそれぞれ異なるのは看過できない点です。日本書紀では、この段に続く記述で相模に進んだと明確に記述しているので、駿河と相模がそれぞれ別の国であることは書紀執筆者は十分認識していたはずなのです。

先代旧事本紀にヤマトタケの記述がたいへん乏しいということもあり、ここで秀真伝にこの段がどう書かれているのかを調べてみました。

調べたところ、短い文章の中に非常にたくさんの情報が詰まっています。ここでは、本段に関係ある語句を赤枠で囲い、ヲシテ文字に漢字交じりの現代読みを添えてみました。

画像1:秀真伝に見るヤマトタケ焼津の段
 (池田満編、「ヲシテ(下)」より)

図を見ればお分かりのように、ヤマトタケ、向火、草薙、焼津、などの記紀に現れたキーワードが見られるだけでなく、蝦夷(えみし)に欺かれ鹿を見に野に入ったところで火を付けられたと、まるで記紀の話を混ぜ合わせたような展開になっています。

そして、問題の土地名ですが、秀真伝にははっきりとこう書いています。

 相武の小野の城

なんと、相武(相模)という漠然とした地名だけでなく、そこにある小野という土地に築かれた城の麓で、ヤマトタケは騙して火を放った蝦夷たちに出会ったと、その記載が記紀に比べてかなり詳細に及んでいるのです。

さらに目を引くのが、大山(神奈川県伊勢原市大山か?)と大磯(神奈川県大磯町か?)に部下を派遣したと、まるで現代の神奈川県相模地方の地名を正確に語るかのような記述が見い出せるのです。

記述の具体性から判断すると、記紀よりも秀真伝の記述が歴史的事実に近いのではないか?と思われるのですが、ここで大きな問題が出てくるのです。

 秀真伝の足柄山ってなんだ!?

焼津の段では、相模小野の難を逃れたヤマトタケはすぐに足柄山に攻め上るのですが、これを現在の足柄山(金時山)と考えると、もはや相模の国とも言い難く、遠すぎて既出の大山・大磯との距離的関係が合わなくなってくるのです。

画像2:実際の焼津の地はこの辺?しかし足柄山が遠い…
南の相模湾は123便が最初の異常を報告した所

■秀真伝が残した謎

記紀の記述の違いを埋めるつもりで調べた秀真伝ですが、かえって別の問題を呼び起こしてしまったようです。そもそも相模の小野とはいったい何処なのか?地名データベースで調べると

 1)神奈川県横浜市鶴見区   小野町
 2)神奈川県厚木市      小野 

この場合、相模という点では2)の厚木がそれに該当しそうですが、それでもやはり足柄山は遠すぎます。すると、小野とは既に失われた他所の地名か、あるいは家または氏の名前という可能性も考えられます。

古代小野氏とは、Wikiでは次の様に書かれています

孝昭天皇の皇子である天足彦国押人命(あめのおしたらしひこのみこと)を祖とする和珥氏(わにうじ)の枝氏である。

上古代から続く家で、読者さんもご存知の遣隋使の小野妹子や、絶世の美女と伝わる小野小町を輩出した家として有名です。この古代氏族と焼津、ヤマトタケにどのような関係があったのか?そして日本書紀の筆者は、どうしてわざわざヤマトタケの進出地を「駿河」と記述したのか?長野の海地名の不思議から始まった探求は、またしても深みにはまってしまったようです。

  * *  *

以下はこの5月に現地調査に向かった場所です。写真と本記事との関係については明日発行予定のメルマガにて先行してお知らせします。

画像3:周囲を壕に囲まれた宮山神社(神奈川県寒川町)
画像4:宮山神社周囲の壕

 

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管理人 日月土

天孫降臨と九州(2)

前回の記事「天孫降臨と九州」の中で、私は『九州全体を一つの「筑紫」とするのは、やはり受け入れ難い』としています。九州というのは文字通り九つの州(国)から成り立っているという意味で、それはご存知のように

 筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・薩摩・大隅

と区分けされます。

そして、Wikiペディアで「筑紫国」を調べてみると次の様に記述されています。

筑紫国(つくしのくに)は、のちの令制国での筑前国と筑後国にあたり、現在の行政区分では、福岡県のうち東部(豊前国の一部だった部分)を除いた大部分にあたる地域に大化の改新・律令制成立以前の日本古代にあった国である。
 (中略)
7世紀末までに筑前国と筑後国とに分割された。両国とも筑州(ちくしゅう)と呼ばれる。また、筑前国と筑後国の両国をさす語としては、二筑(にちく)・両筑(りょうちく)も用いられる。

画像1:九州の旧国名

大化の改心(西暦645年)よりも前に二つの筑州が既に地名として定着していたのならば、記紀が世に出された時には「筑紫」の地理概念が既に出来上がっていたはずで、九州全体を「筑紫」と見なす解釈は極めて不合理であると考えられます。

やはり、「筑紫」は北は現在の糸島市・福岡市から南は筑後川流域の久留米市・八女市辺りまでを指す地名であると考えるのが自然です。そうすると、天孫降臨の地は現在の福岡県内にほぼ限定されることになります。

■日向とは福岡県の日向峠である

以上の発想は何も私が最初に提唱した訳でなく、歴史研究家の古田武彦さんも指摘していることです。そして、福岡市と糸島市の山越えの市境には現在でも「日向(ひなた)峠)」が地名として残っているのです。

史書から天孫降臨の地を特定するのに必要な要素は次の3点です。

 1)筑紫
 2)日向
 3)高千穂あるいはクシフル岳

この内2)までが現在の福岡県内に特定できるのですが、3)については普通に調べていても見つかりません。これを特定したのが古田さんの業績で、九州黒田家の古文書の中に「クシフル」と呼ばれた峰があることを発見します。しかもそれが、日向峠の尾根続きにある峰であるとのことです。

私は原文そのものに当たってはいないので、ここからは古田さんの発見が正しいとする前提で話を進めます。

「クシフルの峰」は、日向峠から現在の高祖山(たかすやま)の頂きを結ぶ稜線の線上にあったということなので、それを地図に落としてみました。

画像2:ここなら3要素が全て揃う

画像2を見ると分かるように、この地には史書で記述された地名の3要素が狭い範囲に全て揃っています。高祖山でも標高が416mと、1時間足らずで麓から稜線まで登れる程度の高さです。

宮崎の高千穂峰(1573m)を登りきるのはそれなりに時間と体力を要しましたが、高祖山の頂上へは、麓の高祖神社に寄ったついでに楽々と登ることができました。これくらいならば、周囲を見渡す見晴台として適当なのではないでしょうか?

画像3:糸島側から眺めた高祖山とその尾根
画像4:高祖山から糸島方面を眺める

■2000年前の糸島はどのような土地だったのか?

次に、天孫降臨があったとされる今からおおよそ2000年前、糸島はどのような地形だったのかを考えます。

私は神武天皇をはじめ、人間である上古代天皇が本当に200~300歳まで生きたとは考えません。おそらくそれは、史書の中で神様にされてしまった神武以前のアマカミ(上代の天皇)の分を加算した数字と考えます。日本武尊がAD370年前後だとすると、神武天皇は西暦200年前後と見積もれます。すると、神武天皇より4代前の瓊瓊杵尊は西暦100年前後、おおよそ今から2000年前と考えられます。

また、2000年前は、縄文海進の名残りがまだ見られる頃と考えられ、様々な計算方法があるようですが、総じて海面は今より4~7m程度高かったのではないかと想定されます。そこで、現在の地形のまま海面が5m上昇した時、糸島の海岸線がどのようになるのかをシミュレーションしてみました。

画像5:糸島は本当に島だった

画像5は推定ではありますが、もしも古代の水面が現在より5m高かったのならば、現在の糸島市の市街地はほとんど海の下となり、九州本土と糸島が海峡で分離されることが分かります。糸島はその名前が示す通り、かつて本当に島であったと考えられるのです。

この考えを裏付けるよう、画像5右で海に沈む地域は、次の様に海岸地帯を表す「江」や「浦」などの漢字、あるいは水に関係がある「さんずい」の漢字を用いる名前が殆どなのです。これは、かつてそこが海であったことを示しているからなのではないでしょうか?

 波多江(はたえ)
 浦志(うらし)
 潤(うるう)
 泊(とまり)
 大浦(おおうら)
 荻浦(おぎのうら)

■糸島は天然の良港であった

すると、画像5右の図から、旧海峡部の沿岸は日本海の荒波に直接晒されることなく船が停泊できる、天然の港湾、あるいは港湾を建設するのにうってつけの土地であることが何となく予想されるのです。

ここで、瓊瓊杵尊とその配下の者たちの移動を船によるもの、その船団の上陸地点を糸島の旧海峡付近とします。この地に上陸した瓊瓊杵尊は、接岸地点から近く上陸の地を見渡すのに都合がよい高台、高祖山の尾根を目指します。そしてこの見晴らし台から土地を一望し、ここを拠点に子孫を増やしていくことを決断した。そう考えると

 福岡県糸島こそが天孫降臨の地

とは考えられないでしょうか?

ご存知のように、糸島には数多くの古墳が存在しています。それを一つ一つ調べていたらきりがないくらい沢山あるのです。それを以ってこの地に「イト国」なる、古代国家があったと想定する研究者は多いようですが、もしも、この地が天孫降臨の地であるならば、これらの古墳は瓊瓊杵尊以降、神武天皇以前の天孫族国家のものであるとも考えられるのです。

■天降る地の象徴

日本書紀の天孫降臨の記述には「日向(ひむか)の襲(そ)の高千穗峯(たかちほのたけ)に天降(あまくだ)ります。」とあります。ここでは、天孫降臨を「天降(あまくだり)」と表現していることに注意です。

画像6:糸島市内の神社(旧二丈町)

画像6は糸島市内にある神社で、日本の田舎にならどこでもありそうな飾り気のない質素な佇まいをしています。私が注目したのはむしろこの神社の名前なのです。

 天降神社

書紀の記述と同じく天降(あまくだり)と書いて「あもり」と読みます。この天降神社、あるいは天降天神社と同名の神社を地域内で調べたところ次のようになりました。まだ見落としている場所が幾つもあると思いますが、興味のある方は調べてみてください。

画像7:天降社分布図

※プロット座標
 〒819-1156 福岡県糸島市瀬戸(33.511664, 130.182787)
 〒819-1114 福岡県糸島市新田324(33.571975, 130.200278)
 〒819-0383 福岡県福岡市西区大字田尻(33.585679, 130.247325)
 〒819-1304 福岡県糸島市志摩桜井(33.611830, 130.202370)
 〒819-1626 福岡県糸島市二丈波呂(33.509439, 130.174210)
 〒819-1124 福岡県糸島市加布里(33.544936, 130.162708)
 〒819-1623 福岡県糸島市二丈石崎(33.515262, 130.163593)

先ほど3つの要素と書きましたが、オプション的な要素である「天降」までもが糸島には集中的に見られるのです。以上の材料を考えあわせた時、当然ながら次のような仮説に到るのです。

 天孫降臨の地は福岡県糸島である


 * * *

以上を結論とするためには、もちろんまだ多くの検証をこれから加えていかなければなりません。しかし、神社で神主さんが説明してくださる宮崎の天孫降臨に始まる天皇と日本の歴史よりは、糸島降臨説の方がはるかにその実在性を裏付ける材料が多いと私は考えます。

太平洋戦争中は、神武天皇に到る神話と神武東征に始まる天皇起源を拠り所として日本国民に国策への絶対的忠誠を強要したのは今更説明することではありません。

その悪夢のような呪縛から日本国民は目覚めたのかと言えば、相変わらず神主さんはファンタジーと虚飾に満ちた日本史を語り続けています。私たちが本当に過去の悪夢を払拭し、真の日本人になるためには、天皇起源、日本の起源というものを正確に捉え直す必要がある。私はつくづくそう思うのです。

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管理人 日月土