占領された福岡(2)

長々と続けてきた福岡の調査レポートですが、それも今回で一旦終了とします。福岡と言えば、博多どんたくやら豚骨ラーメン・もつ鍋などが有名ですが、そのような地方都市ならではの楽しみに加え、市内に残る数々の古代の面影こそが、歴史好きにとってはたまらなくこの街を魅力的なものとしてくれます。

■香椎浜の鳥居、その北側

さて、前回の「占領された福岡」では、香椎浜の鳥居が向く先に高台があり、その頂上部には舞松原古墳があることを紹介しました。また、博多湾を一望できるその地形的配置、およびこの古墳に向けて掛けられている呪術的造作から、この古墳の被葬者がかなり高貴な存在であっただろうという推測を述べました。

この高台に立って鳥居の方向を見た時、鳥居の反対側、つまり鳥居の北側に何があるのかが今度は気になったのです。

図1:地図で見た鳥居の北側の地域

上の地図で見ると、鳥居の北側には雁ノ巣、奈多、三苫、和白(わじろ)などと言った、福岡らしい趣のある地名が内湾である博多湾を取り囲み、その更に北側には玄界灘が広がるという地形的にもなかなか特徴的な場所であることが分かります。

そして、その玄界灘に接する奈多海岸をわずかに東に辿ると、福岡市に隣接する新宮町(しんぐうまち)へと入ります。

実はこの福岡市東部と新宮町の一帯も前から気になっていた場所であり、というのもこの地名には次の様な意味があるからです。

まず和白について見てみます。

和白というのは新羅の言葉で“会議”のことであり古代満州語、モンゴル語に共通している。『新唐書新羅伝』に「事必ず衆を議す。和白と号す。一人異とすれば、すなわち罷む。」とあり、『満州源流考』にも「事衆と議し和白を号す。按ずるに満州語赫伯は商議なり。これと音議ともに相和す。」とあり和白はHabe、赫伯はHebeでほぼ同じである。この“和白”の文字だけが伝わって読み方は日本流に“わじろ”となったものであろう。

福岡歴史探訪 東区編
柳猛直著(海鳥社 1995)

https://readyfor.jp/projects/f-urihakkyo/announcements/177998

ここにあるように、どうやら「和白」とは朝鮮由来の言葉だということなのです。同時に、朝鮮語起源の地名がここに残ったということは、古くからこの地に多くの朝鮮系人が住んでいたことを意味するのではないでしょうか?

次に三苫について見てみましょう。

三苫の地名の起源は4世紀の神功皇后の物語に始まる。

神功皇后が御西征のとき、対馬の沖で暴風雨に遭い、それが鎮まるようにと海神である志賀三神を祭って祈りを捧げ、その供物と苫を一緒に海に投じて苫の漂着した所に社を建てて祀ることを誓ったといわれる。そのときの苫が三枚、今の三苫の海岸に流れついたことから、その地を三苫と名付けられた。

https://www.mitoma-fukuoka.com/22298.html

苫(とま)とは、辞書などには「菅(すげ)・茅(ちがや)などで編んだ、こものようなもの。小屋や舟を覆って雨露をしのぐのに用いる」と書かれていますが、漢字の成り立ちを見れば分かるように、

 「三」枚の「草(かや)」で「占」う

の意であり、どうやら古代の宮廷占術を表しているようなのです。占術も呪術の一種と言えますが、全国にいらっしゃる三苫姓の人の中には、この宮廷占術師の血筋という方もおられるとか。

以上、この2つの地名から見えてくるのが、4世紀頃と言われる「神功皇后と三韓征伐」の伝承なのです。鳥居の南側には14代仲哀天皇が祀られている香椎宮があるので、時代的にも博多湾奥部のこの地域は、同時代の影響を大きく受けたと考えてよいでしょう。

古代史の中でも謎の多い「三韓征伐」ですが、その謎を解明する鍵はどうやらこの地域にあるようです。

ところが、この地域は現在はかなり市街地化されており、古代期の痕跡を探すのはなかなか難しいのです。そこで、今回の調査では、市境を超えてまだ緑が多く残るお隣の新宮町側に向かったのです。

■人丸神社と謎の給水塔

以前より、福岡市の東部と新宮町の市境付近には古代の痕跡が比較的見つけ易いと分かっていたので、今回は前から気になっていた同町の「人丸神社」(図1の赤星)へと向かったのです。

画像2:人丸神社の拝殿
画像3:人丸神社の由緒書き

この人丸神社自体はその由緒から、古代から中世へと移り変わる源平の時代のものらしいのですが、私が問題とするのは、どうしてここに神社を築いたのかその理由なのです。

由緒を読むだけでは平景清の娘は行きすがらたまたまこの地に辿り着いたように書かれていますが、古代期の記憶がまだ新しい当時の人々が、本当に成り行きだけで神社をそこに建てるのか、私はその点を疑問に思うのです。

このような時、香椎浜の鳥居の時と同じようにこの神社の建てられた向きについて私は考えるようにしています。というのも、神社の建造自体はここ最近のものだとしても、その立地や方角については呪術的に厳格に定められているケースが多く、その呪術パターンからその呪いの対象が特定できることがあるからです。

画像4:人丸神社の立地と拝殿の向き
古代海進期の予想海岸線を青色で示す

上の画像4を見ると分かりやすいのですが、海進期、この辺りの低い土地は海だった可能性が高く、人丸神社は船着き場として最適な入り江の奥という好位置に建てられているのが分かります。

なるほど、ここなら船に乗って平景清の娘が辿り着いたという話は成立するかもしれません。しかし、地図上に社殿を崇める方角に向かって直線を引くと(画像4の黄線)、なんとそこには怪しげな構造物があるではないですか。

実はこれ、この一帯の住宅地に水道水を供給する湊坂展望公園の給水塔なのですが、その威容とも思える存在感が現地ではひと際目を惹くのです。その写真を以下に掲載しましょう。

画像5:湊坂展望公園の給水塔

ここで、画像4と画像5を見比べてください。台地から海側に突き出した円形の土地、その中央部に建てられたやはり円形の給水塔。住宅地に給水塔があっても不思議ではないのですが、私が問題視するのは、どうしてこんな目立つところ、玄界灘を一望する好立地にわざわざ殺風景な給水塔を建てたのか言う点、そして、最も気になるのが、人丸神社の拝殿がまるでこの給水塔を拝むように配置されている点なのです。

ここまで気付いたところで、早速この給水塔のある湊坂展望公園へと足を向けたのは言うまでもありません。

画像6:湊坂展望公園からの展望
(上)福津方面、(下)が新宮港と相島方面

画像6はそこからの展望なのですが、この位置から北に広がる玄界灘が一面に見渡せるのがお分かりになるかと思います。同時に、この位置は海上のどこからも良く見える場所にあると言い換えることもできます。

さて、このパターンどこかで既に一度説明しませんでしたでしょうか?そうです、前回の「占領された福岡」で紹介した、舞松原古墳のケースとそっくりなのです。

 舞松原古墳
  立地: 博多湾を一望できる高台
  特徴: 香椎浜の鳥居が向けられている
  被葬者:皇位継承者か皇子クラス

 湊坂展望公園(給水塔)
  立地:博多湾の東側、玄界灘を一望できる高台
  特徴:人丸神社の拝殿が向けられている

以上の比較から、私はこう結論を出しました

 湊坂展望公園は古墳跡であり、被葬者は相当高貴な人物である

そして、読者の皆さんはほとんどご存知ないかと思いますが、封印術の術式の中には

 水棺(すいかん)

という方法があり、これは対象者の霊を池に沈める、海に沈めるなど水の底に葬り去るという呪いの形態を取るのです。

現代呪術の様式ではそれを人工建造物、例えばダムや給水塔・給水タンクで代用しているパターンが良く見られるのですが、この湊坂展望公園の場合はまさに給水塔を封印術に使用している典型的な例と言うことができるでしょう。

そして、これが現代呪術の一形態であることを裏付けるようなアイテムが、給水塔から少し下った所にある湊坂中央公園に置かれていたのを見て、私はこの推測はほぼ間違いないだろうことを確信したのです。

画像7:湊坂中央公園に置かれていたエジプト壁画風プランター
男たちが頭の上に支えているものは何か?
画像8:葬列を描いたエジプト壁画

さて、よく晴れ渡った青空の下、この古墳跡ではないかと思われる公園から美しい玄界灘を眺めていると、空の様子が段々怪しくなってきました。

別に天気が悪くなっという訳ではありません、気付いたら上空にヘリコプターが3,4機旋回するようになり、そのエンジン音がさすがに耳障りになってきたのです。

(色々な意味で)そろそろここも引き上げと観念し、その場を離れたのは言うまでもありません。

■考察:占領された福岡

実はこの後に、またもや現代呪術の至高とも言える作品を発見するのですが、それまでここに書くともはや歴史ブログでなくなってしまうので、そちらは割愛させていただきます(メルマガでお知らせします)。

さて、前節の給水塔は新宮町の湊坂という地名の場所にあるのですが、実はそのすぐ南側に市境があり、そこからは福岡市東区の「美和台」(ミワダイ)という地名が付けられています。

「美和」は「三輪」であり、また「三諸」(ミモロ)でもあります。つまり一般に言う出雲族の土地に付けられる地名であり、その予想に違うことなく、美和台には大国主を主祭神とする「大神神社」(オオミワ神社)が存在します。

ここまでの記述を箇条書きに並べると次の様になります。

 (1)神功皇后伝承の残る「三苫」
 (2)新羅の言葉が残されている「和白」
 (3)新宮町湊坂の封印された古墳
 (4)封印古墳の南に広がる出雲族の痕跡

そして、私の歴史研究アドバイザーでもあるG氏は次を付け加えます

 (5)新宮の海岸は神功皇后の船団が軍事訓練を行った場所

この(5)については、海進期の地形を知らなければ具体的なイメージが湧かないでしょう。おそらく神功皇后の時代には福岡・新宮の地形は以下のようであったと思われます。

画像9:海進期の博多湾と新宮
赤◎は今回の推定古墳跡

この図から、古代期、現在の博多湾と新宮の低地はほぼ内海として繋がっていた可能性があるのです。

すると、北の湊坂、南の美和台・和白を見下ろす給水塔(推定古墳跡)は両湾を行き来する船の往来、また港の状況を監視するには最適の場所であり、同時に軍事戦略上の要であったことが窺い知れるのです。

つまり、福岡北岸に集結した古代日本軍を打ち負かすのならば、絶対に攻略しなければならない要所でもあった訳です。

これら5つの要素に、「太宰府に残る占領の印」で解説した日本軍敗北による九州占領の可能性を加味することで、次のようなストーリーが組み立てられます。

“神功皇后の三韓征伐の時代に、安曇族など出雲系海洋族によってその強さを誇った九州北岸の船団は、7世紀の白村江の戦いに敗れた後、唐・新羅連合軍によって福岡周辺の要衝を占領された。

その記録として残されているのが現福岡市の「和白」という地名であり、また、太宰府政庁内に建てられた「都督府」の石碑である。

舞松原の古墳、そして湊坂の(推定)古墳は、倭国古代王の霊力が再び発現されることがないよう、渡来した大陸の呪術師によって厳重に封印され、それは現在においてもなお続いている。”
最後の呪いの部分について、実は、今回掲載を割愛した現代呪術の痕跡からも全く同じ内容が窺えるのです。

農薬や食品添加物など毒性物質の大幅規制緩和、無意味なワクチン接種等々、まるで日本人が日本人自身を追い詰めるような政策が、ここ最近矢継ぎ早に施行されています。

どうしてこんなことが起こるのか?西洋の大国・大資本にその責を問う以前に、もしかしたら日本という国は長い間被占領国であったのではないか?その厳しい現実を私たちはそろそろ受け入れなければならないかもしれません。


ニッポンの夜明けはにほんの没落
管理人 日月土

占領された福岡

現地調査のため今年の10月に2度にわたって訪れた福岡。そのレポートも今回と次の2回でひとまず終了にしたいと思います。

これまで、堅苦しい古代史の話にお付き合い頂いている読者様ならもうお分かりの通り、私の歴史分析は学術的な文献や他の研究者の成果を大いに参考にしているのはもちろんですが、更にこれに「呪術」という観点を加えています。

「呪術」とは、古代に生きた人々にとっては現代人の科学と同等であり、私たちが科学的判断を以って物事を決定するように、古代人も呪術的知識を拠り所に諸事全般の判断していたと考えられるのです。

例えば、病気になれば祈祷師の呪術によってそれを治そうとしたり、揉め事が起きればやはり呪術によって相手を病気にしたり時には呪い殺したりなどしていたことでしょう。

その呪術が科学的か非科学的かという議論をここでするつもりはありませんが、少なくとも実効性があると信じられているからこそ、呪術は生き残っているのだと言うことはできます。

現代でも、京都などでは日によって通る道順を変えるなど、方位除けの習慣が町ぐるみで行われていると言います。これなどまさに、呪術が生活に根差している好例と言うことができるでしょう。

ですから、呪術の存在を無視して古代史を眺めても、遺物の造形の意味や当時の人々の思考や行動原理が分かるはずもないのです。

私は別に呪術師でもないし、専門にそれを学んだこともありませんが、幸いと言うか不幸というか、日本の古代呪術や仏教呪術について概要を知らざるを得ない状況にあったため、何となくどのような呪術的思想が物事の背後に隠れているのかを言い当てることくらいはできるようになりました。

その視点を生かして、123便事件など過去の事件や日々の時事報道などに呪術が埋め込まれているとの指摘を、これまで(新)ブログや(真)ブログで行ってきたのは、もうご存知かと思います。

このブログでは、まさに呪術が社会活動の中心だった古代を取り扱うのですが、非常に興味深い事実として、古代遺跡には呪術、それも「封印術」が掛けられているケースが多いこと、それも、ごく最近掛けられたと思われるものが多く見られる点が挙げられます。それはそうでしょう、呪術の有効性には期限があり、誰かがその術式をメンテナンスする必要があるのですから。

つまり、科学万能の現代においても、コツコツと呪術を実践し過去の術式を継承している人々、あるいは集団があるということなのです。

福岡市民の方々にはたいへん申し訳ないのですが、福岡は私が「悪魔タウン」と呼ぶくらい、街の至る所で呪術的記号に欠くことのない特殊な都市です。その悪魔ぶりは、京都のそれともまた異質であり、遺跡の多さと相まって、私にとっては興味が尽きない魅力的な調査対象となっています。

 関連記事:歴史を隠したい福岡 

前置きが長くなりましたが、今回はその福岡の「悪魔タウン」らしさを、遺跡と共に例を挙げてお伝えしようかと思います。

■香椎浜の鳥居

福岡市内の古刹で有名なものに、筥崎(はこざき)宮と香椎(かしい)宮があります。筥崎宮の主祭神は
 
 応神天皇、神功皇后、玉依姫

また、香椎宮の主祭神は

 仲哀天皇、神功皇后

となっています。福岡は古史に言うところの三韓征伐出立の土地ですから、必然的にその主役である神功皇后を祀るお宮が多いのも頷けます。神功皇后の夫である第十四代仲哀天皇の時代ははっきりしていませんが、一般に3世紀末から4世紀半ばくらいまでではないかと推定されています。

画像1:筥崎宮(左)と香椎宮(右)
画像2:両宮の地理的位置

画像2の地図をご覧になれば分かるように、どちらのお宮も福岡市の東寄りの市街地、それも博多湾の近くにあるのが分かります。昔は埋め立てもなく、海岸線も内陸側にあったと考えられるので、創建当時はまさに船着き場のすぐそばにお宮があったのでしょう。

このように、福岡の歴史は海や海運と切り離せない関係性が認められるのです。それを象徴するすよう、筥崎宮の場合は海に向かって参道が伸び、浜には鳥居が建てられています。

画像3:箱崎宮の浜之鳥居

同じように、香椎宮の海側にも香椎浜があり、そこには海上に露出した岩に祠が設置されれ、鳥居が建てられているのです。

画像4:香椎浜の祠と鳥居
後には今年閉園した香椎花園のアトラクションが映っている

実は、筥崎宮と香椎宮のどちらにも過去数回訪れたことがあるのですが、今回の調査の注目点は、これまでほとんど注目することのなかったこの香椎浜の鳥居だったのです。

この、博多湾の奥に位置する香椎浜は、沖合が埋め立てられ「福岡アイランドシティ」という広大な新市街地が作られています。SoftBank社が運営するサイバー大学のキャンパスもこの中に建てられています。

そんな状況ですから、古代の面影を想像させる要素はほとんど失われ、コンクリートで固められた護岸と上方を走る高架道路、そして高層マンションが林立する、いたって現代的な街並みしかそこに見出せません。

そんな中に、ポツリと海上から姿を見せる古びた祠が、どこかアンバランスな印象を与えていたのです。

■公園に配置された石

さて、香椎浜の海に面する護岸はすっかり整備され、そこにはきれいな公園と散策路が作られていました。

この場所から海の祠と鳥居を観察したのですが、ここで少しおかしなことに気付いたのです。筥崎宮の例から類推すると、この浜は香椎宮に向けて開かれた浜辺であり、当然鳥居の向きも香椎宮の方を向いていると思われたのですが、地図を広げて方角を確認すると、どうやら香椎宮とは別の方角、お宮よりも西側の方角を指しているようなのです。

そこで、その方向に何があるのか、公園内を鳥居の向く方へ歩いたところ、ちょうどその直線上に大きな石が置かれていることに気付いたのです。そしてその石の周囲には、同じくらいの大きさの石が間隔を開けて配置されていたのです。

画像5:鳥居の向く方向と公園の石
石に刻まれたデザインに注目
画像6:それぞれ間隔を空けて配置された石

これについては(真)ブログ記事「歴史を隠したい福岡」で一度触れていますが、石を用いた封印術の一つで、それも「神封じ」を目的としたものなのです。正式な術名もあったと思いますが、残念ながら失念してしまいました。私は個人的に「八つ裂き封印」と呼んでいます。それは、神霊の身体をバラバラに刻んだ上、それぞれの部位を石毎に封印して身動きを取れなくするという、この術式のコンセプトから命名したものです。

実はこの呪術、全国のダムなどでほぼ確実に見ることができます。

画像7:有間ダム(埼玉県)
画像8:下久保ダム(群馬県、埼玉県)

これだけ見ると、そもそもダムの整備基準がそうなってるだけじゃないのかと思われるかもしれません。確かに、山間の風景に溶け込むように美観を重視した作りと言えなくもありません。しかし、次の写真を見たらどうでしょうか?

画像9:鳴淵ダム(福岡県)

殺風景なダムの砂防施設に、どうして大きな石を等間隔に並べる必要があるのでしょうか?

実は、ダム建設のように山を削り谷を埋めるような、大きな自然破壊を伴う土木は、山神の祟りがあると考えられているのです。祟りに遭わず開発を進めるにはどうしたらよいのか、その解決策として帰結したのが

 祟り神そのものを封印してしまう

という方法論なのです。これは、家を建てる前に地鎮祭を行うのとよく似ていますが、この場合の呪術は、神霊に恭しくお伺いを立てるのではなく、神霊そのものの働きを封じ自分の勝手を押し通そうとする点で極めて悪辣なのです。

鉱山開発などの場合も、専属の呪術師が事前に山神封じを行うことで、開発が可能になると信じられているのです。しかも、このような神封じが時には神社の中で行われており、これが世に言う「神国日本」の本当の姿であることを、読者の皆様には知っていただきたいのです。

話がだいぶ逸れましたが、そもそも、鳥居とは神を閉じ込める封印のシンボルであり、その存在自体が初めから禍々しいのですが、香椎浜の場合、鳥居が向く方向にかなり強力な呪術が使われていることが判明したので、ここから、その方向には表に出てきて欲しくない、何か重要な歴史的遺物があるのだろうと類推することができるのです。

 関連記事:今日も鳥居で神封じ   

■鳥居が指すもの

さて、鳥居の指す方向に何があるのか、それを地図上に落として分析したのが以下の図です。

画像10:鳥居が指す方向

黄色の線が鳥居の向く方角を表しているのですが、赤枠で囲んだ香椎宮を大きく外れていることが分かります。

この辺は広く市街地が続く場所なので、他にこれといったランドマークは見当たらないのですが、唯一、緑枠で囲んだ一帯が裾野からややきつい傾斜の丘陵地となっており、その頂上付近が松香団地公園なる緑地として残されています。こういう地形は福岡市内で多く見られるものです。

黄線はこの丘陵地をかすめていますが、この傾斜地には県営団地や小学校など公共用地が広く確保されていることから、それが土地の保全を目的とする別の意図を含むものとも考えられ、実際に松香団地公園内には舞松原古墳と言う古墳が残されています。

おそらく、この丘陵地の下には大規模な古代遺跡群が眠っていて、先ほどの鳥居もこの一帯を狙った封印術であると考えれば色々と辻褄が合います。そこで私は、香椎浜から急ぎ舞松原古墳へと向かったのです。

画像11:舞松原古墳

上の写真は、現地で撮影した古墳の全景です。全長約37m、高さ4m程度の中型の帆立貝式古墳で、4世紀終わり頃のものでないかと考えられているようです。

知人の歴史研究家G氏によると、埋蔵品はいくつか見つかっているものの、盗掘されているのは明らかで、被葬者の権威なり地位を表す重要なものは既に無く、ここに誰が葬られているのかは不明だと言うことです。

 外部参考ページ:福岡市の文化財 

福岡市の説明板では「地域の首長」という、要するに「土地の偉い人」という説明にもなっていない説明が適当に記述されているのみですが、遺物が喪失している状況ではそれも仕方がないかもしれません。

そこで、ここで地形と祭祀・呪術的形式からこの被葬者がどのような地位の人物であったかをざっくりと推測してみます。

松香団地公園内は木が生い茂り、もはや高台からの展望はほとんど望めないのですが、古墳への上り道から撮った写真(画像12)を見ると、この地が周囲を見渡す、特に博多湾の海上を見渡すことのできる好地にあることが分かります。

画像12:松香団地公園から千早方面を撮影。その向こうに博多湾も見える

これは、海上交通を主としていた古代期においては非常に重要なことで、船の行き来を監視する見晴台として最適であるだけでなく、船からの目印としてもなくてはならないものです。

そのような誰もが仰ぎ見る重要な場所に、「土地の偉い人」レベルの小役人が埋葬されるのだろうかという疑問が生じます。そしてもっと大事な事実は、仲哀天皇の祀られている香椎宮がこの丘陵の東側の裾野に位置するということ、つまり、この古墳の被葬者を仲哀天皇が仰ぎ見ているという形がここに出来ているという事実です。

ここから推測されるのは、この古墳の被葬者がただの「偉い人」レベルの人物ではなく、天皇という日本の王が仰ぎ見るという位置付けから、仲哀天皇より前の時代に皇位にあった人物、あるいはその皇子など高貴な存在であった可能性が高いのです。

しかも、この古墳は円墳に「造り出し」という祭場がわざわざ設けられていることから、祭祀・呪術においても極めて重要な場所であったと考えられるのです。そして、現代においても香椎浜にあれだけ強力な神封じが掛けられていたことを考え併せると、呪術世界の常識として、ここには天皇クラスの被葬者が居たと考えざるを得ないのです。

歴史資料および以上の考察から、この古墳の被葬者が誰であるのか大体当たりが付いたのですが、まだ決定的とは言えないのでここには書きません。しかも、この仮説が成立するには、7世紀位までは九州に王朝があったという、いわゆる「九州王朝説」の正しいことが前提となるのです。

なぜここまで強い封印が掛けられているのか?その疑問こそが「太宰府に残る占領の印」で言及した、外国軍による福岡・太宰府占領を示す一つの証左になると考えたからです。つまりは、「第2次大戦の敗戦まで日本は一度も侵略されたことがない神の国」という歴史観自体が、侵略者によって後から創作された「神話ファンタジー」でしかなかったということになるのです。

 * * *

本来ならば、歴史の調査を謳うのであれば、謎の多い仲哀天皇、そしてその皇后である神功皇后についてもっと深く掘り下げるべきなのでしょうが、その歴史的所縁の地が現在どのような状況になっているのか、それを知っていただくために、敢えて「呪術的見地」による見解をここに記した次第です。

香椎宮三苫浮べし甕水に君の面影何を語るか
管理人 日月土

富士の高嶺と七支刀(2)

今回の記事は前回の「富士の高嶺と七支刀」の続きとなります。ここでは前回書けなかったタイトルにもある「七支刀」に触れてみようと思います。

山部赤人が歌を詠んだ場所と推測される福岡県みやま市高田町田浦については既にお伝えした通りですが、そこを訪れる前に、みやま市内の気になる神社を何箇所か訪ねてみたのです。

みやま市は福岡県南部に位置し、熊本県南関町に隣接します。その人口は3万6千人で人口150万人を有する大都市の福岡市に比べれば筑紫平野に田園が広がり、人影もまばらな実にのんびりした田舎街です(失礼)。古代遺跡類の宝庫とも言える玄界灘沿岸の福岡市、糸島市、太宰府市などに比べれば、言葉は悪いですが歴史的遺構など「何もない」ように見えてしまうことでしょう。

画像1:みやま市の地理的位置
画像2:みやま市の風景

実はここには、古代史上の謎の一つでもある「神籠石」(こうごいし)が築かれ、みやま市のそれは「女山神籠石」(ぞやまこうごいし)と呼ばれています。

女山神籠石についてはWikiに次のように書かれています。

女山城は文献上に記載のない城であるため、城名・築城時期・性格等は明らかでない。天智天皇2年(663年)の白村江の戦い頃の朝鮮半島での政治的緊張が高まった時期には、九州地方北部・瀬戸内地方・近畿地方において古代山城の築城が見られており、女山城もその1つに比定される。
1981年(昭和56年)の第4次調査によれば、築城時期は7世紀後半頃と推定される。城に関する伝承は知られていないが、かつては邪馬台国の卑弥呼の居地とする説などが挙げられていた。なお、城域内では築城に先立つ6世紀後半頃に山内古墳群が築造されているほか、女山中腹では銅矛2本の出土も知られる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%B1%A0%E7%9F%B3

要するに、古代期に造営された山城の石積みの遺構、それを神籠石と呼ぶのですが、同じ福岡県の糸島市や久留米市にもそれが残されています。

古代山城が築かれていたという点で、この一帯が古代期の重要拠点であることが容易に想像されるのですが、今回の調査ではぜひそれを確認したいという思いがあったのです。

ところが、残念なことに、当日は土砂崩れで現場への山道が塞がれており、神籠石の調査は断念せざるを得ませんでした。

画像3:通行止めになっていた女山神籠石への山道

しかし、それでもみやま市の隠れた見所は田浦地区をはじめ他にも色々と見つけることができ、今回はその中の幾つかをご紹介したいと思います。

■立派だが寂れた神社

太宰府天満宮があることより、九州北部では天満宮や菅原神社なる名前の神社をよく見かけますが、その天満宮系の神社として「老松宮」(おいまつみや)もまたポピュラーな神社です。

どこから調査の手を付けるか、その手始めとして女山神籠石に近いみやま市瀬高町の老松宮に寄ってみました。

画像4:瀬高町の老松宮

上の写真を見ると分かるように、本殿は最近改築されたらしく比較的きれいなのですが、その他の摂社や作りの立派な楼門はもうボロボロで、外観を維持するための人手がとにかく足りていないのがありありと分かります。

これはここに限ったことではなく、地方の小神社ではこのように荒れたところを多く見ます。人口減と都会への一極集中で、この先どうなるのかたいへん心配なところではあります。

画像5:立派な造りだがかなり傷んでいる楼門

この老松宮、一見何の変哲もない田舎の神社のように見えますが、とにかく敷地が広く、立派な楼門が建てられていることから、古くはこの一帯の中心を成し、役所のような機能を果たしていたのではないかと窺われるのです。

前回の記事で、この辺りの田園が古代の海進期には海水で覆われていただろうと予想図を示しましたが、その様子は「瀬高」という地名からも推測することができます。

かつて海だったとはいっても、基本的には浅瀬で、海面から顔を出している陸地が海上に点在していた、いわゆる多島海を形成していたと考えられ、「瀬高」とは文字通り瀬の高い箇所、要するに陸地部分であったことを想像させるのです。

そこからさらに類推されるのは、ここがかつては船の立ち寄り場所で、今の言葉で言うなら港湾事務所のような役割を担っていただろうと考えられるのです。

山部赤人の歌に詠まれたように、古代の有明海では多くの人々、船が行き来していた、そう考えると、神籠石の存在も不相応に広い老松宮の存在もどこか納得できるのです。

■塚が壊されていた

さて、この老松宮なのですが、敷地の中に蜘蛛塚と呼ばれる小さな古墳が残っています。

画像6:蜘蛛塚-お地蔵さんの祠が据え付けられている

また、この蜘蛛塚には次のような由緒書きが残されています。

伝説によると景行天皇の西征の時に、この地に朝廷に従わない者がいましたので、天皇は之を征伐して首長を葬った所だとされています。また、一説に土蜘蛛の首長田油津媛(たぶらつひめ)の墓であるとも云います。この墳(つか)の南約18mの田の中に小墳があってこれも大塚といい、一緒の前方後円墳であったのが道路作りの時、二分されたものと伝わります。大正二年春、田の中の小墳を崩して新道が作られました。往時は女王塚と言っていましたが、後世にはばかって大塚(蜘蛛塚)に改めたと云います。

平成29年3月 みやま市教育委員会

さて、ここに出て来る田油津媛とは日本書紀の巻第九、神功皇后紀に次の様に書かれています。

丙申(ひのえさる)に、転(うつ)りまして山門県(やまとあがた)に至りて、則ち土蜘蛛田油津媛を誅(つみな)ふ。時に田油津媛が兄(いろね)夏羽、軍(いくさ)を興して迎え来(まう)く。然るに其の妹(いも)の誅(ころ)されたることを聞きて逃げぬ。

※岩波文庫「日本書紀」による読み下し文

ここに出てくる山門県とは、旧山門郡山川村付近、現在のみやま市東部の地域を指すと見られています。山門と書いて「やまと」と読みますから、この付近が卑弥呼の女王国である邪馬台国があったのではという説もあるようです。

卑弥呼、景行天皇、神功皇后、これらの登場人物は現代の我々から見れば比較的近い世代のように見えますが、それでもけして同時代人と言えるものではありません。各伝承の間にはそれなりの時間的なギャップがあるのです。

伝承はあくまでも伝承で、それについては何か確定的なことを言えませんが、ここにはかつてある程度の大きさの古墳(前方後円墳)があり、後にそれが崩されてしまったという由縁からは、その具体性故に真実味が感じられるのです。

しかしながら、古今、人の都合で古墳が荒らされたり崩されたりという話は別に珍しくもありませんが、農地が目の前広がるこの土地で、わざわざお宮の前の古墳を崩してまで道を通した理由がよく分からないのです。

その疑問への答になると思われるのが、老松宮の南西、道路向かいに建てられた仏教形式のお堂です。不思議なことに、このお堂と老松宮は正面が互いに向き合っているのです。

しかもこのお堂、管理者もいなければ、門に鍵が掛けられ敷地の中に入れません。まるで訪問者を避けているかのように、田んぼの中にポツンと建てられているのです。

画像7:道路を挟み老松宮と向き合うお堂

このようなかなり不自然な配置を見て私がまず思い付くのは

 これは呪術ではないのか?

という疑念です。そして、その他の人工物の配置等をつぶさに見るにことによって、老松宮に対して何か強い封印術が掛けられていると確信したのです。

その呪術がどのようなものであるのか、詳細については次のメルマガでお知らせしたいと思いますが、呪術形態から垣間見える執念の強度から、この土地によほど表に出てきて欲しくない何かがあることだけは分かったのです。

そして、ここからみやま市一帯がただの静かな農村ではなく、古代日本史の定説を書き換えてしまうほど、何か重要な歴史的痕跡が残る土地であろうと思いを強くしたのです。

■こうやの宮と七支刀

さて、いよいよ七支刀の話題に入るのですが、まずは次の写真を見て頂きたいと思います。

画像8:カラフルな神像

この色彩鮮やかな神像は、みやま市瀬高町太神字鬼木の水田が広がる一角にある「こうやの宮」に置かれているものです。

画像9:こうやの宮全景
集落の外れにあり、背後には田園が広がる

また、このお宮の説明板には次のように書かれています。

こうやの宮「七支刀を持つ神像」

ここ「こうやの宮」の祠の中に、ご神体として神像が五体祀られている。
その中の一つが「七支刀を持つ神像」で百済の官人といった風態であり、西方の死者に相当する。当主の祝典(即位など)に参じて持参した宝刀、それが七支刀である。現在、奈良市石上神宮にある神宝七支刀には名分が彫られ、献上の趣旨が刻まれ、各種の読みが成されている。(以下略)

この神像については、九州王朝説を唱える古田武彦氏による文献等に詳しいので、それに重複する説明はここでは省略させていただきます。また、多くの歴史研究家がこれについて良い記事を書かれているので、「こうやの宮、七支刀」などのキーワードでネット検索すれば、興味深いものを見つけることができるでしょう。

この七支刀については、こうやの宮の正式名「磯上物部神社」に「物部」の文字があることからか、同じく物部氏の系列である奈良県の石上神社(いそがみ)から出た七支刀と比較されることが一般的なようです。そして、日本書紀の記述から、七支刀そのものは朝鮮半島の百済から伝来してきたもではないかと考えらているようです。

要するに、七支刀は古代期における朝廷と朝鮮の関係を表すもののようなのですが、それはさておき、説明板にプリントされたこの神像の写真を見る限り、神像そのものはそれほど古い物のようには見えないのです。

神像が製作されたのは鎌倉時代ではないかという説もあるようですが、塗料の色が現在でもはっきりと残っていることなどから、古くてもせいぜい江戸時代後期くらいなのではと、私は見立てるのです。

知人で歴史研究家のG氏によると、どうやら江戸時代に派手な色彩を施した人形状の神像が流行ったと言います。大事な点は神像の製作時期がどうこうではなく、後世の作品であるにせよ、なぜこのような像を作ることになったのか、むしろそちらなのです。

このような細部に拘った像を作る以上、製作者が何か歴史的な記録を元にこれらの像を作り上げたのは容易に想像されます。その記録がどのようなものであったのか、私はそちらの方に強い興味を惹かれるのです。

■こうやの宮と向き合う鷹尾神社

さて、こうやの宮の七支刀の意味を考察するのはもちろん重要なことなのですが、せっかく足を運んでまで調査に来ているのですから、地形や他の神社との位置関係など現地でしか分からない情報を良く見ておかなければなりません。

画像1の地形図で示したように、みやま市は東と南に標高の低い山々が成す丘陵地帯、西には海進期には浅瀬かつ多島海であったと予想される平野部が広がっています。このような地形的条件はまさに、人が集まるのに適していると言え、その意味でここに邪馬台国があったとする説が存在してもそれほどおかしくはないのです。

また、こうやの宮の周囲にどのような神社があるのか、それをいくつか回ってみました。

画像10:こうやの宮周辺の神社
左から時計回りに樋口八幡神社、廣武宮(鉾楯の杜)、太神(おおが)宮、釣殿宮
画像11:こうやの宮と周辺の神社の位置関係

どれも深く調べれば何か出てきそうな神社ばかりなのですが、ここで私が一番気になったのが、天智天皇が立ち寄ったとされる鉾立なのです。天智天皇の名前がこの地に現れるということは、時代的に白村江の戦いの時期と重なり、ここで前回も記事でも指摘した「外国軍(唐・新羅連合軍)による太宰府占領(仮説)」と話が繋がってくるのです。

この他、こうやの宮からほぼ真西に位置する、福岡県柳川市の鷹尾神社は、前節の老松宮と同様に、何故かこうやの宮と正面が互いに向き合うように建てられているのです。

画像12:柳川市の鷹尾神社

古代期は共に多島海に浮かぶ島々の上にあり、海面を挟んで互いを視認できる距離にあったと考えられますが、現在残る社殿は当然古代のものなどではなく、後から建てられたものをどうして向き合わせる必要があったのか、そこに作為のあることを感じさせるのです。ここに前節で指摘したのと同じ呪術性が見て取れるのです。

鷹尾神社が何か呪術目的で建てられた神社であることは、敷地内に置かれた次の摂社を見ればよく分かります。

画像13:鷹尾神社内の子安神社
木の根元にご神体の石が敷かれている

画像13の写真をよく見て頂ければお分かりの通り、この摂社のご神体は横にねそべった大きな石であり、その形状から、それが先月の記事「再び天孫降臨の地へ(2)」でも触れた「支石墓」であることが分かります。

問題なのはこの大石が、八角形の石枠で囲まれていることであり、見る人が見ればこれがかなり強力な呪術、それが封印術であることが分かります。つまり、この支石墓の中に入っている古代人の霊的発動を非常に恐れていることが、この造形から読み取ることができるのです。

■まとめ

ここで、前回及び今回の記事で書いた話を箇条書きにまとめてみましょう。

 ・みやま市の平野部は古代の多島海
 ・市内の田浦が山部赤人が歌に詠んだ場所である(仮説)
 ・古代山城の痕跡である神籠石が存在している(女山神籠石)
 ・広い敷地と立派な楼門の神社と土蜘蛛族伝承(老松宮)
 ・蜘蛛塚及び古墳の不自然な取り崩しと封印術の痕跡(老松宮)
 ・百済を象徴する七支刀を持った神像(こうやの宮)
 ・白村江の戦いと天智天皇の伝承(廣武宮)
 ・朝鮮式ドルメンと封印術の痕跡(鷹尾神社)

ここからざっと読み取れるのは、この地が古代海上交通の要所で、海外の船も出入りし、時に要人が天皇クラスの人物と謁見する為にここを訪れた。とりわけ山城・七支刀・ドルメンなど朝鮮半島との繋がりが深く、西暦600年代の白村江の戦いとも関連している。

更に付け加えるなら、この土地の歴史的事実が表に出ることをひどく嫌う存在があり、現在でも封印系の呪術が行われている点が挙げられるでしょう。

私は、ここが邪馬台国の存在した場所と比定する根拠はまだ薄いと見ていますが、非常に重要な古代都市(みやこ)かその出先機関が、この地、それも東側の丘陵部にあったことは間違いないだろうと見ています。

これより深い情報を得るには、みやま市周辺の八女市・柳川市(福岡県側)、南関町・和水町・玉名市・山鹿市(熊本県側)をよく見る必要がありますが、これらの地を知ることで、今まで隠され続けてきた日本という国の本当の成り立ちが見えてくるのだと確信しています。

また、それを知らない限り、現代日本社会の諸問題・歪みがどこから生じてくるのかを正しく理解することなど到底叶わないことでしょう。


有明の海にみかける百島に君ある国の近しきを知る
管理人 日月土

富士の高嶺と七支刀

今回の記事も10月に行った福岡における調査レポートの続きとなります。

冒頭いきなりですが、次の和歌が今回の調査のテーマとなります。

 田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ
 富士の高嶺に 雪は降りつつ      
                    山部赤人

この和歌については、(真)ブログ記事「ラブライブ、忘れちゃいけない田子の浦」で一度話題に取り上げています。そこで書いた内容を要約すると次の様になります。

この和歌に出てくる「富士の高嶺」が現在私たちが認識している富士山を指しているのか、状況的に疑問な点がいくつかある。どこか別の地で読んだ歌なのではないか?

同記事にも書いていますが、そもそもこの歌が掲載されている万葉集と同時代(700年代)に編纂された日本書紀・古事記の両方に

 富士山の描写は一つもない

のです。

ですから、かなり突拍子もない説だと分かってはいますが、もしかしたら1000年以上前の同時代には、富士山そのものがなかった、あるいは現在の姿とは全く異なるものだったのではないかと論じたのが、過去記事「富士山は突然現れた」だったのです。

この奇説に基づいて冒頭の和歌がどこで詠まれたものなのかを考察した時、ヒントになったのが、次のこれまた有名な和歌だったのです。

 天の原 ふりさけ見れば 春日なる
 三笠の山に 出(い)でし月かも
         安倍仲麿

こちらについては(新)ブログ「三笠の山の月を詠む」で次の様に結論付けています。

この歌は、遣唐使として都(みやこ)のある大宰府から大陸へと向かった詠み人が、海上でふと都の方を振り返り、見慣れた御笠山(宝満山)から月が出ているのを見て、思わず郷愁にかられた心情を詠んだもの。

どういうことかと言うと、通説では奈良の地と考えられている「都(みやこ)」を、現在の太宰府に置き換えると、和歌に出てくる全ての地名、また地理的条件までピッタリと当てはまるのです。

この事実から、当時の都とは奈良ではなく九州、それも北部九州の太宰府にあったのではないかという、いわゆる九州王朝説を支持する証左が得られるのです。

今回は九州王朝説には深入りしませんが、当時(いわゆる奈良時代)の都が「太宰府」にあったとするなら、冒頭の歌の詠人である山部赤人も、太宰府を中心したその周辺地域が行動範囲であったと考えられるのです。

ですから、富士の高嶺は太宰府を中心としたその周辺にあるに違いない、私はそう予測したのです。

■九州の富士を探せ

富士という名前はポピュラーで、日本全国にその名が付けられています。富士山が見える関東地方ならば「富士見」という町名がどこにでもあることはご存知でしょう。

そこで、住所表記に「富士」の名が付けられている場所が何件あるかを調べたところ、北海道から九州までの29県にその名のあることが分かりました。そして、その中から上位10県を抜き出すと次の様になります。

画像1:「富士」が地名の地区件数

上位4県の内、静岡県は富士市があるように富士山のお膝元ですから数字が多いのは分かります。また、群馬県の場合は前橋市に合併した旧富士見村の名前がそのまま小地区名に残っているので、それで数字が増えているのが分かります。

また、北海道は歴史的に地名の付けられたのが新しいので、地名分析の対象とはしません。

そうなると、北部九州の佐賀県がなぜかダントツで富士の地名の多い県と言うことになってしまいます。

これには理由があり、先の群馬県のケースと同じように、佐賀県旧富士町が佐賀市に合併された後も、旧町名を小地区名に採用しているために数字が大きくなっているのです。

この検索結果から、さらに「富士見」や「○○富士」のような眺望や別の山、建物名や都市部の新地名を指しているものを取り除くと、九州地区では次の1件だけが「富士」を指す地名として残るのです

 佐賀県旧富士町(フジチョウ) ※現佐賀市富士町

実は、私は合併前にこの富士町を訪ねたことがあるのですが、その理由は、九州北部なのにも拘わらず、なんでこんなところに「富士神社」があるのかたいへん気になったからです。

画像2:佐賀の富士神社と周囲の風景 (C)Google

しかし、富士神社の由緒を調べると祭神は昭和10年(1935)に「富士権現」と「富士明神」の合祀とあり、村が誕生する前から「富士」の名がこの地にあったことを物語っているのです。おそらく「富士村」の名もこの神社の由緒から付けられたのではないかと想像されるのです。

「権現」(ごんげん)とか「明神」(みょうじん)は神仏習合の神の名で、修験道の名残が強く感じられます。ここから、中世期に富士山信仰の修験道者がこの地で何らしかの信仰を開いたとも考えられるのですが、そうだとしても、本州の富士山からこんなに遠く離れた場所で、富士山のスケール感など全く分からない土地の人々に富士山信仰を説いたとはちょっと考えにくいのです。

それを裏付けるかどうか分かりませんが、「富士」の名を冠する神社は九州では、

 ・長崎県南島原市の富士山神社
 ・福岡県福津市の富士白玉神社
 ・大分県武田氏の小富士神社

と限られています(他にあるかもしれません)。これらの神社と富士神社がどう関連するかはまだ調べが進んでないのでなんとも言えないのですが、同じく富士山信仰を象徴する浅間神社が九州では非常に少ない(なぜか長崎に多い)のを見ると、やはり違和感を覚えるのです。

話がだいぶ込み入ってしまいましたが、私が推測するのは、「富士」あるいは「ふじ」と呼ばれた古くからの呼称が、旧富士町(現在の佐賀市の北部山間地域)周辺にあったのではないかということです。

ラブライブ、忘れちゃいけない田子の浦」でも指摘したように、現在の富士山では雪が降り積もる様子を麓から眺めることなどできません。ですから冒頭の和歌で詠まれた「富士」とは、太宰府に近い九州北部にあった標高の低い山のことで、その富士なる山がどこであるかは、富士神社の所縁を調べることで見えてくるだろう、ひとまずこのように仮説を組み立てておきたいと思います。

■田子の浦とはどこか?

さて、冒頭の和歌に出てくる場所が次のように絞られたところで、次は「田子の浦」の場所特定に入ります。

  ・福岡県太宰府周辺
  ・佐賀県佐賀市旧富士町周辺

和歌本文の「浦」という字、「うちい出てみれば」を見れば分かるように、この地が海辺で船が着けられる内湾であることが見えてきます。

アルプスに残る海地名の謎」でも解説したように、海や船にまつわる古い地名は比較的最近まで残っていることが分かっていますので、ここでも地名検索で、該当の地を割り出してみることにします。

「浦」が付く地名は山ほどありますのが、前節までで、佐賀県南部・福岡県南部・長崎県島原地方・熊本県北部など、有明海北部沿岸付近であろうとエリアがだいぶ絞られてきたので、地名の検索範囲をこのエリアに限定します。

その結果、得られた選択肢は次の様になります。

画像3:該当地域の「浦」を含む地名。赤は有力候補、黄は次候補

次に、歌が詠まれた当時はまだ海進期のなごりで海岸線が内陸まで入り込んでいたと仮定します。その上で、この候補地名をプロットすると下図のようになります。

画像4:富士の高嶺がどの方角に見えるのか

この図によると、熊本の浦田からは山が壁になって佐賀地方の山岳部は見えません。ところが、島原の浦田、あるいはみやま市の田浦からだと、佐賀方面の少し高い山なら船着き場から海の向こうに遥かに眺めることが可能です。

画像5:現地で佐賀方面を眺める
古代期、海岸線がこの辺まで来ていたのだろう
画像6:高台の突端に鎮座する田浦の老松宮
かつて行き来する船の見張り台だったのではないか

そうなると、地名の語感から、「田子の浦」とはこの2つに絞られてくるのですが、私が現地を訪れて得た結論はやはり、みやま市の「田浦」なのです。それは、みやま市の現地調査で得らえたその他の傍証から確信できるのですが、それについては次回述べることにいたしましょう。

ここでは、田浦の南に道を辿ると、過去記事「トンカラリン-熊本調査報告」でお知らせした、熊本県和水町(なごみ)の江田船山古墳群、そして謎多きトンカラリンに至ることを指摘しておきます。

和歌が詠まれたのは古墳時代は既に過ぎている頃ですが、この古墳群が示す古代国家と太宰府の間に、もしかしたら陸海併用の連絡ルートがあったのかもしれない、そして山部赤人は九州王朝の役人として、熊本玉名方面での務めを果たしたその帰り道に、都が近いことを示す「富士の山」を見てこの歌を詠んだのかもしれないのです。

今回、タイトルに居れた七支刀が出てきませんでしたが、それについても次回触れることにします。


日子の宮遥かに望む有明の海
管理人 日月土

太宰府に残る占領の印

今回の記事は、10月に向かった下記福岡調査レポートの続編となります。

 これまでのレポート:
  ・再び天孫降臨の地へ 
  ・再び天孫降臨の地へ(2) 

糸島の重要歴史スポットを幾つか巡って地元の宿に一泊した後、日程が限られていることもあり、翌日は福岡調査では絶対に外せない重要ポイントである太宰府へ向かいました。

画像1:宿の前の通りからは、前回の記事で話題にした「可也山」(かやさん)が見える

■糸島の芥屋の大門

太宰府に向かう前に、歴史というより観光スポットと呼ぶのが相応しい、糸島の西端にある「芥屋の大門」(けやのおおと)を訪ねてみました。ここは、岬の先端から内陸に向けて、奥行き90mの洞穴が続いているという珍しい場所です。

公式ホームページによると、玄武洞の中では国内最大級であるとか。以前何度かここを訪れたことがありますが、その時は地上から岬の突端を眺めただけで実際に洞穴の開口部を見た訳ではありません。

今回はこれまでと趣向を変えて、近くの漁港から遊覧船に乗り、海上からその景色を眺めてみることにしたのです。

画像2:芥屋の大門の位置
画像3:海上から見た芥屋の大門の全景

条件が整えば小型遊覧船が洞穴の中まで入るということですが、当日は晴天に恵まれたものの、海のうねりが大きく、残念ながら開口部から少し離れての見学となりました。しかし、それでも玄界灘に向けてぽっかりと開いた大きな穴の迫力は見る物を惹き付けます。

古代の人々は、海を渡って糸島と行き来した時、この岬をどのような思いで通り過ぎていたのか、思わず想像が膨らみます。

画像4:船上から撮影した開口部

実は、何枚か撮った開口部の写真の1枚に、およそ尋常でないものが写り込んでいました。いわゆる心霊写真と呼ばれるものに近いのですが、それを掲載するのはこのブログの主旨ではないのでやめておきました。

少しだけ説明するなら、それは古代から現在に至る何か呪術的なものに関係するようなのですが、これを歴史の流れの中で説明するには方法論的に逸脱していますし、それに関する予備知識がなければ、おそらく何を語ってもチンプンカンプンな話となるでしょう。

しかし、記紀などを読めば分かるように、古代人にとって御神託や祈祷というのは実学であると同時に日常生活の一部であり、現代科学を拠り所としてそれを迷信と決め付けては、古代人の当時の思考を推し量ることなどできないと私は考えます。

写真に写ってしまったこと自体は紛うことなき事実なので、実際に私はそれを歴史分析の対象に加えています。今回ここでお見せできない写真から分かったことは、芥屋の大門には有能な呪術集団が関わっているということです。

ここに、歴史の表に現れることのない仏教・神道・その他による呪術的側面が観測できるのですが、これ以上書くとオカルトブログになってしまうのでこの辺でやめておきましょう。もしもこの話が気になるという方は、ぜひその目で芥屋の大門を確認していただき、私の意図するものが何であるのかをご理解いただければ嬉しいです。

画像5:芥屋の大門の麓にある太祖神社
後の山は古くは高天原と呼ばれ洞穴へと続く。ここには海神族と月信仰の痕跡が見られる

■水城

さて、糸島から福岡市内を経由して太宰府市街に入る手前、道路を分断するかのように長く続く土手、「水城」(みずき)と呼ばれる古代遺跡が目に入り、まずはそこに寄ってみました。

水城とはWikiには次の様にあります。

白村江の敗戦後、倭国には唐・新羅軍侵攻の脅威があり、防衛体制の整備が急務であった。天智天皇三年(664年)の唐使来朝は、倭国の警戒を強めさせた。この年、倭国は辺境防衛の防人(さきもり)、情報伝達システムの烽(とぶひ)を対馬島・壱岐島・筑紫国などに配備した。そして、敗戦の翌年に筑紫国に水城を築く。また、その翌年に筑紫国に大野城が築かれた。ともに大宰府の防衛のためである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/水城
画像6:水城とその他の史跡の位置関係
画像7:水城

今では、住宅や田園に覆われていますが、かつては堤の前(博多側)に敵侵入防止のため、水が張られていたと言います。

また、水城が建設される前はここを流れる御笠川と現在の筑紫側が水路で結ばれ、博多湾と有明海は船で移動できたであろうと言われています。

なるほど、それならば太宰府は両海を結ぶ水路の途中にあり、九州北部と南部を行き来する人や物資の流通において最適の場所であったと考えられます。

画像8:古代、博多湾と有明海は水路で繋がっていた

さて、一般的にはWikiの説明にあるように、白村江の闘いに敗れた天智天皇が、唐・新羅軍の国内侵攻を防ぐために造営されたと言われてますが、この説には異論もあるようです。それについては次に述べましょう。

■都督府の石碑

太宰府と言えば、学問の神「菅原道真」が祀られている太宰府天満宮を思い浮かべる方は多いでしょう。修学旅行や合格祈願にここを訪れたという方も多いのではないかと思います。

しかし、当日は時間があまりないこともあり、私は太宰府天満宮には寄らず、以前から注目している場所、都府楼(とふろう)近くの政庁跡に向かったのです。

画像9:太宰府政庁跡 (C)太宰府観光協会

現在の年号「令和」も今年で3年、もうすぐ4年になろうとしていますが、「令和」の名の元となった万葉集に詠まれた花見の宴は、この政庁跡のすぐ近く、大宰帥(だざいのそち:大宰府政庁長官)大伴旅人の邸宅があったと言われる、現在の坂本八幡宮近辺で催されたのではないかとされています(確定ではない)。その意味では、この太宰府政庁跡は現在の日本に生きる私たちにとっても所縁深き場所と言えるでしょう。

歴史好きの方ならば、かつて太宰府が大陸交易の中心であり、外交の拠点として政庁が作られたと覚えておられるかもしれません。

現在の政庁跡には奈良時代の礎石が残されていますが、実は、その下にも更に古い遺構があると言われているのです。しかし、それより古い年代の地層は調査されておらず、政庁の来歴は一般的に知られているものより更に古い、上代(神武以前)、上古代期(神武以後)まで遡れる可能性があるのです(あくまで推測です)。

太宰府及びその周辺地域に関して調べる対象はあまりに多いので、今回はこの政庁跡にある一つの石碑に注目します。

画像10:政庁跡に残る都督府(ととくふ)の碑

この石碑は明治の頃、政庁跡の発掘調査時に建てられたそうなのですが、実はこの「都督府」という言葉が刻まれたことに深い意味がある、それを後で知人で歴史研究家のG氏に教わりました。

この都督府、Wikiペディア「都護府」の唐代の項には次の様にあります。

朝鮮半島
・熊津都督府…顕慶5年(660年)、百済を滅ぼしその旧域に設置。
・鶏林州都督府…龍朔3年(663年)4月、新羅の版図に設置。新羅王の文武王を鶏林州大都督に任命。
・安東都護府…総章元年(668年)9月、高句麗を滅ぼして平壌に設置。朝鮮北部および満州を支配。上元3年(676年)2月に新羅、高句麗遺民との抗争に敗退して遼陽へ後退。儀鳳2年(677年)、新城に移転。697年には大祚栄との抗争の影響で廃止されたが、神龍元年(705年)に大祚栄との和解により再び設置された。しかし、安史の乱の際に再び廃された。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/都護府

要するに、「都護府」・「都督府」とは、当時の唐が侵略占領した各地に置く占領機関の拠点に付けた名称だと考えられるのです。

この辺の解釈について、「南船北馬のブログ」さんは非常に的確な指摘をされています。

都督府とは何なのか? 『日本書紀』は六六三年の白村江敗戦後の六六六年、天智紀六年の閏十一月の記事に、唯一、それはこう登場する。

「十一月の丁巳の朔乙丑に、百済鎮将劉仁願、熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聡等を遣して、大山下境部連意志積等を筑紫都督府に送る」とある。
それを岩波『日本書紀』の注は、「筑紫大宰府を指す。原史料にあった修飾が残ったもの。」とし、九州王朝説の古田武彦は倭の五王が中国南朝から与えられた称号・都督に基づくとしてきた。

しかし、六六〇年に唐は百済を滅ぼすと、唐の占領機関として百済に熊津都督府を置き、さらに馬韓、東明、金漣、徳安にも配置し占領政策を徹底した。また六六八年,唐は高句麗を滅ぼすと、同じく安東都督府を置き占領政策を押し進めた。この間に、百済再興のために倭国は半島に軍を派遣し、六六三年に白村江の戦いで唐に敗れる。

それを『旧唐書』は四度戦い、「煙焔、天に漲り、海水、皆、赤し、賊衆、大いに潰ゆ。」と簡潔に倭軍の敗北を記す。唐に敗北した百済と高句麗に占領機関としての都督府が置かれたなら、その間の白村江で敗戦した倭国の首都・大宰府に置かれた筑紫都督府が、唐制の占領機関以外の何であるのか。先の『日本書紀』の一文は,百済の熊津の唐の占領機関から倭国の大宰府の唐の占領機関への派遣記事なのだ。

https://ameblo.jp/hokuba/entry-12174042062.html

つまり、こういうことです。663年の白村江の戦いで日本(倭国)軍は唐・新羅連合軍に敗北しただけでなく

九州北部に攻め込まれ占領された

と解釈することができるのです。

すると、前節の「水城」の項で述べたように、戦いに敗れた倭国軍が太宰府に最終防衛ラインを敷いて外国軍の侵入を防いだという定説とは全く矛盾する結論が導かれるのです。この説に従えば、水城とは占領軍によって攻略されたその残骸、あるいは占領軍の防塁として後から造営されたことになります。

また、もしも外国軍に占領されたならば、その後に日本の占領政策がどのように実施されたのか、何かその記録が残っていないとおかしいのですが、そのようなものを私も知りません。だからこそ、

 日本は一度も侵略を受けたことがない独立国

という、日本人として少し誇らしげな自負を覚えるのですが、ここで、占領軍の手によって「侵略の記録を国史から一切排除する」という「国史改竄計画」が、占領時から始まったと考えたらどうでしょうか?

この「国史改竄計画」の存在については、それこそが私のブログの主要テーマの一つだった訳ですが、もしかしたら、白村江の戦いこそが、日本国史改竄の大きなきっかけとなったことは十分に考えられるのです。

それは、

 633年 倭国軍唐に敗れる(九州北部占領される)
 712年 古事記編纂される(推定)
 720年 日本書紀編纂される(推定)

など、白村江の戦い以降に慌ただしく史書が整備された事実とも符合します。つまり、記紀とは正確な故事を記録に残すための書というよりも

 不都合な歴史(侵略の事実)を隠蔽するための書

である可能性が高いと考えられるのです。この視点に至った時、私が以前から指摘している

 ・上代の史実は敢えて神話ファンタジー化されている
 ・記紀は史実を暗号化によって伝えている

などが、占領下において何とか正確な史実を後代へ伝えようとした、当時の歴史家たちによる懸命の創意工夫であったとする予想に大きな根拠を与えるのです。

 
* * *

白村江の戦いによる倭国占領、そして史書から消えた占領の歴史。1300年前の侵略者はその後どうなったのか? 少なくとも、明治になって政庁跡にこれ見よがしに「都督府」の石碑が建立された事実から、その時まで占領政策が延々と続いてきたことが分かるのです。

もしかしたら、米国GHQによる第二次世界大戦後の日本占領などに私たち日本人は騒いでいる場合ではないのかもしれません。私たち日本人は古くから(緩やかな)被占領の民であったかもしれないのですから。


東風吹かば匂い起こせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ (菅原道真)
管理人 日月土

再び天孫降臨の地へ(2)

今回は前回の記事「再び天孫降臨の地へ」の続きとなります。実は前回の記事を書き上げてからまたしても調査のため福岡県に向かうこととなりました。個人的に縁の深い土地ではありますが、それ以上に古代史の秘密が凝縮された土地であり、これからも福岡詣では欠かせないだろうと予想しています。

さて、伊勢神宮とそっくりの櫻井神社を調査した後に私が向ったのは、支石墓(しせきぼ)で有名な、糸島市の志登(しと)周辺で、取り敢えず目標地点は志登神社に合わせました。

支石墓とはWikiペディアには次の様に説明されています。

支石墓(しせきぼ)は、ドルメンともいい、新石器時代から初期金属器時代にかけて、世界各地で見られる巨石墓の一種である。基礎となる支石を数個、埋葬地を囲うように並べ、その上に巨大な天井石を載せる形態をとる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%AF%E7%9F%B3%E5%A2%93

そして、ここ糸島の支石墓については、糸島市のホームページに志登支石墓群として次の様に説明されています。

この遺跡は糸島市北部の田園地帯、標高約3メートルの低地にある墓地群です。発掘調査は戦後間もない昭和28年(1953)に行われ、わが国における支石墓研究の貴重な1ページを飾ることとなった著名な遺跡です。

調査では、弥生早期から中期(約2500から2100年前)にかけての支石墓10基、甕棺墓8基などが発見されており、支石墓のうち4基が調査されました。支石墓とは遺体を埋葬した上に大きな上石を置くお墓です。元々は朝鮮半島によく見られるお墓ですが、弥生時代の始まった頃に日本にその作り方が伝えられました。上石は花崗岩や玄武岩を使用し、大きいものは長さ約200センチメートル、幅約150センチメートル、厚さ約60センチメートルにも及びます。埋葬施設は素掘りの穴(土壙)や木棺であったと考えられます。副葬品として6号支石墓から打製石鏃6点、8号支石墓から柳葉形磨製石鏃4点が出土しています。支石墓は弥生早期から前期(約2500から2200年前)に造られたと考えられます。

支石墓に副葬品が納められるのは非常に珍しく、特に柳葉形磨製石鏃の出土は朝鮮半島との交流を物語る貴重な資料です。

志登支石墓群から可也山を望む


https://www.city.itoshima.lg.jp/s033/010/020/010/110/130/shito-bogun.html

このページの写真に添えられたキャプションにも注目して頂きたいのですが、この背景に見える山は、糸島を象徴する山で、可也山(かやさん)と呼ばれています。

説明文には支石墓について「朝鮮半島によく見られるお墓ですが、弥生時代の始まった頃に日本にその作り方が伝えられました」とあります。ここで、山の名から朝鮮半島南部に存在したとされる伽耶国(かやこく)との関連性が気になります。もっとも、伽耶国の存在時期は3世紀から6世紀とされているので、時代的には糸島の支石墓が作られた時期とは合いませんが、伽耶国成立以前から長期に亘って糸島と朝鮮半島の間で行き来が続いていたことを連想させるのです。

ご存知のように、神話における天孫降臨の主人公である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)をモデルにして、アニメ映画「もののけ姫」の登場人物であるアシタカが描かれいるのですが、同じようにその母である栲幡千千姫(たくはたちちひめ)がカヤの名で同作品に登場します。

画像1:アシタカとカヤ

天孫降臨が現実の史実としていつ頃行われたのかは微妙なところですが、私の予想ではおそらく1~2世紀頃、時代的には志登に支石墓が作られたその後位で、伽耶国成立よりも前になるかと考えられます。

なぜアニメでは千千姫に「カヤ」という朝鮮を連想させる名前が付けられ、朝鮮様式の衣装をまとう姿でキャラクターがデザインされたのか、それが前から気になっていましたが、もしかしたら伽耶国と古代日本の関係を理解するヒントがここ糸島には残されているのかもしれません。

■志登神社は海の役所か?

実は7年前の2014年にも志登神社を訪れているのですが、その時は放火による火事で本殿が消失した直後であり、それはもう無残な姿でした。

今回の訪問はその時以来だったのですが、見事に再建されており、それを見てひとまず安心しました。

画像2:志登神社

さて、この志渡神社の周囲がどのようになっているのかを示したのが次の写真です。

画像3:志登神社前から周囲を見渡す(Googleより)

神社は四方を田んぼに囲まれ、見渡した向こうに背振の山々や可也山が見えるといった、非常に見通しの良い場所にあります。件の支石墓も、この田んぼの中に点在する小さな緑地として確認することができます。

何だかどこにでもある地方の神社のようですが、この神社のかつての役割は、支石墓が作られた海進期の頃の地形を知らないと見えてこないでしょう。

それは次の、当時の予想地形図を見るとはっきりするのです。

画像4:志登神社は海峡の中にあった
(☆は再建された志登神社、〇は三雲南小路遺跡)

現地に行くと分かるのですが、神社のある場所は周囲よりもわずかに標高が高い。同様にに支石墓のある場所もわずかに高いようです。これは、海進期において糸島が浅い海峡で分断されていた頃、ここが海峡の海面から僅かに顔を覗かせた中州のような小島であったことを思わせます。

おそらく、海峡に入ってきた小舟が船を寄せる場所だったのではないでしょうか。そして現在志登神社となっている場所は、海峡に入る船がその上陸許可を求める、関所のような海の役所的存在であったと考えられるのです。

ここに限らず、海辺にある神社とは、古くはお参りする場所と言うより行き交う船の目印であって、上陸や荷揚げに必要な手続きを行う、何か役所的な機能を担っていたと考えられるのです。現在は参道の灯篭に灯が入るのを見るのは稀ですが、かつては、夜間の灯台の如く、一晩中灯が灯されていたのではないでしょうか。

私の歴史アドバイザーであるG氏は、「志登」とは「七斗(しちと)」の変名であり、七斗とはその名の通り北斗七星を表す。そして北斗七星こそ操船を生業とする海神系民族にとっては航海における目印であり、それゆえ崇拝の対象でもあったのではないかと述べています。

■王墓と金印

志登神社を訪ねた後、私は糸島市の南寄り、背振の山々にも近い三雲へと向かいます。ここには3種の神器が出土した国内有数の王墓「三雲南小路遺跡(みくもみなみしょうじいせき)」があります(画像2を参照)。

画像5:三雲南小路遺跡

ここが何故王墓と呼ばれるかと言えば、それは出土品に剣・鏡・勾玉のいわゆる3種の神器が全て揃っているからです。この3種が揃って出土しているケースはこれまで調査された遺跡の中ではここを含めて確か数か所程度であると記憶しています。

すなわち、この遺跡の被葬者は、考古学上の分類でよくありがちな「地方豪族」で片付ける訳にはいかない身分の人物なのです。現地の案内板では「伊都国の王ではないか?」とされていますが、王墓の推定年代(約2000年前)からすると、ちょうど天孫降臨が行われた前後となるので、記紀の神代や、秀真伝のアマカミ時代にあたりに登場する人物の可能性も捨てきれないのです。

遺跡は埋め戻されて、現地を見ても田んぼの中の空地に案内板だけが立っている体なのですが、ここの見所はむしろそこから少し離れた所に鎮座する細石神社(さざれいしじんじゃ)なのではないかと私は考えています。

画像6:細石神社

この神社と王墓跡との位置関係は下図のようになっています。

画像7:細石神社と王墓の位置関係

上図をご覧になれば分かるように、この神社はまるで王墓を遥拝するかのように建てられているのです。ですから、ここはかなり古くからこの王墓と関係する場所であったと考えられるのですが、驚くのはこの神社にはあの有名な金印にまつわる伝承が残っているのです。

画像8:金印(福岡市博物館HPから)

金印を収蔵している福岡市博物館の説明には次の様にあります。

金印は江戸時代、博多湾に浮かぶ志賀島(しかのしま)で農作業中に偶然発見されました。その後、筑前藩主である黒田家に代々伝わり、1978年に福岡市に寄贈されました。
 金印に刻まれた「漢委奴国王」の五つ文字からは、漢の皇帝が委奴国王に与えた印であることが分かります。そして中国の歴史書『後漢書』には、建武中元二(57)年に、光武帝が倭奴国王に「印綬」を与えたことが書かれており、この「印」が志賀島で見つかった金印と考えられるのです。

http://museum.city.fukuoka.jp/gold/

ところがG氏が細石神社の宮司さんから直接聞いたという話によると

あの金印は元々細石神社の宝物として所蔵していたものだが、ある時、それを見たいという黒田藩主の要望に従い献上したところ、それ以来戻ってきていない。そして、志賀島で偶然発見されたという伝承と共に、黒田家から福岡市博物館に納められた。

ということらしいのです。これはおそらく、現皇室以外の王家が日本に存在したのではないかという史実を黒田家が恐れ、しばらくの間この金印の存在を隠匿した後に、金印の発見に直接関わっていないことを言い訳する理由として、このような志賀島発見譚を添えたのだろうと、G氏は推測します。

画像9:細石神社と金印発見場所の位置関係

糸島は一般的な解釈では、その地名から魏志倭人伝に登場する「伊都国」の地と考えられがちですが、王墓と細石神社の金印伝承から窺えるのは、この地が「伊都国」ではなくむしろ「奴国」だったのではないかということです。

少し話が逸れてしまいますが、邪馬台国論争の九州説が定まらない一番大きな理由とは、「伊都国」を勝手に「糸島」と解釈してしまっていることでないかと私は考えます。同じように末羅国(まつらこく)を現在の長崎県の松浦に同定していることも、その原因なのでしょう。

私が以前から繰り返し主張しているように、日本という国は古代から計画的に史実の改ざんを行っている節があるので、現在残る地名が本当に古代からのものかどうかは注意が必要なのです。

ですから、金印を巡り黒田家が本当に恐れたのは、現皇室以外の王の存在よりも、むしろ奴国の正確な所在が突き止められることだったのではないかとも考えられるのです。それならば、「王権の印綬が志賀島で偶然発見された」という冷静に考えれば作り話としか思えない発見譚が添えられた理由も見えてくるのです。

* * *

さて、以上の考察を続けてきて私の頭はますます混乱してきました。昨年の記事「天孫降臨と九州(2)」では、糸島こそが天孫降臨の現実の舞台なのではないかと仮説を提示しましたが、ここに来て、支石墓と伽耶を巡る朝鮮半島との関係、そして奴国と漢王朝(後漢)との関係性まで浮上してきてしまったのです。

現在の歴史学の定説に従い、これらを時代順に整理すると次のようになるかと思います。
 (1)支石墓の時代(朝鮮との行き来)
 (2)奴国王金印授受・天孫降臨
 (3)伽耶国誕生(朝鮮との行き来)
 (4)倭国大乱
 (5)邪馬台国時代(他に奴国、伊都国、末羅国等)

これを見ると、天孫降臨の推定時期と奴国王に金印を贈った後漢時代が重なってきますから、奴国王とはいわゆる現皇室の祖である天照(実在した男性王)と無関係だとは言い切れません。むしろ皇統関係者であると見るべきで、3種の神器が揃っていることが逆にそれを表しているとも考えられます。つまり、天孫降臨の地が糸島であったことを裏付ける補強材料となる可能性もあるのです。

頭がいっぱいになったところで、このトピックは取り敢えずここまでとし、次は福岡の重要歴史スポットである太宰府を見てみることにしたいと思います。


古の王可也の山見て何をか語らん
管理人 日月土

再び天孫降臨の地へ

先日、私が天孫降臨の地ではないかと推定する福岡県は糸島市を再び調査に行ってきました。その前は青森県の弘前市ですから、北から南へと私も随分と忙しく移動しているものだと、我ながら呆れてしまいます。

天孫降臨ついては昨年の次の記事で私の考えを述べています。

 ・天孫降臨と九州 
 ・天孫降臨と九州(2) 

また、天孫降臨神話の脇役として重要な位置を占める猿田彦について、実在しただろう天孫降臨出立の地を現在の千葉県東部沿岸地域と推定した上で、幾つか考えを示しています。

 ・天孫降臨とミヲの猿田彦 
 ・椿海とミヲの猿田彦 
 ・麻賀多神社と猿田彦 

ご存知のように、天孫降臨の主役となるのは日本神話における瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)ですが、アニメ映画「もののけ姫」に登場するアシタカがどうやらこの瓊瓊杵尊をモデルに描かれていることを突き止め、最近までアニメストーリーを元ネタに、歴史的事実を考察してきたのは、このブログの読者様ならあえて尋ねるまでもないかと思います。

 ・愛鷹山とアシタカ 
 ・もののけ姫と獣神たち 
 ・犬神モロと下照姫 
 ・下照姫を巡る史書の暗号 
 ・モロともののけ姫の考察 
 ・サンがもののけ姫である理由 
 ・もののけ姫 - アマテルカミへの呪い 
  (以上掲載順)

アニメの構造分析対象は「もののけ姫」から「千と千尋の神隠し」へと移り、ここでは、偶然なのか、あるいは関連があるのか、天孫降臨の出立推定地である千葉県東部地方が再びクローズアップされます。

 ・千と千尋の隠された神 
 ・千と千尋の隠された神(2) 
 ・千と千尋の隠された神(3) 
  (以上掲載順)

このように、天から神が降りて来て現在の天皇家の祖先となったとする天孫降臨神話は、日本書紀や古事記の記述がファンタジーから現実的な史実へと切り替わる重要なターニングポイントであり、日本の成り立ち、日本の国史を考える上でも極めて重要な一節であることが窺えます。

そのような重要史実であるからこそ、国民的アニメ映画の題材に使われたと考えられ、同時にこの史実を解明することで、神話化・ファンタジー化されてしまった、私が上代と呼ぶ、太古の日本社会がどのようなものであったのかが見えてくると期待されるのです。

天孫降臨のあった時代は、現代の歴史学的には弥生時代に入ったところ(紀元前百年前後)と推定されますが、前回の記事でも書いたように、縄文式の生活スタイルは関東・東北地方などには長く残ったとも考えられ、この時代は弥生式・縄文式の両文化が並立していたのではないかと私は見ています。また、そのような異文化同士が交流し統合し合う時代だからこそ、天孫降臨なる一種の冒険譚のような物語が作られ、同時に消えていった側の文化が神話という、架空の物語に置き換えられてしまったのではないかとも思えるのです。

さて、昨年の記事では地図上の分析が中心で、糸島という土地の雰囲気が伝わりにくかったかと思います。歴史スポット、また観光名所としても糸島の見所は幾つもあるのですが、ここではまず、私もたいへん気に入っている糸島の櫻井神社とその周辺についてレポートしたいと思います。

■九州の伊勢

画像1:夫婦岩

九州北部にお住いの方ならば、この写真を見てすぐにどこか分かるかと思います。しかし、他地域の方はもしかしたら、こちら(画像2)の方を連想してしまったのではないでしょうか?

画像2:夫婦岩

画像1は糸島市志摩桜井にある二見ヶ浦、そして画像2は伊勢市二見町にある全国にも知られた二見ヶ浦の夫婦岩なのです。

同じような形状の夫婦岩なら日本全国どこにでもありそうですが、「二見ヶ浦」という地名も同じですし、「志摩」という地名も、伊勢志摩で一括りされることの多い、三重県伊勢地方の地名に呼び名がそっくりです。また「桜井」という地名も、どことなく三重県の隣、奈良県の桜井市を想像してしまいますよね。

私も初めてここを訪ねた時、「何だここは、伊勢のコピーか?」と思ったものです。しかし、時に地名というものは深い意味付けをされている場合もありますから、糸島と伊勢に何か同じような意味が込められていたとするなら、それを象徴する地名が似たり同じになったりするのはそれほどおかしなことではありません。全国の県庁所在地、多くは旧藩政の城下町だった都市に、赤坂や千代田があるのと同じだと考えられるのです。

伊勢の二見ヶ浦の場合は、第11代垂仁天皇の皇女、倭姫(ヤマトヒメ)が景色の美しさに二度振り返ったとの伝承がありますが、果たしてそれが地名の本当の由来なのか定かではありません。おそらく、神事に絡む別の深い意味があったのではないかと想像されます。

さて、糸島の二見ヶ浦の場合は、砂浜に大きな石が意図的に置かれている、あるいはそこだけ岩場が残されているのが、次の画像3から見て取れます。

画像3:夫婦岩の周辺だけ岩場になっている

この岩場は一体何なのでしょうか。そこで、岩場から夫婦岩を眺めた画像1の写真から、両岩間にある空間を拡大してみました。

画像4:手前の大石の向こうに小呂島が見える

夫婦岩を覗くとその向こうに小呂島(おろじま)が見え、それが見える丁度その位置に大石が置かれているのが次の画像5でお分かりになると思います。つまりこの大石と小呂島を一直線に繋ぐと、うまく夫婦岩の間を通るように配置されているのです。

画像5:手前の大石の向こうに小呂島が見える

白い鳥居が最近になって建てられたのは明白で、二見ヶ浦で重要なのはむしろ小呂島を強く意識したこの大石なのでしょう。なぜ小呂島なのかと言えば、次の地図を見ればその意図が見えてきます。

小呂島は海上移動の中継地点

画像6を見ればお分かりになるように、小呂島は小さな島ですが、壱峻島、唐津、福津などからほぼ等距離の位置にあり、海上交通の要衝として極めて重要な位置にあることが分かります。古代、海上での移動が危険だった頃、こうした中継地点の存在は欠かせなかったはずです。

特に福岡は朝鮮半島や大陸との窓口でしたから、ここを行き交う船は小呂島を経て壹岐、対馬、朝鮮半島、あるいはその逆を進んでいたと考えられます。その大切な小呂島を見守り航海の安全を祈願するのが、もしかしたらこの二見ヶ浦に持たされた役割だったのではないでしょうか?

これは蛇足かもしれませんが、画像6の地図に能古島(のこのしま)の位置を入れておきましたが、小呂島と能古島の両島名を合わせると

  おろ+ノコ → おノコろ

となるのが分かります。おのころ島とは、日本の国生み神話で、イザナギとイザナミの二神が最初に作ったとされている島のことです。二見ヶ浦の夫婦岩にはそのイザナギ・イザナミ神が祀られています。そして能古島には、イザナギ石・イザナミ石というちょっと風変わりな石積みが残されており、こうなると島名の関連性を単なる言葉遊びで片付けてよいのか気になるところであります。この話は長くなりそうなので、別の機会に考察することにしましょう。

■伊勢神宮を思わせる櫻井神社

福岡のパワースポットとして、福岡県人には良く知られた櫻井神社。この神社は二見ヶ浦のすぐ裏手の小山の上に鎮座しています。この神社の入り口から鳥居の奥を見ると次の写真のようになっています。

画像7:櫻井神社の入り口正面

鳥居を抜けたすぐ先には石造りの太鼓橋が掛かっており、画像7ではその先が橋に隠れて見えません。それでは橋を越えて真っすぐ石畳の参道を進めばそこが櫻井神社なのかというと、実はそうではないのです。参道の行き着く先、その末端にあるのは、

 猿田彦神社

なのです。

画像8:猿田彦神社。参道はここに向かっている
裏手も古墳か?

そもそも櫻井神社は江戸時代初期の1632年、二代目福岡藩主の黒田忠之(くろだただゆき)によって造営されたとその由来に書かれています。造営のきっかけとなったのは、天災によって土が流され、古墳の石室が現れことに始まります。それを藩主の黒田氏が社殿を建て丁重に祀ったことで現在に至っています。

その辺の詳しい云われは猫間障子さんのブログに詳しいので、そちらにお任せしますが、旧号で與止姫大明神(よどひめだいみょうじん)と呼ばれた櫻井神社の歴史は、比較的新しいと言えるでしょう。もちろん信仰の元となった古墳そのものは当然古墳時代のものであるでしょうけども。

よって正面入り口と参道、社殿の位置関係から、櫻井神社の本来の信仰対象はこの猿田彦神社でなかったのかと推測されるのですが、そのような事実は同社のホームページを見ても書かれていません。ここで櫻井神社の社殿の配置を図に表すと画像9のようになります。

画像9:櫻井宮と大神宮は参道の両脇にある

この、2つの宮の中央部分に猿田彦神社を配置する造作は、実は三重県の伊勢神宮でも見られるものです。しかし、伊勢と言えばやはり伊勢神宮の内宮と外宮がメインであり、猿田彦の子孫と言われる宇治土公(うじとのこう)氏が宮司を務める猿田彦神社についてあまり意識されることはありません。

画像10:伊勢神宮の場合も猿田彦神社が間にある

いつものことですが、私はこのように敢えて言葉で触れられていない事実を見ると、そこに物事の真意が隠されているのではないかと考えます。特に日本の歴史には隠し事が多いので、文字に残さずとも構造物を通して真実を残すやり方は大いにあり得ると考えます。

それはともかく、夫婦岩と言い、地名と言い、社殿の配置と言いとにかくこの社の作りは伊勢とそっくりなのですが、それもそのはずで、櫻井神社を造営する時にわざわざ宮大工を伊勢から招聘したというのですから、様々な部分で両者が似てくるのはさもありなんといったところでしょう。

実際に、境内の鳥居の一部は最近になって移築されたもののようです。また、一目見れば桜井大神宮は伊勢神宮の作りにそっくりですし、1800年代の後半まで20年に一度の式年遷宮まで行われていたそうです。現地には、かつて遷宮が行われていただろう、礎石を残した開けた場所が残されています。

画像11:どこか伊勢神宮ぽい櫻井大神宮

■謎の祭神、與止姫命

私も猫間障子さんのブログを読んで初めて知ったのですが、元の社号でもあり、由来にも祀られていると書かれている「與止姫大明神」こと與止姫命は、実はこの神社の創建以来一度として正式な祭神として祀られたことが無いようなのです。それって一体どういうことなのでしょう?

画像12:左上から櫻井神社の楼門・拝殿・岩戸宮

櫻井神社の造りはとにかく立派であり、さすが長く福岡藩主の厚い庇護を受けてきたものであると納得するものです。古びて派手さが薄れてきているのが、むしろ良い味を出しているとも言えます。

この神社の一番の見所は、年に一度お正月の頃に開かれる同社の奥宮に当たる岩戸宮でしょう。私もかつて友人に誘われ、開かれた岩戸宮の石室に入り中でお参りしたことがあります。それはもう厳かで、日本古来の信仰のあり方を肌身で感じることのできた良い体験でした。

そうなると、この石室の埋葬者、おそらく與止姫命のことではないかと思われるのですが、その人物がどのような方であったのか気になります。ところが、その肝腎の信仰主体が祭神にも祀られず、その正体も不明と言うのですから、何とも不可解な話です。

與止姫命の名は、猫間障子さんのブログにもあるように、実は佐賀県内の神社で多く見られます。おそらく、糸島から背振の山々を経て佐賀に至る地域に良く知られた古代人女性であったのだとは類推できるのですが、記紀にも登場せず、その他の伝承にも乏しいため、どのような人物だったのか特定するのは難しいようです。

Wikiによると、與止姫命と呼ばれる歴史上の人物(神様)の候補に、「神功皇后の妹」あるいは「豊玉姫」の二説があるようですが、それも定かではありません。

この謎の人物である與止姫命の正体については、次のメルマガで私の考察を述べさせて頂こうと考えています。私は、神社の名に冠せられているのに「祭神として祀られていない」という事実そのものが、この人物を特定する上で重要な鍵であると考えます。


 * * *

天孫降臨について少しは触れるつもりでしたが、今回は二見ヶ浦、櫻井神社という糸島の限られた一地域のご案内で終わってしまいました。しかし、ここを俯瞰するだけでも、この地に秘められた歴史の奥深さがお分かりになられたのではないでしょうか。

次回は、糸島に眠る王墓について見ていきたいと思います。ここにきていよいよアシタカ(瓊瓊杵尊のこと)の名前が登場してきます。


とこしえに思ふ椿麗し姫の園
管理人 日月土

土偶は何を語るのか?

今回もまた、今月上旬に津軽地方を調査した時の報告となります。津軽の縄文遺跡と言えば、忘れてならないのはやはりこれでしょう。

画像1:五能線木造駅の駅舎
全長17mの遮光器土偶を象ったデザインで有名

駅舎モデルとなったこの遮光器土偶は、木造駅から北西方向へ10km程度離れた亀ヶ岡石器時代遺跡から出土したものとされています。

画像2:亀ヶ岡石器時代遺跡から出土した遮光器土偶
Wikiペディアから(東京国立博物館展示)

亀ヶ岡石器時代遺跡も訪れてみましたが、基本的に発掘跡は埋め戻され、これといった展示施設もなく、草が刈られた空き地に写真のような説明パネルが申し訳なさそうに建てられているだけで、正直なところ少々期待外れだった感は否めません。

それでも、現場におられた発掘中の作業員さん(皆さん女性)に土地の状況や今後の発掘の展望などお話を伺うことができ、この地の発掘や研究などはまだまだこれからの課題であり、遺跡の分析が進むにつれて、何か大きな成果が発見されるのではないか、そんな期待を抱くに十分魅力的な土地であったことは記録に留めておきたいと思います。

画像3:亀ヶ岡石器時代遺跡の発掘現場

■土偶の謎

一口に土偶と言っても、遮光器土偶の他、様々な土偶が全国で発見されています。以下、Wikiや博物館などネット上で公開されている写真画像を幾つかピックアップしてみました。

画像4:様々な土偶と出土遺跡
1. 長野県棚畑遺跡      
2. 山梨県鋳物師屋遺跡     
3. 岩手県長倉I遺跡      
4. 長野県中津原遺跡     
5. 青森県三内丸山遺跡     
6. 青森県二枚橋2遺跡      
7. 山形県西ノ前遺跡(縄文のビーナス)
8. 群馬県郷原遺跡(ハート型土偶)

土偶を出土場所を調べていて気付いたのですが、やはり土偶類も縄文遺跡の密集度に比例して、琵琶湖以東に当たる東日本・東北地方での出土が圧倒的多数を占めています。近年、その精神性や芸術性の高さが見直されている縄文時代の出土品ですが、そうなると、日本人の精神性が古くは東日本を中心に形成されたとは言えないでしょうか?もしもそうなら、九州から関西を中心に記述されている日本古代史、特に神代の解釈は、今後大きく修正される可能性を秘めているとも言えます。

さて、土偶を取り上げたところで、そもそも土偶は何を象徴しているのかという疑問が生じます。考古学の一般的な解釈では、多産・豊穣・地母神など「女性性」の象徴と言われていますが、画像4を見れば分かるように、土偶の形状は必ずしも女性性を表しているものばかりとも言い切れません。実際の所、土偶が何であるかという問いについては、最初の研究から100年以上経った現在でも、核心的なことは分からず謎のままであるようです。

そうやって謎であるのをいいことに、私が子供の時に読んだ本の中には「土偶=宇宙人」説という奇説まであり、私も一時期はそれもあり得るかもしれないと本気で信じていたものです(笑)

ここで人類学者の竹倉史人さんによる土偶の新解釈に関する記事を見つけたので、その記事から私が重要と思う部分を抜き出して紹介しておきましょう。

日本考古学史上最大の謎「土偶の正体」がついに解明
「土偶は女性モチーフ」の認識が覆った!驚きの新説(前編)

 (中略)
土偶の存在は、かの邪馬台国論争と並び、日本考古学史上最大の謎といってもよいだろう。なぜ縄文人は土偶を造ったのか。どうして土偶はかくも奇妙な容貌をしているのか。いったい土偶は何に使われたのか。縄文の専門家ですら「お手上げ」なくらい、土偶の謎は越えられない壁としてわれわれの前に立ちふさがっているのである。
 (中略)
結論から言おう。
 土偶は縄文人の姿をかたどっているのでも、妊娠女性でも地母神でもない。〈植物〉の姿をかたどっているのである。それもただの植物ではない。縄文人の生命を育んでいた主要な食用植物たちが土偶のモチーフに選ばれている。
 (中略)
 古代人や未開人は「自然のままに」暮らしているという誤解が広まっているが、事実はまったく逆である。かれらは呪術によって自然界を自分たちの意のままに操作しようと試みる。今日われわれが科学技術によって行おうとしていることを、かれらは呪術によって実践するのである。
  (中略)
つまり、「縄文遺跡からはすでに大量の植物霊祭祀の痕跡が発見されており、それは土偶に他ならない」というのが私のシナリオである。このように考えれば、そしてこのように考えることによってのみ、縄文時代の遺跡から植物霊祭祀の痕跡が発見されないという矛盾が解消される。
(以下略)

引用元:JBpress https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65038

結論は既に本文冒頭に書かれていますが、改めて簡潔に書き直すと次の様になるかと思います。

 土偶とは植物霊祭祀の一環として食用植物を擬人化したもの

そして、竹倉氏の記事は後編へと続くのですが、そこでは新説の実証として、縄文時代から自生する食用植物と土偶の形状との比較をオニグルミを題材に細かくかつ具体的に検証されています。

この食用植物擬人化説が定説と成り得るかどうかは今後の更なる検証を待つとして、「呪術」や「祭祀」を当時の人々の純粋な「必然的実践」として捉え直した点はたいへん重要であると私も評価します。

当時の人々にとって世界がどう見えていたのか、それは現代社会の常識でいくら俯瞰してみたところで理解できるはずがありません。彼らにとっては、それが生き残るために絶対に欠かせない要素であるからこそ土偶を作ったはずです。

彼らが土偶を必要としたその時代の論理と背景、それを追求することこそが土偶の謎を解明する上での最初のステップである、その点において私は竹倉氏のアプローチには全面的に賛同できるのです。

ただ一つ付け加える要素があるとすれば、せっかく「呪術」という歴史観を得たのなら、それを植物霊祭祀に限定して議論することは少し性急ではないかということです。というのも、古代呪術とは森羅万象に及ぶものであり、草木魚貝の形状のみに拘るような小さなものではないと考えられるからです。

例えば、東北地方に多く見られる環状列石をどう説明したらよいのでしょうか?一般的に天体の運行に関係しているのではないかと言われる環状列石も、呪術における一つの形態と考えれば、植物霊祭祀と全く無縁であったとも言い切れません。植物は陽によって育ち、雨によって育まれることくらい古代人も理解していたはずです。そのような天体を含むこの世の万物に対する信仰姿勢や呪術的手法まで突き詰めない限り、早々に結論を出すべきではないと私は考えます。

画像5:大森勝山遺跡の環状列石跡(背景は岩木山)

■東日流外三郡誌が記述する土偶

前回の記事で、東日流外三郡誌(以下三郡誌と略す)をご紹介しましたが、ここでまた、三郡誌が遮光器土偶についてどのように述べているのか、参考までに書籍から一部を抜粋し掲載したいと思います。

画像6:東日流外三郡誌に登場する遮光器土偶
※八幡書店 東日流外三郡誌1古代編(下)320ページより

同書によると、この絵が転写されたのは寛政5年ということですから、西暦で言うと1793年ということになります。1800年代後半の明治期に土偶の研究が始まったとされていますから、それよりも100年前に三郡誌は既に土偶について触れていたということになります。もちろん、この記述が本当ならばですが。三郡誌は後年になってかなり書き足された形跡も見られるので注意が必要なのです。

一応、記述が正直なものであると受け止めて解釈すると、遮光器土偶は荒吐国(アラハバキ)で崇拝された神の姿を象ったものであるということになります。

同書によると、荒吐国の信仰対象とは日月水木金火土鳥獣魚貝などの自然物や、雨風病死などの自然現象だったと言います。大きく捉えれば自然崇拝となるでしょうか。そして、それぞれの自然物・現象を神として崇めたとあり、それらが各々偶像化されたものが上図にあるような土偶の意味であると言ってるようです。

同書には上図に続き、遮光器土偶の姿をした神、ハート型土偶の姿をした神、そして変わり種としてはユダヤ教祭司のような姿をした神まで挿絵として登場します。その中で圧倒的に多いのは遮光器土偶型ですが、正直なところそれぞれの形状の違いは明瞭に見分けが付きません。各挿絵には草神・木神・魚神などの神名が添えられています。食料に関する神々も多数登場しますが、ここで大事なのは、土偶は信仰の対象として作られたと記述されている点でしょう。

残念なのは、なぜこのような遮光器を被っているような形状の頭部になるのか、あるいはハート形のような不思議な形状の頭部になったかの説明はなく、ただそれを「荒吐の神々」と断じている点です。また、画像4で示したような、全国で見られる土偶のバリエーションについては記されておらず、この記述を以って土偶とは何かを論ずるのは、やや早計かと思われます。その点では竹倉氏の考察の方がより説得力があると感じます。

土偶の意味は古代信仰・呪術、引いては古代社会の世界観を知る上でたいへん重要であると私は見ます。よって、三郡誌が土偶について触れた点も含めて、後日改めて考察を深めたいと考えています。

 * * *

このブログでこれまで取り扱った古代とは、記紀の神代に相当する部分であり、現在の歴史学的な区分では弥生時代に相当します。しかし、縄文や弥生を時代を区分する記号として使用するのは少しおかしくはないでしょうか?

中世時代に至るまで東北地方が弥生以降の文明の侵入を阻んでいたと言うなら、東北地方は2000年近くも長く旧来の縄文文化圏のままであったことになります。つまり、縄文とは時代を指す言葉ではなく、あくまでも文化スタイルの違いを表す言葉に過ぎないことになります。

そうなると、弥生・縄文の文化的併存時代が長期に亘って存在したことになり、古代の時代区分として弥生と縄文を使い分けるのに意味はなくなります。むしろ、2つの異文化がどう混じり合い進化してきたのか、そこを問うことに大きな意味があるのでしょう。

その意味でも、縄文文化の影響をより強く残す関東以北、つまり日本の東半分に注目しなければ真実の日本古代史は見えてこないだろうと私は予想するのです。


古人の山と語りせば神とぞ見ゆ
管理人 日月土

東日流外三郡誌の故地を訪ねる

ここしばらくアニメの話題に偏ってしまったので、休憩と言う訳ではありませんが、現地調査の報告をさせていただきたいと思います。

今回の調査対象は、私もほとんど訪ねたことのない東北地方です。東北地方と言うと、歴史上では異郷人の蝦夷(えみし)の地ということで、「征夷大将軍」という言葉があるように、朝廷にまつろわぬ野蛮な地のイメージで語られることが多いようですが、その古代期については記紀などの史書を読んでも詳しく触れられることはなく、日本古代史上最も謎めいた土地の一つであることは間違いありません。

しかしながら、この7月、オリンピックの開催期間中に「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産に加えられるなど、再びこの地に注目が集まり始めています。

東北が歴史に登場するのは、神話時代におけるヤマトタケ(日本武尊のこと)の日高見国東征。西暦600年代半ばと推測される阿倍比羅夫(あべのひらふ)による征夷、西暦800年代初頭の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)による征夷などで、その後、西暦1000年代半ばの前九年の役とそれに続く後三年の役を経て、安倍氏・清原氏など東北の有力氏族が滅びるとなっています。

しかし、それだけでは東北地方でどのような人の営みが見られたのか、ましてや、世界遺産にも指定された日本を代表する縄文遺跡と西暦1000までの社会の繋がりがさっぱり見えてきません。

近年、縄文文化が極めて精神性の高い文化であることが分かってきており、東北地方を朝廷側に一方的に攻められるだけの未開の地であるようなイメージで捉え続けるのは、およそ正確でないことが分かります。

画像2:縄文遺跡の分布(出展:田中英道先生のメールマガジンより拝借)

上の画像2を見れば分かるように、縄文期の遺跡は関東・東北・東海地方に圧倒的に多く見られ、同地域を語らずして日本の古代史を知ることなど到底叶わないことがお分かりになると思います。記紀を文字通りに解釈すれば、その歴史は近畿など西日本を中心とした歴史であり、そこには、おそらく日本原初の人々であろう関東人、東北人、東海人の姿がリアルに見えてこないのです。

私はこれこそ、古代から続く日本史改竄政策の一環であると見ていますが、そのような仮定をするならば、日本古代史の何を残すと都合が悪いのかが問題となってきます。残念ながら私たちは既に色々と隠されてしまった歴史しか教えらえていませんので、まずは、失われた史実が何であったのかを少ない手がかりの中から見つけ出さなければなりません。

■東北について触れている秀真伝

これまで、このブログでは神代文字によって書かれた史書、秀真伝(ホツマツタエ)に非常にお世話になっています。記紀の原典とも言える秀真伝には、神話化されていない、人間としての古代期(上代)が生き生きと記されているのですが、そこには、タカミムスビの宮が築かれたと推定される宮城県の多賀城市や、大国主が追放された地とされる青森県の津軽地方のことがわずかながらも触れられています。

また、ヤマトタケによる小東北の遠征範囲(福島県の勿来(なこそ))や、当時日高見国と呼ばれた東北王朝との交渉の様子などが記されています。

こうなると、朝廷と東北地方の関係は、一般通史における単なる中央と外地と言う2極分化的な関係ではなく、複数の王朝(または皇統)とそれぞれのテリトリーとの関係性で考える必要が出てくるのです。

しかし、秀真伝も書かれていることは限られており、古代東北の実情を知るには、まだまだ資料として不十分であるとしか言いようがありません。

■東北王朝の存在を主張する東日流外三郡誌

そんな中、古代東北王朝について記述する「東日流外三郡誌」(つがるそとさんぐんし)は非常に魅力的に写る書物なのですが、歴史ファンならご存知のように、この書は「偽書」としての批判が絶えないものでもあります。

画像3:東日流三郡誌(古代編)

先に歴史隠蔽政策などと言ってるくらいですから、私にとっては記紀などのいわゆる正統本ですら「改竄の書」でしかありません。むしろ、人がその人の主観で記載する以上、いわゆる「正史」なるものは、この世に存在するはずがないとすら考えています。

その意味では、全ての史書にはどこか偽書的な性質があり、とりわけ東日流外三郡誌だけを偽書として排除する理由はないはずです。確信的に書かれた偽書には、むしろ偽るだけの大きな理由があり、そこを突き詰めれば逆に当時のリアルな事情が見えてくると考えられるのです。

東日流外三郡誌は、少なくとも東北を中心とした視点で古代を語っていますので、その記述の正確さはひとまず横において、他の史書や、遺跡などとの比較を通して、何が真実なのかを見つけ出すのには好都合な資料として使えるでしょう、たぶんですが。

■読み方に注意が必要な東日流外三郡誌

そうは言っても、現在販売されている東日流外三郡誌(以下三郡誌と略す)を手に取り、最初の方を読んで思ったのが

 これは相当癖があるなぁ

というものでした。

というのも、三郡誌は火事で消失した古資料を復活せんと、江戸時代後期の寛政期に、秋田孝季(あきたたかすえ)が年月をかけて聞き集めた断片的な伝聞を特に編集もせず残したものだからです。つまり、オリジナルの古伝ではないということです。そして、そのような寄せ集めの資料ですから、書籍編集者の苦労は偲ばれるものの、読み物としての一貫性に乏しく、非常に読みにくい一面があります。

なおよろしくないのが、この秋田氏は、長崎で外国人から当時最先端の西洋科学知識を学んでおり、ダーウィンの進化論や、地球起源に関する宇宙論などをこれぞ天下の事実として、文中に書き入れていることです。また、複数の出来事の繋ぎを古事記の記述で補っている形跡も多分に見られるのです。

これでは、どこまでが故事で、どこからが秋田氏の推測なのか混同してしまい、書物の全体的な信憑性が大きく阻害されてしまうなとも感じました。このように、一般的に偽書扱いされてしまうのもよく分かるのですが、それでも見るべき箇所は幾つもあり、注意深く読めば、それなりの史料価値はあるだろうというのが私の判断です。

■日本の始まりは津軽?

三郡誌の最古期の話は、日本列島が大陸と繋がっていた頃、大陸から渡って岩木山の東側に定住を始めた、モンゴロイドの阿蘇部族(アソベ)から始まります。そこに更に津保化族(ツボケ)が渡ってくると両者の間で争いが起き、後に大陸から逃げて来た中国は晋の皇帝の子孫、そして神武天皇の東征から逃げて来た安日彦・長髄彦の邪馬台国勢が加わり、その他の大陸移民が渡来混血して東北荒吐族(アラハバキ)が誕生したとあります。同書はこれが純粋な日本民族の始まりと主張しているのですが、果たしてどうなのでしょうか?

一方、秀真伝には、中央政治から追放されたオホナムチ(大国主)は、息子のシマツウシを頼って、津軽に身を寄せたとあります。オホナムチは長髄彦の数代前ですから、三郡誌の記述と無理に整合を取ろうとすると、安日彦・長髄彦が津軽を訪れる前に既に出雲皇統の一派が現地で統治を始めていたことになります。しかし、そんな大物が現地を訪れていながら、三郡誌には一切記録に残っていないのは解せない話です。そもそも、三郡誌は、東北荒吐族と中央の日向族(朝廷)の対立概念で書かれており、秀真伝の記すような、複数の皇統が全国に存在していたような記述は見られません。

画像4:現在の津軽地図と遺跡スポット

この時点で既に訳が分からない状況に出くわしてしまうのですが、こういう時はまず現地を見てみることです。そのような訳で、私は青森は津軽の地、現在の弘前へと視察に向かったのです。

■岩木山に古代出雲の痕跡か

私の場合、地方へ出かけたら情報を得るためにまずその土地の主要な神社へと向かいます。弘前に到着した翌日、早速同地のシンボルでもある岩木山、その麓にある岩木山神社へと向かいました。

この季節、林檎の実が赤く色付き始めるころで、気高く聳える岩木山と対照的に、裾野に広がる一面の林檎園が花咲くように美しかったのがたいへん印象的でした。

画像5:道路から眺める岩木山
画像6:岩木山神社と背景に写る岩木山の山頂
画像7:岩木山神社拝殿

岩木山神社の創建は今から約1200年前の宝亀11年(780)。坂上田村麻呂とも縁が深く、江戸時代に入ってからは津軽藩主の庇護を受けたこともあって、立派な神殿が残されています。こちらのご祭神は以下の通り。

 顕國魂神   うつしくにたまのかみ
 多都比姫神  たつひひめのかみ
 宇賀能賣神  うがのめのかみ
 大山祇神   おおやまづみのかみ
 坂上刈田麿命 さかのうえのかりたまろのみこと

特に、出雲色らしきものは感じられなかったのですが、驚いたのはその帰り道に見つけた近くの神社、高照神社なのです。

高照(たかてる)という言葉を聞いて最初に思い出すのは、映画「もののけ姫」の構造分析シリーズ「下照姫を巡る史書の暗号」でもご紹介したことのある、あの高照姫なのです。

秀真伝によるとタカテルヒメ(高照姫)はオホナムチ、すなわち大国主の娘であり、ここに僅かですが大国主の痕跡が見られたのです。

そして、高照姫の名前があるということは、その夫であるアメワカヒコ、すなわち当ブログの構造分析の結果、アメワカヒコと第10代アマカミのホノアカリは同一人物ですので、どうやら現皇統の血統がこの地に関係してくると言う流れになってきます。

画像8:高照神社拝殿

しかし、ここは普通の神社とは異なり、第四代津軽藩主の信政から、後の藩主の霊を祀る霊廟として機能していたようです。よって創建は1712年と比較的新しく、古代の色彩を残す神社とは言えない面があります。

そもそも、「高照」という社名を付けた理由が今一つはっきりせず、津軽氏がどうして大国主の娘の名をこの社に付けたのかは謎のままです。もちろん、良い名を思案している中で偶然この名を思い付いたとすることもできますが、それでも、秀真伝にある大国主追放の地との関連性は簡単に払拭することはできません。

少なくとも、この事実は当地を調査する上で何か重要な手掛かりとはなりそうです。

この後、世界文化遺産にも指定された縄文遺跡群などを数件訪れましたが、それについては次の記事でご紹介したいと思います。こちらは、有名な環状列石(ストーンサークル)や遮光器土偶が見つかった場所となります。


津軽北国 岩木の山に帰る時ぞ来る
管理人 日月土

千と千尋の隠された神(3)

-琥珀に刻まれたメッセージ-

アニメ映画「千と千尋の神隠し」(以下「千と千尋」と記述を省略)、これまでの考察からその裏ストーリーが示すこの映画のモデル地を、

 千葉県東総地区(現銚子市・旭市・東庄町)

と特定し、また、映画に描写された構図などから、「油屋」のモデルが、千葉県銚子市に鎮座する

 猿田神社

であることを導きました。

この結論に対し、関東の東の外れにあるいかにも閑散とした地方都市と、あまり有名とも言えない田舎の神社が、どうしてあの大ヒット映画の聖地になり得るのか?と、まだ納得できない読者様も多いかと思います。

そこで、前回は省略しましたが、上記の結論でほぼほぼ間違いないだろうという、決定的な事実をここでお知らせします(メルマガ8月16日号では解説済)。

■舞台特定の決め手:琥珀

画像1:ハクは龍と人間の2形態を持つ
同じ設定が「竜とそばかすの姫」の「リュウ」にも使われている

ご存知の様に、上図はこの映画の主要登場人物の一人である通称「ハク」であり、そして湯婆に奪われたその本当の名は

 ニギハヤミコハクヌシ ・・・(1)

であることを思い出してください。次に以下の図を見ていただきたいと思います。

画像2:幼い頃に千尋は川で溺れた

溺れた千尋を助けたのが白い龍神となった「ハク」なのですが、この川の名前は何であったでしょうか?そうです、

 コハクガワ ・・・(2)

なのです。

(1)と(2)に共通する文字列が「コハク」となることはすぐに気付かれたと思いますが、同時に、この様に重ねて命名するからには、この文字列に何か特別な意味があろうことは、読者の誰もが想像し得るのではないでしょうか?

「コハク」とは素直に解釈すれば「琥珀」、英語で言うところの amber(アンバー)であり、太古の樹脂が化石化したものです。宝石などに興味がある方なら、宝石の原石の一種であることは既にご存知かと思います。

画像3:琥珀

実はこの琥珀、日本にもその産出地として知られた土地が二箇所あり、その一つが

 千葉県銚子市

なのです。そして、縄文時代には既に琥珀を加工していた痕跡が銚子の遺跡からは見つかっています。

画像4:日本における琥珀の産地
画像引用元:久慈琥珀株式会社

日本全国でも産地が限られている「琥珀」。その「コハク」の呼び名が映画の中で重ねて使われているだけでなく、その主要産地までが、これまでの考察によって得られた映画のモデル地「千葉県東総地区」とピッタリと重なるのは、もはや偶然で済まされる話ではありません。この映画は

 明らかに千葉県東総地区を意識している

と断言しても良いのです。

そして、琥珀とは元々樹脂でありますから、当然ながら油の一種です。前回の記事で取り上げた当地の産物を併せて列記すると次の様になり

 1)醤油
 2)椿 (種子から油)
 4)紅花 (食用油)
 3)キャベツ (アブラナ科)
 4)養豚 (脂肪の多い食肉)
 5)琥珀 (樹脂)

以上の様にどのアイテムも「油」に絡んでくるのです。ですから、映画の中で湯処であるはずの「湯屋」がどうしてわざわざ「油屋」と表記されているのか、この「油」の一文字を見ただけで、この映画のモデル地がどこであるのか特定できるようになっているのです。

画像5:「油」の字は映画モデル地の象徴である

■千尋の母の声は沢口靖子さん

ここまで諸要素が重なると、もはやモデル地を特定するアイテムを羅列することに意味は無いのですが、もう一つだけ、千尋の母の声を担当したのが女優の沢口靖子さんであったことは特筆しなければなりません。

沢口靖子さんと言えば、以前にも触れましたが、1985年4月~9月放映のNHK朝の連続テレビ小説「みおつくし」で主演デビューしたことで知られています。

画像6:千尋の母とみおつくしの沢口靖子さん

覚えておられる方も多いと思いますが、このドラマの舞台とは「銚子」の「醤油」蔵だったのです。ここにも、声優の配役を通して、銚子と繋げようとする映画制作側の強い意図を感じずにはいられません。

この「みおつくし」という名前、昨年の記事「椿海とミヲの猿田彦」で解説したように、非常に注意が必要です。なぜなら、秀真伝によると「みお」とは猿田彦が宮を築いた土地名を指し、「つくし」とはすなわち「筑紫」、日本神話においてニニギノミコトが天孫降臨した九州北部を指す地名で、その天孫降臨は猿田彦の導きによってなされたとされています。

ここでいよいよ歴史の暗号が絡んでくる訳なのですが、「銚子」と「猿田彦(神社)」というキーワードのセットが、沢口さんを通して「みおつくし」と「千と千尋」の両方に出現するという事実には何か非常に強い作意を感じます。

「みおつくし」が放映されていたその期間(1985年4~9月)に、ちょうどあの123便事件が発生しました。この1985年という年に注目することにより、「千と千尋」の細かい設定の中に別の意図が潜んでいることが分かってくるのです。

■千尋の家族が「荻野」姓である理由

千尋とその両親の荻野(おぎの)家は、廃墟となったリゾート地に迷い込みます。料理の良い匂いに誘われ、3人は無人の商店街に迷い込むのですが、その時の街の描写をよく見て頂きたいたいのです。

画像7:「荻野」と「尋」の名前が奪われようとしている
画像8:無人の街と荻野さん

私もそうでしたが、このシーンを見て誰もが薄気味悪さを覚えたのではないでしょうか?特に気になるのは、まるでつげ義春氏の漫画の世界を思い出させる次の看板だったのではありませんか?

画像9:「め」の看板とプロビデンスの目
プロビデンスの目とは「全てを見通す目」の意味

ここが眼医者なのか薬屋なのか、あるいは眼球そのものを売買しているお店なのか分かりにくい看板ではありますが、陰謀論でお馴染みの「プロビデンスの目」と見ることもできます。しかし、この気色悪さだけに注目しているとそのデザインの真意は見えてきません。

このシーンの中に「荻野」さんたちの居ることが非常に重要なのです。私たちは深層心理の中で、視覚や聴覚で得た膨大な情報を無意識の内に組み合わせて解釈していると考えられるのですが、すると、このカットから次の様なの組み合わせが生まれることもご理解できるでしょう。

 「荻野」+「め」 → 荻野目

「荻野目」とは普段はあまり聞きなれない言葉ですが、バブル時代に活躍したアイドル歌手に「荻野目洋子」さんがいたのをかすかに思い出します。そう言えば、彼女の代表曲で(唯一の?)大ヒット曲でもある「ダンシングヒーロ―」は、最近でも時々耳にすることがあったかもしれません。

動画:荻野目洋子さんの「ダンシングヒーロー」

ここまでの関連性は、何だか思い付きベースであまり説得力が無いように見えるかもしれません。しかし、ここで荻野家の一員である千尋の母、その声優が沢口靖子さんであることが意味を持ってきます。次を見てください、

 みおつくしの放映:1985年(4~9月)
 ダンシングヒーローの発売:1985年(11月21日)

この突拍子もない組み合わせは、「1985年」をキーに強く結びついてくるのです。さて、それではなぜ「ダンシングヒーロー」なのか?

実はこの曲にには次の様な英語のサブタイトルが付けられています。

 Eat You Up (お前を食ってやる)

これは、「食べたいくらい可愛い」などの意味で使われることの多いフレーズですが、状況が分からない場合は、上記の直訳の通りとなります。つまり、これこそがこの複雑かつ精密な設定が伝えようとしている最終メッセージであると考えられるのです。

映画では、千尋の両親は豚に変えられ、まさに「食われる」前に二人を助け出すことが千尋の急務となるのですが、観賞者の心理を利用したこの細かな伏線が、単に映画の切迫したムードを補強するために張られたとは考えにくいものがあります。

おそらく、裏ストーリーに描かれた日本古代史上の人物に対して、同時にこの映画の観客に対しても呪いを掛けていると思われるのですが、呪い云々については(真)ブログの方で取り上げるとして、ここでは現代においてもなお呪いをかけ続けられる古代史上の人物とはいったい誰なのか、そして千葉県東総地区とは古代どのような場所であったのか、史書などを基にそれを分析していきたいと考えています。

繰り返しますが、1985年は123便事件のあった年です。123便事件がその何年も前からメディア戦略を駆使して周到に準備されたものであることは(新)ブログの「芸能界の闇」シリーズで幾つか論証していますが、今回の分析により、少なくとも「千と千尋」が公開された2001年当時まで、123便事件に関わる、またはその流れを汲む大衆洗脳の心理戦術が継続され続けていたものと考えられるのです。その目的はいったい何であったのでしょうか?


* * *

主要登場人物の分析は次回より始めたいと思いますが、その一人である「ハク」という呪い名に、「琥珀」の他にどのような意味が込められているのかを考えてみてください。


古の世を刻みし琥珀石に問ふ
管理人 日月土