方舟と獣の数字

今回に限っては、少しだけ触れて終わりにしようと思っていたアニメ分析ですが、この鹿の子アニメ(*)には思いの外多くの歴史的情報が埋め込まれていたので、まだ文字化ができていない点について今回もまた取り上げてみようと思います。

*タイトルは「しかのこのこのここしたんたん」

「いい加減にしろよ」と思われる読者さんも多いかと思いますが、あくまでもこれは「古代史分析」の一環であり、けっして酔狂でアニメについて語っている訳ではないので(本当です)、その点はご理解いただけますようお願いします。

■背振の山から見えたもの

実は1週間程前、現地の福岡県に飛んで、もう一度アニメに関係する土地を見てきました。具体的な行先は次になります。

画像1:脊振山気象レーダー観測所
画像2:気象レーダーの地図上の位置

気象レーダーは福岡県と佐賀県の県境となる背振山の尾根伝いの登山道上にあるのですが、レーダーまでは自動車が入れるように舗装されており(一般車両は不可)、県道から歩いておよそ30分くらいの所にあります。

私も現地に入ってから気付いたのですが、このポイントからは福岡県側に博多湾、そして佐賀県側は有明海はもちろん「鹿島と木嶋と方舟と」で取り上げた杵島までが見渡せるのです。

当日は少し霞んでいて写真では見にくいのですが、以上の重要ポイントをここから写真に収めました。

画像3:気象レーダーから見下ろした志賀島と能古島
画像4:気象レーダーから見下ろした佐賀の平野と杵島

志賀島と能古島は「志賀能古(しかのこ)=鹿の子」であり、志賀の神とはどうやら大船、すなわち「方舟」を指すだろうことは過去記事で述べた通りです。

また「杵島(きしま)」とは、古代シュメール語まで遡ればキッジュ(木)マァ(舟)で木舟であり、どうやらこれが「方舟」を指すことも、過去記事で既に述べています。

つまりこのレーダー観測所の位置は、方舟伝承に関わる2つの土地が同時に見下ろせる絶好のポイントであることが分かるのです。

これは私にとっても大きな発見で、わざわざここまで足を運んで良かったと思うだけでなく、古代史においてこの脊振の山々が、当時の信仰形態がどのようなものであったのか、それを理解する上で極めて重要な場所だという認識に至ったのです。

■虎虎虎

これまで鹿の子アニメの「鹿」について多くを考察してきましたが、このアニメには「虎」の文字を冠するキャラクターが準主役として登場していることを忘れてはなりません。

画像5:虎視姉妹

もうお気付きの様に、この二人合わせたキャラ名の中には「虎」の字が3回現れています。それを抜き出すと「虎虎虎(トラトラトラ)」となりますが、この「トラトラトラ」は第2次世界大戦で、日本海軍が真珠湾を奇襲攻撃する際に出された暗号文であることはつとに有名です。そう言えば同名タイトルの映画も作られていますよね。

それではどうして、真珠湾攻撃の暗号文がトラトラトラだったのか?そして、それがまた何でこのようなお気楽ギャグアニメの中に登場したのかが非常に気になります。

以下は私の考察なので合っているかどうかは分かりませんが、偶然と言うには余りにも意味的符牒が整っているので、参考までに紹介しておきましょう。

画像6:「トラ」をヲシテ文字で表記し、文字の構成要素を組み合わせる

以上のように、神代文字とも言われるヲシテ文字で「トラ」を表記し直すと、この音に隠された意味が見えてきます。そして、そこから見えてくるのは

 天地(の理)と六芒星、あるいはダビデの星

なのです。

これを意味的に日本語表現するならば

 天地(あめつち)の秘密(火水)

と読めなくもありません。

また、ここから「トラトラトラ」と「トラ」を3つ重ねた言葉に隠された意味の一つに3つの六芒星、すなわち

 666

があるだろうと考えられるのです。

ご存知の様に、666という数字は「獣の数字」として聖書の「ヨハネの黙示録」にも記述されています。

ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。

(ヨハネの黙示録 13章18節)

「鹿」からは「ノアの方舟」、そして「虎」からは「獣の数字666」、あくまでも日本古代史を扱っていたはずなのに、どちらも聖書の世界と繋がってしまうのです。一見能天気なお気楽アニメにしか見えないこの鹿の子アニメ、いったい何を企んでいるのでしょうか?

■七枝の線刻石

前回の記事「鹿と大船と祓祝詞」では、この鹿の子アニメの中で七枝のメノラー(古代ユダヤの7支の燭台)が描かれているとの指摘をしました。

画像7:アニメ中に描かれたメノラー

実はこのメノラー、日本国内の各地で見つかった線刻石や弥生式土器にも描かれていると言うのです。

画像8:下関市、彦島の線刻石(川崎真治著「日本最古の文字と女神画像」から)

古代言語の研究家、川崎真治さんによると、七枝の文様のルーツは聖書の時代を通り越してシュメール神話にまで遡ると推定されており、どうやらこれまで見てきた聖書と古代日本の奇妙な接点を理解する共通の鍵は、シュメール文明にあるようなのです。

シュメール神話に関する彫像で七枝樹が描かれる場面は、王「アン」と女王「キ」の間というのが定番のようなのですが、ここでやっと、アニメに登場した少女キャラクター(少女神の象徴)、すなわち皇后(=女王)とメノラーの関係性が見えてくるのです。

画像9:女王キ(左)と王アン(右)、中央に七枝樹
女王の象徴は左端に描かれた蛇、王の象徴は牛角の冠

ここから先は私もまだ不勉強なのでこれ以上の言及は避けたいと思いますが、このアニメの設定は、想像以上に深い歴史考証によって組み立てられているのが分るのです。


管理人 日月土

鹿と大船と祓祝詞

巷でちょっとだけ話題?にされていた鹿の子アニメ(※)を題材に取り上げて、なぜあれほどまで脈絡なしに「シカ」を強調するのか、その謎というか、原作サイドの隠された意図を、例によって日本古代史の文脈で掘り下げてみたところ、それが、

 方舟(はこぶね)

に辿り着いたことは、前回2回の記事でお伝えした通りです。

 関連記事:
 ・越と鹿乃子 
 ・鹿と方舟信仰 

 ※アニメタイトルは「しかのこのこのここしたんたん」です

残念ながらこのアニメ、先月で最終回を迎えたのですが、とにかく呪文のように怪しげなタイトルと奇妙な鹿の子ダンス、そして意味不明な設定で話を押しまくれるだけ押しまくって消えて行ってしまったようなのです。

ところが、その一見とっちらかって無茶苦茶なアニメも、整理してみると、非常によく計算された構造が見えて来たことは、上記過去記事でも述べています。

■鹿の子アニメの気になるシーン

さて、今回は同作品中の次の二つのカットを紹介しますが、どちらも、これまで本ブログで扱ってきた歴史的記号を象徴するものであると私は考えます。

画像1:鹿の角とバナナ
©おしおしお・講談社/日野南高校シカ部(画像3も同様)

鹿の子の角の中にバナナが入っている?ギャグアニメだと言われればそれまでなのですが、これに関する解釈については、実は昨年1月の記事で既に取り扱っているのです。

「バナナ」をアラビア数字で音表現すると「877」となりますが、この数字にどんな意味があるかは、以下の説明画像を見ればお分かりになるかと思います

画像2:877の記号
大空のXXと少女神の暗号」から

「877」は古代の皇后、それも特殊な巫女能力と王権継承権を有した「少女神」の象徴と解釈したのですが、この鹿の子アニメは(真)ブログ記事「角娘の降臨」でも書いたように、とにかく「角のある少女」たちが複数登場しており、すなわち「少女神」を表す記号が満載なのです。

ですから、この「鹿の角とバナナ」という珍妙な組み合わせも、これが古代日本の女系王権のことを意図的に示すものだと捉えれば、この画が非常に重要な意味を含むものと捉え直すことができるのです。

画像3:鹿の角とメノラー

「鹿の子の角は頭ごと取り外せる」という、これもまたギャグアニメのなせるナンセンスの一つなのでしょうが、この画もまた歴史的には奇妙に一致するニュアンスを含んでいるのです。それが、頭部を含め七支の突起部を持つ鹿の子の角と、古代ユダヤ教のメノラーの形状が酷似していることなのです。

ここで、「少女神」と「ユダヤ」という奇妙な関連性が導かれるのです。これまで、この2つの事象が直接関連し合うとの考察は特に行ってきませんでしたが、このアニメの構造分析を通していよいよその接点が見えて来たように思えます。

この2つの古代史トピックを繋ぐのが、おそらく「方舟」なのでしょう。聖書によるとユダヤ人十二支族が誕生したのは、ノアの方舟から更に下ってアブラハムが登場して以降のことですから、方舟伝承の方がはるかに旧いと考えられるのです。

そのユダヤより旧い伝承が日本国内に残っている。ここで、「少女神」と「方舟」の間に何か関連性があるのならば、「少女神」は日本における古代ユダヤの登場よりも前から、この国に存在していたとも考えられるのです。

■大船と祓祝詞

聖書によれば、ノアの方舟は3層構造の大きな船であることが記述されています。つまり、「方舟」は「大船」と表現されてもおかしくないのですが、実はこの「大船」は神社の祓祝詞(はらえのりと)の中に出てきます。

祓祝詞は、6月の大祓(おおはらえ)の時に神社で聞くことのある祝詞ですが、その文面は神社によって多少異なるとしても、概ねその骨子は同じように思います。

祓祝詞として有名なのが中臣祓(なかとみのはらえ)で、次にそこから「大船」が出て来る場面を抜き出してみましょう。

 高天原(たかまのはら)に神留坐(かむづまりまし)ます
 皇親(すめむつ)神漏岐(かむろぎ))神漏美(かむろみ)
 の命(みこと)を以もちて 八百万(やほよろづ)の神等
 (かみたち)を 神集(へに集賜つど)へたまひ 神議
 (かむはかり)に議賜(はかりたまひ)て 我(あが)
 皇孫尊(すめみまのみこと)をば 豊葦原(とよあしはら)
 の水穂(みずほ)の国(くに)を 安国(やすくに)と平
 (たひら)けく所知食(しろしめ)せと事依(ことよさ)し
 奉まつりき

 ・・・(中略)・・・

 如此(かく)所聞食(きこしめ)しては 罪(つみ)と云(い)
 ふ罪(つみ)は不在(あらじ)と 科戸(しなど)の風(かぜ)
 の天(あめ)の八重雲(やへぐも)を吹放(ふきはな)つ事
 (こと)の如(ごと)く 朝(あした)の御霧(みきり)夕(ゆふ)
 べの御霧(みきり)を朝風(あさかぜ)夕風(ゆふかぜ)の吹掃
 (ふきはら)ふ事(こと)の如(ごと)く 大津辺(おほつべ)
 に居(を)る大船(おほふね)の舳(へ)解放(ときはな)ち艫
 (とも)解放(ときはな)ちて大海原(おほわだのはら)に
 押放(おしはなつ)事(こと)如ごとく

 ・・・(以下略)・・・

引用元:古今宗教研究所から

この祝詞では、罪や穢れが吹き流され清められる様を、大きな船が風を受けて大海にさっそうと乗り出す情景に例えて比喩的に表現されていると読めます。

私も「何でここで船なんだろうな?」と長らく疑問ではあったものの、祝詞全体の調子によく合っているのか、それ以上は特に疑問を感じることはありませんでした。

しかし、今回「鹿」(シカ)と「方舟」の関連性に気付いてから、この祝詞の捉え方が大きく変わったのです。そして、こう思うようになりました。

 日本は方舟伝承の当時国なのでは?

と。

大祓は元々6月と12月に朝廷で行われていた行事であり、それはすなわち、国家全体の罪や穢れを祓い清める儀式であることを意味している訳で、その国家的行事で奏上される文言の中にしっかりと遠い昔の「方舟」の記憶が盛り込まれているのですから。

繰り返しになりますが、聖書と日本書紀、中臣祓祝詞の方舟に関係するとされる箇所を比較すると

 聖書  : 3層構造の方舟
 日本書紀: 底・中・表の3人の海神(シカの祭神)→ 3層構造
 中臣祓 : 大船

となります。これがどう繋がるかは、前回・前々回の記事を参考にしてください。

■鹿の子アニメの狙いは?

鹿の子アニメを我慢して視聴し、古代史と照らし合わせながらここまで見てきましたが、この作品には思わぬ意図が隠れていることが分かって来ました。

読者の皆さんが関心を抱くのは、これまでの私の分析が仮に正しいとして、どうしてこのアニメを世に出して来たのかという点だと思います。

原案者の真意を正確に把握することは非常に難しいのですが、ある程度推測することは可能です。その真意を測る上で非常に大事なキーワードが実はこの「方舟」なのです。

そもそも方舟は何のために作られたのでしょうか?それを考えた時、このアニメを制作した側の狙いが朧気ながら見えてくるのです。

もう一つのヒントは、シカ(志賀)の神とは別名「穂高見命」(ほだかみのみこと)であることです。すると次のキャラクターが登場したあの有名アニメ映画が思い出されるのですが覚えておられるでしょうか?

画像4:右側の少年キャラは誰?

そして、この映画のラストシーンがどうであったのかをもう一度思い出すと、鹿の子アニメの真の狙いがこの映画のメッセージと同じであることに気が付くのです。


鹿は藤原光る君虎に翼の虎視眈々
管理人 日月土

鹿と方舟信仰

前回のブログ記事「越と鹿乃子」では、この夏放映されたアニメ「しかのこのこのここしたん」を題材に、その中に密かに組み込まれたと考えられる日本古代史に関するメッセージを分析してみました。

画像1:アニメ「しかのこのこのここしたんたん」」
 ©おしおしお・講談社/日野南高校シカ部
 ※このブログはアニメ専門ブログではありません

前回記事掲載後に配信したメルマガでは、更に詳しく「鹿(シカ)」の意味について考察したのですが、思いの外これが重要な内容を含んでいると考えられたので、今回はブログでもその内容に修正を加えてご紹介したいと思います。

■志賀島と安曇族

前回のブログ記事のお伝えしましたが、アニメタイトルの「しかのこのこのこ」が、それぞれ

 しかのこ → 志賀島(しかのしま)
 のこのこ → 能古島(のこのしま)

を指すのではないかという点は予め押さえておいてください。福岡県在住の人なら良くご存知の、博多湾に浮かぶ二つの島のことです。

ここから、アニメの主人公「鹿乃子」が「志賀の娘」を指すだろうという話は、既に前回述べていますが、ここでは、志賀(しか)とは何か?という点について更に深く触れてみたいと思います。

さて、志賀島(しかのしま)には、かつて安曇(阿曇)族と呼ばれる海の民が居住していたという話を現地でもよく耳にたので、まずは阿曇族について調べてみます。

この阿曇族、実は日本書紀の神代の帖の中に登場する一節があるので、まずはその部分を書き出してみます。

 凡(すべ)て九(ここのはしらの)の神有(いま)す。
 其の底筒男命・中筒男命・表筒男命は、是即ち
 住吉大神(すみのえおおかみ)なり。底津少童命・
 中津少童命・表津少童命は、是阿曇連等(あづみ
 のむらじら)が所祭(いつきまつ)る神なり。

 然して後に、左の眼を洗ひたまふ。因りて生める
 神を、号(なづ)けて天照大神と日す。復(また)右
 の眼を洗ひたまふ。因りて生める神を、号けて月
 読尊と日す。復鼻を洗ひたまふ。因りて生める神
 を、号けて素戔嗚尊と日す。

岩波文庫 日本書紀(一) 神代上 一書6より

また、ここに出て来る阿曇連については、同文庫の補注に次の様に書かれています。

 阿曇連:全国各地の海部を中央で管理する伴造。
 天武十三年に宿禰と賜姓。此の三神を旧事紀、
 神代本紀は「筑紫斯香神」とし、延喜神名式には
 筑前国糟屋郡志加海神社三座とある。

 祖先伝承は記に「綿津見神之子、宇都志日金折命
 之 子孫也」、姓氏録、右京神別に「海神綿積豊
 玉彦神子、穂高見命之後也」とある。

補注の解説に従って読み解くと、阿曇連は

 底津少童命(そこつわたつみのみこと)
 中津少童命(なかつわたつみのみこと)
 表津少童命(うわつわたつみのみこと)

の3神を祀る民であり、この神は

 筑紫斯香神
 (ちくししかのかみ) 

もしくは、

 筑前国糟屋郡志加海神社三座
 (ちくぜんこくかすやぐんしかうみじんじゃさんざ)

と別の名で呼ばれていると記載されています。

どれが正式な名なのかは分かりませんが、おそらくこの3神こそが「志賀(しか)」と呼ばれる神様の正体であり、阿曇連はこの3神を奉る一族であったという記述から、この3神(志賀の神)をルーツとする伴造(とものみやつこ)、すなわち、古代期に公務として海洋管理を担当していた一族であったと理解することが出来ます。

ここで引用した書紀の一節は、黄泉の国から返ってきたイザナギが、その穢れを払うために「立花の小戸のあわぎはら」で禊をしていた時の様子であり、阿曇族の祖先はその時に生まれた神の中の3柱だったということになります。

ここで、私が注目したのは、この志賀神(しかのかみ)3神は、天照・月読・素戔嗚の三貴神よりも前に生まれていた、すなわち

 三貴神よりも古い神

というようにも読み取れます。

当然ながら、この記述はある歴史的事実が神話化されてこのような記述になったと思われるのですが、その史実解読のヒントになるのが、補注の後半に紹介されている、他史書に書かれた次の志賀神の別名であると考えられます。

 古事記:綿津見神之子、宇都志日金折命(うつしひかなさくのみこと)之子孫也
 姓氏録:海神綿積豊玉彦神子、穂高見命(ほだかみのみこと)之後也

宇都志日金折命の別名が穂高見命とも言われ、宇都志日金折命を祀る穂高神社があるのが信州の安曇野(あずみの)というのも、何か不思議な歴史の結びつきを感じます。

この安曇野にある穂高神社の有名なお祭りは

 御船祭(みふねさい)

と呼ばれ、大きな船型の山車が街を練り歩くことで有名です。

画像2:安曇野の街中を曳かれる大船
安曇野市観光協会の動画から

阿曇族は海の民とされていますから、神事に船形が見られるのは特段不思議でもなさそうですが、果たしてそれだけでしょうか?

■シカとカシ

日本の地名には読み順を転置させたのではないかと思われるものがいくつか見られます。私が思い付くのものに、多少強引かもしれませんが、以下の例があります。

 登美(トミ) → 水戸(ミト)
 三尾(ミオ) → 小見(オミ)
 香取(カトリ)→ 取香(トッコウ)※漢字の入れ替え

これは、古い昔に地名を名付ける時に取られた手法なのではないか、あるいは祭事的な意味を持たせてそうしたのかもしれませんが、「シカ」についてそれを適用するとどうなるでしょうか?

 シカ → カシ

となります。

「カシ」なる2文字の地名はなかなか見つかりませんが、この2文字から始まる地名ならかなりの数が見つかります。

「樫山、柏原」など「樫」や「柏」から始まる地名は全国に多く見られるのですが、今回取り上げた「鹿」の意を含むものとなれば、次の地名が最も適切なのではないでしょうか?

 鹿島(カシマ)

また、志賀島のすぐ対岸には香椎宮で有名な「香椎」(カシイ)なる地名があることも、非常に興味深いのですが、ここでは鹿島を志賀の転置語、あるいは志賀を鹿島の転置語から「マ」の字が脱落したものとして扱います。

■方舟で繋がる鹿嶋と志賀

さて、鹿島の地名の由来については、今年7月の記事「鹿島と木嶋と方舟と」で既に触れているのを覚えておられるでしょうか?

そこでは、シュメール語の「ギシュ・マァ・グル・グル」その意味は「漂える(グルグル)木(ギシュ)の舟(マァ)」で、すなわち、

 方舟

を指すと説明しました。

このシュメール語から「グル・グル」が脱落し、音が訛って「キシマ」から更に「カシマ」へと変化したのが「鹿島」という地名の始まりではないかとしたのですが、そうなると、鹿島の「鹿」とは、漢字が成立した後に当てられた文字と言うことになります。

同記事では、これを裏付ける傍証として、京都の貴船(木舟)神社や、木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)の例を挙げ、そのルーツが古代方舟信仰であった可能性を示しています。また「アラレフル」という和歌の枕詞がどうやら、方舟が上陸したとされる「アララト山」を指すのではないかとしています。

これらから

 志賀 = 鹿島 (※音の転置と脱落)

という予想が成り立つのですが、その説を補強する上で重要な記述が聖書に記されていることにここで気付きます。

 その造り方は次のとおりである。箱舟の長さは
 三百アンマ、幅は五十アンマ、高さは三十アン
 マ。箱舟には屋根を造り、上から一アンマにし
 て、それを仕上げなさい。箱舟の戸口は横側に
 付けなさい。また、一階と二階と三階を造りな
 さい。

創世記 第6章15,16節

聖書に記されている方舟の構造は非常に具体的で、その船の階層は1,2,3階の階層構造であることもここから窺い知れます。

ここで、前々節で述べた「志賀の神」が底津(そこつ)、中津(なかつ)、表津(うわつ)の綿津見(わたつみ)3神であることを思い出してください。

この3神は、日本神話では、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が禊のために入った水の、表面部分、中程、底の部分それぞれから神が生まれたという話になっているのですが、これを何か具体的な事象の比喩的表現(暗号表現)と解釈すれば、何かの構造を表していると考えられるのです。

もしもこれを、方舟の構造を表す表現と解釈すれば

 鹿島 → 方舟
 志賀 → 方舟の構造

となり、互いに関連し合うことが分かるのです。

すると、安曇野の穂高神社の例祭で練り歩く船形の山車がいったい何を象徴しているのか、その意味も明確になってくるのです。

画像3:方舟が繋ぐ志賀と鹿島の関係性


 * * *

これは驚きました、無意味に「シカ」を連発するだけのお気楽アニメかと思っていたら、ここにはそんな意味が隠れていたのです。

もしも、このアニメが古代方舟信仰について何かのメッセージを含んでいるとするなら、それはいったい何なのか?これまで、つまらない、面白くないとかなり否定的であったこのアニメ作品に対し、俄然強い興味が湧いてきたのです。


管理人 日月土

越と鹿乃子

今月9日、(真)ブログ記事「角娘の降臨」にて、現在放映中の謎アニメ「しかのこのこのここしたんたん」について、そのネーミング及び設定について表面的に分析を掛けてみました。

画像1:アニメ「しかのこのこのここしたんたん」」
 ©おしおしお・講談社/日野南高校シカ部

このアニメ作品、特に意味がないというか、無理矢理組み込んだように見えるテーマがまさに「鹿」であり、また主人公、準主人公の少女たちが角(つの)が生えた、あるいはそのように見えるデザインで統一されており、これらは当ブログで最近取り上げた古代史のテーマ「馬と鹿」、そして「少女神」とも繋がるので、今回は敢えてこの作品を切り口に、アニメ原作者もしくは原案者が作品を通して何を伝えようとしたのか、その深意を分析したいと思います。

その前に、今回のテーマと関連する過去記事へのリンクを整理しておきましょう。以下、本文で参照の際には次の記事番号で記事名の代わりとします。

 (1)アニメタイトルと土地名の関係性 – (真)ブログ:
  →角娘の降臨 

 (2)福岡県糸島の小呂島と神話「オノコロ島」との関係性
  →再び天孫降臨の地へ 

 (3)能登半島近辺に多く見られる春日神社の分布 – (真)ブログ:
  →能登は地震が多いけど 

 (4)鹿と春日大社、中臣氏・藤原氏、武御雷・建御名方
  またタカミムスビ王統との関連性について:
  →鹿の暗号と春日の姫 

 (5)イザナギとイザナミ、2対3の法則について
  →3人の三島とひふみ神示 

■福岡北部の島々と鹿乃子

記事(1)では特に理由を述べませんでしたが、この奇怪なタイトルの前半「しかのこのこのこ」の部分が、どうやら福岡県の博多湾内に位置する志賀島(しかのしま)と能古島(のこのしま)を指すのだろうという着想に至ったのは既にお伝えした通りです。

そう思い付いたのは、メインキャラクター「鹿乃子のこ」のデザインの中に両手の指をそれぞれ2本ずつ立てる4本立てポーズ、また、国宝の弥勒菩薩半跏思惟像のように3本ずつ立てる6本立てポーズの2パターンがあるのを見つけたからです。

これがどういうことかお分かりでしょうか?

私はこれを4対6、もしくは2対3の法則を意味しているのではないかと考えたのです。ちろん、単なるデザイナーさんの気まぐれなのかもしれないのですが、敢えて何か意図を含んだ表現の違いではないかと受け取ったのです。

記事(5)の最終節「3人の王と2人の少女神」を再読して頂きたいのですが、ここでは、日本書紀本文から、黄泉の国に入ったイザナミが日に千人殺すと言ったところ、イザナギが日に千五百の産屋を建てると言い返したシーンを引用しています。

私は、ここに出て来る数字の比率を、女2人男3人の「2対3の法則」と見立てたのですが、すなわち、キャラクターが演じる指の表現とはこれを指すのではないか?そう考えたのです。

この数字が出てくるからには、おそらくイザナミ・イザナギ伝説に関わることだと思い付き、その時に最初に脳裡に浮かんだのが、

 能古島

だったのです。

これは、現地を訪れたことがないと分からないかと思いますが、記事(2)でちらっと触れているように、能古島には、「イザナギ石・イザナミ石」という、不思議な石積みの構造物があり、おそらくそれほど古いものではないと思われるものの、何故か記憶の中に今でも残り続けていたのです。

画像2:能古島のイザナギ石とイザナミ石
(画像引用元:YAMAPさん)

土地の解釈では、能古島は神話に登場するオノコロ島のことであるとされ、この石積みは観光用に後からわざわざ作られたとも考えられるのですが、山林に入って探索すると古い磐座跡のようなものが残っており、この島がただならぬ場所であることはそれだけで十分に窺い知れたのです。

能古島が出てくれば、その対岸にあるのが志賀島ですから、ここから「しか・のこ」が「志賀・能古」を指すだろうことは直ぐに気付きます。

画像3:志賀島の展望台から博多湾を望む

このアニメに登場するのは角(つの)がある、あるいは角を模した髪型の少女ばかりですから、これが少女神(巫女・古代女性シャーマン)を指すのはもはや間違いないと思われ、ここから、少女を表す別表現「娘(こ)」を用いて

 志賀の娘(しかのこ)・能古の娘(のこのこ)

が導き出されたのです。

■虎は何を指すのか?

さて、次にタイトル後半「こしたんたん」が何を指すのかなのですが、記事(1)でも示したように、「虎視眈々」すなわち「虎を視続ける」と解釈すれば、志賀島から寅の方角(東北東)への視線をそのまま地図上に延長すると、その直線は旧国名の

 越(こし)の国・丹後(たんご)の国・丹波(たんば)の国

付近を貫くことが分かります。

丹後・丹波と志賀島の関係についてはまだ不明ですが、広義の越の国に該当する現在の石川県には

 志賀(しか)

の地名が残っていることは、志賀原発に関する報道などでご存知の方が多いかと思われます。

当然ながら志賀と志賀島に関係性があることは地元でもよく言われており、一般的には海の民である志賀島の安曇族(あずみぞく)が能登方面に進出したと考えられているようです。

「しかのこのこのこ」が起点、「こしたんたんが」起点より指示された方角と考えると、どうやらこのタイトルが強く指し示しているのは

 越の国(福井から新潟までの北陸地方)

であると導かれるのです。

■越の春日と鹿

記事(3)は数年前から頻繁に地震が発生した能登半島について書いたものですが、実は地震で鳥居が倒れたと大騒ぎになった珠洲市の神社とは

 春日神社

だったのです。春日神社と鹿の関係は記事(4)について述べていますが、実は北陸方面には比較的「春日」の名が多く見られるのです。

画像4:富山県高岡市の春日神社

記事(4)では春日と藤原家、その先代である武御雷(たけみかづち)やタカミムスビと言った古代王統と少女神の関係についても少し触れています。

このアニメを観ていると無意識に奈良公園の鹿ばかりを意識してしまいますが、私はこれこそがこの作品に仕掛けられた巧妙なトラップであると判断します。

重要なのは「しか」と呼ばれる一族のルーツと広がり、そしてその中で翻弄されてきた少女神たちの運命なのではないでしょうか?当然ながら、物語の舞台にセットされた東京都「日野市」にも共通の意味が込められています。

どうやら、鹿の角を生やした謎の少女キャラの正体が少しだけ見えてきました。「越」に注目しつつ更に考察を続けたいと思います。


虎の名を負ひし幼き娘子は飛鳥の君か春日の君か
管理人 日月土

シタテルヒメと岩戸閉め2

前回の記事「シタテルヒメと岩戸閉め」では、記紀で味耜高彦根(あじすきたかひこね)の関係者として登場する下照姫(したてるひめ)が、何故か秀真伝では、味耜高彦根の段だけではなく、第9代アマカミ(上代における天皇)の天照(あまてらす:男性)の妹としても同名で登場して居る点に触れました。

この二人、年代的には2代離れていることになるので、おそらく同名ではあっても別人でだと考えられます。

それでは、アマカミの妹という高貴な地位にあった下照姫がどうして、2度も登場するのか、また、どうして記紀ではその存在が消されてしまったのか、今回はその点について考察してみたいと思います。

以下、秀真伝の流儀に倣って、人名はカタカナで表記して行きます。

■これまでのおさらい

秀真伝におけるアマテラス(あるいはアマテルカミ、あるいはワカヒト)の系図は次の様になります。

画像1:秀真伝におけるシタテルヒメの系図(アマテラスの妹)

参考までに、記紀及び秀真伝において、アチスキタカヒコネの関係者として登場したシタテルヒメについても、以前作成した次の表を再度掲げます。

画像2:シタテルヒメ(アチスキタカヒコネの関係者)の各史書による関係性の違い

これまでの幾つかの考察から、アメワカヒコとアチスキタカヒコネは同一人物であることが分かっています。それは、記紀に登場する違和感たっぷりのエピソードからも窺えます。

アチスキタカヒコネは死んだアメワカヒコにそっくりであり、アメワカヒコの家族は弔問に訪れたアチスキタカヒコネを見て、アメワカヒコが生き返ったと喜んだ。それを見たアチスキタカヒコネは死者に間違われたことに大いに腹を立てた。

正直、このエピソードは全体の流れにおいて不要であり、どうしてそんな記述を織り交ぜたのか、史書編纂者の意図を推し量れば、これは両者が同一人物であることを示す暗号であると読み解くことができます。

そして、その人物が2王朝並立時代の一方の王で第10代アマカミの「ホノアカリ」であることも分かっているのです。ちなみに、もう一人の王とはニニキネ(瓊瓊杵尊)です。その点を考慮すると、画像2は次の様に集約されます。

画像3:ホノアカリとシタテルヒメ/タカテルヒメの関係性

ここで問題となるのはシタテルヒメとタカテルヒメの関係性です。男性の A=B → X の関係性から、何となく C=D → Y と導けそうです。その操作が許されると思われるもう一つの根拠が、

 テル(照)

の字が両女性の名に含まれている点なのです。すると画像3は更に次の様に集約されるでしょう。

画像4:ホノアカリとシタテルヒメの関係性

さて、ここから何が見えるのでしょうか?

■兄弟姉妹の意味

画像4を見る限り、夫婦関係と兄妹/姉弟関係の並立には少し矛盾を感じます。しかし、社会規範が現在と異なる古代期においては、兄妹婚/姉弟婚という関係性はあり得たかもしれません。

しかし、おそらくそうでは無かっただろうと言うのが私の結論です。というのも、これまでの考察から得た次の知見が活きてくるからです。

 古代王権は女系が継承した

もちろん、たまたま姉または妹が王権継承者であり、その姉妹に入婿したというケースも考えられなくもありませんが、王権継承権を有する女系家族の中から男性王を出すこと自体に矛盾があること、また、男性王を入婿させるのは優秀な王の資質を持つ男性を外部から取り入れるという目的があったからだと考えられるからです。

それだったら、どうして兄弟姉妹関係と夫婦関係を併記するのか?

ここで意味を為すのがシタテルヒメとタカテルヒメの関係性であると私は考えます。画像4を見る限り、YはあくまでもXの姉か妹と考えがちですが、ここで記紀・そして秀真伝編纂者が最も強調したかったのは、シタテルヒメが姉妹であること、すなわち

 二人の皇后が存在する

という事実だったのではないかという点なのです。

この場合、YはXの姉か妹という記述をすれば、Xの方はYの妹か姉という受けになるのは当然です。しかし、ここで強調したいのは、おそらくYは姉妹だという事ではないのか、それを示すために「テル」の文字をわざわざ重ねてきたのではないか、そうとも考えられるのです。

また、この「二人の皇后」という解釈は、初代神武天皇の皇后が「ヒメタタライスズヒメ」、すなわち「タタラヒメ」と「イスズヒメ」の二人の皇后を指すとしたこれまでの結論に矛盾しないのです。

つまり、

 シタテルヒメは姉妹で皇后だった

ということにならないでしょうか?

■アマテラスとシタテルヒメ

「シタテルヒメ」が本人の名前なのか、それとも記紀・秀真編纂者によって記号的に割り当てられた名前なのか?私は、この「シタテルヒメ」を記号的に解釈するべきだと考えます。

ここで、秀真伝に登場するシタテルヒメには次の様な別名があることをお伝えしておきましょう。以降、これら別名を使ってそれぞれのシタテルヒメに対応させていきます。

 シタテルヒメ:アマテラスの妹:別名ワカヒメ
 シタテルヒメ:アチスキタカヒコネの妻:別名オクラ

アマテラス(男性王)にはムカツヒメという正皇后が存在しますが、ここで気になるのが妹のワカヒメに「シタテルヒメ」の記号が付けられている点です。

ここで「シタテルヒメ」を、「二人の皇后」が存在することを示す記号的名称であると仮定します。

ホノアカリとシタテルヒメ(オクラ)が夫婦であり、同時にオクラが隠された姉妹関係を有していた点をこれに適応すると次の結論が導かれるのです。

 シタテルヒメ(ワカヒメ)とアマテラスは夫婦である

シタテルヒメは「二人の皇后」の記号的名称ですから、ワカヒメの他にもう一人の皇后が居なくてはなりません、おそらくそれが正皇后のムカツヒメということになります。すなわち

 ワカヒメとムカツヒメは姉妹 (二人の皇后)

ということにならないでしょうか?

これを系図に落すと次の様になります。

画像5:アマテラスと二人の皇后

すると、記紀に書かれた女神天照大神とは、秀真伝に登場する男性王アマテラスの二人の皇后、ムカツヒメとワカヒメとの関係で再考察する必要が出てくるのです。

神話で「岩戸に隠れた女神」とは、いったいどのような現実的状況を表しているのか、それを理解する鍵となるのが、シタテルヒメことワカヒメの存在ではないかと思われるのです。


管理人 日月土

シタテルヒメと岩戸閉め

今月初め、長野県の戸隠高原に行ってきました。

長野の戸隠高原と言えば、美味しい信州蕎麦のお店が連なる観光避暑地としても知られていますが、何と言っても荘厳な

 戸隠神社

で有名なのは言わずもがなでしょう。

画像1:戸隠神社(奥社)公式ホームページより

その戸隠神社、奥社へと向かう上り坂の途中に置かれた、いくつかの神社で構成されているのは、現地を訪れた方ならよくご存知かもしれません。

同社の公式ホームページでは、火之御子社、九頭龍社、宝光社、中社、そして奥社の5社が紹介されています。

それぞれの御祭神は

 火之御子社:
  天鈿女命(あめのうずめのみこと)
  高皇産御霊命(たかみむすびのみこと)
  栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)
  天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)

 九頭龍社:
  九頭龍大神(くずりゅうのおおかみ)

 宝光社:
  天表春命(あめのうわはるのみこと)

 中社:
  天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)

 奥社:
  天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)

となっています。

栲幡千々姫命など、このブログで何度も話題にした上代の登場人物が神として祀られていますが、中でもこの神社で最も崇敬を集めている神様(おそらく実在した人物)とは、奥社に祀られた「天手力雄命」、そして中社の「天八意思兼命」だと思われます。

※簡単のため、以下この2柱の神名をそれぞれ「タチカラオ」、「オモヒカネ」と記述します。

さて、この2柱の神は当ブログでは初登場なのですが、記紀における日本神話では何と言ってもあの有名な

 天照大神(あまてらすおおかみ)の岩戸閉め

のシーンでの大活躍が知られています。

同社のホームページでは、それぞれ

天手力雄命:
 天照大神が天の岩屋にお隠れになった時、無双の神力をもって、
 天の岩戸を開き、天照大神をお導きになった神

天八意思兼命:
 素戔嗚尊の度重なる非行に天照大神が天岩戸にお隠れになった時、
 岩戸神楽(太々神楽)を創案し、岩戸を開くきっかけを作られた神

と紹介されています。

戸隠神社の「戸隠」とは、「戸に隠す」と読めますから、まさに神話の岩戸閉めに関わる神社であること、そして祀られている神様もこれら岩戸閉め神話に登場する神々であることに特段違和感は感じません。

■秀真伝に書かれたタチカラオの系図

以上はまさに日本神話中の有名なエピソードとして良く知られた話なのですが、それでは、神話ではなく実在人の史書として書かれた秀真伝(ほつまつたえ)では、この2柱の神(人物)はどのような関係として描かれているのでしょうか?

以下に、秀真伝研究家の池田満氏の解読による系図を掲載します。

画像2:秀真伝におけるタチカラオの系図

この系図を見ると、オモヒカネとタチカラオが父子関係であること、また「ウハハル」と記されているタチカラオの兄弟が、おそらく天表春命を指すであろうと予想され、戸隠神社の祭神となった男性たちがここで勢揃いすることになるのですが、秀真伝の系図で一番困るのが

 アマテラス(アマテルカミ・天照)は男性である

点で、ここで早くも記紀の記述と齟齬が生じるのです。

また、記紀では天照(女性)・月読(性別不明)・素戔嗚(男性)のいわゆる3貴子が姉弟の関係であることは良く知られていますが、秀真伝ではそれが単純に兄弟に置き換わっただけでなく、女性の

 シタテルヒメ(ワカヒメ・下照姫)

が兄妹の一人として加わっていることなのです。

これはいったいどういうことなのか?以前からお伝えしている様に、記紀は史実に大きく手が加えられている痕跡があり、また記紀よりも古いとされている秀真伝でさえも、どこまで正確に史実を伝えているのかは甚だ疑問なのです。

しかし、各史書の記述の差異を比較検討することで、実はその改竄意図やオリジナルの史実が読み取れることは、これまでお伝えしてきた通りなのです。

女性に変えられたアマテラス、そして記紀には登場しないアマテラスの妹「シタテルヒメ」、どうやら、このシタテルヒメの存在について深く掘り下げることで、ファンタジーに見られがちな「岩戸閉め神話」の史実的な実態が見えて来るのではないかと私は考えるのです。

なお、シタテルヒメは記紀では岩戸閉め神話とは全く異なるシーンで出て来る女神です。それについては、参考として次のWikiの解説が参考になるでしょう。

 『古事記』および『日本書紀』正伝によれば、葦原中国平定のために高天原から遣わされた天若日子が、大国主神に取り入ってあわよくば葦原中国を自分のものにしようと目論み、その娘である高比売命と結婚した。

 天若日子が高天原からの返し矢に当たって死んだとき、高比売命の泣く声が天(『古事記』では高天原)まで届き、その声を聞いた天若日子の父の天津国玉神や天若日子の妻子らは葦原中国に降臨し、天若日子の喪屋を建て殯を行った。

 そこに阿遅鉏高日子根神が訪れたが、その姿が天若日子にそっくりであったため、天津国玉神や妻子らは天若日子が生き返ったと喜んだ。

 阿遅鉏高日子根神は穢わしい死人と間違えられたことに怒り、喪屋を大量で斬り倒し、蹴り飛ばして去って行った。高比売命は、阿遅鉏高日子根神の名を明かす歌を詠んだ。

Wiki「シタテルヒメ」から

以前から当ブログを読まれている読者さんならご存知の様に、これまで行ってきた史書の比較やアニメ映画「もののけ姫」の分析などから

 天若日子=阿遅鉏高日子根=猿田彦=火明(ほのあかり)

であることが分かっており、その火明は第10代アマカミとして、正式な王朝継承者であると秀真伝では記述されているのです。

その火明の妻であったり妹であったりと、史書毎に記述に揺れが見られるのがシタテルヒメであり、シタテルヒメの分析は「岩戸閉め」神話の謎だけでなく

 記紀から削除された火明王朝

の謎を追う意味でも非常に重要なテーマになるであろうと私は睨んでいるのです。

八方の戸に隠されし白き姫飯綱の山より今ぞ出でけり
管理人 日月土

橘氏と佐賀

今回も5月31日の記事「もう一つの鹿島」(1)、前回7月14日の記事「鹿島と木嶋と方舟と」(2)に関連して、佐賀県の杵島(きしま)に調査に出向いた時の調査についてお伝えします。

■潮見神社の祭神と橘氏

記事(*1)では、現在の佐賀県武雄市の潮見神社(しおみじんじゃ)付近にあったと思われる自然の入り江が、古代期において朝鮮半島との重要な交易拠点の一つではなかったのかとの推察を簡単にお知らせしました。

画像1:潮見神社

その潮見神社なのですが、同神社の祭神を見ると少し気になる名前が記載されているのです。

同神社には、上宮・中宮・下宮の3宮が祀られているのですが、同神社宮司さんのブログには、それぞれの宮の祭神について次の様に書かれています。

上宮(じょうぐう) 
 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)  
 伊弉冉尊(いざなみのみこと)
 橘諸兄公(たちばなのもろえこう)

中宮(ちゅうぐう)
 神宮皇后(じんぐうこうごう)
 応神天皇(おうじんてんのう)
 武内宿禰公(たけうちのすくねこう)
 橘奈良麿公(たちばなのならまろこう)
 橘公業公(たちばなのきんなりこう)

下宮(げぐう)
 渋江宮(しぶえぐう):橘朝臣渋江公村公(たちばなのあそんしぶえきんむらこう) 
 中村宮(なかむらぐう):橘朝臣中村公光公(たちばなのあそんなかむらきみみつこう)
 牛島宮(うしじまぐう):橘朝臣牛島公茂公(たちばなのあそんうしじまきみしげこう)
 ※苗字が渋江、中村、牛島の方のルーツはここから始まっています

潮見神社公式ブログ https://ameblo.jp/shiomijinja/entry-12623206196.html

伊弉諾尊・伊弉冉尊は日本神話に登場する代表的な神様の名前ですし、神功皇后・応神天皇・武内宿禰公も、記紀の上古代期に登場するとりわけ重要な登場人物であり、特に九州では同名を祭神とする神社はよく見かけるものです。

ところが、橘諸兄公・橘奈良麿公・橘朝臣(渋江、中村、牛島)公など、いわゆる「橘氏」の重鎮の名前が、神名や天皇の名前と同列に並べられているのには、他の神社には見られない際立った特徴を感じます。

おそらく、この神社の大元の由緒は「橘氏」の出自に関係あると考えられ、その他の神名などは、後に形式的に揃えられたものでないかと推測されるのです。

何を隠そう、潮見神社の住居表示は

 佐賀県武雄市町大字永島

とありますから、この土地自体が「橘」(たちばな)と呼ばれていたことは大いに注目するべき点です。

ここで、伊弉諾・伊弉冉と同列に並べられた「橘諸兄」について、Wikiでは次の様に記述されています。

橘諸兄(たちばなのもろえ)は、奈良時代の皇族・公卿。初名は葛城王(葛木王で、臣籍降下して橘宿禰のち橘朝臣姓となる。敏達天皇の後裔で、大宰帥・美努王の子。母は橘三千代で、光明子(光明皇后)は異父妹にあたる。官位は正一位・左大臣。井手左大臣または西院大臣と号する。初代橘氏長者。

経歴

和銅3年(710年)無位から従五位下に直叙され、翌和銅4年(711年)馬寮監に任ぜられる。元正朝では、霊亀3年(717年)従五位上、養老5年(721年)正五位下、養老7年(723年)正五位上と順調に昇進する。

神亀元年(724年)聖武天皇の即位後間もなく従四位下に叙せられる。神亀6年(729年)長屋王の変後に行われた3月の叙位にて正四位下に叙せられると、同年9月に左大弁に任ぜられ、天平3年(731年)諸官人の推挙により藤原宇合・麻呂兄弟や多治比県守らとともに参議に任ぜられ公卿に列す。天平4年(732年)従三位。天平8年(736年)弟の佐為王と共に母・橘三千代の氏姓である橘宿禰姓を継ぐことを願い許可され、以後は橘諸兄と名乗る。
(以下略)

Wiki https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E8%AB%B8%E5%85%84

時代的にはいわゆる奈良時代、官吏として宮中における重職を務めた人物で、在職中に藤原氏の政治的台頭や、それに対する反乱等に巻き込まれた人物として紹介されています。

墓所とされているのは、奈良との県境に近い京都府綴喜郡井手町南開で、JR奈良線の玉水駅から東に向かった辺りとなります。

画像2:京都府井手町の橘諸兄公墓 (Google)

以上、文献から見れば、橘諸兄は奈良時代の都人となるのですが、それがどうして九州の佐賀で祭神に祭り上げられているのか?少々不思議な気分に陥ってしまうのです。

■葛城王は伽耶人か?

ここで、歴史アドバイザーのG氏に再びご登場いただくのですが、G氏は橘諸兄について次の様に説明します。

歴史研究家鹿島昇さんの説によると、橘諸兄の元の名は「葛城王」(かつらぎおう)であり、この「葛城」の名を与えられるのは、朝鮮半島の金官伽耶(きんかんかや)出身家系の人物に限られるそうなのです。

この時代、日本書紀などの記述からも分かるように、半島の百済や新羅の王族・貴族が国内紛争などの理由で波状的に日本列島に渡ってきた歴史が読み取れるのですが、橘諸兄は太政官を務めるなど朝廷政治の中心にいた人物であり、すなわち、古代後期の朝廷政治は宮中に取り込まれた半島系のエリート官僚によって治められていたであろうと想像されるのです。

確かに、それは橘諸兄の時に始まった事でもなく、それ以前から半島系渡来人が朝廷内に入り、彼らによって古代日本の政治が行われたり、あるいは政権交代を余儀なくされたのは間違いないでしょう。

もちろん、国史としてそのまま書き残すこともできないでしょうから、貴人の血筋として重職に登用されたと後世の歴史家によって改竄されたことは大いに考えられることなのです。

何よりもG氏の「橘諸兄=葛城王=金官伽耶」説の納得行く点は、潮見神社のある杵島が、半島交易の重要拠点であったと考えられる点であり、橘氏が伽耶系出身の大物家系であるならば、その権益を保全する意味でも、杵島に出張ってその存在を主張したとしても不思議はないのです。

ただ分からないのが、

 それがどうして九州なのか?

なのです。道の整備も交通手段もおぼつかない古代後期、果たして奈良・京都の都人が遠く離れた九州の港湾管理など、果たして現実にできるものなのでしょうか?

そして、橘諸兄の息子であり、朝廷に対して反乱を起こしたとされる橘奈良麿の墓が、何故か杵島にあることなのです。

画像3:杵島にある橘奈良麿公墓の案内板(Google)
「奈良」麿という名前も気に掛かる
画像4:この距離をどう統治していたのか?


千年の時は短しわが友の語りし金官伽耶の人々
管理人 日月土

鹿島と木嶋と方舟と

先々月5月31日の記事「もう一つの鹿島」では、この春に調査に向かった、佐賀県の杵島(きしま)についての考察をレポートさせて頂きました。

そこでは、古代の海運事情と朝鮮半島との繋がり、また、現在でも残る地名から、日本神話の登場人物(あるいは神)との関係性について考察し、またその中の「鹿」の文字から、古代ユダヤとの関連性も考えられるのではないかとの推察を述べています。

今回は鹿島、もとい杵島について、もう少し深いお話をお伝えさせていただきます。

■シュメール語による「きしま」の分析

前回もお伝えしたように、この調査では私にとって歴史の先生役でもあるG氏に同行して頂いたのですが、最近またG氏に会ってお話を聞く機会を得たので、その時聞いた内容をできるだけそのままお伝えできればと思います。

画像1:地図上の杵島
画像2:潮見神社側から見た杵島

前回お伝えしたように、潮見神社のある辺りの平地は、古代期には半島交易の重要な船溜まりとして機能していただろうと考えられ、その向かいにある300メートル程度の低い山が連なる杵島も、有明海側を見渡す見張り台として大変都合が良い場所であったはずです。

海運を生業としている古代人にとっては、杵島は現実的な要所であったと同時に、人々の生活を支える有難い山、いわば神が宿る聖なる山であったのかもしれません。

そんな古代人の信仰の表れが「杵島」(きしま)という地名から読み取れるとG氏は語るのです。

古代言語研究家の川崎真治さんの著書などから推察すると、「キシマ」という言葉は、どうやらシュメール語の「ギシュ・マァ・グル・グル」から来ているようなのです。

「ギシュ」は文字通りの「木」(wood)の意味、「マァ」は「船」(ship)、「グル・グル」船の「回遊する様」(wandering)を意味しており、直訳すれば、「彷徨う木の船」となりますが、どうやらこの「彷徨う木の船」とは

 方舟(はこぶね、または箱舟)

を指しているようなのです。後に、「グル・グル」の部分が脱落して「ギシュ・マァ」だけが残り、時間とともに日本語的に平易な響きの「きしま」に変化していったようなのです。

※初回投稿から一部修正があります

この話を聞いた時、当然ながら私は聖書の創世記に記された「ノアの箱舟」を思い出したのは言うまでもありません。

前回の記事の最後部で、(「鹿」など周囲の地名から)古代ユダヤとの繋がりが感じられる旨の感想を述べましたが、G氏のこの話はまさに直球で、旧約聖書における重要トピックとの繋がりを示唆するものだったのです。

これだけでも、大いに興味が湧いてくるのですが、G氏は次の様に話を続けます。

 あられふる きしみがたけを さがしみと くさとりはなち いもがてをとる

これは万葉集の巻3-385番の和歌ですが、これの漢字読み下しは

 あられふる 吉志美が岳を 険しみと 草取りはなち 妹が手を取る

となります。現代語訳は

 あられの降る吉志美の山が険しいので、草を取りそこねて妹の手を取ることだ

となり、一般的には吉野(奈良県)の男性が、姫に与えた歌と伝えられていますが、そもそも「きしみが岳」とはどこを指すのでしょう?またいったいこの歌にはどのような意味が込められているのでしょうか?

私は、吉志美(きしみ)とは杵島(きしま)ではないかと考えるのです。

「あられふる」は「霰降る」で、その後に出て来る「山」にかかる枕詞なのですが、そもそも「霰降る」とは文字通り以外に何を意味するのでしょうか?

これを聖書の箱舟伝説に関わる用語と捉えると、その意味が自ずと見えてくるのです。

聖書では、大洪水でこの世の陸地が水没した中、150日以上も漂流し続けたノアの箱舟は最終的に

  アララト山に漂着

することになるのです。

水は地上からひいて行った。百五十日の後には水が減って、第七の月の十七日に箱舟はアララト山の上に止まった。水はますます減って第十の月になり、第十の月の一日には山々の頂が現れた。

新共同訳聖書 創世記第8章3-5節
画像3:アララト山上の箱舟(想像図)

「箱舟」と「山」の関係はまさに聖書のままなのですが、では「あられふる」とは何なのか?G氏は次の様に推測します。

「あられふる」とは元々「アララト」であったのが、後に変容した言葉だと考えられるのです。

これには私も驚きました、もしもそうであるならば、「あられふるきしみがたけ」とは「あられふる」(アララト)の「きしみ」(箱舟)が漂着した「たけ」(山)と、聖書の記述とピッタリ一致するのです。

これはいったいどういうことなのか、G氏の説明は続きます。

■全国に見られる箱舟信仰

この和歌に出て来る「きしみ」が必ずしも佐賀の杵島を指しているとは言いませんが、おそらくこのような箱舟信仰は日本中にあったと考えられます。

それを象徴するのが、まさに「貴船神社」(きふねじんじゃ)です。「貴船」は「木船」と表記することもあり、やはり箱舟を指していると見るのが妥当なのです。

京都北部の貴船神社が有名ですが、どうしてあんな山深いところに「船」なんだろうと思ったことはありませんか?

しかし、これがノアの洪水伝説に従うなら、むしろ山間にある方が状況としては正しいのです。

同じく京都には蚕ノ社(かいこのやしろ)と呼ばれる「木嶋坐天照御魂神社」(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)がありますが、まさにこれも文字通り「きしま」なんです。

ここを訪れる方は、有名な3本鳥居ばかり注目していますが、この神社の北側に「雙ヶ岡」(ふたがおか)と呼ばれる小山があるのはあまりご存知無いようです。この小山とセットで本来の箱舟信仰は成立しているのですよ。

このお話を聞いた後、さっそくGoogleアースでこの2つの神社を調べてみました。その図が以下になります。

画像4:貴船神社と京都北部の山々
画像5:蚕ノ社と雙ヶ岡

これは非常に驚くべき視点です。古代ユダヤと日本の関係を探していたら、いきなり創世記の洪水・箱舟伝説と古代日本の信仰形態がリンクしてくるのですから。

そうなると、シュメール文明まで遡らないと、ユダヤとの日本の本当の文明起源を俯瞰できないということも示しており、今からそこまで掘り下げないといけないとなると、何やら頭がくらくらしてくるのです。

最後に、「あられふる」の枕詞を用いた和歌を一首紹介しましょう

 霰(あられ)降り鹿島の神を祈りつつ
  皇御軍(すめらみくさ)にわれは来にしを

万葉集の防人の歌であるこの歌には、次の様な解説が付けられています。

「霰降り」は、空から降るあられが地面を打ち付ける音がやかましい(=かしましい)ことから「鹿島」の枕詞(まくらことば)となっている。

産経新聞 https://www.sankei.com/article/20190501-QRPGUNC7UBJVHC7DA4GMTSWHSI/

以上はあくまでも現代日本語的な解釈であると考えられます。「鹿島」(かしま)が「杵島」(きしま)の言語的変化であることは既に述べていますので、おそらくこの歌の上の句の真意は

 箱舟の降り立ったアララト

を意味していると考えられ、歌全体の意味も

「大洪水から我らを守った神に祈りを捧げ、私は出征する」と解した方が、はるかにシンプルにその意味が伝わって来るのです。

そして、「鹿」はユダヤ十二支族「ナフタリ」族の象徴であることも、ここで改めて強調しておきましょう。


管理人 日月土

消えた火明の考察

前回の記事「八咫烏の兄弟」では、記紀や先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)の記述から、八咫烏(やたがらす)とも称される上代天皇彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)には、伝承によって出生順や兄弟の人数(2~4人)、名前の表記に揺らぎがみられるもの、概ね次の3兄弟が居たらしいことが読み取れました。

 ・火闌降命(ほのすそりのみこと)
 ・彦火火出見尊
 ・火明命(ほのあかりのみこと)

そして、この3兄弟誕生の説話の続きには、日本神話でも有名な「海彦・山彦」の物語が続くのです。

ここで、海彦が火闌降命、山彦が彦火火出見尊に該当するのですが、ここでは山彦が龍宮城へ向かった経緯から豊玉姫との出会い、兄弟同士の抗争へと比較的長い記述が続くにも拘わらず、何故か3兄弟の1人、火明命はこの話の中には全く登場しないのです。

 火明命はどこに消えてしまったのか?

その点を問題定義した上で、火明命とはかつてこのブログで指摘した、猿田彦(さるたひこ)あるいは味耜高彦根(あぢすきたかひこね)と呼ばれる人物と同一人物であるという結論を思い出しました。

それでは、彦火火出見と共に出生した火明命とは猿田彦であったのか、同時に、どうして海彦・山彦神話から名前が消されてしまったのか、その点について考察してみたいと思います。

■古代2王朝時代

秀真伝(ほつまつたえ)には、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を王とする王朝と、火明命を王とする王朝の2つの王朝が併存していたとの記述が残されています。

そして、本ブログの結論として、その火明が猿田彦あるいは味耜高彦根、あるいは天稚彦(あめわかひこ)の別名であると導いています。この導入については過去の記事を参考にしてください。

ここで改めて、秀真伝から彦火火出見の前後の代の系図を抜き出してみましょう。

画像1:彦火火出見と2王朝時代の関係(秀真伝)
「代」は神武天皇以前の古代皇統(アマカミ)の王統を表す

この時代は、本来は少女神解釈による女系継承による系図に変換する必要があるのですが、ここでは、秀真伝の記述のままとします。純粋な血統ではなく、王の世代順を表していると見てください。

注目すべきは火明命と饒速日命との関係で、秀真伝では饒速日命は養子として火明命王の跡継ぎに迎えられたことになっていますが、誰の子であるかは不明です。

王の継承者となるべき人物ですから、それなりの血筋は保証されていると考えると、図中に赤い点線で示したように、瓊瓊杵尊の子である可能性が高いでしょう。

実はこれまでにも、このブログでは饒速日命が瓊瓊杵尊とその母である栲幡千千姫命(たくはたちぢひめ)の間に生まれた子ではないかと予想しています。そうなると母子婚の子のように見えますが、女系継承が一般的なこの時代ですから、瓊瓊杵尊が必ずしも栲幡千千姫命の血の繋がった息子であったとは言えないでしょう。

ただし、前王の王妃を孕ませてしまったことから、その高貴な血筋の子である饒速日命は、当時もう一つ存在していた火明命の王朝に養子に出されてしまったことは十分に考えられるのです。

饒速日を瓊瓊杵尊の子と考えると、ここでも記紀の記述で言う所の3王子、あるいは3兄弟の存在と辻褄が合ってきます。

その対応関係は、おそらく

 ・火闌降命   → アメノカミ
 ・彦火火出見尊 → ホオデミ
 ・火明命    → ニギハヤヒ

となりますが、闌降命がアメノカミのことを表すかどうかは、正直なところはっきりとしません。しかし、火明命がニギハヤヒを指すのはほぼ間違いないでしょう。なぜなら、ここでいう火明とは

 王朝名、あるいは世襲名を表している

と考えられるからです。

そうなると、火明王朝に養子に出された饒速日命(2代目火明命)が、海彦・山彦という2人の兄弟の争いに加わらなかった理由も何となく見えてきます。

すると、ここで問題になってくるのは、

 ・火明王朝(饒速日王朝)はどこに消えてしまったのか?
 ・そもそもどうして2王朝時代は始まったのか?
 ・火闌降命は兄弟抗争に敗れた後どうなってしまったのか?

の3点なのですが、ここに初代神武天皇が誕生するに至った、隠された古代史があるのではないかと私は考えるのです。つまり、現天皇家がどのように誕生したのか、その経緯を表していると言ってよいでしょう。

特に秀真伝で言うアメノカミ(火闌降命?)が彦火火出見直系の子ウガヤフキアワセズの母であり同時にその王妃でもある玉依姫と婚姻関係を結んでいたとする記述が非常に気にかかるのです。

これはいったいどういうことなのでしょうか?

画像2:千と千尋の神隠しから千尋とハク
アニメ評論界隈では兄妹説が一般的だが、古代史解釈的には千尋のモデルが栲幡千千姫命、ハクのモデルが饒速日命なのは明らかなので、古代王朝における母子関係を表していると考えられる。


三重津浜雲追い追いて訪ぬれば、あれ出でませし白き龍神
管理人 日月土

八咫烏の兄弟

前々回の記事「神武天皇と三嶋神」では、三嶋神から神武天皇へとどのように血筋が繋がるのか、伊豆半島の伊古奈姫神社に残る伝承、そして三宅島に残る三島八王子の伝承から実際の有様がどうであったのかを推測してみました。

その結果が以下の系図です。

画像1:三嶋神を巡る姻戚関係(人名付)

上図で「三嶋神」の隣に添えてある、彦火火出見(ひこほほでみ)、賀茂建角身(かものたけつぬみ)、八咫烏(やたがらす)は伝承毎に呼び名が異なりますが、いずれも同じ三嶋神を表す別称であると、これまでの考察から結論付けています。

この中で、彦火火出見については、日本書紀・古事記において正当な皇孫(すめみま)の継承者としてその名が記載されており、三嶋神について調べるには、記紀神話の中で彦火火出見がどのように描かれているかを詳細に見ていく必要があると考えられます。

そこでまずは、日本書紀が彦火火出見をどの様に記述しているのかを改めて見ることにします。

■彦火火出見の誕生とその兄弟

彦火火出見がどのように誕生したのか、その一節をまずは日本書紀の本文から引用してみます。

皇孫(すめみま)因りて幸(め)す。即ち一夜にして有娠(はら)みぬ.皇孫、未信之(いつはりならむとおもほ)して日(のたま)はく、

「復天神(またあまつかみ)と雖(いふと)も、何(いかに)ぞ能(よ)く一夜の間に、人をして有娠(はら)ませむや。汝が所懐(はら)めるは、必ず我が子に非じ」

とのたまふ。故(かれ)、鹿葦津姫(かしつひめ)、忿(いか)り恨みまつりて、乃(すなは)ち無戸室(うつむろ)を作りて、其の内(なか)に入り居(こも)りて、誓ひて日(い)はく、

「妾(やつこ)が所娠(はら)める、若し天孫の胤(みこ)に非ずは、必当(かなら)ず[ヤ]け滅びてむ。如(も)し実(まこと)に天孫の胤ならば、火も害(そこな)ふこと能(あた)はじ」

といふ。

即ち火を放(つ)けて室を焼く。始めて起る烟の末より生り出づる児を、火闌降命(ほのすそりのみこと)と号く。[是(これ)隼人等(はやひとら)が始祖(はじめのおや)なり。火闌降、此をば褒能須素里(ほのすそり)と云ふ。]

次に熱(ほとぼり)を避(さ)りて居(ま)しますときに、生(な)り出づる児(みこ)を、彦火火出見尊と号(なづ)く。

次に生り出づる児を、火明命(ほのあかりのみこと)と号く。是(これ)尾張連等(をはりのむらじら)が始祖なり。全て三子(みはしらのみこ)ます。

※[ヤ]はフォントが見つからず読み仮名で代用

岩波新書 日本書紀(一)神代下

鹿葦津姫とは木花開耶姫(このはなのさくやひめ)の別称で、夫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)がたった一夜の契りにして懐妊したのを疑い、「私の子ではないのだろう」と言ったことに怒り、産屋に火を放ってお産をするという、何とも壮絶な状況が描かれています。

皇孫である夫の子なら決して火で焼かれることはないと、まさに身を挺しての自己証明だったのですが、そこで生まれたのが

 第一子 火闌降命(ほのすそりのみこと)
 第ニ子 彦火火出見尊
 第三子 火明命(ほのあかりのみこと)

の3人の子だったのです。

もちろん、この話自体が丸ごと荒唐無稽なのですが、ここで気になるのが、彦火火出見にはほぼ同時に生まれた兄と弟がいること、そして3人とも火の中で生れ、その名に「火」の字が与えられている点なのです。

この話が何かしらの史実を比喩的に表現したものであろうことはほぼ間違いなく、実際の血縁関係はともかく、この3人が兄弟として並べられたその理由、ここで象徴される「火」の字の意味を探ることが、三嶋神(彦火火出見)の出自を理解する上で重要なサインであると考えられます。

上記の引用は日本書紀本文からなのですが、これに付随する一書(あるふみ)には、これとは若干異なる彦火火出見誕生譚も併記されています。確認の為、出生順とその名前については、各一書毎に次の様になります。

ある一書(1)

 第一子 火酢芹命(ほのすせりのみこと)
 第ニ子 火明命
 第三子 彦火火出見尊 又の名を 火折尊(ほのをりのみこと)

別の一書(2)

 第一子 火明命
 第ニ子 火進命(ほのすすみのみこと)
 第三子 火折尊
 第四子 彦火火出見尊

別の一書(3)

 第一子 火酢芹命
 第ニ子 火折尊 又の名を 彦火火出見尊

別の一書(4)

 第一子 火明命
 第ニ子 火夜織命(ほのよりのみこと)
 第三子 彦火火出見尊 又の名を 火折尊(ほのをりのみこと)

別の一書(5)

 第一子 火酢芹命
 第ニ子 彦火火出見尊

ちなみに、古事記の方を見て見ると次の様になっています。

 第一子 火照命(ほでりのみこと)
 第ニ子 火須勢理命(ほすせりのみこと)
 第三子 火遠理命(ほをりのみこと) 又の名を 
      天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)

ここで更に「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)ではどう書かれているのかを加えます。これは日本書紀の一書(2)と同じなのが分ります。、

 第一子 火明命
 第ニ子 火進命
 第三子 火折尊
 第四子 彦火火出見尊

以上を眺めると、まずはっきりしている点に彦火火出見の名は全ての書において共通して見られること、そしていずれも長子でないことが挙げられます。

また、表現に揺らぎはありますが、火闌降/火酢芹/火須勢理/火進はおそらく同じ「ホノスセリ/ホスセリ」を指しているのだろうと考えられます。

火折/火遠理(ホノヲリ/ホオリ)については、彦火火出見を表す別称、あるいは全く別人なのかはっきりしませんが、この命名の意味が理解できれば、どちらが正しいのか見えてくるでしょう。ここでは彦火火出見の別称として扱います。

よく分からないのが、火照命と火夜織命なのですが、全体の出現パターンから見て、前者が火明命、後者が火酢芹命を指すのではないかと予想されます。

以上をまとめると、書紀本文の記述に有るように、火闌降・彦火火出見(火折)・火明の3人が、火の中で誕生するというこの極めて比喩的表現で描かれた登場人物ということになるのです。

「火」を縁に生まれたこの3兄弟なのですが、後に続く物語は少し奇妙な展開を見せてくるのです。

■消えてしまった火明命

子供の時に「海彦・山彦」という日本神話を聞いたことがある方は多いと思いますが、日本書紀でこの後に続くのはまさにその話なのです。

兄火闌降命、自(おの)づからに海幸(うみさち) [幸、此をば左知と云ふ。] 有(ま)します。弟彦火火出見尊、自(おの)づからに山幸(やまさち)有(ま)します。始め兄弟二人(あにおとふたはしら)、相謂(かたら)ひて日(のたま)はく、「試(こころみ)に易幸(さちがへ)せむ」とのたまひて、遂(つひ)に相易(あひか)ふ。各(おのおの)其(そ)の利(さち)を得ず。

岩波新書 日本書紀(一)神代下

海で漁をする兄の海幸(海彦:火闌降命)、そして山で狩りをする弟の山幸(山彦:彦火火出見)が互いに仕事道具を交換し、それぞれいつもとは異なるフィールドで仕事をするも、互いに成果は出ない・・・・

ご存知の様に、山彦は兄海彦の釣り針を失くしてしまい、兄に責め立てられて落胆しているところに1人の翁が現れ、龍宮城に行き豊玉姫を見初めて帰還するというあの神話の冒頭部分です。

ここで妙なことに気付きます。前段の話では3兄弟であったはずなのに、この海彦・山彦神話の段では、何故か兄と弟の2人だけの関係に終始しているのです。

ここで消えてしまった兄弟の名は

 火明

なのですが、この名前、実は本ブログでも日本神話において非常に重要な位置を占める人物の別名であることを既にお知らせしています。

それは、秀真伝において瓊瓊杵尊と共に並立王朝を築いたとされる

 猿田彦

の別名なのです。

画像2:失われたホノアカリ王朝とその変名
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これはいったいどういうことなのか?どうやら三嶋神(彦火火出見)誕生の背後には、猿田彦、あるいはその別称の味耜高彦根(あぢすきたかひこね)が深く関係しているようなのです。


九十九浜 渡りて向かう玉前の姫
管理人 日月土