東日流外三郡誌の故地を訪ねる

ここしばらくアニメの話題に偏ってしまったので、休憩と言う訳ではありませんが、現地調査の報告をさせていただきたいと思います。

今回の調査対象は、私もほとんど訪ねたことのない東北地方です。東北地方と言うと、歴史上では異郷人の蝦夷(えみし)の地ということで、「征夷大将軍」という言葉があるように、朝廷にまつろわぬ野蛮な地のイメージで語られることが多いようですが、その古代期については記紀などの史書を読んでも詳しく触れられることはなく、日本古代史上最も謎めいた土地の一つであることは間違いありません。

しかしながら、この7月、オリンピックの開催期間中に「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産に加えられるなど、再びこの地に注目が集まり始めています。

東北が歴史に登場するのは、神話時代におけるヤマトタケ(日本武尊のこと)の日高見国東征。西暦600年代半ばと推測される阿倍比羅夫(あべのひらふ)による征夷、西暦800年代初頭の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)による征夷などで、その後、西暦1000年代半ばの前九年の役とそれに続く後三年の役を経て、安倍氏・清原氏など東北の有力氏族が滅びるとなっています。

しかし、それだけでは東北地方でどのような人の営みが見られたのか、ましてや、世界遺産にも指定された日本を代表する縄文遺跡と西暦1000までの社会の繋がりがさっぱり見えてきません。

近年、縄文文化が極めて精神性の高い文化であることが分かってきており、東北地方を朝廷側に一方的に攻められるだけの未開の地であるようなイメージで捉え続けるのは、およそ正確でないことが分かります。

画像2:縄文遺跡の分布(出展:田中英道先生のメールマガジンより拝借)

上の画像2を見れば分かるように、縄文期の遺跡は関東・東北・東海地方に圧倒的に多く見られ、同地域を語らずして日本の古代史を知ることなど到底叶わないことがお分かりになると思います。記紀を文字通りに解釈すれば、その歴史は近畿など西日本を中心とした歴史であり、そこには、おそらく日本原初の人々であろう関東人、東北人、東海人の姿がリアルに見えてこないのです。

私はこれこそ、古代から続く日本史改竄政策の一環であると見ていますが、そのような仮定をするならば、日本古代史の何を残すと都合が悪いのかが問題となってきます。残念ながら私たちは既に色々と隠されてしまった歴史しか教えらえていませんので、まずは、失われた史実が何であったのかを少ない手がかりの中から見つけ出さなければなりません。

■東北について触れている秀真伝

これまで、このブログでは神代文字によって書かれた史書、秀真伝(ホツマツタエ)に非常にお世話になっています。記紀の原典とも言える秀真伝には、神話化されていない、人間としての古代期(上代)が生き生きと記されているのですが、そこには、タカミムスビの宮が築かれたと推定される宮城県の多賀城市や、大国主が追放された地とされる青森県の津軽地方のことがわずかながらも触れられています。

また、ヤマトタケによる小東北の遠征範囲(福島県の勿来(なこそ))や、当時日高見国と呼ばれた東北王朝との交渉の様子などが記されています。

こうなると、朝廷と東北地方の関係は、一般通史における単なる中央と外地と言う2極分化的な関係ではなく、複数の王朝(または皇統)とそれぞれのテリトリーとの関係性で考える必要が出てくるのです。

しかし、秀真伝も書かれていることは限られており、古代東北の実情を知るには、まだまだ資料として不十分であるとしか言いようがありません。

■東北王朝の存在を主張する東日流外三郡誌

そんな中、古代東北王朝について記述する「東日流外三郡誌」(つがるそとさんぐんし)は非常に魅力的に写る書物なのですが、歴史ファンならご存知のように、この書は「偽書」としての批判が絶えないものでもあります。

画像3:東日流三郡誌(古代編)

先に歴史隠蔽政策などと言ってるくらいですから、私にとっては記紀などのいわゆる正統本ですら「改竄の書」でしかありません。むしろ、人がその人の主観で記載する以上、いわゆる「正史」なるものは、この世に存在するはずがないとすら考えています。

その意味では、全ての史書にはどこか偽書的な性質があり、とりわけ東日流外三郡誌だけを偽書として排除する理由はないはずです。確信的に書かれた偽書には、むしろ偽るだけの大きな理由があり、そこを突き詰めれば逆に当時のリアルな事情が見えてくると考えられるのです。

東日流外三郡誌は、少なくとも東北を中心とした視点で古代を語っていますので、その記述の正確さはひとまず横において、他の史書や、遺跡などとの比較を通して、何が真実なのかを見つけ出すのには好都合な資料として使えるでしょう、たぶんですが。

■読み方に注意が必要な東日流外三郡誌

そうは言っても、現在販売されている東日流外三郡誌(以下三郡誌と略す)を手に取り、最初の方を読んで思ったのが

 これは相当癖があるなぁ

というものでした。

というのも、三郡誌は火事で消失した古資料を復活せんと、江戸時代後期の寛政期に、秋田孝季(あきたたかすえ)が年月をかけて聞き集めた断片的な伝聞を特に編集もせず残したものだからです。つまり、オリジナルの古伝ではないということです。そして、そのような寄せ集めの資料ですから、書籍編集者の苦労は偲ばれるものの、読み物としての一貫性に乏しく、非常に読みにくい一面があります。

なおよろしくないのが、この秋田氏は、長崎で外国人から当時最先端の西洋科学知識を学んでおり、ダーウィンの進化論や、地球起源に関する宇宙論などをこれぞ天下の事実として、文中に書き入れていることです。また、複数の出来事の繋ぎを古事記の記述で補っている形跡も多分に見られるのです。

これでは、どこまでが故事で、どこからが秋田氏の推測なのか混同してしまい、書物の全体的な信憑性が大きく阻害されてしまうなとも感じました。このように、一般的に偽書扱いされてしまうのもよく分かるのですが、それでも見るべき箇所は幾つもあり、注意深く読めば、それなりの史料価値はあるだろうというのが私の判断です。

■日本の始まりは津軽?

三郡誌の最古期の話は、日本列島が大陸と繋がっていた頃、大陸から渡って岩木山の東側に定住を始めた、モンゴロイドの阿蘇部族(アソベ)から始まります。そこに更に津保化族(ツボケ)が渡ってくると両者の間で争いが起き、後に大陸から逃げて来た中国は晋の皇帝の子孫、そして神武天皇の東征から逃げて来た安日彦・長髄彦の邪馬台国勢が加わり、その他の大陸移民が渡来混血して東北荒吐族(アラハバキ)が誕生したとあります。同書はこれが純粋な日本民族の始まりと主張しているのですが、果たしてどうなのでしょうか?

一方、秀真伝には、中央政治から追放されたオホナムチ(大国主)は、息子のシマツウシを頼って、津軽に身を寄せたとあります。オホナムチは長髄彦の数代前ですから、三郡誌の記述と無理に整合を取ろうとすると、安日彦・長髄彦が津軽を訪れる前に既に出雲皇統の一派が現地で統治を始めていたことになります。しかし、そんな大物が現地を訪れていながら、三郡誌には一切記録に残っていないのは解せない話です。そもそも、三郡誌は、東北荒吐族と中央の日向族(朝廷)の対立概念で書かれており、秀真伝の記すような、複数の皇統が全国に存在していたような記述は見られません。

画像4:現在の津軽地図と遺跡スポット

この時点で既に訳が分からない状況に出くわしてしまうのですが、こういう時はまず現地を見てみることです。そのような訳で、私は青森は津軽の地、現在の弘前へと視察に向かったのです。

■岩木山に古代出雲の痕跡か

私の場合、地方へ出かけたら情報を得るためにまずその土地の主要な神社へと向かいます。弘前に到着した翌日、早速同地のシンボルでもある岩木山、その麓にある岩木山神社へと向かいました。

この季節、林檎の実が赤く色付き始めるころで、気高く聳える岩木山と対照的に、裾野に広がる一面の林檎園が花咲くように美しかったのがたいへん印象的でした。

画像5:道路から眺める岩木山
画像6:岩木山神社と背景に写る岩木山の山頂
画像7:岩木山神社拝殿

岩木山神社の創建は今から約1200年前の宝亀11年(780)。坂上田村麻呂とも縁が深く、江戸時代に入ってからは津軽藩主の庇護を受けたこともあって、立派な神殿が残されています。こちらのご祭神は以下の通り。

 顕國魂神   うつしくにたまのかみ
 多都比姫神  たつひひめのかみ
 宇賀能賣神  うがのめのかみ
 大山祇神   おおやまづみのかみ
 坂上刈田麿命 さかのうえのかりたまろのみこと

特に、出雲色らしきものは感じられなかったのですが、驚いたのはその帰り道に見つけた近くの神社、高照神社なのです。

高照(たかてる)という言葉を聞いて最初に思い出すのは、映画「もののけ姫」の構造分析シリーズ「下照姫を巡る史書の暗号」でもご紹介したことのある、あの高照姫なのです。

秀真伝によるとタカテルヒメ(高照姫)はオホナムチ、すなわち大国主の娘であり、ここに僅かですが大国主の痕跡が見られたのです。

そして、高照姫の名前があるということは、その夫であるアメワカヒコ、すなわち当ブログの構造分析の結果、アメワカヒコと第10代アマカミのホノアカリは同一人物ですので、どうやら現皇統の血統がこの地に関係してくると言う流れになってきます。

画像8:高照神社拝殿

しかし、ここは普通の神社とは異なり、第四代津軽藩主の信政から、後の藩主の霊を祀る霊廟として機能していたようです。よって創建は1712年と比較的新しく、古代の色彩を残す神社とは言えない面があります。

そもそも、「高照」という社名を付けた理由が今一つはっきりせず、津軽氏がどうして大国主の娘の名をこの社に付けたのかは謎のままです。もちろん、良い名を思案している中で偶然この名を思い付いたとすることもできますが、それでも、秀真伝にある大国主追放の地との関連性は簡単に払拭することはできません。

少なくとも、この事実は当地を調査する上で何か重要な手掛かりとはなりそうです。

この後、世界文化遺産にも指定された縄文遺跡群などを数件訪れましたが、それについては次の記事でご紹介したいと思います。こちらは、有名な環状列石(ストーンサークル)や遮光器土偶が見つかった場所となります。


津軽北国 岩木の山に帰る時ぞ来る
管理人 日月土

千と千尋の隠された神(3)

-琥珀に刻まれたメッセージ-

アニメ映画「千と千尋の神隠し」(以下「千と千尋」と記述を省略)、これまでの考察からその裏ストーリーが示すこの映画のモデル地を、

 千葉県東総地区(現銚子市・旭市・東庄町)

と特定し、また、映画に描写された構図などから、「油屋」のモデルが、千葉県銚子市に鎮座する

 猿田神社

であることを導きました。

この結論に対し、関東の東の外れにあるいかにも閑散とした地方都市と、あまり有名とも言えない田舎の神社が、どうしてあの大ヒット映画の聖地になり得るのか?と、まだ納得できない読者様も多いかと思います。

そこで、前回は省略しましたが、上記の結論でほぼほぼ間違いないだろうという、決定的な事実をここでお知らせします(メルマガ8月16日号では解説済)。

■舞台特定の決め手:琥珀

画像1:ハクは龍と人間の2形態を持つ
同じ設定が「竜とそばかすの姫」の「リュウ」にも使われている

ご存知の様に、上図はこの映画の主要登場人物の一人である通称「ハク」であり、そして湯婆に奪われたその本当の名は

 ニギハヤミコハクヌシ ・・・(1)

であることを思い出してください。次に以下の図を見ていただきたいと思います。

画像2:幼い頃に千尋は川で溺れた

溺れた千尋を助けたのが白い龍神となった「ハク」なのですが、この川の名前は何であったでしょうか?そうです、

 コハクガワ ・・・(2)

なのです。

(1)と(2)に共通する文字列が「コハク」となることはすぐに気付かれたと思いますが、同時に、この様に重ねて命名するからには、この文字列に何か特別な意味があろうことは、読者の誰もが想像し得るのではないでしょうか?

「コハク」とは素直に解釈すれば「琥珀」、英語で言うところの amber(アンバー)であり、太古の樹脂が化石化したものです。宝石などに興味がある方なら、宝石の原石の一種であることは既にご存知かと思います。

画像3:琥珀

実はこの琥珀、日本にもその産出地として知られた土地が二箇所あり、その一つが

 千葉県銚子市

なのです。そして、縄文時代には既に琥珀を加工していた痕跡が銚子の遺跡からは見つかっています。

画像4:日本における琥珀の産地
画像引用元:久慈琥珀株式会社

日本全国でも産地が限られている「琥珀」。その「コハク」の呼び名が映画の中で重ねて使われているだけでなく、その主要産地までが、これまでの考察によって得られた映画のモデル地「千葉県東総地区」とピッタリと重なるのは、もはや偶然で済まされる話ではありません。この映画は

 明らかに千葉県東総地区を意識している

と断言しても良いのです。

そして、琥珀とは元々樹脂でありますから、当然ながら油の一種です。前回の記事で取り上げた当地の産物を併せて列記すると次の様になり

 1)醤油
 2)椿 (種子から油)
 4)紅花 (食用油)
 3)キャベツ (アブラナ科)
 4)養豚 (脂肪の多い食肉)
 5)琥珀 (樹脂)

以上の様にどのアイテムも「油」に絡んでくるのです。ですから、映画の中で湯処であるはずの「湯屋」がどうしてわざわざ「油屋」と表記されているのか、この「油」の一文字を見ただけで、この映画のモデル地がどこであるのか特定できるようになっているのです。

画像5:「油」の字は映画モデル地の象徴である

■千尋の母の声は沢口靖子さん

ここまで諸要素が重なると、もはやモデル地を特定するアイテムを羅列することに意味は無いのですが、もう一つだけ、千尋の母の声を担当したのが女優の沢口靖子さんであったことは特筆しなければなりません。

沢口靖子さんと言えば、以前にも触れましたが、1985年4月~9月放映のNHK朝の連続テレビ小説「みおつくし」で主演デビューしたことで知られています。

画像6:千尋の母とみおつくしの沢口靖子さん

覚えておられる方も多いと思いますが、このドラマの舞台とは「銚子」の「醤油」蔵だったのです。ここにも、声優の配役を通して、銚子と繋げようとする映画制作側の強い意図を感じずにはいられません。

この「みおつくし」という名前、昨年の記事「椿海とミヲの猿田彦」で解説したように、非常に注意が必要です。なぜなら、秀真伝によると「みお」とは猿田彦が宮を築いた土地名を指し、「つくし」とはすなわち「筑紫」、日本神話においてニニギノミコトが天孫降臨した九州北部を指す地名で、その天孫降臨は猿田彦の導きによってなされたとされています。

ここでいよいよ歴史の暗号が絡んでくる訳なのですが、「銚子」と「猿田彦(神社)」というキーワードのセットが、沢口さんを通して「みおつくし」と「千と千尋」の両方に出現するという事実には何か非常に強い作意を感じます。

「みおつくし」が放映されていたその期間(1985年4~9月)に、ちょうどあの123便事件が発生しました。この1985年という年に注目することにより、「千と千尋」の細かい設定の中に別の意図が潜んでいることが分かってくるのです。

■千尋の家族が「荻野」姓である理由

千尋とその両親の荻野(おぎの)家は、廃墟となったリゾート地に迷い込みます。料理の良い匂いに誘われ、3人は無人の商店街に迷い込むのですが、その時の街の描写をよく見て頂きたいたいのです。

画像7:「荻野」と「尋」の名前が奪われようとしている
画像8:無人の街と荻野さん

私もそうでしたが、このシーンを見て誰もが薄気味悪さを覚えたのではないでしょうか?特に気になるのは、まるでつげ義春氏の漫画の世界を思い出させる次の看板だったのではありませんか?

画像9:「め」の看板とプロビデンスの目
プロビデンスの目とは「全てを見通す目」の意味

ここが眼医者なのか薬屋なのか、あるいは眼球そのものを売買しているお店なのか分かりにくい看板ではありますが、陰謀論でお馴染みの「プロビデンスの目」と見ることもできます。しかし、この気色悪さだけに注目しているとそのデザインの真意は見えてきません。

このシーンの中に「荻野」さんたちの居ることが非常に重要なのです。私たちは深層心理の中で、視覚や聴覚で得た膨大な情報を無意識の内に組み合わせて解釈していると考えられるのですが、すると、このカットから次の様なの組み合わせが生まれることもご理解できるでしょう。

 「荻野」+「め」 → 荻野目

「荻野目」とは普段はあまり聞きなれない言葉ですが、バブル時代に活躍したアイドル歌手に「荻野目洋子」さんがいたのをかすかに思い出します。そう言えば、彼女の代表曲で(唯一の?)大ヒット曲でもある「ダンシングヒーロ―」は、最近でも時々耳にすることがあったかもしれません。

動画:荻野目洋子さんの「ダンシングヒーロー」

ここまでの関連性は、何だか思い付きベースであまり説得力が無いように見えるかもしれません。しかし、ここで荻野家の一員である千尋の母、その声優が沢口靖子さんであることが意味を持ってきます。次を見てください、

 みおつくしの放映:1985年(4~9月)
 ダンシングヒーローの発売:1985年(11月21日)

この突拍子もない組み合わせは、「1985年」をキーに強く結びついてくるのです。さて、それではなぜ「ダンシングヒーロー」なのか?

実はこの曲にには次の様な英語のサブタイトルが付けられています。

 Eat You Up (お前を食ってやる)

これは、「食べたいくらい可愛い」などの意味で使われることの多いフレーズですが、状況が分からない場合は、上記の直訳の通りとなります。つまり、これこそがこの複雑かつ精密な設定が伝えようとしている最終メッセージであると考えられるのです。

映画では、千尋の両親は豚に変えられ、まさに「食われる」前に二人を助け出すことが千尋の急務となるのですが、観賞者の心理を利用したこの細かな伏線が、単に映画の切迫したムードを補強するために張られたとは考えにくいものがあります。

おそらく、裏ストーリーに描かれた日本古代史上の人物に対して、同時にこの映画の観客に対しても呪いを掛けていると思われるのですが、呪い云々については(真)ブログの方で取り上げるとして、ここでは現代においてもなお呪いをかけ続けられる古代史上の人物とはいったい誰なのか、そして千葉県東総地区とは古代どのような場所であったのか、史書などを基にそれを分析していきたいと考えています。

繰り返しますが、1985年は123便事件のあった年です。123便事件がその何年も前からメディア戦略を駆使して周到に準備されたものであることは(新)ブログの「芸能界の闇」シリーズで幾つか論証していますが、今回の分析により、少なくとも「千と千尋」が公開された2001年当時まで、123便事件に関わる、またはその流れを汲む大衆洗脳の心理戦術が継続され続けていたものと考えられるのです。その目的はいったい何であったのでしょうか?


* * *

主要登場人物の分析は次回より始めたいと思いますが、その一人である「ハク」という呪い名に、「琥珀」の他にどのような意味が込められているのかを考えてみてください。


古の世を刻みし琥珀石に問ふ
管理人 日月土

千と千尋の隠された神(2)

前回の「千と千尋の隠された神」では、この映画の舞台モデルがどの土地であったのか、別のアニメ映画「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」(以下「打ち上げ花火」と記述を省略)との構図の類似点から考察しました。

その結果、「千と千尋の神隠し」(以下「千と千尋」と記述を省略) に登場するあの水上を走る海原電鉄と同じ構図が「打ち上げ花火」でも見られ、後者の方には明確に「千葉県飯岡町」(現旭市)との記述がシーンに登場することから、前者もおそらく同じ土地を指しているだろうと見たのです。

加えて、「千と千尋」の背景にそれとなく描かれる椿の花が、江戸時代まで旭市の大部分を海水で覆っていた「椿海」(つばきのうみ)を暗示していると解釈し、ここで、

 「千と千尋」のモデル地は千葉県旭市周辺

ではないかとしたのです。今回はまず、この仮定が正しいかどうか、別の視点から検証します

■油屋の謎と銚子

前回の記事の最後に、千葉県旭市(あさひ)および東に隣接する銚子市(ちょうし)の産物を調べておいてくださいとお願いしていましたが、結果は如何だったでしょうか?

銚子については既にご存知の方が多かったかもしれませんが、銚子と言えば、全国でも有数の醤油の生産地で、ご家庭でもお馴染みの「ヤマサ醤油」そして「ヒゲタ醤油」の生産工場があります。ちなみに、やはり醤油メジャーの「キッコーマン」は、同じ利根川添いの千葉県野田市に大工場を構えています。

画像1:ヒゲタ醤油工場(銚子)
画像2:ヤマサ醤油工場(銚子)
画像3:キッコーマン醤油工場(野田)

この中ではヒゲタ醤油が一番歴史が古く、他の2社もヒゲタ醤油をそのルーツに持つとのこと。そのヒゲタのルーツはさらに遠く紀州にまで遡るようですが、ここでは深追いしません。

いきなり醤油の話になってしまいましたが、「醤油」の文字をよく見てください。そこには「油」の字が使われていますよね?

画像4:「湯屋」ではなく「油屋」

「千と千尋」で千尋が世話になったお湯屋さんの「ゆや」は、何故か「湯屋」ではなく、「油屋」と記述されたことを思い出してください。このような一見訳の分からない設定には何か意味があるはずで、その一つとして考えられるのが、物語の舞台が千葉県東総地区(旭、銚子、東庄周辺)を暗示するためであるという考えです。

実は、さきほどの「椿」も種子から油の取れる木であり、酸化しにくい椿油は化粧用の髪油として重宝されている方も多いのではないかと思います。

画像5:伊豆大島の椿油

ここで、映画に登場する「油」という不可解な文字が、映画の設定舞台と考えられる千葉県東総地区の「椿」という旧地名と、名産の「醤油」のキーワードで結ばれることが理解できると思います。

また、これは現地の人から聞いた話なのですが、銚子ではかつて紅花の栽培が盛んだったそうです。紅花と言えば「紅花油」の原料であることは説明する必要はありませんね。この「紅花」がまた意味を持ってくるので、これはちょっと覚えておいてください。

■銚子名物「灯台キャベツ」

メルマガ8月1日号では既に私の銚子経験を細かく書きましたが、実は、銚子については昔の仕事の関係で多少は詳しい方だと思っています。

銚子と言えば、醤油の他に銚子漁港で水揚げされる水産物が有名なのですが、春先に現地へ行くと「灯台キャベツ」というブランド名の春キャベツの生産が盛んなのです。

私も食べたことがありますが、柔らかくて、お浸しなどにするとたいへん美味しかったのを覚えています。

大地の上に幾つも聳えたつ発電用風車とその下に広がる緑のキャベツ畑のコントラストは他所ではなかなか見られない景色で、私にとっても思い出深い風景の一つです。実はこの風景がそのまま「打ち上げ花火」でも使われているのです。

画像6:「打ち上げ花火」の風車シーン
これは銚子の風景ほぼそのままです

ここまでしつこくキャベツの話を書きましたが、そこで「千と千尋」の次のシーンを見て欲しいのです。

画像7:二人の後ろに広がる畑は何畑?

ハクと千の二人は、豚に変えられてしまった千尋の両親を豚小屋の入り口から覗き込むのですが、背景に描かれた畑で育てられている農産物とは、そう

 キャベツ

なのです。ここでもまた、千葉県東総地区を暗示する記号がしっかりと描かれているのです。

■養豚は旭の主力産業

前節で豚小屋の話を出しましたが、「千と千尋」の中で「豚」というシンボルは非常に大きなインパクトを以って記憶に残っているかと思います。

露店で料理を食べ続けた両親がみるみる豚に変わっていくシーンは子供にとってはかなりショッキングなものでしょうし、物語の最後に、たくさんの豚の中から両親を探し当てなければならないシーンなどは、思わず手に汗握ってしまうような展開です。

ところで、舞台候補地である旭市が、実は、養豚業が極めて盛んな地域であるとご存知だったでしょうか?

2016年の農業出荷額ベースでは、旭市の畜産業は千葉県内では断トツの1位で、全国自治体の中でも5位という高順位を占めているのです。そして、その内の半分以上をまた養豚が占めているのです。

画像8:旭市の畜産農業に関連する農業算出額(約300億円)の内訳
(参考:ジャパンクロップス)

これまでに、「椿」、「醤油」、「キャベツ」と映画の舞台地を特定するアイテムを見つけてきましたが、ここに来て「豚」までもがその中に加わることになったのです。

ここまで揃ったのならば、もうそろそろ結論を出してもよいでしょう。

 映画の舞台は千葉県東総地区である

と。

■では油屋はどこなのか?

映画の舞台地が大まかに特定できたところで、いよいよ気になるのが、油屋のモデルがいったいどこなのかです。

これに関しては、映画の次のシーンが大きなヒントになります。

画像9:千尋が赤い欄干の下を覗いている
画像10:そこには海原電鉄が通っていた

舞台地がだいたい旭・銚子近辺であると当たりが着いた時点で、私はすぐにここがどこか分かりました。現地を知らないとさすがにここは簡単に特定できないと思います。では、いったいどこであるのか、比較的よく分かる写真を下に示します。

画像11:銚子市内の赤レンガの跨線橋(下を通るのは総武本線)

写真に写るこの跨線橋、実は

 猿田神社の参道

なのです。この地域内で他に該当しそうな所は見当たりません。映画シーンで油屋は赤い欄干の橋を渡ったその向こうにありましたから、必然的に

 油屋のモデルは猿田神社

ということになるのです。そして、わざわざ説明する必要はありませんが、猿田神社の祭神はその名の通り、猿田彦なのです。なお、あくまでもこれは裏設定上のモデルであり、いわゆるビジュアル的なモデルとは異なることを改めてお伝えしておきます。

画像12:猿田神社(千葉県銚子市)
画像13:猿田神社の位置

この猿田神社、既に「椿海とミヲの猿田彦」で登場しているのですが、ここに来て再びこの神社に注目することは、私にとっても驚きです。同記事では、実在しただろう高天原(たかあまはら)と関連して、猿田彦が宮を置いたという「ミオ(ミヲ)」の地が、実は小見(おみ)の地名が残る千葉県東総地区なのではないかとの推測を述べています。

さて、空前の大ヒットを記録した「千と千尋」と関東の東端に位置する猿田神社との間に、いったいどのような関係が見つけ出せるのでしょうか。


* * *

今回の記事の書き出しは、まるでアニメファンの聖地巡礼サイトのようになってしまいましたが、このブログの主眼はあくまでも日本古代史です。

「油屋」の設定が最後に千葉県銚子市の猿田神社であると分かったところで、いよいよアニメの中に巧妙に隠された日本古代史の分析が始まります。

なお、文中に出てきた「紅花」ですが、ここでもう一つのキーワードである「豚」と言葉を並べてみてください

 紅花・豚 

なんかこれに似た響きのジブリ映画がありませんでしたか?


紅色の土に隠れし鈴の乙女等
管理人 日月土

千と千尋の隠された神

今年に入って、スタジオジブリのアニメ映画「もののけ姫」のモデルとなった日本神話、および登場人物と歴史上の人物の関係性について物語の構造を分析してきました。その中で、映画冒頭に登場した主人公「アシタカ」の故郷の許嫁である「カヤ」が、日本書紀の神代に「栲幡千千媛萬媛命」(たくはたちぢひめのみこと)の名で登場する人物であると結論付けています。

なお、古事記における同人物の表記は「萬幡豊秋津師比売命」(よろづはたとよあきつしひめのみこと)であり、秀真伝(ほつまつたえ)ではもっと簡単に「タクハタチチヒメ」と表記されています。日本書紀の一書(別伝)には、この他に

 栲幡千千媛萬媛命(たくはたちぢひめよろづひめのみこと)
 天萬栲幡媛命(あめのよろづたくはたひめのみこと)
 栲幡千幡姫命(たくはたちはたひめのみこと)
 火之戸幡姫児千千姫命(ほのとばたひめこちぢひめのみこと)

と複数の表記が示されており、わざわざこれだけのバリエーションが書き残されていることから、神話化されてしまった日本の古代史の中でも、特に重要な人物であったろうことが予想されるのです。

なおここでは、同一人物を表す表記として、「千千姫」(ちちひめ)を使用することにします。

さて、これは既に記事にした話の繰り返しになりますが、千千姫の「千千」あるいは「チチ」という表記から、これがおそらくあの大ヒットアニメ「千と千尋の神隠し」のタイトルに用いられただろうことは容易に想像が付きます。

また、主人公の少女である千尋は、神々の世界に迷い込んだ後に、湯婆婆(ゆばあば)から「千」という名前を与えられます。つまり一人の少女が「千尋」と「千」の二つの名前を同時に持たされる、すなわち「千千」であり、このようなドラマ設定からも、千尋の人物モデルが、日本神話に登場する千千姫であろうことが窺えるのです。

画像1:カヤ(もののけ姫)と千尋(千と千尋の神隠し)から

■カヤの名はどこから来たか?

これは「もののけ姫」の構造分析の中で保留となっていたのですが、映画ではどうして千千姫に「カヤ」なる名前を付けたのか、その点が未だ不明点として残っています。

古代史上、「カヤ」と言えば真っ先に思い出すのが、朝鮮半島に誕生した伽耶(かや)、あるいは加羅(から)なる小国の連合国です。確かにアニメに登場したカヤの出で立ちは、朝鮮の民族衣装を彷彿とさせるものです。

画像2:伽耶国(Wikipedia から)

ところが、千千姫の父は、日本書紀では高皇産霊神(高木神)となっているし、秀真伝でも第7代タカミムズビのタカギとなっており、この系統からは伽耶国との関係が見えてきません。

ここで分析がすっかり行き詰っていたのですが、最近になって「カヤ」の名を冠した姫神の祀られている神社が、島根県の出雲地方にあることが分かったのです。それは、記紀秀真伝になく「出雲国風土記」に登場する「阿陀加夜奴志多岐喜比売命」(あだかやぬしたききひめ)です。そしてその父の名は「所造天下大神」(あめのしたつくらししおおかみ)、いわゆる大国主のことです。

追加画像1:阿太加夜神社(写真引用元:しまね観光ナビ)

ここでこの姫神の名前を注意深く見ると、「アダカヤ」とは伽耶国の一小国である「安羅伽耶」(あらかや)を指すとも考えられますし、「ヌシ」とは出雲大物主系の出身者によく付けられる名前です。そして、「タキキ」は「タカキ(高木)」と読めなくもありません。

つまり、この姫神の名前には、「朝鮮伽耶国」「出雲大物主(皇統)」「高皇産霊(皇統)」の複数の要素が同時に盛り込まれており、この名前自体が極めて暗号性の強いものとなっているのです。

伽耶国の中の一小国、金官国(きんかんこく)は後の新羅王を輩出した国であり、やがてその兄弟国である新羅に伽耶国は滅ぼされてしまいますが、その時に多くの王族たちが日本本土に避難・移住してきたと言われています。

島根出雲はまさに伽耶国の対岸であり、実際に、現地には海を渡って当地に辿り着いた高貴な人々の伝承が残っているそうなのです。

もしかしたらカヤと千千姫の関係を調べることは、当時の日本、及び朝鮮半島の統治体制や相互の関係性を知る上で非常に重要な着目点なのかもしれません。しかし、如何せん今はまだ資料が乏しいので、この点についての分析にはまだまだ時間がかかりそうです。

■千と千尋の聖地巡礼

さて、ここからは「千と千尋の神隠し」の構造分析を始めていくのですが、最初の手続きとして、この映画の舞台がどこに想定されているのかを見ていきたいと思います。

最近はアニメに登場するモデル地をファンが訪れる、いわゆる「聖地巡礼」がネット上で話題になることが多いようです。

この映画の場合も、その描画デザインのモデルとなっただろう建築物や街並みを熱心なファンが色々と見つけ出しているようです。例えば以下のようなものです。

 湯婆婆の屋敷 → 阿妹茶酒館
 油屋     → 道後温泉本館 
 物語の舞台  → 金具屋
 女中の部屋  → 積善館
 銭湯      → 江戸東京たてもの園の子宝湯
 赤い橋のシーン → 清州城
 
 参考サイト:旅する亜人ちゃん

本当によく見つけ出すものだと感心してしまうのですが、このブログで言うモデル地とは、視覚的な同一性よりも、むしろ物語設定上の同一性であることを初めに断っておきます。

実は、この映画のモデル地がどこであるか、暗にそれを示している別のアニメ作品があるのをご存知でしょうか?まずは次の二つのシーンを比較してみてください。

画像3:(左)千と千尋の神隠し(右)???

左の図は、ファンならお馴染みの水上を走る「海原電鉄」です。そして右の似たような構図はいったいどの映画に登場したのでしょうか?両方の映画をご覧になられた方ならすぐに分かったと思いますが、答は新房昭之監督による2017年のアニメ作品

 打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?

なのです。

動画:「打ち上げ花火・・」予告編

ご丁寧なことに、この「打ち上げ花火・・」、この電車がどこを走っているのか、しっかりその地名を作品中に表示しているのです。

画像4:「打ち上げ花火・・」に示された場所

このシーンの駅名標にはこのように書かれています

 千葉県飯岡町

これは架空の地名ではなく、平成の市町村合併以前は、千葉県海上郡飯岡町(うなかみぐんいいおかまち)として実在していた自治体名なのです。合併後の現在は、隣接していた旭市の一部地域となっています。ここで、「海上」と「旭」という地名をよく覚えておいてください。

さて、その旧飯岡町はどこにあったのか、それを次の地図に示しました。

画像5:旧飯岡町

このブログを1年以上読まれた読者さんなら、この地図どこかで見覚えがあるはずです。それは記事「椿海とミヲの猿田彦」でもご紹介した、江戸時代に干拓されるまで、「椿海」(つばきのうみ)と呼ばれる内海がかつてあった所なのです。

画像6:椿海と周辺自治体

この画像に、現在の総武本線の路線を描き足すと次の様になります。

画像7:椿海と総武本線

このように、総武本線は椿海の海上を横切るように通り過ぎていくのです。もしも椿海に今でも海水が湛えられていたなら、総武本線を走る電車はさながら、映画シーンに登場した海上を走る電車の様に見えたでしょう。

もちろん、以上は、モデル地を特定する参考要素の一つでしかありません。しかし、次のシーンを見た時、ここに描かれている花が何か分かれば、この電車シーンが「打ち上げ花火・・」による単なる構図のパクりでないことが分かると思います。

画像8:油屋の中庭に咲いた花
画像9:千尋の布団柄も同じ

梅雨の時期に満開で咲く季節外れの花。明らかにこの花が何かのサインとして使われていることにご納得いただけたでしょうか?

この話題は次回に続きます。それまでに、千葉県旭市、および隣接する銚子市の産物をネットなどで調べてみてください。それらの情報が驚くほどこの映画(千と千尋)の舞台設定に用いられていることに気付くはずです。

 ヒント:ヤマサ、ヒゲタ、油屋

また、自称ヲタキングの岡田斗司夫氏による「千と千尋の神隠し」の解説動画が、捉える角度が本ブログとは異なるものの、微妙な描写の違いを細かく指摘されているので、構成を理解する上でかなり参考になります。こちらにも目を通されることをお勧めします。
 岡田氏による解説動画①
 岡田氏による解説動画②

画像10:「打ち上花火・・」の車両モデルとなった銚子電鉄のデハ801
画像11:総武本線は飯岡から崖下のトンネルを抜け銚子方面へと向かう


灯台の 下照る岬 我立ちて 沈める君の 袖を手繰らむ
管理人 日月土

近江と美濃の彦坐王

今回の記事は、前回「秀真伝の土地を訪ねる」に引き続き琵琶湖周辺地域の調査報告となります。

前回のテーマは琵琶湖の西岸にある高島市でしたが、今回はその対岸にある東岸の長浜市が主な調査対象となります。

画像1:長浜市の位置(☆印は佐波加刀神社)

とは言え、一口に長浜と言ってもその範囲は広く、帰路も含めた1日足らずの限られた日程でくまなく調査するのはとても無理でした。そこで、ここで調べるテーマについてはピンポイントで次の歴史上の人物に絞りました。それは

 彦坐王(ひこいますのきみ)

です。

画像2:彦坐王の系図(日本書紀と古事記)
秀真伝も異なる部分はあるが大体似たようなもの

上古代の歴史を知る上で天皇系図が大事なのはもちろんですが、近い係累についての血脈についても侮れません。

この彦坐王、日本書紀ではその子についての記述はほとんど見られないのですが、古事記では、上図には書ききれないくらいの子沢山であることが記されています。

そこから続く孫、ひ孫の中には、後の神功皇后(14代仲哀天皇妃)、11代垂仁天皇のお后で12代景行天皇の母となる皇女が誕生しています。また、地方統治を務める各地の国造(くにつくり)の祖となる氏を輩出しており、この後の日本上古代史を考察する上で欠かせない存在となっています。

特に注目するべきは、丹波道主命の孫が後の日本武尊(ヤマトタケ)の妃を輩出し、神大根王の娘が日本武尊の兄の大碓命(おおうすのみこと)の妃に入ったと言う点です。大碓命は妃の里である現在の美濃地方に隠れたと伝えられています。

日本武尊が歴史に現れた時代は、天孫降臨の時以上に時代が大きく動いたと私は見ています。その意味で、彦坐王の足跡を訪ねておくことは、今後の考察のために重要であると捉えました。

■ヒコについて考える

前回の記事で、「旭」という地名が気になるという話題を出しましたが、高島市には日子主王(ひこうしのきみ)の古墳があり、長浜市には彦坐王を祭神とした佐波加刀(さわかと)神社があります(図1を参照)。

そこで気になったのが以下の3市の共通点です。

  高島市 新旭町 日子主王(人名)
  長浜市 新旭町 彦坐王(人名)
  彦根市 旭町  彦根(地名)

「旭」は日本ではポピュラーな地名ですし、「彦」は男性名として普通に用いられる文字です。これだけでは断定的なことは言えませんが、次の様に文字の成り立ちを考察すると何か必然性があるようには見えないでしょうか?

  旭=日(ひ)+九(こ)

そもそも、「ヒコ」の語源は「日の子」であると考えられ、太陽のような全てを照らす輝きを備えた子であると考えられます。つまり、「旭(ヒコ)」は日いづる所の御子と言う意味であり、これは本来、日本の皇統を位を継ぐ者、あるいはその血を受け継ぐ者と言う意味で名前に使われていたはずです。

実際に、日子主王も彦坐王も天皇家と縁が深く、その血縁者が天皇の妃に入ったり、天皇の地位を継いだりしています(26代継体天皇)。

また、第9代開化天皇と第10代崇神天皇の和風諡号は、それぞれ

 わかやまとねこヒコおおひひのすめらみこと
 みまきいりヒコいにえのすめらみこと

と読み、その名前の中に「日子」であることが示されています。

日の御子である「ヒコ」が高貴な血筋の男性名であることはもはや異論はないかと思いますが、そうなると、現在の日本神話にあるような、天照大神が女神であるという概念は極めておかしな話であり、太陽に対する本来の日本的考えでないことがここからも分かります。

天照大神を女神とする現在の神道は、今に生きる我々の目から見れば伝統的な信仰のように見えますが、はるか昔の日本の伝統と比較すれば、実は根本思想が逆転しており、これはすなわち、天照大神に関する記述が後世意図的に書き換えられていることを意味しているのではないでしょうか。

その点からも、女神天照大神を男性王アマテルカミと記述する秀真伝に真実味を私は覚えるのです。

■神社から御陵へ

彦坐王を祭神として祀る神社は全国でもあまり多くないようです。その一つが長浜にあるというのですから、これを機会にその神社を訪れました。

図3:長浜市の佐波加刀神社

町の中心を流れる高時川、川岸から町中を少し山に向かって歩くと、落ち着いた佇まいの佐波加刀神社の鳥居が現れます。

図4:佐波加刀神社の拝殿

そこからまた少し参道を登ると、山の木々に囲まれた拝殿が見えます。派手さはなく農村部の神社ではよく見られるお馴染みの光景です。

この時は特にこれといった発見をすることはできませんでしたが、しばらくここに滞在して、谷の方から聞こえてくる川のせせらぎを聴きながら、遠い日本の古代に思いを寄せてみたのです。

長浜市には他にも見ておきたい歴史ポイントが幾つもあるのですが、前述した通り、今回は彦坐王にフォーカスするということから、このまま長浜を離れ、伊吹山の麓を回り、関ヶ原を経由して岐阜市内へと向かったのです。

実は岐阜市内の長良川沿い、清水山という小山の麓に彦坐王の御陵があるというので、そちらへ行くことにしたのです。

御陵の脇には伊波乃西神社という立派な神社があり、そこでは彦坐王とその子である八瓜入日子命(神大根王)が祀られていました。

画像5:伊波乃西神社

御陵は神社の左手、少し登った山の中にあり、推定とは言え、上古代の比較的古い御陵を観ることができたのは貴重な体験であり、また、今後中京方面における調査を広げる上で非常に重要なポイントを確保できたと考えています。

画像6:彦坐王御陵

■アニメと彦坐王

さて、私は滋賀東部の湖畔沿いから岐阜まで、主に国道21号線を使って移動をしたのですが、読者の皆様はこの国道21号に何か見覚えはないでしょうか?

画像7:あのアニメシーンから

国道21号線は滋賀県の米原から関ヶ原を抜けて岐阜に入り、途中各務原を通って美濃の可児市まで向かうルートです。清水山は各務原に差し掛かったところで北に少し移動したところにあります。

別の言い方をすれば、国道21号線は近江と美濃を繋ぐルートとも言えます。その美濃の国造の祖となった彦坐王の名が共に21号線のほぼ両側、近江と美濃に現れ、しかもあの人気アニメ映画にもそれとなく登場していたというのは、単なる偶然と切り捨てるのは何か違う気がします。あのアニメとはそう、あの古代史てんこ盛り作品

 千と千尋の神隠し

なのです。

実はこの彦坐王御陵のある清水山は、1990年代の別のアニメでも遠回しに表現されており、何としても国民をここに注目させなければいけない大きな意図が感じられるのです。それについては、明日配信のメルマガの方でお知らせしたいと思います。


Blue Water、ただ青い水の色を知る
管理人 日月土

秀真伝の土地を訪ねる

5月の終わり頃、滋賀県の琵琶湖周辺を調査に行きました。一口に琵琶湖周辺と言っても琵琶湖は広いので、今回は西岸の高島市、そしてその東側の対岸に当たる長浜市を中心に巡ってきました。

画像1:高島市と長浜市の位置関係

高島市と言えば、私も古代史分析で大いに参考にしている秀真伝(ほつまつたえ)の和仁估安聡本(やすとし本)が残されていた土地です(発見は1992年)。同書には、この史書の編纂が日本書紀などにも登場する大田田根子(オオ・タタネコと読むのが正しい)によって為されたとあります。

加えて、秀真伝研究家の池田満氏は、かつて猿田彦がミオの地に宮を置いたとされるその場所こそが、現在の高島市にある水尾(みお)神社の周辺ではないかと推測を述べています。この地名にちなんでか、猿田彦は同書の中で別称「ミオノカミ」とも呼ばれています。

画像2:水尾神社(写真はWikiより)
時間の都合で現地には寄れず、通りすがりに車道から
眺めただけとなってしまいました。残念。

神武天皇以前の古代史を記紀が伝えるような創作的ファンタジー神話ではなく、古代期の人間の歴史として記述している秀真伝。そして、日本神話の中でも謎多き異形の神とされ、また全国の多くの神社で道案内の神として有名な猿田彦。この猿田彦がどんな人物だったのか、これら2つの気になる要素を併せ持つ琵琶湖西岸の高島を、遅まきながらこの目で確かめる必要があると思い、同地へと向かったのです。

■猿田彦を象徴する白鬚神社

南の大津から自動車で高島市へと近づくと、西側の山が琵琶湖の方に張り出し、山と湖水に挟まれた狭い土地がしばらく続きます。まるで高島へ入るための天然の関所のような所なのですが、そんな狭い土地の湖畔に鎮座するのが、近江地方最古の大社と称される白鬚神社です。

ここの白鬚神社の主祭神は猿田彦命です。一般的に白鬚神社と言えば猿田彦命を祀っていると考えられ、実際にこの神社から全国300社以上の白鬚神社に分祀されているようです。しかし、土地によってそうでもないことは、(元)情報本部自衛官さんがブログ記事「白髭神社全部行く!!!」で静岡県内を詳しく調査されていますので、そちらをご覧ください。

この神社に到着したのは既に暗くなり始めた頃で、細かい所まで十分見て回れたとは言えませんが、久しぶりに近畿圏の古社を訪れて、この地方独特の雰囲気を味わうことができたと思います。何より、社前に広がる琵琶湖の景色と、湖面に浮かぶ鳥居(*)の景観がたいへん印象的です。

*鳥居:(真)ブログの「今日も鳥居で神封じ?」で書きましたが、鳥居は基本的に神封じを意味した呪形なので、私は神気というよりは邪気を強く感じます。もちろん日本古来のものでもありません。個人的にはこちらの鳥居を含め、全ての鳥居は撤去されるべきだと考えます。門前は開かれた二本(日本)柱で良いのです。

画像3:白鬚神社前の湖上の鳥居

近所には有名な「白ひげ蕎麦」もあり、昼間に再度来てそこに入りましたが、たいへん美味しかったです。この神社に関する歴史的な検証はまだまだこれからですが、純粋に参拝を兼ねた食事と観光を楽しむ場所としては、私もお勧めできる場所です。

画像4:白ひげ蕎麦店内

■地名で考察する滋賀と千葉

高島市の市域はたいへん広いのですが、それもそのはずで、2005年に旧高島郡の以下の町村が合併して誕生した比較的新しい地方自治体なのです。

 マキノ町、今津町、新旭町、安曇川町、高島町、朽木町

市町村合併が行われ旧地名が失われていく中、ここ高島市では「今津町天増川」や「朽木麻生」のように旧町村名が地区名として残っているので、地名の来歴が追いやすく調査をする側としてはたいへん助かります。

ここで私が注目するのは次の2つの地名です。

 「安曇川(あどがわ)」と「新旭(しんあさひ)」

「安曇」は「あずみ」とも読むように、この地名からここが古代期に出雲系の安曇族が入植した場所であることが窺われるのです。出雲系と言えば、ここ最近は映画「もののけ姫」の構造分析を開始して以来、半年近く経過してしまいましたが、またしてもこ出雲の痕跡に出くわすこととなったのです。

「安曇」という字が使われている地名の全国分布を調べると、市町村名では長野県の安曇野市にその名が残っていますが、地区名で使用しているのは、長野県の松本市、鳥取県の米子市、そして滋賀県の高島市の3市にしか見られません。

次に「旭」という字の付く地名ですが、「あさひ」という言葉が日本人にとってなじみ深いせいか、この字を使った市町村名は北海道の旭川市など全国に5か所、地区名での使用に至っては全国47県中46県にこの字を冠した地名が見られるのです(2016年現在)。

このようなポピュラーな地名になぜ注目したかは、過去記事「椿海とミヲの猿田彦」をご覧になるとお分かりになると思います。タイトルの「椿海(つばきのうみ)」とは現在の千葉県旭市(あさひし)に該当します。そして、その土地での主役が前述した猿田彦であることにぜひご留意ください。

遠く離れ、互いに関係なさそうな琵琶湖西岸と本州の東の突端部にある二つの地域が、「ミオ(あるいはオミ)」、「旭」、「猿田彦」と3つのキーワードで繋がってくるのです。しかも、二つの地域は1985年の123便事件にも関係している可能性が疑われており、古代史実と同事件との関連性を追っている私の立場としては、やはり両者は外せないのです。

■イザナギ・イザナミの都が琵琶湖畔にあった?

事前に高島市にある史跡、主に神社と古墳を調べていたところ、少し気になることが分かりました。当然ながらいかにも古く由緒正しそうな神社は多いのですが、それにも増して「日吉」、「日枝」などの比叡山系の神社もまた多いのです。

画像5:高島史跡マップ

高島市は京都市街の北東部に位置している、つまり比叡山にもごく近いので、その系列の神社が多くても特に不思議はありませんが、何かひっかかります。Wikiの高島市について記述したページを見ると次の様に書かれています。

平安時代9世紀頃の高島郡は、『和名類聚抄』によると、木津・鞆結・善積・河上・角野・三尾など10郷の存在の記載がある。このうち木津荘(旧饗庭村)は、保延4年(1138年)山門領に加えられ、富永荘(伊香郡)、栗見荘(神崎郡)とともに、「三箇庄聖供領(千僧供領)」と言われ延暦寺の重要な経済基盤を担った。

引用:Wikiペディア

この様に比叡山延暦寺の寺領的な位置づけであることから、関連寺社が出張ってくるのはある意味当然なのでしょう。この地はまた、延暦寺創建前に壬申の乱(672)の戦場となったり、創建直後には藤原仲麻呂の乱(744)で藤原仲麻呂が斬り殺された場所でもあり、平安期前後はかなり重要な場所であったことは間違いなさそうです。

そして、こちらの日吉神社に関連して、秀真伝研究家の池田満氏は著書「ホツマ辞典」の中で次の様に述べています。

(ツボとは)政り事の中心となる、ツボ或いはカナメに相当するところのミヤコ(都)のことを言う。

(中略)

ヲシテ時代の書紀から初期から中期頃にかけて使われたため、ツホ(ツボ)の尊称のある地は極くわずかに限られる。

北の方から掲げると、ケタツホ・ハラミハツボ・オキツボの三箇所だけであるケタツホはヒタカミの中心の多賀城付近、ハラミハツボは富士山南麓、オキツボは琵琶湖南西岸の日吉大社)の所であろう

これはあくまでも池田満氏の推察ではありますが、琵琶湖西岸地域が神話時代から古代政治にとって重要な場所であったことは、現地を訪れた実感として肯定せざるを得ません。ちなみに、日吉大社は高島市の南に隣接した滋賀県大津市、延暦寺の東の麓に鎮座します。この位置関係からも、神話時代から数百年の時代を経て、この地域が比叡山の影響下に入ったことは明らかです。

■もう一つのミオ神社

さて、高島でミオと聞けば水尾神社を指すと一般的に思われていますが、それに近い名前の神社が市内に他にも存在します。それは三重生神社(みおう)神社です。ここでは毎年春に行われる「うしの祭」が関西方面ではよく知られているようです。

赤い天狗面を被り正装した社人が、参道脇の決まった土地で同じ方向に向けて三度飛びあがるという変わったお祭りです。この祭が何を意図して行われているのかを現地で分析しましたが、その結果についてはメルマガでのみお知らせいたします。お祭りに興味を持たれている方には少々残念なお話となるので。

画像6:三重生神社
画像7:飛びあがり神事の場所とその開催風景(ネットから)
民家と田んぼに囲まれた狭い土地。何でこんなところで?

この神社の祭神は、応神天皇の五世孫の彦主人王(ひこうしのおう)と、その妃である垂仁天皇の七世孫の振媛です。実は、この三重生神社からほど近い丘陵の上に田中古墳群というのがあり、その中の大きな円墳である田中王塚古墳の推定被埋葬者がその彦主人王なのです。

その丘陵への登り口付近には三尾神社旧跡が残っており、現在の水尾神社がここから移設されたものであることが分かります。

画像8:三尾神社旧跡
  秀真伝についても説明がある
画像8-2:同所の説明書き

どうやら、この辺り(高島市安曇川町常磐木周辺)が古代期におけるこの地の中心地のようなのですが、ここに現れている名称などからはすぐに猿田彦とは連動しません。また、旧地名が安曇川であることから、出雲族との関係も窺われるのですが、やはりはっきりとは分からないのです。

■田中神社と彦主人王御陵

丘陵の道路を田中古墳群の案内板が見える高さまで登ると、そこから一段下がった所に「田中神社」が現れます。この神社は高島市の南半分を見渡せる非常に眺望の良い所に立地しています。作りも荘厳で、ここが地元に大切にされてきた神社であることを窺わせます。

画像9:田中神社

こちらの祭神は、建速素盞嗚尊(たけはやすさのおのみこと)、奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)、八柱御子神(やばしらのみこのかみ)とあり、この神名から、ここがまさに出雲系一族の開いた土地であることを猛烈にアピールしているようです。

ちなみに、八柱御子神とはいわゆる八王子のことであり、日吉山王権現、もしくは牛頭天皇と呼ばれた神の八人の皇子を指したものと言われています。また、日本神話における「天照大神と素戔嗚尊の誓約」の時に出現した五男三女神を指すとも言われていますが、神仏習合時代に相当話が作り込まれ、何が元の話なのかよく分からなくなっています。少なくとも、古代期以降に日吉もとい比叡山の教義的影響を大きく受けた現われと言えるでしょう。

さて、この田中神社の裏手の方に鎮座しているのが、彦主人王が埋葬されているといわれている田中王塚古墳です。

画像10:田中王塚古墳

田中神社の祭神名と地名との関係から、応神天皇の五世代末裔と言われれている彦主人王とは、どうやら出雲系の血が色濃く入った王であったと解釈せざるを得ません。

この点について、私の歴史調査アドバイザーであるG氏は次の様に説明します。

彦主人王はおそらく大伴氏の一族であったはずです。それを示す一例として、彦主人王の三男は後に第16代継体天皇に抜擢されるのですが、継体天皇の和風諡号は「おほどのすめらみこと」、いきなり「おほ(現代読みでオオ)」ですよね、これは大伴の血が入っていることを意味しています。彦主人王の頃に、九州からこの地に入ってきたと考えられます。

そういえば、今回行けなかったのですが、高島には大田神社という神社があり、その社伝には次の様に書かれているとか

延暦年間(8世紀後半)、大伴大田宿禰の後裔である大伴福美麿河行紀が、当地にきたりて開拓し、祖先の名を地名となし、弘仁元年(810)祖神・天押日命を祀ったのが創祀

高島が秀真伝発見の地であり、その編纂者が大(おほ)田田根子であり、出雲系の大(おほ)物主とまた縁が深い、これらのことを考慮すると、ここで次の図のような関係が見えてきます。

画像11:高島出雲関係図

それはそれとして、ここには猿田彦が見えてこないのですが、もしかしたら、長い時間を経る中で猿田彦の一族と出雲の一族が融け合い、その痕跡が表面上見えにくくなったのではないか?それについてG氏に改めて訪ねたところ、

その通りだと思いますよ。農耕や製鉄など、日本の古代社会を発展させた基本技術は猿田彦の一族によって出雲族にもたらされたと見るべきです。その過程の中で両者が融合していったと考えるのが自然なんです。

これで、安曇川(出雲系)、新旭(猿田彦系)の二つの地名、そして田中王塚古墳(出雲系)、白鬚神社(猿田彦系)の二つの主要史跡が高島に併存している理由が見えてきました。

あくまでも仮説ではありますが、時系列的には、猿田彦系の一族が高島に入ったその数百年後に、出雲系大伴氏族の彦主人王がここに入って土地を発展させたと捉えるべきでしょう。もちろんそれまでに両者間で深い交流の歴史があったのでしょう。


  * * *

高島市のレポートについてはこれで終了です。ここで書けなかった重要な話題はメルマガでお知らせします。なぜここで書けないかと言うと、幻想の歴史を元ネタに飯を食べているいる人たちがこの日本には非常に多いと言う理由を挙げておきます。

実際に、この調査中に不審車両による監視行動を受けたという事実を、その根拠として最後にお伝えします。次回は長浜と岐阜について報告したいと思います。


近江なるうしの祭りのこととへば 五月の空に龍の出でまし
管理人 日月土

磐田に見るモロの足跡と古墳群(2)

前回に引き続き、静岡県磐田市周辺の遺跡視察のレポートとなります。

地元の知人の話だと、磐田の古墳は小さいものまで数えるとその数は数百基あったと言われ、遠州地方ではなかなかの古墳密集地帯だったと言うことができると思います。

静岡県は東西に広い県ですが、なぜ磐田に古墳が集中するのか?別の言い方をすればどうしてそこに人が集まるのかと言い換えることができます。

それを、現在の地形でいくら考えても答えが見つかるはずもなく、古代期の縄文海進(じょうもんかいしん)と呼ばれる、海面上昇期の海岸線を考慮した時にその理由は自ずと見えてきます。

その手法で、千葉県北部の遺跡や神社の配置、古代人の移動ルート等を考察したのが「麻賀多神社と高天原」、「麻賀多神社と高天原(2)」だったのです。

ここでは同じ手法を用いて、古代の予想海岸線及び土地の高低を地図に描き込み、主要な古墳(群)との地理的関係を調べてみました。それが下図(画像1)となります。

画像1:磐田の古墳と古代の地形

この図を見ると分かるように、ほとんどの古墳は古代海岸線の沿岸部に密集するように築かれています。現地で私が見てきた限りでは、どれも古代の海を見下ろすことのできる安定した高台にあったようです。

このように海に突き出るように張り出した台地は、動物の舌に例えて「舌状台地(ぜつじょうだいち)」と呼ばれるそうです。そして、このような舌状台地の周縁は、千葉県北部の分析からも分かるように、古代人が好んで定住し集落を形成する場所でもあるのです。

それは、漁猟による食料の確保や、道が整備されていない時代の海上輸送による移動を考えれば、ごく自然な発想として予想されることでしょう。

この傾向を知っていると、一見、内陸にあるように見える古墳の位置関係から、古代の海岸線を探り当てることもできるようになります。特に関東地方は、古代期は東京湾や香取海(かとりのうみ)が大きく内陸に入り込んでいたので、現在海なし県と言われる埼玉県も、かつては海上移動が十分可能な地域であったことが分かるのです。

以下、沿岸部の古墳の中から、現地で撮影した写真を幾つか掲載します。

画像2:堂山古墳碑
古墳は既に住宅地に変わってしまっていた
画像3:松林山古墳
この盛り土の直ぐ向こうを東海道新幹線が走る
画像4:松林山古墳前から袋井方面を望む
坂下の田園の辺りは古代期には海だった
画像5:稲荷山古墳と秋葉山古墳
この小山の中に2つの古墳がある
画像6:庚申塚古墳
磐田駅にほど近い町中にある。前方墳は削られ現在は寺院に

なお、御厨古墳群の中央部に鎌田神明宮という比較的大きな神社が置かれています。古墳と神社のセットは珍しくありませんが、「神明」というネーミングから、これが伊勢神宮系であることが判別できます。

画像7:鎌田神明宮
立派なのだが、その運営資金が気になる

伊勢神宮信仰は古墳時代後期以降に誕生したものであり、時代を経て日本神話ファンタジー信仰に基づいた、一種の宗教団体的教義として成立したものです。これが、前期古墳を含む御厨古墳群の中央に存在するのは、リアルな歴史を求める私の感覚ではかなり違和感があるのです。おそらく古墳に葬られた祖先を祀る意図はなく、何か別の宗教的、あるいは呪術的理由でここに置く必要があったのでしょう。

■磐田にみる民族の移動

海と古墳との関係を書いたついでに、これらの古墳を作った人々のルーツを考察します。実はそれを偲ばせる伝統行事が、同じく沿岸の台地に置かれた見付天神(矢奈比賣神社)に無形文化として残されているのです。

画像8:見付天神の裸祭
腰蓑に注目(見付天神HPより)

勇壮な裸祭、この写真を見て気付くのは、男たちが腰蓑を身にまとっていることです。知人の歴史研究家G氏によると、このように腰蓑を付けるスタイルは南方系海洋民族に多く見られるとのこと。この事実が直ちに古墳を築いた人々を特定する決め手になるとは限りませんが、この土地には、古くから海を伝って南方の人々が入り込んだ痕跡を窺わせるのです。

少なくとも、古代期には天然の入江が多く、船を使っての行き来がしやすいばかりでなく、比較的温暖なこの地の気候が多くの民族を引き付けたことは間違いないでしょう。

ちなみに、この見付天神の敷地内には、磐田市の公式マスコットキャラクターにもなった、霊犬悉平(しっぺい)を祀る霊犬神社があります。霊犬悉平太郎の伝説についてはこちらを参考にして頂きたいのですが、伝説によると同じ天竜川の上流に位置する長野県駒ケ根市から悉平は連れて来られたとあります。

画像9:磐田市のキャラクターしっぺいくんと霊犬神社

つまりこの土地には、海洋からの流入だけでなく、当然ながら天竜川によって繋がる人の行き来もあっただろうと考えられるのです。

すなわち、古い時代から磐田の地は人の行き来、交通の要所であったと考えられ、だからこそ、奈良・平安時代の地方行政府である国府がここに置かれたとも言えるかもしれません。

画像10:磐田の国府跡

そして、私が何より注目するのは、天竜川の起点となるのが長野県の諏訪湖であること。ご存知のように、諏訪は大国主の子、タケミナカタが天孫族に抵抗して追い詰められた土地であると日本神話には書かれています。

前回の記事では、やはり出雲族の痕跡を示す天竜川上流域の小國神社と鹿苑神社(春野)を取り上げましたが、こうして古伝や現在に残る史跡を包括的に俯瞰すると、出雲の一族と磐田およびその周辺地域との関係が見えてくるのです。

磐田の旧沿岸部の高台に築かれた古墳にいったいどのような人物が埋設されたのか?大国主やその子である高彦根(もののけ姫のモロのモデル)を祀る(祀っていた)神社がそれらとどのような関係を持つのか、いやはや興味が尽きません。

■銚子塚に見る磐田原の不思議

画像1の上の方、磐田原舌状台地の付け根の辺りに銚子塚古墳があります。この辺は市街地からだいぶ離れ、周囲がお茶畑に囲まれたのどかな場所なのですが、実は古墳が多く残っている場所でもあります。

画像11:銚子塚古墳

上の写真を見れば分かるように、銚子塚古墳は均整の取れた美しい前方後円墳です。古墳マニアなら一度は見ておくべき古墳でしょう。

しかしこの古墳と、すぐ隣にある前方後方墳の小銚子塚古墳の周囲を見ると、少し首をかしげたくなるのです。それは、古墳の縁が急に切り立った崖になっていることなのです。

画像12:小銚子塚古墳の端
手前が古墳で柵の向こうが崖になっている

確かに、古墳は大地の縁(へり)に築かれることが多いのですが、周囲に環濠などを巡らせる関係から、ここまで崖のギリギリに造られることは考えにくいのです。

天竜川が氾濫する度に台地が浸食され、上部が崩落したと考えるのが一般的なのでしょうが、そうなるとここまで磐田原が切り立っている地学的理由がよくわかりませません。この疑問は、過去の記事「三国志の呪い」で、天竜川の川向うの台地である三方原についても同じように提示しています。

知人の話だと、この地域の小中学校では、かつて天竜川両岸の台地(三方原と磐田原)は天竜川の「河岸段丘」と説明されていたそうですが、さすがに30m近く切り立った台地が何キロも続くのを河岸段丘と呼ぶのは無理があったのか、近頃では「隆起」と改められたそうです。

「そうですか、ある時に天竜川の両岸が同じように隆起した訳ですか」と、思わず勘ぐってしまいたくなる説明です。しかも、浜松側の三方原の土は磐田原とは全く異なる赤土です。赤土部分だけがうまい具合に隆起したというのはどう考えても無理が多いのです。

どのような地殻変動が天竜川下流付近であったのか、今は何も分からないままですが、もしかしたら、古代の人々はこの辺の地形が急激に変わる様を目撃していたかもしれませんね。


豊栄に栄り出でます大地の太神
管理人 日月土

磐田に見るモロの足跡と古墳群(1)

思いのほか長々と続いてしまったアニメ映画「もののけ姫」の構造分析シリーズですが、ある程度全体が見えてきたところで、そろそろ一区切り入れたいと考えています。

とは言うものの、本件に関連し、先月4月および今月5月に、出雲系の一族と縁が深い土地と考えられる、静岡県磐田市周辺を視察してきました。今回の記事はそのレポートといたしますが、初めに、これまでの分析によって得られた、アニメキャラクターとそのモデルとなった歴史上の人物の最新の対応表を以下に貼り付けます。

表1:キャラクター対応表(令和3年5月)

■遠江国二宮に祀られたモロ

まず、今回取り上げる磐田市内の重要な神社をご紹介したいと思います。画像1をご覧ください。

現地で知名度が高いのは、なんと言っても遠江国一宮(とおとうみのくにいちのみや)の社格を与えられた、②の小國神社でしょう。地元の方に聞くと、この辺で初詣に行く神社と言えば、真っ先にこの社の名をあげるとのことです。

画像1:遠州主要神社図

小國(おぐに)、あるいは小国は、歴史好きならこれがいわゆる出雲系一族の土地を表す地名であると直ぐに気付くかもしれません。予想に違わず、こちらの主祭神は出雲の神である「大国主(オオクニヌシ)」なのです。

画像2:小國神社(森町)

小國神社は磐田市街から北に少し離れた、森の石松で有名な静岡県森町に鎮座しています。山裾の奥まったところに位置し、敷地も広く、木々に囲まれた静かで落ち着いた雰囲気のたいへん気持ちの良い神社です。建物もよく管理されており、地元の人々がここを初詣の地に選ぶのも納得できるというものです。

さて、この神社の参道を歩いていたら、次のようなポスターが目に入りました。

画像3:みもろ焼のポスター

何とここにもあの「モロ」の表記があるではないですか。「みもろ」は三輪(みわ)の別称と考えられ、三輪は大物主(オオモノヌシ)という古代出雲皇統の皇位名と関係ある地名ですので、まさにこの土地が大物主と関係していることを示しているとは言えないでしょうか。

ちなみに、みもろ焼の工房は神社の近くにあります。

さて、こんなに立派な一宮があるのならば、磐田市内にある遠江国二宮の④鹿苑(ろくおん)神社も期待されるのですが、実際に現地を訪れると、どこの町々にもあるような普通の神社、いや、一宮に比べてしまうとかなり貧相な神社がそこにあるのみだったのです。

画像4:鹿苑神社

実はこの鹿苑神社には注目すべき点があります。それは、現在の主祭神こそ大名牟遅命(オホナムチノミコト=大国主命)ではありますが、Wikiによると江戸時代末期までは

 高彦根命

つまり、日本書紀に記載するところの「阿遅鉏高日子根神」(アヂスキタカヒコネ)を祀っていたということなのです。

これは、記紀のロジックからすると少々妙で、初代大物主が大国主であり、これを一等(一宮)とするなら、当然ながら二等(二宮)に該当するのは二代目大物主の事代主(コトシロヌシ)とならなければおかしいのです。

私は、これまでの「もののけ姫」の構造分析から、「アチスキタカヒコネこそが正規の二代目大物主継承者であったのであろう」という結論を導き出しましたが、この結論を持ってこの神社のかつての主祭神を考察すると、実に辻褄が合うのです。

傍証と呼ぶにはいささか弱いですが、分析結果を考察の指標に置くことで、今後新たな解釈を得られることができるのではないか、そう確信したのも事実です。

■鹿苑神社と春野

この鹿苑神社、今でこそ普通の神社の体をしていますが、隣接する連福寺を含めた敷地にはかつて古墳があったと言います。現在はその面影すらありませんが。

ところで、今回の視察の同行者がこの神社脇で気になるものを見つけました。ここがかつて水の湧いた水源地であることです。

画像5:「御神水」と書かれた石碑

ポンプ小屋が近くにあったので、今でも水は湧いているようです。ここで画像1の地図を見ると、この場所がかつて海岸ヘリにあったことが分かります。

歴史調査のアドバイザーでもある歴史研究家のG氏によると、海洋民族にとって、海辺に近い船積み用の淡水補給地の確保は死活問題であり、おそらくここも、かつては船乗りたちの給水基地として使われたのではないかと、推測を述べられていました。

ところで、それでは鹿苑神社は海の神社かというと、実はそれもまた違うようなのです。画像1の山奥の方に、①と番号を付けた小國神社がありますが、同社の由緒書きには次のようにあります。

由緒


社記に日く人皇18代履仲天皇4年10月當国守護神勧請し奉里爾来国司の遵崇厚く文徳天皇嘉祥3年7月當社へ從五位下を授る、後ち清和天皇貞観元年正月(今より凡1050年前)從四位下を授けられし旨文徳實録三代實録の両書に見ゆ陽成天皇元慶5年10月當国磐田郡を割ち山香郡を置く此時に當り磐田郡国府(今の中泉町)二ノ宮に分霊し奉る事あり今の鹿苑神社之なり當社は古より鹿苑神社と称し奉りしが承平の頃より小國神社と改称し明治5年貞外社(七社)を合祀し奉り同12年8月15日村社に別格せらる。
大正4年5月5日周智郡熊切杉村社小國神社々務所右由緒の事改書す昭和52年10月10日


全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年

つまり、現在の鹿苑神社は陽成天皇(876-884在位)の頃に、この山奥にあある小國神社(春野)から磐田の国府に近い現在の場所に分霊された神社だということになります。

画像6:小國神社(浜松市天竜区春野)

小國神社(春野)の主祭神は、大己貴命(オオナムチノミコト=大国主)となっており、どうして分祀された側の二宮の鹿苑神社の主祭神に、一時的でも高彦根命が祀られたのか、その経緯は不明です。

そのヒントになるかどうか分かりませんが、この小國神社(春野)もかつては鹿苑神社と呼ばれており、明治5年に現在の名前に改名されたとあります。この改名時期は、二宮の鹿苑神社の主祭神が高彦根命から大名牟遅命へ切り替えられた期間とほぼ同じであると考えられ、両社共に主祭神の入れ替えが行われた可能性が無きにしも非ずです。

明治期と言えば、現在の国家神道スタイルが形成された時代です。もしかしたら、高彦根命をそのまま主祭神に置いておくのは、高彦根命が無役とする記紀の記述上好ましくなかったので、敢えて主祭神から外したのかもしれません。

この推測もまた、高彦根命こそ二代目大物主であったとする私の自説を、ほんの少しだけ裏付ける証左なのではないかと考えられます。そうなると、どうして高彦根命は大物主の皇位継承者から外され、1000年以上の時が経っても、このようにないがしろにされ続けるのか、その理由に自然と関心が移ってくるのです。

さて、この遠州の山奥にある春野地区なのですが、ここには秋葉山と火の神で有名な秋葉神社も鎮座しています。ここで、秋葉神社と鹿苑神社、そしてモロこと高彦根命が秋葉の神とどう関わってくるのかが気になるところです。

また、秋葉山と言えば、僧行基と「秋葉山三尺坊大権現」と呼ばれる天狗伝説でも有名な場所です。それを象徴するかのように、同町の駐車場には日本一の大天狗面が設置されているのです。

画像7:春野町の大天狗面

実はこの大天狗面は1985年に製作され、その年神戸で開催された「神戸グリーンエキスポ」に展示されたと言います。感の良い読者様ならもうお分かりでしょう、1985年の同エキスポ開催期間に、あの123便事件は発生したのです。

ここでかすかに、123便事件とモロを巡るこれまでの考察が繋がってくるのですが、関連があると言うにはまだかなり遠いですね。しかし、偶然と片付けるのも早計であることが、この後の調査で少しずつ分かってくるのです。

※長文となったので、③の鎌田神明宮と磐田の古墳群についての解説は次回といたします。


白鬚に隠れるぞなき七咫の鼻
管理人 日月土

もののけ姫 - アマテルカミへの呪い

今年の1月末から始めたアニメ映画「もののけ姫」を巡る構造分析ですが、今回でようやく最後の到達点に辿り着けそうです。

話を始める前に、この映画がモデルにしたと思われる、古代史上の人物と各役名との最新の対応表を以下に掲載します。

表1:配役とモデルにされた古代史上の人物

どうしてこのような対応関係になるのか、詳しくは本年1月から前回までのブログ記事をご覧になってください。また、話の途中までですが動画も用意しています。

Youtube動画:もののけ姫とモロ -アニメ映画に隠された古代史-

今回は表1で「?」で表した、シシ神について分析していきます。

■シシ神のモデルは誰か?

この映画のタイトルでもある「もののけ姫」。どうやら、そのタイトル名が「大物主(オオモノヌシ)の娘」という意味から付けられていることが判明したのは、これまでの分析による大きな成果です。

もちろん、もののけ姫(サン)のモデルであるコノハナサクヤヒメ(以下コノハナと略す)が大物主の娘であるとは史書のどこにも書かれていません。しかし、各史書の脈絡のない不自然な記述、そして史書毎の記述内容の違いなどを分析にかけた結果、コノハナが第二代大物主のアチスキタカヒコネの娘であると仮定したとき、これまで不自然と思われた記載が、実は意味合って書き加えられていたことが分かったのです。

「史書は暗号の書である」と言うのは、私の記紀解釈における基本姿勢なのですが、今回の結果を以って、他の歴史的事象についても暗号解読的な手法で新しい歴史的事実が発見できる可能性について確信を得ることができました。

それにしても、驚くのは映画「もののけ姫」の基本プロットが、史書に暗号としてしか示されていない歴史的事実を正確に押さえていることです。この映画によるヒントがなければ、私もこのような分析には至らなかっただろうし、そもそも、この時代について調べてみようという気にもならなかったはずです。

そうなってくると、どうしてこの映画が制作され、世に出されることになったのか、そこに関心が引き寄せられます。

その問いの前にもう一人、対象モデルをはっきりさせなければいけない重要登場人物?が残っていました。そう「シシ神」です。

画像1:シシ神
(© 1997 Studio Ghibli・ND)

昼は鹿(シシ)の姿、夜はダイダラボッチという巨人に変化し、森全体の生命を司り、神の中の神として描かれているのがこのシシ神です。映画に登場するキャラクターの中では最大最強の存在であると言えます。

主人公は一応、タイトルにもなったもののけ姫ではありますが、シシ神の存在なくしてはこの物語は完結することはありません。むしろ、隠された主役こそがこのシシ神であり、この映画の最重要メッセージはおそらくシシ神の描画表現に隠されているというが、私の見解です。

先ほど、「最大最強の存在」と書きましたが、秀真伝(ホツマツタエ)が伝える歴代アマカミ(現在の天皇家)の中で、最も偉大な王として登場するのがアマテルカミ(男性)です。

また、記紀の神話に登場する神々の中でその中心に位置する神とは、女神天照(アマテラス)です。天照は太陽神と例えられ、太陽は地上の生命を育む最大の恵みであることは論を待たないでしょう。

なお、私は女神天照とはアマテルカミ(男性)の神話ファンタジー化された架空の存在であると認識しており、これまでも、天照=アマテルカミ(男性)として取り扱って来ました。

さて、ここでシシ神・アマテルカミ・天照がイメージとして重なってくるのが分かります。もちろん、これだけはそれらしいとは言うことができても、シシ神のモデルがアマテルカミであると断言するには少し弱い気もします。

しかし、映画の設定においてシシ神のモデルがアマテルカミであることを示す記号がしっかりと示されているのです。それは次の系図を見ればもはや明らかでしょう。

画像2:シシ(44)神がアマテルカミであるサイン

これで確定しました。

  シシ神のモデルはアマテルカミ(天照)である

■アマテルカミへの呪い

シシ神がアマテルカミだと分かったところで、シシ神がどう表現されているかに注目します。画像1に補助線を入れてもう一度よく見てみましょう。

画像3:額に逆五芒星が描かれている
(© 1997 Studio Ghibli・ND)

シシ神のデザインについては「怖い」、「トラウマになる」などの否定的な声をよく聞きますが、それもそのはずで、額にしっかりと逆五芒星が描かれているのです。敢えて多くを説明しませんが、この逆五芒星は、ギリシャの哲学者が「ペンタモルフ」と呼んだ角のある神(山羊はもちろん鹿も含まれる)から派生したと言われる、悪魔崇拝のシンボルを表現していると考えられるのです。

この他にも映画にはシシ神の奇妙な容姿についても描かれています

 ・昼間は森に隠れるような鹿の姿
 ・夜は怪物のような巨人の姿

昼は陽の光を避け夜に目覚める巨神。これでは生命を司る偉大な神というより、むしろ夜の森を徘徊する強大な悪魔と呼ぶのが相応しいでしょう。

ここまで書いたところで、この映画の真の製作者の意図は明らかです

 古代日本の王、アマテルカミを歴史から葬り去れ

 お前たち日本人は悪魔を王と抱く国民なのだ

結局これは、男性王アマテルカミを女神天照に書き換えてしまった日本神話による古代史隠蔽の企みと意を全く同じくしているのです。なお悪いのは、太陽輝くところの王であるアマテルカミを、まるで真逆の闇の王として描いてしまっていることです。

映画で出雲皇統の古代人をサンを除いて獣として描いていることは、日本神話における国津神の否定(大国主の国譲り)、そして、火石矢で一度死んだアシタカは饒速日並立王朝の否定(饒速日の国譲り)と捉えれば、

 現日本神話こそ日本の歴史である

という、他皇統・他王朝を歴史から切り捨てた神話編纂者の不遜かつ傲慢とも言える意図が窺がい知れ、これが1990年代の映画になっているということは、現代においてもこの国の真の歴史を呪い、改ざんされた記録である日本神話を守り抜こうという勢力が存在することを意味しているのです。

私たち日本人のDNAの中には、おそらく真実の歴史が刻まれているのでしょう。その無自覚な記憶に訴えるためには、ある程度真実を曝け出さないといけません。私たちが自らの潜在意識の誘導によりついついこの映画を観た時、その事実性によって作品に引き込まれるまでは良いのですが、最後の最後で誤ったメッセージをインプットされてしまう。

このように、映画「もののけ姫」の裏設定が詳細な事実性と呪いにも似たメッセージを併せ持つのは、まさにこれを観る者の意識を、宮崎駿監督やスタジオジブリでもない、この国を呪う真の制作者が望む方向に誘導せんがためだと考えられるのです。



時は来たれり、千引の岩戸共に開かん
管理人 日月土

サンがもののけ姫である理由

前回の記事「モロともののけ姫の考察」で、アニメ映画「もののけ姫」の構造分析について、中間まとめプレゼンテーションの静止画を公開しました。今回は、メルマガ購読者向けに作成した、同内容に音声ナレーションを加えた動画版を新たに公開します。

シン・日本の黒い霧
https://youtu.be/DVy8aBIM2Q4

動画に加え、これまでの構造分析で導かれた、登場キャラクターとそのモデルとなった史書に記述されている歴史上の人物との対応を以下の表に再度掲載します。ここまでの分析で対応関係が不明な箇所には「?」を入れています。

表1:登場人物対応表

今回は上表の「?」の部分について考察を進めたいと思います。以下より、上の動画をご覧になっていることを前提で話を進めていきます。

■アメワカヒコとアチスキタカヒコネ、姿が似ている意味

動画で取り上げた3つの史書の全てで、アチスキタカヒコネ(以下アチスキと略す)とアメワカヒコ(以下アメワカと略す)は姿が似ており、天からの返し矢によって絶命したアメワカと間違われたため、アチスキが激しく怒るシーンが記述されています。

初め私は、この下りはアチスキとアメワカが同一人物であることを示しているのではないかと予想し、映画の中でモロがアメワカのことを表現しているようなシーンを探してみたのですが、どうもそのような箇所は見つかりません。

そこで、その他の登場人物でアメワカに該当するような役を探してみたのですが、それでもやはり上手く行きません。それで、ほとほと困り果てていたところ次のようなシーンが目に飛び込んできました。

画像1:アシタカが石火矢で射貫かれたシーン
   (© 1997 Studio Ghibli・ND)

当初、アメワカの表現は犬神のモロに重ねているとばかり思っていたのですが、このシーンを見てハッと気づいたのです。史書では

 アメワカは返し矢に当たり死ぬ

と書かれていますが、もしかしたらこれは画像1のシーン

 アシタカは石火矢に当たり死ぬ

で表現されているのではないのだろうか?

石火矢で死んだアシタカはシシ神によって再び生命を与えられるのですが、この死と復活をもって、ニニキネとアメワカの二人の人物を表現しているとは考えられないでしょうか?

つまり、アメワカのことを重ねて表現していた登場人物(獣)は、モロでなくアシタカだったのでは?ということなのです。

そして、ニニキネをモデルとしたアシタカにアメワカを敢えて重ねる理由は次の系図から推測することができます。

画像2:ニニキネとホノアカリの2王朝が並立していた

画像2は秀真伝(ホツマツタエ)に残されているものですが、これだけ見ると、ニニキネの横にいるのは兄のホノアカリであり、アメワカではありません。これだけではまた話の辻褄が合わなくなります。

しかし、この混乱を解消するのが、「アチスキとアメワカが似ていた」という下りなのです。この「似ている」を文字通り「容姿が似ている」と解釈していてはそこに隠されている真意を理解できませんが、これを「境遇が似ている」と解釈し直したらどうでしょうか?

この並立2王朝が存在していたことについては、日本書紀と古事記の両方とも記述がありません。つまり、ホノアカリ王朝は記紀から消された皇統(アマカミ)なのです。これは同じく皇統(オオモノヌシ)から名前を消されたアチスキと同じ境遇であると言えます。

さて、次にアメワカなのですが、今度はその父の名に注目します。なぜかアメワカの父が「アマクニタマ」であることに記紀・秀真伝の間に記述のブレはありません。このアマクニタマは

 アマ(天)・クニ(国)・タマ(魂)

のことを指すと考えられますが、天国(アメノクニ)とはまさにアマカミ皇統が治める国を指し、魂(タマ)とはその血統であることを示しています。そしてこのアマクニタマは系図に細かい秀真伝でも、その先祖を辿ることができません。また、記紀においても唐突に神話に現れる神名なのです。

そこで私はこう考えました。「アマクニタマ」とは架空の名前であり、その子がアマカミであることを示す記号なのではないかと。

それはまた、秀真伝でアメワカの妹がシタテルヒメであると記述されていることからも窺えるのです。なぜなら、シタテルヒメは8代アマカミのアマテルカミ(天照)の妹として登場しており、これまで再三指摘しているように、このような高貴な地位にいる女性の名前を、他家の娘に易々と名乗らせるはずがないからです。すなわち、この「シタテルヒメ」という妹の設定もその兄弟が高貴な存在であることを示す記号であったと見ることができるのです。

以上をまとめるとこう言えます

アメワカヒコとは記紀から消された10代アマカミ、ホノアカリのことである

そして、アメワカ(ホノアカリ)とアチスキの類似点は、共に皇統から名前を消された存在であるということになります。

アチスキは身内の女性から「あなたこそ正当な皇位継承者である」という意味の歌を詠まれるのですが、これは同時にアメワカ(ホノアカリ)に向けて詠まれた歌でもあったと解釈できるのです。歌詠みの女性が、史書によってタカテルヒメとなったり、シタテルヒメとなったのはまさにそのことを表しているからだと考えられます。

■なぜサンは「もののけ姫」なのか?

サンがおそらく「山」の意味であり、父であるカグヤマツミの「ヤマ(山)」に掛けているのだろうという推測は前に紹介いたしました。

さて、そのサンはモロのことを、「母さん」と呼んでいます。これまでの解析からモロはアチスキを指すことが分かっていますが、どうして男性であるアチスキを母さんと呼ぶのでしょうか?

秀真伝によると、コノハナサクヤヒメ(以下コノハナと略す)の系図は次のようになっています。

画像3:コノハナサクヤヒメの系図

画像3を見ると分かるように、実はコノハナサクヤ姫の母の名は不明なのです。また、母の名が不明なのは、記紀においても同じです。10代アマカミの后(きさき)となった女性にも拘わらず、その母の名前が伏されているのには不自然さを感じます。

おそらくここに、物語の中でサンにモロのことを「母さん」と呼ばせた理由がありそうです。

これはいったいどういうことなのだろう?カグヤマツミの娘であるコノハナが、どうして皇位(オオモノヌシ)をはく奪されたアチスキのことを母と呼ぶのだろうか?これについても、私はずい分と悩みました。

あまりに理解ができないので、何か分かることはないかと、コノハナを主祭神とする千葉県船橋市の茂侶神社までわざわざ出かけたのです。晴れ渡る気持ちの良い日差しの中、境内をしばらく散策した後に閃いたのが以下の結論です。

 この話は素直に解釈すれば良い。コノハナはアチスキの娘だったのだ。

そう、コノハナはアチスキの娘で、カグヤマツミの養女にされたのだと考えれば、敢えて母の名を史書に残さなかったのも納得できるのです。また、養女にされた理由も、アチスキが皇統(オオモノヌシ)を剥奪されるのを受け入れる条件として、娘をアマカミの后にするという密約があったとしたら大いに納得できる話なのです。

2代目皇統(オオモノヌシ)にはコトシロヌシが座る訳ですから、コノハナの母でありアチスキの妻でもある女性の実名を出す訳にもいかないし、かといって、剥奪されたとはいえ正当な皇統(オオモノヌシ)の后ですから、適当な女性の名を当ててそこを置き換える訳にもいかない。その苦肉の策が母の名を敢えて記述しないことであったとすれば、全てがすんなりと説明できてしまうのです。まさに「母」が、この背景を読み解くキーワードとなる所以なのです。

そう、映画におけるサンとモロの関係とは

 娘コノハナサクヤヒメ と 父アチスキタカヒコネ

だったのです。そして、これでこの映画のタイトルが「もののけ姫」でなければならない理由もはっきりするのです。「もののけ姫」とは「物の家姫」、つまり

 大物主の娘

という意味だったのです。すなわち、日本の皇統史(現皇室)に登場するコノハナサクヤヒメとは大物主の血統、すなわち出雲皇統の血を引く女性だったことを表しているのです。

■コノハナサクヤヒメの姉妹たち

モロにはサンを含め3人の子が居る設定となっています。サンは人間として描かれていますが、他の2人(匹)は山犬、やはり獣として描かれています。

このストーリー設定は秀真伝に書かれているコノハナ3姉妹ともしっかりと対応しています。つまり、二匹の山犬のモデルは、コノハナの姉であるイワナガとアメミチヒメということになります。

画像4:コノハナ3姉妹

ここから、サンという名前は「三」にも対応し、この3姉妹のことも指しているのだと読み解くことができます。

これら背後に仕込まれたストーリー設定に気付いて悲しくなるのは、何と言っても現皇統の后に着いたコノハナだけが「人間」として描かれ、その他の出雲皇統の血を継ぐ面々が「獣」として表現されていることです。

ここに、この映画が含む大いなる悪意を感じるのです。現皇統も出雲皇統も、同じイザナギ・イザナミから血を分けた子孫であるにも拘わらず、どうして、人と獣などという、一方を貶めるような分け隔て方をするのか?正確な史実を知ってるはずの映画原案者がこれをやるのですから、私にはさっぱり理解できません。

記紀にはアチスキとアメワカ(ホノアカリ)は親友であり仲が良かったとあります。つまり、両皇統が共に手を取り合ってこの国を治めることは可能だったはずなのです。

その意味で、映画「もののけ姫」は古代史の真実を語ると同時に、古代から現代日本社会へと続く、同族同士のいびつで悲しい関係を露呈している作品とも言えるのです。


 * * *

画像5:千葉県船橋市宮本の2社

 アメナルヤ オトタナバタノ ウナガセル
 タマノミスマルノ アナタマハヤ
 ミタニフタワタラス アヂスキタカヒコネ

二千有余年の時を超え、アチスキタカヒコネ、ホノアカリの両人が、この国の正式な皇位継承者であったことを、恭しくもここに認める次第です。


二三の木ノ花咲耶姫の神様を祀りて呉れよ
管理人 日月土