もののけ姫と獣神たち

前回の記事「愛鷹山とアシタカ」で、スタジオジブリの大ヒットアニメ映画「もののけ姫」に登場する各主人公が、神武天皇以前の日本神話をモデルにキャラクター設定されているのではないかという話題を扱いました。

それをざっとおさらいすると

 アシタカ :ニニキネ
 カヤ   :チチヒメ
 サン   :コノハナサクヤヒメ
 エボシ御前:ヒメタタライスズヒメ

となり、そしてこの設定は、やはりジブリの大ヒット映画「千と千尋の神隠し」の主要キャラクターである、「ニギハヤヒ」及び「湯婆婆」に引き継がれているであろうとの結論に至っています。

 参考:上代皇統とジブリ映画 

秀真伝(ホツマツタエ)によると、ニニキネの母であるチチヒメは、別名「アシツヒメ」であり、また、第7代タカギムスビの娘であることは既にお伝えした通りです。つまり、チチヒメは史実的には

 「アシ」と「タカ」

から始まる呼び名を持つ女性であり、その象徴であるカヤは、映画では物語の初めにしか登場しない地味な存在ではありますが、実は主人公のアシタカと切っても切れない関係であることを表しています。

これを単なる母子関係と捉えるのは簡単なのですが、カヤのことは、映画の設定ではアシタカの許嫁となっており、母子とは表現していません。この史書と物語設定の間に見られるギャップこそが、第10代アマカミ・ホノアカリの世継ぎとして養子に迎えられたニギハヤヒを、実は母チチヒメと子ニニキネ(映画ではカヤとアシタカ)の間に生まれた「不義の子」とみなした根拠の一つなのです。

天照大神の子、正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊(まさかあかつかちはやひあまのほしほみみのみこと)、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の女(むすめ)𣑥幡千千姬(たくはたちぢひめ)を娶(ま)きたまひて、天津彥彥火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)を生(あ)れます。


簡訳:天照大神の子である忍穗耳尊は、高皇産霊尊の娘、𣑥幡千千姬を娶り、その間に瓊瓊杵尊が生まれる。

日本書紀 神代二

上述のように、日本書紀ではチチヒメのことを「千千姫」と表記しており、字を見ればお分かりの様に、「千」の字を二つ重ねていることが分かります。また、ニギハヤヒは不義の子であることから、その出自を隠されなければならない王位継承者(アマカミ)であったと考えられます。つまり、”チチヒメの産んだ世間から隠されるべきアマカミ”、すなわち

 千と千尋の神隠し

なるタイトルが生まれる理由となり得るのです。

■獣の形をした神々

さて、もののけ姫では獣の形をした神々が登場します。その中で、主人公に近い存在を二柱を取り上げます。

画像1:(左)モロと(右)乙事主(おっことぬし)
(© 1997 Studio Ghibli・ND)

モロは300歳、乙事主は500歳という設定だそうですが、物語的には豊かな自然を守ってきた、獣の形をした古い神々ということになっているようです。

これまで見てきたように、もののけ姫に登場するキャラクターの名前には何かしらの歴史的意味付けがなされているようなので、こちらについても、日本神話に基づきそのモデルを探って行きたいと思います。

さて、まずは犬神という設定のモロなのですが、「モロ」なる響きは個人的にあまり馴染みがなく、どこから調べたらよいか迷いましたが、こういう時はまず地名や神社名から調べるのが鉄則なので、早速、自前の住居表示データベースを調べたところ

 岩手県奥州市前沢区両手沢   マエサワクモロテザワ
 宮城県栗原市高清水茂路具多  タカシミズモログタ
 秋田県秋田市河辺諸井     カワベモロイ
 福島県二本松市諸越谷     モロコシガイ
 茨城県稲敷郡美浦村茂呂    モロ
 栃木県佐野市北茂呂町     キタモロチョウ
   ‥‥‥‥‥

等々、全国に100か所近くあり、特に大きな偏りも見られないのでちょっとお手上げ状態です。但し、市町村郡名、特に宮崎県の複数ある諸県(モロカタ)郡については気になるものがあります。

 埼玉県入間郡毛呂山町    イルマグンモロヤママチ
 長野県小諸市        コモロシ
 宮崎県北諸県郡三股町    キタモロカタグンミマタチョウ
 宮崎県西諸県郡高原町    ニシモロカタグンタカハルチョウ
 宮崎県東諸県郡国富町    ヒガシモロカタグンクニトミチョウ
 宮崎県東諸県郡綾町     ヒガシモロカタグンアヤチョウ
 宮崎県東臼杵郡諸塚村    ヒガシウスキグンモロツカソン

次にGoogle Map でモロと呼ぶ神社がないかを調べたところ、なんと、そのままズバリの神社が関東、それも千葉県内に存在することが分かりました。

画像2:千葉県に3社存在する茂呂(侶)神社

 (1)茂侶神社  千葉県船橋市東船橋
 (2)高木村社 茂呂神社 千葉県松戸市小金原
 (3)三輪茂侶神社 千葉県流山市三輪野山

そして、ネットで各神社の情報を収集したところ、それぞれの主祭神は

 (1)木花之開耶姫命 (コノハナサクヤヒメ)
 (2)大物主命 (オオモノヌシ)
 (3)大物主命 (オオモノヌシ)

であることも判明しました。ここでちょっと驚くのは、(1)の船橋の茂侶神社の場合、まさに次の画像3とピッタリの組み合わせであることです。

画像3:モロとサン(モロとコノハナサクヤヒメ)
(© 1997 Studio Ghibli・ND)

そして、(2)(3)の祭神が、カヤ・アシタカ・サンのモデル解説では登場しなかった、オオモノヌシ系の神社、いわゆる出雲系の神社であることもまた驚きの一つでした。

Wikiの「茂侶神社」の説明には「モロ」の由来について次のように書かれています。

社名の「茂呂」は、大和国三輪山の旧名「御諸山(みもろやま)」の「モロ」のことであるとされている。三輪山の麓には、三輪山を神体山とする大神神社があり、大物主命を祀っている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%82%E4%BE%B6%E7%A5%9E%E7%A4%BE

(3)の社名にも「三輪」が入っていて確かに分かりやすいのですが、もっと仰天するのはモロ役の声優がなんと歌手の美輪明宏氏、「ミワ」さんなのです。ここまで一致するともはや偶然の一致とは言えません。明らかに制作側には「三輪(みわ)」と「モロ」の関係性、コノハナサクヤヒメと「モロ」の関係性を示そうとする意図があると分かるのです。

画像4:美輪明宏氏

■乙事主は事代主か?

ここで、秀真伝に詳しくない方に向けて、秀真伝が記す上代皇統の簡略化した系図を以下に示します。

画像5:上代3皇統図

日本の古代史と言えば、超自然的神の系統であると言われる現天皇家の家系ばかり強調されますが、秀真伝によると、実際には神武天皇以前にアマカミ・タカミムスビ・オオモノヌシの3つの皇統が存在し、それぞれが当時の日本の統治に関わっていたようなのです。

そこから推測すると、2つの茂呂神社の主祭神である大物主命とは、誰か個人のことではなく、3つの皇統の一つである歴代オオモノヌシ、一般には出雲系血族の族長世襲名であると考えられます。

モロと同じく獣に描かれた乙事主は500歳、すなわちモロよりも年長であることから、まずは、歴代オオモノヌシの始祖、初代オオモノヌシのオホナムチを象徴しているのではないかと考えました。

しかし「乙事主」の当て字をもう少し考察すると、甲乙丙の乙は2番目と言う意味で、2代目オオモノヌシのクシヒコ、もしくは別名のコトシロヌシを指しているとも考えられます。何より「(乙)事主」がコトヌシですから、どうやらこちらの方が、乙事主のモデルに相応しいのではないかと思われるのです。

乙事主をコトシロヌシと仮定すると、500歳に対して300歳のモロはコトシロヌシの弟、系図では、タケミナカタ、アチスキタカヒコネ、シマツウシの誰かということになります。これは、二匹の子の山犬をその兄弟と見なした場合の考え方です。しかし、物語でモロは雌という設定なので、あっさりと妹のタカテルヒメと比定する方が順当なのですが、そうなると二匹の子の山犬をどう見るのかという問題が生じます。

困ったことに、オオヤマスミの娘であるコノハナサクヤヒメには、系図上、オオモノヌシ系と繋がるこれといった手がかりがありません。

しかし、もののけ姫の中でモロとサンが一緒に活動しているという描写の中には何か二つの家系を紐付ける理由があるはずです。そしてそれはまた、オオモノヌシ系を人ではなく、山の獣として描く、一種の侮辱的表現の中にも埋め込まれているはずです。

以上は単なるアニメ映画の解説のようですが、実は日本の皇統とその始まりを理解する上で、非常に重要なメッセージを扱っているのではないかと私は感じています。特に、モロのモデルが誰であるのか、そして、なぜそこが強調されるのか、その点に注意する必要がありそうです。

この話は次回に続きます。

画像6:船橋の茂侶神社(2019年12月に撮影)
社は住宅街のある高台から東京湾側を見下ろす



良き悪しき皆祓いませ科戸の風に
管理人 日月土

愛鷹山とアシタカ

富士山の南東側、静岡県沼津市、三島市の北西側に愛鷹(アシタカ)山という標高1504mの山があります。これを「アシタカ」と読ませるのは、いわゆる難読地名の部類なのではないかと思うのですが、そんなことよりも、この「アシタカ」という響きが非常に気になるのです。

画像1:愛鷹山とその周辺
   (原図:https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9052073)

もうお分かりの通り、「アシタカ」という名前のキャラクターが大活躍のアニメ映画がありましたよね、ご存知、スタジオジブリ作品の「もののけ姫」に登場した「アシタカ」君のことです。

画像2:もののけ姫に登場したアシタカ
(© 1997 Studio Ghibli・ND)

これが偶然の一致と言われればそれまでなのですが、何かと日本古代史を題材にするのが好きな日本のアニメ産業ですから、もしかしたら、愛鷹という地名と映画を何か関連付けているのかもしれません。今回は、敢えてその仮定の下で、日本古代史との絡みを追ってみたいと思います。

■アシタカを特定するヒント

まず、アシタカのキャラクター設定について、調べてみます。Wikipediaからの引用をそのまま掲載します。

本作の主人公。17歳。ヒイ様からは「アシタカヒコ」と呼ばれている。ヤマト(大和)(ヤマト王権または大和朝廷)との戦い(史実においては平安時代に起きた坂上田村麻呂の蝦夷征討)に破れ500年余り経過し、朝廷や将軍(武家政権)も衰えていた時代(室町時代後期、応仁の乱で京都は荒廃し、室町幕府の体制は瓦解していき、朝廷も権威が落ち込んでいた。更に東国では室町時代中期の永享の乱や享徳の乱以降、中央の統制が及ばぬ戦乱の時代が既に訪れていた)、北の地の果てに隠れ住むアイヌ民族であるエミシ(蝦夷)一族の数少ない若者(エミシ一族も既に衰亡しつつある事をヒイ様達が口にしている)。東と北の間にあると言われる蝦夷の村の王になるための教育を受けた一族の長となるべき少年であり、それにふさわしい気品をもつ。無口だが正義感が強く潔く、村を襲おうとするタタリ神に矢を放ち、命を奪う事と引き換えに死の呪いをかけられる。それがきっかけとなり、村を追われる。(以下略)

引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%AE%E3%81%91%E5%A7%AB

物語の時代設定はとりあえず中世ということになっています。キャラクターモデル特定のヒントになるのは、次の部分でしょうか。

“北の地の果てに隠れ住むアイヌ民族であるエミシ(蝦夷)一族の数少ない若者。東と北の間にあると言われる蝦夷の村の王になるための教育を受けた一族の長となるべき少年。”

坂上田村麻呂の蝦夷征討(奈良時代末期)などのキーワードが出ていますから、アシタカは現在の東北地方出身の少年で、長たる身分が約束されていた家系の少年であると想像が付きます。

■アシタカを取り巻く人物

アシタカに古代人モデルが居るなら、当然ながらアシタカの周囲に現れる人物にもその符号が入っているはずです。そうすると、アシタカが関わる主要なキャラは次の3名になると考えられます。いずれも女性キャラです。詳細については作品本編、または上記Wikipediaの解説ページをご覧ください。

 カヤ:東北の村で永遠の別れを告げた許嫁の少女
 サン:主人公もののけ姫、犬神に育てられた
 エボシ御前:山奥でタタラ場(鉄の精錬所)を運営する女主人

画像3:3人の主要女性キャラ 左からカヤ、サン、エボシ御前
(© 1997 Studio Ghibli・ND)

この3人の中で私が特に気になるのは「カヤ」です。そもそも「カヤ」という名前が問題なのです。「カヤ」とは「伽耶」、3世紀から6世紀の間、朝鮮半島南部にあったと言われる小国の名前に通じるのです。まるでそれを示唆するように、カヤが被っている尖がり帽子は朝鮮式の山高帽と似通っているのです。なお、この帽子の形状は、「ユダヤ人埴輪と六芒星」でも指摘した、ユダヤ人スタイルとも似通っているので、なおさら興味を惹かれるのです。

画像4:カヤの帽子と朝鮮式山高帽、ユダヤ人埴輪
(© 1997 Studio Ghibli・ND)

次に「サン」ですが、サンという呼び名から今のところこれといった具体的な地名や人物名は思いつきません。この音を敢えて漢字に直すなら「三」か「山」になるでしょうか?英語のSunもあるかとは思いますが、ここでははっきりしません。また、顔に隈取りのようなペイントを施しているように見えますが、古代の風習から見れば、これは巫女が顔に刺す入れ墨と考えられます。アニメでは、サンは犬神に育てられた野蛮な自然児のような描かれ方をしているようですが、実はバリバリ正式な古代巫女仕様の出で立ちをしていると言えるのです。

画像5:サンと古代巫女装束(芝山はにわ祭)
(© 1997 Studio Ghibli・ND)

アシタカ、カヤ、サン、ここまでの人物を見ただけでは、古代か中世か区別がつかないのですが、「エボシ御前」が登場すると、その衣装デザインからやっとこのアニメが中世の物語であるのだなと理解できます。このキャラは名前からすでに特別で、「烏帽子」を被るような「御前(高貴な方)」であるという意味付けがされています。本来男の仕事場であるタタラ場を仕切る男勝りな描かれ方をしていますが、その名前から、極めて高貴な女性をモデルにしていると考えられるのです。

■愛鷹山に行ってみた

ここまで調べたところで、次はやはり現地調査です。年が明けた今月の1月中旬、何か手掛かりになるものはないかと、愛鷹山周辺に配置された神社をいくつか回ってきました。ちょうどよい具合に、「愛鷹神社」なる神社が、三島市、清水町、裾野市、長泉町、沼津市、その他の周辺自治体に幾つもあるようなので、まずはそこを回ることにしたのです。

画像6:愛鷹山周辺の「愛鷹神社」および「桃澤神社」
(原図:Google Map)

当日は天気に恵まれず、雨から雪へと変わる生憎の空模様、回れたのは午前中を中心とした、三島市、清水町、長泉町、沼津市の数社のみでした。それでも、現地の空気を肌で感じたことで得られた情報は多かったと思います。

画像7:三島市の愛鷹神社
どこの街でもありそうな神社
画像8:清水町の愛鷹神社
古いコンクリ造でまるで地下通路への入り口の様だ
画像9:裾野市の愛鷹神社
やはりどこにでもありそうな神社。コンクリ造
画像10:長泉町の桃澤神社
集落を見下ろす位置にあり、山の神社の雰囲気が漂う

神社によって祭神は少しずつ異なるようですが、大体なところ次の祭神が祀られているようです。

 愛鷹神社:
  彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)
  鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)

 桃澤神社:
  瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)
  木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)

そして、ここは富士山のお膝元ですから、当然、浅間神社(せんげんじんじゃ)も数多くあります。浅間神社の祭神と言えば木花開耶姫であり、その木花開耶姫が嫁いだ先が瓊瓊杵尊であることはよく知られている話です。

考えてみたら、彦火火出見尊は瓊瓊杵尊の子であるし、鸕鶿草葺不合尊は孫に当たります。つまり、ほぼ同時代人がこの周辺の神社に祀られていることになります。

お断りしておきますが、私は間違っても神話の話をしてるのでなく、ここで掲げられている祭神は、あくまでも実在していたという前提で話を進めています。記紀では神話としてこの辺を曖昧に記述していますので、実在人の記録である秀真伝(ほつまつたえ)と秀真伝研究者である池田満氏の研究成果をベースに、この時代の家系を描き直してみました。

画像11:ニニキネ(瓊瓊杵尊)とその前後の血縁関係
東北王朝(タカギムスビ系)との姻戚関係が確認できる

なお、赤字部分は私独自の解釈です。池田氏によるとニギハヤヒはホノアカリの養子であるとされていますが、日本の王宮は血縁を後生大事にしますから、どう考えても、遠い血縁の子をアマカミの世継ぎにするとは考えられないのです。おそらく、ニニキネの子がホノアカリに差し出され、ニギハヤヒとされたのでしょう。当然ながら、子を産んだ相手の女性も高貴な家系であることが求められます。

日高見(ヒタカミ)とは、一般的には現在の東北地方を指すと言われています。その東北地方から一人の姫、チチヒメが9代アマカミのオシホミミの元へ嫁ぎます。これが縁だったのか、オシホミミは現在の宮城県多賀城市に宮を構えたともいわれています。また、東北を流れる北上川の呼び名はヒタカミカワ(日高見川)から来たと言う研究もあります。

どうやら、東北地方と愛鷹の関係性はこれで一応確認が取れたようです。

■アシタカはニニキネであった

さて、前述した三人の女性の中でも、アシタカは二人の若い女性とごく近しい関係となります。巷ではこれが二股関係と見られて、アシタカ君は女性の視聴者からは人気がないと聞きます。しかし、私は、もっと複雑な事実関係が現実のアニメモデルにあったのだろうという結論になりました。それをまとめたのが以下の分析図です。

画像12:アシタカのモデルはニニキネ(瓊瓊杵尊)であった
(© 1997 Studio Ghibli・ND, © 2001 Studio Ghibli・NDDTM)

この図を見れば、なぜ2000年の「もののけ姫」に続いて2001年に「千と千尋の神隠し」が上映され、そこにわざわざ「ニギハヤヒ」なる名前のキャラが登場したのかが分かるでしょう。

 ニギハヤヒは不義の子であった

ここで言う不義とは「母との姦通」であり、先ほどの系図で「?」で示した女性は実母のチチヒメを表しています。もしかしたら、それを伝えるためだけにこの二つの映画は作られたのかもしれません。タイトルの「千と千尋」は「千千=チチ」、すなわちニニキネの実母である「チチヒメ」のことを指しているのでしょう。

最後に、秀真伝によるとニニキネはハラミヤマの麓に宮を置いたとあります。池田氏はハラミヤマを現在の富士山と比定されていますが、私は、愛鷹山こそがハラミヤマなのではないかと推定します。なぜなら、富士山がこれらの人物の時代に今の形で存在していたかどうかは不確かだからです。

 参考:富士山は突然現れた

なお、エボシ御前については、その役柄からチチヒメ、コノハナサクヤヒメに比肩し得る地位の持ち主であると考えられます。すなわち正后クラス以上の人物であり、時代が近く役名に関係があるとなるとヒメタタライスズヒメに比定するのがおそらく正解でしょう。ヒメタタライスズヒメについては「ダリフラのプリンセスプリンセス」にて既に記事化しています。読者の皆さんが「ヒミコ」と呼んでいる、伝説の女王のことです。

アシタカは物語の最後に、エボシ御前のタタラ場に身を置く決意をしますが、そのタタラ場こそが、ヒミコの時代に誕生した新天皇制の現皇室であり、ニニキネから続くニギハヤヒの皇統はその時に完全に失われたのです。いわゆる、ニギハヤヒの国譲りのことです。


一人の王で治めるぞ(日月神示)
管理人 日月土

ホログラム宇宙とビッグ・バン

以下の図は、本日(令和3年元日)に配信されたメルマガの解説文を補足するために掲載したものです。

夜空に見える星々や、太陽や月などの「天体」と呼ばれるものはいったい何なのか。その「天体」の定義に遡ったとき、 これまで与えられてきた宇宙概念が誤りであり、宇宙の真の姿が理解できるようになるでしょう。また、宇宙の成立に神の介在が不可欠であることも見えてくるのです。

宇宙開闢(うちゅうかいびゃく)は古代文明によって人工的に為された。これが日本神話における岩戸閉めであり、騙した岩戸開きとなった。

しかし、このような人の犯した過ちは、近々清算されることになるでしょう。天空の異変はこれをきっかけに起こることになります。


月の光は太陽の光になり/太陽の光は七倍になり/七つの日の光となる
(イザヤ 30:26)
管理人 日月土

隠された祭神と成田(2) - 調査報告

今回は「隠された祭神と成田」の続きとなります。昨日までの数日間、千葉県北東部に鎮座する側高(そばたか)神社の未調査分について現地視察してきました。その報告となります。

今回巡ったのは、千葉県成田市以東の前回未調査の側高神社です。漢字表記は社によって異なりますが、基本的に全て「ソバタカ」と読むようです。以下、訪れた場所を地図に示します。

画像1:今回の調査対象(計7社)

以下、各社前で撮影した写真をご紹介します。手ブレが強くで見づらいものもありますがご容赦ください。

画像2:脇鷹神社(千葉県成田市小泉)
成田の大地の上に建つお社。やや荒れた感じではあるが、土地全体は清々しい場所である
画像3:側高神社(千葉県香取市丁子)
田んぼに突き出した里山の頂上付近にあるちいさなお社
画像4:側高神社(千葉県香取市大倉)
私の知人が祭神名を教えてもらえず、追い返された神社。側高社の中では最大規模。
画像5:側高神社(千葉県多古町本三倉)
村落内のやや荒れた感じのお社。大地の広がる中に佇み、土地はたいへん
素晴らしい。古代期はきっと繁栄した場所であっただろうと感じられた。
画像6:祖波鷹神社(千葉県香取市岩部)
今回の調査で一番問題を感じた場所。お社や土地そのものでなく、
隣接して建てられた慰霊塔に何やら良からぬ気配を感じた。
画像7:脇鷹神社(千葉県香取市伊地山)
木立の中に建てられた簡素な作りのお社。お社そのもの
よりも、周囲の雑木林の中が気になった。
画像8:稲荷側鷹合神社(千葉県香取市西田部)
調査中に偶然発見した側高系神社。簡素ではあるが、
他のお社にはない神々しさを放っていた。

結局のところ、外見から祭神が何か分かるようものは見つかりませんでした。しかしながら、地形や他の神社との配置などから多くの情報を得ることができました。むしろ、他の神社群の比較からでしか側高神社のポジションは分からないのではないかと思います。

それらの分析については今後掲載していく予定ですが、今回は簡単に現場写真を掲載するのみにて本レポートを終了させて頂きます。

なお、1月16日のメルマガでは、分析途中のものについて一部を先に公開したいと思います。


この国の神力を現す世と成れる
管理人 日月土

倭国大乱とハタレの乱

繰り返しになりますが、このブログでは日本書紀・古事記などの史書に書かれた神代は、史実を隠蔽するために意図的に寓話化・神話化されたものであるとみなしています。

ですから、日本各地の神社に祀られている天照大御神(アマテラスオオミカミ)や大国主命(オオクニヌシノミコト)などは、実在した人物を象徴した名前であるとの認識で話を進めています。

また、それを裏付ける材料として、秀真伝(ホツマツタエ)を重要な参考資料としています。何故なら、秀真伝に登場するアマテルカミ(天照大御神のこと)や記紀で神々として描かれている他の登場人物は、ここでは明らかに実在した人物であり、都を開いた場所や血縁関係等が具体的に示されているだけでなく、人物にまつわるエピソードなどもより詳細に記述されているからです。

もちろん、秀真伝に書かれていることが全て正しいかどうかなど分かりません。そこで、神話化された記紀の物語を一種の暗号と見なし、暗号の解読内容と、秀真伝の記述に矛盾がないか、また、他の史書とはどうなのか、それらを比較検討して、史実を見出そうとしています。尤も、それは理想形であり、現実にはなかなかそこまで行きつけませんが。

■倭国大乱とは何か

女王卑弥呼と邪馬台国の謎は、卑弥呼の正体や、国が実在した場所を巡って古代史ファンにとって興味尽きない話題ですが、今回私は、敢えてその主要テーマから外れて、魏志倭人伝の次の記述に注目しました

其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 


「その国、本は亦、男子を以って王と為す。住むこと七、八十年。倭国は乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立して王と為す。名は卑弥呼と曰う。鬼道に事え能く衆を惑わす。年すでに長大。夫婿なく、男弟ありて、佐(たす)けて国を治める。」

引用元:魏志倭人伝 http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm

卑弥呼が登場する有名な一説ではありますが、私が注目するのは次の箇所です

 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年
「住むこと七、八十年。倭国は乱れ、相攻伐すること歴年」

男王の時代、倭国は乱れ7,80年に及ぶ乱が起きていたといいます。本書では単に「乱」と記述されていますが、一般にこれを「倭国大乱」と呼び、Wikiによると魏志倭人伝の他、後漢書や梁書などの他の中国史書にもその記述あるとあります。

 参考:Wikiペディア「倭国大乱

また、Wikiでは、史書の記述からその時期を2世紀後半としていますが、交戦勢力や戦力、指揮官や損害などについては不明ということになっています。

要するに、この頃、卑弥呼の登場直前までに日本国内で何か大きな戦争があったという漠然とした情報しか残されていないのです。

■秀真伝に書かれた騒乱

魏志倭人伝や記紀では何があったのかまったく不明の倭国大乱ですが、実は、秀真伝では記紀で言うところの神話時代に「ハタレの乱」という全国規模の騒乱があったとの記載があります。

ここから先は秀真研究者の池田満さんの文献解釈に従って「ハタレの乱」がどういうものであったかを確認します。

まず、池田氏編集の「ホツマ辞典」からその定義の冒頭部を抜粋します。

 八代アマカミ・アマテルの時代に起きた全国規模の叛乱の名称。またこの叛乱に参加した人々についていう。ハタレの語源は、必然性を超えて強引に要求する意の動詞ハタレからきている。
 ハタレには六集団の区別があって、、各々に名前が付いていた。

 (中略)

 悪人を野放しのまま放置するのか、或いは、ノリ(法)を通すために戦さをするのか、二者択一の判断を迫られた時、アマテルカミは後者を選んだ。

このハタレの乱の規模については、同辞典に次のような表でまとめられています。

表1:ハタレの乱六集団 ※赤字は筆者

秀真伝の記述を信じるなら、約80万人の参加人数とは、例えこれが述べ人数だとしても兵力としては大規模であり、決してそれが小競り合いなどではないことが分かります。

■ハタレの乱はイロから始まった

さて、このハタレの乱が何をきっかけに始まったかというと、これはいつの時代も人の常と言うべきなのか、どうやらソサノヲ(素戔嗚尊)とその兄、アマテルカミ(天照大御神)のキサキ(13人居るキサキの一人)であるハヤコとの不倫関係のようなのです。

また、ハヤコには同じくアマテルカミの筆頭キサキである姉のモチコがおり、モチコはアマテルカミの世継ぎが他のキサキの子に決まると、それに怒りハヤコと協調し、アマテルカミの弟ソサノヲを立てて天下をわが物にしようと画策を始めるのです。

二人の姉妹の画策は朝廷側に漏れて、九州の宇佐へと謹慎処分となるのですが、ハヤコは自家の忠実な部下であるコクミという人物に命じて、ソサノヲに嫁入り話がある度に相手の娘を殺させたのです。その犠牲となった娘の数は8人。そのためソサノヲは意を決してハヤコを斬ります。

ここからソサノヲのヤマタ成敗が始まるのですが、ヤマタの頭目の数は8人、これがいわゆる八岐大蛇神話の秀真伝による現実的解釈なのです。

以上、池田氏による秀真伝解釈から言えるのは、ハタレの乱とは、神話における天照大御神および素戔嗚尊の頃に発生した内乱ということになります。二人の関係について、古事記における神話ストーリーは大体以下の様になります。

『古事記』によれば、スサノオはそれを断り、母神イザナミのいる根の国に行きたいと願い、イザナギの怒りを買って追放されてしまう。そこで母の故地、出雲と伯耆の堺近辺の根の国へ向う前に姉の天照大御神に別れの挨拶をしようと高天原へ上るが、天照大御神は弟が攻め入って来たのではと思い武装して応対する。スサノオは疑いを解くために誓約(うけひ)を行った。


我の潔白が誓約によって証明されたとして高天原に滞在するスサノオだったが、居られることになると次々と粗暴を行い、天照大御神は恐れて天の岩屋に隠れてしまった。そのため、彼は高天原を追放された

引用元:Wikiペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B5%E3%83%8E%E3%82%AA

以上、神話においては、アマテルカミ自身が女性にされてしまっており、ソサノヲの不倫相手のハヤコ、アマテルカミの他のキサキに敵意を抱いたモチコの存在が隠されています。

この神話設定ではソサノヲとハヤコの交情は成立せず、乱の原因となったイロの問題は消滅してしまいます。このアマテルカミの女神化には、「女の情によって崩された国家秩序」という恥ずべき汚点を史実から排除しつつ、それと同時に、女(イロ)がソサノヲを粗暴に追い込んでしまった(=社会的混乱が発生した)という、歴史的教訓と解釈のヒントを埋め込んだ、古事記特有の暗号なのではないかと私は考えるのです。

■ハタレの乱はいつまで続いたのか

もしも、中国系史書の記述する倭国大乱がハタレの乱を指すならば、ハタレの乱は7,80年続いたことになります。アマテルカミから続く血統は、秀真伝に従って記述すると次のようになります。

 アマテルカミ (ハタレの乱発生)
   |
 オシホミミ
   |
 ニニキネ
   |
 ホオデミ
   |
 ウカヤフキアワセズ
   |
 神武天皇

以前、「ダリフラのプリンセスプリンセス」で卑弥呼は神武天皇の双子の皇后の一人だったのではないか?という記事を掲載しましたが、その時の結論を用いると、ハタレの乱は神武天皇が即位した頃に収まったことになります。アマテルカミから神武天皇まで5代の王権が継承されていますが、80年を5人で割ると、一人当たりの在位期間は平均16年となり、一人の王の在位期間としては妥当ではないかと思われます。

もちろん、中国史書が示す年代と厳密に照らし合わせる必要があるとは思いますが、私はその中国史書についても、その記述に大きな疑いを持っています。何故なら、以前から主張している「歴史隠蔽政策」または「ヘブライ一掃政策」は、必ずしも日本国内だけの話とは限らないからです。疑うべきは海外史書も同じなのです。

この解釈で気を付ける点は、このハタレの乱の期間内に、いわゆる「天孫降臨」や「海彦山彦の争い」、「神武東征」など、古代史における有名歴史事象が発生したことです。つまり、それらの歴史事象の背景には、国家的内乱があり、言い換えればこの内乱こそが古代の歴史を大きく動かしたのだと言うことができます。

■聖書にみる女性と混乱

女性の乱れた情念が世の混乱を引き起こす。これについては、聖書にも似た記述がたくさんあります。特に、不法を犯すイスラエルの民を「姦淫な女」と例えるシーンは、聖書全編を通して各所に現れます。

また、黙示録では、審判の日には淫らな女性に対し大いなる罰が下されると記されています。

その裁きは真実で正しいからである。みだらな行いで/地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、/御自分の僕たちの流した血の復讐を、/彼女になさったからである。

ヨハネの黙示録 第19章2節

これはアダムとエヴァに始まる、男女のあるべき関係を厳密に規定する聖書の教えでありますが、ここには、イロの乱れがどれほど世の秩序を乱すのかという、戒めも含まれているのです。

最後に、似たようなフレーズを日月神示からご紹介しましょう。

出足の港は二二(夫婦)の理(ミチ)からぢゃと申してあろう。真理と申してあろう。これが乱れると世が乱れるぞ。神界の乱れイロからぢゃと申してあろう。男女の道 正されん限り、世界はちっともよくはならんぞ。今の世のさま見て、早う改心、結構いたしくれよ。和は力ぞ。

春の巻 第二十五帖

人間社会における諸問題は、はるか昔から男女の関係が作り出してきたのかもしれません。きっと、より良き世を導くためには、まず夫婦の間、恋人同士の間で良き関係を作ることから始めるべきなのでしょう。歴史は男女が作る、当たり前かもしれませんがそういうことです。


 * * *

実は、11月に九州に向かった理由には、トンカラリンの現地調査だけでなく、このハタレの乱についての調査も含まれていました。明日配送予定のメルマガでは、それについてもご報告したいと思います。


奪い尽くされて、彼女は地に座る(イザヤ 3:26)
管理人 日月土




※以下は12月16日配信メルマガに関連した追加画像です

画像1:不動岩(熊本県山鹿市)
画像2:山鹿灯篭祭の灯篭
画像3:ヴィマーナ
(出典「古代核戦争の謎」学研 2009)

トンカラリン-熊本調査報告

今月23日の連休期間、遺跡調査のため熊本県を訪れました。熊本市内を滞在の拠点とし、複数の場所を回ってきましたが、中でも前々回の記事「チブサン古墳とトンカラリンの小人」で取り上げた謎の遺跡「トンカラリン」を、この目で実際に確かめることが最大の目的でした。

画像1:熊本市内の市電
久しぶりの熊本訪問では市電に乗るのも楽しみの一つでした

ところが、短期間で気になる場所をあちこち回っている間に時間が無くなり、結局のところ、トンカラリンを訪れたのは、熊本を離れる当日の早朝となってしまいました。朝6時のまだ暗い時間にホテルをチェックアウトし、夜が明けた頃の7時前にトンカラリンのある熊本県玉名郡和水町(なごみまち)に到着したのです。

現地に到着して、最初に見学したのは、トンカラリンではなく、すぐ近くにある江田船山古墳でした。同古墳は肥後古代の森公園内にあり、公園内には丁寧に芝の刈り込まれた形の整った古墳が幾つも点在していました。

画像2:肥後古代の森公園とトンカラリンの位置関係

以下、公園内の風景写真です。画像6のモニュメントには呪術的な意味があるのですが、現在は特に悪影響は無いとだけお伝えしておきます。

画像3:江田船山古墳(中央)
画像4:京塚古墳
画像5:九州の古墳でよく見られる石人
画像6:公園内のモニュメント
画像7:公園内案内板

次にトンカラリンの終点部分、高台に建てられた菅原神社を先に見に行きました。トンカラリンに関する資料等を見ると、この神社とトンカラリンの関係は不明とされていますが、現地で実物を鑑定するとその関係性は明らかです。

これについては歴史学や考古学でいくらアプローチしても理解できるはずがなく、そのシンボル的な意味は陰陽道や気学・気功の知識を以ってして初めて解明されるものです。古代の日本人は、簡単に言うと「呪術が大好き」であり、実効性のある技術として本気で信じ、実践していたのです。加持祈祷で病気を治すなどと言うのもその一例と言えるでしょう。ですから、それを非科学的なものとしてバカにして見る限り、古代人の考えが分かるはずもありません。

その観点から、この菅原神社は明らかに

 遺跡封じを目的に建てられたもの

と言うことができます。それは、例を挙げれば、境内の中に無暗に石柱や石碑を置いてることなどに見て取れます。この場合の石柱とは

 地に穿たれた剣

と呪術的に見ることができるからです。剣を突き刺された土地は生気を失い、過去にそこで起きた出来事について語るのを止めてしまうのです。これをゲームや劇画の用語で言うなら「封印」と言い換えることができるでしょう。要するに、この土地が記憶する過去を消してしまえという発想なのです。

画像8:菅原神社正面
画像9:鳥居脇の石柱
画像10:牛の像。これはこれで別の意味がある
画像11:こんな石碑がたくさん置かれている
画像12:蘇鉄の木も封印術で良く使われるアイテム

上記写真をご覧になれば分かるように、この神社は呪術的な封印アイテムに事欠かないのです。そうなると、どこの誰が、いったいどんな過去を消したくてこのような呪術を施したのかが問題になります。

それを説明する仮説として、「トンカラリンの小人」で私は、”国家的かつ世界的な歴史隠蔽政策の一環として、小人種や巨人種、有角種などの異形種人類が実在していた痕跡を消そうとしたのではないか?”という考えを示しました。

そして、菅原神社を訪れてその思いは一段と高まったのです。

さて、以下の写真はトンカラリンの出入り口やトンネル部を撮影したものです。基本的にネットなどで紹介されているものと変わらないので説明は省略しますが、実物を見た時に、予想以上に不可解な思いに囚われたことをここに記しておきます。その感覚とは、かつて生贄が捧げられていた祭場跡などで感じたものと同じなのです。

そこで、ここに小人種が居たのではないかという仮説はひとまず置いておくとして、もう一つの仮説についても検討しなければならない必要性を感じました。それは、トンカラリンは小人ならぬ

 小児生贄の場ではなかったのか?

というものです。もちろん、その両方が存在した可能性もあります。

画像13:トンカラリンの入り口と看板
画像14:入口付近の階段構造
画像15:この小径の下を石組みトンネルが通っている
画像16:地上部の切り立ったトンネル。奥に出口が見える

■和水町で見つけた謎の石祠

前掲の画像2の中に、水色のマークを付けた場所があります。そこは訪れる予定のない場所でしたが、前を通り過ぎた時に何故か気になり、車を止めて小高い丘の上まで続く階段を登りました。そこで見つけたのが、以下の写真17の石祠と石碑です。

画像17:謎の石祠

これが何の神を祀っているのか、帰りの飛行機の時間が迫り地元の方に尋ねる時間はありませんでしたが、おそらく、そうしたところで正しい答えは返ってこなかったでしょう。何故かと言うと、私の予想が当たっているなら、その祭神名を知っている人がそれを正直に口にするとは思えないからです。

この場所については、次の聖句を用いて私の推察を示すに留めたいと思います。そしてこの推察が正しいのなら、この辺り一帯の土地が古代期においてどのような場所であったか、より鮮明になることでしょう。

お前たちの住む所はどこにおいても、町は廃虚とされ、聖なる高台は荒らされる。祭壇も廃虚とされて荒らされ、偶像は粉々に砕かれ、香炉台は打ち壊され、こうしてお前たちの作ったものは一掃される。

(エゼキエル書 第6章6節)

今回の熊本調査では、トンカラリン以外にも多くの発見がありました。それらについては追ってお知らせしたいと思います。また、「トンカラリン」という不思議な命名についての考察を明日のメルマガで掲載する予定です。


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管理人 日月土

ヘブライ語から生まれた日本語

?שלום, קוראים. מה שלומך
(読者の皆様こんちは。ご機嫌如何でしょうか?)

いきなりヘブライ語で失礼しました。今回はこれまでの記事「モリヤとユダヤ人」、「ユダヤ人埴輪と六芒星」に関連して、古代日本とヘブライの関係について考察してみたいと思います。

とはいえ、この件については既に多くの研究者が言及されているので、今回はそれらをご紹介するだけで終わってしまうかもしれません。しかし、正装ユダヤ人と同じ形状の埴輪が実際に日本の地から出土している以上、日本人のルーツを探る上で外せない内容かと思います。その復習だと思ってお付き合いいただければと思います。

■君が代のヘブライ音訳

ここでは、ヘブライ音訳という考え方で考察を進めます。ヘブライ音訳とは、日本語の音に注目し、その音に近いヘブライ語をそれに対応させ、意味を解読するというものです。その手法を用いた分析の中で、最も有名なのは、我が日本国の国歌「君が代」をヘブライ音訳したものです。

現代の君が代は「和漢朗詠集七七五」または「古今和歌集巻七-三四三」の古謡の一部分、「わが君は」を「君が代」に置き換えたものと言われています。

ここでは、西澤徹彦著「古代日本と七大天使 神代編」(1989年 ジェイアイ出版)で紹介されたヘブライ音訳とその解釈をご紹介します。

 日本語文:
  我が君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
 
 ヘブライ音訳文(右から読みます):
     וְאֶגַע קִימךָ
       צַוֹּנִי יְעַוֵּנִי
      שֶׁוֶרַע יִּשֶׁהַנוּ
    יְחַוַּה אוֹת חַנְלִיתָ
    כָּכַנוּ מוֹשִׁיעַ מֵעֵד 

 音訳文の日本語意訳:
  私は、あなたの立ち向かう者を批判するだろう。
  彼はかならず、私を決めるだろう。
  (同じ)血統であるところの私たちのイエス。
  あなたは完遂させたしるしに、告げるだろう。
  私達のこのような証言による救い主。

同書によると、「君が代」の元歌にはこれの他に2つの「雑歌・皇大神宮年中行事」版があり、歌の一部が変えられていますが、その場合でも日本語意訳の意味は大きく変わらないことが分かっています。そして、むしろ互いの歌がその意味を補強し合っていると見なすことができるとあります。

ご存知のように、ヘブライの民は聖書の民です。この意訳でいう「私」とは「主=ヤハウェ」を指し、また「彼」であるイエス・キリストが「完遂」したというのは、神の計画の完遂、すなわちイエス・キリストの復活を意味するものであると解釈されるのです。

「岡っ引き」や「ヤクザ」など、語源がよく分からない日本語がヘブライ語起源であることはよく指摘されますが、君が代の場合は、日本語とヘブライ語の音声の類似性などという些末な事象をはるかに超えて、ヘブライ人(ユダヤ人)の精神性までを表現しているのです。

オリンピックで日本人が金メダルを獲得する度に、私たち日本人はイエス・キリストを礼賛しているとしたら、それはいったい何を意味しているのでしょうか?

なお、君が代のヘブライ語音訳とその解釈についてはWebサイト「日本とユダヤのハーモニー」さんでも試みられています。そこにはやはり「イエス・キリスト」の名が現れている点に注意です。

■日本語はどこから来たのか?

西澤氏のヘブライ語研究は、やがて日本語の発生起源に迫ることになります。私たちが日常使っている日本語は、時に外来語を取り込むことがあっても、日本独自の固有文化を象徴している言葉であると、私たち日本人は普通に考えています。ところが、その認識が実際はどうなのか、次の西澤氏の研究成果を見る限り大きく修正する必要があると思うのは私だけでしょうか?

表1:ヘブライ語文法暗誦表その一
表2:ヘブライ語文法暗誦表その二

私たちが中学生の時に英語を勉強した際、代名詞を覚えるのに次のような文字の羅列を暗誦していたことを思い出してみてください。

 I, My, Me, You, Your, You, He, His, Him, She, Her, Her
アイマイミー、ユウユアユウ、ヒーヒズヒム、シーハーハー

上記2つの表は、まさにヘブライ語の必須文法項目を記憶するための、暗誦用虎の巻とも言えるものです。英語とは異なり、ヘブライ語は男女の性別による使い分けがはっきりしているので、上記の表には同じく性別が厳格なフランス語文法による注釈を原本に加えています。

さて、次に各表の右列に並んだ発音のかな表記を読んでみましょう。どのような音に聞こえますか?

 ひー、ふー、みー …
 あてぃ、あぇに、しゃぶ …

もうお分かりですね、これらは現代の私たちも使用している2種類の日本語数詞なのです。漢字で書くと、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十となるお馴染みのあれです。

西澤氏はこの結果から次のように結論を導いています。

古代日本人は、明らかにヘブライ語を学んでいた。そして、当時の社会で広く知られていた学習用暗誦文が後に数詞として使われるようになった。

そんなの、日本語数詞に似ている言葉を寄せ集めれば何とでも言えると反論される方もいらっしゃると思いますが、それならば、なぜ、その寄せ集めた言葉が基本文法語ばかりなのか、それについての説明もご用意いただかないと説明不足です。

また、日本語に数詞の系統が何故2つ(「ひふみ」と「いちにさん」)あるのかも、例えば共に通用していた文法暗誦表の1ページ目と2ページ目を流用したという風に説明できてしまうのです。

さらに言うなら、「ひふみ」数詞の発声には「ひとつ、ふたつ、みっつ」などのように終わりに「つ」を添えるものも広く使用されていますが、語尾にT音の「ת」(タウ)を添える発声はまさにヘブライ語の特徴でもあるのです。

以上は数詞に限っての説明ですが、その他に言語の類似性を追っていくと、どうやら私達の言葉、日本語は古代ヘブライ語から人工的に造語されているようなのです。

日本語造語がいつ、何のために行われたのか?その答のヒントを示しているのが、前節で取り上げた日本国国歌「君が代」なのです。そして、この隠された理由こそが、123便撃墜計画をはじめ、近代日本で繰り返し行われてきた怪事件(山下事件など)や猟奇事件、世界大戦などに通底する根本的理由であるとも言えるのです。

言葉の説明から何だかいきなりすごい結論になってしまいましたが、明日配信のメルマガでは、その他の古謡解釈や、ヲシテ文字などカタカムナとヘブライ語との関連性について説明したいと思います。また、今回取り上げた日本語造語説についての私の考察をお伝えしたいと思います。


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管理人 日月土

チブサン古墳とトンカラリンの小人

こ数か月、関東の記事が続いてしまいました。今回は少し視点を変えて、数年前に調査した九州の古墳・遺跡群についてレポートしたいと思います。

■装飾古墳とは何か

古墳と言えば、天然石で組まれた石室と石棺などがイメージされますが、中には棺や、それを納める石室の壁面に、模様を刻んだり、着色された絵などを施した装飾古墳(そうしょくこふん)というものがあります。

取りあえず、Wikiペディアではどのように説明されているのか調べてみましょう。

装飾古墳(そうしょくこふん)は、日本の古墳のうち、内部の壁や石棺に浮き彫り、線刻、彩色などの装飾のあるものの総称で、墳丘を持たない横穴墓も含まれる。大半が九州地方、特に福岡県、熊本県に集中している。福岡県桂川町の王塚古墳(国の特別史跡)、熊本県山鹿市のチブサン古墳などが有名である。

引用元:Wikiペディア「装飾古墳

Wikiの説明にもあるように、実はこの装飾古墳は九州にあるものが、他の地域におけるその数を圧倒しているのです。

私も、とても全部を回りきれてはいませんが、次の古墳に赴いてその装飾デザインを見てきています。

 竹原古墳   福岡県宮若市
 王塚古墳   福岡県桂川町
 チブサン古墳 熊本県山鹿市

画像1:竹原古墳の装飾
画像2:王塚古墳の装飾
画像3:チブサン古墳の装飾

※当時撮影した写真を紛失してしまったので、上記画像は福岡・熊本両県の各自治体公式ページから拝借しています。

 ・宮若市公式ページ:竹原古墳
 ・王塚装飾古墳館公式ページ:墳丘と石室
 ・山鹿市公式ページ:チブサン古墳

今回は、この中から特に熊本のチブサン古墳を取り上げたいと思います。

■チブサン古墳、謎の人物画

まずはこの古墳の名前の由来ですが、一般的な説明では、石室内の石屋形(いしやかた)内壁に描かれた装飾文様の中に丸い乳房のような形状が2つあるので、そこから名付けられたことになっています。仮にも古代の有力者のお墓なのに、そんな名前の付け方ってどうなんだろう?とは思うのですが、まあ、分かりやすいといえば分かりやすいですよね。

画像4:乳房の模様?(写真は屋外のレプリカ)

そして、チブサン古墳で最も注目されるのが、3方向に分かれた冠を被った、あるいは、3本の角を生やした人物のような絵がそこに描かれていることです。

画像5:冠を被った人物か?(写真は屋外のレプリカ)

この人物画とその上に描かれた7つの丸い円を以って、「UFOとそこから降り立った宇宙人だ!」と騒ぐ方もいらっしゃるようですが、想像するのは自由だとは言え、まずはなるべくオーソドックスな解釈から入るのが正道でしょう。普段から変なことばかり書いてる私が言うのも何なのですが…

■失われた石板の謎

現地にてたいへん物知りで熱心な学芸員さんの説明を聞きながら、私は覗き窓越しにこの装飾を眺めました。

そして、最初に違和感を感じたのが、

 石屋形の壁を構成している石板の1枚が欠けている

ことなのです(画像3)。学芸員さんの説明によると、この古墳が発見された時には既に盗掘されて古墳の口が開いており、石板もおそらく盗掘時かそれ以降に持ち出されたのだろうとのことです。

しかし、待ってください、石室内の祭具や宝飾品類が盗み出されるのまでは理解できますが、どうして、重くて大きな石板を持ち出したのでしょう?それも1枚だけ?もしも装飾に価値があるのなら、墳丘を崩して全部持ち出せばいいことです。それをわざわざ1枚だけ、狭い入り口からいそいそと運び出したその理由が理解できないのです。

ここで、このブログがこれまで主張してきた次の基本的な考え方を思い出してください。

 記紀は真の日本史を書き換えるために編纂された

つまり、上古代に実在したはずの古代天皇を全て超自然的な神様に祭り上げ、八百万の神々を創作してしまったというアレです。すると、国家的とも言えるこの歴史隠蔽政策は、記紀が編纂された西暦700年代以前の古代期には既に始まっていたと考えられるのです。そして、チブサン古墳が築かれたとされる古墳時代後期はちょうどその政策が全国に広がり始めた頃だと想像されるのです。

何が言いたいかというと、埋葬当時やそれ以前を想起させる歴史情報の多い「装飾文様」なる媒体は、同政策遂行上たいへん目障りだったと考えられるのです。だからこそ、装飾された石板の中でも、後世に最も知られてはならないものだけを、どこかの時点で運び出したのではないかと考えられるのです。

私は、おそらくその盗まれた石板に描かれていたのは「文字」だったのではないかと予想しています。

ここまで書くと、読者の皆様の中には

 ならば、石板を全て持ち出し、古墳を丸ごと潰してしまえばよいではないか

と思われる方もいらっしゃるかもしれません。それは、その通りなのです。私もそこまでして昔のことを知られたくない人たちが、どうしてその他の石板をそこに残したのだろうかと考えあぐねていましたが、よく考えたら、その答はとても簡単であることに気付きました。

 誤った歴史観を植え付けるのに利用すればいい

要するに、歴史文献における記紀と同じで、装飾そのもに手を加えて後代の発見者を誤誘導、あるいは攪乱させようと考えたはずなのです。そして、おそらく文字が書かれた石板だけは、盗掘者も解読の必要があり、資料として持ち出さざるを得なかった。そう考えると辻褄が合ってきます。

ですから、チブサン古墳の装飾文様が、果たして建設当初のままだったかどうかはたいへん疑わしいのです。そうなると、宇宙人と呼ばれる人物画の形状も、そのまま素直に受け取ってよいのだろうかという疑問が生じるのです。

何しろ、3本の角とは、悪魔バフォメットの象徴でもあり、こんなものを死者を安置する聖所に描くこと自体があり得ないのです。むしろ、埋葬者を侮辱するため、後からわざと悪魔を描いたと考える方が自然なのです。

画像6:バフォメット像
※呪術的観点からオリジナル画像に危険防止加工を施しています

なお、当時の人々が悪魔バフォメットの概念を理解していたのか?それについて疑問を持たれる方は、前回の記事で「ユダヤ人埴輪」を取り上げたことを今一度思い出してください。古墳時代には、旧約聖書における神と悪魔の対立概念が日本の地に存在していたと考える方が自然なのです。ですから、その時代以降から現在に至るまで、どの時代にバフォメット像が描かれたとしても不思議はないのです。

■チブサで読み解く人物画

ここから更に推論を加えて行きます。必ずしもこれが正解であると主張するつもりもありませんが、日本の国家的な歴史隠蔽政策という考え方に矛盾が無いよう論を進めると、どうしてもこういう結論になってしまうのだとご理解ください。

さて、ここでもう一度「チブサン」という違和感たっぷりの名前に焦点を当ててみます。この変な名前の由来は上述した通りなのですが、こういう命名にしたのは、親しみを感じるからというよりは、むしろ

 何かの暗号、あるいは暗示

を残したかったからだとも考えられます。ここで、画像4(チブサ)と画像5(人物)を見比べます。

画像7:チブサと人物の比較

そもそも、この乳房と呼ばれる模様自体が、全体の装飾文様の中では何か違和感を感じさせます。そして、これが「チブサン」なる暗号を残した意味だとすれば、おそらくこの乳房の絵は後から描き加えられたものであり、この中にに何かの意図が隠されていることになります。

私はこれをオリジナル装飾の復元コードなのではないかと解釈しました。乳房の絵は、「赤丸の中に白丸、そして白丸の中に小さな黒丸」となっており、それが少し離れて二つあるという構造を取っています。

これってどうなんでしょう、当初からこれは乳房の絵だという先入観から入りましたが、何の情報もなければ私たちはこれを見てこう思ったはずです

 これは「目」じゃないのか?

そして、この復元コードを先の人物画に適用して得られたのが次の図なのです。

画像8:復元した人物画

頭部の切れ込みのように赤く塗られた部分に、白目と黒目を入れるともう少し現実的な人物画が浮き出してくるのです。

ここまで紐解いたとき、次に問題になるのは、以下の点です、

 どうしてこの人物画を隠さなければいけなかったのか?

もちろん、バフォメット像をそこに描きたかったというのもあるでしょうが、理由がそれだけならば、わざわざ「チブサン」などという暗号名を残して、事情を知る関係者に対して特に注意喚起を求める必要などなかったはずなのですから・・・

■トンカラリンの住人

さて、ここでチブサン古墳から一旦離れ、周囲にある遺跡に目を向けます。熊本県山鹿市から隣の玉名市にかけては古墳等の遺跡が非常に多い所なのですが、今回はあの有名な石組みの遺構、玉名市にあるトンカラリンに注目します。

画像9:チブサン古墳とトンカラリンの位置関係

トンカラリンと言うと、あの戦時歌謡「トントン トンカラリと 隣組♪」の「隣組」を思い出す方もいらっしゃると思います。当然ながら、私はこの歌と遺跡の間に関係があると見ていますが、今回はそこにフォーカスしません。

トンカラリンがどのような遺跡なのか、それを知るのにちょうどよい観光PR動画があるので、まずはそちらをご覧になってください。

動画1:トンカラリンのPR動画

この動画の中で、縦横70㎝ほどの、大人が這ってやっと通れるような石組みのトンネル(動画では暗渠と呼ばれている)が出てくることにご注目ください。

これについては排水路なのではないかという意見もあるのですが、これに続く階段が設けられていたりするので、どうも水路とも言い切れず、一体全体いつ誰がどんな目的でこんな狭いトンネルを作ったのか、謎とされています。

ここで再び、先ほどのチブサン古墳の人物画(画像8)に注目してください。画像ではこの人物画がどれくらいの大きさで描かれているのか分かりませんが、石板の高さが1.4mですから、描かれた人物の身長は50cmくらいかと思われます。

私は、この人物画は実寸大に描かれているのではないかと考えています。つまり小人型の人間が古墳時代の当時この地域にいたのではないかということです。そう考える理由はこれまで述べてきた通りで、それをまとめると次のようになります。

 (1)わざわざ人物画を改竄し、注意を促す暗号を残している
 (2)トンカラリンの石組トンネルの小ささが説明できる

「またまた、変なことを言って~」という読者様の声が聞こえてきそうですが、実は過去記事「異形の人々考」で古代期における巨人の実在可能性を論じた時と、議論の本質は全く変わらないのです。

ただでさえ、童話の中では小人がたくさん登場し、それに加えギリシァ神話のピュグマイオイ、ガリバー旅行記のリリパット、北海道のコロボックルなど、小人に関する話題は昔から世界中で見られるのです。現存する小人では大人の身長が150cmほどの、アフリカのピグミー族が有名です。

画像10:世界の小人伝説(引用:Wikiペディア、フリー画像)
 左から、ピュグマイオイ、リリパット、コロボックル

以上のような事実を踏まえると、巨人種や有角種などと同じように、かつて小人種が地上に生存していた時代があったと仮定しても、それほど突飛な発想ではないだろうと思われます。

むしろ、米国スミソニアン博物館が必死になって巨人の骨を隠すように、この日本でも同じように巨人種や小人種などの異形種の痕跡を消そうとしている、そしてこの作業自体が、過去から連綿と続く歴史隠蔽政策の一環なのだろうと窺われるのです。

そのような、不都合な歴史の痕跡を漏らさず摘み取らんとする強い意志を表しているのが、実はこの「トンカラリン」という奇妙な名前なのですが、これはおそらく「トゥカラリーム」という音から来ているのでしょう。その考察については、メルマガ及び次回以降のテーマとしたいと思います。

最後に、チブサン古墳に描かれた七つの白丸とは、私が調べた限りではギリシャ神話に登場する「パンドラの箱から放たれた七つの災い」を象徴しているようなのです。そうなると、ユダヤどころかいよいよここは日本なのかギリシャなのかというヘンテコな話になってしまいます。

この話をヘンテコな珍説だと言って一笑に付すのは簡単なのですが、でもこうは考えられないでしょうか?歴史隠蔽政策は日本だけでなく

 かなり古い時代から世界規模で行われている

のではないのか?こう考えると、巨人や小人、有角人(鬼)など多様な異形種の伝承、ユダヤやギリシャが混在する日本の古代遺跡の姿、なおかつそれを隠そうとする現在の動きまでが全てカバーできるのです。

まさに歴史の陰謀論ですが、それではなぜ、隠蔽の首謀者たちはそこまで膨大なエネルギーと長大な時間を掛けてまで真の世界史を隠そうとするのか・・・という次の大問題が浮上してくるのです。

私が(新)(真)(神)の3つのブログで扱っているテーマとは、詰まるところ、複数のアプローチからその唯一の理由を追い求めているだけとも言えるのです。

災いだ、主を避けてその謀を深く隠す者は。彼らの業は闇の中にある。彼らは言う。「誰が我らを見るものか/誰が我らに気づくものか」と。
(イザヤ書 第29章15節)


永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
(ヨハネによる福音書 第17章3節)


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ユダヤ人埴輪と六芒星

前々回の記事「麻賀多神社と高天原(2)」で、次の様な画像を掲載しました。

画像1:ユダヤ人埴輪と現代ユダヤ教徒の正装

これについて、知人であり遺跡発掘の専門家であるG氏にこの埴輪(はにわ)を見てどう思われるか感想を尋ねたところ、

「ああ、あのユダヤ人の姿をした埴輪でしょ?あれはどう見たってユダヤ人なのに、アカデミズムでは誰もそれを口に出さないんだよね。それがかえっておかしいと前から思っていたんですよ。」

他、次の様にも仰ってました。

「ユダヤ人の姿をした埴輪は、成田周辺だけでなく、少し離れた千葉市の人形塚古墳(椎名崎古墳群の一部)からも出土しています。おそらく、千葉県北総地区一帯にユダヤの影響があったのではないかと予想されるのです。」

画像2:椎名崎古墳群の位置

今回はそのユダヤ人埴輪について、形状及び、その形状が意味する呪術的側面から、これがほぼ間違いなくユダヤの教えの痕跡を示すものであることを説明したいと思います。

■武人ではなくユダヤ司祭か

このユダヤ人埴輪ですが、一般的には武人型埴輪と呼ばれています。それは、背の高い軍帽のような山高帽を被り、鎧のようなチョッキを着て、手には短剣を持っている。ぱっと見で武人に見えてしまうのはむしろ当然ではないかと思います。

画像3:姫塚から出土したユダヤ人埴輪

しかし、これが古墳と呼ばれるお墓に、当時の権威者と共に埋められたという点を普通に考えれば、直ぐに軍事と関連させて解釈するのは早計であると思われます。しかも、ユダヤ人埴輪は王の墓と思われる殿塚ではなく、そのお妃の墓とされる姫塚から出ているのですから。

日月神示には「玉とは御魂(おんたま)ぞ、鏡とは内に動く御力ぞ、剣とは外に動く御力ぞ、これを三種(みくさ)の神宝(かむたから)と申すぞ(富士の巻第3帖)。」とあり、また、ある神道関係者からは、鎧とは鏡を象徴するものであるという話を聞いたことがあります。

何が言いたいかというと、武具のように見える装束(鎧のような着衣と短剣)は、神示が語るように神宝(鏡と剣)を表しているのではないかということ、つまりこれらは祭祀道具であり、そうなると、この埴輪は武人などではなく、むしろ司祭を表しているのではないかということになります。

また、山高帽と表現とした被り物も、後方からの撮影写真を見ると、それが帽子の役目を全く果たしていないことが明らかとなります。

画像4:山高帽を後から撮影したもの

この画像4では、正面の三角に尖った部分を、後ろから支えているだけのように見えます。つまり、端から頭部を保護する目的ではないことは明らかで、古墳に入れられている点、前述の鏡と剣の関係性を考慮すると、これも祭祀道具として着用されたと考える方が自然なのです。

さて、この山高帽状の被り物、正面から見れば「烏帽子」、帽子の支えだけに注目すれば「冠」に見えてしまうのですが、読者の皆さんの目にはどう映るでしょうか?

画像5:(左)烏帽子と(右)冠 (Wikiペディアから)

中には、こんなにはっきりと冠の形としか思えない山高帽を被っているユダヤ人埴輪もあります。

画像6:冠形状の被り物をしたユダヤ人埴輪

また、左右にカールした髪型については、埴輪研究書でははっきりと「美豆良(ミズラ)」と書かれており、こうなると、この埴輪がユダヤ人司祭を指しているのか、それとも古代日本人の司祭を指しているのか、なんとも曖昧となってくるのです。

画像7:古代日本人像でお馴染みの角髪
または美豆良 (goo辞書から)

この曖昧さについて、古代ユダヤ人の影響ではないかと議論してきたのがこれまでの日ユ同祖論なのですが、この議論の前提にはこういう思い込みがあることに気付きませんでしょうか?

 古代ユダヤ人と古代日本人は別物

つまり、古代ユダヤ人が遠い昔に大陸の方から日本へ渡来してきたのだという思い込みです。前から同じことを言ってますが、お互いが遠く離れたA地とB地から同じ遺跡が出てきた場合、どちらが起源であるかなど、軽々に決められないのです。すなわち、

 ユダヤ人は日本発祥の民族

である可能性も、考察の一つとして残しておかなければ片手落ちなのです。

■ユダヤ人埴輪に見るカバラと陰陽道

Wikiペディアによると、「カバラとは、ユダヤ教の伝統に基づいた創造論、終末論、メシア論を伴う神秘主義思想である。」とあります。

日本にも同じ神秘主義的色彩の強い「陰陽道(おんみょうどう)」があります。一般的には、陰陽道は古代中国の陰陽五行思想から発展したものと理解されていますが、それについては今は議論しません。ここでは、日本独自に発展した暦などの実学的要素を含む陰陽道全般を指すことにします。

実は、このユダヤ人埴輪の出で立ちは、陰陽道の考え方であっさりと分析・説明できるのです。

画像8:二つの三角形状がポイント

顎鬚の末端が一点に集約され、全体で下向きの三角形を作っていることが重要です。これは地から登り空中で広がる「火」を表します。陽気です。

また、山高帽が上向きの三角形を形作っているのは一目で明らかです。これは天から下に落ちて広がる「水」を表します。陰気です。

これらを整理すると次のようになります。

 山高帽:△:水:陰
 顎鬚 :▽:火:陽

この二つの三角を重ね合すとどうなるでしょう?

画像9:ご存知、六芒星(ダビデの星)
またはカゴメ紋、麻紋、亀甲紋

この紋様が、海の向こうの某ユダヤ国家の国旗に使われていることは今更説明することではありませんね。加えて、このユダヤ人埴輪において重要なのは、この二つの要素が人の頭部で融合していることなのです。

「天地人」という言葉がありますが、まさに人とは天と地の間に生じる存在であり、人体の最も重要な器官が詰まっている頭部に、天地の創造のエネルギーを集約するという考え方が、この形状一つで理解されるのです。

また、カール状の頭髪(美豆良)は螺旋を表し、螺旋の中心部に気の流れが発生すると考えるのが気功術なので、ここからもまた、天地のエネルギーを頭部に集中させるという呪術的思考が垣間見れるのです。

このよく考えられた幾何学的なデザインだけを見ても、このユダヤ人埴輪が武人などではなく、宗教祭祀を象徴するものであることが見て取れるのです。

そして、ここでも前節と同じ疑問が生じます。この司祭像が執り行っている儀式は古代ユダヤ(カバラ)のそれを指すのか、はたまた、古代日本(陰陽道など)のそれなのか・・・

私は、両者に違いはないと思っています。つまりカバラも陰陽道も出所は同じであり、それを象徴するのが、姫塚のユダヤ人埴輪なのでしょう。但し、この埴輪は古墳時代のものですから、歴史的にはかなり新しい方です。この様式が本来のものであったかどうかは不明ですので、これより過去の時代に融合したという考えも捨ててはいません。

そうすると、古墳時代前後の日本の古代史はどう理解すればよいのか?

ここで、前から私が主張している次の考え方が極めて有効になってきます

 記紀とは真の古代を隠すために編纂された偽りの国史である

ここで言う「隠された日本の古代」とはまさにユダヤ人と日本人の真の関係性のことであると考えられるのです。加えて、現ユダヤ教、その派生であるキリスト教やイスラム教が一神教であることを鑑みれば、これはすなわち、

 日本人と唯一神との関係

と言い換えることができるでしょう。よく言われる「日本は八百万の神の国」という概念は、記紀が編纂された1300年前より以前に企図された、この古代史隠蔽政策の中で練り上げられた後代の創作であるということです。つまり、日本の伝統などではない。

言い換えれば、木は森の中に隠せと言うように、

 神は神々の中に隠せ

これこそが、実在人であった神武天皇以前の天皇一族を神と書き換えてしまった、記紀編纂の真の狙いであったと考えられるのです。

画像10:成田空港近隣の芝山町大里に建てられた
石井四郎書の忠魂碑

上の石碑は、旧帝国陸軍731部隊の創設者で有名な石井四郎氏の書が刻まれたものです。まさに、ユダヤ人埴輪の多出地域に建てられているのですが、この一帯は石井姓を名乗る家が多く、石碑の裏面にも、親族と思われる石井の名が多く刻まれています。

731部隊は初期の頃、賀茂村と呼ばれたこの土地の関係者を中心に設立されたと言います。おそらく731部隊の設立とユダヤ人埴輪は無関係ではない、つまり日本の古代史と現代史は密接にリンクしている。最後にそれを指摘して次回に繋げたいと思います。

※明日配信のメルマガでは、この関係性についてもう少し掘り下げて解説したいと思います。
※本記事で使用した埴輪写真は、六一書房刊、城倉正祥編「殿塚・姫塚古墳の研究 -人物埴輪の三次元計測調査報告書-」(平成29年)より抜粋したものです。


奪い尽くされて、彼女は地に座る(イザヤ 3:26)
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隠された祭神と成田

これまで、「麻賀多神社」をキーワードに、同社が点在する千葉県の北総地域について調べてきました。

 ・麻賀多神社と高天原
 ・麻賀多神社と高天原(2)

また、同じ北総地域の話題として、神話に記された神、猿田彦(さるたひこ)が関連していることも既にお伝えしています。

 ・天孫降臨とミヲの猿田彦
 ・椿海とミヲの猿田彦
 ・麻賀多神社と猿田彦

話が少し複雑になってきたので、ここまでの流れがどのようになっているのか、できれば今一度過去記事を読み返していただくことをお勧めします。

■側高神社:新たな北総神社群

さて、前回の記事「麻賀多神社と高天原(2)」で、私は次の様な図を掲載しました。

画像1:主祭神による神社群の分布図(再掲)

上図にも書き込んでいますが、実はこの分布図にはまだ調査未確認のエリアがあります。これは、そこに何もなかったということではなく、単に私の調査が行き届いていなかったからであり、先日、同地区の調査を一部終了したので、今回はその結果を反映したいと思います。

必ずしも上図の未調査エリア内に限定される訳ではありませんが、同エリアを中心にやはり同名神社が香取海周辺に点在していることが後から分かったのです。その神社の名前は

 側高神社(そばたかじんじゃ)

であり、まだ訪れていない場所も含め、全部で15社あることが分かっています(他にあるかもしれません)。「そばたか」の漢字表記は複数あり、それらは次の様になります。

 側鷹・脇高・蘇羽鷹・相馬高・隣高

中には1か所で表記が混在している所もあります。おそらく万葉仮名よろしく、「そばたか」と読めることが大事で、漢字表記に拘る必要はあまりないと考えられます。

画像2:側高神社の分布

■祭神名を教えない側高神社(香取市大倉)

祭神については、私が訪れた社では直接判別できませんでしたが、ネット上の記載を見ると、場所によっては、「国常立大神(くにとこたちおおかみ)」や「火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)」と紹介されているところもあるようです。

今回訪ねてはいませんが、実は、千葉県香取市大倉の側高神社とその祭神については、知人から興味深い話を聞いています。なんと、ここの神社はその祭神名を「秘して語らず」とし、門外不出にしていると言います。あるいは適当に「側高大神」とし、祭神の由緒については多くを語らないという姿勢を取っているようです。この事実は、神社に詳しい関係者の間でも話題になっているようです。

画像3:香取市大倉の側高神社(写真Google)

通常、神を崇拝する場所であるはずの神社で、どうしてその名を参拝者に知らせないのか、ちょっと理解に苦しみます。

知人が香取市の側高神社を訪れた時、運よく祭事の日だったらしく、氏子さんたちが集まっていたそうです。そこで、改めて御祭神の名を教えてもらえないか尋ねたところ、

 「ここの神の名は教えられない」

と固く断られたそうです。それでも食い下がってお願いし続けたところ、とうとう

 「これをあげるから帰ってくれ」

と、縁起物を渡されて追い出されてしまったとか。

何とも解せない話ですが、それ故に、何かたいへん重要な史実がここに隠されている予感を禁じ得ないのです。そして、知人が同社を訪れた日付を聞いて、私はその思いをますます強めたのです。その日とは、年も押し詰まった

 12月24日

なのです。

■空港施設に取り囲まれた側高神社(成田市取香)

海外、関東地方へ行き来するのに利用することも多い成田空港。この空港敷地のすぐ脇にも側高神社があります。それも、空港ゲート、国道、ホテル、駐車場と四方を近代施設に囲まれ、まるでそこに取り残されたように、ぽつんと鎮座しているのです。

見たところ普通の神社なのですが、気になるのは、すぐ近くの成田市小菅の側鷹神社が空港建設に伴い移設されているのに、どうしてここはそのまま残されているのかです。見るからに邪魔に扱われているのですが。これには移設できない何か大きな理由があるのではと、ついつい勘繰り深くなるのです。

画像4:成田空港ゲート脇の側高神社(取香)
画像5:こちらは空港建設に伴い移設された側鷹神社(小菅)

成田空港と言えばかつてご紹介したように、その敷地そのものの形状が、コルナサインを表しています。コルナサインとは悪魔崇拝者の一員と思われる人物が、時々人前でみせる動物の角に似せたハンドサインです。偶然と言えばそれまでですが、私は、造形にシビアな建築デザイナーがそんな不吉な形状を見逃すはずはなく、むしろ、このコルナサイン型のデザインは意図して選ばれたのではないかと思っています。

画像6:成田空港上空写真とコルナサイン

そうなると、コルナサインを地上絵とする狙いはいったい何なのでしょうか?西欧の悪魔と日本の神社、何か関係あるのでしょうか?

その疑問への答の鍵となるのが、前節で取り上げた「12月24日」という、香取市大倉の側高神社の祭日なのです。

■ユダヤ人埴輪の地に建つ相馬高・隣高両神社

前回の記事で、千葉県の芝山町でユダヤ人の正装そっくりな埴輪が出土したというお話を紹介しました。芝山町は成田空港の少し南側に位置しますが、古代期にはここまで海の入江が入り込んでいたことが地形から窺えます。私はこの入江のことを「芝海(しばのうみ)」と呼んでいます。

その芝山の旧入江に臨む小高い土地に、相馬高神社は鎮座します。今ではすっかりさびれていますが、地形から判断する限り、かつては絶好の祭祀場だったのではないかと考えられるのです。

画像7:芝山の相馬高神社

そして、もう一つの隣高神社ですが、こちらはおそらく海に浮かぶ小島、あるいは土を盛った古墳と思われる小山の上に建てられています。

画像8:芝山の隣高神社

私が気になったのは、この神社よりも、小山の端にポツンと建てられた小さな祠の方です。立派な神社が山の上にあるのに、なぜこんな粗末な祠が全く別に作られているのか?

画像9:隣高神社の隅に建てられた小祠

そして、その不自然な配置に加えて印象深かったのが、この小祠をスマホで撮影しようとするとカメラアプリがフリーズしてしまうという、小さな怪異に見舞われたことです。

仕方がないので、呪術を取り除く作法を施し、それから撮影できるようになったのですが、呪詛技術的な観点で見る限り、かなり強力な呪いがここには掛けられていたようです。この小祠の何がそんなに疎まれたのでしょうか?

また、ここ芝山はユダヤ人埴輪が多出した土地でもあります。これを、「側高神社」に関わるキーワードに加えると

 12月24日 | コルナサイン | ユダヤ人

と、ここは日本なのか?と思わせる不思議な言葉の並びが現れてきます。これもおそらく、側高神社の隠された祭神と関係がありそうです。

■その他の側高神社

他にもいくつか同名の社を訪ねましたが、詳しい説明は省略します。これらに共通しているのは、いずれも香取の海を見下ろす高台の上に建てられているという点です。

画像10:印西市笠神
画像11:津冨浦(つぶうら)1
画像12:津冨浦2

■側高エリアの中心地は成田である

さて、決定的な祭神は不明ですが、側高神社も麻賀多神社などと同じく、同一氏族が居住した領域を表していると考えられます。

また、神社が点在している地形的位置関係をデフォルメして配置すると下図のようになります。

ここから、千葉県内にある多くの側高社が、実は古代期にあった内海のすぐ側にあることが分かります。同時に、成田市の取香(とっこう)と小菅にある社は海には面しておらず、下総台地の平らな部分、現在は成田空港、少し前までは三里塚の広大な牧草地の上にあったことが偲ばれるのです。

これは何を意味するのか?成田取香・小菅の社は周りの海辺のポイントから比較的短い陸路でアクセス可能ですから、古代期においては、南北に広がる海辺の海運を通して、人や物資がここに集中していたと考えられるのです。

画像13:側高神社の配置(デフォルメ図)

これは、成田国際空港を中心に空輸が行われている現在の姿と似ているとも言えます。そして、そのような土地にはおそらく宮が置かれ、どういう習俗かは不明なものの、都(みやこ)と呼ぶに相応しい古代都市がそこに広がっていただろうと想像されるのです。

ここで現代の成田を振り返ってみましょう

 ・真言宗の大寺、成田山新勝寺がある
 ・江戸時代は軍馬の生産地であった
 ・明治期以降、御料牧場が置かれていた
 ・731部隊の前身となる賀茂村があった
 ・空港用地買収に関わる三里塚闘争の長期化
 ・123便の残骸が一時的に成田空港に運ばれ保管された

他にもあるのですが、これだけ見ても、一癖も二癖もある土地柄であることが見えてきます。成田に関しては、私も123便事件の調査関係で、成田公安に執拗に追いかけられたことがあり、成田の地には国家的な何か大きな隠し事があるのだろうと、ずっと思っていました。

それが、今回の古代期におけるキーワードとどう関わるのか?実は私なりに一つの答に辿り着いたのですが、それについては、明日配信のメルマガで先行してお知らせしたいと思います。

事前に予告するなら、これこそが日本国の成立過程において決定的な事実であり、また123便事件を生み出した核心的事由であると、私は考えています。


奪い尽くされて、彼女は地に座る(イザヤ 3:26)
管理人 日月土