トンカラリン-熊本調査報告

今月23日の連休期間、遺跡調査のため熊本県を訪れました。熊本市内を滞在の拠点とし、複数の場所を回ってきましたが、中でも前々回の記事「チブサン古墳とトンカラリンの小人」で取り上げた謎の遺跡「トンカラリン」を、この目で実際に確かめることが最大の目的でした。

画像1:熊本市内の市電
久しぶりの熊本訪問では市電に乗るのも楽しみの一つでした

ところが、短期間で気になる場所をあちこち回っている間に時間が無くなり、結局のところ、トンカラリンを訪れたのは、熊本を離れる当日の早朝となってしまいました。朝6時のまだ暗い時間にホテルをチェックアウトし、夜が明けた頃の7時前にトンカラリンのある熊本県玉名郡和水町(なごみまち)に到着したのです。

現地に到着して、最初に見学したのは、トンカラリンではなく、すぐ近くにある江田船山古墳でした。同古墳は肥後古代の森公園内にあり、公園内には丁寧に芝の刈り込まれた形の整った古墳が幾つも点在していました。

画像2:肥後古代の森公園とトンカラリンの位置関係

以下、公園内の風景写真です。画像6のモニュメントには呪術的な意味があるのですが、現在は特に悪影響は無いとだけお伝えしておきます。

画像3:江田船山古墳(中央)
画像4:京塚古墳
画像5:九州の古墳でよく見られる石人
画像6:公園内のモニュメント
画像7:公園内案内板

次にトンカラリンの終点部分、高台に建てられた菅原神社を先に見に行きました。トンカラリンに関する資料等を見ると、この神社とトンカラリンの関係は不明とされていますが、現地で実物を鑑定するとその関係性は明らかです。

これについては歴史学や考古学でいくらアプローチしても理解できるはずがなく、そのシンボル的な意味は陰陽道や気学・気功の知識を以ってして初めて解明されるものです。古代の日本人は、簡単に言うと「呪術が大好き」であり、実効性のある技術として本気で信じ、実践していたのです。加持祈祷で病気を治すなどと言うのもその一例と言えるでしょう。ですから、それを非科学的なものとしてバカにして見る限り、古代人の考えが分かるはずもありません。

その観点から、この菅原神社は明らかに

 遺跡封じを目的に建てられたもの

と言うことができます。それは、例を挙げれば、境内の中に無暗に石柱や石碑を置いてることなどに見て取れます。この場合の石柱とは

 地に穿たれた剣

と呪術的に見ることができるからです。剣を突き刺された土地は生気を失い、過去にそこで起きた出来事について語るのを止めてしまうのです。これをゲームや劇画の用語で言うなら「封印」と言い換えることができるでしょう。要するに、この土地が記憶する過去を消してしまえという発想なのです。

画像8:菅原神社正面
画像9:鳥居脇の石柱
画像10:牛の像。これはこれで別の意味がある
画像11:こんな石碑がたくさん置かれている
画像12:蘇鉄の木も封印術で良く使われるアイテム

上記写真をご覧になれば分かるように、この神社は呪術的な封印アイテムに事欠かないのです。そうなると、どこの誰が、いったいどんな過去を消したくてこのような呪術を施したのかが問題になります。

それを説明する仮説として、「トンカラリンの小人」で私は、”国家的かつ世界的な歴史隠蔽政策の一環として、小人種や巨人種、有角種などの異形種人類が実在していた痕跡を消そうとしたのではないか?”という考えを示しました。

そして、菅原神社を訪れてその思いは一段と高まったのです。

さて、以下の写真はトンカラリンの出入り口やトンネル部を撮影したものです。基本的にネットなどで紹介されているものと変わらないので説明は省略しますが、実物を見た時に、予想以上に不可解な思いに囚われたことをここに記しておきます。その感覚とは、かつて生贄が捧げられていた祭場跡などで感じたものと同じなのです。

そこで、ここに小人種が居たのではないかという仮説はひとまず置いておくとして、もう一つの仮説についても検討しなければならない必要性を感じました。それは、トンカラリンは小人ならぬ

 小児生贄の場ではなかったのか?

というものです。もちろん、その両方が存在した可能性もあります。

画像13:トンカラリンの入り口と看板
画像14:入口付近の階段構造
画像15:この小径の下を石組みトンネルが通っている
画像16:地上部の切り立ったトンネル。奥に出口が見える

■和水町で見つけた謎の石祠

前掲の画像2の中に、水色のマークを付けた場所があります。そこは訪れる予定のない場所でしたが、前を通り過ぎた時に何故か気になり、車を止めて小高い丘の上まで続く階段を登りました。そこで見つけたのが、以下の写真17の石祠と石碑です。

画像17:謎の石祠

これが何の神を祀っているのか、帰りの飛行機の時間が迫り地元の方に尋ねる時間はありませんでしたが、おそらく、そうしたところで正しい答えは返ってこなかったでしょう。何故かと言うと、私の予想が当たっているなら、その祭神名を知っている人がそれを正直に口にするとは思えないからです。

この場所については、次の聖句を用いて私の推察を示すに留めたいと思います。そしてこの推察が正しいのなら、この辺り一帯の土地が古代期においてどのような場所であったか、より鮮明になることでしょう。

お前たちの住む所はどこにおいても、町は廃虚とされ、聖なる高台は荒らされる。祭壇も廃虚とされて荒らされ、偶像は粉々に砕かれ、香炉台は打ち壊され、こうしてお前たちの作ったものは一掃される。

(エゼキエル書 第6章6節)

今回の熊本調査では、トンカラリン以外にも多くの発見がありました。それらについては追ってお知らせしたいと思います。また、「トンカラリン」という不思議な命名についての考察を明日のメルマガで掲載する予定です。


島々よ、わたしのもとに来て静まれ(イザヤ 41-1)
管理人 日月土

ヘブライ語から生まれた日本語

?שלום, קוראים. מה שלומך
(読者の皆様こんちは。ご機嫌如何でしょうか?)

いきなりヘブライ語で失礼しました。今回はこれまでの記事「モリヤとユダヤ人」、「ユダヤ人埴輪と六芒星」に関連して、古代日本とヘブライの関係について考察してみたいと思います。

とはいえ、この件については既に多くの研究者が言及されているので、今回はそれらをご紹介するだけで終わってしまうかもしれません。しかし、正装ユダヤ人と同じ形状の埴輪が実際に日本の地から出土している以上、日本人のルーツを探る上で外せない内容かと思います。その復習だと思ってお付き合いいただければと思います。

■君が代のヘブライ音訳

ここでは、ヘブライ音訳という考え方で考察を進めます。ヘブライ音訳とは、日本語の音に注目し、その音に近いヘブライ語をそれに対応させ、意味を解読するというものです。その手法を用いた分析の中で、最も有名なのは、我が日本国の国歌「君が代」をヘブライ音訳したものです。

現代の君が代は「和漢朗詠集七七五」または「古今和歌集巻七-三四三」の古謡の一部分、「わが君は」を「君が代」に置き換えたものと言われています。

ここでは、西澤徹彦著「古代日本と七大天使 神代編」(1989年 ジェイアイ出版)で紹介されたヘブライ音訳とその解釈をご紹介します。

 日本語文:
  我が君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
 
 ヘブライ音訳文(右から読みます):
     וְאֶגַע קִימךָ
       צַוֹּנִי יְעַוֵּנִי
      שֶׁוֶרַע יִּשֶׁהַנוּ
    יְחַוַּה אוֹת חַנְלִיתָ
    כָּכַנוּ מוֹשִׁיעַ מֵעֵד 

 音訳文の日本語意訳:
  私は、あなたの立ち向かう者を批判するだろう。
  彼はかならず、私を決めるだろう。
  (同じ)血統であるところの私たちのイエス。
  あなたは完遂させたしるしに、告げるだろう。
  私達のこのような証言による救い主。

同書によると、「君が代」の元歌にはこれの他に2つの「雑歌・皇大神宮年中行事」版があり、歌の一部が変えられていますが、その場合でも日本語意訳の意味は大きく変わらないことが分かっています。そして、むしろ互いの歌がその意味を補強し合っていると見なすことができるとあります。

ご存知のように、ヘブライの民は聖書の民です。この意訳でいう「私」とは「主=ヤハウェ」を指し、また「彼」であるイエス・キリストが「完遂」したというのは、神の計画の完遂、すなわちイエス・キリストの復活を意味するものであると解釈されるのです。

「岡っ引き」や「ヤクザ」など、語源がよく分からない日本語がヘブライ語起源であることはよく指摘されますが、君が代の場合は、日本語とヘブライ語の音声の類似性などという些末な事象をはるかに超えて、ヘブライ人(ユダヤ人)の精神性までを表現しているのです。

オリンピックで日本人が金メダルを獲得する度に、私たち日本人はイエス・キリストを礼賛しているとしたら、それはいったい何を意味しているのでしょうか?

なお、君が代のヘブライ語音訳とその解釈についてはWebサイト「日本とユダヤのハーモニー」さんでも試みられています。そこにはやはり「イエス・キリスト」の名が現れている点に注意です。

■日本語はどこから来たのか?

西澤氏のヘブライ語研究は、やがて日本語の発生起源に迫ることになります。私たちが日常使っている日本語は、時に外来語を取り込むことがあっても、日本独自の固有文化を象徴している言葉であると、私たち日本人は普通に考えています。ところが、その認識が実際はどうなのか、次の西澤氏の研究成果を見る限り大きく修正する必要があると思うのは私だけでしょうか?

表1:ヘブライ語文法暗誦表その一
表2:ヘブライ語文法暗誦表その二

私たちが中学生の時に英語を勉強した際、代名詞を覚えるのに次のような文字の羅列を暗誦していたことを思い出してみてください。

 I, My, Me, You, Your, You, He, His, Him, She, Her, Her
アイマイミー、ユウユアユウ、ヒーヒズヒム、シーハーハー

上記2つの表は、まさにヘブライ語の必須文法項目を記憶するための、暗誦用虎の巻とも言えるものです。英語とは異なり、ヘブライ語は男女の性別による使い分けがはっきりしているので、上記の表には同じく性別が厳格なフランス語文法による注釈を原本に加えています。

さて、次に各表の右列に並んだ発音のかな表記を読んでみましょう。どのような音に聞こえますか?

 ひー、ふー、みー …
 あてぃ、あぇに、しゃぶ …

もうお分かりですね、これらは現代の私たちも使用している2種類の日本語数詞なのです。漢字で書くと、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十となるお馴染みのあれです。

西澤氏はこの結果から次のように結論を導いています。

古代日本人は、明らかにヘブライ語を学んでいた。そして、当時の社会で広く知られていた学習用暗誦文が後に数詞として使われるようになった。

そんなの、日本語数詞に似ている言葉を寄せ集めれば何とでも言えると反論される方もいらっしゃると思いますが、それならば、なぜ、その寄せ集めた言葉が基本文法語ばかりなのか、それについての説明もご用意いただかないと説明不足です。

また、日本語に数詞の系統が何故2つ(「ひふみ」と「いちにさん」)あるのかも、例えば共に通用していた文法暗誦表の1ページ目と2ページ目を流用したという風に説明できてしまうのです。

さらに言うなら、「ひふみ」数詞の発声には「ひとつ、ふたつ、みっつ」などのように終わりに「つ」を添えるものも広く使用されていますが、語尾にT音の「ת」(タウ)を添える発声はまさにヘブライ語の特徴でもあるのです。

以上は数詞に限っての説明ですが、その他に言語の類似性を追っていくと、どうやら私達の言葉、日本語は古代ヘブライ語から人工的に造語されているようなのです。

日本語造語がいつ、何のために行われたのか?その答のヒントを示しているのが、前節で取り上げた日本国国歌「君が代」なのです。そして、この隠された理由こそが、123便撃墜計画をはじめ、近代日本で繰り返し行われてきた怪事件(山下事件など)や猟奇事件、世界大戦などに通底する根本的理由であるとも言えるのです。

言葉の説明から何だかいきなりすごい結論になってしまいましたが、明日配信のメルマガでは、その他の古謡解釈や、ヲシテ文字などカタカムナとヘブライ語との関連性について説明したいと思います。また、今回取り上げた日本語造語説についての私の考察をお伝えしたいと思います。


島々よ、わたしのもとに来て静まれ(イザヤ 41-1)
管理人 日月土

チブサン古墳とトンカラリンの小人

こ数か月、関東の記事が続いてしまいました。今回は少し視点を変えて、数年前に調査した九州の古墳・遺跡群についてレポートしたいと思います。

■装飾古墳とは何か

古墳と言えば、天然石で組まれた石室と石棺などがイメージされますが、中には棺や、それを納める石室の壁面に、模様を刻んだり、着色された絵などを施した装飾古墳(そうしょくこふん)というものがあります。

取りあえず、Wikiペディアではどのように説明されているのか調べてみましょう。

装飾古墳(そうしょくこふん)は、日本の古墳のうち、内部の壁や石棺に浮き彫り、線刻、彩色などの装飾のあるものの総称で、墳丘を持たない横穴墓も含まれる。大半が九州地方、特に福岡県、熊本県に集中している。福岡県桂川町の王塚古墳(国の特別史跡)、熊本県山鹿市のチブサン古墳などが有名である。

引用元:Wikiペディア「装飾古墳

Wikiの説明にもあるように、実はこの装飾古墳は九州にあるものが、他の地域におけるその数を圧倒しているのです。

私も、とても全部を回りきれてはいませんが、次の古墳に赴いてその装飾デザインを見てきています。

 竹原古墳   福岡県宮若市
 王塚古墳   福岡県桂川町
 チブサン古墳 熊本県山鹿市

画像1:竹原古墳の装飾
画像2:王塚古墳の装飾
画像3:チブサン古墳の装飾

※当時撮影した写真を紛失してしまったので、上記画像は福岡・熊本両県の各自治体公式ページから拝借しています。

 ・宮若市公式ページ:竹原古墳
 ・王塚装飾古墳館公式ページ:墳丘と石室
 ・山鹿市公式ページ:チブサン古墳

今回は、この中から特に熊本のチブサン古墳を取り上げたいと思います。

■チブサン古墳、謎の人物画

まずはこの古墳の名前の由来ですが、一般的な説明では、石室内の石屋形(いしやかた)内壁に描かれた装飾文様の中に丸い乳房のような形状が2つあるので、そこから名付けられたことになっています。仮にも古代の有力者のお墓なのに、そんな名前の付け方ってどうなんだろう?とは思うのですが、まあ、分かりやすいといえば分かりやすいですよね。

画像4:乳房の模様?(写真は屋外のレプリカ)

そして、チブサン古墳で最も注目されるのが、3方向に分かれた冠を被った、あるいは、3本の角を生やした人物のような絵がそこに描かれていることです。

画像5:冠を被った人物か?(写真は屋外のレプリカ)

この人物画とその上に描かれた7つの丸い円を以って、「UFOとそこから降り立った宇宙人だ!」と騒ぐ方もいらっしゃるようですが、想像するのは自由だとは言え、まずはなるべくオーソドックスな解釈から入るのが正道でしょう。普段から変なことばかり書いてる私が言うのも何なのですが…

■失われた石板の謎

現地にてたいへん物知りで熱心な学芸員さんの説明を聞きながら、私は覗き窓越しにこの装飾を眺めました。

そして、最初に違和感を感じたのが、

 石屋形の壁を構成している石板の1枚が欠けている

ことなのです(画像3)。学芸員さんの説明によると、この古墳が発見された時には既に盗掘されて古墳の口が開いており、石板もおそらく盗掘時かそれ以降に持ち出されたのだろうとのことです。

しかし、待ってください、石室内の祭具や宝飾品類が盗み出されるのまでは理解できますが、どうして、重くて大きな石板を持ち出したのでしょう?それも1枚だけ?もしも装飾に価値があるのなら、墳丘を崩して全部持ち出せばいいことです。それをわざわざ1枚だけ、狭い入り口からいそいそと運び出したその理由が理解できないのです。

ここで、このブログがこれまで主張してきた次の基本的な考え方を思い出してください。

 記紀は真の日本史を書き換えるために編纂された

つまり、上古代に実在したはずの古代天皇を全て超自然的な神様に祭り上げ、八百万の神々を創作してしまったというアレです。すると、国家的とも言えるこの歴史隠蔽政策は、記紀が編纂された西暦700年代以前の古代期には既に始まっていたと考えられるのです。そして、チブサン古墳が築かれたとされる古墳時代後期はちょうどその政策が全国に広がり始めた頃だと想像されるのです。

何が言いたいかというと、埋葬当時やそれ以前を想起させる歴史情報の多い「装飾文様」なる媒体は、同政策遂行上たいへん目障りだったと考えられるのです。だからこそ、装飾された石板の中でも、後世に最も知られてはならないものだけを、どこかの時点で運び出したのではないかと考えられるのです。

私は、おそらくその盗まれた石板に描かれていたのは「文字」だったのではないかと予想しています。

ここまで書くと、読者の皆様の中には

 ならば、石板を全て持ち出し、古墳を丸ごと潰してしまえばよいではないか

と思われる方もいらっしゃるかもしれません。それは、その通りなのです。私もそこまでして昔のことを知られたくない人たちが、どうしてその他の石板をそこに残したのだろうかと考えあぐねていましたが、よく考えたら、その答はとても簡単であることに気付きました。

 誤った歴史観を植え付けるのに利用すればいい

要するに、歴史文献における記紀と同じで、装飾そのもに手を加えて後代の発見者を誤誘導、あるいは攪乱させようと考えたはずなのです。そして、おそらく文字が書かれた石板だけは、盗掘者も解読の必要があり、資料として持ち出さざるを得なかった。そう考えると辻褄が合ってきます。

ですから、チブサン古墳の装飾文様が、果たして建設当初のままだったかどうかはたいへん疑わしいのです。そうなると、宇宙人と呼ばれる人物画の形状も、そのまま素直に受け取ってよいのだろうかという疑問が生じるのです。

何しろ、3本の角とは、悪魔バフォメットの象徴でもあり、こんなものを死者を安置する聖所に描くこと自体があり得ないのです。むしろ、埋葬者を侮辱するため、後からわざと悪魔を描いたと考える方が自然なのです。

画像6:バフォメット像
※呪術的観点からオリジナル画像に危険防止加工を施しています

なお、当時の人々が悪魔バフォメットの概念を理解していたのか?それについて疑問を持たれる方は、前回の記事で「ユダヤ人埴輪」を取り上げたことを今一度思い出してください。古墳時代には、旧約聖書における神と悪魔の対立概念が日本の地に存在していたと考える方が自然なのです。ですから、その時代以降から現在に至るまで、どの時代にバフォメット像が描かれたとしても不思議はないのです。

■チブサで読み解く人物画

ここから更に推論を加えて行きます。必ずしもこれが正解であると主張するつもりもありませんが、日本の国家的な歴史隠蔽政策という考え方に矛盾が無いよう論を進めると、どうしてもこういう結論になってしまうのだとご理解ください。

さて、ここでもう一度「チブサン」という違和感たっぷりの名前に焦点を当ててみます。この変な名前の由来は上述した通りなのですが、こういう命名にしたのは、親しみを感じるからというよりは、むしろ

 何かの暗号、あるいは暗示

を残したかったからだとも考えられます。ここで、画像4(チブサ)と画像5(人物)を見比べます。

画像7:チブサと人物の比較

そもそも、この乳房と呼ばれる模様自体が、全体の装飾文様の中では何か違和感を感じさせます。そして、これが「チブサン」なる暗号を残した意味だとすれば、おそらくこの乳房の絵は後から描き加えられたものであり、この中にに何かの意図が隠されていることになります。

私はこれをオリジナル装飾の復元コードなのではないかと解釈しました。乳房の絵は、「赤丸の中に白丸、そして白丸の中に小さな黒丸」となっており、それが少し離れて二つあるという構造を取っています。

これってどうなんでしょう、当初からこれは乳房の絵だという先入観から入りましたが、何の情報もなければ私たちはこれを見てこう思ったはずです

 これは「目」じゃないのか?

そして、この復元コードを先の人物画に適用して得られたのが次の図なのです。

画像8:復元した人物画

頭部の切れ込みのように赤く塗られた部分に、白目と黒目を入れるともう少し現実的な人物画が浮き出してくるのです。

ここまで紐解いたとき、次に問題になるのは、以下の点です、

 どうしてこの人物画を隠さなければいけなかったのか?

もちろん、バフォメット像をそこに描きたかったというのもあるでしょうが、理由がそれだけならば、わざわざ「チブサン」などという暗号名を残して、事情を知る関係者に対して特に注意喚起を求める必要などなかったはずなのですから・・・

■トンカラリンの住人

さて、ここでチブサン古墳から一旦離れ、周囲にある遺跡に目を向けます。熊本県山鹿市から隣の玉名市にかけては古墳等の遺跡が非常に多い所なのですが、今回はあの有名な石組みの遺構、玉名市にあるトンカラリンに注目します。

画像9:チブサン古墳とトンカラリンの位置関係

トンカラリンと言うと、あの戦時歌謡「トントン トンカラリと 隣組♪」の「隣組」を思い出す方もいらっしゃると思います。当然ながら、私はこの歌と遺跡の間に関係があると見ていますが、今回はそこにフォーカスしません。

トンカラリンがどのような遺跡なのか、それを知るのにちょうどよい観光PR動画があるので、まずはそちらをご覧になってください。

動画1:トンカラリンのPR動画

この動画の中で、縦横70㎝ほどの、大人が這ってやっと通れるような石組みのトンネル(動画では暗渠と呼ばれている)が出てくることにご注目ください。

これについては排水路なのではないかという意見もあるのですが、これに続く階段が設けられていたりするので、どうも水路とも言い切れず、一体全体いつ誰がどんな目的でこんな狭いトンネルを作ったのか、謎とされています。

ここで再び、先ほどのチブサン古墳の人物画(画像8)に注目してください。画像ではこの人物画がどれくらいの大きさで描かれているのか分かりませんが、石板の高さが1.4mですから、描かれた人物の身長は50cmくらいかと思われます。

私は、この人物画は実寸大に描かれているのではないかと考えています。つまり小人型の人間が古墳時代の当時この地域にいたのではないかということです。そう考える理由はこれまで述べてきた通りで、それをまとめると次のようになります。

 (1)わざわざ人物画を改竄し、注意を促す暗号を残している
 (2)トンカラリンの石組トンネルの小ささが説明できる

「またまた、変なことを言って~」という読者様の声が聞こえてきそうですが、実は過去記事「異形の人々考」で古代期における巨人の実在可能性を論じた時と、議論の本質は全く変わらないのです。

ただでさえ、童話の中では小人がたくさん登場し、それに加えギリシァ神話のピュグマイオイ、ガリバー旅行記のリリパット、北海道のコロボックルなど、小人に関する話題は昔から世界中で見られるのです。現存する小人では大人の身長が150cmほどの、アフリカのピグミー族が有名です。

画像10:世界の小人伝説(引用:Wikiペディア、フリー画像)
 左から、ピュグマイオイ、リリパット、コロボックル

以上のような事実を踏まえると、巨人種や有角種などと同じように、かつて小人種が地上に生存していた時代があったと仮定しても、それほど突飛な発想ではないだろうと思われます。

むしろ、米国スミソニアン博物館が必死になって巨人の骨を隠すように、この日本でも同じように巨人種や小人種などの異形種の痕跡を消そうとしている、そしてこの作業自体が、過去から連綿と続く歴史隠蔽政策の一環なのだろうと窺われるのです。

そのような、不都合な歴史の痕跡を漏らさず摘み取らんとする強い意志を表しているのが、実はこの「トンカラリン」という奇妙な名前なのですが、これはおそらく「トゥカラリーム」という音から来ているのでしょう。その考察については、メルマガ及び次回以降のテーマとしたいと思います。

最後に、チブサン古墳に描かれた七つの白丸とは、私が調べた限りではギリシャ神話に登場する「パンドラの箱から放たれた七つの災い」を象徴しているようなのです。そうなると、ユダヤどころかいよいよここは日本なのかギリシャなのかというヘンテコな話になってしまいます。

この話をヘンテコな珍説だと言って一笑に付すのは簡単なのですが、でもこうは考えられないでしょうか?歴史隠蔽政策は日本だけでなく

 かなり古い時代から世界規模で行われている

のではないのか?こう考えると、巨人や小人、有角人(鬼)など多様な異形種の伝承、ユダヤやギリシャが混在する日本の古代遺跡の姿、なおかつそれを隠そうとする現在の動きまでが全てカバーできるのです。

まさに歴史の陰謀論ですが、それではなぜ、隠蔽の首謀者たちはそこまで膨大なエネルギーと長大な時間を掛けてまで真の世界史を隠そうとするのか・・・という次の大問題が浮上してくるのです。

私が(新)(真)(神)の3つのブログで扱っているテーマとは、詰まるところ、複数のアプローチからその唯一の理由を追い求めているだけとも言えるのです。

災いだ、主を避けてその謀を深く隠す者は。彼らの業は闇の中にある。彼らは言う。「誰が我らを見るものか/誰が我らに気づくものか」と。
(イザヤ書 第29章15節)


永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
(ヨハネによる福音書 第17章3節)


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ユダヤ人埴輪と六芒星

前々回の記事「麻賀多神社と高天原(2)」で、次の様な画像を掲載しました。

画像1:ユダヤ人埴輪と現代ユダヤ教徒の正装

これについて、知人であり遺跡発掘の専門家であるG氏にこの埴輪(はにわ)を見てどう思われるか感想を尋ねたところ、

「ああ、あのユダヤ人の姿をした埴輪でしょ?あれはどう見たってユダヤ人なのに、アカデミズムでは誰もそれを口に出さないんだよね。それがかえっておかしいと前から思っていたんですよ。」

他、次の様にも仰ってました。

「ユダヤ人の姿をした埴輪は、成田周辺だけでなく、少し離れた千葉市の人形塚古墳(椎名崎古墳群の一部)からも出土しています。おそらく、千葉県北総地区一帯にユダヤの影響があったのではないかと予想されるのです。」

画像2:椎名崎古墳群の位置

今回はそのユダヤ人埴輪について、形状及び、その形状が意味する呪術的側面から、これがほぼ間違いなくユダヤの教えの痕跡を示すものであることを説明したいと思います。

■武人ではなくユダヤ司祭か

このユダヤ人埴輪ですが、一般的には武人型埴輪と呼ばれています。それは、背の高い軍帽のような山高帽を被り、鎧のようなチョッキを着て、手には短剣を持っている。ぱっと見で武人に見えてしまうのはむしろ当然ではないかと思います。

画像3:姫塚から出土したユダヤ人埴輪

しかし、これが古墳と呼ばれるお墓に、当時の権威者と共に埋められたという点を普通に考えれば、直ぐに軍事と関連させて解釈するのは早計であると思われます。しかも、ユダヤ人埴輪は王の墓と思われる殿塚ではなく、そのお妃の墓とされる姫塚から出ているのですから。

日月神示には「玉とは御魂(おんたま)ぞ、鏡とは内に動く御力ぞ、剣とは外に動く御力ぞ、これを三種(みくさ)の神宝(かむたから)と申すぞ(富士の巻第3帖)。」とあり、また、ある神道関係者からは、鎧とは鏡を象徴するものであるという話を聞いたことがあります。

何が言いたいかというと、武具のように見える装束(鎧のような着衣と短剣)は、神示が語るように神宝(鏡と剣)を表しているのではないかということ、つまりこれらは祭祀道具であり、そうなると、この埴輪は武人などではなく、むしろ司祭を表しているのではないかということになります。

また、山高帽と表現とした被り物も、後方からの撮影写真を見ると、それが帽子の役目を全く果たしていないことが明らかとなります。

画像4:山高帽を後から撮影したもの

この画像4では、正面の三角に尖った部分を、後ろから支えているだけのように見えます。つまり、端から頭部を保護する目的ではないことは明らかで、古墳に入れられている点、前述の鏡と剣の関係性を考慮すると、これも祭祀道具として着用されたと考える方が自然なのです。

さて、この山高帽状の被り物、正面から見れば「烏帽子」、帽子の支えだけに注目すれば「冠」に見えてしまうのですが、読者の皆さんの目にはどう映るでしょうか?

画像5:(左)烏帽子と(右)冠 (Wikiペディアから)

中には、こんなにはっきりと冠の形としか思えない山高帽を被っているユダヤ人埴輪もあります。

画像6:冠形状の被り物をしたユダヤ人埴輪

また、左右にカールした髪型については、埴輪研究書でははっきりと「美豆良(ミズラ)」と書かれており、こうなると、この埴輪がユダヤ人司祭を指しているのか、それとも古代日本人の司祭を指しているのか、なんとも曖昧となってくるのです。

画像7:古代日本人像でお馴染みの角髪
または美豆良 (goo辞書から)

この曖昧さについて、古代ユダヤ人の影響ではないかと議論してきたのがこれまでの日ユ同祖論なのですが、この議論の前提にはこういう思い込みがあることに気付きませんでしょうか?

 古代ユダヤ人と古代日本人は別物

つまり、古代ユダヤ人が遠い昔に大陸の方から日本へ渡来してきたのだという思い込みです。前から同じことを言ってますが、お互いが遠く離れたA地とB地から同じ遺跡が出てきた場合、どちらが起源であるかなど、軽々に決められないのです。すなわち、

 ユダヤ人は日本発祥の民族

である可能性も、考察の一つとして残しておかなければ片手落ちなのです。

■ユダヤ人埴輪に見るカバラと陰陽道

Wikiペディアによると、「カバラとは、ユダヤ教の伝統に基づいた創造論、終末論、メシア論を伴う神秘主義思想である。」とあります。

日本にも同じ神秘主義的色彩の強い「陰陽道(おんみょうどう)」があります。一般的には、陰陽道は古代中国の陰陽五行思想から発展したものと理解されていますが、それについては今は議論しません。ここでは、日本独自に発展した暦などの実学的要素を含む陰陽道全般を指すことにします。

実は、このユダヤ人埴輪の出で立ちは、陰陽道の考え方であっさりと分析・説明できるのです。

画像8:二つの三角形状がポイント

顎鬚の末端が一点に集約され、全体で下向きの三角形を作っていることが重要です。これは地から登り空中で広がる「火」を表します。陽気です。

また、山高帽が上向きの三角形を形作っているのは一目で明らかです。これは天から下に落ちて広がる「水」を表します。陰気です。

これらを整理すると次のようになります。

 山高帽:△:水:陰
 顎鬚 :▽:火:陽

この二つの三角を重ね合すとどうなるでしょう?

画像9:ご存知、六芒星(ダビデの星)
またはカゴメ紋、麻紋、亀甲紋

この紋様が、海の向こうの某ユダヤ国家の国旗に使われていることは今更説明することではありませんね。加えて、このユダヤ人埴輪において重要なのは、この二つの要素が人の頭部で融合していることなのです。

「天地人」という言葉がありますが、まさに人とは天と地の間に生じる存在であり、人体の最も重要な器官が詰まっている頭部に、天地の創造のエネルギーを集約するという考え方が、この形状一つで理解されるのです。

また、カール状の頭髪(美豆良)は螺旋を表し、螺旋の中心部に気の流れが発生すると考えるのが気功術なので、ここからもまた、天地のエネルギーを頭部に集中させるという呪術的思考が垣間見れるのです。

このよく考えられた幾何学的なデザインだけを見ても、このユダヤ人埴輪が武人などではなく、宗教祭祀を象徴するものであることが見て取れるのです。

そして、ここでも前節と同じ疑問が生じます。この司祭像が執り行っている儀式は古代ユダヤ(カバラ)のそれを指すのか、はたまた、古代日本(陰陽道など)のそれなのか・・・

私は、両者に違いはないと思っています。つまりカバラも陰陽道も出所は同じであり、それを象徴するのが、姫塚のユダヤ人埴輪なのでしょう。但し、この埴輪は古墳時代のものですから、歴史的にはかなり新しい方です。この様式が本来のものであったかどうかは不明ですので、これより過去の時代に融合したという考えも捨ててはいません。

そうすると、古墳時代前後の日本の古代史はどう理解すればよいのか?

ここで、前から私が主張している次の考え方が極めて有効になってきます

 記紀とは真の古代を隠すために編纂された偽りの国史である

ここで言う「隠された日本の古代」とはまさにユダヤ人と日本人の真の関係性のことであると考えられるのです。加えて、現ユダヤ教、その派生であるキリスト教やイスラム教が一神教であることを鑑みれば、これはすなわち、

 日本人と唯一神との関係

と言い換えることができるでしょう。よく言われる「日本は八百万の神の国」という概念は、記紀が編纂された1300年前より以前に企図された、この古代史隠蔽政策の中で練り上げられた後代の創作であるということです。つまり、日本の伝統などではない。

言い換えれば、木は森の中に隠せと言うように、

 神は神々の中に隠せ

これこそが、実在人であった神武天皇以前の天皇一族を神と書き換えてしまった、記紀編纂の真の狙いであったと考えられるのです。

画像10:成田空港近隣の芝山町大里に建てられた
石井四郎書の忠魂碑

上の石碑は、旧帝国陸軍731部隊の創設者で有名な石井四郎氏の書が刻まれたものです。まさに、ユダヤ人埴輪の多出地域に建てられているのですが、この一帯は石井姓を名乗る家が多く、石碑の裏面にも、親族と思われる石井の名が多く刻まれています。

731部隊は初期の頃、賀茂村と呼ばれたこの土地の関係者を中心に設立されたと言います。おそらく731部隊の設立とユダヤ人埴輪は無関係ではない、つまり日本の古代史と現代史は密接にリンクしている。最後にそれを指摘して次回に繋げたいと思います。

※明日配信のメルマガでは、この関係性についてもう少し掘り下げて解説したいと思います。
※本記事で使用した埴輪写真は、六一書房刊、城倉正祥編「殿塚・姫塚古墳の研究 -人物埴輪の三次元計測調査報告書-」(平成29年)より抜粋したものです。


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管理人 日月土

隠された祭神と成田

これまで、「麻賀多神社」をキーワードに、同社が点在する千葉県の北総地域について調べてきました。

 ・麻賀多神社と高天原
 ・麻賀多神社と高天原(2)

また、同じ北総地域の話題として、神話に記された神、猿田彦(さるたひこ)が関連していることも既にお伝えしています。

 ・天孫降臨とミヲの猿田彦
 ・椿海とミヲの猿田彦
 ・麻賀多神社と猿田彦

話が少し複雑になってきたので、ここまでの流れがどのようになっているのか、できれば今一度過去記事を読み返していただくことをお勧めします。

■側高神社:新たな北総神社群

さて、前回の記事「麻賀多神社と高天原(2)」で、私は次の様な図を掲載しました。

画像1:主祭神による神社群の分布図(再掲)

上図にも書き込んでいますが、実はこの分布図にはまだ調査未確認のエリアがあります。これは、そこに何もなかったということではなく、単に私の調査が行き届いていなかったからであり、先日、同地区の調査を一部終了したので、今回はその結果を反映したいと思います。

必ずしも上図の未調査エリア内に限定される訳ではありませんが、同エリアを中心にやはり同名神社が香取海周辺に点在していることが後から分かったのです。その神社の名前は

 側高神社(そばたかじんじゃ)

であり、まだ訪れていない場所も含め、全部で15社あることが分かっています(他にあるかもしれません)。「そばたか」の漢字表記は複数あり、それらは次の様になります。

 側鷹・脇高・蘇羽鷹・相馬高・隣高

中には1か所で表記が混在している所もあります。おそらく万葉仮名よろしく、「そばたか」と読めることが大事で、漢字表記に拘る必要はあまりないと考えられます。

画像2:側高神社の分布

■祭神名を教えない側高神社(香取市大倉)

祭神については、私が訪れた社では直接判別できませんでしたが、ネット上の記載を見ると、場所によっては、「国常立大神(くにとこたちおおかみ)」や「火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)」と紹介されているところもあるようです。

今回訪ねてはいませんが、実は、千葉県香取市大倉の側高神社とその祭神については、知人から興味深い話を聞いています。なんと、ここの神社はその祭神名を「秘して語らず」とし、門外不出にしていると言います。あるいは適当に「側高大神」とし、祭神の由緒については多くを語らないという姿勢を取っているようです。この事実は、神社に詳しい関係者の間でも話題になっているようです。

画像3:香取市大倉の側高神社(写真Google)

通常、神を崇拝する場所であるはずの神社で、どうしてその名を参拝者に知らせないのか、ちょっと理解に苦しみます。

知人が香取市の側高神社を訪れた時、運よく祭事の日だったらしく、氏子さんたちが集まっていたそうです。そこで、改めて御祭神の名を教えてもらえないか尋ねたところ、

 「ここの神の名は教えられない」

と固く断られたそうです。それでも食い下がってお願いし続けたところ、とうとう

 「これをあげるから帰ってくれ」

と、縁起物を渡されて追い出されてしまったとか。

何とも解せない話ですが、それ故に、何かたいへん重要な史実がここに隠されている予感を禁じ得ないのです。そして、知人が同社を訪れた日付を聞いて、私はその思いをますます強めたのです。その日とは、年も押し詰まった

 12月24日

なのです。

■空港施設に取り囲まれた側高神社(成田市取香)

海外、関東地方へ行き来するのに利用することも多い成田空港。この空港敷地のすぐ脇にも側高神社があります。それも、空港ゲート、国道、ホテル、駐車場と四方を近代施設に囲まれ、まるでそこに取り残されたように、ぽつんと鎮座しているのです。

見たところ普通の神社なのですが、気になるのは、すぐ近くの成田市小菅の側鷹神社が空港建設に伴い移設されているのに、どうしてここはそのまま残されているのかです。見るからに邪魔に扱われているのですが。これには移設できない何か大きな理由があるのではと、ついつい勘繰り深くなるのです。

画像4:成田空港ゲート脇の側高神社(取香)
画像5:こちらは空港建設に伴い移設された側鷹神社(小菅)

成田空港と言えばかつてご紹介したように、その敷地そのものの形状が、コルナサインを表しています。コルナサインとは悪魔崇拝者の一員と思われる人物が、時々人前でみせる動物の角に似せたハンドサインです。偶然と言えばそれまでですが、私は、造形にシビアな建築デザイナーがそんな不吉な形状を見逃すはずはなく、むしろ、このコルナサイン型のデザインは意図して選ばれたのではないかと思っています。

画像6:成田空港上空写真とコルナサイン

そうなると、コルナサインを地上絵とする狙いはいったい何なのでしょうか?西欧の悪魔と日本の神社、何か関係あるのでしょうか?

その疑問への答の鍵となるのが、前節で取り上げた「12月24日」という、香取市大倉の側高神社の祭日なのです。

■ユダヤ人埴輪の地に建つ相馬高・隣高両神社

前回の記事で、千葉県の芝山町でユダヤ人の正装そっくりな埴輪が出土したというお話を紹介しました。芝山町は成田空港の少し南側に位置しますが、古代期にはここまで海の入江が入り込んでいたことが地形から窺えます。私はこの入江のことを「芝海(しばのうみ)」と呼んでいます。

その芝山の旧入江に臨む小高い土地に、相馬高神社は鎮座します。今ではすっかりさびれていますが、地形から判断する限り、かつては絶好の祭祀場だったのではないかと考えられるのです。

画像7:芝山の相馬高神社

そして、もう一つの隣高神社ですが、こちらはおそらく海に浮かぶ小島、あるいは土を盛った古墳と思われる小山の上に建てられています。

画像8:芝山の隣高神社

私が気になったのは、この神社よりも、小山の端にポツンと建てられた小さな祠の方です。立派な神社が山の上にあるのに、なぜこんな粗末な祠が全く別に作られているのか?

画像9:隣高神社の隅に建てられた小祠

そして、その不自然な配置に加えて印象深かったのが、この小祠をスマホで撮影しようとするとカメラアプリがフリーズしてしまうという、小さな怪異に見舞われたことです。

仕方がないので、呪術を取り除く作法を施し、それから撮影できるようになったのですが、呪詛技術的な観点で見る限り、かなり強力な呪いがここには掛けられていたようです。この小祠の何がそんなに疎まれたのでしょうか?

また、ここ芝山はユダヤ人埴輪が多出した土地でもあります。これを、「側高神社」に関わるキーワードに加えると

 12月24日 | コルナサイン | ユダヤ人

と、ここは日本なのか?と思わせる不思議な言葉の並びが現れてきます。これもおそらく、側高神社の隠された祭神と関係がありそうです。

■その他の側高神社

他にもいくつか同名の社を訪ねましたが、詳しい説明は省略します。これらに共通しているのは、いずれも香取の海を見下ろす高台の上に建てられているという点です。

画像10:印西市笠神
画像11:津冨浦(つぶうら)1
画像12:津冨浦2

■側高エリアの中心地は成田である

さて、決定的な祭神は不明ですが、側高神社も麻賀多神社などと同じく、同一氏族が居住した領域を表していると考えられます。

また、神社が点在している地形的位置関係をデフォルメして配置すると下図のようになります。

ここから、千葉県内にある多くの側高社が、実は古代期にあった内海のすぐ側にあることが分かります。同時に、成田市の取香(とっこう)と小菅にある社は海には面しておらず、下総台地の平らな部分、現在は成田空港、少し前までは三里塚の広大な牧草地の上にあったことが偲ばれるのです。

これは何を意味するのか?成田取香・小菅の社は周りの海辺のポイントから比較的短い陸路でアクセス可能ですから、古代期においては、南北に広がる海辺の海運を通して、人や物資がここに集中していたと考えられるのです。

画像13:側高神社の配置(デフォルメ図)

これは、成田国際空港を中心に空輸が行われている現在の姿と似ているとも言えます。そして、そのような土地にはおそらく宮が置かれ、どういう習俗かは不明なものの、都(みやこ)と呼ぶに相応しい古代都市がそこに広がっていただろうと想像されるのです。

ここで現代の成田を振り返ってみましょう

 ・真言宗の大寺、成田山新勝寺がある
 ・江戸時代は軍馬の生産地であった
 ・明治期以降、御料牧場が置かれていた
 ・731部隊の前身となる賀茂村があった
 ・空港用地買収に関わる三里塚闘争の長期化
 ・123便の残骸が一時的に成田空港に運ばれ保管された

他にもあるのですが、これだけ見ても、一癖も二癖もある土地柄であることが見えてきます。成田に関しては、私も123便事件の調査関係で、成田公安に執拗に追いかけられたことがあり、成田の地には国家的な何か大きな隠し事があるのだろうと、ずっと思っていました。

それが、今回の古代期におけるキーワードとどう関わるのか?実は私なりに一つの答に辿り着いたのですが、それについては、明日配信のメルマガで先行してお知らせしたいと思います。

事前に予告するなら、これこそが日本国の成立過程において決定的な事実であり、また123便事件を生み出した核心的事由であると、私は考えています。


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麻賀多神社と高天原(2)

今回は、前回の記事「麻賀多神社と高天原」の続編となります。「日月神示」が大好きなスピリチュアル系の方も、ほんとうに今の理解のままで良いのか、これを読んで再考頂けたら幸いです。

何故、日月神示が降ろされたのが麻賀多神社だったのか、そして、どうして「日月」を「ひふみ(=123)」と読むのか、その意味がおぼろ気ながら見えてくるかと思います。

これはもう、解釈の問題なので、絶対にそうだとは言い切れないのですが、私は「ひふみ」とはまさしく「秘文」で、それは何かの「啓示」を表しており、35年前の123便事件(ひふみ)とはまさに「この世に体現された啓示」を意味しているのではないかと思っているのです。

その啓示の真意が何であるのか、その解釈については、後に重要なお知らせとして、お伝えすることになるかと思います。今はまず、事の背景を正確に押さえることが先となるでしょう。

■香取海の神社群

前回お知らせした、旧香取海周辺に見られる同名神社群の分布図ですが、これに香取神社、及び鹿島神社の分布図を追加し、アップデートしました。まずそれをご覧になってください。

画像1:香取海同名神社分布図
※有料メルマガの読者様には共有地図のアドレスを公開しています

この地図は地域的な偏在状況を比較するものです。当然ながら、八幡神社や浅間・稲荷神社など、全国どこでも見られる神社名は当該地域においても圧倒的に多くを数えるのですが、同図ではそれを省略しています。

これらの神社が全て古代期に作られたとは私も思いません。中には中世・江戸時代と比較的新しい時代に建てられた事が分かっているものもあります。しかし、後の時代に建てられた神社であっても、その場所・その名前を選んだ理由は当然あるはずで、私はその主な理由を、代々その土地に伝えられた先祖からの伝承であると考えます。

ですから、この神社群の分布を古代氏族の定住地の分布と見て概ね間違いはないだろうと想定しています。そうすると、分布図と主祭神から予想される各氏族の定住エリアとは次のようになるでしょうか。

画像2:古代氏族の定住エリアか?

この画像2に出てくる祭神名の多くは、記紀においては神代記に登場する、いわゆる神の名前です。神様と言うのは、どこかには祀られるかもしれませんが、この図の様に、一定の広がりを以って土地に偏在するものでしょうか?神を超自然的な霊などではなく、祖先神=開祖(人間)と捉えることにより、あっさりとこの状況は説明できてしまうのです。

もちろん、この予想が当たっているかどうかは今後更に検証を加える必要があると思います。しかし、秀真伝(ホツマツタエ)が今に伝える、実在した神武天皇以前の王とその関係者のリアルな姿、決して超自然的な神などではなかった人間の営みが、この予想分布図を得ることで更に真実味を帯びてくるのです。

■消された高天原の記憶

ここで、記紀で高天原がどのように表現されているかを再確認します。

日本書紀では、神代上に4箇所、神代下に1箇所の出現が見られます。ここでは神代上から2箇所引用します。なお、岩波書店刊の日本書紀では「高天原(たかまのはら)」とルビを振っています。「たかま」の逆読みは「まかた」ですから、より麻賀多(まかた)神社との関係性が感じられます。思うに、古代は「ま」を「まー」と長音で発音していたのかもしれません(「まーかた」→「まあかた」)。むしろ気になるのは、どうしてこれを今様に「たかまがはら」などと発声するようになったかです。

一書(あるふみ)に曰(いは)く、天地初めて判(わか)るるときに、、始めて倶(とも)に生(なりい)づる神有(かみま)す。国常立尊と号(まう)す。次に国狭槌尊(くにのさつちのみこと)。又曰はく、高天原に所生(お)られます神の名を、天御中主尊と曰(まほ)す。次に皇産霊尊(たかみむすびのみこと)。次に神皇産霊尊(かみむすひのみこと)。皇産霊、此をばミムスヒと云ふ。

  * * *

一書(あるふみ)に曰(いは)く、伊弉諾・伊弉冉(いざなぎ・いざなみ)の二(ふたはしら)の神、高天原に坐(ま)しまして曰(のたま)はく、「当(まさ)に国有らむや」とのたまひて、乃(すなは)ち天瓊矛(あまのぬほこ)を以(も)て、磤馭慮嶋(おのころじま)を画(かきさぐ)り成す。

日本書紀 神代上

ここに登場した神々の名前が実在した上代の人物のものだとすると、天皇を中心とする日本の歴史が始まったのは、実にこの高天原であるということになります。ですから、現代日本に天皇家が存続している以上、高天原の存在は「日本の始まりの地」として、決して切り離すことができないのです。

私は、その高天原は、現在の千葉県・茨城県に跨る旧香取海の沿岸地域に存在していたのではないかと予想していますが、どちらかというと、場所の特定よりも、どうして高天原の記憶が史実から消されてしまったのか、記紀における上代史の神話化と同様に、そちらの方が気になるのです。

「高天原」の記述は、有名なイザナギの禊(みそぎ)による三貴子(アマテラス、ツクヨミ、スサノオ)の誕生シーンの他、スサノオが高天原に居るアマテラスとの再会を乞い願うシーンでも出てきます。いずれも「神の在所」として登場します。

詳細は省きますが、「高天原」の登場シーンは古事記の方がやや多く、やはり神の在所としての架空世界を指しています。なお、秀真伝(ほつまつたえ)では「タカマノハラ」として登場しますが、こちらは、宮中の賢所(かしこどころ)、転じて朝廷そのものを表しており、記紀と比べてその具体度が全く異なるのです。

■芝海とユダヤ人埴輪

小見出しの「芝海(しばのうみ)」とは私が作った造語です。おそらく面積的にはそれほど大きくなく、正確には入江とか浅瀬と呼ぶべきかもしれません。かつてそれが存在したと思われる、千葉県芝山町(しばやままち)、旧横芝町(よこしばまち、現山武市)から「芝」の字を取って命名しました。ここでは、便宜的にこの名前を使わせてもらいます。

芝山町の高台には、有名な武人の埴輪が多く発見された芝山古墳群の殿塚・姫塚・その他があります。この武人の埴輪は、観る人が見ればこう言うかもしれません。

 ユダヤ人埴輪

これは、前回の記事でご紹介した「高天原は関東にあった」(勉誠出版)の著者、田中英道教授も、別の著書「ユダヤ人埴輪があった!」(育鵬社)で触れています。

画像3:書籍「ユダヤ人埴輪があった!」

これは以下の画像を見ると分かり易いでしょう。

画像4:田中英道教授の通信講座プロモーションメールから抜粋

つい最近、これらの埴輪の一部を展示している「芝山はにわ博物館」を現地まで見学に行ってきました。その時に撮影したのが以下の写真です。

画像5:ユダヤ人埴輪に該当するもの
画像6:その他の人物埴輪

この埴輪は、「正装したユダヤ人に似ている」ということで、古代史マニアや日ユ同祖論者などの間では良く知られているし、それ程目新しい話題でもありません。

私が注目したいのは、芝山古墳群のロケーションです。そこでやはり目を引くのが外洋に続く内海、「芝海」なのです。

画像7:内陸部まで深く入り込んだ入江(芝海)

そして、この芝海と香取海の位置関係を見て欲しいのです。

画像8:旧内海の位置関係と陸路
複数の港湾にアクセスしやすい成田、八街などは古代都市が発達した可能性がある

高天原推定地域である旧香取海と同古墳群がそれほど離れていないことにお気付きでしょうか?しかも、2つの内海(香取海・芝海)を結ぶまさに陸路の拠点に芝山の古墳群は点在してるのです。

ここから、漠然と「日本人の祖先は渡来してきたユダヤ人ではないか」とし、数多くの両者の類似点、状況証拠等を示してきた日ユ同祖論に、新たに「失われた始まりの地『高天原』との関係」、という視点が加わるのです。

日本の始まりの地である高天原とユダヤとの間に関係性が認められるとすれば、前節の議論から、

 天皇家とユダヤの間に何らかの関係性がある

と認めざるを得ません。ですから、日ユ同祖論はこれまでのように古代史ロマンのように扱うものではなく、私たち日本人や日本社会のルーツを辿る重要問題として真剣に取り上げる必要があると思われます。

あくまでも仮説としてですが、文献や地形を徹底的に改変してまで高天原の存在を隠そうとしてきた日本社会の体制とは、まさしく123便事件を隠し続けるそれに等しく、おそらく123便事件の背景には、古代日本とユダヤとの関係が深く横たわっているのだろうと思われるのです。

ところで、日月神示にはこういう記述があるのを覚えておられるでしょうか?


「十の流れ、十二の流れと今にわかる時来るぞ」

日月神示 光の巻 第7帖

十と十二をイスラエルの十支族、十二支族と捉えると、

 日月(ひふみ) > 麻賀多 > 高天原 > ユダヤ人埴輪 > 十二の流れ > 日月

とやはり繋がってくるのです。深く検証するほどにこうした関連性が実際に浮かび上がってくるので、私は日月神示を、単なるオカルト好きの愛読書として片付けられないのです。


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麻賀多神社と高天原

麻賀多(まかた)神社と言うと、日月神示(ひふみしんじ)が降りた場所として、どちらかと言えばスピリチュアル界隈で有名の神社の一つです。

これについての文献や、それについて書かれたブログなどはたくさんありますので、敢えて私がそれについて説明することは避けたいと思います。

ただし、私も「ひふみ」、すなわち「一二三(123)」という言葉の響きがずっと前から気になっており、123便事件の調査を本格的に始めた頃から、主に事件と何か関係があるのだろうかという観点で同書を読んできました。

結局のところ、事件と関係があるかどうかは各自の主観的な判断に依るものであり、有ると見れば有るし、無いと見れば無いとしか言いようがありません。

同書がそれまでまったく関心の無かった日本古代史への興味を抱かせたくれたこと、結局、それにより日本航空123便事件の深い歴史的背景を理解するのに大いに有意義であった点などを考慮すれば、少なくとも私にとっては、同事件を理解するのに欠かせない一書となったことは確かであると言えます。

■一つだけではない麻賀多神社

麻賀多神社と言えば、千葉県成田市台方にあるものが全国的に有名ですが、実は同名の神社が千葉県北部地域に20社程あることをご存知でしょうか?

別の言い方をすると、日本全国でも千葉県北部地域に限られた20社にしか麻賀多神社の名前は見られないということでもあります(他所にもあるという話も聞きますが未確認です)。

画像1:千葉県北部図 (麻賀多神社)

上画像は、Googleマップにそれぞれの麻賀多神社をプロットした図です。これだけ見ると印旛沼(いんばぬま)の南側に固まって配置されていることが分かります。

実は、千葉県北部でこのように同名の神社が近い場所に固まって配置されている関係性は、麻賀多神社以外にも見られるのです。

画像2:千葉県北部図 (4神社群プロット)

麻賀多神社群に加えて、宗像(むなかた)神社群、鳥見(とみ)神社群、そして埴生(はぶ)神社群の4つです。それぞれの神社群の主たる祭神は次の様になります。

 麻賀多:和久産巣日神 (わくむすびのかみ)
 宗像 :宗像三女神
 鳥見 :饒速日命・宇摩志眞知命・御炊屋姫命・火産靈命・天日鷲命(忌部氏祖)
 埴生 :埴山姫命(はにやまひめのみこと)

それぞれの神社群は隣接しているにも拘わらず、祭神が全く異なるのが分かります。基本的に同系の一族が同じ先祖神を祭るのが古代の祭祀スタイルだと考えられるので、これら神社群の違いは、

 居住者集団の家系の違い

であろうと考えられます。

■香取海と海の民族

さて、画像2を見れば、それぞれの神社群がひと塊のテリトリーを構成していることは分かるのですが、なんでこのような配置になったのかはこの地図でははっきりしません。

そこで、江戸時代の大干拓事業が始まる中世頃まで、千葉県北部・茨城県南部に存在していたと言われる香取海(かとりのうみ)を地図上に加えてみます。なお、海岸線は現在の地形を参考に推測したものです。

画像3:千葉県北部図 (香取海)

図を見れば分かるように、ほとんどの神社が海岸線を望む高台に配置されているのが分かります。

特に、鳥見神社の場合は香取海に突き出した半島の北部沿岸を、そして宗像神社は南部沿岸を、そしてその南の対岸に麻賀多神社、東の対岸に埴生神社と、神社の配置が当時の地形に依存していたことがよく分かります。それはすなわち、同じ系統の一族が、それぞれお行儀よく場所を棲み分けてそこに暮らしていたことを想像させるのです。

画像4:麻賀多神社(台方)の田んぼの中の鳥居
 かつては海岸沿いに立って訪れる参拝者を迎え入れてたのだろう

海、それも穏やかで遠浅の内海が身近にあるということは、それだけで古代人の生活にとって有利だったに違いありません。海産資源はもちろんのこと、人や物資の移動に船が使えるからです。

そして、当時の神社とは海の見張り処でもあり、灯篭は船の道標、そして、淡水の補給地点であったことは容易に想像できます。

それを裏付けるように、宗像神社群が鎮座する地名には、海運に関する名前が多く見られます。さすが、「宗像」は海の一族と言われるだけあります。

 師戸、船戸、瀬戸、戸神、岩戸、清戸、大廻、船尾

「戸」の字は、古代は「港」を表していた。つまり、ここを拠点に船が行き来していたことを表します。

船を使った移動、これは、麻賀多神社の創建に関わったと思われる多氏についても事情は同じだったはずです。香取海の最も最深部を地盤にする麻賀多神社群、一見すると、大洋に出るのに香取海内を大きく迂回しなければならないようですが、わずかな陸路を許容することで、実は東京湾経由でどこよりも早く安全に香取海から外洋に出られるのです。

画像5:中世まで、この辺の陸路が発達していたのだろう
「四街道(よつかいどう)」という地名に当時の様子が窺える

ですから、見方によっては、麻賀多神社群の一族(多氏?)こそが、香取海内海の集落群と外洋を結ぶ最も要の場所を押さえていたとも言えるのです。

■隠された高天原(たかあまはら)

今回はスピリチュアル的な話は一切抑えて、観測できる事実から麻賀多神社の周辺状況を整理してみたのですが、そこから見えてくるのは、香取海の恵みに支えられた豊かな古代社会の姿なのです。

しかし不思議なのは、中世頃まで存在し、関東人の生活と社会を支えたはずの香取海なのに、日本史の教科書における関東の記述、例えば次のような事項に、香取海が触れられることはないのです。

 ・坂上田村麻呂の蝦夷征伐
 ・平将門の乱
 ・鎌倉幕府と東北を巡る役、

そして、香取海だけでなく椿海も、江戸幕府による大規模な治水工事と干拓政策により、ほとんど元の姿を残さず消滅してしまったのです。本当に食糧増産が目的なら、江戸から離れた香取海や椿海ではなく、東京湾を干拓すればよいのに。

まるで、何かを歴史から消しさらなければならないかのように、江戸幕府は香取海を埋め尽くし、現在の歴史教科書はそれが初めからなかったかのように触れようとはしない。

私は、日本書紀・古事記が編纂された目的自体が日本古代史の改ざん及び抹殺であると見ていますが。西暦700年代に始まった歴史改ざんプロジェクトは今でも有効であり、江戸時代を経てそれが現在でも続いているのだとすれば、本当に残念なことです。

では、その改ざんプロジェクトはいったい何を日本の歴史から消し去ろうとしているのか?

麻賀多は「まあかた」と読むことを思い出してください。逆さ読みが「事実の裏返し」を意味しているのなら、その答は簡単です。

 高天・原(たかあま・はら)

そう、曖昧なまま神話の世界に貶めようとした、麻賀多神社の周辺に実在していただろう高天原(たかあまはら)の存在こそが、この国のもっとも忌むべき時代と見なされている、そう考えられるのです。しつこいようですが、123便事件もおそらくその一件に関わっているようなのです。

なぜ日月神示が麻賀多神社に降りたのか?パワーやおかげを求めるフワフワしたスピリチュアルも結構ですが、たまには出来事の背景と真意を探く考えてみては如何でしょうか?

画像6:同じような主張の方がいらっしゃるようです


島々よ、わたしのもとに来て静まれ(イザヤ 41-1)
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麻賀多神社と猿田彦

前回、前々回と、神話に登場する道案内の神、猿田彦について取り上げ、最終的に現在の千葉県旭市・匝瑳市(そうさし)に存在したという椿海(つばきのうみ)、及びその北東方向に位置する千葉県銚子市に辿り着きました。

1985年のNHKテレビ小説「澪標(みおつくし)」の舞台がその銚子であることから、

 三尾(みお)-筑紫(つくし)

の言葉の連想により、三尾(猿田彦の宮があったと思われる土地名)と筑紫(瓊瓊杵尊が天孫降臨した土地名)が同時に出現し、神話よろしく「天孫降臨」に関わる何かを表現してようにも見えると結びました。

翌日配信のメルマガでは、私は次の様な歴史的事象が実際にあったのではないかと予想を立てています。

「瓊瓊杵尊一行を乗せた船は、猿田彦の先導の下、現在の千葉県銚子市周辺・あるいは内海の椿海から出帆し、筑紫(現在の福岡県糸島)に向かった。」

この仮説を裏付けるのが、旧椿海の西方には全国でもここにしかない八街市(やちまたし)があり、これが記紀で記すところの天八達之衢(あめのやちまた)に対応していると考えられることです。

しかし、この説の最も大きな障害となるのが、この移動ルートではかなり長い距離を黒潮に逆らって進むことになり、また、当時は関門海峡は陸続きだったと思われるため、糸島付近に上陸するためには、かなりの迂回を強いられることになるという事実です。

画像1:画像1:さすがにこの海路はあり得ない?

通常の考え方なら、速攻で却下されるべき仮説なのですが、そうではないというお話をメルマガではさせていただきました。

だいたい、記紀を読んでも、秀真伝を読んでも、当時のアマカミ(上代の天皇のこと)やスメラギ(天皇のこと)は、平気で1000kmくらい離れた場所に宮を移したり、遠征したりします。

いくら陸上だからといって、大勢の人員や大量の物資をそんなにちょくちょくと長距離移動させられるものでしょうか?通常なら船などの輸送手段を用いるはずですが、それを言い出したら天孫降臨の三尾-筑紫仮説と同じことです。

歴史研究家はこの点にほとんど疑問を持たず、平気で古代天皇が日本列島中を行脚する話を想定するのですが、飛行機や自動車、動力船もなく、舗装道路などおそらくない時代にどうしてそんなことができたのか、まずそこに疑問を持つべきはないでしょうか?

■猿田彦の本当の名前は何だろうか?

前々回の記事では、およそ高貴な人間に「猿」などという獣の字を当てるものだろうか?むしろそれは後世の人間が名付けた「呪い名」ではなかろうか?、そういうお話をさせて頂きました。

その件について、発掘を生業とする知人の歴史研究家G氏にお話を伺ったところ、概ね同意を頂き、加えて次のようなお話を聞かせてくださったのです。

「徳島県に大麻比古(おおあさひこ)神社という神社があります。そこの2柱のご祭神の内、一柱が猿田彦なので何か本名と関係があるのではないか?」

画像2:大麻比古神社

そこで、同社のホームページの由緒を調べてみました。

Q.何という神様をおまつりしてあるのですか?
A.二柱の神様がおまつりされています。大麻比古大神と猿田彦大神の二柱の神様です。

Q.御祭神はどのような神様ですか
A.まず大麻比古大神とは、大昔阿波国を開拓した阿波の忌部氏(いんべし)の大祖先の神様です。

神武天皇の御代に忌部氏の子孫が阿波国に入り国土を開拓して麻とか楮(かじ)の種を播いて麻布とか木綿をつくり郷土の産業の基を開いて人々の福利を進められました。

その氏族は今の吉野川市 元の麻植郡を拠点として開拓をされましたが国土開発の事業が漸く成った後に御先祖の神様 天日鷲命(あめのひわしのみこと)をおまつりしました。この神社が今徳島市に忌部神社としてまつられており、この神様の御神徳をたたえて麻植の神と申して敬ってきました。

忌部神社の御祭神天日鷲命様の大先祖の神様が天太玉命(あめのふとたまのみこと)で此の神様を大麻比古神社と申し上げ郷土の守り神としてこの地におまつりしたのが大麻比古神社と伝えられています。

猿田彦大神とは天孫降臨(てんそんこうりん)の時その道案内の役をつとめられた神様で、昔大麻比古神社の裏に聳えている大麻山(おおあさやま)の峯にお鎮まりになっていましたが、いつの時代かはっきり判りませんが大麻比古神社に合わせまつられたと伝えられています。

猿田彦の神様は私共に親しみの深い神様です。おまつりの時、神輿(みこし)の先頭に立って天狗のお姿をして神輿の先導をされている神様で、人々や土地のまわりに立ち塞がり、災難や禍をもたらすものを祓い退けてくださる神様です。

大麻比古神社にまつられている二柱の神様を総称して人々は「大麻はん」と申し上げており、方除(ほうよけ)、厄除(やくよけ)、交通安全の御加護をお授けくださる神様として今も多くの人々から信仰されています。

引用元:大麻比古神社公式ホームページ http://www.ooasahikojinja.jp/qa/

「(猿田彦は)昔大麻比古神社の裏に聳えている大麻山(おおあさやま)の峯にお鎮まりになっていました」

おやおや、これまで、猿田彦ゆかりの土地として、三重県伊勢市・鈴鹿市、滋賀県大津市、そして千葉県銚子市を候補に挙げてきましたが、なんと、徳島県鳴門市までもがそれに加わることになってしまいました。

これについてG氏は次のように説明します。

「そもそも猿田彦の一族は、現在の天皇家が全国統治を始める以前から、全国に赴いて農耕の普及や集落の形成など、日本社会の地盤を作り上げてきた主要な一族と考えられるのです。猿田彦の名前が全国に知れ渡っているのは、そうした経緯があるからなのかも知れません。」

なんと、神話の猿田彦は瓊瓊杵尊を導いたことで知られますが、それ以前に猿田彦の一族そのものが、古代日本を現在の日本社会の方向に導いてきたという、何ともスケールの大きな話になってきました。

そしてこの話は、ヲシテ文献研究者の池田満氏が「サルタヒコはかなり高貴な血筋であると考えられ、クニサツチノのヱノミコトの直系の子孫と推定する」という説にも合致してくるのです。

これだけでは名前の問題はまだ解決しませんが、ともあれ、猿田彦とその一族は古代社会においてなかなか侮れない存在であることは間違いなさそうです。逆に言うと、だからこそ、後世において猿田彦が「猿」でなければ都合の悪い輩も多くいたのではないかと考えられるのです。

■麻紋で繋がる徳島と千葉

さて、WEBで大麻比古神社のHPを見た時に、あれっと思ったのがその御神紋です

画像3:
大麻比神社御神紋

この神紋は、日月神示で有名なあの神社と同じです。

画像4:麻賀多神社(千葉県成田市台方)の拝殿と御神紋

これは麻紋と言って、一応麻を象った紋ということですから、同じ「麻」の文字を冠する神社がそれを使っても、特に不思議だということはありません。私が前から気になっているのは、麻の葉は基本的に奇数枚なので、どうして六葉のこの紋を「麻紋」と呼ぶのかです。

麻紋を幾何学的に分析すると次の様になります。

画像5:麻紋と亀甲紋は等価、とも読める

私の調べでは、亀甲紋は出雲オオモノヌシ系の古代氏族が家紋に使うことが多いと見ています。また、古代氏族の系列を陸海で分けるなら、亀甲紋を使う家系はほぼ海系(=水軍系)と考えて良いでしょう。これは、徳島が古くから水軍の町であったことと矛盾しません。

麻賀多神社は古代氏族の多氏(=おおし、意富、大とも書く)によって創建されたとする説があるのですが、G氏によると、徳島の吉野川北岸は、元々多氏が支配していた痕跡が色濃く残っているとかで、大麻比古神社と麻賀多神社が同じ麻紋を使用するのは、両者が元々同族であったからだと言えなくもありません。

考えてみたら、千葉県南部は「安房」(あわ)と呼ばれ、徳島はと言えば、「阿波踊り」で有名な「あわ」の地です。

ここで、ぼんやりとではあっても、どうやら千葉と徳島との関係はかなり深そうだということが分かってきたのですが、果たして猿田彦はそこにどう関わってくるのでしょうか?

■香取海と椿海を繋ぐミオ

古代の事情は古代の地形で考えないと分かりません。千葉県北東部の古代の海岸線をシミュレートしたのが以下の図です。すると、椿海と同時に、広大な香取海(かとりのうみ)が地図上に現れるのです。

画像6:香取海、椿海分析図(今より7m海面が高いとした)

まずこの図で、徳島と千葉との対応関係を調べてみましょう。

 --徳島--    --千葉--
 多氏        多氏
 大麻比古神社(麻紋) 麻賀多神社(麻紋)
 大麻比古=忌部氏祖 印旛(インバ)=忌部(インベ)?
 猿田彦       猿田神社
 鳴門の渦      渦海のまあかた(日月神示)?
 阿波(アワ)     安房(アワ)

?を付けたのは確証がないものです。現在でも残る印旛という地名が、果たして忌部氏由来なのかは分かりません。ただし、古代の人々は名前の音や綴りに非常に拘るので、全くの駄洒落と言う訳でもないはずです。

また、まあかたが渦海であったというのは日月神示にしか見られない記述ですが、香取海の奥行は広く、湾口付近とは大きな干満差が生じただろうと予想されます。すると、口の狭まった地形の場所では、時刻によっては海流が速まり、渦潮が発生していた可能性もあっただろうと予想されます。

私は、多氏は渦の発生する場所を選んで、徳島から千葉、あるいは千葉から徳島へと移動したのではないかと予想を立てています。何故なら、渦そのものが、大きな自然エネルギーの象徴であると、古代の人々は考えていたかもしれないからです。

さて、この図をみると、私が猿田彦の宮があったのではないかと考えているミオ(現在の小見)は、椿海と香取海を繋ぐ最短陸路上にあることが分かります。

これは地図上にも緑の点線で示しましたが、海路で銚子の沖合を回ると遠回りあるばかりでなく、海流もあるので操船が非常に大変であったと思われるのです。

安全に人や物資を香取海内の沿岸に届けるならば、椿海で一旦荷を下ろし、陸路を経由して再び香取海で船に積み込んだ方がはるかに合理的でしょう。すなわち

 ミオは古代海上交易の中心地

であったのではないかと考えられるのです。人が集まる場所には、それを治めるに相応しい人が要る。もしかして、それが猿田彦だったのではないでしょうか?

そして、現在の猿田神社は椿海ルート、銚子沖ルートの両海路の中央の台地に位置します。これは、鹿島神宮、香取神宮、そして息栖神社がかつては香取海へ船の出入りを監視する役割を担っていたことを考えれば、両ルートに対し睨みを利かせる最良の地に監視施設を置いた、そしてその名残が現在の猿田神社として残されている、そう考えると辻褄が合わないでしょうか?

まだまだ決め手には欠けるものの、この図から、猿田彦とその一族は海運と交易を司る一大要所を押さえていたと言えます。それは、同じく海運の一族である多氏の姿とも重なるのです。

その猿田彦の元へ、筑紫へと向かう瓊瓊杵尊の話が飛び込んできた。そして、神話ではないリアルな天孫降臨の物語が始まった‥…そこまで考えるのは早過ぎますかね?

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管理人 日月土

椿海とミヲの猿田彦

今回の記事は、前回の「天孫降臨とミヲの猿田彦」の続編となります。また、7月16日に発行したメルマガ掲載の記事解説を、加筆再構成した文章を含んでいます。

前回記事の最後に、ヲシテ文献研究者の池田満さんが猿田彦の宮の所在地を、三尾(ミオ)神社のある滋賀県の大津付近に推定していること、その地名に関連して猿田彦がミオノカミとヲシテ文献には記述されていることなどをお伝えしました。

私の解釈はこれと少し違います。それを説明するためには、まず猿田彦と椿(つばき)の関係を知らなくてはなりません。

■猿田彦と椿

前回ご紹介したように、三重県鈴鹿市には「椿」をその名に配した椿大神社が猿田彦を主祭神として祀っています。同社のホームページを見たところ、次のように書かれていました。

 当社は、伊勢平野を見下ろす鈴鹿山系の中央に位置する高山(入道ヶ嶽)短山(椿ヶ嶽)を天然の社として、太古の神代より祭祀されていた「猿田彦大神」の御神霊を、人皇第11代垂仁天皇の御代27年秋8月(西暦紀元前3年)に、「倭姫命」の御神託により、大神御陵の前方「御船磐座」付近に瓊々杵尊・栲幡千々姫命を相殿として社殿を造営し奉斎された日本最古の神社であります。

 (中略)

 天孫「瓊々杵尊」降臨の際、猿田彦大神、天の八衢に「道別の神」として出迎え、風貌雄大、超絶した神威を以って恙なく天孫を高千穂の峰に御先導申し上げ、肇国の礎を成したこの大神を、後に倭姫命の御神託により、磯津(鈴鹿川)の川上、高山短山の麓に「椿(道別)大神の社」として奉斎することになったのは、まことに神慮によるものと言うべきでしょう。

引用元:椿大神社の由緒 https://tsubaki.or.jp/yuisyo/

どうやら、猿田彦の陵墓があるとされる鈴鹿山系の山の名前「椿ヶ嶽」から取ったとするもの、または、書紀にも記載されている「道別(ちわき)」が「椿(つばき)」と訛ったものとする二つの考え方があるようです。

正直なところ、この説明からだけではピンときませんが、少なくとも看板たる社名に「椿」の一文字が冠されている、そこに大きな意味を感じるのみです。

さて、私の場合、「椿」の名を聞いて最初に思い浮かべる神社とは、実は福岡県久留米市にある水天宮なのです。何故なら、水天宮の神紋は「椿花」であるからです。

関東の方面にお住いの方ならば、東京の日本橋蛎殻町にある水天宮に馴染みの深い方が殆どだと思いますが、実は、総本宮は福岡県久留米市にあるものとされています。

私も花の季節に久留米の同宮を訪れましたが、境内に植えられた様々な種類の椿の花の見事さに思わず目を奪われたものです。読者の皆さんにはぜひ花の季節に同宮を訪れることをお勧めしたいです。

画像1:東京蛎殻町の水天宮(写真:Google)
画像2:福岡久留米の水天宮と椿の花々

水天宮はその名の通り水の守護、水難除けにご利益があるとされています。瓊瓊杵尊はおそらく船で福岡県糸島に上陸した(天孫降臨)と私は考えており、猿田彦の行った道案内とは、おそらく海上の案内であったと想定されるのです。その意味では水の守護と水先案内人としての猿田彦との繋がりもそれほどミスマッチとは言えないでしょう。

また、久留米と糸島はそれほど近いとは言えませんが、古代期は海が現在の内陸部まで入り込んでおり、小型船ならば川や水路などを通って比較的簡単に行き来できたのではないかとも想像されます(そういう説もあります)。

 参考:
  ・天孫降臨と九州天孫降臨と九州(2)

しかし、久留米水天宮の由緒には、「椿」の言われは、同宮の祭神である安徳天皇の物語から生じたものとされており、猿田彦とは直接関係なさそうです。興味深いのは、歴史上は壇ノ浦の戦で幼少8歳で没したとされている安徳天皇が、実は九州に逃げ延びて存命していたという伝承に則ってこの由緒が語られていることです。

御神紋椿の話 ―安徳天皇の恋物語―


 御祭神の安徳天皇は、壇ノ浦の戦で二位の尼に抱かれて入水され、 御年わずか8歳の生涯をお果てになったと国史には記述されております。

 ところが水天宮にはここで崩御なさったのではなく、官女の按察使局伊勢(あぜちのつぼねいせ)に守られ、生きて筑後に潜幸遊ばしたという伝承があります。

 筑後の豪族藤原種継は、平家の旧臣で潜幸中の天皇にお仕えしていましたが、その種継に玉江という17になる美人の娘がおりました。玉江は天皇お付の浄厚尼の薦めにより、日夜、天皇のお側に侍り、お仕えする様になります。

(中略)

 天皇は「椿は八千代を寿ぎ、井桁は契りを宿すとかや」 ~椿の花はいつの世も優しく愛でて映え、井桁はその愛を とこしえに深く育んでゆくと言われているが、いかがなものよ~と、玉江への想いを秘めて仰せられました。浄厚尼も、ならばどうぞ玉椿をお手折りなさり、幾久しく大切になさりませと申し上げて祝福しました。こうして天皇は玉江姫と契られたとのことです。こうして、安徳天皇と玉江姫の恋物語の由縁から、椿の花が御神紋となりました。
(以下略)

引用元:水天宮境内案内 http://suitengu.net/%E5%A2%83%E5%86%85%E6%A1%88%E5%86%85/#story

もしも、猿田彦が瓊瓊杵尊を案内して上陸したのが九州北部だとしたら、この椿花の神紋を通して久留米の水天宮と何か繋がりあるのかないのか、調べてみる価値は大いにありそうです。

画像3:福岡県那珂川市の安徳台上に置かれた安徳宮(写真:Google)
九州北部ではこの安徳天皇生存説にまつわる伝承が多い。この安徳台は安徳台遺跡で有名だが、台地がまるごと遺跡群のようになっている。目立たない所にあるこの宮は荒れてることが多く、何度か掃除をしに行ったことがある。

■千葉東部の椿海

本題から少々脱線してしまいましたが、椿の話に戻ります。さて、古代史と「椿」との連想で、水天宮の他にもう一つ思い浮かべるものがあります。それは、地質調査から古代期に存在したと考えられる「椿海(つばきのうみ)」です。記録には300数十年以上前に干拓されたとあるので、中世の頃までは内海が広がっていたと考えられます。

場所は現在の千葉県旭市の内陸寄りにある、南北に6㎞、東西に8㎞ほどの一帯です。そこを訪れると、椿海があったとされる場所は広大な田園地帯となっており、かつてここが開けた水をたたえた場所であったことが分かります。

以下は地図上から推定される椿海のあったと思われる位置です。

画像4:椿海は現在の千葉県旭市の田園地帯にあったと言われている
画像5:旧椿海の中心部から東の銚子方面を見た風景(写真:Google)
銚子側が切り立ったような高台になっているのが分かるでしょうか?

実は、この旧椿海のあった場所のすぐ東にある高台には、地元の信奉がすこぶる厚い「猿田神社」があり、同社が所在する地名も千葉県銚子市猿田町と言います。最寄り駅はJR東日本の猿田駅で、御祭神はもちろん猿田彦大神です。

画像6:銚子の猿田神社(奥社
画像7:銚子の猿田神社(本殿)

これまで、三重県鈴鹿市周辺、福岡県久留米市周辺に「猿田彦」と「椿」のセットを見出してきた訳ですが、今度もまた遠く離れて関東の東の突端に位置する千葉県旭・銚子市周辺に同セットが見出されるのです。これはいったいどういうことなのでしょうか?

※椿海の民間伝承については匝瑳市のホームページに2話ほど掲載があります。その一つには、猿田彦だけでなく、鹿島の建御雷(タケミカヅチ)、香取の経津主(フツヌシ)が登場し、時代関係的にも齟齬が無く非常に興味が惹かれます。両伝承に共通するのは、巨大な椿の木が抜けた後に海ができたという点です。

 参考:匝瑳市ホームページ「椿海」
    https://www.city.sosa.lg.jp/page/page001250.html

■隠されたミヲ

冒頭でも触れたように、池田説によると猿田彦が宮を構えていたのは滋賀県の大津にほど近い、三尾神社周辺ではないかと推定されています。

これもまた、鈴鹿・久留米とは随分と場所が離れているのですが、実は「ミヲ(ミオ)」という地名には、千葉県の銚子市周辺との共通点が見出せるのです。

それでは、銚子周辺に「ミヲ(ミオ)」なる地名があるのか?残念ながら、調べたところそのような呼び名の地名は見つかりませんでした。

しかし、ここで、有名な麻賀多神社の「麻賀多(マアカタ)」が、高天原の「高天(タカアマ)」を逆さに読んだものであることを思い出してください。これまで各地の地名を色々調べてきたところ、どうやらオリジナルの場所を知られたなくない場合は、元の名前を逆さ読みにする傾向のあることが分かっています。

その考え方を適用すると、「ミヲ(ミオ)」は「ヲミ(オミ)」と読み替えることができます。その操作を加えることで、果たして椿海のすぐ北側にミヲの変名が見つかったのです。それは、

 千葉県香取市の小見(オミ)

です。市町村合併前は小見川町(おみがわまち)と呼ばれた、利根川沿いの長閑な小さな町だったところの一角です。この旧町名はJR東日本の小見川駅という駅名から今でも窺うことができます。

画像8:椿海と他のランドマークとの位置関係
画像9:椿海の西方には記紀に書かれたヤチマタの地名が見られる
猿田彦はここで天鈿女(アメノウズメ)と瓊瓊杵尊を出迎えたのか?

■ミヲと銚子と123便

ここで、購読者の皆様に質問をします。「ミヲ」と「銚子」で何を連想しますか?

答は「澪標(ミオツクシ)」です。

澪標とは日本に古来からある海上に設置された船の案内版のことです。大阪市が市章のデザインにしていることでも有名です。

画像10:左は澪標(みおつくし)、右は同タイトルNHKドラマのシーン

ある程度の年齢以上の方は「澪標」と聞くと、女優の沢口靖子さんが主演したNHK朝の連 続テレビ小説を思い出すかもしれません。このドラマの舞台となったのが、千葉県銚子市なのです。ここでこのドラマタイトルに少し注意してください。

 澪標 → ミオ・ツクシ → ミオ・筑紫

ミオはミオノカミ(猿田彦)、あるいは現在小見と呼ばれている土地を表すと考えられます。そしてミオの猿田彦はヤチマタに瓊瓊杵尊を出迎え、筑紫へと案内するのです。ここに、このドラマタイトルが秘める天孫降臨との関係が見出せるのです。

ここでまた質問です。「澪標」が放映されたのはいつ頃ですか?

答は「1985年4月~9月」。この間、あの123便事件が発生するのです。(新)ブログの「芸能界の闇」シリーズでお伝えしているように、1980年代前半は、123便撃墜計画に向けて大衆心理を同事件へと誘導するメディア戦略が幅広く行われていました。

当時から高視聴率を誇っていたNHKのテレビ小説が、このメディア戦略の例外であったとはとても考えられません。それは「澪標」が「身を尽くし(死)」「ミヲ尽くし(猿田彦の死)」の意を含むことを見れば明らかでしょう。

これらから、古代史に登場する猿田彦と現代社会の関りは、思いのほか深いのではないかと予想されるのです。そして、それが123便事件に具体的にどう関わってくるのか、私の仕事は本当に終わりが見えません。最後に、

 わびぬれば 今はた同じ 難波なる 
  みをつくしても 逢はむとぞ思ふ
             元良親王

この百人一首にも採られた有名な和歌に、自分と123便事件調査に到った境遇を重ねてしまうのは、少々感傷が過ぎるのかもしれませんね。

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管理人 日月土

天孫降臨とミヲの猿田彦

本ブログでは、記紀においてすっかり神話ファンタジー化されてしまった「天孫降臨」なる歴史イベントについて、実際は何が起きたのだろうか考察してきました。取り分けてこのテーマを扱うのは、日本の成立史を考える上で、この一件が極めて重要であると考えるからです。

 参考
  ・天孫降臨と九州 
  ・天孫降臨と九州(2) 

これまでは、天孫降臨の主役である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)にフォーカスし、その天孫降臨の舞台も、現在の福岡県糸島市付近ではないかと推測を述べました。

今回はその瓊瓊杵尊の、糸島上陸に到るまでの経緯について更に考察することにします。

■瓊瓊杵尊を先導した猿田彦

さて、日本書紀の神代下の一書には、天孫降臨が行われるに先立って、次のようなエピソードが記述されています。

已にして降(あまくだ)りまさむとする間に、先駆(さきはらひ)の者還りて白さく「一の神有りて、天八達之衢(あめのやちまた)に居り。其の鼻の長さ七咫(あた)、背の長さ七尺余り。当に七尋(ひろ)と言うべし。且(また)口尻明(くちわきあか)り耀(て)れり。眼は八咫鏡の如くして赩然(てりかかやけること)赤酸醤(あかかがち)に似(の)れり。」とまうす。

即ち從(みとも)の神を遣して、往きて問はしむ。時に八十万の神有り。皆目勝ちて相問ふこと得ず。故、特(こと)に天鈿女(あまのうずめ)に勅(みことのり)して曰はく、「汝(いまし)は是、目人に勝ちたる者(かみ)なり。往きて問ふべし」とのたまふ。

天鈿女、乃ち其の胸乳(むなぢ)を露にかきいでて、裳帶(えひも)を臍(ほそ)の下に抑(おした)れて、咲㖸(あざわら)ひて向きて立つ。是の時に、衢神(ちまたのかみ)問ひて曰はく「天鈿女、汝(いまし)爲(かくす)ることは何の故ぞ」といふ。対へて曰はく「天照大神の子(みこ)の所幸(いでま)す道路(みち)に、如此(かく)居(を)ること誰(た)そ。敢へて問ふ」といふ。

衢神対へて曰はく、「天照大神の子、今(いま)降行(いでま)すべしと聞く。故に、迎へ奉りて相待つ。吾が名は是、猨田彥大神(さるたひこのおほかみ)」といふ。

時に天鈿女、復(また)問ひて曰はく「汝や將(はた)我に先だちて行かむ。抑(はた)我や汝に先だちて行かむ」といふ。対へて曰はく、「吾先だちて啓(みちひら)き行かむ」といふ。

天鈿女、復問ひて曰はく、「汝は何処に到りまさむぞや。皇孫(すめみま)何処(いづこ)に到りましまさむぞや」といふ。対へて曰はく、「天神(あまつかみ)の子は、当(まさに)に筑紫の日向の高千穗の槵觸峯(くしふるのたけ)に到りますべし。吾は伊勢の狭長田(さなだ)の五十鈴の川上に到るべし」といふ。因りて曰はく、「我を発顕(あらは)しつるは、汝なり、故、汝、我を送りて致りませ」といふ。

天鈿女、還詣(まうでかへ)りて報状(かへりことまう)す。皇孫、是に、天磐座(あまのひはくら)を脱離(おしはな)ち、天八重雲(あめのやえたなぐも)を排分(おしわ)けて、稜威(いづ)の道別(ちわき)に道別きて、天降ります。果(つひ)に先の期(ちぎり)の如くに、皇孫をば筑紫の日向の高千穗の槵觸峯に到します。

其の猨田彥神は、すなはち伊勢の狭長田の五十鈴の川上に到る。即ち天鈿女命、猨田彥神の所乞(こはし)の随(まにま)に、遂に侍送(あひおく)る。時に皇孫、天鈿女命に勅すらく「汝、顕しつる神の名を以て姓氏(うぢ)とせむ」とのたまふ。因りて、猨女君の号(な)を賜ふ。故、猨女君等の男女(をとこをみな)、皆呼びて君(きみ)と為(い)ふ、此其の縁(ことのもと)なり。高胸、此をば多歌武娜娑歌(たかむなさか)と云ふ。頗傾也、此をば歌矛志(かぶし)と云ふ。

これは日本神話の中でも有名な一節で、まさに地に降りようとした瓊瓊杵尊の行く手に、眼力が強く恐ろしい形相の神が何やら待ち受けているではありませんか。そこで、瓊瓊杵尊は眼力では負けない天鈿女を使わして、その真意を問わせます。果たして、その神は猿田彦の神であり、瓊瓊杵尊を筑紫の日向の高千穂のクシフル岳(槵觸峯)に案内するため、待っていたことが判明します。

猿田彦の神が待っていた場所を、アメノヤチマタ(天八達之衢)と言い、猿田彦の名を聞き出した天鈿女は、猿田彦をその出身地である「伊勢の狭長田の五十鈴の川上」に送り、猿田彦の氏姓を取って猿女(サルメ)と改名します。これはおそらく猿田彦の妻になったことを意味するのでしょう。

猿田彦の神と言えば、この一節からか導きの神、案内の神として知られ、多くの神社では、特に参道の入り口付近に祀られることが多いようです。猿田彦を主祭神とする神社としては、

 ・三重県伊勢市の猿田彦神社
 ・三重県鈴鹿市の椿大神社

が有名です。中でも伊勢の猿田彦神社の宮司さんは、猿田彦の子孫とも言われる「宇治土公(うじとこ)」の姓を名乗っており、私がかつて現地を訪れた際には丁寧に由緒を説明して頂いたのを今でもよく覚えています。

画像1:伊勢の猿田彦神社
画像2:鈴鹿の椿大神社

■呪われた猿田彦

前述した通り、猿田彦の一節は日本書紀の本編ではなく、あくまでも参考資料としての「一書(あるふみ)」に記載された下りです。その割には、記述量が多くまた詳細に至り、筆者・編者の意図を推し量るなら、この一節が極めて重要だということが窺えます。なお、古事記においては、猿田彦の記述は書紀と同趣旨ですがもう少しあっさりしたものとなっています。

私が最も気になるのは、神の名に「猿」という獣(けもの)辺の字を当てていることです。獣は人(霊止=ヒト)とは明らかに違い、人以下という認識で使われることが普通なので、神を寿(ことほ)ぐことを旨としている神道教義において神の名前に「猿」の字を用いるのは通常では考え難いことなのです。

もしも、「猿」の字を当てることに意味があるのなら、それは日本の呪術について多少心得のある自分にとって、次の理由しか考えられません。それは、

 神を呪っている

ということです。多くの神社で境内の隅っこの方に猿田彦が祀られているのも、「導き」とは言い訳で、実は同じような呪いの意味があるからかもしれません。

もちろん、私がここで意図する神とは、超自然的な神ではなく、おそらく実在していただろう神武天皇以前の人物のことです。つまり、大事な人物なので記録から消すこともできないが、その素性を正直に出す訳にもいかない、あるいは出られてはたいへん困る、そんな立場の人物であったことが想定されるのです。

■秀真伝に現れる猿田彦

ヲシテ文献の研究者、池田満さんは「ホツマ辞典」で猿田彦を次の様に解説しています。

サルタ・サルタヒコ・ミヲノカミ

八代、アマカミ・アマテルからカンタカラ(神器)を授かって、アメノミチ再興を託された人物。カクラオノコノキミの始祖でもある。チマタカミ・ツチギミ・シラヒケの別名もある。

 (中略)

サルタヒコの出自については、かなり高貴な血筋であると想像される。ナガタ(滋賀県高島郡内)生まれ、またミオノカミと褒め名を賜っていることなどからして、クニサツチノのヱノミコトの直系の子孫であろう、と筆者は推定する。

私が注目するのは、猿田彦が、初代アマカミ国常立大神の八人の皇子、その長子であるヱノサノサツチの系統ではないかと、池田氏が推察していることです。現在、ヱノサノサツチの血統がどうなっているのかは不明ですが、もしもこの家系が表に出たならば、

 現天皇家の在り方が大きく変わる

可能性があるのです。

そして、もう一つ注目すべき点は、猿田彦はミヲノカミ(またはミオノカミ)とも呼ばれており、ミヲ(ミオ)とは「三尾」、すなわち現在の滋賀県高島市安曇川町にある「三尾神社」の近辺ではないかと池田氏は推定していることです。

実は、重要なのはこの「ミヲ(ミオ)」が地名であることであり、池田氏がそれに気付かれたことで、私にとっても猿田彦の出自と天孫降臨との関係を解明する上で大きなヒントが得られたのです。

なぜ、私がそんなことにいちいち拘るのか?それは、1985年の123便事件の背後には、確実に猿田彦(あるいはヱノサノサツチ大神)への呪いが存在するからなのです。

 * * *

明日発行予定のメルマガでは、ミヲの地が本当はどこであるのか、池田氏とはまた違った視点で分析を試みてみます。

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