菊池と菊池一族

これまでに3回ほど熊本県菊池市、及び隣接する山鹿市の現地調査について記事にしています。そこで扱った内容を簡単にまとめると次の様になります。

 ・現在の菊池盆地はかつて茂賀の浦という湖であった
 ・鞠智城(きくちじょう)は百済移民の収容施設だったのではないか
 ・菊池川周辺は古代期から鉄の生産が盛んであった
 ・現地神社にみられるユダヤ文化の痕跡

これで、菊池という土地の様子が少しだけ見えてきたのですが、そうなると無視できないのが、その土地の盟主である菊池一族なのです。

■菊池氏は本当に藤原氏の末裔なのか?

菊池氏の由来をここで細かく記述しても、既にある書籍や他のWebサイトと同じになってしまうので省略したいと思いますが、当の菊池市の観光課がたいへん面白く分かり易い漫画ムービーのWebサイトを制作されていますので、ここを紹介することで説明の代わりとしたいと思います。

画像1:「まんがムービー風雲菊池一族」Webサイト
https://www.city.kikuchi.lg.jp/ichizoku/q/list/105.html

このムービーのプロローグ編では、平安時代に太宰府から藤原則隆(ふじわらののりたか)が同地を訪れ、この土地がたいへん気に入りその姓を「菊池」と名乗って定住したところから始まるとしています。

そして、終章では西暦1300年代の南北朝時代に、南朝に与した菊池氏の当主菊池武光(きくちたけみつ)が、後醍醐天皇の皇子である懐良親王(かねよししんのう)と共に北朝側の太宰府を攻め落とし征西府を樹立、後に北朝方に敗北するまでが描かれています。

基本的に中世史のことに私は不案内なのですが、このムービー解説で疑問に思うのが、藤原則隆がいきなり「菊池」と名乗ることで菊池氏が始まっていることです。それに加え、太宰府での職務を捨てて、いきなり良い土地だと思ったからそこに移り住むかのか?という都合の良い話への疑問も拭えません。

話の冒頭でいきなり龍が現れたのは古伝承におけるご愛敬だとしても、こんな簡単に後の大豪族となる菊池氏が誕生したとは到底信じる訳にはいきません。いくら高官であろうと、よそ者が突然人の土地にやってきて土地の人々がその支配下に入るというのもどこか不自然なのです。

菊池市内にある菊池神社には菊池一族の歴代当主が祀られていますが、境内には菊池神社歴史館なる資料館が置かれ、菊池一族ゆかりの宝物や文化財が展示されています。そこには巻物に記された家系図も展示されていました。

画像2:菊池神社
画像3:菊池神社歴史館内
画像4:藤原則隆の名が書かれた家系図
画像5:血統を遡れば当然こちらの人々に繋がります

これは私の推測なのですが、藤原氏のような名家の血筋を語ったのは、実は、中世の混乱期を生き残るために土着であるの菊池氏が取った高等戦略なのではないか?そうも考えられるのです。

ただし、この家系図が唯一の歴史伝承ですから、これを否定するとなると、またもや菊池氏の出自が分からなくなってしまうのです。

これまでの菊池関連記事で述べたように、菊池には弥生時代ごろから鉄生産を行ってきた形跡があり、地元の金凝神社には古代期の天皇である第2代綏靖天皇が祀られています。

比較的最近の鞠智城に至っても西暦600年台以前と推測されますから、藤原則隆の時代(西暦900年台)からみればいずれも数百年前の話であり、それまで同地を治めていた統治体が全くなかったとはちょっと考えられません。

ですから、私は菊池氏とは古代からそこを治めていた土着の一族であると予想するのです。そして、後に藤原の末裔と名乗ることが許され、南朝の懐良親王が身を寄せたところを考慮すると、おそらく中央政権にも知れた土地の名士、あるいは古代国の盟主であったのではないかと考えられるのです。

■菊池氏の出自を巡る仮説

菊池氏の出自については誰が言い出したのかよく分かりませんが、有名な仮説があるのでここではそれを紹介します。

 『三国志』の中のいわゆる『魏志倭人伝』と呼ばれている書の中に、狗古智卑狗という人物が登場します。狗古智卑狗は菊池彦ではないかという説が以前からありました。この事をもう少し詳しく考えて生きたいと思います。

 『魏志倭人伝』は、三世紀中頃の日本の事を書いた二千文字前後の文章ですが、解釈の方法は何通りにも及び、長年に渡って論争が続いているのですが今だ結論は出ていません。結論が出ない一因として、情報の不正確さの問題があります。二千文字前後と述べたのもその理由からです。その原因の一つとしては、原本がなく転記された物をもとにしているからなのですが、大方の話の流れは正しいと思われます。間違いや不正確な小さな事を論争するより、正しいと思われる情報の精度を高めていく事の方が重要だと思われます。

 『魏志倭人伝』には、女王国(邪馬台国)の連合の国々(三〇カ国)と狗奴国が長年に渡って戦争を続けてきた事が書かれています。女王(卑弥呼)は狗奴国との争いを有利にする為に魏に使者を送り、応援を求めましたが、魏の使者が日本に来た時には卑弥呼は死んでいました。卑弥呼が死んで国が乱れた後、台与(壱与)が新たな女王となり、魏に朝貢したと書かれています。狗奴国との争いがいつまで続き、どう結着したのかは書かれていません。

 狗奴国は女王国の南にあり、王がいて、官に狗古智卑狗がいたと書かれています。魏の使者は、当時の日本人に名前を聞いて、同じ発音をする漢字を当てはめていったのだと思われます。

 漢和辞典で狗古智の読み方を調べてみると、狗は漢音でコウ、呉音でク、古は漢音でコ、呉音でク、智は漢音も呉音もチと呼びます。そうです、呉音で続けて読むとククチとなるのです。しかし、ここで問題が一つあります。同じ発音の文字をなぜ二種類も使用したのでしょうか。不弥国の所に登場する官の名称は弥弥と連続して同じ文字を使用しています。同じ発音を表すだけならば、狗狗もしくは古古で良かったのではないでしょうか。そう考えるとクコと読むのが自然なのですが、この時代の中国の人が漢音と呉音をどう使い分けしていたのかを調べる必要があると思います。

 卑狗については、対馬国や一支国の官の名称の所にも登場しており、恐らく当時の日本人が使用していた尊称の彦にあたると思われます。彦のつく名は『記紀』の中に非常に多く登場します。『古事記』では、比古、昆古、日子、彦と書き、女性の神様は比売と書きます。ニニギの時には、名前の前に日高日子と続けて使用されています。「日本書紀」では一貫して彦と媛の文字を使用しています。

 『魏志倭人伝』と『記紀』の間には接点はないとされていますが、卑狗と彦が同じ事を意味していたならば面白いことだと思います。話をまとめますと、邪馬台国の南に狗奴国があり、邪馬台国と対立していた。狗奴国には王がいて、その下に狗古智卑狗という官がいた。狗古智卑狗の読み方は、クコチヒクと思われる。クコチはククチ=久々知=鞠智=菊池という人物の事で、卑狗は彦ではないかという推論が成り立つという事です。

 狗古智卑狗の事を菊池彦だと考える読は、邪馬台国九州説の方に多く、早稲田大学の水野祐先生の説などが有名です。しかし、邪馬台国畿内説だとしても狗古智卑狗の事を菊池彦と考えてもおかしくないと思います。

引用元:渡来人研究会 菊池秀夫氏の論文から https://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/r-kukuchi1.htm

この論文の著者は断定こそしてませんが、魏志倭人伝に記述されている狗奴国の官僚「狗古智卑狗」の発音から、それが菊池氏のルーツではないかと推測しています。

そして、魏志倭人伝の該当部分には次の様に書かれています。

原文:
 其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里

読み下し:
 その南に、狗奴国有り。男子が王と為る。その官は狗古智卑狗有り。女王に属さず。郡より女王国に至るは、万二千余里なり。

訳:
 その(女王国の)南に狗奴(コウド、コウドゥ)国があり、男子が王になっている。その官に狗古智卑狗(コウコチヒコウ)がある。女王には属していない。帯方郡から女王国に至るには、万二千余里である。

引用元:東亜古代史研究所 塚田敬章氏のページより https://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm

あくまでも古語の発音に頼った推論なので、これだけでは何とも言えないのですが、少なくとも、藤原則隆を起源とする菊池一族の説よりは説得力があるのではないかと私は考えます。

そうなると、菊池秀夫氏が述べるように邪馬台国九州説が俄然有力となってくるのですが、まだ記事にしてないものの、魏志倭人伝を古代の尺度で厳密に読むとそこが九州の阿蘇周辺、宮崎県から大分県の辺りに該当することで私も調べがついています。

そして、女王卑弥呼の正体を追った過去記事「ダリフラのプリンセスプリンセス」では、卑弥呼とは名前を変えられた神武天皇の双子の皇后、タタラヒメとイスズヒメの祭祀を受け持つ側の皇后ではないかとも予想しています。

また、神武天皇の移動伝承は何故だか福岡県の筑豊地方に集中しており、ここから神武天皇は九州で即位したのではないかという九州王朝説を私は有力視しているのですが、女王国(神武祭祀皇后の関係国)に神武天皇の支配地域である福岡まで含めると想定すれば、その南に位置するという狗奴国が現在の菊池市あってもそれほどおかしくはないのです。

如何せん、物証が絶対的に不足しているので断定はできませんが、邪馬台国が神武国であったとすれば、邪馬台国九州説及び九州王朝説の両方で辻褄が合ってくるのです。そしてその仮説をより鮮明にするのが狗古智卑狗の存在なのです。

かつて神武王朝と敵対していた狗奴国の末裔が、南北朝に割れた大和朝廷の南朝側と手を結んだ。この辺りに懐良親王を菊池に送り込んだ南朝後醍醐天皇の意図があったのではないかと思わず想像を巡らせてしまうのです。


聳え立つ不動の岩の守り手は今も眠らず湖(うみ)を見守る
管理人 日月土

菊池盆地に残るユダヤの痕跡

これまで、「菊池盆地と古代」・「菊池盆地の大遺跡と鉄」と、6月に訪れた熊本県の菊池盆地内の史跡について現地調査レポートを紹介してきました。

今回もその続きになりますが、単なる歴史探訪記で終わってもつまらないので、今回は、現地で見つけた史跡について、極めて個人的興味から気になったもの、面白そうなものを特に取り上げてみたいと思います。

始めにお断りしておきますが、ここで述べられていることに学術的な裏付けはほぼないばかりか、かなり主観的な思い込みも含まれていますのでご注意ください。

■高橋八幡神社:鞠智城との中継点か?

最初に紹介するのは、山鹿市鹿本町高橋にある「高橋八幡神社」です。八幡神社なんて全国どこにでもあると思われるかもしれませんが、この神社には古代史ファンが表現するところの「ユダヤ」的要素が多分に見られるのです。

画像1:神社内から鳥居の外側を見る

いきなり神社の外の風景を見てもらったのは、神社が置かれた土地の地形についてイメージを持って頂きたいからです。

写真を見ればお分かりになるように、鳥居に向かう道路は東南に向けて少し下っており、その先の少し低くなった土地に畑と水田が広がっています。更にその先に菊池川の支流である上内田川が流れているのですが、ここから、神社が川面よりも数メートル高い所にあるのが分ります。

こんな風景は珍しくないかもしれませんが、ここで「菊池盆地と古代」で書いたように、上の写真で畑として写っている低い土地は、古代期に存在したと言われている巨大湖「茂賀の浦」の水面下であった可能性が認められるのです。

神社の由緒によると「1191年に宇佐八幡宮の分霊を勧請した」のが神社の始まりとありますが、この地形を見て最初に想像されるのは

 この神社は元々船着き場だったのではないか

という点なのです。もちろん、茂賀の浦がまだ水を湛えた頃の話です。

現在は海岸線の位置がずい分と後退したこと、また干拓などで耕作地を広げたことにより、今では内陸の神社と思われている多くの神社が実は古代期、遅くは中世期位までは海辺の神社、すなわち人の集まる船着き場や見張り台として公的な機能を有していたと考えられます。

神社に灯篭があるのも、夜の参道を照らす灯りと言うより、当初は沖合の船に船着き場を知らす灯台の役割があったとも考えられるのです。

この点を考慮すると、高橋八幡神社は神社として今の形態を取る前は、茂賀の浦の船着き場であったと同時に、人が集まることから湖上の安全航行を祈願する場所であったとも予想されるのです。

この高橋八幡神社の鎮座する小高い丘は、地図上でその位置を確認すると次の様になります。

画像2:高橋八幡神社と鞠智城跡
両者は茂賀の浦を挟んで互いに対岸に位置する

画像2を見ると、高橋八幡神社は鞠智城から茂賀の浦の入り江を船で西に渡る最短地点にあり、鞠智城が西暦600年代後半位からそこにあったと考えられているので、やはりここが鞠智城と西の陸路を結ぶ船の接岸地点であったと見なすのが適当なのではないかと私は予想します。

■高橋八幡神社に見るユダヤの痕跡

さて、この高橋八幡神社なのですが、一部の歴史ファンの間では古代ユダヤと何か関係あるのではないかと注目されている神社なのです。それは、由緒書き云々やそこに祀られている祭神とは全く関係なく、賽銭箱の正面に描かれた次の神紋から窺えるのです。

画像3:高橋八幡神社の神紋

この神紋は国内でも非常に珍しく、円天角地十字剣紋または十字剣紋と呼ばれているそうですが、これを旧約聖書に登場するモーゼが掲げた紋章であると解釈し、古代日本とユダヤの繋がりを示すものであると考える方もいらっしゃるようです。

海外サイトでモーゼの紋章について書かれているものをネット検索してみましたが、私が調べた限りではこの神紋に近いものは見つかりませんでした。むしろ、中世のテンプル騎士団が使っていた十字紋章の方がそれに近いと思えるのです。

画像4:テンプル騎士団の紋章

今回の調査では、たまたま外出するところの宮司さんにお会いできたので、急いでいるところをたいへん申し訳なかったのですが、この神紋の言われについて尋ねることができました。その答はほぼ予想していた通りだったのですが、

 ”実はよく分からないのです”

というものでした。

この神社には、神紋の他にもう一つユダヤ的要素を示す特徴があります。それが次に掲げる画像5の写真です

画像5:ユダヤブルーに塗られた壁

屋根と庇の間の外壁が緑に近い青、青緑とでも呼ぶべき色に塗られていますが、私や同じく古代史に興味を抱いている仲間の間では、この色のことを勝手に「ユダヤブルー」と呼んでいます。

それというのも、古代ユダヤとの繋がりを感じる日本国内の史跡には何故かこの色が多用されているのをこれまで多く見て来ているからなのです。そして、この「青」という色は旧約聖書の中で次の様に書かれているのです。

また、エフォドと共に着る上着を青一色の布で作りなさい。

出エジプト記 第28章31節

旧約聖書の中では何も青色に限らず、他の色の記述もあるのですが、この一節は司祭の服装に関する規定の中に登場するもので、ユダヤ社会においては青色がとりわけ神聖な色として取り扱われていることが、ここから窺えるのです。

実際にそのユダヤ的思想は現代のイスラエルの国旗の色に現れています。

画像6:ご存知イスラエル国旗

中心は古代ユダヤ王ダビデの紋章、そして上下の青色の帯はパレスチナの空の色、あるいは聖なる青色のタリート(肩掛け)を表していると言われています。とにかくこの国は青色を極めて好む国だと言うことはできそうです。

■本当にユダヤ起源なのか?

私たち日本人は、十字形の物を見ると直ぐにキリスト教の十字架を連想し、そこから直ぐに西欧的なものとの繋がりを感じてしまうようです。もちろん、現代社会ではそれが自然な感性なのでしょうが、実は十字形もダビデの星(六芒星)も古代陰陽道の思想で説明可能なのです。

高橋八幡神社の神紋については、各パーツに分けると個々について陰陽道的に次の様に説明することができます。

画像7:陰陽道における火水(ひみつ)の原理

このように、この神紋を解釈するに当たって必ずしも西欧的ユダヤ思想に依る必要もないのですが、別の捉え方をすると

 古代陰陽道とユダヤに見られる共通性はどうしてなのか?

という新たな疑問が生じるのです。

日猶同祖論は、一方的に大陸からユダヤ氏族が日本に訪れたことを前提として論じられますが、シンボルに見られるこの奇妙な共通性はユダヤ思想由来と断じてよいのか私は大いに疑問に感じます。

何故なら、陰陽道的解釈の方がはるかに原理的解釈において緻密であり、文化伝来の方向性を考慮するならば、原理解釈として劣化が見られるユダヤ的解釈(カバラ)を陰陽道の起源と考えるのは無理を感じるからです。

もしかしたらユダヤ思想とは日本を起源としているのではないのか?私はその可能性も残しておくべきだと思うのです。


  * * *

今回は熊本県山鹿市の高橋八幡神社に見られるユダヤの痕跡についてレポートしましたが、それを言うならば、鞠智城に大量に入植してきただろう百済人とユダヤとの関係、そして魏志倭人伝に登場する狗奴国王クコチヒク(菊池彦?)とユダヤの関係も無視できないトピックとなってきます。

何より、この地に入り込んだ古代祭祀一族(呪術者一族)である日置氏とユダヤの関係も精査していかなければならないのです。



青の神出ずるこの時何をか語らん
管理人 日月土

菊池盆地の大遺跡と鉄

今回も、前回記事「菊池盆地と古代」の続きとして、先月6月に訪れた熊本県北部の菊池川流域における現地調査についてご紹介したいと思います。

いわゆる当地の遺跡スポットを訪ねたのですが、遺跡そのものの学術的な説明は、浅学な私などよりも書籍や専門サイトの方が圧倒的に詳しいので、ここでの記述は大幅に省略させていただきます。

今回は、当地の雰囲気をお伝えすることで、読者の皆様が現地を訪れ、ご自身の目で直にこの歴史的に重要な場所を見てみたいと関心を持っていただくことを一番の目的としています。


■多様な出土品と鉄器-方保田東原遺跡

調査2日目、私はまず熊本県山鹿市にある方保田東原遺跡(かとうだひがしばるいせき)へと向かいました。弥生時代後期から古墳時代後期の遺跡と言われ、その出土品の種類と数量は国内でも屈指の規模です。

画像1:方保田東原遺跡と地形(Google)
菊池川流域の台地の上にある

実はこの遺跡、これまでに数十回の発掘調査が行われてきたとされていますが、発掘されたのは土地面積全体の5~6%でしかなく、それにも拘わらず全国屈指と言われる出土品が見つかっているのです。

画像2:方保田東原遺跡の案内板
画像3:方保田東原遺跡の全景

現在でも民家や畑が周囲に残り、生活者もいらっしゃるため、道路工事など地面を掘る際に少しずつ調査が進められているようなのですが、この10年間は殆ど進展がないようです。

全部とは言わないまでも、その半分でも調査が進めば、弥生後期の生活や文化がより鮮明に見えてくるのは間違いないと考えられるのですが、発掘予算も含め如何せんそのような事情があるので残念で致し方ないところです。

この遺跡の敷地内には、山鹿市営の「山鹿市出土文化財管理センター」があり、ちょうど開館していたので、そちらに立ち寄らせいただきました。

画像4:山鹿市出土文化財管理センター

現在、主な出土品の展示は山鹿市立博物館で行っているようで、こちらでは修復作業中のものが一部見られるだけなのですが、学芸員の方に発掘当時の様子や、出土品の整理状況などを詳しくご説明いただき、たいへん勉強になったことをお礼と共にここに書き添えておきます。

ここの出土品中で、最も特徴的かつ良く知られているのは、手持ちのついた「ジョッキ型土器」かもしれません。この現代陶器と比べてもそん色のない土器を見て、私の中で、これまでの弥生土器のイメージが大きく変わったのは間違いありません。

画像5:ジョッキ型土器

もちろん、他にも色々あったのですが、そちらについては山鹿市のホームページに写真が掲載されているのでそちらをご覧いただきたいと思います。

画像6:山鹿市ホームページから(鉄器)

こちらの出土品の中で私が一番興味を覚えたのは画像6でも示した鉄器です。と言うのも、古代において鉄の存在と言うのは文明の発展おいて大きな影響力を持っていたと考えられるからです。

そもそも、中世九州において菊池一族が強大な力を得たのも、菊池川から採れる砂鉄及びそこから鋳造される刀剣類の生産によると言われています。日本刀の名刀、同田貫(どうたぬき)も菊池が発祥であることは良く知られています。

また、前回記事でも触れた鞠智城と百済人の関係から考察すると、当時の先端製鉄技術を有した伽耶人たちが、白村江の戦乱を逃れるため百済人と共にこの地に入り、製鉄技術をここに残していったのではないかと、ついつい想像が膨らむのです。

そして、現在の菊池盆地が弥生・古墳時代までは茂賀の浦という湖水だったことを考え合せれば、その湖畔には当然のように葦が茂っていたはずで、鉄分を多く含む湖水の水草の根元には、高師小僧(たかしこぞう)という、褐鉄鉱(かってっこう)の塊が大量に沈着していたとも考えられるのです。

つまり、弥生時代より前からこの地で鉄が活用されていた可能性すら窺われるのです。

これまで見つかった鉄器の数量について、学芸員さんから次の数字を教えて頂きました

画像7:現在確認されている鉄器の数

遺跡の発掘はまだ数%しか進んでいないのに、既にこれだけの鉄器が確認されています。いったいこの土地と鉄はどのように結びついているのか、早い発掘作業が待ち望まれます。

■方保田の日置金凝神社

方保田東原遺跡のすぐ近くに日置金凝神社(へきかなこりじんじゃ)という神社があります。その名前が示す通り「金が凝り固まる」と、何か金属に関係する神社であろうとすぐに思い付くのですが、それ加えて気になるのが「日置」という、日本書紀にも記載されている「日置部」(ひおきべ)という官職名あるいは世襲一族の名がそこに冠されていることです。

この名前の登場で更に古代製鉄産業と同地の関連性が深まってくるのですが、それについては次回以降に改めて取り上げたいと思います。

画像8:方保田の日置金凝神社
画像9:日置金凝神社由緒書き

これまでの話と全く関係なくて恐縮なのですが、実はこの神社の調査を始めた時から自衛隊ヘリによる上空からの威嚇監視行動が始まったのです。


青草茂る菊池川のほとりにて
管理人 日月土

菊池盆地と古代

今月初旬、熊本県北部へ調査へと向かいました。同地への調査旅行は、2年前の11月に熊本県北部の山鹿市(やまがし)及び和水町(なごみまち)に出向いた時以来です。

 関連記事:トンカラリン-熊本調査報告 

今回の調査ではテーマを設定し、改めて同地を訪ねることにしました。それは、「菊池川流域の遺跡を訪ねる」というものです。

改めて説明するまでもなく、古代の人々の生活や社会活動は土地の自然環境に大きく左右されていたと考えられ、その当時の気候や地形がどうであったかを見極めるのが非常に大切になってきます。

これまでも、縄文海進時の海岸線を推測したり、今に残されている地名などからなるべく古代の地形を頭の中で復元した上で当時を推し量るように気を付けていたつもりです。

■菊池川流域は古代湖だった?

かつて博多と熊本の間を国道3号線を使って良く行き来していたのですが、山鹿・菊池付近を通る度いつも気になっていたことがあります。それは、

 山鹿・菊池一帯に広く平野が広がっている

というものです。

海続きの土地に平野が広がるのは珍しい事ではありませんが、熊本から福岡方面に向かう際、熊本市の北部にある丘陵地帯を走り、植木付近の小山の間を抜けると、いきなりこの平野が目の前に広がるので、何でこんな開けた空間が内地の高台にあるのか、以前から不思議に感じていたのです。

菊池盆地、あるいは山鹿盆地とも言うらしいのですが、その地形の全容は国土地理院の地形図からもはっきりと窺えます。

画像1:菊池盆地 起伏が殆どない

盆地の標高は26m程度でそれほど高いとは言えず、台地の上にこれだけの盆地が広がっていると言うのも何か不思議な感じがします。

この盆地の中を菊池川が東西に走っているのですが、その流域の高台には方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡という、全国的に知られた弥生時代の大集落跡があります。また、菊池寄りの川の北側の山裾には、続日本紀に記述された鞠智城(きくちじょう)と推定される、600年代末頃の築城跡が見つかっており、現在は建物の一部が復元され、その独特の容姿を見せています。

さて、この高台の上に現れた平野の成り立ちについては、Wikipediaの「菊池盆地」の項に非常に興味深いことが書かれています。

約9万年前から弥生時代頃まで「茂賀の浦」(もがのうら)と呼ばれるサロマ湖に匹敵する巨大湖があったが、そこが干上がり肥沃な盆地となったといわれる。11世紀初頭になってやっと豪族が土着し、菊池氏を名乗り、有力化して中世に活躍した。

URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E9%B9%BF%E7%9B%86%E5%9C%B0

要するに、弥生時代(西暦200年代)までこの盆地が湖水の下にあったと言うのですが、それならば、見渡す限り一様に開けたこの土地の地形にも合点が行きます。方保田東原遺跡の大集落に暮らした古代人も、おそらく当時は湖畔の住民であったのでしょう。

問題なのは、どうして湖水が忽然と消えて無くなってしまったのかなのですが、一般には自然に水が引き始めたというのが定説の様です。しかし、歴史アドバイザーのG氏は次の様に推測します。

茂賀の浦は土木によって水が抜かれたと考えられます。水田などの耕作地を作る為、古代期にはこういう水抜き工事が全国で行われていた形跡があるのです。

湖岸の土が薄い箇所を反対側から少しずつ削っていくと、ある時点で湖水の水圧で湖岸が自然に決壊し、そこから一気に湖水が流れ出す。

現在の山鹿市から玉名市海岸までの菊池川下流は、茂賀の浦から流れ出た水が谷を下って作り出したものと考えられます。

by G氏

もしも、G氏が語るように人工的に水が抜かれたとするなら、これは大土木工事であり、弥生時代から古墳時代にかけてのこの頃には、このような高度な土木技術が既に存在してたとも考えられます。

そして、古代期における湖水の存在抜きには、菊池盆地周辺の本当の古代史も見えてこないのだと、しみじみと実感したのです。しかしながら、現地の博物館や資料館の学芸員さんにこの茂賀の浦について尋ねてみたのですが、残念ながらその存在をご存知だった方はいませんでした。

次に当時の湖水を抜いた場所だと考えられる、岩野川と菊池川の合流地点である山鹿市の鍋田に向かい現地を視察してきました(画像1の赤線部分)。ここは、以前お知らせしたチブサン古墳にも近いところです。もしかしたら、この古墳が造営された当時にもまだ湖水はあったかもしれません。ならば、ここに眠る王も湖畔の住民だった可能性があります。

 関連記事:チブサン古墳とトンカラリンの小人 

画像2:山鹿市鍋田 茂賀の浦の湖水を抜いた場所か?

河川整備された現在の様子から当時の地形を想像するのは難しいのですが、玉名方面に向かって緩やかに傾斜する谷間の地を、水抜きポイントに選んだ古代人技術者の頭にどのような情報が詰め込まれていたのか、それを想像するだけで当時の人々について思いが巡ります。

■鞠智城:これが大和朝廷の城なのか?

さて、以上までは菊池盆地の全体感をお伝えしたものですが、ここから私が訪れた菊池川周辺の遺跡について述べていきたいと思います。多くの場所を見てきたので、まずは当地の代表的な遺跡、鞠智城を見てみましょう。

画像3:再現された鞠智城

ちょっと驚くのは、このお城、どう見ても日本の建築のようには見えません。そもそも鞠智城とはどういうものなのか、「鞠智城と古代社会」という熊本県教育委員会から出されている論文があったので、そこから該当部分を抜粋してみます。

それでは、鞠智城についての基本的な史料について確認しておきたい。鞠智城についての初見記事は、『続日本紀』文武天皇二年 (六九八)五月条にみえる、大宰府によって大野、基肄の二城とともに繕治されたという記事である。

この記事は、鞠智城のいわば繕治記事にあたるもので、直接鞠智城の築城を示す記事ではない。しかしながら、七世紀後半に東アジアの情勢が緊迫するなか、鞠智城はそれに対応する形で築城されたものと考えられる。

当該期、日本は白村江の敗戦により火急なる対外防衛整備の必要性が求められた時期であった。すなわち、鞠智城も他の古代山城と同様に、外的防衛の意識をもって築城された城であったと考えられる。

このように、築城当時の鞠智城は、その目的のひとつに対半島情勢に対する防衛意識があったと考えられる。しかしながら、先行研究でもすでに言及されているように、次に再び鞠智城が対外防御の観点から注目されるようになるのは、九世紀に至ってのことである。

「 鞠智城と古代社会 」 本県教育委員会

お城というくらいですから、国土防衛の意図があって造られたのではないかと最初に想像してしまうのですが、文中にあるように、続日本紀にある記述は「繕治」(ぜんち)、即ち「補修」の対象になったということだけで、記載の同年に同城が建設されたことを意味していません。

推測として、663年に白村江の戦いがあったとされる中で、おそらく唐・新羅軍の九州への進撃を避けるために、敗退の直後くらいから対外防衛拠点としてこの城を築いたのだろうという推測が一般的には成り立ちます。

しかしです、画像1を見れば分かるように、鞠智城はあまりにも内陸に入り過ぎていて、大野城や基肄(きい)城のように明らかに博多湾からの上陸を阻止するために築かれた朝鮮式山城とは立地があまりにも異なります。

それにも増して画像3の示す建築様式は朝鮮式であり、一般的に言われる大和朝廷が造営したものと考えるのは少々無理があるように見えます。また、この見張り台のような建築物の周囲には多くの倉庫と思われる、高床式の建物が築かれていたようです。

画像4:復元された高床式の倉庫

上記論文を読むと鞠智城の建設目があくまでも「対外防衛拠点」、あるいはそれに準拠した目的に拘っているようなのですが、G氏はこの鞠智城に関して次の様な仮説を立てています。

白村江の戦の後、一般人を含め多くの百済人が日本に避難してきたはずです。国内をあまりうろうろされても困るので、当然、彼らをまとめて収容する施設が必要となり、その目的として鞠智城が建設されたのではないでしょうか?今風に言うなら難民キャンプということになります。

そして、なぜ内陸である菊池の山裾にキャンプを据えたかと言えば、当時はまだ茂賀の浦が残っており、山と湖水に阻まれて百済難民が自由に行き来しにくかったのもこの地が選ばれた理由だったのでしょう。

ここには百済難民のコミュニティが作られ、その中で朝鮮式の建築物が造営されていったと考えられるのです。

by G氏

ことの真偽はこれでけでは何とも判断できませんが、茂賀の浦という消えた湖の存在を考察に加えると、このような新たな考えも生まれるのだなと、私自身、この説には大いに感心してしまったのです。


* * *

今回は菊池川流域調査報告の初回と言うことでこの辺で筆を置きますが、次回以降も同じく菊池川に関わる報告をお伝えしたいと思います。この報告の中で、現地で遭遇したハプニング、陸上自衛隊ヘリに上空からしつこく追跡された件などもお伝えしたいと思います。


から国の民すまわれし丘の上水面に霞む遠きおや国
管理人 日月土

翡翠の姫と糸魚川

しばらく三重の話が続きましたが、今度はこの5月に実施した北陸、新潟県糸魚川市における現地調査についてお伝えしたいと思います。

とは言っても、北陸を訪れるのは数年振りで、調査として訪れたのはこれが初めてになります。よって土地の事情については不案内なので、私も知ったように深くは語れません。今回は、現地を訪れたレポートとして、糸魚川の地を総覧的にお伝えしたいと思います。

さて、糸魚川といえば、外の人間にとっては次の項目が比較的知られているのではないでしょうか?

 1. フォッサマグナの北西端
 2. 薬石で有名な姫川
 3. 翡翠の産地
 4.出雲神話に登場する奴奈川姫
 5.長者ケ原遺跡 

この内1,2は歴史テーマにあまり関係ないようですが、地形や地質がその土地に住む人々の生活環境を作ると考えれば全く無関係でないことは言うまでも無く、天然のラジウム鉱石と言われる姫川薬石がそこに存在するのも、当地の歴史的事情に何かしらの関与があるのかもしれません。

■フォッサマグナの不思議

フォッサマグナ(中央地溝帯)が何であるのかは他を参考にしていただきたいのですが、一般には、幅100km程度の新しい地層の帯が、本州のど真ん中を南北に貫いていると言われています。

画像1:フォッサマグナ(Wikiの画像を加工)

糸魚川は新しい地層と古い地層の西側の境界線の北端に当たり、両地層の接続面が観察できる地として知られています。

画像2:現地フォッサマグナパークで撮影した新旧境界面
左右で地層の色が異なる

フォッサマグナの生成プロセスについては一般にプレート理論による大規模な地殻変動が原因だと言われていますが、プレートの存在自体が証明されていないのにどうしてそんなことが言えるのかというのが私の立場です。

このフォッサマグナについては(真)ブログ記事「改めて問う、横田空域とは何なのか?」で、何故か在日米軍の管制空域と重なる不思議について触れています。

また、糸魚川より南の静岡から信州までの内陸に、何故か海にちなむ地名が多く見られる点について「アルプスに残る海地名の謎」で触れています。

一般論では数百万年前に海底が隆起して現在の新しい地層を形成したと説明していますが、その時の名残が現在の地名に残っているとでも言うのでしょうか?その答は分からないままではありますが、今は取り敢えず、糸魚川が地形・地質的にも特殊な場所の一つであるということは念頭に置いて良いと思います。

■糸魚川の翡翠

古墳から出土する勾玉や管玉など、日本全国で古代の翡翠加工品が見つかっていますが、その原石が全て糸魚川産であることは、古代ファンの間ではよく知られた話です。ファンならずとも、糸魚川で翡翠が採れることは有名でありご存知の方は多いと思います。

画像3:糸魚川の翡翠原石

実は昭和初期まで日本で翡翠が採れることはほぼ全く知られておらず、外国産だと思われていたと言うのですから驚きです。後の考古学の発展と、地元郷土史家の尽力によって、糸魚川が古代期における翡翠の一大生産地であったことが近代になって明らかになったのです。

たいへん興味深いのが、朝鮮半島など海外に輸出するまで広がった古代日本の翡翠産業が、奈良時代に突然衰退してしまったこと、それ以前の弥生時代中期に翡翠の生産が一旦止まった形跡があるなどが報告されていることです。

今でも同地の海辺や河原で見かけることもある翡翠が、なぜ1000年近く忘れ去られてしまったのか、この理由を考える始めると、祭具や宝飾として珍重される翡翠の性質から、必然的に当時の日本の政治・文化・信仰において何某らの大転換が起きたと考えざるを得ません。

その考察については今後の課題となりますが、これら「翡翠再発見」の経緯についてはWikiペディアの「糸魚川のヒスイ」に詳しいのでぜひそちらをお読みになっていただきたいと思います。

■縄文遺跡と翡翠

糸魚川には遺跡スポットが幾つもあるのですが、今回の調査では最も有名な長者ケ原遺跡を見てきました。

日本海を見下ろす小高い丘、いわゆる海に突き出た舌状台地ということになりますが、そこに広がる森林の中に同遺跡は残されています。まさに古代人が好んで住居を構える絶好の条件を満たしている地形だと言えるでしょう。

周囲には運動場や美山公園やフォッサマグナミュージアムも整備されており、現地にアクセスし易かったのも今回の調査では助かりました。

何と言ってもこの遺跡の特徴は、5~4千年前の縄文遺跡であるということ、そして、翡翠産出の土地よろしく、石器類に固く割れにくい翡翠を利用してるものが見られ、なおかつ翡翠工房跡も見つかっていることです。遺跡の詳細については私がくどくど書くよりは、原資料をお読みいただいた方が間違いないと思うので省略しますが、縄文時代の遺物に翡翠が含まれていることから、糸魚川の翡翠文化は数千年も続いたことが窺われます。

そこでやはり浮上してくるのが、その土地の生活に深く根付いていたはずの翡翠文化がどうして突然途絶えてしまったのだろうという、先ほどの疑問なのです。

画像4:長者ケ原遺跡の案内板
画像5:長者ケ原遺跡の復元された竪穴式住居
画像6:考古館に展示された長者ケ原遺跡の石器

■奴奈川姫と少女神

糸魚川には、天津神社と言う古い神社があり、その境内社に奴奈川神社が置かれています。祭神は「奴奈川姫命」です。この奴奈川姫は「沼河姫」という記述で古事記、先代旧事本紀に大国主命と共に登場します。

画像7:奴奈川神社
画像8:天津神社
主祭神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、奴奈川神社が後方に置かれている
ことに注目。おそらく天孫系、出雲系の力関係を示したものだろう

以下に、古事記に記載された該当部分の現代語訳を掲載します。

 この八千矛神(大国主命)が、越国のヌナカハ姫に求婚しようとして、お出かけになったとき、そのヌナカハ姫の家に着いて歌われた歌は、

 八千矛の神の命は、日本国中で思わしい妻を娶ることができなくて、
 遠い遠い越国に賢明な女性がいるとお聞きになって、
 美しい女性がいるとお聞きになって、
 求婚にしきりにお出かけになり、
 求婚に通いつづけられ、大刀の緒もまだ解かずに、
 襲(おすい)をもまだ脱がないうちに、少女の寝ている家の板戸を、
 押しゆさぶって立っておられると、
 しきりに引きゆさぶって立っておられると、
 青山ではもう鵼(ぬえ)が鳴いた。野の雉はけたたましく鳴いている。
 庭の鶏は鳴いて夜明けを告げている。いまいましくも鳴く鳥どもだ。
 あの鳥どもを打ちたたいて鳴くのをやめさせてくれ、
 空を飛ぶ使いの鳥よ。
  - これを語り言としてお伝えします。

とお歌いになった。そのときヌナカハ姫は、まだ戸を開けないで、中から歌って、

 八千矛の神の命よ、私はなよやかな女のことですから、
 わたしの心は、浦州にいる水鳥のように、いつも夫を慕い求めています。
 ただ今は自分の意のままにふるまっていますが、
 やがてはあなたのお心のままになるでしょうから、
 鳥どもの命を殺さないで下さい、空を飛びかける使いの鳥よ。
  - これを語り言としてお伝えします。

 青山の向うに日が沈んだら、夜にはきっと出て、
 あなたをお迎えしましょう。そのとき朝日が輝くように、
 明るい笑みを浮かべてあなたがおいでになり、
 白い私の腕や、雪のように白くてやわらかな若々しい胸を、
 愛撫したりからみ合ったりして、玉のように美しい私の手を手枕として、
 脚を長々と伸ばしておやすみになることでしょうから、
 あまりひどく恋いこがれなさいますな、八千矛の神の命よ。
  - これを語り言としてお伝えします。

と歌った。そしてその夜は会わないで、翌日の夜お会いになった。

引用元:講談社学術文庫 古事記(上) 次田真幸訳

これを素直に読むと、情熱的でかつ少々強引な大国主が奴奈川姫の元へ夜這いにきて、好意は受け入れつつもその時は大国主を家の中に入れようとしなかった姫の様子を描いていると捉えることができます。

毎度のお断りとなりますが、私は日本神話は史実を神話的ファンタジーに置き換えた一種の暗号文と見ているので、歌によるこの男女の交情シーンにも史実の解明に繋がる重要な鍵が隠されていると考えます。

その手掛かりの一つとなるのが、この訳文に出て来る「少女」で、原文には「嬢子(をとめ)」と記述されています。つまり、求婚された時の奴奈川姫はまだいたいけな少女であったと考えられます。

これは過去記事「少女神の系譜と日本の王」でも触れた、権力のある男性王が少女、それも特別な呪力を有する「神の御子(少女神)」を王権授与の証として求め訪ねる様と同じであり、古代王の記述の中に繰り返し登場するいつものパターンなのです。

つまり、今回取り上げた奴奈川姫も、ほぼ同時代の女性と考えられる栲幡千千姫(タクハタチヂヒメ)や木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)と同じように、同系の血を受け継ぐ少女神ファミリーの一員であった可能性は極めて高いと考えられるのです。

この奴奈川姫について、古事記・先代旧事本紀には書かれていないエピソードが、民間伝承として次の様に残されています。

【奴奈川姫の鏡】
 青海町の福来口(ふくがくち)に住んで居られた奴奈川姫は、出雲族に攻められ、夜しめ川(今の姫川)を渡り大野村に、秘蔵の鏡を埋めてかくされた。今の信用組合裏の地蔵さんの所だという。

【神社伝1】
西頚城(にしくびき)郡田海(とうみ)村を流るゝ布川の川上に黒姫山と云ふ山あり、奴奈川姫命の御母黒姫命の住座し給ひし山なり、山頂に石祠あり黒姫明神と称す、又黒姫権現とも云う、此の神こゝにて布を織り其の川の水戸に持出で滌曝(てきぼう)まししによりて布川と云ふ。此神の御歌に
 ここに織る此の荒たへはかの海の小島にいますわがせの御衣 と。

【神社伝2】
糸魚川町の南方平牛(ひらうし)山に稚子ヶ池と呼ぶ池あり。このあたりに奴奈川姫命宮居の跡ありしと云ひ、又奴奈川姫命は此池にて御自害ありしと云ふ。即ち一旦大国主命と共に能登へ渡らせたまひしが、如何なる故にや再び海を渡り給ひて、ただ御一人此地に帰らせたまひいたく悲しみ嘆かせたまひし果てに、此池のほとりの葦原に御身を隠させ給ひて再び出でたまはざりしとなり。

【神社伝3】
姫川の上流なる松川に姫ヶ淵と名づくるところあり、之れ奴奈川姫命の身を投げてかくさせたまへるところなりと。

引用元:糸魚川市公式HP https://www.city.itoigawa.lg.jp/dd.aspx?menuid=3790

これらを読む限り、大国主による奴奈川姫への求婚は、古事記の記述するようなロマンチックなものではなく、ほぼ強引に押し入られ、最終的に奴奈川姫は自害へと追い込まれたように読むことができます。

また、「神社伝1」では機織りと奴奈川姫の家系が紐付けられており、これは奴奈川姫が本来「布川」と書くのか、機織りに関係する姫であった可能性も示唆しています。数ある少女神の一人と考えられる栲幡千千姫の「栲幡(たくはた)」とはまさに機を織ることであり、ここにもまた奴奈川姫が少女神ファミリーの一員である痕跡がかすかに認められるのです。

さて、それでは翡翠と奴奈川姫はどう結びつくのか?それはこれまで登場した少女神とそれに関連する鉱物のストーリーを比較すれば自ずと見えてきます。

 サルメノキミ     → 丹生(水銀)
 タクハタチヂヒメ   → 琥珀、丹生
 コノハナサクヤヒメ  → ?
 ヒメタタライスズヒメ → 鉄

要するに

 ヌナカワヒメ  →  翡翠

となり、どうやら少女神の重要性とは、古代社会において最も重要な「鉱物」と何か関連付けられていた可能性が高いのです。

そう仮定すれば、大国主は翡翠の何を求めて奴奈川姫に近づいたのか、それがまた大きな問題となってくるのです。

※今回の調査中に遭遇した異変と最近の記事との関連性についてはメルマガで詳しくお伝えしたいと思います。


雪解けの花咲く丘に眠られし目覚めの時ぞと姫に語りぬ
管理人 日月土

古代鈴鹿とスズカ姫(3)

今回は4月に三重県鈴鹿市内の史跡を調査した3回目の記事となります。

これまで、鈴鹿(スズカ)という地名から、同地の名が付けられたスズカ姫、すなわち記紀の神代記に登場する「タクハタチヂヒメ」についてその痕跡を追ってきた訳なのですが、何度もお伝えしているように、この方はシブリ映画「千と千尋の神隠し」で主人公「千尋」のモデルとなった歴史上の人物(*)であると推定されるのです。

*歴史上の人物:一般に日本神話の神様として扱われていますが、本ブログではそのような人が勝手に思い描いたファンタジーに付き合うつもりはありません。むしろ、神話とは史実を婉曲に表現するための暗号的記法であると捉えています。

鈴鹿市内の椿大神社(つばきおおかみやしろ)に祀られているスズカ姫、そして秀真伝(ほつまつたえ)に伝承によると、スズカ姫は鈴鹿峠の近くに葬られたと言われています。どうやら、鈴鹿とスズカ姫の間にはやはり深い関係があるようなのです。

■鈴鹿に残るコノハナサクヤ姫伝承

椿大神社にはスズカ姫の他に、サルタヒコの妻とされるサルメノキミ(アメノウズメ)も祀られているので、都合二人の姫君がこの地に関係していると考えられます。

そして、ほぼ同時期の姫君で、ニニギノミコト(秀真伝では第10代アマカミ)の后(きさき)であるコノハナサクヤ姫もこの鈴鹿に縁があると秀真伝には記されているのです。

秀真伝研究家の池田満さんの解説をここでご紹介しましょう。

 十代アマカミの弟の方の二二午ネのキサキとなったヒメの讃え名。コノハナサクヤヒメのイミナ(実名)はアシツヒメという。

 アシツヒメは、オオヤマスミ家の三代目カグヤマツミと夕キコヒメ(ヱツノシマヒメ)との間に生まれた。夕キコヒメは、アマテルカミの娘である。アシツヒメは、十代アマカミとなる二二キネのキサキに上るが、一夜にして身寵ったため、妬む人たちによって放たれた讒言により、ニニキネに疑いの心を抱かせてしまう。悲嘆にくれたアシツヒメは、帰途の途中にサクラの樹を植えた。

 正種ならば、子を産む日に咲くべしと誓っての植樹である。そして富土山南麓のサト(実家)に帰って、旧暦の6月1日(現往の暦では7月15日前後)に三つ子の男の子を産んだ。この日、植えたサクラは見事に花を咲かした。このことから、二二キネの疑いも晴れた。このサグラは、現代にも植え継がれて、三重県鈴鹿市寺家の比佐豆知(ひさつち)神社に植わっていて、白子の不断桜(ふだんざくら)として著名である。比佐豆知神社は木花開耶姫を祭神としていて、比佐豆知とは、ミコの生まれた日に奇しくもサクラが咲いたことを表わしている。

 コノハナサクヤヒメは、富士山の山中に入って亡くなったため、アサマノカミの謚号(おくりな)が贈られた。浅間神社の名称の元であるアサマは富土山の別称。

池田満著 ホツマ辞典より (※ニニキネ = ニニギノミコト)

またしても神話化された姫君が鈴鹿に登場!?こうなると、今回の調査でもこの比佐豆知神社は外せないと考え、現地へ向かうことになったのです。

画像1:比佐豆知神社
祭神は五十猛命 他だが伊勢国史などでは木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)の名も

近鉄名古屋線からほど近い所にある比佐豆知神社は、その窮屈な敷地の作りから、元々は隣に並ぶ子安観音寺の境内と一体であっただろうと見て取れます。おそらく、明治の神仏分離令により、お寺と神社の間に仕切りの壁が作られたのでしょう。外見がどちらかというとお寺ぽいのも、その名残だと考えられます。

さて、件の「不断桜」は神社側の敷地内にはありません。お隣の子安観音寺の敷地に移動する必要があります。比較的広々とした駐車場の片隅にその桜の木はありました。

画像2:不断桜

これを見てすぐに思ったのが、この枝ぶりでは、コノハナサクヤ姫が居たと思われる、およそ二千年前に植えられた樹木にはとても見えないというものです。

それは仕方ないとしても、側に掲げられている説明板を読んでもコノハナサクヤ姫のコの字もそこに見当たりません。

ちなみに説明板には次の様に書かれています。

             天然記念物不断桜
                       大正十二年三月七日国指定
                           白子山子安観音寺

この桜は、里桜の一種で四季を通じて葉が絶えず、聞花期も春秋冬に及ぶのが特長です。

永禄十年、連歌師 紹巴が、東国に下ったときの紀行富士見道記 に「白子山観音寺に不断桜とて名木あり」と配され、また観世流の貞享三 年版にある「不断桜」もこの桜をうたったもので古来より全国に有名です。

また当山の縁起によれば、天平宝字年中雷火のため焼失した伽藍跡に芽生えた桜と伝えられ本尊白衣観世音の霊験によって咲くとして尊ばれています。

なお不断桜の虫喰い葉の巧妙な自然の紋様に着目して伊勢型紙が創られたという由来があります。 

鈴鹿市教育委員会
鈴鹿市観光協会

よって、現地で秀真伝の伝承を確認することは不可能なのですが、ただし、言葉は悪いのですが、こんな大したこと無さそうな地方の桜の銘木に、どうして国指定の天然記念物認定が下りたのかがかえって不思議に思われます。

そして、再び神社に戻って良く見ると、気になる点が幾つか見受けられました。

画像3:人型の紙垂(しで)
画像4:鬼瓦の配置
写真右の壁と植栽で仕切られているが社殿は不断桜を向いている

お寺風の建築様式以外には目立った特徴のない神社ではありますが、普通の紙垂の他に、人型の紙垂が幾つか下げられていたのには目が留まりました。

立派な鬼瓦も、お堂か何かの解体時に出たものを境内の装飾として置いたように見えますが、実はどちらも

 呪術の形式

を踏襲したものなのです。

これはあくまでも私の見立てなのですが、これらをやってる神社は何かを強く封印していると考えられるのです。

その対象がいったい何なのかは判然としませんが、もしかしたらコノハナサクヤ姫の伝承と関係があるのかもしれません。そして、強い封印術をかける必要があるほどの重要物がここにある(あった)のなら、不断桜が国指定を受けたのも、何となくですが理解できるのです。

それ以上のことは特に何も見つけられず、この場所の調査で私が出来た事と言えば、所定の作法に従ってこの封印術の解除を行ったことくらいでしょうか。

■伊勢国と少女神

日本書紀によると、伊勢に天照大神が祀られるようになったのは、第11代垂仁天皇の第四皇女である倭姫(やまとひめ)が畿内各地を巡り、最終的に辿り着いたのが伊勢の地であったと言います。いわゆる元伊勢伝承です。そして、神話における天照大神が女神であることはもとより、ここでもまた「姫」が出てきたことはたいへん興味深いことです。

さて、今年の4月の記事「少女神の系譜と日本の王」では書籍「少女神 ヤタガラスの娘」を紹介しました。同書に関連し、この記事では、古代天皇の権威とは、特定の女系家族出身の少女を娶る(あるいは入婿する)ことで与えられていたのではないかと考察しました。

そして女系継承の話と「姫」伝承だらけの鈴鹿を含む伊勢地方の話がここでにわかに繋がってきます。

伊勢神宮と言えば、天皇家も参詣し、日本中から参拝客が詣でにやって来る、まさに神社の中の神社と言うイメージが一般的かと思われますが、実は日本書紀には次のような記述があります。

 三月三日、浄広肆広瀬王・直広参当麻真人智徳・直広肆紀朝臣弓張らを、行幸中の留守官に任ぜられた。このとき、中納言大三輪朝臣高市麻呂は、職を賭して重ねて諌め、「農繁の時の行幸は、なさるべきではありませぬ」といった。六日、天皇は諌めに従われず、ついに伊勢に行幸された

講談社学術文庫 日本書紀(下) 現代語訳 宇治谷孟

実はこれ、第41代天皇の持統天皇(女帝)が周囲の反対を押し切って伊勢国に行幸したという下りなのですが、およそ西暦700年代のこの時から明治に入るまでの千年以上、天皇は伊勢神宮に参拝などしていないのです(非公式はあるかもしれませんが)。

日本書紀の他の記述を見ても、伊勢に派遣する人物は皇女や女官など女性の斎王ばかりで、まるで天皇本人やその周囲が伊勢への参拝を拒んでいるようにすら思えるのです。そして、持統天皇は女帝であり、女性であればこそ伊勢国への行幸が可能であったようにも取れるのです。

ですから、

 伊勢神宮を中心とした神道は明治期に作られたもの

と考えるべきで、現在一般的に信じられているような伊勢神宮を頂点とする神道体系は本来あるべき日本の姿ではないとも言えるでしょう。

問題なのは、何故に伊勢には「姫」伝承がこんなにも集中するのかなのです。

画像5:伊勢湾を巡る姫神達
縄文海進期の予想海岸線で描いており、岐阜が湾の最奥部となる

上の図には「ヤタガラスの娘」でも紹介されている、愛知県豊田市の香良須(カラス)神社を加えていますが、現地を細かく調査すればこの他にも史書に登場する女神と関連する神社や史跡は他にも沢山あるだろうと予想されます。

以上から、古代伊勢国とは皇后輩出家系が治める国であり、その成り立ちは大和国や出雲国とはまた別のものであった。そして、その家の力を得て初めて天皇は日本の王として存立できる条件を得られた・・・そのように考えられるのです。

この予想を現代の状況にまで拡大すると、

 古代女系氏族を押さえることが日本を押さえること

に等しいと解釈できます。そうであればこそ、スタジオジブリが執拗に実在しただろう古代少女神をそのキャラクターのモデルに採用し、なおかつそれを呪う描写を表現し続ける理由も見えてくるのです。


吾が君の胸にこぼれし志摩の真珠
管理人 日月土

古代鈴鹿とスズカ姫(2)

前回の「古代鈴鹿とスズカ姫」では、三重県鈴鹿市が非常に古代遺跡の多い土地であることを簡単にご紹介しました。

しかし、全国に数ある遺跡地帯に比べるとその認知度はあまり高いと言えません。私も最近になって調査を始め、初めてこの事実を認識するに至りました。

一般的に鈴鹿の歴史スポットと言えば、観光パンフレットにもあるように、市の北西部、鈴鹿山脈の麓にある椿大神社(つばきおおかみやしろ)を思い出す方がほとんどでしょう。ここは、10年位前にスピリチュアリストの故船井幸雄氏によってパワースポットとして紹介されたことで多くの人に広まったと聞いています。

画像1:観光パンフレットに紹介された鈴鹿の歴史スポット

前回はこの有名ポイントについて殆ど触れていなかったので、まずは椿大神社についてご紹介したいと思います。

■猿田彦大神の社に祀られたスズカ姫

この4月に訪れた時はあいにく雨にたたられ、あまり良い写真が撮れませんでした。以下掲載する写真は、昨年10月に現地を訪れた時のものであるとお断りしておきます。

画像2:椿大神社の参道入口

椿大神社本殿に向かう参道の鳥居の前に立つと、大きく育った木が参道を挟み、そこそこ厳かな雰囲気を醸し出しています。

画像3:椿大神社の御祭神

撮影日は日差しが強く、画像3の御由緒書きが良く読み取れません。ここに祭神の名を書き出すと次の様になります。

 主祭神 猿田彦大神 (さるたひこおおかみ)
 相殿神 皇孫 瓊々杵尊 (ににぎのみこと)
     御母 栲幡千々姫命 (たくはたちちひめのみこと)
 前 座 行満大明神 (ぎょうまんだいみょうじん)

はい、既にここで、本ブログで行ってきたアニメ映画「千と千尋の神隠し」の構造分析で、主人公「千尋」の歴史上のモデルとして推定される栲幡千々姫こと「スズカ姫」の名前が見られるのです。もちろん、その姫神について調べるためにここを訪ねた訳なのですが。

そして、参道の左右に摂社や古墳、祭場を見ながら直進すると、入道ヶ岳(にゅうどうがたけ)あるいは高山を後背に、そこには立派な本殿が現れます。

画像4:椿大神社本殿

4月の調査では、雨にも拘わらず多くの方々が参拝に来られており、ここが人の集まる人気パワースポットなのだと実感されます。もちろん、本当にパワースポットなのかどうかは私には分かりませんが。

さて、猿田彦の名前が登場する以上、伊勢の猿田彦神社同様、その相方となった女神、猿女(さるめ)こと天鈿女(あめのうずめ)もどこかに祀られているはずなのですが、わざわざ探すまでもなく、本殿の東側に隣接するスペースに「椿岸(つばきぎし)神社」が置かれており、そこに天鈿女が祀られていました。

画像5:椿岸神社

さて、ここで椿岸神社の祭神について少々疑問が湧いてきます。

猿田彦・天鈿女は一対の夫婦神として考えられていますし、瓊々杵尊も天孫降臨の際に猿田彦に先導されたと神話にありますから、ここに祀られていてもおかしくありません。

しかし、いくら身内とはいえ、その母である栲幡千々姫(別名スズカ姫)まで合祀されるのはさすがにその理由が何であるのか気になります。その理由については、椿大神社の公式ページに次の様に書かれています。

人皇第11代垂仁天皇の御代27年秋8月(西暦紀元前3年)に、「倭姫命」の御神託により、大神御陵の前方「御船磐座」付近に瓊々杵尊・栲幡千々姫命を相殿として社殿を造営し奉斎された

https://tsubaki.or.jp/yuisyo/

つまり、倭姫(やまとひめ)のご神託により合祀さたということのようです。

これに加え、もう一柱の行満大明神については。椿大神社の公式ページには次の様に書かれています。

大神の神孫「行満大明神」は修験神道の元祖として、本宮本殿内前座に祀られ、役行者を導かれた事蹟など、 古来「行の神」として、神人帰一の修行・学業・事業・目的達成守導のあらたかな神として古くより尊信されております。

https://tsubaki.or.jp/yuisyo/

要するに、猿田彦の子孫で修験神道を開いた神様(人?)ということのようなのですが、境内には「高山土公神陵」という(おそらく)古墳があり、「土公」(とのこう)は猿田彦の子孫とも言われてますから、猿田彦の子孫が行満大明神としてここに祀られても、特に違和感はありません。

しかし、秀真伝(ほつまつたえ)の研究者、池田満氏の解釈によると、スズカ姫とこの地との関係性は、これとはずい分違うようなのです。

(1) 物欲に拘泥しない生き方をススカ(スズカ)という。

人が生活していると、何によらず欲しい欲しいと物欲にかられることが多い。しかし本来、人とは、そのタマシヰのタマはアメの中心から来たって、また元へ戻るのであるから、必要以上の物欲に取りからめられてしまうのは愚かなことといえる。物欲から自由になるこの考え方をススカ(スズカ)という。物欲に取りつかれ過ぎると、本来の人の幸せを 見誤ってしまい、楽しむことができなくなる。また他人の羨みを買ってしまうことになる。

物欲にとりつかれた状態をスズクラという。ススカ(スズカ)の考え方を解いたフミをススカノフミという。

(2) 九代アマカミのオシホミミのキサキ(后)となった、タクハタチチヒメのイミナをスズカヒメという。

アマテルカミから名付けてもらったこのスズカの名は、(1)の意味を受けていた。チチヒメの夫となった九代アマカミのオシホミミは比較的若くしてこの世を去ったため、チチヒメは義父のアマテルカミの老後をお世話することになる。伊勢神宮の内宮に相殿神(あいとののかみ)として萬幡豊秋津姫命(タクハタチチヒメのこと)が祭られているのは、その故である。そしてチチヒメの崩御に当たっては、現、三重県鈴鹿市坂下の三子山に亡骸が納められ、スズカノカミと尊称されて、後に片山神社としてまつられてゆく。

池田満著 ホツマ辞典

これを読むと、スズカ姫が同地と関係を持つのは、鈴鹿市内(現在の鈴鹿峠の近く)に亡骸が納められたという事だけで、「スズカ」の名の由来についても、秀真伝にある猿田彦の別名「ウツクシキスズ」との関係には特に触れられておらず、椿大神社との関係性も含め、猿田彦とは直接関係あるようには説明されていません。やはり、倭姫のご神託一つで合祀が決まったのでしょうか?

故事伝承の類は文献によって中身が大きく異なるものですが、ここでは、少なくとも鈴鹿という土地とスズカ姫の間にはなんらかの所縁があると、ざっくりと捉えておく方が良いかもしれません。

■丹生と椿大神社

前回の記事では鈴鹿周辺の地形図を掲載しましたが、そこから、椿大神社の周辺を次に切り出します。

画像6:椿大神社周辺の地形図

この図で注目するべきなのは、椿大神社の北側の尾根を越えたすぐその先に、旧水沢(すいさわ)鉱山があることです。

この水沢鉱山から採取されていた鉱物とは

 丹生(にう)

すなわち水銀(Hg)なのです。

丹生と言えば、白粉(おしろい)の原料、あるいは鳥居などに塗られる朱(しゅ)など顔料としての利用、あるいは大仏などのメッキ用素材として、古くから利用価値の高い鉱物として知られています。

水俣病やイタイイタイ病など、現在では水銀に毒性があるのは良く知られた話ですが、昔は不老長寿の秘薬として、朱が丹薬・仙薬として飲まれていたそうですから何とも恐ろしい話です。

実際に、水沢鉱山から流れる内部(うつべ)川は丹生毒に汚染され、水銀由来の奇病に河川周辺の住民が苦しんだと言う記録もあるようなのです。

私が指摘したいのは、椿大神社が現代のスピリチュアリストが言うような神聖なパワースポットとして初めから創建された土地なのかと言う疑いなのです。

今も昔も人には生活があり、その中でも利用価値の高い丹生鉱山の発見はその土地に住む人々の生活を大きく変え、その土地を巡る権益やそれを巡る争いなどを生じさせたと考えられるのです。

つまり、椿大神社がある場所とは、元々は水沢鉱山利権を巡る勝利者一族の権威を象徴する土地だったのではないかと考えるのです。この土地が丹生によって成り立っていたと考えられる一つの証左として、椿大神社の後背の山が

 入道ヶ岳=にうどうがたけ

と書けることがあります。

このように、丹生の生産こそが古代鈴鹿の性格を決定付ける重大因子ではなかったのかと想定する方が、より現実的に鈴鹿の古代の様相を理解できるのではないでしょうか。

さて、丹生が登場したところで、次に考えるべきは丹生とスズカ姫がどのように関係してくるのかという点です。

もしかしたら全く関係などないかもしれませんが、ここで再び「千と千尋の神隠し」を観返すと、次のシーンがスズカ姫と鈴鹿を繋ぐヒントになると考えました。

画像7:千尋に偽金(ニセキン)を渡すカオナシ

これがどういうことなのか、詳しくはメルマガで解説したいと思いますが。ヒントとしてWikipediaから次の一節を引用します。

賢者の石

錬金術における最大の目標は賢者の石を創り出す(あるいは見つけ出す)ことだった。賢者の石は、卑金属を金などの貴金属に変え、人間を不老不死にすることができる究極の物質と考えられた。また後述の通り、神にも等しい智慧を得るための過程の一つが賢者の石の生成とされた。

 (中略)

この作業で材料は黒、白、赤と色を変える。賢者の石は、赤くかなり重い、輝く粉末の姿であらわれるとされた。この賢者の石を、水銀や熱して溶かした鉛や錫に入れると大量の貴金属に変じたという。赤い石は卑金属を金に、白い石は卑金属を銀に変えるとされた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%AC%E9%87%91%E8%A1%93


赤石青石白い石、緑の石は奴奈川の石
管理人 日月土

古代鈴鹿とスズカ姫

先日、私の歴史研究における強力なアドバイザーG氏と共に、再び三重県の鈴鹿市を訪れました。同地の隣接地である菰野町の宿では、関係者に向けて次のようなタイトルで講演を行いました。

画像1:講演のタイトル画像
※メルマガ購読者様向けのプレゼン動画を準備中です

この講演では、鈴鹿の「スズ」なるキーワードがここ数十年の日本のメディア界に頻出している事実、そして、それが同地鈴鹿の地理的条件及び歴史的経緯と密接に関連することをお伝えしました。

画像2:講演資料からスズとメディア作品に関する考察
今年もまた「スズ」を題材としたアニメ映画が上映予定

ブログを通して何度もお伝えしていますが、アニメ映画「千と千尋の神隠し」の主人公「千尋」のモデルになったのは、日本神話に登場する栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)で、この姫はまた別名「スズカ姫」と呼ばれています。

スズとスズカ姫との関係とは何か?このテーマは既に(真)ブログなどでアニメ作品を題材に記事にしていますが、それらはまだ表面的なものでしかなく、スズカ姫と所縁の深い現地を再び訪れることにより、その奥行きの広がり・繋がりの深さが更に実感されたものとなったのです。

 (真)ブログの関連記事:
  ・ドラえもんの暗号と世界大戦 
  ・すずめのポータル 
  ・そばかす顔の秘密 

■遺跡のまち鈴鹿

鈴鹿市における考古学資料を見ると、この一帯は遺跡が非常に多く出る地域であることが分かります。そうであるにも拘わらず、同地については椿大神社と鈴鹿サーキット以外はあまり知られていないのがむしろ不思議なくらいなのです。

画像3:鈴鹿市街地周辺の遺跡マップ(Google地図上にプロット)
注:全てのデータを反映していません               
  主要な遺跡名のみ地図中に記載しています           
  遺跡の中には中世鎌倉期のものも含まれます          
  遺跡の発見地域の中心から周囲1~2kmを遺跡エリアとしています

上図を見ると、鈴鹿川流域に多くの遺跡が見つかっているのが分かります。そして、そのほとんどが、道路工事や建築工事など際に文化財保護目的で調査発掘されたものです。

市街化区域に関しては空白となっていますが、全体の分布を見ると、これは発掘調査が為されていないだけで、実際には広大な遺跡エリアが広がると見てよいでしょう。

何より気になるのが、市街区域の大きな面積を占める本田技研工業の鈴鹿工場、旭化成の鈴鹿工場、そしてF1レースでも有名な鈴鹿サーキットなのです。

上図でも分かるように、サーキットに隣接する御園町・稲生(いのう)町にも遺跡が見つかっており、サーキットが建設された丘陵地区には、まだ多くの遺跡が眠っていると考えられるのです。

鈴鹿サーキットは昭和37年に完成していますが、そこで大遺跡群が発見されたという話は聞いたことがありません。当時は遺跡に関する保護意識が薄く、地中の埋設物については関知することなく建設が進められたのではないかと想像されます。

しかし、聞くところによると、同サーキットの設計思想は、なるべく地形をいじらないということらしいので、もしかしたら、同サーキット及び工場の敷地内を発掘するチャンスがあるならば、日本古代史に関する何か重大な発見があるかもしれないのです。

それを予感させる事実として、鈴鹿サーキット周辺の土地は元々近くの伊奈冨(いのう)神社の神領であり、同神社は現在サーキットを見下ろす小高い丘に残された東ヶ丘神社の辺りにあったそうです。

サーキット建設に伴い現在の位置に移転したとのことですが、神域に手を入れてまで工事を優先したという事実を知ると、地形を活かすという設計思想というのも、何やら疑わしく感じてしまうのは、いつもの悪い癖でしょうか?

この疑いを抱くもう一つの理由が、サーキットの入口にほど近い、三行庄野線とサーキット道路が交差する交差点は、この辺の丘陵地の最高点であり、ここからは、天気の良い日には南の松阪や伊勢の街々、そして伊勢湾口や神島を含む伊勢湾全体までが一望に見渡せる場所であることです。

画像4:サーキット傍の交差点の眺望
伊良湖と神島など伊勢湾口まで見渡せる

古代期の海上交通中心の社会を想像した時、伊勢湾全体を見渡せるロケーションというのは極めて重要です。

これまでの調査の例によれば、そのような眺望ポイントには海上からの目印、あるいは見張り台としての大型古墳が造られてもおかしくないのですが、同地にあったのは次の写真のような謎の建造物です。

画像5:謎の建造物

まあ、謎と言うのは冗談で、これは鈴鹿市水道局の「道伯配水池」という水道施設なのです。ここに配水施設が造られたという事実がまた、ここがこの周辺で最も高い場所であることを示しているのですが、実は遺跡エリアと貯水池という組み合わせは、以前にも記事にしたことがあるように呪術的に見ると極めて意味深いものなのです。

 関連記事:占領された福岡(2) 

私見としては、明らかに鈴鹿サーキット周辺には重大遺跡があると見なせるのですが、埋まって見えないものをあれこれと詮索しても仕方ありません。まずは確認可能なものから鈴鹿の土地を見ていくことにしましょう。

■鈴鹿の地形と猿田彦伝承

次に、鈴鹿市周辺の地形について調べてみます。国土地理院のデジタル地図で起伏状態を調べると次の様になります。地図には各重要ポイントにマークを入れていますので、画像3と比較して眺めてみてください。

画像6:鈴鹿市周辺の地形と重要ポイント

画像6の北西側にプロットされた椿大神社(つばきおおかみやしろ*)は猿田彦大神を祀る神社として知られていますが、G氏によると、その猿田彦(あるいは猿田彦一族)の鈴鹿上陸 地点は図中にある「大塚神社」付近だろうとのことです。

*椿大神社:ここには猿女(=天鈿女命)とスズカ姫(=栲幡千千姫命)が祀られていることも要注意です。

同地は現在海抜5m以下の低地で、古代海進期は海の底に隠れていそうなものですが、古代期はこの辺は海上から小島が幾つも顔を出す、おそらく小島群であっただろうと考えられます。現在平坦なのは、海岸線が後退した後に、おそらく小山が崩されて平地にならされたのではないかと考えられます。

画像7:大塚神社

この大塚神社近くの海側には、画像3にもあるように箕田遺跡という遺跡群があり、G氏によると、まだ本格的な発掘調査が行われていない(全体の10%以下)にも拘わらず、非常に多くの遺物が出ることで専門家にはよく知られた場所であるそうです。

ここからは古代期において、鈴鹿の古墳群がどのように発展したのか、G氏の予想を紹介したいと思います。

まず、大塚神社周辺の低地に根付いた猿田一族は、海水による浸水の影響を受けやすい同地を離れ、北西にある舌状台地に定住地を移す。

その台地で幾つも古墳を築きながら、その生活圏を少しずつ鈴鹿山脈側に広げていく。幸いなことに、この台地は画像6の②で分かるように、山が広く崩れたようななだらかな斜面を形成しているが、古代期においても起伏に乏しく開拓しやすい土地であった。

一団が入道ヶ岳(にゅうどうがだけ)付近に到達した時、そこに丹生(にう:水銀)の鉱山を発見する。後の水沢(すいさわ)鉱山だが、ここで猿田一族は古代社会では重要な丹生の鉱山利権を手にすることになる。

椿大神社とは、鉱山で発展した猿田一族の権勢を表し、また同地を支配運営する拠点でもあったのではないだろうか。

なお図中の①は台地に入り組んだ地形になっているが、古代海進期はここが入り江になっており、船着き場となっていたのだろう。国分寺がこの近くに造られたのも、実は海洋交通におけるこの利便性によるものと考えられる。

by G氏

画像6では、G氏の予想する「海から山」への発展移動ルートを黄色い点線で表しています。G氏の説明で非常に納得できるのが、現在の椿大神社の成り立ちが、私たち現代人が思い描く神社や鈴鹿山脈の「神聖さ」なる抽象的なものでなく、「丹生」という極めて現実的かつ実利的なものであったという点なのです。

椿大神社の後背にある入道ヶ岳も、「丹生道ヶ岳」と読み替えれば、その名の成立過程までもが見えてくるのです。

そして猿田彦のシンボルとして認識される「椿」の花なのですが、それについてG氏は次の様に語ります。

海洋民族は移動先の土地に椿を植えるんです。それは、後からやって来る海洋族に、そこが既に入植された土地であると直ぐに分かるよう知らせるためなのです。

by G氏

以上、なんとも大納得な話なのですが、冒頭の「スズ」あるいは「スズカ姫」の暗号と結び付けるにはまだ材料が不足しているようです。ここで、登場するのが前回の記事「少女神の系譜と日本の王」で取り上げた「少女神」なのですが、今回は長くなったのでその考察は次回に持ち越したいと思います。


* * *

画像8:鈴鹿サーキットのコース見取り図(公式ページより)

このコース、読者様には何を描いているように見えるでしょうか?図中の水色の◎印は道伯配水所、赤色の☆印は東ヶ丘神社の位置を表しています。


鈴鹿の浜の小高き社 沈む巫女神今ぞ出でたり
管理人 日月土

少女神の系譜と日本の王

今回の記事を書き進める前に、最近、知人に勧められて読んだ歴史読本を紹介したいと思います。

歴史、特に古代史に関しては多くの研究者が様々な説を面白おかしく持ち出すので(私も他人のことは言えませんが)、この手の読み物は基本的に避けていました。しかし、この書籍だけは、知人の勧めだけでなく、歴史研究のアドバイザーであるG氏からのお墨付きもあったので、どんなことが書かれているかちらっと読んでみたところ、私がこれまでブログに書いてきたこととあまりに符号する点が多く、ちょっと驚いてしまいました。

本のタイトルは「少女神 ヤタガラスの娘」、作者は「みシまる 湟耳」さんで今年の1月に幻冬舎から出版されたものです。

タイトルに「ヤタガラス」と付いていることから、どうしても陰謀論系の匂いを想像してしまうのですが、実際に読んでみると、文献類の精読と緻密な考察によって組み立てられた、非常に重厚な内容であることが分かります。

それほどページ数がある本ではないのですが、さらっと読めるような代物ではないので、私も読了まで少し時間がかかってしまいました。

画像1:少女神 ヤタガラスの娘

■少女神とジブリの暗号

さて、これまでの(神)ブログ記事とこの本に書かれた主張のどの辺が重なってくるのか、実際に同書を読んで頂かないと詳しく説明するのは難しいのですが、それでも、同書のエッセンスは冒頭の導入部分に述べられているので、ここでは同部分からの引用を掲載したいと思います。

 三人。少なくともヒミコと目される姫の名前が挙げられている。

 中でもふたりの少女に、出雲と大和の王が婿入りをしており、その少女たちは共通の名を持っている。

 出雲、大和といえば、日本人なら誰もが知る現代にも逓なる古代王朝だが、この出雲「最期」の王も、大和「最初」の王も、実は同じ氏族の少女へ婿入りしている事実は意外なほど知られていない。いや意図的に隠され、目を逸らされている、と言うべきか。

「出雲最期の王」イナバの白兎で知られる大国主の子とされるコトシロヌシは、神津島や紀伊の神社では少女の方の氏姓を名乗り「☆☆☆明神」として祀られている。

 なぜ、出雲の有名な国主が、わざわざ少女の氏族の名籍の方を名乗りたかったのか?

 「大和最初の王」神武死後には、皇位継承のため、その少女を奪い合った記録が残されるほどだ。このことは当時神武の子というだけでは権威としては弱く、少女の氏族の籍を伴わなければ「王」として認知される説得力がなかった事実を示している。

 カリスマは出雲の王にでも大和の帝にでもなく、「神の御子」と記される少女神の方にこそあった。

 この出雲にも、大和にも、双方にモテモテだった少女神とはいったい何者か?

 コトシロヌシが「主」から「神」へ神格を上げられた方法が『日本書紀』に記されている。すなわちワニに化身し、「神の御子」と記される「八咫烏」の娘=活玉依姫へ近づき婿に成ったと。大和初帝神武も「神の娘」がいると知り、自ら少女神の元へ赴き婿と成ったと記されている。

 この少女神は、出雲王や大和帝より遥か以前から「神の御子」として崇められていた。

みシまる湟耳著「少女神 ヤタガラスの娘」(2022)幻冬舎より

これを読んでいただければお分かりになるように、古代皇統の権威は特定家系である「☆☆☆」家の少女の元へ入婿することによって引き継がれてきたのだと述べているのです。

神様の子孫などというファンタジーは別として、一般的に天皇家は男系相続と信じられていますから、この主張は多くの方々にとっては驚くどころか、噴飯物であると感じられるかもしれません。

しかし、私が驚いたのは、この主張こそが前々回の記事「男神猿田彦の誕生」で伝えたかったことである点なのです。つまり、現在私たちが目にする日本神話とは、権威の継承について

 後世になって女系から男系に書き換えられたもの

ではなかったのかということなのです。

古代社会の在り方を同じように考えている方がいらっしゃるのを知り、私も非常に嬉しいのですが、私が漠然と「古代王家の継承とは本当は女系なのではないか?」と漠然と考えていたところに、「☆☆☆」家と具体的な氏(うじ)まで特定されたみシまる氏の分析力には脱帽するしかありません。

※「☆☆☆」が何を指すのかはぜひ同書を読んでお確かめください。

これまで、本ブログではシブリ作品の「もののけ姫」、そして「千と千尋の神隠し」が日本神話を元ネタに作られ、それも裏の裏まで知り尽くしている古代史の専門家によって考証されているだろうと予想していました。

ここで、今回のみシまる氏の指摘を踏まえ、改めて同ジブリ作品に登場するキャラクターと史書に登場する歴史上の人物の対応関係を下図にまとめてみました。

画像2:ジブリの女性キャラと史書に登場する女性たちの対応

作品を良く見れば、この二作品の物語を主導するのは「もののけ姫」のサンであり、「千と千尋の神隠し」の千尋という二人の少女です。そして周辺の主要キャラも女性ばかり、つまり女性こそが両作品の主役であることが分かります。

※ハクとカオナシはチヂヒメの双子の片割れを指すと考えられます。詳しくは過去の記事をお読みください。

この対応関係を見れば分かるように、本来主役として立てるべきなのは、これらの女神の相方となった皇祖であるニニギノミコト(アシタカ)であったり、作品に登場すらしないサルタヒコ・オシホミミ・神武天皇など、神話の主たる男神たちなのです。

天皇家の始祖とされる男神がここまでないがしろにされる描写、これはすなわち、古代社会においては、みシまる氏が主張するように特定の女系家系こそが真の権威を有する一族であったことを意味するのかもしれません。

■母系を追う

さて、ここで母系による血統こそが重要だとすれば、アニメに登場した媛神たちの、父ではなくその母が誰であったのかが問題になります。ここで秀真伝の系図を租を辿ってみると次の様になります。

 サルメノキミ     → 不明(父:不明)
 タクハタチヂヒメ   → 不明(父:タカギ)
 コノハナサクヤヒメ  → シタテルヒメ→イサナミ→不明(父:トヨケ)
 ヒメタタライスズヒメ → タマクシヒメ→不明(父:ミシマ、ミソクヒ)

※コノハナサクヤヒメの実父はオオヤマスミではなく、本ブログの結論であるアチスキタカヒコネであると仮定しています。前者の場合やはり母不明となります。

このように秀真伝も父系中心に記述がなされており、母系を追ってもすぐにその系統が見えなくなってしまいます。

これを逆に捉えれば、限られた母系一族が后(きさき)を輩出していたとも考えられ、そうなると古代王家はその一族の娘に婿入りすることによって王権を得ていたとも考えられるのです。この結論は「ヤタガラスの娘」の主張とも辻褄が合ってきます。

特に注目すべきはイサナミ(一般にはイザナミ)で、国生み神話の主人公にされたこの古代皇后と他の女性たちが同じ母系の血を継いでるとすれば、まさに母系によってこの国の初期の王権が成立していたと言えなくもありません。

そうなると、日本神話の次の箇所が非常に重要な意味を持ってきます。日本書紀から次を抜粋します。

そこでオノコロシマを国中の柱として、男神は左より回り、女神は右から回った。国の柱をめぐって二人の顔が行きあった。そのとき、女神が先に唱えていわれるのに、「ああうれしい、立派な若者に出会えた」と。男神は喜ばないでいわれるのに、「自分は男子である。順序は男から先にいうべきである。どうして女がさきにいうべきであろうか。不祥なことになった。だから改めて回り直そう」と。そこで二柱の神はもう一度出会い直された。

講談社学術文庫「日本書紀(上)」宇治谷孟現代語訳

男神(イサナキ)と女神(イサナミ)との国生みシーンですが、これは女神が最初に声かけしたことを強く否定しており、主導権は女性にはないと言ってるようにも取れます。

またここで、イサナキが黄泉の国から逃げ帰る次の有名な千引の磐のシーンを見てみましょう。

これが大きな川となった。泉津日狭女(よもつひさめ)がこの川を渡るうとする間に、伊奘諾尊(いざなぎのみこと)はもう泉津平坂(よもつひらさか)につかれたともいう。そこで干引きの磐で、壱の坂路を塞ぎ、伊奘冉尊(いざなみのみこと)と向い合って、縁切りの呪言をはっきりといわれた。  そのとき伊奘冉尊がいわれるのに、「愛するわが夫よ。あなたがそのようにおっしゃるならば、私はあなたが治める国の民を、一日に千人ずつ締め殺そう」と。伊奘諾尊が答えていわれる。「愛するわが妻が、そのようにいうなら、私は一日に千五百人ずつ生ませよう」と。そしていわれるのに、「これよりはいってはならぬ」としてその杖を投げられた。

講談社学術文庫「日本書紀(上)」宇治谷孟現代語訳より

このシーンでははっきりと男女の縁切りが宣言されています。これにより、女神であるイサナミは永遠に黄泉の国の住人となってしまうのですが、これはまさしく

 后の力を封印する

行為そのものであり、これこそが、後世に行われた母系継承から父系継承へと王権システムを変更した史実を示す史書の暗号と捉えることができます。それと同時に、それまでの母系王権に対する強い否定感の表現、あるいは「呪い」とも取れるのです。

以上から、古代日本が母系王権の国であったことがより確からしくなってくるのですが、そうなると問題になるなのが、

 なぜ父系王権に切り替える必要があったのか?

その理由と、現代においてもジブリ映画など多くのメディア作品を通して

 母系王権時代の古代女性を暗示的に取り上げる理由は何か?

という2つの点なのです。

実はこれ、古くから行われてきた「歴史改竄計画」の一環であり、加えて、母系王権時代をことさらちらつかせるのは、古代巫女でもあっただろう彼女たちの何か呪術的な能力と関連することが予想されるのです。

同書には、そのタイトルともなった八咫烏(ヤタガラス)と古代海洋民族、そしてこれら少女神との関連性が考察されているのですが、そちらで示唆されてた内容も無視できるものではなく、これについても本ブログにて追って取り上げたいと考えています。

画像3:香良須(カラス)神社 愛知県豊田市にて撮影


国始め烏追ひたり市木津へ求む媛神現れましを
管理人 日月土

佐瑠女神社と三浦春馬の呪い

前回の記事「男神猿田彦の誕生」で伊勢の猿田彦神社のことを話題に取り上げましたが、その後、この神社に置かれた方位石が現在の芸能-テレビドラマ「おカネの切れ目が恋のはじまり(カネ恋)」に関する呪術と関係ありそうだと(真)ブログ記事「三浦春馬の死とカネ恋の呪い」で取り上げました。

歴史の話からは少し離れるかもしれませんが、その関係性についてここで少し補足したいと思います。まずは、方位石の写真を再掲します。

画像1:方位石の写真

この方位石が陰陽五行と十二支十干の思想に基づいているのは一目瞭然です。

次に、ドラマの登場人物と方位の関連性を示した(真)ブログ記事に掲載の分析図を、この方位石の示す方角に合わすよう南北を逆転させ、更に十干による方位を描き足すと次の様になります。

画像2:方位石に合わせた金恋分析図

この図を見るとよく分かるのですが、巽(たつみ)の方角、つまり東南方向には該当するドラマの役名がありません。つまり、全方位を示す文字がその方向には欠けているのです。おそらく、この欠損は意図的に為されたものであり、それこそがこの呪術の中核であると考えられます。

さて、次に猿田彦神社の敷地内がどのようになっているのか見てみましょう。

画像3:猿田彦神社の航空写真 (C)Google

方位石の東南方向に何があるでしょうか?画像を見れば分かるように、そこにあるのは

 佐瑠女神社(さるめじんじゃ)

なのです。

画像4:佐瑠女神社

猿女とは天鈿女のことであり、天鈿女が岩戸の前で踊ったという神話から、芸能の神として、特に芸能関係者から崇められていることはこれまで「伊勢の油屋と猿田彦」でも書きました。

画像5:「君の名は」のあの監督の名前も

真)ブログ記事でも触れてますが、このドラマの設定は間違いなく陰陽道系の呪術者によって設計されていると断言して良いでしょう。この中で呪いとして最も分かりやすいのが、人の名に「サル(猿)」などと獣を表す蔑称を用いていることです。

名前による呪いについては、この他に日本武尊(ヤマトタケル)の名前の例がより参考になります。

秀真伝研究者の池田満氏によると、江戸時代までの日本武尊の正式な呼び名は

 ヤマトタケ

であり、最後の「ル」の文字は、近年になって後付けされたものだとしています。実際に秀真伝のヲシテ文字による記述は「ル」なしの「ヤマトタケ」になっています。

私の調べでは、どうやら「ル」の字には呪いの意味があり、日本神話の神名には意図的に「ル」の字が付加された形跡があるのです。

ここで猿田彦・猿女の記述を分解し呪い文字の「ル」の字を除くと次の様になります。

 猿田彦 → さルたひこ → さたひこ
 猿女  → さルめ   → さめ

実際に、伊勢の猿田彦神社の本殿は「さだひこ造り」と呼ばれる二重破風の妻入造を施した独自の建築様式を用いています。そして、島根県の出雲二宮、かつては一宮だった佐太神社の祭神とは猿田彦なのです。

ですから、「さたひこ」こそが猿田彦の正式名であり、猿女についても「さめ」と呼ぶのが正しいのではないかと考えられます。そして何より、

 東南に「鮫」(さめ)の字を当てた辻褄も合ってくるのです。

さて、画像1を見ると中央に「古殿地(こでんち)」とあることから、かつての猿田彦神社の本殿はこの方位石の真上にあり、この石はおそらく旧社殿の心柱(しんばしら)の位置に置かれたのかもしれません。

この意味は非常に重要で、この神社の当初からのターゲットは、その神社名に冠された「猿田彦」ではなく、むしろこちらの佐瑠女神社であり、この呪術形態を鑑みると過去から現在に至るまで「さめ」さんを呪う呪術的性格が非常に強い神社であったと考えられるのです。

この仮説を裏付けるかのように、佐瑠女神社のすぐ後ろには、全長140㎝位の平べったい石が置かれています。

画像6:佐瑠女神社の背後の石(支石墓?)

この様式は古代人が墓に使った支石墓とたいへん似ており、もしもこれが墓石ならば被埋葬者は子供か小柄な人物であったはずです。

 関連記事:再び天孫降臨の地へ(2)

この神社が基本的に呪術を目的としていることから、個人的には少女もしくは意図的に生長を止められた古代女性シャーマンだったのではないかと推察します。要するに生贄にされた女性(巫女)ではないかということです。

ここで行われている呪術が具体的にどのようなものであったのかは、考察にもう少し時間を要するのですが、日本書紀に書かれた次の一節がこれを理解するヒントになるかもしれません。

すぐに降ろうとされるころに、先払いの神が帰っていわれるのに、

「一人の神が天の八街(道の分れるところ)に居り、その鼻の長さ七握ななつか、背の高さ七尺あまり、正に七尋というべきでしょう。また口の端が明るく光っています。目は八咫鏡のようで、照り輝いていることは、赤酸漿あかほおずきに似ています」

と。そこでお供の神を遣わして問わせられた。ときにハ十万の神たちがおられ、皆眼光が鋭く、尋ねることもできなかった。そこで天鈿女に特に勅していわれるのに、

「お前は眼力が人に勝れた者である。行って尋ねなさい」

と。天鈿女はそこで、自分の胸を露わにむき出して、腰ひもを臍の下まで押しさげ、あざ笑って向かい立った。このとき街ちまたの神が問われていうのに、

「天鈿女よ、あなたがこんな風にされるのは何故ですか」

と。答えていわれるのに、

「天照大神の御子がおいでになる道に、このようにいるのは一体誰なのか、あえて問う」

と。街の神が答えていう。

「天照大神の御子が、今降っておいでになると聞いています。それでお迎えしてお待ちしているのです。私の名は猿田彦大神です」

と。そこで天鈿女がまた尋ねて

「お前が私より先に立って行くか、私がお前より先に立って行こうか」

と。答えて、

「私が先に立って道を開いて行きましょう」

という。天鈿女がまた問うて

「お前はどこへ行こうとするのか。皇孫はどこへおいでになるのか」

と。答えていうのに、

「天神の御子は、筑紫の日向の高千穂の槵触峯くしふるたけにおいでになるでしょう。私は伊勢の狭長田さなだの五十鈴の川上に行くでしょう」

と。そして、

「私の出所をあらわにしたのはあなただから、あなたは私を送って行って下さい」

といった。天鈿女は天に帰って報告した。皇孫はそこで天磐座あまのいわくらを離れ、天の八重雲を押しわけて降り、勢いよく道をふみわけて進み天降られた。そして先の約束のように、皇孫を筑紫の日向の高干穂の槵触峯にお届けした。猿田彦神は、伊勢の狭長田の五十鈴の川上に着いた。

天鈿女命は猿田彦神の要望に従って、最後まで送って行った。時に皇孫は天釧女龠に勅して、

「お前があらわにした神の名を、お前の姓氏うじにしよう」

といわれ、猿女君の名を賜わった。だから猿女君らの男女は皆、君と呼んでいる。これがそのことのいわれである。

講談社現代文庫「日本書紀(上)」より神代下 監修 宇治谷孟

この件に関しては、史書の暗号解読やアニメの構造分析などとのんびり構えてはいられません。実際に俳優の三浦春馬さんは2年前の2020年7月、クローゼットで首を吊るなどという、自殺と言うにはかなり不審な死に方をされています。

そして、同年9月には映画での共演関係でもあった女優の竹内結子さんも、同じような死に方をされているのです。

私は、この事件が自殺か他殺かなどと問う立場にありませんが、このようにはっきりと古代呪術の痕跡を認めた以上、二人の死と呪術との関係をあっさりと否定することもできないのです。

むしろ、最近になってこのような有名芸能人の名前を用いた呪術が使われていることから、この呪いが現在の日本社会全体に広く向けられているのを見て取るのです。

「呪い」などと言うと笑われてしまうかもしれませんが、日本の統治、世界の統治の中枢にいるのはほぼ間違いなく、呪術や魔術を信奉している上に、それに心理学や科学技術の成果を交え行動してくるカルト的思想の集団であり、それが漫画やアニメの世界で留まるならともかく、現実に人の生死に関わっていると考えられる以上、もはやそれを無視したり看過するなどできない状況に至っています。

このサタヒコ・サメに関わる呪術を解く鍵は、実は日本古代史の中にあり、その意味でも史書暗号の解読が急がれるのです。


春の日の黄花青草桜花 馬出る時のここに来たれり
管理人 日月土