富士山は突然現れた?

今回の記事はちょっと短めです。

4月14日に掲載した「アルプスに残る海地名」では、本州中央部の中央構造体(フォッサマグナ)に、海などない高原の土地なのに何故か海に関する地名がやたら多いことを示しました。

また同記事2日後の4月16日にはメールマガジンにて次のような内容を補足事項としてお届けしています。

■大和武尊の時代に富士山はなかった
 まず焼津の暗号について解答を述べます。大和武尊が相模国に入る前に立ち寄った「焼津」とは、現在の神奈川県足柄市付近を指します。どうしてそう解釈できるのかは、またブログで公表しますが、秀真伝には明確にその地名が書かれており、書紀の暗号名からもそれが論理的に導けることをお伝えしておきます。やはり記紀は暗号の書であり、解読次第では正確な史実に辿り着ける可能性が見えてきました。

 さて、正確な史実を暗号として隠している日本書紀が、どうして足柄を焼津と表現したのかそれを考えてみます。私はその意味を、「足柄と焼津の間に注目せよ」と解釈します。その足柄と焼津にあるのは、記事でも指摘した「富士山」と「伊豆半島」なのです。

 東征に向かった大和武尊が最初に降り立った地、それが足柄とはどういうことか?おそらく船で移動してますから、御殿場の辺りまで船で入って行けたということです。大和武尊の頃は海進時代と言われていますから、今より6,7m海面が高かったと思われます。しかしそれを考慮しても現在の沼津市街地は残っていると考えられ、そこより奥には入れず辻褄が合いません。

こうなると普通は、日本書紀、あるいは秀真伝の記載が間違っているとなるのですが、暗号化してでも史実を伝えようとした史書がそこまで捏造はやらないはず、なので、私はむしろこう考えます。

 富士山も伊豆半島もそこになかった

と。同時に、書紀の編纂者はこの二つの地理的存在の有無について何か重要な秘密を知っているのではとすら考えられるのです。

地理的に伊豆半島と富士山がそこになければ、富士山の北側は海水で満たされるはずです。すなわち、本文画像2に示した甲府盆地内に多出する「津」の字の地名は、実際にそこに海があり船着き場があったことを示しているのではないでしょうか?

大和武尊伝説では、大和武尊一行は関東を東から西に横断し甲府盆地にある酒折に到達したところで雁坂峠方面に進路をほぼ逆転しています。この一見不可思議な行程は、酒折の目の前に海が広がっていたと考えれば辻褄が合うのです。

大和武尊が存命したと言われる300年代後半、果たして富士山も伊豆半島もそこに存在しなかったのでしょうか?

但し、以上のメルマガ記事は、秀真伝に記述されている「アシガラヤマ」を現在の神奈川県の「金時山(足柄山)」、焼津を現在の静岡県の焼津と仮定した場合の推測であり、前回の記事「ヤマトタケと小野の城」で、焼津はどうやら神奈川県の寒川町の辺りを指すことが見えてきたので、新説の場合、この推測は当たらないことになります。

しかし、足柄山の位置が未だに不明であること、また、ヤマトタケが焼津に至る前に寄ったとされている伊勢が三重県の伊勢だとすると、相模湾からあまりにも距離が離れており、当時海岸線に沿って航行していただろうヤマトタケの移動記録に、伊豆半島や富士山の記述が全くみられないのはやはり不自然なままなのです。

そもそも、記紀には富士山の記述が全くない、そのこと自体が非常に不可解なのですが・・・

太古富士山はなかった?おそらくそんな話は聞いたこともないし、想像すらできないでしょう。富士山ははるか悠久の昔から火山運動を経ながらそこに鎮座していたはずだ、それこそが私たちの常識なのです。

だから、そんな勝手な推測を記事にするなと指摘されても確かに何一つ反論はできない・・・と思っていたところ、知人の歴史研究家G氏より面白い文献を紹介されました。以下にその文献資料の写真とその読み下し文を掲載します。

旧事紀(白川家30巻本)の抜粋
孝霊天皇36年の項

是の月、駿河国、東西南北に割れ裂け大海を成し、一夜にして大山涌出す。其の海は則ち埋もれり。一日、天自ずからして磐上を雨を以って其の嶺を續かせしめ、其の山の形は八坂瓊(やさかに)の如し。亦た、精米を累(かさね)るが如し。之を名付けて降土山(フジノヤマ)と曰ふ。

先代旧事本紀と言えば、一般書籍にもなっている10巻本が良く知られていますが、実は他にも30巻本、31巻本、70巻本と種類があるとのことです。10巻本はいわゆる30巻本のダイジェスト版であり、30巻本には10巻本に省略された記述がいくつもあるとG氏は語ります。

そこにはなんと、第7代孝霊天皇の時代、駿河の国が裂けて海が現れ、そして、たった一晩でその海が天から降ってきた土で埋め尽くされ富士山となったと記述があるのです。なお、八坂瓊とは赤い珠のことであり、その土質が赤土であったことまで詳細に記されているのです。

史書ですから、事実の省略化、表現の誇大化は当たり前だとは思うのですが、それでも、駿河の国から地続きのフォッサマグナ周辺が割れて海になったことは、現地に海地名が多い事実を説明し、また、富士山が一夜の内に現れたという記述は、時代の前後はあるものの、記紀に富士山の記述が見当たらないという事実をもうまく説明するのです。つまり、記紀の時代に

 富士山がない時代があった

ということです。

これがいったいどのような自然現象なのか皆目見当がつきませんが、少なくとも、この私の妄想とも思える発想が、私だけのものではなく、過去の文献にも記述されているのは確かなことなのです。


誠の神力を現す世と成れる
管理人 日月土

ヤマトタケと小野の城

今回は日本古代史のヒーロー、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)についてその足跡を考えてみたいと思います。ここでは、簡略化のため「ヤマトタケ」と、秀真伝(ホツマツタエ)の記述に沿った表記に統一したいとします。

4月の記事「アルプスに残る海地名の謎」では、日本書紀におけるヤマトタケの焼津(現在の静岡県)から相模(現在の神奈川県)に到る経路が不明だとお伝えしました。同記事では、冒頭にて現代地名から古代地名を推測するのは時に危険だとお伝えしています。繰り返しになりますが、記紀やその他の史書は、正確な歴史の記述というより

 日本の古代史を分からなくする

という史実隠蔽の目的が含まれおり、同時に暗号的かつ呪術的な意味を人名や地名に付与していると考えられるからです。

現代に残された文章から少しでも真実に近づこうと思うなら、何故そのような文章を残したのか、作者や編纂を促した当時の為政者の意図を推し量り、そこから類推するしかありません。其の為には少々胡散臭い古文書でも、当時の雰囲気だけでも感じ取れるなら、毛嫌いせず見ていく必要があります。

どのみち正史を残した史書などなあり得ないのですから、嘘つきの嘘から何が本当なのかを類推するように、記紀を含む偽書の山から正史を読み取っていくしかないのです。

■日本書紀と古事記に書かれた焼津の比較

それでは、ヤマトタケと焼津の関係が記された項を日本書紀から抜粋します。有名な草薙の剣と向い火のシーンです。

[原文]
是歲、日本武尊初至駿河、其處賊陽從之欺曰「是野也、糜鹿甚多、氣如朝霧、足如茂林。臨而應狩。」日本武尊信其言、入野中而覓獸。賊有殺王之情[王謂日本武尊也]、放火燒其野。王、知被欺則以燧出火之、向燒而得免。一云、王所佩劒藂雲、自抽之、薙攘王之傍草。因是得免、故號其劒曰草薙也。藂雲、此云茂羅玖毛。王曰「殆被欺。」則悉焚其賊衆而滅之、故號其處曰燒津。

[読み下し文]
是歲(ことし)、日本武尊、初めて駿河に至る。其の處の賊(あた)、陽(いつは)り從ひて、欺(あざむ)きて曰(まう)さく「是の野に、糜鹿(おほじか)甚だ多し、氣(いき)は朝霧の如く、足は茂林(しもとはら)の如し。臨(いでま)して狩たまへ」とまうす。日本武尊、其の言を信(う)けたまひて、野の中に入りて覓獸(かり)したまふ。賊(あた)、王(みこ)を殺さむといふ情(こころ)有りて [※王とは日本武尊を謂(い)ふぞ]、其の野に放火燒(ひつく)。

王(みこ)、欺かれぬと知ろしめて、則(すなは)ち燧(ひうち)を以て火を出(うちいだ)して、向燒(むかひびつ)けて免(まぬか)るること得たまふ。 [※一(ある)に云はく、王の所佩(はか)せる劒、藂雲(むらくも)、自ら抽(ぬ)けて、王の傍(かたはら)の草を薙(な)ぎ攘(はら)ふ。是(これ)に因りて免(まぬか)るること得たまふ、故(かれ)其の劒を號(なづ)けて草薙(くさなぎ)と曰ふといふ。藂雲(むらくも)、此(これ)をば茂羅玖毛(むらくも)と云ふ。] 王の曰(のたまは)く「殆(ほとほど)に欺かれぬ」とのたまふ。則ち悉(ふつく)に其の賊衆(あたども)を焚(や)きて滅(ほろぼ)しつ。故(かれ)、其の處を號(なづ)けて燒津(やきつ)と曰(い)ふ。

次に同じシーンを古事記から引用します。

[原文]
故爾到相武國之時、其國造詐白「於此野中有大沼。住是沼中之神、甚道速振神也。」於是、看行其神、入坐其野。爾其國造、火著其野。故知見欺而、解開其姨倭比賣命之所給囊口而見者、火打有其裏。於是、先以其御刀苅撥草、以其火打而打出火、著向火而燒退、還出、皆切滅其國造等、卽著火燒。故、於今謂燒津也。

[読み下し文]
かれ、ここに相武国(さがむのくに)に到りましし時、その国造(くにのみやつこ)詐(いつは)りて白(まを)さく、「この野の中に大沼あり。この沼の中に住める神、いとちはやぶる神なり」とまをしき。ここにその神をみそなはしに、その野に入りましき。

ここにその国造、火をその野に著(つ)けき。かれ、欺かえぬと知らして、その姨倭比賣命(をばやまとひめのみこと)の給ひし嚢(ふくろ)の口を解き開けて見たまへば、火打(ひうち)その裏(うち)にあり。ここに先づその御刀(みはかし)もちて草を刈り撥(はら)ひ、その火打もちて火を打ち出でて、向火(むかひび)を著けて焼き退(そ)けて、還(かへ)りいでて皆その国造等を切り滅ぼし、すなはち火を著けて焼きたまひき。かれ、今に焼津(やきつ)と謂ふ。

日本書紀では明確にヤマトタケが駿河の国に至り、そこで火の難にあったとしてます。やはり焼津とは、現在の静岡県焼津市のことなのでしょうか?ところが、古事記ではヤマトタケが同じ火の難に遭遇したのは相武国、現在の神奈川県相模地方と記しているのです。

他にも細かい点でいくつか違いが見られます。その違いを以下の表にまとめました。

■秀真伝に記された焼津

記紀両者の記述でこれだけ差異が認められた、そしてヤマトタケが入った土地名が駿河、相模とそれぞれ異なるのは看過できない点です。日本書紀では、この段に続く記述で相模に進んだと明確に記述しているので、駿河と相模がそれぞれ別の国であることは書紀執筆者は十分認識していたはずなのです。

先代旧事本紀にヤマトタケの記述がたいへん乏しいということもあり、ここで秀真伝にこの段がどう書かれているのかを調べてみました。

調べたところ、短い文章の中に非常にたくさんの情報が詰まっています。ここでは、本段に関係ある語句を赤枠で囲い、ヲシテ文字に漢字交じりの現代読みを添えてみました。

画像1:秀真伝に見るヤマトタケ焼津の段
 (池田満編、「ヲシテ(下)」より)

図を見ればお分かりのように、ヤマトタケ、向火、草薙、焼津、などの記紀に現れたキーワードが見られるだけでなく、蝦夷(えみし)に欺かれ鹿を見に野に入ったところで火を付けられたと、まるで記紀の話を混ぜ合わせたような展開になっています。

そして、問題の土地名ですが、秀真伝にははっきりとこう書いています。

 相武の小野の城

なんと、相武(相模)という漠然とした地名だけでなく、そこにある小野という土地に築かれた城の麓で、ヤマトタケは騙して火を放った蝦夷たちに出会ったと、その記載が記紀に比べてかなり詳細に及んでいるのです。

さらに目を引くのが、大山(神奈川県伊勢原市大山か?)と大磯(神奈川県大磯町か?)に部下を派遣したと、まるで現代の神奈川県相模地方の地名を正確に語るかのような記述が見い出せるのです。

記述の具体性から判断すると、記紀よりも秀真伝の記述が歴史的事実に近いのではないか?と思われるのですが、ここで大きな問題が出てくるのです。

 秀真伝の足柄山ってなんだ!?

焼津の段では、相模小野の難を逃れたヤマトタケはすぐに足柄山に攻め上るのですが、これを現在の足柄山(金時山)と考えると、もはや相模の国とも言い難く、遠すぎて既出の大山・大磯との距離的関係が合わなくなってくるのです。

画像2:実際の焼津の地はこの辺?しかし足柄山が遠い…
南の相模湾は123便が最初の異常を報告した所

■秀真伝が残した謎

記紀の記述の違いを埋めるつもりで調べた秀真伝ですが、かえって別の問題を呼び起こしてしまったようです。そもそも相模の小野とはいったい何処なのか?地名データベースで調べると

 1)神奈川県横浜市鶴見区   小野町
 2)神奈川県厚木市      小野 

この場合、相模という点では2)の厚木がそれに該当しそうですが、それでもやはり足柄山は遠すぎます。すると、小野とは既に失われた他所の地名か、あるいは家または氏の名前という可能性も考えられます。

古代小野氏とは、Wikiでは次の様に書かれています

孝昭天皇の皇子である天足彦国押人命(あめのおしたらしひこのみこと)を祖とする和珥氏(わにうじ)の枝氏である。

上古代から続く家で、読者さんもご存知の遣隋使の小野妹子や、絶世の美女と伝わる小野小町を輩出した家として有名です。この古代氏族と焼津、ヤマトタケにどのような関係があったのか?そして日本書紀の筆者は、どうしてわざわざヤマトタケの進出地を「駿河」と記述したのか?長野の海地名の不思議から始まった探求は、またしても深みにはまってしまったようです。

  * *  *

以下はこの5月に現地調査に向かった場所です。写真と本記事との関係については明日発行予定のメルマガにて先行してお知らせします。

画像3:周囲を壕に囲まれた宮山神社(神奈川県寒川町)
画像4:宮山神社周囲の壕

 

誠の神力を現す世と成れる
管理人 日月土