二つの国譲りと津軽の荒吐

10月に訪れた福岡のレポートが長引いてしまいましたが、それから現在に至る3か月間、関東・東北・中部東海各地の遺跡地帯を訪ねています。その中でも、再び秋田・青森を回った東北の調査は極めて興味深く記憶に残っています。

東北については、私自身が同地のことを良く知らないこともあり、現地を訪ねてみても頭の中では日本古代史の1ページとしては上手く繋がらないもどかしさがあります。

一般的には古代東北は蝦夷(えみし:野蛮人)の土地として捉えられ、日本史的には平安期の坂上田村麻呂による奥州遠征から、鎌倉期に入る前の前九年・後三年の役、そして平泉に代表される奥州藤原氏の誕生と消滅など、古代期から中世期にかけて初めて登場した舞台であると認識されることが殆どです。

しかし、青森の三内丸山遺跡の出土品、環状列石群など東北地方の古代期の遺跡には見るべき特徴があり、ここを無視して日本の始まりを語ることはやはり何か片手落ちであると言わざるを得ません。

画像1:秋田県鹿角市の大湯環状列石(2021年12月撮影)

そこで、東北を語る数少ない資料として「東日流外三郡誌」(つがるそとさんぐんし)の古代編を通読してみたのですが、既にお伝えしているように、これがまた癖が強い書物で、言葉は比較的平易なのですが構成にとりとめがなく、読み終えるまでに私もずい分と時間がかかってしまいました。

なお、「東日流外三郡誌」と青森の遺跡に関する所見については、昨年の9月に次の現地調査レポートで記事にまとめています。今回はこれを補足・拡張する内容となります。

 (1) 東日流外三郡誌の故地を訪ねる 
 (2) 土偶は何を語るのか?

■荒吐(あらはばき)とは何か

過去記事(2)では荒吐とは古代東北国の名称であると同時に、その国が信仰する自然神の総称であるとしています。この辺の解釈については正確を期すため、東日流外三郡誌から荒吐の云われに関する記述を抜粋したいと思います。

なお、東日流外三郡誌には同じような記述が何度も繰り返し登場するのですが、以下の文は比較的短くまとまっていたのでここに採用することにしたものです。読み易さのために誤記の部分を修正および括弧、区切り記号などを付与しました。下線部は筆者が注目している記述です。

【抜粋1】

津軽実誌考抄

 古代津軽の里は水郷なり。
 十三湊を入江にして、行丘田舎郡に至るまで満々たる水郷なり。
 然るに、天変地移の立起や、今に至る大里となりけるは巌鬼山の噴火、八頭山の墳火に依りての流土水を埋出して、広き葦野を陸造れるなり。
 依て、地人是を神聖と崇め、父なる山、母なる川を巌鬼山、巌鬼川と称したり。また是を往来せる川故に行来川とも称し、海の彼方より見ゆる巌鬼山を遠望往来のめずるしとなる故に行来山と称したり。

 古歌に曰く、
 〽父母の 生れし里は 山川の 海を埋めける 巌鬼あれこそ
 〽山川に めぐみを受し つがるさと 葦と稲穂の 稔り豊けき
 〽火を山に 糧は海里 まかなひて 暮しは保つ あら人の国
 〽荒吐の 大も大なる 住むる地を 犯す者たち あらばたたらめ

 此の歌はいつの代に何人の詠ける歌ぞと、さだかならず。然るに、十三湊浜明神に奉舞せる歌とぞ古老は日ふ。察するに十三浜明神は興国二年に太津浪に消滅せし以前とせば、安倍一族の古歌と考ぜらるるなり。
 大古に雪深き津軽の国は、山海のみにして平地なく、人の住むるに難き土地なるも、異民よく故土に乱を免かれて落着せる処は津軽とぞ想ふ。
 支那に君派の乱は、日本国の日向族の東征より早期なり。依て、津軽の入海は豊けき山海の幸あり、永住せし者多し。(註1)
 初の土着民を津保化族と称し、安日及び長髄の一族北落以前なりせば、その古事来歴さたかならねども、小泊崎なる尾崎神社に支那移民の神を祀るを以て名残あり。
 亦、西海及びその山麓より土中に埋りき先住の遺物多くいでにけるは、津保化族の住ける名残りなり。
 荒吐族とは耶馬台国の二王、安日彦長髄彦の一族が日向一族に故地を追れ、津軽に脱落せし一族なり。この一族、津軽先住の津保化族と混じて、茲に荒吐族と誕じたる事実なり。(註2)
 安倍一族は荒吐一族より柤来す。依て茲に津軽より奥州を掌据し、更に東国一円を勢下に伏せんと、自ら日下将軍と自称せし安倍頼時は世伝の知れるところなり。
  寛政三年正月
 十三湊浜明神跡にて
                         考書 秋田孝季

引用元:東日流外三郡誌 古代篇上(2003) p226

註1:中国晋王朝からの移民。時代的に辻褄が合うかどうかは微妙。
註2:安日彦と長髄彦は兄弟とある。
補足:長髄彦の義弟は饒速日。先代旧事本紀では饒速日と瓊瓊杵尊は兄弟とされている。それぞれジブリアニメのニギハヤミコハクヒコ、アシタカのモデルとなった人物である。

次に荒吐の信仰形態についての記述を抜粋します。

【抜粋2】

荒吐抄

通称あらばき亦はあらはばきと号く。漢字にては荒脛巾/荒覇羽岐/荒吐/荒羽吐と社名を為すも何れも異はなし。依て荒脛巾神と通称多しきは東日流より外に存す。
 称題析願文には「あらはばきいしかばのりがこかむい」と唱ふるは止しき祈願法なり。意趣は天と地と水にして生命の実相なる原理を以て安心立命を宇宙の精気地水の素要に生死の輪廻を魂に銘じ久遠の人生に求道せるを本願とせるの信仰なり。(註3)
 宇宙の日輪地水みなながら神なり自然の法則とは主とし生けるものに安しきことなけれども是みな神の業なれば耐えて生くるぞ人の道なりと日ふなり。

  寛政五年六月
                           秋田孝季

引用元:東日流外三郡誌 古代篇上(2003) p229

註3:唯一神信仰とも汎神信仰とも取れる。人が神となる多神的信仰ではないが、人も神が想像した自然物と捉えるなら、多神・汎神・一神に大きな違いはない。むしろ、一神教と多神教を対立軸とする現代宗教論に大きな認識の誤りがある。

【抜粋3】

画像2:津軽に在ったと言われる「安東浦」の想像図
引用元:東日流外三郡誌 古代篇上(2003) p235

秋田氏による後世の知見がかなり混濁していると思われる東日流外三郡誌ですが、荒吐の由来を

“日向国に追われ津軽に逃げ延びた安日彦、長脛彦の二王が、現地民の阿蘇部族、津保化族、そして王族を含む晋からの移民を統一した国家が荒吐である”

という点については、古代篇を通して全くブレがないのです。

三郡誌に登場する安日彦については不明ですが、長脛彦については、日本書紀においては饒速日の義理の兄であり、東征した神武天皇と戦って敗れたとの記述で登場します。

三郡誌に登場する日向族を、書紀にある日向から東征を開始した神武天皇一行と素直に受け取るなら、邪馬台国すなわち大和(ヤマト)の本来の王が、新興の日向一族(天孫族)に追い出されたと解釈することで取り敢えず辻褄は合ってきます。

これこそが、三郡誌古代篇を貫く思想となり、それ以降の大和王朝支配に対する強い怨嗟となって所々登場するのですが、翻って大和王朝が中世に至るまで「蝦夷」(えみし:野蛮人)と東北民を蔑視する呼び名にも互いの敵対心が現れていると言えなくもありません。

書紀では、饒速日が神武天皇と同じ天孫族であるとして、義兄の長脛彦は抵抗するも饒速日によって大和の国(奈良地方)が禅譲されたように描かれていますが、三郡誌ではその饒速日も長脛彦と戦い長脛彦に致命傷を与えたとあります。

さて、以上の話を含めて日本神話には次の二つの国譲り伝承があるので、今度はそれを見てみましょう

 (1)大国主の国譲り
 (2)饒速日の国譲り(義兄の長脛彦は争う)

いずれも、多少の紛争があったにせよ、基本的に両者の合意によって平和裏に事が済んだように描かれていますが、実際にはどうだったのでしょう?これについては、神話などというファンタジーではなく、純然たる古代皇統史として記述されている秀真伝を参考にしてみたいと思います。

■宮廷から追放された二人の人物

秀真伝には二人の人物が、その罪により宮廷から追放されたとの記述があります。

 大国主:慢心により政務を怠った罪
 長脛彦:部外者禁の祝詞を盗み読んだ罪

当時の本当の事情など分かるはずもありませんが、まずは、両者が負った罪がそれほどの大罪だったのだろうかという疑問を覚えるのです。反逆した訳ではないしせいぜい官位の降格くらいで良かったのではないか?、それが私の最初の印象です。

そして、もっと言うなら、この程度の取って付けたような罪をわざわざ史書に書き残したのには、何か別の意図があるのではないか、すなわち史書暗号のような符号がこの記述に残されているのではないかとも疑っているのです。

ここで、二人のその後の顛末について、秀真伝・三郡誌の両方を突き合わせると

 大国主:津軽に住む息子のシマツウシの処に身を寄せる(秀真伝)
 長脛彦:日向族に追われて安日彦と共に津軽に逃げ延びる(三郡誌)

と、両者とも「津軽に向かった」という点で共通するのです。

ここから、私は次の様な仮説が成立するのではと考えます。

 津軽には何か特別に重要なものがある

つまり、その特別に重要なものを管理あるいは庇護するために、宮中の信頼できる高官を津軽に送るしかなかったが、それが反乱分子も紛れ込んでいる宮中の官吏に知られてはたいへんまずい。そこで、二人に罪を着せることによって、流刑、あるいは逃走という形で現地に走らせた、そう考えるのです。

もちろん、その大事なものが何であるのか一応考えてはいるのですが、これについてはもう少し考察が纏まってお知らせしたいと考えています。

それが一体どういうものであるか、私は現地で撮影した次の写真こそがこの謎を解明するヒントになると考えているのです。

画像3:青森県新郷村のキリスト里公園(2021年12月撮影)


葦船に乗せて流され辿り着く
管理人 日月土

太宰府に残る占領の印

今回の記事は、10月に向かった下記福岡調査レポートの続編となります。

 これまでのレポート:
  ・再び天孫降臨の地へ 
  ・再び天孫降臨の地へ(2) 

糸島の重要歴史スポットを幾つか巡って地元の宿に一泊した後、日程が限られていることもあり、翌日は福岡調査では絶対に外せない重要ポイントである太宰府へ向かいました。

画像1:宿の前の通りからは、前回の記事で話題にした「可也山」(かやさん)が見える

■糸島の芥屋の大門

太宰府に向かう前に、歴史というより観光スポットと呼ぶのが相応しい、糸島の西端にある「芥屋の大門」(けやのおおと)を訪ねてみました。ここは、岬の先端から内陸に向けて、奥行き90mの洞穴が続いているという珍しい場所です。

公式ホームページによると、玄武洞の中では国内最大級であるとか。以前何度かここを訪れたことがありますが、その時は地上から岬の突端を眺めただけで実際に洞穴の開口部を見た訳ではありません。

今回はこれまでと趣向を変えて、近くの漁港から遊覧船に乗り、海上からその景色を眺めてみることにしたのです。

画像2:芥屋の大門の位置
画像3:海上から見た芥屋の大門の全景

条件が整えば小型遊覧船が洞穴の中まで入るということですが、当日は晴天に恵まれたものの、海のうねりが大きく、残念ながら開口部から少し離れての見学となりました。しかし、それでも玄界灘に向けてぽっかりと開いた大きな穴の迫力は見る物を惹き付けます。

古代の人々は、海を渡って糸島と行き来した時、この岬をどのような思いで通り過ぎていたのか、思わず想像が膨らみます。

画像4:船上から撮影した開口部

実は、何枚か撮った開口部の写真の1枚に、およそ尋常でないものが写り込んでいました。いわゆる心霊写真と呼ばれるものに近いのですが、それを掲載するのはこのブログの主旨ではないのでやめておきました。

少しだけ説明するなら、それは古代から現在に至る何か呪術的なものに関係するようなのですが、これを歴史の流れの中で説明するには方法論的に逸脱していますし、それに関する予備知識がなければ、おそらく何を語ってもチンプンカンプンな話となるでしょう。

しかし、記紀などを読めば分かるように、古代人にとって御神託や祈祷というのは実学であると同時に日常生活の一部であり、現代科学を拠り所としてそれを迷信と決め付けては、古代人の当時の思考を推し量ることなどできないと私は考えます。

写真に写ってしまったこと自体は紛うことなき事実なので、実際に私はそれを歴史分析の対象に加えています。今回ここでお見せできない写真から分かったことは、芥屋の大門には有能な呪術集団が関わっているということです。

ここに、歴史の表に現れることのない仏教・神道・その他による呪術的側面が観測できるのですが、これ以上書くとオカルトブログになってしまうのでこの辺でやめておきましょう。もしもこの話が気になるという方は、ぜひその目で芥屋の大門を確認していただき、私の意図するものが何であるのかをご理解いただければ嬉しいです。

画像5:芥屋の大門の麓にある太祖神社
後の山は古くは高天原と呼ばれ洞穴へと続く。ここには海神族と月信仰の痕跡が見られる

■水城

さて、糸島から福岡市内を経由して太宰府市街に入る手前、道路を分断するかのように長く続く土手、「水城」(みずき)と呼ばれる古代遺跡が目に入り、まずはそこに寄ってみました。

水城とはWikiには次の様にあります。

白村江の敗戦後、倭国には唐・新羅軍侵攻の脅威があり、防衛体制の整備が急務であった。天智天皇三年(664年)の唐使来朝は、倭国の警戒を強めさせた。この年、倭国は辺境防衛の防人(さきもり)、情報伝達システムの烽(とぶひ)を対馬島・壱岐島・筑紫国などに配備した。そして、敗戦の翌年に筑紫国に水城を築く。また、その翌年に筑紫国に大野城が築かれた。ともに大宰府の防衛のためである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/水城
画像6:水城とその他の史跡の位置関係
画像7:水城

今では、住宅や田園に覆われていますが、かつては堤の前(博多側)に敵侵入防止のため、水が張られていたと言います。

また、水城が建設される前はここを流れる御笠川と現在の筑紫側が水路で結ばれ、博多湾と有明海は船で移動できたであろうと言われています。

なるほど、それならば太宰府は両海を結ぶ水路の途中にあり、九州北部と南部を行き来する人や物資の流通において最適の場所であったと考えられます。

画像8:古代、博多湾と有明海は水路で繋がっていた

さて、一般的にはWikiの説明にあるように、白村江の闘いに敗れた天智天皇が、唐・新羅軍の国内侵攻を防ぐために造営されたと言われてますが、この説には異論もあるようです。それについては次に述べましょう。

■都督府の石碑

太宰府と言えば、学問の神「菅原道真」が祀られている太宰府天満宮を思い浮かべる方は多いでしょう。修学旅行や合格祈願にここを訪れたという方も多いのではないかと思います。

しかし、当日は時間があまりないこともあり、私は太宰府天満宮には寄らず、以前から注目している場所、都府楼(とふろう)近くの政庁跡に向かったのです。

画像9:太宰府政庁跡 (C)太宰府観光協会

現在の年号「令和」も今年で3年、もうすぐ4年になろうとしていますが、「令和」の名の元となった万葉集に詠まれた花見の宴は、この政庁跡のすぐ近く、大宰帥(だざいのそち:大宰府政庁長官)大伴旅人の邸宅があったと言われる、現在の坂本八幡宮近辺で催されたのではないかとされています(確定ではない)。その意味では、この太宰府政庁跡は現在の日本に生きる私たちにとっても所縁深き場所と言えるでしょう。

歴史好きの方ならば、かつて太宰府が大陸交易の中心であり、外交の拠点として政庁が作られたと覚えておられるかもしれません。

現在の政庁跡には奈良時代の礎石が残されていますが、実は、その下にも更に古い遺構があると言われているのです。しかし、それより古い年代の地層は調査されておらず、政庁の来歴は一般的に知られているものより更に古い、上代(神武以前)、上古代期(神武以後)まで遡れる可能性があるのです(あくまで推測です)。

太宰府及びその周辺地域に関して調べる対象はあまりに多いので、今回はこの政庁跡にある一つの石碑に注目します。

画像10:政庁跡に残る都督府(ととくふ)の碑

この石碑は明治の頃、政庁跡の発掘調査時に建てられたそうなのですが、実はこの「都督府」という言葉が刻まれたことに深い意味がある、それを後で知人で歴史研究家のG氏に教わりました。

この都督府、Wikiペディア「都護府」の唐代の項には次の様にあります。

朝鮮半島
・熊津都督府…顕慶5年(660年)、百済を滅ぼしその旧域に設置。
・鶏林州都督府…龍朔3年(663年)4月、新羅の版図に設置。新羅王の文武王を鶏林州大都督に任命。
・安東都護府…総章元年(668年)9月、高句麗を滅ぼして平壌に設置。朝鮮北部および満州を支配。上元3年(676年)2月に新羅、高句麗遺民との抗争に敗退して遼陽へ後退。儀鳳2年(677年)、新城に移転。697年には大祚栄との抗争の影響で廃止されたが、神龍元年(705年)に大祚栄との和解により再び設置された。しかし、安史の乱の際に再び廃された。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/都護府

要するに、「都護府」・「都督府」とは、当時の唐が侵略占領した各地に置く占領機関の拠点に付けた名称だと考えられるのです。

この辺の解釈について、「南船北馬のブログ」さんは非常に的確な指摘をされています。

都督府とは何なのか? 『日本書紀』は六六三年の白村江敗戦後の六六六年、天智紀六年の閏十一月の記事に、唯一、それはこう登場する。

「十一月の丁巳の朔乙丑に、百済鎮将劉仁願、熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聡等を遣して、大山下境部連意志積等を筑紫都督府に送る」とある。
それを岩波『日本書紀』の注は、「筑紫大宰府を指す。原史料にあった修飾が残ったもの。」とし、九州王朝説の古田武彦は倭の五王が中国南朝から与えられた称号・都督に基づくとしてきた。

しかし、六六〇年に唐は百済を滅ぼすと、唐の占領機関として百済に熊津都督府を置き、さらに馬韓、東明、金漣、徳安にも配置し占領政策を徹底した。また六六八年,唐は高句麗を滅ぼすと、同じく安東都督府を置き占領政策を押し進めた。この間に、百済再興のために倭国は半島に軍を派遣し、六六三年に白村江の戦いで唐に敗れる。

それを『旧唐書』は四度戦い、「煙焔、天に漲り、海水、皆、赤し、賊衆、大いに潰ゆ。」と簡潔に倭軍の敗北を記す。唐に敗北した百済と高句麗に占領機関としての都督府が置かれたなら、その間の白村江で敗戦した倭国の首都・大宰府に置かれた筑紫都督府が、唐制の占領機関以外の何であるのか。先の『日本書紀』の一文は,百済の熊津の唐の占領機関から倭国の大宰府の唐の占領機関への派遣記事なのだ。

https://ameblo.jp/hokuba/entry-12174042062.html

つまり、こういうことです。663年の白村江の戦いで日本(倭国)軍は唐・新羅連合軍に敗北しただけでなく

九州北部に攻め込まれ占領された

と解釈することができるのです。

すると、前節の「水城」の項で述べたように、戦いに敗れた倭国軍が太宰府に最終防衛ラインを敷いて外国軍の侵入を防いだという定説とは全く矛盾する結論が導かれるのです。この説に従えば、水城とは占領軍によって攻略されたその残骸、あるいは占領軍の防塁として後から造営されたことになります。

また、もしも外国軍に占領されたならば、その後に日本の占領政策がどのように実施されたのか、何かその記録が残っていないとおかしいのですが、そのようなものを私も知りません。だからこそ、

 日本は一度も侵略を受けたことがない独立国

という、日本人として少し誇らしげな自負を覚えるのですが、ここで、占領軍の手によって「侵略の記録を国史から一切排除する」という「国史改竄計画」が、占領時から始まったと考えたらどうでしょうか?

この「国史改竄計画」の存在については、それこそが私のブログの主要テーマの一つだった訳ですが、もしかしたら、白村江の戦いこそが、日本国史改竄の大きなきっかけとなったことは十分に考えられるのです。

それは、

 633年 倭国軍唐に敗れる(九州北部占領される)
 712年 古事記編纂される(推定)
 720年 日本書紀編纂される(推定)

など、白村江の戦い以降に慌ただしく史書が整備された事実とも符合します。つまり、記紀とは正確な故事を記録に残すための書というよりも

 不都合な歴史(侵略の事実)を隠蔽するための書

である可能性が高いと考えられるのです。この視点に至った時、私が以前から指摘している

 ・上代の史実は敢えて神話ファンタジー化されている
 ・記紀は史実を暗号化によって伝えている

などが、占領下において何とか正確な史実を後代へ伝えようとした、当時の歴史家たちによる懸命の創意工夫であったとする予想に大きな根拠を与えるのです。

 
* * *

白村江の戦いによる倭国占領、そして史書から消えた占領の歴史。1300年前の侵略者はその後どうなったのか? 少なくとも、明治になって政庁跡にこれ見よがしに「都督府」の石碑が建立された事実から、その時まで占領政策が延々と続いてきたことが分かるのです。

もしかしたら、米国GHQによる第二次世界大戦後の日本占領などに私たち日本人は騒いでいる場合ではないのかもしれません。私たち日本人は古くから(緩やかな)被占領の民であったかもしれないのですから。


東風吹かば匂い起こせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ (菅原道真)
管理人 日月土

再び天孫降臨の地へ(2)

今回は前回の記事「再び天孫降臨の地へ」の続きとなります。実は前回の記事を書き上げてからまたしても調査のため福岡県に向かうこととなりました。個人的に縁の深い土地ではありますが、それ以上に古代史の秘密が凝縮された土地であり、これからも福岡詣では欠かせないだろうと予想しています。

さて、伊勢神宮とそっくりの櫻井神社を調査した後に私が向ったのは、支石墓(しせきぼ)で有名な、糸島市の志登(しと)周辺で、取り敢えず目標地点は志登神社に合わせました。

支石墓とはWikiペディアには次の様に説明されています。

支石墓(しせきぼ)は、ドルメンともいい、新石器時代から初期金属器時代にかけて、世界各地で見られる巨石墓の一種である。基礎となる支石を数個、埋葬地を囲うように並べ、その上に巨大な天井石を載せる形態をとる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%AF%E7%9F%B3%E5%A2%93

そして、ここ糸島の支石墓については、糸島市のホームページに志登支石墓群として次の様に説明されています。

この遺跡は糸島市北部の田園地帯、標高約3メートルの低地にある墓地群です。発掘調査は戦後間もない昭和28年(1953)に行われ、わが国における支石墓研究の貴重な1ページを飾ることとなった著名な遺跡です。

調査では、弥生早期から中期(約2500から2100年前)にかけての支石墓10基、甕棺墓8基などが発見されており、支石墓のうち4基が調査されました。支石墓とは遺体を埋葬した上に大きな上石を置くお墓です。元々は朝鮮半島によく見られるお墓ですが、弥生時代の始まった頃に日本にその作り方が伝えられました。上石は花崗岩や玄武岩を使用し、大きいものは長さ約200センチメートル、幅約150センチメートル、厚さ約60センチメートルにも及びます。埋葬施設は素掘りの穴(土壙)や木棺であったと考えられます。副葬品として6号支石墓から打製石鏃6点、8号支石墓から柳葉形磨製石鏃4点が出土しています。支石墓は弥生早期から前期(約2500から2200年前)に造られたと考えられます。

支石墓に副葬品が納められるのは非常に珍しく、特に柳葉形磨製石鏃の出土は朝鮮半島との交流を物語る貴重な資料です。

志登支石墓群から可也山を望む


https://www.city.itoshima.lg.jp/s033/010/020/010/110/130/shito-bogun.html

このページの写真に添えられたキャプションにも注目して頂きたいのですが、この背景に見える山は、糸島を象徴する山で、可也山(かやさん)と呼ばれています。

説明文には支石墓について「朝鮮半島によく見られるお墓ですが、弥生時代の始まった頃に日本にその作り方が伝えられました」とあります。ここで、山の名から朝鮮半島南部に存在したとされる伽耶国(かやこく)との関連性が気になります。もっとも、伽耶国の存在時期は3世紀から6世紀とされているので、時代的には糸島の支石墓が作られた時期とは合いませんが、伽耶国成立以前から長期に亘って糸島と朝鮮半島の間で行き来が続いていたことを連想させるのです。

ご存知のように、神話における天孫降臨の主人公である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)をモデルにして、アニメ映画「もののけ姫」の登場人物であるアシタカが描かれいるのですが、同じようにその母である栲幡千千姫(たくはたちちひめ)がカヤの名で同作品に登場します。

画像1:アシタカとカヤ

天孫降臨が現実の史実としていつ頃行われたのかは微妙なところですが、私の予想ではおそらく1~2世紀頃、時代的には志登に支石墓が作られたその後位で、伽耶国成立よりも前になるかと考えられます。

なぜアニメでは千千姫に「カヤ」という朝鮮を連想させる名前が付けられ、朝鮮様式の衣装をまとう姿でキャラクターがデザインされたのか、それが前から気になっていましたが、もしかしたら伽耶国と古代日本の関係を理解するヒントがここ糸島には残されているのかもしれません。

■志登神社は海の役所か?

実は7年前の2014年にも志登神社を訪れているのですが、その時は放火による火事で本殿が消失した直後であり、それはもう無残な姿でした。

今回の訪問はその時以来だったのですが、見事に再建されており、それを見てひとまず安心しました。

画像2:志登神社

さて、この志渡神社の周囲がどのようになっているのかを示したのが次の写真です。

画像3:志登神社前から周囲を見渡す(Googleより)

神社は四方を田んぼに囲まれ、見渡した向こうに背振の山々や可也山が見えるといった、非常に見通しの良い場所にあります。件の支石墓も、この田んぼの中に点在する小さな緑地として確認することができます。

何だかどこにでもある地方の神社のようですが、この神社のかつての役割は、支石墓が作られた海進期の頃の地形を知らないと見えてこないでしょう。

それは次の、当時の予想地形図を見るとはっきりするのです。

画像4:志登神社は海峡の中にあった
(☆は再建された志登神社、〇は三雲南小路遺跡)

現地に行くと分かるのですが、神社のある場所は周囲よりもわずかに標高が高い。同様にに支石墓のある場所もわずかに高いようです。これは、海進期において糸島が浅い海峡で分断されていた頃、ここが海峡の海面から僅かに顔を覗かせた中州のような小島であったことを思わせます。

おそらく、海峡に入ってきた小舟が船を寄せる場所だったのではないでしょうか。そして現在志登神社となっている場所は、海峡に入る船がその上陸許可を求める、関所のような海の役所的存在であったと考えられるのです。

ここに限らず、海辺にある神社とは、古くはお参りする場所と言うより行き交う船の目印であって、上陸や荷揚げに必要な手続きを行う、何か役所的な機能を担っていたと考えられるのです。現在は参道の灯篭に灯が入るのを見るのは稀ですが、かつては、夜間の灯台の如く、一晩中灯が灯されていたのではないでしょうか。

私の歴史アドバイザーであるG氏は、「志登」とは「七斗(しちと)」の変名であり、七斗とはその名の通り北斗七星を表す。そして北斗七星こそ操船を生業とする海神系民族にとっては航海における目印であり、それゆえ崇拝の対象でもあったのではないかと述べています。

■王墓と金印

志登神社を訪ねた後、私は糸島市の南寄り、背振の山々にも近い三雲へと向かいます。ここには3種の神器が出土した国内有数の王墓「三雲南小路遺跡(みくもみなみしょうじいせき)」があります(画像2を参照)。

画像5:三雲南小路遺跡

ここが何故王墓と呼ばれるかと言えば、それは出土品に剣・鏡・勾玉のいわゆる3種の神器が全て揃っているからです。この3種が揃って出土しているケースはこれまで調査された遺跡の中ではここを含めて確か数か所程度であると記憶しています。

すなわち、この遺跡の被葬者は、考古学上の分類でよくありがちな「地方豪族」で片付ける訳にはいかない身分の人物なのです。現地の案内板では「伊都国の王ではないか?」とされていますが、王墓の推定年代(約2000年前)からすると、ちょうど天孫降臨が行われた前後となるので、記紀の神代や、秀真伝のアマカミ時代にあたりに登場する人物の可能性も捨てきれないのです。

遺跡は埋め戻されて、現地を見ても田んぼの中の空地に案内板だけが立っている体なのですが、ここの見所はむしろそこから少し離れた所に鎮座する細石神社(さざれいしじんじゃ)なのではないかと私は考えています。

画像6:細石神社

この神社と王墓跡との位置関係は下図のようになっています。

画像7:細石神社と王墓の位置関係

上図をご覧になれば分かるように、この神社はまるで王墓を遥拝するかのように建てられているのです。ですから、ここはかなり古くからこの王墓と関係する場所であったと考えられるのですが、驚くのはこの神社にはあの有名な金印にまつわる伝承が残っているのです。

画像8:金印(福岡市博物館HPから)

金印を収蔵している福岡市博物館の説明には次の様にあります。

金印は江戸時代、博多湾に浮かぶ志賀島(しかのしま)で農作業中に偶然発見されました。その後、筑前藩主である黒田家に代々伝わり、1978年に福岡市に寄贈されました。
 金印に刻まれた「漢委奴国王」の五つ文字からは、漢の皇帝が委奴国王に与えた印であることが分かります。そして中国の歴史書『後漢書』には、建武中元二(57)年に、光武帝が倭奴国王に「印綬」を与えたことが書かれており、この「印」が志賀島で見つかった金印と考えられるのです。

http://museum.city.fukuoka.jp/gold/

ところがG氏が細石神社の宮司さんから直接聞いたという話によると

あの金印は元々細石神社の宝物として所蔵していたものだが、ある時、それを見たいという黒田藩主の要望に従い献上したところ、それ以来戻ってきていない。そして、志賀島で偶然発見されたという伝承と共に、黒田家から福岡市博物館に納められた。

ということらしいのです。これはおそらく、現皇室以外の王家が日本に存在したのではないかという史実を黒田家が恐れ、しばらくの間この金印の存在を隠匿した後に、金印の発見に直接関わっていないことを言い訳する理由として、このような志賀島発見譚を添えたのだろうと、G氏は推測します。

画像9:細石神社と金印発見場所の位置関係

糸島は一般的な解釈では、その地名から魏志倭人伝に登場する「伊都国」の地と考えられがちですが、王墓と細石神社の金印伝承から窺えるのは、この地が「伊都国」ではなくむしろ「奴国」だったのではないかということです。

少し話が逸れてしまいますが、邪馬台国論争の九州説が定まらない一番大きな理由とは、「伊都国」を勝手に「糸島」と解釈してしまっていることでないかと私は考えます。同じように末羅国(まつらこく)を現在の長崎県の松浦に同定していることも、その原因なのでしょう。

私が以前から繰り返し主張しているように、日本という国は古代から計画的に史実の改ざんを行っている節があるので、現在残る地名が本当に古代からのものかどうかは注意が必要なのです。

ですから、金印を巡り黒田家が本当に恐れたのは、現皇室以外の王の存在よりも、むしろ奴国の正確な所在が突き止められることだったのではないかとも考えられるのです。それならば、「王権の印綬が志賀島で偶然発見された」という冷静に考えれば作り話としか思えない発見譚が添えられた理由も見えてくるのです。

* * *

さて、以上の考察を続けてきて私の頭はますます混乱してきました。昨年の記事「天孫降臨と九州(2)」では、糸島こそが天孫降臨の現実の舞台なのではないかと仮説を提示しましたが、ここに来て、支石墓と伽耶を巡る朝鮮半島との関係、そして奴国と漢王朝(後漢)との関係性まで浮上してきてしまったのです。

現在の歴史学の定説に従い、これらを時代順に整理すると次のようになるかと思います。
 (1)支石墓の時代(朝鮮との行き来)
 (2)奴国王金印授受・天孫降臨
 (3)伽耶国誕生(朝鮮との行き来)
 (4)倭国大乱
 (5)邪馬台国時代(他に奴国、伊都国、末羅国等)

これを見ると、天孫降臨の推定時期と奴国王に金印を贈った後漢時代が重なってきますから、奴国王とはいわゆる現皇室の祖である天照(実在した男性王)と無関係だとは言い切れません。むしろ皇統関係者であると見るべきで、3種の神器が揃っていることが逆にそれを表しているとも考えられます。つまり、天孫降臨の地が糸島であったことを裏付ける補強材料となる可能性もあるのです。

頭がいっぱいになったところで、このトピックは取り敢えずここまでとし、次は福岡の重要歴史スポットである太宰府を見てみることにしたいと思います。


古の王可也の山見て何をか語らん
管理人 日月土

再び天孫降臨の地へ

先日、私が天孫降臨の地ではないかと推定する福岡県は糸島市を再び調査に行ってきました。その前は青森県の弘前市ですから、北から南へと私も随分と忙しく移動しているものだと、我ながら呆れてしまいます。

天孫降臨ついては昨年の次の記事で私の考えを述べています。

 ・天孫降臨と九州 
 ・天孫降臨と九州(2) 

また、天孫降臨神話の脇役として重要な位置を占める猿田彦について、実在しただろう天孫降臨出立の地を現在の千葉県東部沿岸地域と推定した上で、幾つか考えを示しています。

 ・天孫降臨とミヲの猿田彦 
 ・椿海とミヲの猿田彦 
 ・麻賀多神社と猿田彦 

ご存知のように、天孫降臨の主役となるのは日本神話における瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)ですが、アニメ映画「もののけ姫」に登場するアシタカがどうやらこの瓊瓊杵尊をモデルに描かれていることを突き止め、最近までアニメストーリーを元ネタに、歴史的事実を考察してきたのは、このブログの読者様ならあえて尋ねるまでもないかと思います。

 ・愛鷹山とアシタカ 
 ・もののけ姫と獣神たち 
 ・犬神モロと下照姫 
 ・下照姫を巡る史書の暗号 
 ・モロともののけ姫の考察 
 ・サンがもののけ姫である理由 
 ・もののけ姫 - アマテルカミへの呪い 
  (以上掲載順)

アニメの構造分析対象は「もののけ姫」から「千と千尋の神隠し」へと移り、ここでは、偶然なのか、あるいは関連があるのか、天孫降臨の出立推定地である千葉県東部地方が再びクローズアップされます。

 ・千と千尋の隠された神 
 ・千と千尋の隠された神(2) 
 ・千と千尋の隠された神(3) 
  (以上掲載順)

このように、天から神が降りて来て現在の天皇家の祖先となったとする天孫降臨神話は、日本書紀や古事記の記述がファンタジーから現実的な史実へと切り替わる重要なターニングポイントであり、日本の成り立ち、日本の国史を考える上でも極めて重要な一節であることが窺えます。

そのような重要史実であるからこそ、国民的アニメ映画の題材に使われたと考えられ、同時にこの史実を解明することで、神話化・ファンタジー化されてしまった、私が上代と呼ぶ、太古の日本社会がどのようなものであったのかが見えてくると期待されるのです。

天孫降臨のあった時代は、現代の歴史学的には弥生時代に入ったところ(紀元前百年前後)と推定されますが、前回の記事でも書いたように、縄文式の生活スタイルは関東・東北地方などには長く残ったとも考えられ、この時代は弥生式・縄文式の両文化が並立していたのではないかと私は見ています。また、そのような異文化同士が交流し統合し合う時代だからこそ、天孫降臨なる一種の冒険譚のような物語が作られ、同時に消えていった側の文化が神話という、架空の物語に置き換えられてしまったのではないかとも思えるのです。

さて、昨年の記事では地図上の分析が中心で、糸島という土地の雰囲気が伝わりにくかったかと思います。歴史スポット、また観光名所としても糸島の見所は幾つもあるのですが、ここではまず、私もたいへん気に入っている糸島の櫻井神社とその周辺についてレポートしたいと思います。

■九州の伊勢

画像1:夫婦岩

九州北部にお住いの方ならば、この写真を見てすぐにどこか分かるかと思います。しかし、他地域の方はもしかしたら、こちら(画像2)の方を連想してしまったのではないでしょうか?

画像2:夫婦岩

画像1は糸島市志摩桜井にある二見ヶ浦、そして画像2は伊勢市二見町にある全国にも知られた二見ヶ浦の夫婦岩なのです。

同じような形状の夫婦岩なら日本全国どこにでもありそうですが、「二見ヶ浦」という地名も同じですし、「志摩」という地名も、伊勢志摩で一括りされることの多い、三重県伊勢地方の地名に呼び名がそっくりです。また「桜井」という地名も、どことなく三重県の隣、奈良県の桜井市を想像してしまいますよね。

私も初めてここを訪ねた時、「何だここは、伊勢のコピーか?」と思ったものです。しかし、時に地名というものは深い意味付けをされている場合もありますから、糸島と伊勢に何か同じような意味が込められていたとするなら、それを象徴する地名が似たり同じになったりするのはそれほどおかしなことではありません。全国の県庁所在地、多くは旧藩政の城下町だった都市に、赤坂や千代田があるのと同じだと考えられるのです。

伊勢の二見ヶ浦の場合は、第11代垂仁天皇の皇女、倭姫(ヤマトヒメ)が景色の美しさに二度振り返ったとの伝承がありますが、果たしてそれが地名の本当の由来なのか定かではありません。おそらく、神事に絡む別の深い意味があったのではないかと想像されます。

さて、糸島の二見ヶ浦の場合は、砂浜に大きな石が意図的に置かれている、あるいはそこだけ岩場が残されているのが、次の画像3から見て取れます。

画像3:夫婦岩の周辺だけ岩場になっている

この岩場は一体何なのでしょうか。そこで、岩場から夫婦岩を眺めた画像1の写真から、両岩間にある空間を拡大してみました。

画像4:手前の大石の向こうに小呂島が見える

夫婦岩を覗くとその向こうに小呂島(おろじま)が見え、それが見える丁度その位置に大石が置かれているのが次の画像5でお分かりになると思います。つまりこの大石と小呂島を一直線に繋ぐと、うまく夫婦岩の間を通るように配置されているのです。

画像5:手前の大石の向こうに小呂島が見える

白い鳥居が最近になって建てられたのは明白で、二見ヶ浦で重要なのはむしろ小呂島を強く意識したこの大石なのでしょう。なぜ小呂島なのかと言えば、次の地図を見ればその意図が見えてきます。

小呂島は海上移動の中継地点

画像6を見ればお分かりになるように、小呂島は小さな島ですが、壱峻島、唐津、福津などからほぼ等距離の位置にあり、海上交通の要衝として極めて重要な位置にあることが分かります。古代、海上での移動が危険だった頃、こうした中継地点の存在は欠かせなかったはずです。

特に福岡は朝鮮半島や大陸との窓口でしたから、ここを行き交う船は小呂島を経て壹岐、対馬、朝鮮半島、あるいはその逆を進んでいたと考えられます。その大切な小呂島を見守り航海の安全を祈願するのが、もしかしたらこの二見ヶ浦に持たされた役割だったのではないでしょうか?

これは蛇足かもしれませんが、画像6の地図に能古島(のこのしま)の位置を入れておきましたが、小呂島と能古島の両島名を合わせると

  おろ+ノコ → おノコろ

となるのが分かります。おのころ島とは、日本の国生み神話で、イザナギとイザナミの二神が最初に作ったとされている島のことです。二見ヶ浦の夫婦岩にはそのイザナギ・イザナミ神が祀られています。そして能古島には、イザナギ石・イザナミ石というちょっと風変わりな石積みが残されており、こうなると島名の関連性を単なる言葉遊びで片付けてよいのか気になるところであります。この話は長くなりそうなので、別の機会に考察することにしましょう。

■伊勢神宮を思わせる櫻井神社

福岡のパワースポットとして、福岡県人には良く知られた櫻井神社。この神社は二見ヶ浦のすぐ裏手の小山の上に鎮座しています。この神社の入り口から鳥居の奥を見ると次の写真のようになっています。

画像7:櫻井神社の入り口正面

鳥居を抜けたすぐ先には石造りの太鼓橋が掛かっており、画像7ではその先が橋に隠れて見えません。それでは橋を越えて真っすぐ石畳の参道を進めばそこが櫻井神社なのかというと、実はそうではないのです。参道の行き着く先、その末端にあるのは、

 猿田彦神社

なのです。

画像8:猿田彦神社。参道はここに向かっている
裏手も古墳か?

そもそも櫻井神社は江戸時代初期の1632年、二代目福岡藩主の黒田忠之(くろだただゆき)によって造営されたとその由来に書かれています。造営のきっかけとなったのは、天災によって土が流され、古墳の石室が現れことに始まります。それを藩主の黒田氏が社殿を建て丁重に祀ったことで現在に至っています。

その辺の詳しい云われは猫間障子さんのブログに詳しいので、そちらにお任せしますが、旧号で與止姫大明神(よどひめだいみょうじん)と呼ばれた櫻井神社の歴史は、比較的新しいと言えるでしょう。もちろん信仰の元となった古墳そのものは当然古墳時代のものであるでしょうけども。

よって正面入り口と参道、社殿の位置関係から、櫻井神社の本来の信仰対象はこの猿田彦神社でなかったのかと推測されるのですが、そのような事実は同社のホームページを見ても書かれていません。ここで櫻井神社の社殿の配置を図に表すと画像9のようになります。

画像9:櫻井宮と大神宮は参道の両脇にある

この、2つの宮の中央部分に猿田彦神社を配置する造作は、実は三重県の伊勢神宮でも見られるものです。しかし、伊勢と言えばやはり伊勢神宮の内宮と外宮がメインであり、猿田彦の子孫と言われる宇治土公(うじとのこう)氏が宮司を務める猿田彦神社についてあまり意識されることはありません。

画像10:伊勢神宮の場合も猿田彦神社が間にある

いつものことですが、私はこのように敢えて言葉で触れられていない事実を見ると、そこに物事の真意が隠されているのではないかと考えます。特に日本の歴史には隠し事が多いので、文字に残さずとも構造物を通して真実を残すやり方は大いにあり得ると考えます。

それはともかく、夫婦岩と言い、地名と言い、社殿の配置と言いとにかくこの社の作りは伊勢とそっくりなのですが、それもそのはずで、櫻井神社を造営する時にわざわざ宮大工を伊勢から招聘したというのですから、様々な部分で両者が似てくるのはさもありなんといったところでしょう。

実際に、境内の鳥居の一部は最近になって移築されたもののようです。また、一目見れば桜井大神宮は伊勢神宮の作りにそっくりですし、1800年代の後半まで20年に一度の式年遷宮まで行われていたそうです。現地には、かつて遷宮が行われていただろう、礎石を残した開けた場所が残されています。

画像11:どこか伊勢神宮ぽい櫻井大神宮

■謎の祭神、與止姫命

私も猫間障子さんのブログを読んで初めて知ったのですが、元の社号でもあり、由来にも祀られていると書かれている「與止姫大明神」こと與止姫命は、実はこの神社の創建以来一度として正式な祭神として祀られたことが無いようなのです。それって一体どういうことなのでしょう?

画像12:左上から櫻井神社の楼門・拝殿・岩戸宮

櫻井神社の造りはとにかく立派であり、さすが長く福岡藩主の厚い庇護を受けてきたものであると納得するものです。古びて派手さが薄れてきているのが、むしろ良い味を出しているとも言えます。

この神社の一番の見所は、年に一度お正月の頃に開かれる同社の奥宮に当たる岩戸宮でしょう。私もかつて友人に誘われ、開かれた岩戸宮の石室に入り中でお参りしたことがあります。それはもう厳かで、日本古来の信仰のあり方を肌身で感じることのできた良い体験でした。

そうなると、この石室の埋葬者、おそらく與止姫命のことではないかと思われるのですが、その人物がどのような方であったのか気になります。ところが、その肝腎の信仰主体が祭神にも祀られず、その正体も不明と言うのですから、何とも不可解な話です。

與止姫命の名は、猫間障子さんのブログにもあるように、実は佐賀県内の神社で多く見られます。おそらく、糸島から背振の山々を経て佐賀に至る地域に良く知られた古代人女性であったのだとは類推できるのですが、記紀にも登場せず、その他の伝承にも乏しいため、どのような人物だったのか特定するのは難しいようです。

Wikiによると、與止姫命と呼ばれる歴史上の人物(神様)の候補に、「神功皇后の妹」あるいは「豊玉姫」の二説があるようですが、それも定かではありません。

この謎の人物である與止姫命の正体については、次のメルマガで私の考察を述べさせて頂こうと考えています。私は、神社の名に冠せられているのに「祭神として祀られていない」という事実そのものが、この人物を特定する上で重要な鍵であると考えます。


 * * *

天孫降臨について少しは触れるつもりでしたが、今回は二見ヶ浦、櫻井神社という糸島の限られた一地域のご案内で終わってしまいました。しかし、ここを俯瞰するだけでも、この地に秘められた歴史の奥深さがお分かりになられたのではないでしょうか。

次回は、糸島に眠る王墓について見ていきたいと思います。ここにきていよいよアシタカ(瓊瓊杵尊のこと)の名前が登場してきます。


とこしえに思ふ椿麗し姫の園
管理人 日月土

土偶は何を語るのか?

今回もまた、今月上旬に津軽地方を調査した時の報告となります。津軽の縄文遺跡と言えば、忘れてならないのはやはりこれでしょう。

画像1:五能線木造駅の駅舎
全長17mの遮光器土偶を象ったデザインで有名

駅舎モデルとなったこの遮光器土偶は、木造駅から北西方向へ10km程度離れた亀ヶ岡石器時代遺跡から出土したものとされています。

画像2:亀ヶ岡石器時代遺跡から出土した遮光器土偶
Wikiペディアから(東京国立博物館展示)

亀ヶ岡石器時代遺跡も訪れてみましたが、基本的に発掘跡は埋め戻され、これといった展示施設もなく、草が刈られた空き地に写真のような説明パネルが申し訳なさそうに建てられているだけで、正直なところ少々期待外れだった感は否めません。

それでも、現場におられた発掘中の作業員さん(皆さん女性)に土地の状況や今後の発掘の展望などお話を伺うことができ、この地の発掘や研究などはまだまだこれからの課題であり、遺跡の分析が進むにつれて、何か大きな成果が発見されるのではないか、そんな期待を抱くに十分魅力的な土地であったことは記録に留めておきたいと思います。

画像3:亀ヶ岡石器時代遺跡の発掘現場

■土偶の謎

一口に土偶と言っても、遮光器土偶の他、様々な土偶が全国で発見されています。以下、Wikiや博物館などネット上で公開されている写真画像を幾つかピックアップしてみました。

画像4:様々な土偶と出土遺跡
1. 長野県棚畑遺跡      
2. 山梨県鋳物師屋遺跡     
3. 岩手県長倉I遺跡      
4. 長野県中津原遺跡     
5. 青森県三内丸山遺跡     
6. 青森県二枚橋2遺跡      
7. 山形県西ノ前遺跡(縄文のビーナス)
8. 群馬県郷原遺跡(ハート型土偶)

土偶を出土場所を調べていて気付いたのですが、やはり土偶類も縄文遺跡の密集度に比例して、琵琶湖以東に当たる東日本・東北地方での出土が圧倒的多数を占めています。近年、その精神性や芸術性の高さが見直されている縄文時代の出土品ですが、そうなると、日本人の精神性が古くは東日本を中心に形成されたとは言えないでしょうか?もしもそうなら、九州から関西を中心に記述されている日本古代史、特に神代の解釈は、今後大きく修正される可能性を秘めているとも言えます。

さて、土偶を取り上げたところで、そもそも土偶は何を象徴しているのかという疑問が生じます。考古学の一般的な解釈では、多産・豊穣・地母神など「女性性」の象徴と言われていますが、画像4を見れば分かるように、土偶の形状は必ずしも女性性を表しているものばかりとも言い切れません。実際の所、土偶が何であるかという問いについては、最初の研究から100年以上経った現在でも、核心的なことは分からず謎のままであるようです。

そうやって謎であるのをいいことに、私が子供の時に読んだ本の中には「土偶=宇宙人」説という奇説まであり、私も一時期はそれもあり得るかもしれないと本気で信じていたものです(笑)

ここで人類学者の竹倉史人さんによる土偶の新解釈に関する記事を見つけたので、その記事から私が重要と思う部分を抜き出して紹介しておきましょう。

日本考古学史上最大の謎「土偶の正体」がついに解明
「土偶は女性モチーフ」の認識が覆った!驚きの新説(前編)

 (中略)
土偶の存在は、かの邪馬台国論争と並び、日本考古学史上最大の謎といってもよいだろう。なぜ縄文人は土偶を造ったのか。どうして土偶はかくも奇妙な容貌をしているのか。いったい土偶は何に使われたのか。縄文の専門家ですら「お手上げ」なくらい、土偶の謎は越えられない壁としてわれわれの前に立ちふさがっているのである。
 (中略)
結論から言おう。
 土偶は縄文人の姿をかたどっているのでも、妊娠女性でも地母神でもない。〈植物〉の姿をかたどっているのである。それもただの植物ではない。縄文人の生命を育んでいた主要な食用植物たちが土偶のモチーフに選ばれている。
 (中略)
 古代人や未開人は「自然のままに」暮らしているという誤解が広まっているが、事実はまったく逆である。かれらは呪術によって自然界を自分たちの意のままに操作しようと試みる。今日われわれが科学技術によって行おうとしていることを、かれらは呪術によって実践するのである。
  (中略)
つまり、「縄文遺跡からはすでに大量の植物霊祭祀の痕跡が発見されており、それは土偶に他ならない」というのが私のシナリオである。このように考えれば、そしてこのように考えることによってのみ、縄文時代の遺跡から植物霊祭祀の痕跡が発見されないという矛盾が解消される。
(以下略)

引用元:JBpress https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65038

結論は既に本文冒頭に書かれていますが、改めて簡潔に書き直すと次の様になるかと思います。

 土偶とは植物霊祭祀の一環として食用植物を擬人化したもの

そして、竹倉氏の記事は後編へと続くのですが、そこでは新説の実証として、縄文時代から自生する食用植物と土偶の形状との比較をオニグルミを題材に細かくかつ具体的に検証されています。

この食用植物擬人化説が定説と成り得るかどうかは今後の更なる検証を待つとして、「呪術」や「祭祀」を当時の人々の純粋な「必然的実践」として捉え直した点はたいへん重要であると私も評価します。

当時の人々にとって世界がどう見えていたのか、それは現代社会の常識でいくら俯瞰してみたところで理解できるはずがありません。彼らにとっては、それが生き残るために絶対に欠かせない要素であるからこそ土偶を作ったはずです。

彼らが土偶を必要としたその時代の論理と背景、それを追求することこそが土偶の謎を解明する上での最初のステップである、その点において私は竹倉氏のアプローチには全面的に賛同できるのです。

ただ一つ付け加える要素があるとすれば、せっかく「呪術」という歴史観を得たのなら、それを植物霊祭祀に限定して議論することは少し性急ではないかということです。というのも、古代呪術とは森羅万象に及ぶものであり、草木魚貝の形状のみに拘るような小さなものではないと考えられるからです。

例えば、東北地方に多く見られる環状列石をどう説明したらよいのでしょうか?一般的に天体の運行に関係しているのではないかと言われる環状列石も、呪術における一つの形態と考えれば、植物霊祭祀と全く無縁であったとも言い切れません。植物は陽によって育ち、雨によって育まれることくらい古代人も理解していたはずです。そのような天体を含むこの世の万物に対する信仰姿勢や呪術的手法まで突き詰めない限り、早々に結論を出すべきではないと私は考えます。

画像5:大森勝山遺跡の環状列石跡(背景は岩木山)

■東日流外三郡誌が記述する土偶

前回の記事で、東日流外三郡誌(以下三郡誌と略す)をご紹介しましたが、ここでまた、三郡誌が遮光器土偶についてどのように述べているのか、参考までに書籍から一部を抜粋し掲載したいと思います。

画像6:東日流外三郡誌に登場する遮光器土偶
※八幡書店 東日流外三郡誌1古代編(下)320ページより

同書によると、この絵が転写されたのは寛政5年ということですから、西暦で言うと1793年ということになります。1800年代後半の明治期に土偶の研究が始まったとされていますから、それよりも100年前に三郡誌は既に土偶について触れていたということになります。もちろん、この記述が本当ならばですが。三郡誌は後年になってかなり書き足された形跡も見られるので注意が必要なのです。

一応、記述が正直なものであると受け止めて解釈すると、遮光器土偶は荒吐国(アラハバキ)で崇拝された神の姿を象ったものであるということになります。

同書によると、荒吐国の信仰対象とは日月水木金火土鳥獣魚貝などの自然物や、雨風病死などの自然現象だったと言います。大きく捉えれば自然崇拝となるでしょうか。そして、それぞれの自然物・現象を神として崇めたとあり、それらが各々偶像化されたものが上図にあるような土偶の意味であると言ってるようです。

同書には上図に続き、遮光器土偶の姿をした神、ハート型土偶の姿をした神、そして変わり種としてはユダヤ教祭司のような姿をした神まで挿絵として登場します。その中で圧倒的に多いのは遮光器土偶型ですが、正直なところそれぞれの形状の違いは明瞭に見分けが付きません。各挿絵には草神・木神・魚神などの神名が添えられています。食料に関する神々も多数登場しますが、ここで大事なのは、土偶は信仰の対象として作られたと記述されている点でしょう。

残念なのは、なぜこのような遮光器を被っているような形状の頭部になるのか、あるいはハート形のような不思議な形状の頭部になったかの説明はなく、ただそれを「荒吐の神々」と断じている点です。また、画像4で示したような、全国で見られる土偶のバリエーションについては記されておらず、この記述を以って土偶とは何かを論ずるのは、やや早計かと思われます。その点では竹倉氏の考察の方がより説得力があると感じます。

土偶の意味は古代信仰・呪術、引いては古代社会の世界観を知る上でたいへん重要であると私は見ます。よって、三郡誌が土偶について触れた点も含めて、後日改めて考察を深めたいと考えています。

 * * *

このブログでこれまで取り扱った古代とは、記紀の神代に相当する部分であり、現在の歴史学的な区分では弥生時代に相当します。しかし、縄文や弥生を時代を区分する記号として使用するのは少しおかしくはないでしょうか?

中世時代に至るまで東北地方が弥生以降の文明の侵入を阻んでいたと言うなら、東北地方は2000年近くも長く旧来の縄文文化圏のままであったことになります。つまり、縄文とは時代を指す言葉ではなく、あくまでも文化スタイルの違いを表す言葉に過ぎないことになります。

そうなると、弥生・縄文の文化的併存時代が長期に亘って存在したことになり、古代の時代区分として弥生と縄文を使い分けるのに意味はなくなります。むしろ、2つの異文化がどう混じり合い進化してきたのか、そこを問うことに大きな意味があるのでしょう。

その意味でも、縄文文化の影響をより強く残す関東以北、つまり日本の東半分に注目しなければ真実の日本古代史は見えてこないだろうと私は予想するのです。


古人の山と語りせば神とぞ見ゆ
管理人 日月土

千と千尋の隠された神(3)

-琥珀に刻まれたメッセージ-

アニメ映画「千と千尋の神隠し」(以下「千と千尋」と記述を省略)、これまでの考察からその裏ストーリーが示すこの映画のモデル地を、

 千葉県東総地区(現銚子市・旭市・東庄町)

と特定し、また、映画に描写された構図などから、「油屋」のモデルが、千葉県銚子市に鎮座する

 猿田神社

であることを導きました。

この結論に対し、関東の東の外れにあるいかにも閑散とした地方都市と、あまり有名とも言えない田舎の神社が、どうしてあの大ヒット映画の聖地になり得るのか?と、まだ納得できない読者様も多いかと思います。

そこで、前回は省略しましたが、上記の結論でほぼほぼ間違いないだろうという、決定的な事実をここでお知らせします(メルマガ8月16日号では解説済)。

■舞台特定の決め手:琥珀

画像1:ハクは龍と人間の2形態を持つ
同じ設定が「竜とそばかすの姫」の「リュウ」にも使われている

ご存知の様に、上図はこの映画の主要登場人物の一人である通称「ハク」であり、そして湯婆に奪われたその本当の名は

 ニギハヤミコハクヌシ ・・・(1)

であることを思い出してください。次に以下の図を見ていただきたいと思います。

画像2:幼い頃に千尋は川で溺れた

溺れた千尋を助けたのが白い龍神となった「ハク」なのですが、この川の名前は何であったでしょうか?そうです、

 コハクガワ ・・・(2)

なのです。

(1)と(2)に共通する文字列が「コハク」となることはすぐに気付かれたと思いますが、同時に、この様に重ねて命名するからには、この文字列に何か特別な意味があろうことは、読者の誰もが想像し得るのではないでしょうか?

「コハク」とは素直に解釈すれば「琥珀」、英語で言うところの amber(アンバー)であり、太古の樹脂が化石化したものです。宝石などに興味がある方なら、宝石の原石の一種であることは既にご存知かと思います。

画像3:琥珀

実はこの琥珀、日本にもその産出地として知られた土地が二箇所あり、その一つが

 千葉県銚子市

なのです。そして、縄文時代には既に琥珀を加工していた痕跡が銚子の遺跡からは見つかっています。

画像4:日本における琥珀の産地
画像引用元:久慈琥珀株式会社

日本全国でも産地が限られている「琥珀」。その「コハク」の呼び名が映画の中で重ねて使われているだけでなく、その主要産地までが、これまでの考察によって得られた映画のモデル地「千葉県東総地区」とピッタリと重なるのは、もはや偶然で済まされる話ではありません。この映画は

 明らかに千葉県東総地区を意識している

と断言しても良いのです。

そして、琥珀とは元々樹脂でありますから、当然ながら油の一種です。前回の記事で取り上げた当地の産物を併せて列記すると次の様になり

 1)醤油
 2)椿 (種子から油)
 4)紅花 (食用油)
 3)キャベツ (アブラナ科)
 4)養豚 (脂肪の多い食肉)
 5)琥珀 (樹脂)

以上の様にどのアイテムも「油」に絡んでくるのです。ですから、映画の中で湯処であるはずの「湯屋」がどうしてわざわざ「油屋」と表記されているのか、この「油」の一文字を見ただけで、この映画のモデル地がどこであるのか特定できるようになっているのです。

画像5:「油」の字は映画モデル地の象徴である

■千尋の母の声は沢口靖子さん

ここまで諸要素が重なると、もはやモデル地を特定するアイテムを羅列することに意味は無いのですが、もう一つだけ、千尋の母の声を担当したのが女優の沢口靖子さんであったことは特筆しなければなりません。

沢口靖子さんと言えば、以前にも触れましたが、1985年4月~9月放映のNHK朝の連続テレビ小説「みおつくし」で主演デビューしたことで知られています。

画像6:千尋の母とみおつくしの沢口靖子さん

覚えておられる方も多いと思いますが、このドラマの舞台とは「銚子」の「醤油」蔵だったのです。ここにも、声優の配役を通して、銚子と繋げようとする映画制作側の強い意図を感じずにはいられません。

この「みおつくし」という名前、昨年の記事「椿海とミヲの猿田彦」で解説したように、非常に注意が必要です。なぜなら、秀真伝によると「みお」とは猿田彦が宮を築いた土地名を指し、「つくし」とはすなわち「筑紫」、日本神話においてニニギノミコトが天孫降臨した九州北部を指す地名で、その天孫降臨は猿田彦の導きによってなされたとされています。

ここでいよいよ歴史の暗号が絡んでくる訳なのですが、「銚子」と「猿田彦(神社)」というキーワードのセットが、沢口さんを通して「みおつくし」と「千と千尋」の両方に出現するという事実には何か非常に強い作意を感じます。

「みおつくし」が放映されていたその期間(1985年4~9月)に、ちょうどあの123便事件が発生しました。この1985年という年に注目することにより、「千と千尋」の細かい設定の中に別の意図が潜んでいることが分かってくるのです。

■千尋の家族が「荻野」姓である理由

千尋とその両親の荻野(おぎの)家は、廃墟となったリゾート地に迷い込みます。料理の良い匂いに誘われ、3人は無人の商店街に迷い込むのですが、その時の街の描写をよく見て頂きたいたいのです。

画像7:「荻野」と「尋」の名前が奪われようとしている
画像8:無人の街と荻野さん

私もそうでしたが、このシーンを見て誰もが薄気味悪さを覚えたのではないでしょうか?特に気になるのは、まるでつげ義春氏の漫画の世界を思い出させる次の看板だったのではありませんか?

画像9:「め」の看板とプロビデンスの目
プロビデンスの目とは「全てを見通す目」の意味

ここが眼医者なのか薬屋なのか、あるいは眼球そのものを売買しているお店なのか分かりにくい看板ではありますが、陰謀論でお馴染みの「プロビデンスの目」と見ることもできます。しかし、この気色悪さだけに注目しているとそのデザインの真意は見えてきません。

このシーンの中に「荻野」さんたちの居ることが非常に重要なのです。私たちは深層心理の中で、視覚や聴覚で得た膨大な情報を無意識の内に組み合わせて解釈していると考えられるのですが、すると、このカットから次の様なの組み合わせが生まれることもご理解できるでしょう。

 「荻野」+「め」 → 荻野目

「荻野目」とは普段はあまり聞きなれない言葉ですが、バブル時代に活躍したアイドル歌手に「荻野目洋子」さんがいたのをかすかに思い出します。そう言えば、彼女の代表曲で(唯一の?)大ヒット曲でもある「ダンシングヒーロ―」は、最近でも時々耳にすることがあったかもしれません。

動画:荻野目洋子さんの「ダンシングヒーロー」

ここまでの関連性は、何だか思い付きベースであまり説得力が無いように見えるかもしれません。しかし、ここで荻野家の一員である千尋の母、その声優が沢口靖子さんであることが意味を持ってきます。次を見てください、

 みおつくしの放映:1985年(4~9月)
 ダンシングヒーローの発売:1985年(11月21日)

この突拍子もない組み合わせは、「1985年」をキーに強く結びついてくるのです。さて、それではなぜ「ダンシングヒーロー」なのか?

実はこの曲にには次の様な英語のサブタイトルが付けられています。

 Eat You Up (お前を食ってやる)

これは、「食べたいくらい可愛い」などの意味で使われることの多いフレーズですが、状況が分からない場合は、上記の直訳の通りとなります。つまり、これこそがこの複雑かつ精密な設定が伝えようとしている最終メッセージであると考えられるのです。

映画では、千尋の両親は豚に変えられ、まさに「食われる」前に二人を助け出すことが千尋の急務となるのですが、観賞者の心理を利用したこの細かな伏線が、単に映画の切迫したムードを補強するために張られたとは考えにくいものがあります。

おそらく、裏ストーリーに描かれた日本古代史上の人物に対して、同時にこの映画の観客に対しても呪いを掛けていると思われるのですが、呪い云々については(真)ブログの方で取り上げるとして、ここでは現代においてもなお呪いをかけ続けられる古代史上の人物とはいったい誰なのか、そして千葉県東総地区とは古代どのような場所であったのか、史書などを基にそれを分析していきたいと考えています。

繰り返しますが、1985年は123便事件のあった年です。123便事件がその何年も前からメディア戦略を駆使して周到に準備されたものであることは(新)ブログの「芸能界の闇」シリーズで幾つか論証していますが、今回の分析により、少なくとも「千と千尋」が公開された2001年当時まで、123便事件に関わる、またはその流れを汲む大衆洗脳の心理戦術が継続され続けていたものと考えられるのです。その目的はいったい何であったのでしょうか?


* * *

主要登場人物の分析は次回より始めたいと思いますが、その一人である「ハク」という呪い名に、「琥珀」の他にどのような意味が込められているのかを考えてみてください。


古の世を刻みし琥珀石に問ふ
管理人 日月土

千と千尋の隠された神

今年に入って、スタジオジブリのアニメ映画「もののけ姫」のモデルとなった日本神話、および登場人物と歴史上の人物の関係性について物語の構造を分析してきました。その中で、映画冒頭に登場した主人公「アシタカ」の故郷の許嫁である「カヤ」が、日本書紀の神代に「栲幡千千媛萬媛命」(たくはたちぢひめのみこと)の名で登場する人物であると結論付けています。

なお、古事記における同人物の表記は「萬幡豊秋津師比売命」(よろづはたとよあきつしひめのみこと)であり、秀真伝(ほつまつたえ)ではもっと簡単に「タクハタチチヒメ」と表記されています。日本書紀の一書(別伝)には、この他に

 栲幡千千媛萬媛命(たくはたちぢひめよろづひめのみこと)
 天萬栲幡媛命(あめのよろづたくはたひめのみこと)
 栲幡千幡姫命(たくはたちはたひめのみこと)
 火之戸幡姫児千千姫命(ほのとばたひめこちぢひめのみこと)

と複数の表記が示されており、わざわざこれだけのバリエーションが書き残されていることから、神話化されてしまった日本の古代史の中でも、特に重要な人物であったろうことが予想されるのです。

なおここでは、同一人物を表す表記として、「千千姫」(ちちひめ)を使用することにします。

さて、これは既に記事にした話の繰り返しになりますが、千千姫の「千千」あるいは「チチ」という表記から、これがおそらくあの大ヒットアニメ「千と千尋の神隠し」のタイトルに用いられただろうことは容易に想像が付きます。

また、主人公の少女である千尋は、神々の世界に迷い込んだ後に、湯婆婆(ゆばあば)から「千」という名前を与えられます。つまり一人の少女が「千尋」と「千」の二つの名前を同時に持たされる、すなわち「千千」であり、このようなドラマ設定からも、千尋の人物モデルが、日本神話に登場する千千姫であろうことが窺えるのです。

画像1:カヤ(もののけ姫)と千尋(千と千尋の神隠し)から

■カヤの名はどこから来たか?

これは「もののけ姫」の構造分析の中で保留となっていたのですが、映画ではどうして千千姫に「カヤ」なる名前を付けたのか、その点が未だ不明点として残っています。

古代史上、「カヤ」と言えば真っ先に思い出すのが、朝鮮半島に誕生した伽耶(かや)、あるいは加羅(から)なる小国の連合国です。確かにアニメに登場したカヤの出で立ちは、朝鮮の民族衣装を彷彿とさせるものです。

画像2:伽耶国(Wikipedia から)

ところが、千千姫の父は、日本書紀では高皇産霊神(高木神)となっているし、秀真伝でも第7代タカミムズビのタカギとなっており、この系統からは伽耶国との関係が見えてきません。

ここで分析がすっかり行き詰っていたのですが、最近になって「カヤ」の名を冠した姫神の祀られている神社が、島根県の出雲地方にあることが分かったのです。それは、記紀秀真伝になく「出雲国風土記」に登場する「阿陀加夜奴志多岐喜比売命」(あだかやぬしたききひめ)です。そしてその父の名は「所造天下大神」(あめのしたつくらししおおかみ)、いわゆる大国主のことです。

追加画像1:阿太加夜神社(写真引用元:しまね観光ナビ)

ここでこの姫神の名前を注意深く見ると、「アダカヤ」とは伽耶国の一小国である「安羅伽耶」(あらかや)を指すとも考えられますし、「ヌシ」とは出雲大物主系の出身者によく付けられる名前です。そして、「タキキ」は「タカキ(高木)」と読めなくもありません。

つまり、この姫神の名前には、「朝鮮伽耶国」「出雲大物主(皇統)」「高皇産霊(皇統)」の複数の要素が同時に盛り込まれており、この名前自体が極めて暗号性の強いものとなっているのです。

伽耶国の中の一小国、金官国(きんかんこく)は後の新羅王を輩出した国であり、やがてその兄弟国である新羅に伽耶国は滅ぼされてしまいますが、その時に多くの王族たちが日本本土に避難・移住してきたと言われています。

島根出雲はまさに伽耶国の対岸であり、実際に、現地には海を渡って当地に辿り着いた高貴な人々の伝承が残っているそうなのです。

もしかしたらカヤと千千姫の関係を調べることは、当時の日本、及び朝鮮半島の統治体制や相互の関係性を知る上で非常に重要な着目点なのかもしれません。しかし、如何せん今はまだ資料が乏しいので、この点についての分析にはまだまだ時間がかかりそうです。

■千と千尋の聖地巡礼

さて、ここからは「千と千尋の神隠し」の構造分析を始めていくのですが、最初の手続きとして、この映画の舞台がどこに想定されているのかを見ていきたいと思います。

最近はアニメに登場するモデル地をファンが訪れる、いわゆる「聖地巡礼」がネット上で話題になることが多いようです。

この映画の場合も、その描画デザインのモデルとなっただろう建築物や街並みを熱心なファンが色々と見つけ出しているようです。例えば以下のようなものです。

 湯婆婆の屋敷 → 阿妹茶酒館
 油屋     → 道後温泉本館 
 物語の舞台  → 金具屋
 女中の部屋  → 積善館
 銭湯      → 江戸東京たてもの園の子宝湯
 赤い橋のシーン → 清州城
 
 参考サイト:旅する亜人ちゃん

本当によく見つけ出すものだと感心してしまうのですが、このブログで言うモデル地とは、視覚的な同一性よりも、むしろ物語設定上の同一性であることを初めに断っておきます。

実は、この映画のモデル地がどこであるか、暗にそれを示している別のアニメ作品があるのをご存知でしょうか?まずは次の二つのシーンを比較してみてください。

画像3:(左)千と千尋の神隠し(右)???

左の図は、ファンならお馴染みの水上を走る「海原電鉄」です。そして右の似たような構図はいったいどの映画に登場したのでしょうか?両方の映画をご覧になられた方ならすぐに分かったと思いますが、答は新房昭之監督による2017年のアニメ作品

 打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?

なのです。

動画:「打ち上げ花火・・」予告編

ご丁寧なことに、この「打ち上げ花火・・」、この電車がどこを走っているのか、しっかりその地名を作品中に表示しているのです。

画像4:「打ち上げ花火・・」に示された場所

このシーンの駅名標にはこのように書かれています

 千葉県飯岡町

これは架空の地名ではなく、平成の市町村合併以前は、千葉県海上郡飯岡町(うなかみぐんいいおかまち)として実在していた自治体名なのです。合併後の現在は、隣接していた旭市の一部地域となっています。ここで、「海上」と「旭」という地名をよく覚えておいてください。

さて、その旧飯岡町はどこにあったのか、それを次の地図に示しました。

画像5:旧飯岡町

このブログを1年以上読まれた読者さんなら、この地図どこかで見覚えがあるはずです。それは記事「椿海とミヲの猿田彦」でもご紹介した、江戸時代に干拓されるまで、「椿海」(つばきのうみ)と呼ばれる内海がかつてあった所なのです。

画像6:椿海と周辺自治体

この画像に、現在の総武本線の路線を描き足すと次の様になります。

画像7:椿海と総武本線

このように、総武本線は椿海の海上を横切るように通り過ぎていくのです。もしも椿海に今でも海水が湛えられていたなら、総武本線を走る電車はさながら、映画シーンに登場した海上を走る電車の様に見えたでしょう。

もちろん、以上は、モデル地を特定する参考要素の一つでしかありません。しかし、次のシーンを見た時、ここに描かれている花が何か分かれば、この電車シーンが「打ち上げ花火・・」による単なる構図のパクりでないことが分かると思います。

画像8:油屋の中庭に咲いた花
画像9:千尋の布団柄も同じ

梅雨の時期に満開で咲く季節外れの花。明らかにこの花が何かのサインとして使われていることにご納得いただけたでしょうか?

この話題は次回に続きます。それまでに、千葉県旭市、および隣接する銚子市の産物をネットなどで調べてみてください。それらの情報が驚くほどこの映画(千と千尋)の舞台設定に用いられていることに気付くはずです。

 ヒント:ヤマサ、ヒゲタ、油屋

また、自称ヲタキングの岡田斗司夫氏による「千と千尋の神隠し」の解説動画が、捉える角度が本ブログとは異なるものの、微妙な描写の違いを細かく指摘されているので、構成を理解する上でかなり参考になります。こちらにも目を通されることをお勧めします。
 岡田氏による解説動画①
 岡田氏による解説動画②

画像10:「打ち上花火・・」の車両モデルとなった銚子電鉄のデハ801
画像11:総武本線は飯岡から崖下のトンネルを抜け銚子方面へと向かう


灯台の 下照る岬 我立ちて 沈める君の 袖を手繰らむ
管理人 日月土

磐田に見るモロの足跡と古墳群(2)

前回に引き続き、静岡県磐田市周辺の遺跡視察のレポートとなります。

地元の知人の話だと、磐田の古墳は小さいものまで数えるとその数は数百基あったと言われ、遠州地方ではなかなかの古墳密集地帯だったと言うことができると思います。

静岡県は東西に広い県ですが、なぜ磐田に古墳が集中するのか?別の言い方をすればどうしてそこに人が集まるのかと言い換えることができます。

それを、現在の地形でいくら考えても答えが見つかるはずもなく、古代期の縄文海進(じょうもんかいしん)と呼ばれる、海面上昇期の海岸線を考慮した時にその理由は自ずと見えてきます。

その手法で、千葉県北部の遺跡や神社の配置、古代人の移動ルート等を考察したのが「麻賀多神社と高天原」、「麻賀多神社と高天原(2)」だったのです。

ここでは同じ手法を用いて、古代の予想海岸線及び土地の高低を地図に描き込み、主要な古墳(群)との地理的関係を調べてみました。それが下図(画像1)となります。

画像1:磐田の古墳と古代の地形

この図を見ると分かるように、ほとんどの古墳は古代海岸線の沿岸部に密集するように築かれています。現地で私が見てきた限りでは、どれも古代の海を見下ろすことのできる安定した高台にあったようです。

このように海に突き出るように張り出した台地は、動物の舌に例えて「舌状台地(ぜつじょうだいち)」と呼ばれるそうです。そして、このような舌状台地の周縁は、千葉県北部の分析からも分かるように、古代人が好んで定住し集落を形成する場所でもあるのです。

それは、漁猟による食料の確保や、道が整備されていない時代の海上輸送による移動を考えれば、ごく自然な発想として予想されることでしょう。

この傾向を知っていると、一見、内陸にあるように見える古墳の位置関係から、古代の海岸線を探り当てることもできるようになります。特に関東地方は、古代期は東京湾や香取海(かとりのうみ)が大きく内陸に入り込んでいたので、現在海なし県と言われる埼玉県も、かつては海上移動が十分可能な地域であったことが分かるのです。

以下、沿岸部の古墳の中から、現地で撮影した写真を幾つか掲載します。

画像2:堂山古墳碑
古墳は既に住宅地に変わってしまっていた
画像3:松林山古墳
この盛り土の直ぐ向こうを東海道新幹線が走る
画像4:松林山古墳前から袋井方面を望む
坂下の田園の辺りは古代期には海だった
画像5:稲荷山古墳と秋葉山古墳
この小山の中に2つの古墳がある
画像6:庚申塚古墳
磐田駅にほど近い町中にある。前方墳は削られ現在は寺院に

なお、御厨古墳群の中央部に鎌田神明宮という比較的大きな神社が置かれています。古墳と神社のセットは珍しくありませんが、「神明」というネーミングから、これが伊勢神宮系であることが判別できます。

画像7:鎌田神明宮
立派なのだが、その運営資金が気になる

伊勢神宮信仰は古墳時代後期以降に誕生したものであり、時代を経て日本神話ファンタジー信仰に基づいた、一種の宗教団体的教義として成立したものです。これが、前期古墳を含む御厨古墳群の中央に存在するのは、リアルな歴史を求める私の感覚ではかなり違和感があるのです。おそらく古墳に葬られた祖先を祀る意図はなく、何か別の宗教的、あるいは呪術的理由でここに置く必要があったのでしょう。

■磐田にみる民族の移動

海と古墳との関係を書いたついでに、これらの古墳を作った人々のルーツを考察します。実はそれを偲ばせる伝統行事が、同じく沿岸の台地に置かれた見付天神(矢奈比賣神社)に無形文化として残されているのです。

画像8:見付天神の裸祭
腰蓑に注目(見付天神HPより)

勇壮な裸祭、この写真を見て気付くのは、男たちが腰蓑を身にまとっていることです。知人の歴史研究家G氏によると、このように腰蓑を付けるスタイルは南方系海洋民族に多く見られるとのこと。この事実が直ちに古墳を築いた人々を特定する決め手になるとは限りませんが、この土地には、古くから海を伝って南方の人々が入り込んだ痕跡を窺わせるのです。

少なくとも、古代期には天然の入江が多く、船を使っての行き来がしやすいばかりでなく、比較的温暖なこの地の気候が多くの民族を引き付けたことは間違いないでしょう。

ちなみに、この見付天神の敷地内には、磐田市の公式マスコットキャラクターにもなった、霊犬悉平(しっぺい)を祀る霊犬神社があります。霊犬悉平太郎の伝説についてはこちらを参考にして頂きたいのですが、伝説によると同じ天竜川の上流に位置する長野県駒ケ根市から悉平は連れて来られたとあります。

画像9:磐田市のキャラクターしっぺいくんと霊犬神社

つまりこの土地には、海洋からの流入だけでなく、当然ながら天竜川によって繋がる人の行き来もあっただろうと考えられるのです。

すなわち、古い時代から磐田の地は人の行き来、交通の要所であったと考えられ、だからこそ、奈良・平安時代の地方行政府である国府がここに置かれたとも言えるかもしれません。

画像10:磐田の国府跡

そして、私が何より注目するのは、天竜川の起点となるのが長野県の諏訪湖であること。ご存知のように、諏訪は大国主の子、タケミナカタが天孫族に抵抗して追い詰められた土地であると日本神話には書かれています。

前回の記事では、やはり出雲族の痕跡を示す天竜川上流域の小國神社と鹿苑神社(春野)を取り上げましたが、こうして古伝や現在に残る史跡を包括的に俯瞰すると、出雲の一族と磐田およびその周辺地域との関係が見えてくるのです。

磐田の旧沿岸部の高台に築かれた古墳にいったいどのような人物が埋設されたのか?大国主やその子である高彦根(もののけ姫のモロのモデル)を祀る(祀っていた)神社がそれらとどのような関係を持つのか、いやはや興味が尽きません。

■銚子塚に見る磐田原の不思議

画像1の上の方、磐田原舌状台地の付け根の辺りに銚子塚古墳があります。この辺は市街地からだいぶ離れ、周囲がお茶畑に囲まれたのどかな場所なのですが、実は古墳が多く残っている場所でもあります。

画像11:銚子塚古墳

上の写真を見れば分かるように、銚子塚古墳は均整の取れた美しい前方後円墳です。古墳マニアなら一度は見ておくべき古墳でしょう。

しかしこの古墳と、すぐ隣にある前方後方墳の小銚子塚古墳の周囲を見ると、少し首をかしげたくなるのです。それは、古墳の縁が急に切り立った崖になっていることなのです。

画像12:小銚子塚古墳の端
手前が古墳で柵の向こうが崖になっている

確かに、古墳は大地の縁(へり)に築かれることが多いのですが、周囲に環濠などを巡らせる関係から、ここまで崖のギリギリに造られることは考えにくいのです。

天竜川が氾濫する度に台地が浸食され、上部が崩落したと考えるのが一般的なのでしょうが、そうなるとここまで磐田原が切り立っている地学的理由がよくわかりませません。この疑問は、過去の記事「三国志の呪い」で、天竜川の川向うの台地である三方原についても同じように提示しています。

知人の話だと、この地域の小中学校では、かつて天竜川両岸の台地(三方原と磐田原)は天竜川の「河岸段丘」と説明されていたそうですが、さすがに30m近く切り立った台地が何キロも続くのを河岸段丘と呼ぶのは無理があったのか、近頃では「隆起」と改められたそうです。

「そうですか、ある時に天竜川の両岸が同じように隆起した訳ですか」と、思わず勘ぐってしまいたくなる説明です。しかも、浜松側の三方原の土は磐田原とは全く異なる赤土です。赤土部分だけがうまい具合に隆起したというのはどう考えても無理が多いのです。

どのような地殻変動が天竜川下流付近であったのか、今は何も分からないままですが、もしかしたら、古代の人々はこの辺の地形が急激に変わる様を目撃していたかもしれませんね。


豊栄に栄り出でます大地の太神
管理人 日月土

磐田に見るモロの足跡と古墳群(1)

思いのほか長々と続いてしまったアニメ映画「もののけ姫」の構造分析シリーズですが、ある程度全体が見えてきたところで、そろそろ一区切り入れたいと考えています。

とは言うものの、本件に関連し、先月4月および今月5月に、出雲系の一族と縁が深い土地と考えられる、静岡県磐田市周辺を視察してきました。今回の記事はそのレポートといたしますが、初めに、これまでの分析によって得られた、アニメキャラクターとそのモデルとなった歴史上の人物の最新の対応表を以下に貼り付けます。

表1:キャラクター対応表(令和3年5月)

■遠江国二宮に祀られたモロ

まず、今回取り上げる磐田市内の重要な神社をご紹介したいと思います。画像1をご覧ください。

現地で知名度が高いのは、なんと言っても遠江国一宮(とおとうみのくにいちのみや)の社格を与えられた、②の小國神社でしょう。地元の方に聞くと、この辺で初詣に行く神社と言えば、真っ先にこの社の名をあげるとのことです。

画像1:遠州主要神社図

小國(おぐに)、あるいは小国は、歴史好きならこれがいわゆる出雲系一族の土地を表す地名であると直ぐに気付くかもしれません。予想に違わず、こちらの主祭神は出雲の神である「大国主(オオクニヌシ)」なのです。

画像2:小國神社(森町)

小國神社は磐田市街から北に少し離れた、森の石松で有名な静岡県森町に鎮座しています。山裾の奥まったところに位置し、敷地も広く、木々に囲まれた静かで落ち着いた雰囲気のたいへん気持ちの良い神社です。建物もよく管理されており、地元の人々がここを初詣の地に選ぶのも納得できるというものです。

さて、この神社の参道を歩いていたら、次のようなポスターが目に入りました。

画像3:みもろ焼のポスター

何とここにもあの「モロ」の表記があるではないですか。「みもろ」は三輪(みわ)の別称と考えられ、三輪は大物主(オオモノヌシ)という古代出雲皇統の皇位名と関係ある地名ですので、まさにこの土地が大物主と関係していることを示しているとは言えないでしょうか。

ちなみに、みもろ焼の工房は神社の近くにあります。

さて、こんなに立派な一宮があるのならば、磐田市内にある遠江国二宮の④鹿苑(ろくおん)神社も期待されるのですが、実際に現地を訪れると、どこの町々にもあるような普通の神社、いや、一宮に比べてしまうとかなり貧相な神社がそこにあるのみだったのです。

画像4:鹿苑神社

実はこの鹿苑神社には注目すべき点があります。それは、現在の主祭神こそ大名牟遅命(オホナムチノミコト=大国主命)ではありますが、Wikiによると江戸時代末期までは

 高彦根命

つまり、日本書紀に記載するところの「阿遅鉏高日子根神」(アヂスキタカヒコネ)を祀っていたということなのです。

これは、記紀のロジックからすると少々妙で、初代大物主が大国主であり、これを一等(一宮)とするなら、当然ながら二等(二宮)に該当するのは二代目大物主の事代主(コトシロヌシ)とならなければおかしいのです。

私は、これまでの「もののけ姫」の構造分析から、「アチスキタカヒコネこそが正規の二代目大物主継承者であったのであろう」という結論を導き出しましたが、この結論を持ってこの神社のかつての主祭神を考察すると、実に辻褄が合うのです。

傍証と呼ぶにはいささか弱いですが、分析結果を考察の指標に置くことで、今後新たな解釈を得られることができるのではないか、そう確信したのも事実です。

■鹿苑神社と春野

この鹿苑神社、今でこそ普通の神社の体をしていますが、隣接する連福寺を含めた敷地にはかつて古墳があったと言います。現在はその面影すらありませんが。

ところで、今回の視察の同行者がこの神社脇で気になるものを見つけました。ここがかつて水の湧いた水源地であることです。

画像5:「御神水」と書かれた石碑

ポンプ小屋が近くにあったので、今でも水は湧いているようです。ここで画像1の地図を見ると、この場所がかつて海岸ヘリにあったことが分かります。

歴史調査のアドバイザーでもある歴史研究家のG氏によると、海洋民族にとって、海辺に近い船積み用の淡水補給地の確保は死活問題であり、おそらくここも、かつては船乗りたちの給水基地として使われたのではないかと、推測を述べられていました。

ところで、それでは鹿苑神社は海の神社かというと、実はそれもまた違うようなのです。画像1の山奥の方に、①と番号を付けた小國神社がありますが、同社の由緒書きには次のようにあります。

由緒


社記に日く人皇18代履仲天皇4年10月當国守護神勧請し奉里爾来国司の遵崇厚く文徳天皇嘉祥3年7月當社へ從五位下を授る、後ち清和天皇貞観元年正月(今より凡1050年前)從四位下を授けられし旨文徳實録三代實録の両書に見ゆ陽成天皇元慶5年10月當国磐田郡を割ち山香郡を置く此時に當り磐田郡国府(今の中泉町)二ノ宮に分霊し奉る事あり今の鹿苑神社之なり當社は古より鹿苑神社と称し奉りしが承平の頃より小國神社と改称し明治5年貞外社(七社)を合祀し奉り同12年8月15日村社に別格せらる。
大正4年5月5日周智郡熊切杉村社小國神社々務所右由緒の事改書す昭和52年10月10日


全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年

つまり、現在の鹿苑神社は陽成天皇(876-884在位)の頃に、この山奥にあある小國神社(春野)から磐田の国府に近い現在の場所に分霊された神社だということになります。

画像6:小國神社(浜松市天竜区春野)

小國神社(春野)の主祭神は、大己貴命(オオナムチノミコト=大国主)となっており、どうして分祀された側の二宮の鹿苑神社の主祭神に、一時的でも高彦根命が祀られたのか、その経緯は不明です。

そのヒントになるかどうか分かりませんが、この小國神社(春野)もかつては鹿苑神社と呼ばれており、明治5年に現在の名前に改名されたとあります。この改名時期は、二宮の鹿苑神社の主祭神が高彦根命から大名牟遅命へ切り替えられた期間とほぼ同じであると考えられ、両社共に主祭神の入れ替えが行われた可能性が無きにしも非ずです。

明治期と言えば、現在の国家神道スタイルが形成された時代です。もしかしたら、高彦根命をそのまま主祭神に置いておくのは、高彦根命が無役とする記紀の記述上好ましくなかったので、敢えて主祭神から外したのかもしれません。

この推測もまた、高彦根命こそ二代目大物主であったとする私の自説を、ほんの少しだけ裏付ける証左なのではないかと考えられます。そうなると、どうして高彦根命は大物主の皇位継承者から外され、1000年以上の時が経っても、このようにないがしろにされ続けるのか、その理由に自然と関心が移ってくるのです。

さて、この遠州の山奥にある春野地区なのですが、ここには秋葉山と火の神で有名な秋葉神社も鎮座しています。ここで、秋葉神社と鹿苑神社、そしてモロこと高彦根命が秋葉の神とどう関わってくるのかが気になるところです。

また、秋葉山と言えば、僧行基と「秋葉山三尺坊大権現」と呼ばれる天狗伝説でも有名な場所です。それを象徴するかのように、同町の駐車場には日本一の大天狗面が設置されているのです。

画像7:春野町の大天狗面

実はこの大天狗面は1985年に製作され、その年神戸で開催された「神戸グリーンエキスポ」に展示されたと言います。感の良い読者様ならもうお分かりでしょう、1985年の同エキスポ開催期間に、あの123便事件は発生したのです。

ここでかすかに、123便事件とモロを巡るこれまでの考察が繋がってくるのですが、関連があると言うにはまだかなり遠いですね。しかし、偶然と片付けるのも早計であることが、この後の調査で少しずつ分かってくるのです。

※長文となったので、③の鎌田神明宮と磐田の古墳群についての解説は次回といたします。


白鬚に隠れるぞなき七咫の鼻
管理人 日月土

もののけ姫 - アマテルカミへの呪い

今年の1月末から始めたアニメ映画「もののけ姫」を巡る構造分析ですが、今回でようやく最後の到達点に辿り着けそうです。

話を始める前に、この映画がモデルにしたと思われる、古代史上の人物と各役名との最新の対応表を以下に掲載します。

表1:配役とモデルにされた古代史上の人物

どうしてこのような対応関係になるのか、詳しくは本年1月から前回までのブログ記事をご覧になってください。また、話の途中までですが動画も用意しています。

Youtube動画:もののけ姫とモロ -アニメ映画に隠された古代史-

今回は表1で「?」で表した、シシ神について分析していきます。

■シシ神のモデルは誰か?

この映画のタイトルでもある「もののけ姫」。どうやら、そのタイトル名が「大物主(オオモノヌシ)の娘」という意味から付けられていることが判明したのは、これまでの分析による大きな成果です。

もちろん、もののけ姫(サン)のモデルであるコノハナサクヤヒメ(以下コノハナと略す)が大物主の娘であるとは史書のどこにも書かれていません。しかし、各史書の脈絡のない不自然な記述、そして史書毎の記述内容の違いなどを分析にかけた結果、コノハナが第二代大物主のアチスキタカヒコネの娘であると仮定したとき、これまで不自然と思われた記載が、実は意味合って書き加えられていたことが分かったのです。

「史書は暗号の書である」と言うのは、私の記紀解釈における基本姿勢なのですが、今回の結果を以って、他の歴史的事象についても暗号解読的な手法で新しい歴史的事実が発見できる可能性について確信を得ることができました。

それにしても、驚くのは映画「もののけ姫」の基本プロットが、史書に暗号としてしか示されていない歴史的事実を正確に押さえていることです。この映画によるヒントがなければ、私もこのような分析には至らなかっただろうし、そもそも、この時代について調べてみようという気にもならなかったはずです。

そうなってくると、どうしてこの映画が制作され、世に出されることになったのか、そこに関心が引き寄せられます。

その問いの前にもう一人、対象モデルをはっきりさせなければいけない重要登場人物?が残っていました。そう「シシ神」です。

画像1:シシ神
(© 1997 Studio Ghibli・ND)

昼は鹿(シシ)の姿、夜はダイダラボッチという巨人に変化し、森全体の生命を司り、神の中の神として描かれているのがこのシシ神です。映画に登場するキャラクターの中では最大最強の存在であると言えます。

主人公は一応、タイトルにもなったもののけ姫ではありますが、シシ神の存在なくしてはこの物語は完結することはありません。むしろ、隠された主役こそがこのシシ神であり、この映画の最重要メッセージはおそらくシシ神の描画表現に隠されているというが、私の見解です。

先ほど、「最大最強の存在」と書きましたが、秀真伝(ホツマツタエ)が伝える歴代アマカミ(現在の天皇家)の中で、最も偉大な王として登場するのがアマテルカミ(男性)です。

また、記紀の神話に登場する神々の中でその中心に位置する神とは、女神天照(アマテラス)です。天照は太陽神と例えられ、太陽は地上の生命を育む最大の恵みであることは論を待たないでしょう。

なお、私は女神天照とはアマテルカミ(男性)の神話ファンタジー化された架空の存在であると認識しており、これまでも、天照=アマテルカミ(男性)として取り扱って来ました。

さて、ここでシシ神・アマテルカミ・天照がイメージとして重なってくるのが分かります。もちろん、これだけはそれらしいとは言うことができても、シシ神のモデルがアマテルカミであると断言するには少し弱い気もします。

しかし、映画の設定においてシシ神のモデルがアマテルカミであることを示す記号がしっかりと示されているのです。それは次の系図を見ればもはや明らかでしょう。

画像2:シシ(44)神がアマテルカミであるサイン

これで確定しました。

  シシ神のモデルはアマテルカミ(天照)である

■アマテルカミへの呪い

シシ神がアマテルカミだと分かったところで、シシ神がどう表現されているかに注目します。画像1に補助線を入れてもう一度よく見てみましょう。

画像3:額に逆五芒星が描かれている
(© 1997 Studio Ghibli・ND)

シシ神のデザインについては「怖い」、「トラウマになる」などの否定的な声をよく聞きますが、それもそのはずで、額にしっかりと逆五芒星が描かれているのです。敢えて多くを説明しませんが、この逆五芒星は、ギリシャの哲学者が「ペンタモルフ」と呼んだ角のある神(山羊はもちろん鹿も含まれる)から派生したと言われる、悪魔崇拝のシンボルを表現していると考えられるのです。

この他にも映画にはシシ神の奇妙な容姿についても描かれています

 ・昼間は森に隠れるような鹿の姿
 ・夜は怪物のような巨人の姿

昼は陽の光を避け夜に目覚める巨神。これでは生命を司る偉大な神というより、むしろ夜の森を徘徊する強大な悪魔と呼ぶのが相応しいでしょう。

ここまで書いたところで、この映画の真の製作者の意図は明らかです

 古代日本の王、アマテルカミを歴史から葬り去れ

 お前たち日本人は悪魔を王と抱く国民なのだ

結局これは、男性王アマテルカミを女神天照に書き換えてしまった日本神話による古代史隠蔽の企みと意を全く同じくしているのです。なお悪いのは、太陽輝くところの王であるアマテルカミを、まるで真逆の闇の王として描いてしまっていることです。

映画で出雲皇統の古代人をサンを除いて獣として描いていることは、日本神話における国津神の否定(大国主の国譲り)、そして、火石矢で一度死んだアシタカは饒速日並立王朝の否定(饒速日の国譲り)と捉えれば、

 現日本神話こそ日本の歴史である

という、他皇統・他王朝を歴史から切り捨てた神話編纂者の不遜かつ傲慢とも言える意図が窺がい知れ、これが1990年代の映画になっているということは、現代においてもこの国の真の歴史を呪い、改ざんされた記録である日本神話を守り抜こうという勢力が存在することを意味しているのです。

私たち日本人のDNAの中には、おそらく真実の歴史が刻まれているのでしょう。その無自覚な記憶に訴えるためには、ある程度真実を曝け出さないといけません。私たちが自らの潜在意識の誘導によりついついこの映画を観た時、その事実性によって作品に引き込まれるまでは良いのですが、最後の最後で誤ったメッセージをインプットされてしまう。

このように、映画「もののけ姫」の裏設定が詳細な事実性と呪いにも似たメッセージを併せ持つのは、まさにこれを観る者の意識を、宮崎駿監督やスタジオジブリでもない、この国を呪う真の制作者が望む方向に誘導せんがためだと考えられるのです。



時は来たれり、千引の岩戸共に開かん
管理人 日月土