前回の記事「誓約(うけい)の暗号 – 剣と王権」では、次代の王と女王(天皇と皇后)を示した重要な約定であるこの場面に、どうして三貴子の一人であるツクヨミ(月読尊)が加わっていないのか、その点について指摘しました。
これについて分析を進める上で、どうしても、アマテラス(天照大神)、スサノオ(素戔嗚尊)、そしてツクヨミの出自について、記紀にどのように記述されているのか調べる必要が出てきます。
実は、日本神話について関心を抱いた時から、重要な神とされるこの3柱、おそらく神話化された3人の実在人について、その荒唐無稽な記述の意味する内容に困惑しており、これまで長く後回しにしていたのです。
そして、誓約の分析を始めて以来、やはりこの3柱、一般に三貴子(さんきし)と呼ばれる神様(あるいは人物)について理解する必要性を再認識することとなりました。
三貴子はどのように誕生したのか?
古代の実情をこの目で見る訳にも行かないので、頼りにするしかないのが、暗号の史書である日本書紀、そして古事記です。
ここでは、少し長くなりますが、日本書紀から三貴子がどのように誕生したのか、ご存知の方も多いと思いますが、改めてその場面を引用したいと思います。
次に海(うなはら)を生む。次に川を生む。次に山を生む。
次に木の祖(おや)句句廼馳(くくのち)を生む。次に草(か
や)の祖草野姫(かやのひめ)を生む。亦は野槌(のつち)と
名(なづ)く。既にして伊奘諾尊・伊奘冉尊、共に議(はか)
りて日(のたま)はく、「吾(われ)已(すで)に大八洲国(おおやしまのくに)及び山
川草木(やまかはくさき)を生めり。何(いかに)ぞ天下(あめ
のした)の主者(きみたるもの)を生まざらむ」とのたまふ。
是に、共に日の神を生みまつります。大日霎貴(おおひるめ
のむち)と号(まう)す。大日霎貴、此をば於保比屡眸能武智
(おほひるめのむち)と云ふ。霎の音は力丁反(のかへし)。一書に云はく、天照大神(あまてらすおほかみ)といふ。一書
に云はく天照大日霎尊(あまてらすおほひるめのみこと)とい
ふ。此の子(みこ)、光華明彩(ひかりうるは)しくして、六合
(くに)の内に照り徹(とほ)る。故(かれ)、二(ふたはしら)の
神喜びて曰(のたまは)く、「吾(わ)が息(こ)多(さわ)ありと
雖も、未だ若此霊(かくくしび)に異(あや)しき児(こ)有らず。
久しく此の国に留めまつるべからず。自(おの)づから当(まさ)
に早(すみやか)に天(あめ)に送(おくりまつ)りて、授(さづ)
くるに天上(あめ)の事を以(も)てすべし」とのたまふ。是の
時に、天地(あめつち)、相去ること未だ遠からず。故、天柱
(あめのみはしら)を以て、天上(あめ)に挙(おくりあ)ぐ。次に月の神を生みまつります。一書に云はく、月弓尊(つくゆ
みのみこと)、月夜見尊(つくよみのみこと)、月読尊(つくよみ
のみこと)といふ。其の光彩(ひかりうるは)しきこと、日に亜(つ)
げり。以て日に配(なら)べて治(しら)すべし。故、亦(また)天
に送りまつる。次に蛭児(ひるこ)を生む。巳(すで)に三歳になるまで、脚(あし)
猶(なほ)し立たず。故、天磐櫲樟船(あまのいはくすぶね)に載
せて、風の順(まにまに)放ち棄(す)つ。次に、素戔嗚尊を生みまつります。一書に云はく、神素戔嗚尊
岩波文庫 日本書紀(一)神代上
(かむすさのほ)、速素戔嗚尊(はやすさのをのみこと)といふ。
此の神、勇悍(いさみたけ)くして安忍(いぶり)なること有り。
且(また)常に哭き泣(いさ)つるを以て行(わざ)とす。故、国内
(くにのうち)の人民(ひとくさ)をして、多(さは)に以て夭折(あ
からさまに)なしむ。復使(また)、青山(あをやま)を枯(からやま)
に変(な)す。故、その父母(かぞいろは)の二(ふたはしら)の神、
素戔嗚尊に勅(ことよさ)したまはく、「汝(いまし)、甚だ無道
(あづきな)し。以て宇宙(あめのした)に君臨(きみ)たるべから
ず。固(まこと)に当(まさ)に遠く根国(ねのくに)に適(い)ね」
とのたまひて、遂(つひ)に逐(や)らひき」
この世に大地と山川、草木を生み出したイザナギ・イザナミは、これらを統治・管理するために、3柱の神を新たに生み出します。それが三貴子なのですが、この時点でそれぞれの担当所管を決めています。それが、
アマテラス → 天地(あめつち)
ツキヨミ → 日に配べて
スサノオ → 根の国
の3所管なのですが、面倒なことに、その所管については日本書紀の他の一書、そして古事記の記述とは多少食い違いがあるのです。それをまとめたのが以下の表になります。

(滄海原:あおうなはら)
実はこれこそが、日本神話を読み始めた時から一番の疑問点だったのですが、こうやって表に纏めてみても、やはりどうしてこんなに表現が揺れているのか見当が付きません。
アマテラス所管の「天上」と「高天原」が同じ天上世界を指しているの何となく理解できますが、ならばここにどうして「天地」(あめつち)なる、地上世界を包含した表現が現れるのか?
ツキヨミの「日に配ぶ」は「太陽」には及ばないものの、同じ様に空を明るく輝かせる「月」を意味していること、また「夜の食す国」とは夜の帳が侵食する国、すなわちそれまで太陽が照らしていた国、アマテラスの所管に被るものと理解できます。しかし、「滄海原」は海洋を指すと思われ、どうしてここに海洋が記されるのか?
更に良く分からないのが、スサノオの「根の国」と「天下」(あめのした:おそらく地上世界のこと)の関係で、「天下」は日本書紀の本文ではそこに居てはいけないとされているのです。そして、ここでも「滄海原」と「海原」など海洋を指す表現が現れ、これらが互いにどのように関連するのかよく分からないのです。そして、どうして海洋で、ツキヨミの所管と重なってくるのか?
単なる記録上のブレとも取れるのですが、誓約の記事でもお伝えしているように、記紀の編者は明らかにその表現の中に、実際にあった史実に関する重要なヒントを埋め込んでいると考えられるのです。
結局のところ、どんなに頭を捻っても分からなかったので、今回は三貴子の誕生に関する箇所を提示するのみとしますが、現日本社会では、このように出自が曖昧なアマテラスが日本神道の最高神、現天皇家の祖先神とされているのですから、これを単なるヒューマンエラーと片付けてよいのかと私は思うのです。
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