日本神話と鹿児島(2) – 吾平山上陵 –

前回記事「日本神話と鹿児島」では、鹿児島県内にある「神代三山陵」の内、霧島市内にある「髙屋山上陵」(たかやさんりょう)について取り上げました。

今回は、4年前に訪れた大隅半島中部の鹿屋(かのや)市にある「吾平山上陵」(あいらさんりょう)について、少し古くなった記憶を辿ってお伝えしたいと思います。

■吾平山上陵に眠る王

前回もお伝えしましたが、鹿児島県の神代三山陵に眠るとされる神代の王は次の様に比定されています。

 (1)可愛山陵 : 瓊瓊杵尊   (ににぎのみこと)
 (2)髙屋山上陵: 彦火火出見尊 (ひこほほでみのみこと)
 (3)吾平山上陵: 鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあわせずのみこと)

記紀に拠れば、(1)から(3)までこの順で血が繋がっていることになっていますので、これに従うと、吾平山上陵の被葬者は彦火火出見尊の子である鸕鶿草葺不合尊となります。

これについては、現地の案内にもはっきりとそう書かれています。

画像1:宮内庁による御陵の説明

吾平山上陵を訪ねたのは10月の中頃ですが、鹿児島の秋は遅く、山の緑はまだ青々としていたのを覚えています。

御陵は、姶良川(あいらがわ)が流れる岸辺の岩屋の中にあるとされ、山間の落ち着いた雰囲気と川のせせらぎが奏でる心地よい音が見事に調和しており、さすが「小伊勢」と呼ばれるだけの清冽な厳かさを感じることができます。

画像2:御陵までの遊歩道
画像3:岩屋の入り口

前回の髙屋山上陵は鬱蒼とした木々に覆われていましたが、こちらは川に沿ってよく整備された歩道が続き、散策するのにもたいへん気分が良い所であるとの印象を受けました。

美しい自然を見ながら、1000年以上前のこの国の古代に思いを馳せることができるなんて「何と最高なのだろう!」と当時は思ったのですが、日本神話研究を始めた今となっていは、この御陵の存在について単純にそうも言ってられなくなってきました。

■再び少女神仮説

ここでまた、瓊瓊杵尊から神武天皇までの4代を少女神仮説で表した例の系図を見てみましょう。

画像4:少女神仮説による系図
過去記事「三嶋神と少女神のまとめ」より

繰り返しとなりますが、少女神仮説では「女系による王権継承」を核としていますから、記紀が伝えるところの、

 彦火火出見尊(父) ー> 鸕鶿草葺不合尊(子)

という関係は必ずしも成立しません。これを実の父子と表現した記紀編者の意図とは、

 女系継承を男系継承に置き換えるため

であると考えるのです。

何故そのような改竄をわざわざ施すのかという問題については、また別のところで精密に考察したいと思いますが、男女の役割を逆転させる、それも為政者の権限に関してと言うことは、社会全体の価値観が大きく変わるということであり、それはSDGsの導入で社会の在り方に大きな見直しを迫られている現代社会を見れば、古代社会においてはそのインパクトが凄まじく大きかったであろうと容易に想像が付くのではないかと思います。

このことは、もはや歴史改竄の理由を述べているとも言えるでしょう。即ち、古代社会の在り方、価値観・歴史感をガラリと変えなければならない必然性がこの国の歩んだ歴史のどこかで生じたことを意味します。

そうなると、「鸕鶿草葺不合尊とは本当は誰なのか?」が大きな問題となるのですが、これまで史書類の表記の揺らぎなどを分析した結果から、画像4に記してあるように

 鸕鶿草葺不合尊 = 大物主 = 八重事代主 = (丹塗矢)

であることが分かっているのです。少女神仮説においては、もはや彦火火出見尊と鸕鶿草葺不合尊が実の親子であることを念頭に入れる必要などなく、純粋にこの等式の意味を考えれば良いことになります。

■大物主とは誰か

史書の一つ「秀真伝」(ほつまつたえ)に拠ると、「大物主」(おおものぬし)とは個人の名ではなく、大国主命(おおくにぬしのみこと)から代々継承された王統名であるとされています。大国主の血統ですから、同時にそれが出雲の王統であることを示します。

いわゆる世襲名のようなもので、「第□代大物主 〇〇命」のように表現されます。ここから、大物主でもある鸕鶿草葺不合尊とは

 出雲王統の誰か

という予想が成立し、もう一つの名である「八重事代主」とは、秀真伝の系図によるとまさに、「第3代大物主 ミホヒコ」の息子とされているので、大物主の家系として遜色がないのです。

すると、吾平山上陵の主はとりあえず「第3代大物主の息子 八重事代主」ではないかと予想が付くのですが、実はそれでは未だ釈然としない問題があるのです。

どういうことか?

鹿児島県には出雲系の神社と言われる「諏訪神社」が比較的多く置かれているのですが、諏訪神社の祭神とは、出雲から信州に逃げたと言われる

 建御名方命(たけみなかたのみこと)

なのです。諏訪神社は吾平山上陵の近くにも鎮座しています。

信州の神様を祀る神社が南国鹿児島に多い?一応出雲系の神様ではあるのですが、建御名方命の後の系統は秀真伝にも書かれておらず八重事代主との系図上の関係も不明なのです。

ここをクリアにしない限り、単純に吾平山上陵の被葬者を「八重事代主」に比定できないと言うのが今の私の考えなのです。


管理人 日月土

名前を消された三嶋

本年1月15日の記事「大空のXXと少女神の暗号」では、アニメ「ダーリン・イン・ザ・フランキス」の裏設定に組み込まれた日本古代史を、「少女神」(皇后となった古代女性シャーマン)の女系継承という視点で新たに分析し直してみました。

その中で、卑弥呼の名で語られることの多い、神武天皇の皇后、姫蹈韛五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめ)を輩出した

 三嶋溝橛(みしまみぞくひ)

という神名、あるいはその家系に行き着きました。

そこで今回は、その三嶋家がどのような家だったのか、取り敢えず現在用意できる資料などから、その輪郭だけでも辿ってみたいと思います。

■三嶋と言えば三嶋大社

三嶋と言えば忘れてならないのは、静岡県の三島市に鎮座する三嶋大社です。私もこれまでに一度だけ同社を訪れたことがあります。

画像1:三嶋大社(画像引用:公式ページ)

まずは、同社のホームページで祀られている祭神を調べると次の二柱とされています。

 ・大山祇命(おおやまつみのみこと)
 ・積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)

 参考:http://www.mishimataisha.or.jp/shrine

また、同ホームページには、この二柱の神を総称して三嶋大明神(みしまだいみょうじん)と称するとあります。

私もこのページを訪れて初めて気づいたのですが、ここにはちゃんと「八重事代主」と、しっかり「八重」(やえ)の字が付けられており、一般的な「事代主」の名称とは異なることが明示されています。

但し、その後の説明で「事代主神は俗に恵比須様とも称され・・」云々とあるように、同社においても積羽八重事代主は「事代主」と同一視されているのが窺えます。

以前触れた通り、秀真伝では「コトシロヌシ」と「ヤヱコトシロヌシ」は明確に区別されており、世代の整合性を考慮しても、三嶋大社の祭神は事代主の孫である八重事代主とするのが正しいのではないかと考えられます。

よって、今後の分析では三嶋大明神と称せられる「事代主」とは「八重事代主」を指すとして取り扱います。

さて、もう一柱の祭神「大山祇命」なのですが、これはおそらく、三島水軍で有名な愛媛県大三島にある大山祇神社との関連を意味しているのでしょう。

画像2:大三島の大山祇神社(画像引用:公式ページ)

こちらも非常に興味のあるトピックなのですが、今回はまず八重事代主と少女神との関係についてフォーカスして行きたいと思います。

■東海の三嶋神社群

三嶋大社の御由緒を読むと、いきなり「創建の時期は不明ですが、古くより三島の地に鎮座し、奈良・平安時代の古書にも記録が残ります」とあります。すなわち、神武天皇以前の上代、及び神武天皇直後の上古代については記録がないと言っているのに等しく、ここで早くも、三嶋溝橛に関する調査は一旦ストップしてしまうことになったのです。

もちろん古文献などを漁れば何か出て来るのかもしれませんが、今回はそこまで調査に時間が割けられませんでした。こういう場合は取り敢えず、現在確認が可能な三嶋(三島)系神社の分布を調べてみようと、ネット検索を元に作ったのが以下の図です。

画像3:東海地方を中心とした三嶋神社群
※「三嶋神社」あるいは「三島神社」をキーワードに、近畿から関東までの太平洋側
についてGoogleマップ上を検索したもの。実際には表示されない小社が多く
存在すると思われる。色分けは地域を表したものでそれ以上の意味はない。

三嶋神は知名度が高く、中世期には分祀や勧請などが頻繁に行われたと考えられますから、その数は全国に広く分布すると予想してました。しかしながら、「みシまる 湟耳(こうみみ)」氏が書かれた本「少女神 ヤタガラスの娘」によれば、少女神のルーツは海洋民族にあるとされているので、もしもそれが正しければ、その分布は古代の海岸線に偏っているだろうとも予想していたのです。

上の画像3はまさに、それを示しているとも言え、三嶋(三島)神社は全国各地に広く見られるも、東海地方(静岡県・愛知県)の旧海岸線、相模湾沿岸(神奈川県)、そして房総半島(千葉県)に多く見られ、特に伊豆半島の集中度合いが高いのが分かります。やはり三嶋大社のお膝元だからということなのでしょうか?

■名前を消された三嶋

ここで画像3を眺めてみて、皆様は何か気が付かれませんでしたでしょうか?

もしも三嶋一族が船で海洋を渡っていた一族ならば、太平洋岸の旧海岸線には、多少の濃淡はあれども、まんべんなく三嶋(三島)神社が配置されていると考えられるのですが、画像3には、それが全く見られない地域が見受けられるのです。

画像4:三嶋神社群が局所的に見られない地域

この地図では枠外になりますが、実は紀伊半島南部でも三嶋神社は検索に掛からないのです。もちろんそういう地域があっても一概にそれがおかしいとは言えないのですが、ここで気になるのは画像4の中で示した次の2ヶ所なのです。

 (1)伊勢湾西岸
 (2)銚子、九十九里

この2ヶ所について(神)ブログ読者の皆様は何か思い出されないでしょうか?実はどちらのエリアも

 映画「千と千尋の神隠し」で舞台モデルとされた土地

なのです。詳しくは同映画を題材にした過去記事を参照して頂きたいのですが、果たしてこれを偶然と呼んでよいのか非常に気になるのです。

そしてまたこの2ヶ所は

 (1)猿田彦神社(伊勢市)、椿大神社(鈴鹿市)
 (2)猿田神社(銚子市)、椿海(中世まで存在した内海、現旭市)

と、それぞれ謎の神「猿田彦」所縁の土地として深く関連しているのです。

「千と千尋の神隠し」の主人公「千尋」は、第9代アマカミ(上代の天皇)忍穗耳(おしほみみ)の皇后となった栲幡千千姫(たくはたちぢひめ)、すなわち少女神をモデルにしたと考えられるのですが、その少女神所縁の地で「三嶋」の名が見られないのはどうしたことなのでしょう?

また、猿田彦については前回の記事「猿と卑しめられた皇統」で分析した結果、これが記紀から名を消された第10代アマカミのホノアカリであろうと結論付けています。その皇后であるオクラ(天鈿女)は、下照姫の血を継承する少女神ですから、この方の場合も栲幡千千姫と同じく、上の両地では三嶋との関係が見られないことになるのです。

 「では、三嶋と少女神の関係は希薄だったのか?」

それについて、私はこう考えます。ホノアカリが日本の皇統史から消された存在なら、その皇后についても、三嶋の名と共に同時に消されたのではないのか、と。

画像5:千葉県長生村の三嶋神社
ここから北側の九十九里浜沿いで「三嶋(三島)」の名は検索ヒットしなくなる

この考察は更に、二人の少女神、栲幡千千姫とオクラ(天鈿女)が、いったいどのような関係で結ばれていたのか、新たな関心をも呼ぶのです。

栲幡千千姫の別称は「スズカ姫」で「鈴」を表し、また、映画の中で千尋の良き指南役として最後まで親身に世話を焼き続けるキャラクター「リン」もまた「鈴」の変名です。ここから、二人は「鈴(すず)」をシンボルとする同系の人物を指すと考えられ、恐らく両者とも同じ少女神で、リンの場合は同地に縁の深いホノアカリ(猿田彦)の皇后オクラ(猿女君・天鈿女)を指すと考えるのが可能性としては一番妥当でしょう。

画像6:映画「千と千尋の神隠し」から千尋に目を掛けるリン
それぞれ栲幡千千姫、オクラ(天鈿女)の二人の少女神をモデルにしていると考えられる

結局、三嶋について考察らしい考察にはならなかったのですが、これまでに導いてきた少女神に関する結論と奇妙な関連性を見つけた、それだけは言えるのかもしれません。


見晴らせば北に白里浜続く今は隠れし白鳥の山
管理人 日月土

佐瑠女神社と三浦春馬の呪い

前回の記事「男神猿田彦の誕生」で伊勢の猿田彦神社のことを話題に取り上げましたが、その後、この神社に置かれた方位石が現在の芸能-テレビドラマ「おカネの切れ目が恋のはじまり(カネ恋)」に関する呪術と関係ありそうだと(真)ブログ記事「三浦春馬の死とカネ恋の呪い」で取り上げました。

歴史の話からは少し離れるかもしれませんが、その関係性についてここで少し補足したいと思います。まずは、方位石の写真を再掲します。

画像1:方位石の写真

この方位石が陰陽五行と十二支十干の思想に基づいているのは一目瞭然です。

次に、ドラマの登場人物と方位の関連性を示した(真)ブログ記事に掲載の分析図を、この方位石の示す方角に合わすよう南北を逆転させ、更に十干による方位を描き足すと次の様になります。

画像2:方位石に合わせた金恋分析図

この図を見るとよく分かるのですが、巽(たつみ)の方角、つまり東南方向には該当するドラマの役名がありません。つまり、全方位を示す文字がその方向には欠けているのです。おそらく、この欠損は意図的に為されたものであり、それこそがこの呪術の中核であると考えられます。

さて、次に猿田彦神社の敷地内がどのようになっているのか見てみましょう。

画像3:猿田彦神社の航空写真 (C)Google

方位石の東南方向に何があるでしょうか?画像を見れば分かるように、そこにあるのは

 佐瑠女神社(さるめじんじゃ)

なのです。

画像4:佐瑠女神社

猿女とは天鈿女のことであり、天鈿女が岩戸の前で踊ったという神話から、芸能の神として、特に芸能関係者から崇められていることはこれまで「伊勢の油屋と猿田彦」でも書きました。

画像5:「君の名は」のあの監督の名前も

真)ブログ記事でも触れてますが、このドラマの設定は間違いなく陰陽道系の呪術者によって設計されていると断言して良いでしょう。この中で呪いとして最も分かりやすいのが、人の名に「サル(猿)」などと獣を表す蔑称を用いていることです。

名前による呪いについては、この他に日本武尊(ヤマトタケル)の名前の例がより参考になります。

秀真伝研究者の池田満氏によると、江戸時代までの日本武尊の正式な呼び名は

 ヤマトタケ

であり、最後の「ル」の文字は、近年になって後付けされたものだとしています。実際に秀真伝のヲシテ文字による記述は「ル」なしの「ヤマトタケ」になっています。

私の調べでは、どうやら「ル」の字には呪いの意味があり、日本神話の神名には意図的に「ル」の字が付加された形跡があるのです。

ここで猿田彦・猿女の記述を分解し呪い文字の「ル」の字を除くと次の様になります。

 猿田彦 → さルたひこ → さたひこ
 猿女  → さルめ   → さめ

実際に、伊勢の猿田彦神社の本殿は「さだひこ造り」と呼ばれる二重破風の妻入造を施した独自の建築様式を用いています。そして、島根県の出雲二宮、かつては一宮だった佐太神社の祭神とは猿田彦なのです。

ですから、「さたひこ」こそが猿田彦の正式名であり、猿女についても「さめ」と呼ぶのが正しいのではないかと考えられます。そして何より、

 東南に「鮫」(さめ)の字を当てた辻褄も合ってくるのです。

さて、画像1を見ると中央に「古殿地(こでんち)」とあることから、かつての猿田彦神社の本殿はこの方位石の真上にあり、この石はおそらく旧社殿の心柱(しんばしら)の位置に置かれたのかもしれません。

この意味は非常に重要で、この神社の当初からのターゲットは、その神社名に冠された「猿田彦」ではなく、むしろこちらの佐瑠女神社であり、この呪術形態を鑑みると過去から現在に至るまで「さめ」さんを呪う呪術的性格が非常に強い神社であったと考えられるのです。

この仮説を裏付けるかのように、佐瑠女神社のすぐ後ろには、全長140㎝位の平べったい石が置かれています。

画像6:佐瑠女神社の背後の石(支石墓?)

この様式は古代人が墓に使った支石墓とたいへん似ており、もしもこれが墓石ならば被埋葬者は子供か小柄な人物であったはずです。

 関連記事:再び天孫降臨の地へ(2)

この神社が基本的に呪術を目的としていることから、個人的には少女もしくは意図的に生長を止められた古代女性シャーマンだったのではないかと推察します。要するに生贄にされた女性(巫女)ではないかということです。

ここで行われている呪術が具体的にどのようなものであったのかは、考察にもう少し時間を要するのですが、日本書紀に書かれた次の一節がこれを理解するヒントになるかもしれません。

すぐに降ろうとされるころに、先払いの神が帰っていわれるのに、

「一人の神が天の八街(道の分れるところ)に居り、その鼻の長さ七握ななつか、背の高さ七尺あまり、正に七尋というべきでしょう。また口の端が明るく光っています。目は八咫鏡のようで、照り輝いていることは、赤酸漿あかほおずきに似ています」

と。そこでお供の神を遣わして問わせられた。ときにハ十万の神たちがおられ、皆眼光が鋭く、尋ねることもできなかった。そこで天鈿女に特に勅していわれるのに、

「お前は眼力が人に勝れた者である。行って尋ねなさい」

と。天鈿女はそこで、自分の胸を露わにむき出して、腰ひもを臍の下まで押しさげ、あざ笑って向かい立った。このとき街ちまたの神が問われていうのに、

「天鈿女よ、あなたがこんな風にされるのは何故ですか」

と。答えていわれるのに、

「天照大神の御子がおいでになる道に、このようにいるのは一体誰なのか、あえて問う」

と。街の神が答えていう。

「天照大神の御子が、今降っておいでになると聞いています。それでお迎えしてお待ちしているのです。私の名は猿田彦大神です」

と。そこで天鈿女がまた尋ねて

「お前が私より先に立って行くか、私がお前より先に立って行こうか」

と。答えて、

「私が先に立って道を開いて行きましょう」

という。天鈿女がまた問うて

「お前はどこへ行こうとするのか。皇孫はどこへおいでになるのか」

と。答えていうのに、

「天神の御子は、筑紫の日向の高千穂の槵触峯くしふるたけにおいでになるでしょう。私は伊勢の狭長田さなだの五十鈴の川上に行くでしょう」

と。そして、

「私の出所をあらわにしたのはあなただから、あなたは私を送って行って下さい」

といった。天鈿女は天に帰って報告した。皇孫はそこで天磐座あまのいわくらを離れ、天の八重雲を押しわけて降り、勢いよく道をふみわけて進み天降られた。そして先の約束のように、皇孫を筑紫の日向の高干穂の槵触峯にお届けした。猿田彦神は、伊勢の狭長田の五十鈴の川上に着いた。

天鈿女命は猿田彦神の要望に従って、最後まで送って行った。時に皇孫は天釧女龠に勅して、

「お前があらわにした神の名を、お前の姓氏うじにしよう」

といわれ、猿女君の名を賜わった。だから猿女君らの男女は皆、君と呼んでいる。これがそのことのいわれである。

講談社現代文庫「日本書紀(上)」より神代下 監修 宇治谷孟

この件に関しては、史書の暗号解読やアニメの構造分析などとのんびり構えてはいられません。実際に俳優の三浦春馬さんは2年前の2020年7月、クローゼットで首を吊るなどという、自殺と言うにはかなり不審な死に方をされています。

そして、同年9月には映画での共演関係でもあった女優の竹内結子さんも、同じような死に方をされているのです。

私は、この事件が自殺か他殺かなどと問う立場にありませんが、このようにはっきりと古代呪術の痕跡を認めた以上、二人の死と呪術との関係をあっさりと否定することもできないのです。

むしろ、最近になってこのような有名芸能人の名前を用いた呪術が使われていることから、この呪いが現在の日本社会全体に広く向けられているのを見て取るのです。

「呪い」などと言うと笑われてしまうかもしれませんが、日本の統治、世界の統治の中枢にいるのはほぼ間違いなく、呪術や魔術を信奉している上に、それに心理学や科学技術の成果を交え行動してくるカルト的思想の集団であり、それが漫画やアニメの世界で留まるならともかく、現実に人の生死に関わっていると考えられる以上、もはやそれを無視したり看過するなどできない状況に至っています。

このサタヒコ・サメに関わる呪術を解く鍵は、実は日本古代史の中にあり、その意味でも史書暗号の解読が急がれるのです。


春の日の黄花青草桜花 馬出る時のここに来たれり
管理人 日月土

ファンタジーを超えて

今回は、歴史関連はひとまずお休みして、本ブログと関係ありそうな時事ネタを扱います。

フロントページにも書いたように、私は日本神話とは何か重要な古代の事実を伝えるために、敢えて史実を神話化、いわゆるファンタジーとして後世に書き残したものであると考えています。

しかし、ファンタジーだからと言って歴史考証上全く無視してよい訳ではなく、神武天皇以前の日本の古代期(上代)に、むしろ史実を神話化せざるを得ない深刻な出来事があったからこそ、敢えて日本書紀、古事記、秀真伝(ほつまつたえ)、その他という異なる種類の史書をほぼ同時期に編纂し、世に出したのであると解釈します。

これらの史書が編纂されたのは、神武天皇の即位を西暦50年前後と仮定すれば、それから数えて凡そ700年後、700年と言えば十分に長い時間が上代の時から経過しています。そこまで古い話であっても素直に史書に書き残せなかった上代の出来事、また、史書編纂時の理由とは一体何であったのでしょうか?

そして、わざわざ複数の史書を残した理由とは何だったのでしょうか?これまで述べてきた通り、私はその理由を、複数の史書バリエーションを世に出すことによって、一書単体では表現できない史実を分散し、それによって真実の歴史を後世に残そうとしたのではないかと捉えました。つまり、これらの史書は合わせて一つの史実を表現しているのではないかと仮定したのです。

歴史家であるならば、嘘は書き残したくないものです。しかし、当時の政治状況がそれを許さない、そんな状況下で取った手段が複数史書編纂による史実の暗号化であったのではないかと予想するのです。それこそファンタジーだと怒られそうですが、私は当時の歴史家の知恵と良心を信じてあげたいのです。

■神社本庁が向かう先

さて、日本神話と切っても切り離せないのが、現在、私たちも時より参拝に足を向ける神社です。当たり前ですが、神社と呼んでいる以上、そこに居られるのは日本神話で言うところの「神」、つまり超自然的「神」であることに間違いありません。中には、その神様を古代史実と関連付けて実在人であったと解釈する奇特な宮司さんもおられますが、基本的には、ありがたき八百万の神と崇敬し、それ以上詮索はされない方が多いようです。

これら日本に数多く存在する神社を束ねるのが現在の神社本庁ですが、その神に仕える人々の代表である彼らの間で、何やらスキャンダラスな出来事が起きたようです。以下、ネット記事より引用します。

神社本庁が「絶対に負けられない戦い」で全面敗訴 裁判で訴えた“強烈な言葉”とは

「週刊文春」編集部
source : 週刊文春 2021年4月1日号

法廷闘争の末、全国約8万の神社を束ねる“総本山”が断罪された――。

内部告発を理由に懲戒解雇されたのは不当だとして、宗教法人「#神社本庁」(渋谷区)の元部長(61)らが処分の無効を訴えた訴訟。東京地裁は3月18日、「懲戒権の行使に客観的な合理性はなく、社会通念上相当性を欠く」と原告の訴えを認める判決を言い渡した。

「神社本庁が15年10月に1億8400万円で売却した職員寮が即日転売され、後に3億円以上に値上がりした疑惑が発端でした。元部長らは同様の案件が複数あり、売却先が同じ不動産業者で随意契約だったことを問題視。『不当に安く売却したのは背任行為に当たる』などとした内部告発の文書を配布したのです。これに対して神社本庁は17年8月、元部長を懲戒解雇し、裁判になっていました」(神社本庁関係者)

元部長(左)は会見で「主張がほぼ全面的に認められた」 ©共同通信社
内部告発で「疑惑の張本人」と名指しされたのが、神道政治連盟の打田文博会長。神政連は日本会議とともに、憲法改正を目指す安倍晋三前首相らの活動を支えてきた団体だ。その打田氏とともに神社本庁執行部を総長として率いるのが、田中恆清氏である。異例の総長4期目に突入し、内部では「打田―田中体制」(同前)と評されてきた。
 
しかし、その内実は危うい。不動産取引疑惑以外にも不倫スキャンダルなどが相次ぎ、“こんぴらさん”こと「金刀比羅宮」(香川県)のように本庁から離脱する動きも出ている。
神社界と縁のある皇室との関係も微妙だ。神社本庁において象徴のトップである「統理」の多くは旧皇族らが務め、現統理の鷹司尚武氏も昭和天皇の孫にあたる。だが、その鷹司氏はカネや女性問題ばかりが報じられる田中氏ら執行部に対し、「顔も見たくない」と不信感を募らせてきた。

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それだけに、打田氏や田中氏にとって、「今回の裁判は絶対に負けられない戦い」(前出・本庁関係者)だった。事実、神社本庁は裁判所に提出した最終準備書面でも、強烈な言葉で体制の正当性を訴えていた。

〈(敗訴すれば)包括宗教団体としての組織維持ができなくなる。被告は、伊勢神宮や皇室と密接な関係があって、いわば『日本の国体』の根幹を護っている最後の砦である。(中略)決して裁判所が日本の国体破壊につながることに手を貸す事態があってはならないと信じる次第である〉
 
だが、“詭弁”は裁判官に通じなかったようだ。
 
奇しくも、判決と同じ日、神社本庁幹部が集まる会議があった。全面敗訴の一報が伝わると、出席者からは「これ以上裁判を続けても恥を晒すだけ」と控訴に否定的な声が上がったという。
 
国体護持の前に、職員の雇用すら守れない神社本庁。八百万の神が泣いている。


引用元:文春オンライン https://bunshun.jp/articles/-/44319

どこの団体でもありそうな、金銭を巡る不祥事の裁判についての報道ですが、ここで注目するべき点は、神社本庁の被告当事者たちが、

 ・『日本の国体』の根幹を護っている最後の砦である
 ・裁判所が日本の国体破壊につながることに手を貸す事態があってはならない

と、かなり強い調子の言葉で同団体の存在意義を主張していることです。もっとも、そんなことは本人たちが仕出かした不祥事とは全く関係はないですし、もしもそう思っているなら、日頃から清く正しく振舞っていれば良いだけなのですから。

私が気になるのは、神社本庁並びに記事に登場するそれぞれの政治団体、宗教団体がおそらく同じメンタリティーで神社運営に関わっているのではないかということです。

繰り返しますが、日本神話はファンタジーなのです。そんな曖昧でいくらでも都合よく解釈できるものを「日本の国体」と捉えているならば、それこそ、この日本と言う国の国体は危ういということになります。

ここで出てきた「最後の砦」なる言葉は

 俺たちの最後の飯の種を奪うな

と言っているようにしか聞こえません。そして、それに続く司法への脅しとも取れる言葉を読むと、

 俺たちこそが国の守護者(神?)である

という、思い上がりとしか表現の仕様がない傲慢な態度が見て取れます。

この記事は特定個人や団体を批難する意図はありませんが、もしかしたら、神社本庁や関連諸団体の関係者の中にも、同じように自分こそ「神に仕える特別な存在」、「我こそ愛国者だ」という思いがあるのではないでしょうか。また、信仰心とは別に、ディズニーランドよろしくこの国家ファンタジーを生活の原資にしようと考える人々がいるのではないかと気になります。

おそらく、史書の編纂が行われた西暦700年代も、史実の記載を巡って政治的な軋轢が強かったのではないかと想像します。それは、各氏族の名誉のためであったり、各種利権を一族独占する裏付けに使おうといった様々な意図があったはずです。それどころか、積極的に歴史をそこで分断・書き換えてしまおうと言う大きな意図が働いた可能性もあります。私はそれを「歴史隠蔽政策」と仮に読んでいます。例えば、ユダヤ的教義を歴史的な痕跡から取り除くといったようなことです。

今現在、今回の訴訟のような出来事が起こるのも、元はと言えば、私たちのルーツを示すはずの古代史が神話化されファンタジーになってしまったことにあります。

その意味で、私たち日本人のアイデンティティーは既に失われた状態であり、真の意味での国体は破戒されたままであると言えます。

私は非力ではありますが、このブログを通して、この国が成立するまでの本当の経緯、神話でない母国の史実を、少しでも取り戻したいと考えているのです。もしもそれが達成できたならば、神話をその拠り所とする現在の神社や神社本庁の在り方は、大きく変貌し今とは全く違うものとなるでしょう。


罪穢れ今はあらじと祓え給ひそ
管理人 日月土

隠された祭神と成田(2) - 調査報告

今回は「隠された祭神と成田」の続きとなります。昨日までの数日間、千葉県北東部に鎮座する側高(そばたか)神社の未調査分について現地視察してきました。その報告となります。

今回巡ったのは、千葉県成田市以東の前回未調査の側高神社です。漢字表記は社によって異なりますが、基本的に全て「ソバタカ」と読むようです。以下、訪れた場所を地図に示します。

画像1:今回の調査対象(計7社)

以下、各社前で撮影した写真をご紹介します。手ブレが強くで見づらいものもありますがご容赦ください。

画像2:脇鷹神社(千葉県成田市小泉)
成田の大地の上に建つお社。やや荒れた感じではあるが、土地全体は清々しい場所である
画像3:側高神社(千葉県香取市丁子)
田んぼに突き出した里山の頂上付近にあるちいさなお社
画像4:側高神社(千葉県香取市大倉)
私の知人が祭神名を教えてもらえず、追い返された神社。側高社の中では最大規模。
画像5:側高神社(千葉県多古町本三倉)
村落内のやや荒れた感じのお社。大地の広がる中に佇み、土地はたいへん
素晴らしい。古代期はきっと繁栄した場所であっただろうと感じられた。
画像6:祖波鷹神社(千葉県香取市岩部)
今回の調査で一番問題を感じた場所。お社や土地そのものでなく、
隣接して建てられた慰霊塔に何やら良からぬ気配を感じた。
画像7:脇鷹神社(千葉県香取市伊地山)
木立の中に建てられた簡素な作りのお社。お社そのもの
よりも、周囲の雑木林の中が気になった。
画像8:稲荷側鷹合神社(千葉県香取市西田部)
調査中に偶然発見した側高系神社。簡素ではあるが、
他のお社にはない神々しさを放っていた。

結局のところ、外見から祭神が何か分かるようものは見つかりませんでした。しかしながら、地形や他の神社との配置などから多くの情報を得ることができました。むしろ、他の神社群の比較からでしか側高神社のポジションは分からないのではないかと思います。

それらの分析については今後掲載していく予定ですが、今回は簡単に現場写真を掲載するのみにて本レポートを終了させて頂きます。

なお、1月16日のメルマガでは、分析途中のものについて一部を先に公開したいと思います。


この国の神力を現す世と成れる
管理人 日月土

言葉は呪術-古代史探求のセオリー

日本書紀・古事記(記紀)が、実在する神武天皇以前の歴史を神話と言うファンタジーに付け替えてしまったのだろうという話は何度かここで出しています。また(新)ブログでは、記紀に書かれた神武東征伝は作り話(デタラメ)であり、そこに書かれている皇位継承の記録も正しいとは言えない、つまり古代期においてすでに万世一系という神話(のようなもの)も崩れているだろうと指摘しています。

今後、この辺の話を詳細に進めようと考えている訳ですが、古代史の話を記述するにあたり、まず使用する用語を明確にするべきだと思い、用語について大まかに約束を決めておきたいと思います。

現在の歴史学だと平安以前は古代に一括りにされてしまうようなので、神武以前と、記紀が扱う範囲、それ以降の古代を明確に区別するために次のように分類しました。

 (1)神武天皇より前の時代: 上代
 (2)初代神武天皇から15代応神天皇まで: 上古代
 (3)16代仁徳天皇から25代武烈天皇まで: 中古代
 (4)26代継体天皇から41代持統天皇まで: 下古代
 (5)42代文武天皇以降: 記紀後古代

神武以前が神話でなく実在の歴史であることを強調するため「神」という字は敢えて外すようにしました。なお、飛鳥時代という時代区分は「奈良の飛鳥に王朝があった」という決め付けに繋がるので、ここでは採用しません。それより一つ前の古墳時代も、いわゆる墳墓(マウンド)が作られ始めたのはそれよりもかなり前からなので、あまり積極的に使いたくない呼び名です。

そうすると、歴代天皇の代で機械的に分類するのが今のところは適当なようです。もちろん、歴史の連続性を考えたらこんなに単純に区分できるはずもなく、これはあくまでも表現上の便宜的なものだと思ってください。

なお、私は古代史で従来使われている縄文時代・弥生時代という分類はしません。縄文・弥生はあくまでもその生活様式の違いを表しているだけで、本当にそれが時間的変遷を表しているとは言い切れないからです。

最新の研究によると、縄文様式も弥生様式も同時期に点在して存在していた痕跡が年代測定などから認められており、どうも縄文時代や弥生時代という時代の区分けは正しくないことが分かってきています。要するに

 大陸から渡ってきた弥生式文化に西方から席巻された縄文文化

という概念はもはや通用しなくなりつつあるのです。この概念は、文明とは

 大陸から一方的に日本列島へ渡ってくるという先入観

や確証の無い思い込みを生み出してしまいます。私は日本の史書を疑わしく思うのと等しく、中国の史書や朝鮮半島の史書もかなり疑わしいと見ています。そもそも当時の記録家が史実を偏見無く正確に記述できたと考えること自体が誤っているのです。

これに加え、現代に残された史書とは何度も写本を繰り返されているのが当たり前であり、オリジナルが正確に転写された保証もなければ、その過程で悪意のある改ざんが行われたことを確かめる術もありません。

ですから、中国史書に裏付けられた日本の上代・古代の年代特定は十分に気を付けなければならないのです。例えば、多くの歴史解説書はヤマタイコクのヒメカ(ヒミコ)は248年に死去と何の疑いもなく書いていますが、実はその数字こそがすこぶる怪しいのです。

そんなことを言いだしたら、どうやって歴史検証すればいいのだ?確かに悩ましい問題ではあります。

遺跡だって必ずしも当てにならない

古代史を検証する上で、確実性の高い手法の一つが遺跡や出土品による時代背景の推定です。おそらくこれ以上に正確な証拠は他にはないでしょう。しかしです。知人である発掘研究者のC氏によると

“埼玉県の稲荷山古墳の出土品なのですが、そこから出た鉄剣に刻まれた銘文が問題なんです。実はそれが日本書紀の記述が示す内容そのままなんです。発掘の世界の常識では、史書とピッタリ合う例と言うのはほとんどなく、かえってその正確性が疑わしい。ぶっちゃけ、わざわざ証拠になるようそこに残されたのではないかとすら考えられるのです”

1000年以上前に書かれた記紀がわざと偽史を正史と装うなら、その頃から記述に合わせた偽装工作が古墳などの遺跡類に対して行われていたと考えても、確かに矛盾はありません。

引用元:東京大学総合研究博物館 記載の世界

全部が全部そうだと言えませんが、遺跡・出土品類などの物的証拠についても過信は禁物だということがこの話から分かります。そして、ますますどうしたらよいか悩ましくなります。

敢えて偽書として読む

ここまで書くと、「これじゃあ歴史的真実なんか調べようがないじゃないか!」と諦めに近い思いが込み上げてくるのですが、唯一取れる手法とは、前回の記事「ダリフラのプリンセスプリンセス」でも採用した、記紀などの史書を敢えて偽書、あるいは暗号の書として読むという方法です。

どういうことかと言うと、本当に正しい歴史を伝えたくなかったら、史書そのものを全く残さなければいい。それでも、偽書が現代まで残されているということは、後世代の歴史認識をどこかに誘導させる為なのでしょうが、誘導するというなら正史をだれかが把握してなければその目的自体が達成され得ません。

要するに、世の中の全員が偽史しか知らない状態になってしまうということは、偽史を創作する意味そのものが失われてしまうのです。だから必ず正史はどこかに残されている。もしかしたら、まだ世に出てない確度の高い史書があるのかもしれませんが、どうせ偽史を編纂するなら、その中に暗号として事実を落とし込む方が二度手間になりません。

私はここで、日本書紀と古事記という似たような二つの史書が同時期に編纂されたことに注目します。両者似たようなことを書いていますが、造化三神の名前が違っていたり、万葉仮名の表記が違ったり、出雲の説話など片方にしか存在しない項目もあります。同時期に書かれたものにこれだけの違いがある、おそらく、この違いのなかに巧妙に隠喩が組み込まれているのではないか、そう考えるのです。

よって私は、「日本書紀はデタラメだ!古事記はデタラメだ!」と言いながらも、実はこれらの史書を頼りにして、斜に構えながら古代正史を読み解くという手法を取るのです。

そして、この二書を補強するのが次のニつの史書です。世間ではどちらも偽書扱いですが、記紀だってそれは同じなので、私は同等に扱います。

 ・先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)
 ・秀真伝(ほつまつたえ)

そして、私には他の研究家にはない強みがあると思っています。それは日本の呪術思想について多少は理解があることです。なんといっても、古代日本人にとって

 言葉とは呪術の一部

なのですから。歴史は言葉によって綴られます。ですから、そこ(呪術思想)から読み解ける解釈も必ずあるはずなのです。

 * * *

今回は前置きだけの文になって申し訳ありません。しかし、これが私の考え方なので、この点を予めご理解いただくと今後の齟齬が少なくて済むのではないかと思います。

上記分類中の上古代は特に重要で、現在のコロナウィルス渦も含め、現代日本が抱える重要諸問題は、実はこの時代に原因があるものが少なくないのです。次回メルマガ2号ではその点にも少し言及したいと思います。


誠の神力を現す世と成れる
管理人 日月土