前回は高知県土佐清水市にある巨石群「唐人駄場」(とうじんだば)へ向かった件についてお話しましたが、その中で、現地に残る名称に気になる点があるのを指摘しました。
今回はその続編として、日本神話との関係性について考察したいと思います
■龍宮城の神々
足摺岬の西、土佐清水市の松尾には、竜宮神社というパワースポットとして全国的に有名な神社があります。
海に突き出た岩場に置かれたこの神社、今回の調査ではすぐ近くまで行ったものの、時間の関係上立ち寄れなかったのですが、写真を見るだけも景観の素晴らしい所にあるのが分ります。

この竜宮神社の祭神は、豊玉彦命(とよたまひこのみこと)と豊玉姫命(とよたまひめのみこと)の父娘の神様ということになっていますが、この豊玉姫は日本神話における龍宮城のお姫様で、話の中では、失くした釣り針を求めて龍宮城に辿り着いた神武天皇の祖父に当たる彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)を見初めて、後にそのお后になるというストーリーが展開します。
「神話は事実を基に(派手に)脚色された創作である」というのは私の持論ですが、前回も掲載した次の画像からも、どうやら足摺の地が龍宮伝説の元ストーリーと関係ある場所であることが予想されるのです。

図中の竈戸(かまど)神社については、祭神不詳ということなのですが、よく知られた福岡県太宰府市の竈門(かまど)神社の祭神が玉依姫(たまよりひめ)であること、また、神話において玉依姫が豊玉姫の次の代の王妃であり、やはり龍宮城関係者であることから、この竈戸神社の祭神も、玉依姫、もしくは豊玉姫だったと考えられるのです。

さて、この豊玉姫と玉依姫ですが、実は当ブログの過去記事ではこの二人の姫(后)と王の関係を系図に落していたことを覚えておられるでしょうか?以下にその系図を再掲します。

この図は、伊豆半島下田市の伊古奈姫神社の伝承他を基に作成した系図ですが、ここで言う三嶋神とはこれまでの考察から彦火火出見命と同一人物であり、ここに龍宮城伝説の登場人物が揃うことになります。
また、画像2の「鵜の岬」の「鵜」とは、画像4に登場する鵜葺草葺不合命(鸕鶿草葺不合尊 ウガヤフキアワセズ)を指すと考えられ、王と王妃の名が2代に亘って登場することから、やはり足摺岬も伊豆半島と同じく同時代の痕跡を残した地であると考え得るのです。
伊豆半島と足摺岬、両者は互いに遠く離れていますが、どちらも太平洋に突き出た半島の地であり、ここに神話伝承だけでなく、古代海洋民族の移動ルートについても新たな視点を提供してくれるのです。
■二王朝時代の痕跡
さて、以上の考察で終るならば美しいのですが、ここで問題になるのが、画像2の図中に記した次の名称なのです。
佐田山の「佐田」
椿のトンネルの「椿」
白山洞穴の「白」
いずれのキーワードからも、同じ神(あるいは人物)が連想されるのです。
佐田 → 佐田彦 → 猿田彦
椿 → 椿大神社 → 猿田彦 (※つばきおおかみやしろ)
白 → 白鬚神社 → 猿田彦
そして、猿田彦とは秀真伝(ほつまつたえ)に記された二王朝並立時代の王、火明命(ほのあかりのみこと)であることが、これまでの分析で分かっているのです。二王朝時代の始まりから神武天皇までの王権移譲を、秀真伝に従って系図に示すと次の様になります。

この図では、男性王の代を青字、女王の代を赤字で記述していますが、以前からお伝えしている様に、この時代の王権継承権は女王が有していたと考えられるので(少女神仮説)、実は王権移譲の推移を見るには女王の代に注視する必要があるのです。
その時問題になるのは、二王朝が並立するということは王権移譲に乱れが生じることになり、まず女王が立つと考えれば女王は代が重複せず、重複するのはもっぱら男性側であるはずなのです。
画像5を見る限り、二王朝時代とは、どうやら瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が先代(火明命)からの王権移譲を待たずに即位した形跡が見て取れ、それが男性王の代と女王の代が不一致に至る原因になったようなのです。
11代女王であるコノハナサクヤ姫はおそらく順当だとして、それでは12代の女王は、豊玉姫なのかミカシキヤ姫なのかと迷うところでありますが、豊玉姫・玉依姫が「(水中の)龍宮城の姫」という記紀の神話表現には、敢えて地上との繋がりを遠ざけているようにも見え、おそらく
正当な12代女王とはミカシキヤヒメ(三炊屋姫)
であっただろうと考えられるのです。
と言うのも、当時から現皇室に至る王家の継承はあくまで豊玉姫側でありますが、記紀ではわざわざ火明命の継承者である饒速日尊は神武天皇に王権を譲った(国譲り)とまで記されており、それはまさに史書による王家の正当性を主張する修辞句そのものなので、実際には
火明命・饒速日尊の王朝は滅ぼされた
と見るのが正しいのではないかと思われるのです。
すると、「豊玉姫と玉依姫はどこぞの馬の骨なのか?」と疑いたくなりますが、当時の日本はあくまでも王位継承権は女王側にあったと考えられ、正しく承認された女王との成婚でなければ当時の社会に王として認められなかったはずなのです。
この混乱した状況でしぶしぶながらでも民衆に王権の移譲を認めさせる方法、おそらくそれはかつての女王と再婚すること、もっと乱暴に言えば
かつての女王を強奪すること
だったのではないかと私は予想するのです。
そう考えた時、奪われた女王の豊玉姫・玉依姫の元の名はいったい何であったのか、そこに焦点が移るのです。そして、その答とは足摺岬に残された地名(画像2)が既に示していると私は考えるのです。

答はこの作品の中にもしっかり描き込まれています
管理人 日月土