前回、前々回と「二人の姫を巡る探訪」シリーズですが、主に千葉県東総地区に残る龍宮城に関わる姫神を祀る神社についてレポートしてきました。今回はいよいよその最終回となる三回目となります。
・二人の姫を巡る探訪(その一)
・二人の姫を巡る探訪(その二)
ここで、二人の姫を追いかけるきっかけとなった「二人の姫と犬吠埼」に掲載した関係諸神社の地図を再掲します。

画像1の中でこれまでレポートしたのは
・編玉神社
・豊玉姫神社
・東大社
・渡海神社
・海津見神社
となりますが、今回は以下の神社について取り上げようと思います。
・玉崎神社
・雷神社
・二玉姫神社
■玉崎神社
この神社については、実は「サキタマ姫と玉依姫」で一度取り上げているのですが、同過去記事では埼玉県行田市の前玉(さきたま)神社と千葉県に数か所存在する玉前(たまさき)神社あるいは玉崎神社と漢字の読み順が前後しているだけなので、おそらく行田の前玉神社の祭神「前玉比売」とは、おそらく玉崎神社の主祭神である
玉依姫(たまよりひめ)
であろうとしています。

すると県名の「埼玉」はサイタマともサキタマとも読めることから、同記事で紹介したように、現在の「埼玉」という県名は、前玉姫の名を冠したもの、すなわち
玉依姫県
と言い換えることができるでしょう。
神話において玉依姫とは、現天皇家の祖である神武天皇の母とされていますから、埼玉県とは実は非常に由緒正しい県名なのだとも言う事ができるのです。
これは余談ですが「翔んで埼玉」なるコメディ映画がこれまで2作作られていますが、その最初の作品の最後で「世界埼玉化計画」なるスローガンが掲げられています。これは別の言い方をすれば「世界玉依姫化計画」、すなわち、
世界天皇支配計画
とも読み替えられ、そうなるとおふざけの過ぎたこのギャグ的発想も、その裏に何かシリアスな意味が込められているのではないかと急に笑えなくなってしまうのです。

今回の探訪コースの中に千葉県旭市の玉崎神社が入っていたのが取り上げましたが、ここで注意しなければならないのは、どうしてこの地(千葉県東総地区)の中に玉依姫を主祭神とした神社、それも上総國二宮という比較的格の高い神社が置かれたのか、そこを考える必要がありそうです。
同神社のホームページ、「ご由緒」には次のような一文があります。
玉﨑神社は、景行天皇十二年の御創祀と伝えられている。
実はこれまでの記事で紹介した、編玉神社、豊玉姫神社、そして東大社の創建についても、景行天皇の時代、あるいはヤマトタケルが居たとされる時代のものだと記録が残っています。
前にも書きましたが、豊玉姫・玉依姫の二人の姫の時代から数百年後の世代が、どうして祭神に二人の姫を選んだのか?その理由がよく分からないのです。私のつたない憶測についてはメルマガで既にお伝えしていますが、簡単に言うと、二人の姫が実在していたと思われる時代は、二つの天皇家が並立してた二王朝時代だったことが、何か大きな要因だったと考えられるのです。
■雷神社
雷(いかづち)神社は元々旭市内ではあっても、元々椿海(つばきのうみ)であった低地ではなく、東の銚子側の丘陵地帯に置かれた神社です。

その祭神は
主祭神:天穂日命(あめのほひのみこと)
併祀神:別雷命(わけいかづちのみこと)
となっており、一見龍宮城神話と関係あるのかと思われるのですが、別雷命とは、史書によって三嶋神、賀茂建角身命、八咫烏、彦火火出見尊と様々な別名で表記されていることが分かっており、この中で彦火火出見尊とは、まさに龍宮城に出向いたとされるその人ですから、実は無関係とはいえないのです。
同神社の由緒と祭神については、同社のホームページに詳しいので、そちらを引用します。
主祭神の「天穂日命」は、素戔嗚尊(スサノオノミコト)が天照大神と誓約した時生んだ男神五神の一柱で、その御子建比良鳥命は「出雲の国ゆずり」の後、香取・鹿島の両神と共に東国へ参られた。後に、その御孫の久都伎直(くずきのあたえ)が下海上(しもつうなかみ・海上郡、香取郡、匝瑳郡の一帯)の国造となり、この一帯を統治した。そして自らの祖神である天穂日命をこの地に奉祀したとも伝えられている。なお、出雲国造の祖神も天穂日命で、出雲大社はその子孫が歴代宮司として、大社創建から今日まで奉職している。
併せ祀る「別雷命」は、奈良時代最後の年(西暦793年)に京都の賀茂別雷神社より御迎えした大神で、これにより、時の桓武天皇から「雷大神」の称号を賜ったと言われている。また、総社雷大神または雷神様・雷大明神・鳴神様(「鳴神」とは「雷」のことであり、御鎮座地一帯は鳴神山と呼ばれている)とも尊称されている。この大神は造化三神の一人である神産巣日神の孫の賀茂建角身命(カモノタケツヌミノミコト)の孫に当たる神である。
(中略)
今でこそ干拓により湖は無いが、かつて「椿の海」が満々と水を湛え、人々は海の幸を享受していた。漁業と縁の深い別雷命をこの地に奉斎したのもこの椿の海があったればこそであろう。
雷神社ホームページ
(以下略)
椿海について書かれているものは珍しいので、このご由緒書はたいへん参考になるのですが、今一つ良く分からないのは「天穂日命」の存在です。
これについては、神話に記述されている天照大神と素戔嗚尊の誓約(うけひ)について分析しなければならないのですが、実はこの地に雷神社があることで、天穂日命が誰を指すのか一つの仮説が生まれてきました。それについてはメルマガでご紹介しましょう。
■二玉姫神社
今回の探訪で最後に訪れたのが二玉姫神社(仁玉とも書く)神社です。旧椿海の真中付近に置かれた神社で、旧海との関係から創建自体はそんなに古くないだろうとは、地形から予見できました。

外見から比較的最近に建て替えられたのが分る神社で、よく手入れされているのが印象的でした。境内に建てられた石碑には次ように書かれています。
二玉姫神社の由来と御神幸祭
二玉姫神社の御祭神は玉依姫命と申され鵜茅草萱不合尊のお后で神武天皇の母君に当るお方でございます。
明治八年に記された棟札により御祭神は玉依姫命であることが判明しお宝の二つの宝珠は満珠と干珠で二玉姫と称される所以ではないかと拝察いたします
今から四百七十八年前 大永五年西暦一五二五年この地に創めてお宮を造り 二玉姫神社と申し上げ人々の心のよりどころとして崇敬されました。三十三年目毎に御神幸祭が行われるのは神仏一体の頃先祖様祭は三十三年で終りになり神様が氏子の生活の様子 農作物の状況 漁業の有様などを御覧になり 海で禊をして五穀豊穣漁業の発展をお祈りして神社にお帰りになる行事を申すのであります
平成十六年三月吉日
予想通り、中世頃、室町時代の後期に建てられたようで、龍宮城神話の時代から千五百年は経過した頃です。この時代はまだ椿海の干拓も始まっておらず、おそらく、浅瀬の砂洲のような陸地に建てられたのが始まりではないか、あるいは干拓の後に、ここに移されたのではないかと考えられるのです。
問題なのは、他の龍宮城関連神社と同じく、
どうして祭神が玉依姫なのか?
という点であり、この神社の場合、景行天皇の時代から更に千年以上経過した中世にどうして玉依姫を祀る神社を海の真中に置いたのか、そこがたいへん気になったのです。
さて、この神社の名前の言われとなった「二つの玉」なのですが、石碑に書かれた説明はあくまでも一般向けのもので、実はここで言う二つの玉とは
豊玉姫と玉依姫
の二人の姫を指しているのではないかと私は思うのです。そして、そのように捉える説もどうやらあるようなのです。
仮に、「二つの玉 = 豊玉姫+玉依姫」だとするならば、どうしてこの二人の姫のことをことさら強調するのでしょうか?
それはやはり、この二人の姫が
豊玉姫 = タクハタチヂヒメ
玉依姫 = アメノウズメノミコト
という、それぞれ二つ名を付けられた特殊な事情にあるのだと私は考えます。要するに、この二人の姫は
奪われた姫
だったからではないでしょうか?
どこから奪ったかと言えば、二つあった王朝のどちらかであり、これは王権継承が女系よってなされており(少女神仮説)、王朝の正当性を謳うにはどうしても女系の血を取り入れる必要があったからです。
最後に、今回記事にした神社を、等高線毎に色分けして地図上にプロットしたものを掲載します。この地図は、古代期におけるこの地の特殊性を示すだけでなく、前述の天穂日命がどのような人物であったのか、それを推察する大きなヒントを与えてくれたのです。

管理人 日月土































































