ここ数回はアニメ「しかのこのこのここしたんたん」を元ネタに記事を展開してきましたが、意外にも同作品に組み込まれていた歴史的暗喩の範囲が広く、正直、その全てを解き明かせている訳ではありません。
今回は、そのアニメの構造解析はお休みにして、最近調査に向かった千葉県の館山市、古い地名で「安房」(あわ)と呼ばれた、千葉県房総半島の南端の地についてレポートしたいと思います。
■忌部氏(いんべうじ)と安房の国
11月初旬の朝、薄曇りの天候の中、館山市街を出発して向かったのは、市内南部にある洲宮神社(すのみやじんじゃ)です。
ここは忌部氏ゆかりの古代祭祀が行われた場所と聞いて向かったのですが、現地に着いてみると、外見はいたって普通の趣の神社でした。
案内版には丁寧な解説が記述されていたので、その一部をここで書き出してみます。
洲宮神社は安房開拓神話にまつわる神社で、安房
神社の祭神である天太玉命(あめのふとだまのみ
こと)の后神、天比理乃咩命(あめのひりのめの
みこと)を祀っています。そのためか、神社に伝
えられる縁起では忌部一族による安房の開拓や、
安房神社、洲官神社、下立松原神社の創建の由来
なとか語られています。本文のうち3分の1は、
失われた『安房古風土記』ではないかと推定され
ています。この縁起の成立年代は不明ですが、「古語拾遺」
(807年成立)からの引用があり、平安時代以降
と推定されます。別紙となっている奥書に、慶長2
(1597)年に虫食いのため、元の本から写した
と記してありますが、現代の縁起はそれを更に後
世写し取ったものと考えられています。
案内文の中に出てくる安房神社(あわじんじゃ)はこの神社の近くにあり、ここを離れた後にそちらへも訪れました。
こちらは安房国一宮とされる古い神社で、一般に阿波国(徳島県)から移り渡ってきた忌部氏によって創建されたと言われています。
安房神社の主祭神は天太玉命で、相殿神として皇后の天比理乃咩命、阿波忌部の祖と言われる天日鷲命(あめのひわしのみこと)など6柱が祀られています。
さて、洲宮神社ですが、拝殿の裏に回ると古びた石柱のようなものが置かれていました。そこに掲げられた案内板を読むと、元のお社は谷を挟んだ向かいの山の中にあったらしく、どうやら私が訪ねたこの場所は、江戸時代の火災の後にここに建て直されたものだと言う事が分りました。
またこの古びた石柱は元宮の場所にあったものを、土地開発の事情でここに移設したものだということです。
なるほど、ここでは古代の雰囲気があまり感じられないなと思ったのは、そういう事情があったからのようなのです。
洲宮、安房と2つの神社を回った後に海岸沿いの布良崎神社(めらさきじんじゃ)へ立ち寄りましたが、ここでは忌部の歴史を感じる非常に面白いものを見つけました。
敷地内の大きな岩に、直径10㎝程度、深さ3~4㎝程度の丸い穴が幾つも穿たれているのです。同行者のG氏の話では、どうやら古代祭祀の痕跡だとのことことなのですが、いったいここではどのような祭祀が行われていたのでしょう?呪術的なものに目がない私にとってはたいへん気になる大岩でした。
ちなみに、ここの祭神は天富命(あめのとみのみこと)・須佐之男尊(すさのおのみこと)・金山彦命(かなやまひこのみこと)です。天富命は上述した天太玉命の孫とされ、やはり忌部氏の関係者であることが窺われます。
■天太玉命とは何者か?
安房の土地、そして忌部氏を理解する上で、天太玉命がどのような人物(神)であったかを知らなければなりません。
日本神話の中で、天太玉命は次の様に描かれています。
このときに天照大神は大変驚いて、機織の梭(ひ)
で身体をそこなわれた。これによって怒られて、
天の岩屋に入られて、磐戸を閉じてこもってしま
われた。それで国中常闇(とこやみ)となって、
夜昼の区別も分からなくなった。その時八十万の神たちは、天の安河のほとりに集
まって、どんなお祈りをすべきか相談した。思兼
神(おもいかねのかみ)が深謀遠慮をめぐらして、
常世の長鳴鳥(ながなきどり=不老不死の国の鶏)
を集めて、互いに長鳴きをさせた。また手力雄神(たちからおのかみ)を岩戸のわき
講談社学術文庫 日本書紀(上)訳:宇治谷孟
に立たせ、中臣連(なかとみのむらじ)の遠い祖
先の天児屋命(あまのこやねのみこと)、忌部の
遠い祖先の太玉命は、天香山の沢山の榊(さかき)
を掘り、上の枝には八坂瓊(やさかに)の五百箇
(いおつ)の御統(みすまる)をかけ、中の枝に
は八咫鏡(やたのかがみ=大きな鏡の意)をかけ、
下の枝には青や白の麻のぬさをかけて、皆でご祈祷
をした。
有名な天照大神の岩戸隠れのシーンで、岩戸の中の天照大神を外に出すために知恵を絞ったブレーンの一人(柱)として名前が挙げられています。
当然、何かの歴史的事実の比喩と考えられるのですが、これを人物史と捉えた時、少なくとも天太玉命は、当時の中央政権において、重要なポジションを占めていた重臣であったと考えられるのです。
そうであればこそ、忌部氏がその後の朝廷祭祀族として名を馳せたのにも納得が行くのです。
さて、以上は日本書紀の記述からなのですが、人物史として上代(神武以前)を記述している秀真伝では天太玉命はどのような血縁関係として描かれているでしょうか?
この図の緑枠の中には、参考のため、天太玉命に関する他の伝承を基に、天比理乃咩命と天宇受売命(あめのうずめのみこと)を書き加えています。
フトタマは、第7代タカミムスビ王統のタカギの息子として記述されています。ところが、タカミムスビ王統は7代で終ってしまっています。フトタマ、あるいはその他の兄弟は王統を継承できなかったのでしょうか?それはいったいどうしてなのでしょうか?
ここで、これまでこのブログで主張してきた、古代日本の王権継承の仕組み
女系による王権継承
すなわち、「少女神」と呼ばれる女性の元へ婿入りすることで王権が授けられる、いわゆる少女神仮説でこの系図を組み直してみたいと思います。
少女神仮説で書き換えたこの時代の系図は次の様になると予想されます。
アマカミ王統とタカミムスビ王統、双方にそれぞれ女系の王権継承家系があったところを、アマカミ側がその王権の名(男性)を、タカミムスビ側が実質の継承権(女性)を保有するという協定が出来たのではないか?この図はそれを示しています。
これがフトタマの時代を巡る背景だったと私は予想するのですが、お気付きのように、記紀の記述では10代アマカミとはニニキネ、すなわち瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)でないとおかしいのです。
また、この図では素戔嗚(すさのお)、大国主と続く大物主(オオモノヌシ)王統については説明できていません。
それらを含めて、やがて、現在の皇室へと続く統一王朝となるのですが、ここに、秀真伝が伝えきれなかった王権を巡る当時の深刻な対立、あるいは混乱があったと考えられるのです。
南国の花育みし白き風 また吹く時ぞ安房の波間に
管理人 日月土