鹿島と木嶋と方舟と

先々月5月31日の記事「もう一つの鹿島」では、この春に調査に向かった、佐賀県の杵島(きしま)についての考察をレポートさせて頂きました。

そこでは、古代の海運事情と朝鮮半島との繋がり、また、現在でも残る地名から、日本神話の登場人物(あるいは神)との関係性について考察し、またその中の「鹿」の文字から、古代ユダヤとの関連性も考えられるのではないかとの推察を述べています。

今回は鹿島、もとい杵島について、もう少し深いお話をお伝えさせていただきます。

■シュメール語による「きしま」の分析

前回もお伝えしたように、この調査では私にとって歴史の先生役でもあるG氏に同行して頂いたのですが、最近またG氏に会ってお話を聞く機会を得たので、その時聞いた内容をできるだけそのままお伝えできればと思います。

画像1:地図上の杵島
画像2:潮見神社側から見た杵島

前回お伝えしたように、潮見神社のある辺りの平地は、古代期には半島交易の重要な船溜まりとして機能していただろうと考えられ、その向かいにある300メートル程度の低い山が連なる杵島も、有明海側を見渡す見張り台として大変都合が良い場所であったはずです。

海運を生業としている古代人にとっては、杵島は現実的な要所であったと同時に、人々の生活を支える有難い山、いわば神が宿る聖なる山であったのかもしれません。

そんな古代人の信仰の表れが「杵島」(きしま)という地名から読み取れるとG氏は語るのです。

古代言語研究家の川崎真治さんの著書などから推察すると、「キシマ」という言葉は、どうやらシュメール語の「ギシュ・マァ・グル・グル」から来ているようなのです。

「ギシュ」は文字通りの「木」(wood)の意味、「マァ」は「船」(ship)、「グル・グル」船の「回遊する様」(wandering)を意味しており、直訳すれば、「彷徨う木の船」となりますが、どうやらこの「彷徨う木の船」とは

 方舟(はこぶね、または箱舟)

を指しているようなのです。後に、「グル・グル」の部分が脱落して「ギシュ・マァ」だけが残り、時間とともに日本語的に平易な響きの「きしま」に変化していったようなのです。

※初回投稿から一部修正があります

この話を聞いた時、当然ながら私は聖書の創世記に記された「ノアの箱舟」を思い出したのは言うまでもありません。

前回の記事の最後部で、(「鹿」など周囲の地名から)古代ユダヤとの繋がりが感じられる旨の感想を述べましたが、G氏のこの話はまさに直球で、旧約聖書における重要トピックとの繋がりを示唆するものだったのです。

これだけでも、大いに興味が湧いてくるのですが、G氏は次の様に話を続けます。

 あられふる きしみがたけを さがしみと くさとりはなち いもがてをとる

これは万葉集の巻3-385番の和歌ですが、これの漢字読み下しは

 あられふる 吉志美が岳を 険しみと 草取りはなち 妹が手を取る

となります。現代語訳は

 あられの降る吉志美の山が険しいので、草を取りそこねて妹の手を取ることだ

となり、一般的には吉野(奈良県)の男性が、姫に与えた歌と伝えられていますが、そもそも「きしみが岳」とはどこを指すのでしょう?またいったいこの歌にはどのような意味が込められているのでしょうか?

私は、吉志美(きしみ)とは杵島(きしま)ではないかと考えるのです。

「あられふる」は「霰降る」で、その後に出て来る「山」にかかる枕詞なのですが、そもそも「霰降る」とは文字通り以外に何を意味するのでしょうか?

これを聖書の箱舟伝説に関わる用語と捉えると、その意味が自ずと見えてくるのです。

聖書では、大洪水でこの世の陸地が水没した中、150日以上も漂流し続けたノアの箱舟は最終的に

  アララト山に漂着

することになるのです。

水は地上からひいて行った。百五十日の後には水が減って、第七の月の十七日に箱舟はアララト山の上に止まった。水はますます減って第十の月になり、第十の月の一日には山々の頂が現れた。

新共同訳聖書 創世記第8章3-5節
画像3:アララト山上の箱舟(想像図)

「箱舟」と「山」の関係はまさに聖書のままなのですが、では「あられふる」とは何なのか?G氏は次の様に推測します。

「あられふる」とは元々「アララト」であったのが、後に変容した言葉だと考えられるのです。

これには私も驚きました、もしもそうであるならば、「あられふるきしみがたけ」とは「あられふる」(アララト)の「きしみ」(箱舟)が漂着した「たけ」(山)と、聖書の記述とピッタリ一致するのです。

これはいったいどういうことなのか、G氏の説明は続きます。

■全国に見られる箱舟信仰

この和歌に出て来る「きしみ」が必ずしも佐賀の杵島を指しているとは言いませんが、おそらくこのような箱舟信仰は日本中にあったと考えられます。

それを象徴するのが、まさに「貴船神社」(きふねじんじゃ)です。「貴船」は「木船」と表記することもあり、やはり箱舟を指していると見るのが妥当なのです。

京都北部の貴船神社が有名ですが、どうしてあんな山深いところに「船」なんだろうと思ったことはありませんか?

しかし、これがノアの洪水伝説に従うなら、むしろ山間にある方が状況としては正しいのです。

同じく京都には蚕ノ社(かいこのやしろ)と呼ばれる「木嶋坐天照御魂神社」(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)がありますが、まさにこれも文字通り「きしま」なんです。

ここを訪れる方は、有名な3本鳥居ばかり注目していますが、この神社の北側に「雙ヶ岡」(ふたがおか)と呼ばれる小山があるのはあまりご存知無いようです。この小山とセットで本来の箱舟信仰は成立しているのですよ。

このお話を聞いた後、さっそくGoogleアースでこの2つの神社を調べてみました。その図が以下になります。

画像4:貴船神社と京都北部の山々
画像5:蚕ノ社と雙ヶ岡

これは非常に驚くべき視点です。古代ユダヤと日本の関係を探していたら、いきなり創世記の洪水・箱舟伝説と古代日本の信仰形態がリンクしてくるのですから。

そうなると、シュメール文明まで遡らないと、ユダヤとの日本の本当の文明起源を俯瞰できないということも示しており、今からそこまで掘り下げないといけないとなると、何やら頭がくらくらしてくるのです。

最後に、「あられふる」の枕詞を用いた和歌を一首紹介しましょう

 霰(あられ)降り鹿島の神を祈りつつ
  皇御軍(すめらみくさ)にわれは来にしを

万葉集の防人の歌であるこの歌には、次の様な解説が付けられています。

「霰降り」は、空から降るあられが地面を打ち付ける音がやかましい(=かしましい)ことから「鹿島」の枕詞(まくらことば)となっている。

産経新聞 https://www.sankei.com/article/20190501-QRPGUNC7UBJVHC7DA4GMTSWHSI/

以上はあくまでも現代日本語的な解釈であると考えられます。「鹿島」(かしま)が「杵島」(きしま)の言語的変化であることは既に述べていますので、おそらくこの歌の上の句の真意は

 箱舟の降り立ったアララト

を意味していると考えられ、歌全体の意味も

「大洪水から我らを守った神に祈りを捧げ、私は出征する」と解した方が、はるかにシンプルにその意味が伝わって来るのです。

そして、「鹿」はユダヤ十二支族「ナフタリ」族の象徴であることも、ここで改めて強調しておきましょう。


管理人 日月土

もう一つの鹿島

ここしばらくは、三嶋神を巡る神話解釈に時間を割いてきましたが、先日、九州は佐賀県へと歴史調査に向かったので、今回はその時の様子をお伝えしたいと思います。

短い日程だったので多くを訪れることは叶いませんでしたが、それでも、何もない、人々に忘れらたと歌にまで歌われる佐賀が、実は古代史的にたいへんに重要な場所であることを再認識する調査となりました。

もちろん、佐賀県神埼町の「吉野ヶ里遺跡」は歴史マニアの間ではあまりにも有名なのですが、今回訪れた場所はそこではありません。歴史分野における私のアドバイザーG氏の案内で、武雄(たけお)、白石(しろいし)という、現在では温泉と玉ねぎ生産で有名な土地へと出かけてきたのです。

■朝鮮半島出征の重要ポイント

古代史における、九州北部と朝鮮半島の密接な関係は言うに及びませんが、多くの方は半島への寄港地として、玄界灘沿岸の松浦・唐津・糸島・福岡(博多)・福津などの港湾集落を思い浮かべるかと思います。

もちろんそれはその通りなのですが、実は半島への重要出征ポイントが、有明海側にも存在していたことを忘れてはいけません。

これについては、次の地図が参考になるでしょう。古代の地理的事情を考える時には、現在よりも数メール海面が高かった、いわゆる海進時代の海岸線で地図を見る必要があります。

画像1:古代の九州北部海岸線予想図

この画像は現在の地図において海面を9mほど高く設定したものですが、もちろん当時の地形や海面の高さが正確に表現できている訳ではありません。あくまでも古代海岸線を予測する上での参考として見て頂きたいのです。

すると、佐賀県の有明海側の平地の殆どは海の底だったということになりますが、そもそも、古代期には、低地における広い平地なるものはほぼ存在していなかったと考えるべきで、あの吉野ヶ里遺跡も、集落のすぐ近くにまで海岸線が迫っっていたと捉えた上で、その存在意義を推し量るべきなのです。

また、画像に示した赤い線は、有明海北岸から対馬海峡方面へ抜けるルートを示していますが、それは有明海から諫早の海峡を抜け、大村湾を経てから西海(さいかい)の海峡を通って佐世保の沖合に出るルートが真っ先に思い浮かびます。

実は朝鮮半島に向かうには、玄界灘から対馬海峡を海流に逆らって強引に横断するよりは、西海を出てからしばらく西に向かい、対馬海流に乗りながら北上する方が、動力船のないこの時代においては、船舶運航上も合理的なルート選択であったと考えられます。

今回注目したのは、有明海北岸の船舶の着岸地点がどこであったのかという点なのです。着岸に適した場所があれば、そこが常設の港となり、船が集まると同時に人が集まります。そして、その土地が統治上の重要ポイントになることは容易に想像できるかと思います。

今回、古代有明海の接岸ポイントとして注目したのが、画像1の中央部に当たる次の場所なのです。

画像2:杵島と入り江

杵島(きしま)と呼ばれる南北に連なる島状の山地とそれに挟まれる入り江のような地形、ここはまさに、船の停泊地としては最適だった場所だと考えられますし、実際そうであっただろうというのが、現地に残る潮見神社(しおみじんじゃ)の名前から窺い知れます。

画像3:潮見神社

潮目を見るのは船舶の航行において欠かせないプロセスであることは、わざわざここで述べることでもないでしょう。この神社の裏からは6世紀中頃のものと見られる古墳も見つかっており、古代期に人がここに定住していただろう痕跡もしっかりと見られるのです。

この神社から入り江を挟んだ東の向かい側には杵島の山がそびえており、実際に有明海の潮目を見ていたのはこの山の高所であっただろうと考えられます。その一つが、現在歌垣公園となっている辺りではないかと考えられます。

画像4:歌垣公園の展望台から佐賀市方面を見下ろす
古代期は一面有明の海であっただろう

この杵島周辺にも多くの古墳が残され、ここが古代期における重要ポイントであることの思いはますます強くなるのです。

ここまで、古代期における杵島の姿を予想してきましたが、朝鮮半島との行き来がが絶えなかったこの時代、杵島が日本の国内統治においていったいどのような位置付けを保っていたのか、ますます気になる存在となってくるのです。

■武の暗号

地名には生きた歴史の情報が含まれている、当ブログではその考えを基に地名から歴史的事象の推察を試みています。

同地において気になる地名は、潮見神社の所在でもある武雄市(たけおし)なのです。過去記事「鹿の暗号と春日の姫」では「武」(タケ)の字が示す意味を考察しており、その時のセオリーをここで適用すると

 武雄とはタカミムスビ皇統の男性を表す

と解釈できます。

タカミムスビ皇統の男性の例として、具体的には日本神話に登場する武御雷(タケみかづち)や建御名方(タケみなかた)であり、同過去記事では、この両者が同一人物でないかとの仮説を提示しています。

武御雷とは、言わずと知れた鹿島神宮の祭神であり、春日大社の春日四神の一柱かつ藤原氏の祖神ともされています。また、秀真伝ではカシマカミとも呼ばれています。

今回の案内を頼んだG氏によると、「杵島」(きしま)の名は音が転じて「かしま」(鹿島)になるとおっしゃっており、なるほど、杵島の南端に接するのは

 鹿島市(かしまし)

なのです。

茨城県の鹿島、鹿児島県の県名となった鹿(児)島、これまで両者の関係性を追って来ましたが、佐賀県の鹿島市についてはその由来が今一つはっきりしませんでした。しかし、武雄なる地名を軸に、どうやら同地とタカミムスビ皇統との関連性が見えて来たのです。

更に気になる地名が「白石」の「白」の字で、白は白鬚神社の祭神「猿田彦」を表すとも考えられ、当ブログでは、これまでの考察から猿田彦は「火明」(ほのあかり)と同一人物であろうと結論付けています。

 関連記事:猿と卑しめられた皇統 

また、「白」は「百」から「一」を引くという意味合いから「九十九」と読み解くことが出来ますが、千葉県の九十九里浜、その北端の地である銚子市は、火明(=猿田彦)所縁の地であることは既に過去記事で述べています。

茨城県の鹿島市と千葉県の銚子市は地理的にごく近く、それは鹿島(=武御雷)と火明(=猿田彦)の関係性の近さを暗示しています。日本神話においても、この二柱の神は天孫降臨の節で片や出雲の国譲り、片や道案内の神として同時に出て来ます。同じような関係性が、佐賀県の武雄・鹿島市と白石町の間に見えてこないでしょうか?

そしてもう一つ、佐賀市内の諸富(もろどみ)、武雄市内の富岡(とみおか)、鹿島市内の納富分(のうどみぶん)、そして白石町内の福富(ふくとみ)と、杵島周辺にはやたら「富」(とみ)の付く地名が目立つのです。

「とみ」とは「登美」とも書け、この登美とは、日本書紀において

 饒速日(にぎはやひ)が磐船から降り立った地

とされているのです。

ちなみに、千葉県北部から茨城県南部に多く分布する鳥見(とみ)神社の祭神は、やはり

 饒速日

なのです。

 関連記事:麻賀多神社と高天原 

タカミムスビ皇統(鹿島神を含む)と朝鮮半島との関係は以前から何かあると踏んでいましたが、かなり具体的に半島との関連性を示す杵島の地で、この名が出て来たのには驚きを隠せません。

しかも、ブログ上ではまだ考察を示していませんが、饒速日とは火明(=猿田彦)王朝の後継者であったと私は見ています。

タカミムスビ皇統、火明王朝、そして朝鮮半島。大和朝廷とは異なるこれらの王統がどのように結び付くのか、ますます興味深いことになってきました。

■ユダヤのサイン

最後に、G氏は次の様な示唆を私に示してきました。杵島の「杵」には「午」(うま)の字、そして鹿島には「鹿」の字、つまり、馬と鹿なのです。この「馬鹿」(うましか)問題とは、今年に入って当ブログが追いかけている

 古代ユダヤ問題

であることも忘れてはならないのです。


管理人 日月土