古代の土木と呪術

今回も前回の続きで、千葉県房総半島を巡ったその続きとなります。

お伝えする場所は、房総半島の南端の館山から、外房(房総半島の太平洋側沿岸)沿いを100km以上北上したところにある、千葉県いすみ市内となります。

■東叡山飯縄寺

館山から国道128号線を北に向かって走り、太東埼灯台付近で東に折れると、そこにあったのが飯縄寺(いづなてら)です。

元々ここは訪れる予定のなかったところなのですが、江戸時代の有名な彫物師「波の伊八」(なみのいはち)の最高傑作があるというので、同行者の勧めもあって急遽ここに立ち寄ることにしたのです。

実は。「飯縄」という文字を見ただけで、修験の里、長野県の飯縄山を連想させるだけでなく、民間呪術である「飯縄法術」とも何か関係がありそうで、それだけでも興味をそそられてしまったのです。

画像1:飯縄寺本堂

この画像を見て気付かれた方もいらっしゃるかと思いますが、山門から一直線に続く参道は、本堂の前で左に角度を付けて曲がっているのです。

画像2:参道が左に折れている

気学や風水を学ばれた方ならもうお分かりのように、これは気の触りを防ぐ配置で、このお寺がその辺の知識を取り入れて設計されたものであることが一目瞭然なのです。

これは面白くなってきました。同行者がお堂の中の伊八の彫り物を見て感動しているところ、私は呪術的な細工を探すのにもはや心を奪われてしまったのです。

画像3:お堂の周りにお堀?

お堂の周囲をぐるっと取り囲むように彫られた小さなお堀。これは水を利用した典型的な結界術と考えられます。もっとも、この土地は水はけがあまり良くなさそうなので、水抜きの排水路とも考えられますが、結果的に結界を構成していることに変りありません。

あと、古い時代、確実に遺体を埋めていただろうなという場所も見つけましたが、あまりそんな事ばかり書くと歴史解説から逸脱してしまうので止めておきます。

波の伊八の大傑作、「弁慶と牛若丸」は写真撮影禁止と言う事で、ネットにあったものを代わりに掲載しておきましょう。

画像4:波の伊八「弁慶と牛若丸」
千葉県物産協会HPから

このお寺、創建は808年と古く、江戸時代に東叡山(上野寛永寺 – 天台宗)の管轄下に入ったようなのですが、なぜここに呪術の展示場のような寺が築かれたのか、次に興味を引かれたのがその点なのです。

■太東の雀島

いすみ市を訪れた本当の目的の一つが、雀島(すずめじま)なのです。この雀島、実は今年の3月初め頃に話題になったのを覚えておられるでしょうか?

画像5:崩れ落ちた太東の雀島
NHK NEWS WEB (’24-03-05)

NHKさんの報道では、なぜか「雀島」と呼ばず「夫婦岩」の呼称のみを使用しているのですが、どうしてなのでしょうか?地元では明らかに「雀島」で通っているのにも拘わらずなのに。

実は、この雀島と今年の元旦の能登半島地震、千葉県東方沖地震の関係性について、3月10日の(新)ブログ記事「観光スポットにされた理由」で既に取り上げているのです。

現地へは一度視察に行っているのですが、今回改めてこの雀島を見てきました。

画像6:太東の雀島

この写真の右側、黄線の枠で囲った部分にご注目頂きたいのですが、波で削られただろう岩の下に、何やら礎石のような平板な敷岩があるようなのです。

画像7:礎石か?

画像5の写真では見にくいのですが、実は中央および左側の小岩の下部にも継ぎ目のような痕跡が見られるのです。

削られ方が異なるのは、おそらく上下で岩の材質が違うからとだと考えられますし、下側の岩の上面が水平なのも気になる点です。

即ち、この雀島、元々人工物であった可能性もあるのですが、そうだとしたら、何時、誰が、何の目的で、そしてどのように人工島を造営したのか、それを説明しなければなりません。

想像の逞しさのが私の取柄(あるいは悪癖)なのですが、そもそもエジプトのピラミッドですら、その建築方法や目的がよく分っていないのですから、取り敢えず、詳細は不明のまま雀島が人工島であったと仮定しても問題はないかと思うのです。

■物部氏創建の玉﨑神社

いすみ市は、サーフィンで有名な千葉県一宮町(いちのみやまち)の南に位置します。この一宮町は、文字通り上総一ノ宮として知られる玉前神社(たまさき)でも有名です。特に、スピリチュアル系の人々からはパワースポットの一つとして捉えられているようです。

「たまさき」の呼び名で呼ばれる神社は、千葉県内に幾つかあり、いすみ市内にも小社が点在しています。

前節の飯縄寺・雀島からそれほど離れていない所にも玉﨑(たまさき)神社が鎮座しており、今回の現地調査の最後の場所として同神社を訪れました。

画像8:玉﨑神社(中原)

「たまさき」あるいは「さきたま」と名の付く神社は、基本的に玉依姫(たまよりひめ)が主祭神なのですが、由緒書によると、ここではその先代に当たる豊玉姫(とよたまひめ)が祭神の座を占めています。

また、この神社は現在の「椎木」と呼ばれる少し西方の土地から遷移されたものであることも記されています。

しかし、この神社で注目すべきなのは、「物部」(ものべ)系氏族によって創建されたとあることです。

画像9:玉﨑神社(中原)の由緒書

古代朝廷の軍事担当氏族、あるいは国家祭祀氏族とも言われている物部氏の名が何故わざわざここに書き残されているのか、非常に気になるところであります。

それ以外はいたって普通の神社という体なのですが、この神社の存在意義は、古代の地形を読み解くことで少しだけ見えてくるのです。

■外洋に突き出た小半島

まず、今回訪れた場所について地図上で整理してみましょう。まずは現在の地図上にプロットしたものです。

画像10:今回訪ねた場所(現代地図)

この地図を見ても特に特徴は掴めませんが、次に、中世まで続いたとされる海進期の水面(5~7m)で地形を考えます。

画像11:今回訪ねた場所(海進期予想)

半島の形が現れてきましたが、そもそも、この小半島、太平洋の荒波に細く突き出ているのが何か不自然です。もちろん、潮流の激しい太平洋にこんな入り江があったのなら、昔の船で行き来するには大変便利であったに違いありません。

ここで話を整理すると

 ・呪術の要素が漂う史跡
 ・人工物の疑いがある雀島(詳細不明)
 ・小半島周辺に固まっている
 ・太平洋に突き出た不自然だが便利な半島

ちょっと強引かもしれませんが、私はこの古代海進期に存在しただろうこの半島は

 古代土木による人工の半島

と捉えても良いのではないかと思っているのです。もちろん、仮説としてですが。

管理人 日月土