七枝樹と弥生土器

ここ数回のブログ記事の内容をまとめると、日本神話の素戔嗚(すさのお)と奇稲田姫(くしいなだひめ)に関わる重要アイテムとして

 牛頭天皇(素戔嗚の別称) → 牛
 八岐大蛇と奇稲田姫    → 蛇

があり、この動物による象徴が、シュメール神話の円筒印章に描かれた、次の象徴と重なることをお伝えしました。

 王(ハル) → 牛角冠
 女王(キ) → 蛇

そして、シュメールの王と女王を表す記号として

 王(ハル) → 3枝
 女王(キ) → 4枝 (または2枝)

があり、これが一つの樹の幹から伸びた枝、すなわち七枝樹として描かれていることも併せてお伝えしています。

2つの神話の間で、「牛」と「蛇」が奇妙に共通しているのも驚きですが、「世界の中の素戔嗚伝承」でお伝えしたように、日本の縄文時代の線刻石に

 牛角冠・蛇・3点・2点

とほぼ共通するパターンが見られることから、もはや

 素戔嗚神話とシュメール神話の共通性は確実にある

と断定しても良いのではないかと思われるのです。

画像1:東京都町田市で発見された線刻石
出典:川崎真治著「日本最古の文字と女神画像」(1988 六興出版)

■弥生土器に描かれた七枝樹

神話とされる伝承には、その元ネタとなった史実があるだろうと以前からお伝えしていますが、素戔嗚伝承は記紀が示す通り神武天皇が登場する以前の出来事と想定されます。およそ、紀元前から紀元後に移り変わる前後であったと思われます。

前回の記事「蛇と樹とシュメールの女王」では、正倉院に収められている奈良時代の「鳥毛立女図」に七枝樹をモチーフとした樹木が描かれていると見られることから、この七枝樹思想または信仰は、少なくともその時代まで日本国内で続いていたと考えられます。

その数百年もの長い期間があったなら、他にも七枝樹をモチーフとした遺物が何か残っているだろうと資料を見回すと、鳥取県米子市淀江町稲吉の角田(すみだ)遺跡から出土した弥生式土器に、それらしき絵画がヘラ描きで描かれているのに気付きます。

画像2:角田遺跡絵画土器(A~Eの記号は筆者による)
出典:一般財団法人米子市文化財団 
※ 図中青丸で囲った部分は、考古学会員の佐々木謙氏が
考古学雑誌に発表したものに後から描き足されている部分

ここで注目すべきは「B」の画像で、この資料を掲示していたサイトでは「木にぶらさげられた物体」と、それこそ見たままを簡単に説明されています。

これについて多少踏み込んで考察しているのが、磐座(イワクラ)学会さんの論文で、そこでは、土器に描かれている絵画が単純な風景や事物の描写であるというそれまでの見方を排して、祭祀、それも太陽祭祀の祭具であろうとの仮説を打ち立てています。

 2 従来の解釈の問題点

  従来の解釈は、現在のところ一般的には銅鐸の
 祭りの風景を描いたものとされ、その銅鐸の祭り
 は農耕儀礼あったと推測されている。しかし、そ
 れが真の解釈であろうか。

 その疑問の理由は、図Bにある。私にはこれが「木
 に吊るされた銅鐸」にはどうしても見えないからで
 ある。これを、自信をもって「木に吊るされた銅鐸」
 だと言い切れる人はいないであろう。

 ならば、「銅鐸の祭り」の解釈も、この絵に関して
 は成立しがたいと言わざるを得ない。裾のすぼまった
 紡錘状の銅鐸などありえないし、その銅鐸を吊るして
 いる樹木の枝も棒のようである。

 従って、「木に吊るされた銅鐸」は農耕儀礼と結びつ
 けるためのいささか強引な解釈と言わざるをえない。

  (中略)

 [鏡の祭具]
 ここで、土器絵画(図B)を鏡を取り付けた祭具と
 考えるに至った発想の根拠を示そう。

 <土器絵画(図B)の特徴の推定>
 ①紡錘状の物体は、上下左右対称である。
 ②二つの紡錘状の物体は、同じ形状で左右対称の
  位置にある。
 ③樹木状の物体は直線的に描かれており、樹木の
  ような天然のものでなく、人工物である。

 これに、使用される鏡は弥生前期末に楽浪郡より
 渡来した多鈕細文鏡と推定する。

同論文から抜粋

私も、このような文様は、物作りがたいへんだった古代期においては、祭祀など何か特別な催事の為に描かれたと考えるのが順当だと思います。

この論文は、その形状を非常に細かく観察しており、仮説に至ったプロセスを丁寧に積み上げていますが、この棒状の祭具と思われるものの上部、そこから突き出ている横棒が何であるか、また左4本、右3本の非対称であることについては特に言及していません。

もうお分かりの通り、この4本と3本の左右の非対称性に注目すると、これまで考察してきたテーマと俄然話が噛み合ってくるのです。

画像3:シュメール円筒印章と角田弥生絵画の比較

枝の数もそうですが、何と言っても、枝から垂れ下がっている2つの楕円形の物体までがデザイン的にそっくりなのです。

これはもはや、弥生中期と呼ばれる時代にも、七枝樹思想があったと見なして良いのではないでしょうか?

■2つの楕円物体の考察

ここで、昨年10月31日の記事「方舟と獣の数字」で紹介した。山口県下関市、彦島で発見された線刻石から、七枝樹の象形と思われるものを再度見てみます。

画像4:彦島線刻石の七枝樹

こちらの描画パターンは角田弥生絵画とは少し異なるメノラー型ですが、7つの枝のその下に、楕円形の物体こそ描かれていませんが、中心線から下方に向って左右に垂れさがる枝の様なものが描かれています。

私はこれも、シュメール円筒印章、弥生絵画に描かれた樹木のようなものと同じと考えますが、この垂れ下がったものがいったい何なのかが少し気になります。

樹下美人図では、七枝樹は明らかに樹木として描かれているので、これを樹木の象徴と見なした時、木の枝に垂れ下がるものと言えば、一般的に

 果実

ということになります。

シュメール円筒印章ではその樹木の左右に王(ハル)と女王(キ)が相対していますので、「二人の男女の間の果実」と言えば、それは明らかに

 世継ぎ、王位継承者

ということにならないでしょうか?

すると、ここで問題になるのが、

 どうして王位継承者が2人なのか?

という点なのです。

2人の王権継承者・・・このフレーズを聞いて本ブログに長くお付き合い頂いた読者さんなら次のフレーズを思い出すことでしょう。

 少女神:二人の王権継承者

どうやら、これまで見てきた「少女神」というテーマは、日本古代王朝から素戔嗚、そしてシュメールの王にまで話が広がりそうなのです。


イザナギ二百十六、イザナミ百四十四の仕組み
管理人 日月土

蛇と樹とシュメールの女王

これまで「牛の頭(牛頭)」、あるいは牛冠を戴いた王が、どうやら古代アジア全域で共通の象徴として残っているのではないかというお話をしました。

当然、牛頭天皇(ごずてんのう)の異名を持つ日本神話のヒーロー「素戔嗚命」(すさのおのみこと)もその中にに含まれることになります。

そして、前回記事「世界の中の素戔嗚伝承」では、東京都町田市の綾部原で見つかった縄文時代中期頃のものと見られる石の上に、古代シュメールの円筒印章(*1)と同様のパターン

 牛頭とその象徴三(3)、蛇とその象徴二(2)

が刻まれているのを確認しました。

*1: 粘土の上を転がして文様を刻む円筒形の印章

この石がシュメールの円筒印章と同一コンセプトを象徴すると見るならば、牛頭(あるいは牛冠)は男性の王を表し、蛇はその王妃を指すことになります。

日本の素戔嗚神話と比較するのは脇に置いて、今回は王妃の象徴について少し考察してみたいと思います。

■正倉院の樹下美人図

今回の話を進めるに当たって、綾部原の線刻石が紹介されていた歴史言語学の研究者である川崎真治さんの著書「日本最古の文字と女神画像」(1988 六興出版)を全面的に参考にしていることを先にお断りしておきます。

極めて密度の高い内容が書かれている書籍であり、ここではその中の極々一部を私がご紹介する形になりますが、浅学故に、間違いや思い違いもあるかと思いますので、その点は予めご容赦ください。

さて、今回ご紹介するのは、歴史の教科書や美術書などで見た方も多い次の絵画についてです。

画像1:正倉院《鳥毛立女屏風》(とりげりゅうじょびょうぶ)第五扇
作者不明 奈良時代(752〜756)
引用元:artscape https://artscape.jp/study/art-achive/10106681_1982.html

これは樹木の下の美しい女性、いわゆる「樹下美人図」(じゅかびじんず) と呼ばれる構図のカテゴリーで、同様の構図の美術作品は中国の墳墓、インドの寺院の彫刻などでも見つかっています。

樹下美人図(模本)伝トルファン(アスターナ古墳群出土 
原本はMOA美術館が所蔵
引用:東京国立博物館 画像検索 https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0020987

これについては、コトバンク(出典は株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」)に詳しいので、少し長いですがその解説をここに転載します。

樹下美人図 (じゅかびじんず)

〈樹下美人図〉と通称されるのは,正倉院《鳥毛立女屛風(とりげりつじよのびようぶ)》やアスターナ出土の《樹下人物図》(東京国立博物館,MOA美術館)などを指し,樹木の傍らに立つ男女,ことに女性を描くことが,古代アジアにおいて特殊な画題であったと考えられる。

8世紀を中心に,唐王朝の文化の及んだ東は日本から西はトゥルファンに至る広い範囲に,この画題の作品が見られる。しかし画題の意味するところは必ずしも明確ではない。

正倉院の《鳥毛立女屛風》においても,唐装の美人が樹下にたたずんだり,あるいは岩に腰をおろして憩っている情景とみるほかはなく,特別意味ある所作をなしているともみえない。

《鳥毛立女屛風》については,用いられた鳥毛が日本産の鳥の毛であり,また裏張りに天平勝宝4年(752)の反古紙が用いられており,同年から756年に正倉院宝物が東大寺へ奉納される間に制作されたことになろう。

男女一対のアスターナ出土の樹下人物図についても,侍者を伴った男女の会遇の場面と解釈する説もあるが必ずしも明らかでない。この両図は同一の墓室からの出土で,裏張りに唐の開元の年記を有する反古紙を用いており,その制作は開元中期(730ころ)以降とされる。

またこのほかのアスターナ出土の《官女図》(1972出土)や《胡服美人図》(大谷探険隊請来),さらに《春苑奏楽図》(スタイン請来。ニューデリー)では,楽器を奏でる情景や座して囲碁を打つ女性,立ち姿で鳥とたわむれる女性など,いわゆる風俗美人図ないしは官女図というにすぎない。

 中国中原地方にこの種の作品を求めると,独立した作品は見当たらないが,705年(神竜1)に造営された永泰公主墓や章懐太子墓などの壁画中に,宮廷の官女たちが庭先に居並ぶ中に樹木の傍らに鳥とたわむれる情景を描いた個所がある。しかも樹下人物図は中原やトゥルファンにおいては,いずれも墳墓内に用いられた例であり,風俗人物図と墓室内の装飾という結びつきが興味深い。

一方,この樹下人物図の起源については古くより西方説があり,インドのヤクシーやペルシアの〈生命の樹〉の傍らに立つ女神などとの共通性が指摘されてきた。しかし,現存作品はむしろ唐朝風俗画としての華麗な唐朝文化の香りこそ伝えているが,西方的要素はむしろ少ないと思われる。

執筆者:百橋 明穂

コトバンク「樹下美人図」(じゅかびじんず) から

この解説を読むと、鳥毛立女屏風については「特別意味ある所作をなしているともみえない」、またアスターナ出土の樹下美人図については「侍者を伴った男女の会遇の場面と解釈する説もあるが必ずしも明らかでない」と、要するに、この構図(画題)に関してはその意味について「よく分かっていない」という言うのが本音なのでしょう。

しかし、この構図にこそ非常に大きな意味が込められているとするのが、川崎説なのです。

鳥毛立女屏風の構図について、川崎説では女性の顔に描かれている、インドの方がよく額に付けているマーク(ティーカ/ティクリ)に似た印から、その真意を見出しているのです。

 鳥毛立女図の樹下美人の額にあった菱形四点マークは「四」の枝
 をあらわすマークであり、すなわち、

   Ki-lam-ā-da (キ・ラム・アーダ) = 四枝の蛇女神キ

 をあらわすマークなのだ。また、唇の左右の「二点」はすでにの
 べておいた「三」と結ばれる(「牡牛神ハル」と結婚する)とい
 う意味のタブ(二)だった。

川崎真治著「日本最古の文字と女神画像」から

ここで川崎説を補足する次の図を掲載します。

画像3:シュメールの牡牛神「ハル」と蛇女神「キ」

シュメールの牡牛神(男神)の名は「ハル」、蛇女神の名は「キ」と呼ばれ、中央に置かれた七枝樹はハル側に3本、キ側に4本突き出ています。

これを以て川崎説による鳥毛立女図の解読を図中に示すと次のようになるでしょう。

画像4:鳥毛立女図の分析図

要するに、ここに描かれた「樹」とは七枝樹の象徴であり、その内の四枝を示す記号として額の四点が描かれているのだろうということなのです。

川崎説で少し曖昧なのは、女神を指すのが「ラム:四(4)」なのか「タブ:二(2)」なのかなのですが、その混乱がこの図の分析にも現れています。

これについては既に説明したように

 二人の皇后(正妃と少女神)

というこれまでの古代史考察で得た知見を取り入れることで簡単に解決することが分かります。

正妃(2)と少女神(2)の二人を合わせて一組の女王「4」となりますが、記録上王と結ばれるのは正妃(2)のみであり、少女神は影の存在となり、国家シャーマンとして国家的神事に専従するというものです。

少女神の概念はあくまでも日本古代史を分析することで得た一つの仮説ですが、シュメールの印章の意味をこれで説明できてしまうのは私も少々驚きなのです。

■素戔嗚の皇后

鳥毛立女屏風は奈良時代、国内で描かれたものとされていますが、そうなると、今から1300年前の日本では

 牡牛神「ハル」と蛇女神「キ」、七枝樹

の概念が、いくらか形骸化したとはいえ残っていたことになります。

冒頭で述べたように、日本神話における牡牛神とは素戔嗚であり、牡牛神「ハル」が素戔嗚に相当するなら、女王「キ」は誰に相当するのでしょうか?

記紀に拠れば

 神大市比売(かむおおいちひめ 古事記)
 奇稲田姫(くしいなだひめ 日本書紀・古事記)

となりますが、そう言えば、奇稲田姫と素戔嗚の出会いは

 八岐大蛇(やまたのおろち)

すなわち大きな蛇がそこに介在しているのです。

神話に記された牛と蛇との邂逅、東京都町田市で発見された牛頭と蛇が刻まれた縄文の石、そしてそれに類似するパターンのシュメール円筒印章と樹下美人図、これらはいったどのように日本古代史と結びついて 来るのでしょうか?


管理人 日月土

世界の中の素戔嗚伝承

前々回の記事「素戔嗚と牛頭天皇」では、日本神話の三貴子の一人で、なお且つ神話のヒーロー的存在である素戔嗚(すさのお)が、仏教説話に登場する牛頭天皇(ごずてんのう)と同一視されているというお話をしました。

そして、日本書紀の一書の中に、素戔嗚が新羅(しらぎ)の「曾尸茂梨」(そしもり)と言う土地に降り立ち、その「ソシモリ」という言葉が韓国語で

 牛頭

を意味するという点を指摘しました。

■神農と牛頭

炎帝神農(えんていしんのう)とは、古代中国の「殷」(いん)や「夏」(か)の時代より前の三皇五帝時代の統治者の一人と伝えられている人物で、様々な説はあるものの、一般には医薬と農業の神として知られています。

日本でも、大阪の他東京の湯島聖堂に神農廟があり、毎年11月23日の新嘗祭と同じ日に「神農祭」というお祭が行われているようです。

さて、その神農ですが、Wikiペディアによるとその風貌について次のように書かれています。

伝説では炎帝と黄帝は異母兄弟であり、『国語』には、
炎帝は少典氏が娶った有蟜氏の子で、共に関中を流れ
る姜水で生まれた炎帝が姜姓を、姫水で生まれた黄帝
が姫姓を名乗ったとある。

また『帝王世紀』には、神農は、母が華陽に遊覧の際、
龍の首が現れ、感応して妊娠し姜水で産まれ、体は人間
だが頭は牛の姿であった。火の徳(木の次は火であるこ
と、南方に在位すること、夏を治めること)を持ってい
たので炎帝とも呼ぶ。とある。

Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%BE%B2

この「頭は牛の姿」という下りはまさに「牛頭」そのものなのですが、高句麗(現在の北朝鮮)の言葉では神農のことを

 スサ

と呼ぶらしいので、ここでも牛頭天皇と素戔嗚の間に見られた関係が古代の言葉を通して繋がってくるのです。

画像1:神農図(伝楊月筆、16世紀、東京国立博物館)

上の画像では、頭に瘤にも見える牛の様な角を生やした、草を食みつつ薬草になるかどうかを試している神農の姿(想像図)が描かれています。

この極めて特徴的な「牛の頭」というキーワードを用いて、これまで出てきた人物の呼び名を並べると

 神農(中国)
 スサ (高句麗)
 ソシモリ(新羅)
 素戔嗚(日本)
 牛頭天皇(中央アジア?)

となり、これらは同じ一人の人物(あるいは神)を指すのではないかと考えると、牛の頭の王(あるいは皇・帝)とは、アジア地域に広く行き渡っていた一人の偉大な王の伝承を表しているのではないかと考えられるのです。

しかし、やはりここで忘れてならないのは、次のシュメール文明の円筒印象に見られるデザインなのです。

画像2:王(牛頭)と女王(蛇)の象徴

牛頭の王が各国伝承それぞれの共通のシンボルであるならば、その範囲は東端の日本から始まり、朝鮮半島、東アジア・中央アジアを通り越して西アジアのチグリス・ユーフラテス川流域(シュメール文明の地)にまで及ぶことになるのです。

古代期文明の広がりをそのように捉えると、素戔嗚はもはや日本国内だけのローカルな神話的ヒーローに留まらなくなってくるのです。

■東京で見つかったシュメールの象徴

歴史言語学を研究されている川崎真治さんの著書「日本最古の文字と女神画像」(1988 六興出版)の中では、次の様な文様が刻まれた線刻石が東京の町田市で見つかったとの報告が書かれています。

画像3:町田市綾部原で見つかった線刻石(同書 p152)

画像の中に書き込んでいますが、牛頭と蛇のペアであること、七枝樹の枝の数である3(王)、2または4(女王)までもが画像2のシュメールの紋章と構図がそっくり同じなのです。

これまで、日本古代史の分析作業はあくまでも記紀やその他の史書、漢書等の記述に頼ってきましたが、ここまで明確な類似点を見せつけられると、分析手法について再考する必要が出てきました。

神話ヒーローの素戔嗚がいったいどのような王であったのか、そして古代世界がどのようなものであったのか、新たな実像が見えて来そうです。

■多摩川流域の遺跡地帯

前節の線刻石は町田市で見つかったものですが、町田市は丘陵部が多く石器時代からの遺跡が数多く見つかっている土地でもあります。

画像4:顔面把手(縄文時代中期)
町田デジタルミュージアムから

そこと、前回の記事「ソシと祖師と世田谷事件」でお伝えした世田谷区の祖師谷とは直線距離で10km程度しか離れていません。そして2つの場所の間には多摩川が流れており、まさに古代人が好んで居住しそうな条件が揃っています。

画像5:町田と世田谷

祖師谷の祖師(そし)とはソシモリのソシ、すなわち素戔嗚と何か関係があるのではないかとしましたが、それほど離れていない町田で「牛頭と蛇」の文様が見つかったということは、言葉の類似性に加えて物的にもに説得力が増したように感じられます。

東京と言えば大都会で、古代遺跡と関係なさそうですが、これまでの現地調査では、多摩川周辺、例えば川崎や大田区などにも、多くの古代の痕跡が残っているのを確認しています。

どうやら、東京からもう一度古代史を見直す必要がありそうです。


管理人 日月土

ソシと祖師と世田谷事件

前回の記事「素戔嗚と牛頭天皇」では、唐突に日本神話のヒーロー「素戔嗚」(すさのお)を取り上げ、非常に簡単にですが記紀及び秀真伝の中でどのように描かれているかをまとめてみました。

そして、神仏習合の象徴として素戔嗚が「牛頭天皇」(ごずてんのう)と同一視されたことを、牛頭天皇説話と共にご紹介しました。

なお、奇妙な一致点として、日本書紀の一書に記された「曾尸茂梨」(そしもり)という素戔嗚ゆかりの朝鮮半島の新羅国の地名が、現代韓国語で「牛の頭」という意味であることもお伝えしました。

今回はこの「ソシ」、韓国語で「소씨」(牛氏、牛さん)というキーワードについて別の角度で切り込んでみたいと思います。

■ソシと祖師

「ソシ」に意味のある漢字を当てるとするならば、阻止(制止の動作)、素子(極小物体)、徐氏/蘇氏(人の苗字)など幾つかある中で、おそらく「祖師」が最も解釈しやすいのではないかと思います。

「祖師」とは文字通りに読めば「一番初めの師匠」となり、一般的には

 仏教で、一つの宗派を開いた人。
 禅宗の達磨 (だるま) 、日蓮宗の日蓮、
 浄土真宗の親鸞など。 開祖。

 (参考:goo辞書)

となります。

どうやら仏教にちなんだ言葉のようなのですが、日蓮、親鸞などは鎌倉新仏教時代の日本の僧侶の名前ですが、達磨こと達磨大使(だるまたいし)は、中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧であると言われています。

時代的にも5世紀後半から6世紀前半の人であるとされており、どうやら、12世紀に誕生した日本禅宗の開祖である栄西(臨済宗)や道元(曹洞宗)ではなく、その大元である大陸における禅宗の開祖を「祖師」と呼んでいるようなのです。

さて、この「祖師」をキーワードに国内の地名表記を調べてみると

 東京都 世田谷区 上祖師谷(カミソシガヤ)
 東京都 世田谷区 祖師谷(ソシガヤ)
 岐阜県 下呂市 金山町祖師野(カナヤマチョウソシノ)

と、地名に使われている場所は極めて限られているのが分ります。

何かお寺と関係が深いのではないかと同地区内の寺を調べたところ、世田谷区にあるお寺は安穏寺(真言宗智山派)の1寺、下呂市については祖師野薬師堂というお堂が一つと、特にお寺が多い場所と言った印象は感じられません。

画像1:東京都世田谷区の該当地域とお寺

しかし、東京都世田谷区の場合、ここが少し特殊な場所であることに気付かされるのです。

■祖師谷と世田谷事件

画像1の地図内で黄色枠で囲んだ公園「祖師谷公園」とは、平成12年(2000年)の12月30日に発生し、夫婦2人と子供2人の計4人が殺害された現在もなお未解決のままである

 世田谷一家殺害事件

が発生した場所なのです。

画像2:祖師谷公園北側入口
画像3:事件現場

数多くの物証を残しながら24年間も犯人が捕まらないこの凶悪事件については、(新)ブログ記事「世田谷一家殺害事件 – 警察には捕まえられない」で取り上げ、どうやらこの事件の背後には宗教的(あるいは呪術的)なバックボーンを有する、私が「国家カルト」と呼ぶ集団が絡んでいるだろうとの推測を述べています。

警察も手を出せない超法規集団の国家カルトが絡んでいるならば、当然、彼らが犯行に及ぶだけの何か思想的理由があるはずで、今回この話題を選んだのも、事件発生のこの土地には上面を追うだけでは捉えられない、重大な歴史的文脈が潜んでいるだろうと踏んでのことなのです。

■武蔵野丘陵と大遺跡地帯の痕跡

京王線の千歳烏山駅と小田急線の祖師ヶ谷大蔵駅に挟まれた祖師谷公園を中心とした一帯は、幾つか畑は点在するものの、現在ではびっしりと家やマンションが立ち並ぶ大居住地域となっています。

歴史的痕跡を追うにも、ここまで住居ばかりになると、古代期の遺構はもちろん、近現代の様子までもはや分からなくなっています。

しかし、それでも実際にこの周辺を歩いてみると、この辺りが緩やかな起伏のある丘陵地であり、事件現場である祖師谷公園の中央部を南北に流れる仙川に近付くと、そこに向って両岸の丘陵部からせいぜい高さ10~20mくらいの、歩いて上り下りするのに支障のない緩い谷間になっているのが良く分かります。おそらく、祖師谷の「谷」の字は、仙川両岸に形成されたこの緩やかな谷のことを指すのだと思った次第です。

ここから窺えるのが、この土地が

 古代人が住み着く条件が整っている

という点なのです。また、

おそらく、仙川を見下ろす丘陵地にはかつて古墳か、古墳とは言えないまでも古い墳墓の跡がいくつも造営されていたのではないかと思わせるものがあるのです。

画像4:仙川両岸に形成された緩やかな谷

そして、祖師谷公園内を歩いていて目に入ったのが、ごつごつした石を無造作に置いて作られていた築山のようなものだったのです。

画像5:古墳の石棺に使われた石?

これまでに、古墳の石棺や礎石は数多く見てきたので、一抱えするにはやや大きい、このサイズの岩はまさにそれに該当すると思われるのですが、水が溢れる川沿いに古墳が作られることはまずないので、おそらく丘陵地を畑にしたり宅地造成するのに邪魔になった石を、川沿いまで運んできたのではないかと想像されるのです。

以上、この一帯がかつての大遺跡地帯であったことは容易に想像されるものの、残念ながら歩いて感じたもの以上ではなく、より詳しくはもう少し郷土資料を調べるしかないといったところです。

■祖師と名付けた真意

祖師谷周辺が古代期における大居住区だったと仮定した場合、それが世田谷事件とどう関わって来るのか?

事件の起きた日時が12月30日、すなわち「123」という記号を強く意識して決行された犯行ならば、これが

 天皇史に関わる事象

であることがまず最初に思い浮かびます。

そして、国家カルトは言葉の響きと意味建てを非常に重要視するので、当然ながら全国でも珍しい「祖師」(ソシ)という地名もこれに関係すると考えられます。

「天皇」と「ソシ」、その二つを繋ぐ神話的人物となれば、その筆頭に挙げられるのは、やはり

 素戔嗚

なのです。


宮沢にいなさんに捧ぐ
汝去り笑みし面影遠のくも鴫鳴く時に春はまた来ぬ
管理人 日月土

素戔嗚と牛頭天皇

今回からは日本神話における主役級の登場人物(神話的には神)である素戔嗚(すさのお)について取り上げたいと思います。

あまりにもよく知られた名前なので、わざわざ私がここで背景を説明する必要があるのかどうか迷いましたが、これから説明を進めて行く上で必要なことと判断したので、非常に簡単にですが、まずはそこから述べて行きたいと思います。

日本神話は良く知っているという読者様には少々退屈な回になるかもしれませんので、既にご存知だと思われる箇所は読み飛ばしていただいて結構です。

■神話に登場する3貴子

日本神話と言えば、最も有名なのは天照大神(あまてらすおおかみ)なのは言うまでもないでしょう。神話に疎い方でもその名を聞いたことくらいはあるのではないかと思います。加えて、天照大神と言えば女性(女神)であることもご存知ではないかと思います。

そして、天照大神には2人の兄弟が居て、一人は月夜見尊(つくよみのみこと)、もう一人が素戔嗚尊(すさのおのみこと)と呼ばれています。

一般的には月夜見尊は男性であると見なされていますが、正直なところ、神話における記述は極めて少なく、性別ははっきりしていません。ここではとりあえず男性であると見なします。

この

 天照大神(女神)
 月夜見尊(男神)
 素戔嗚尊(男神)

の3名は、この世を治めるとされる重要な3神で、3貴子(きし)などと呼ばれています。

書紀本文における神話では、この3貴子は、伊弉諾(いざなぎ)と伊弉冉(いざなみ)が、国土をこの世に現した後、この国を治める神として生み出したとあります。それぞれ分担するのは

 天照大神 → 天上(あめのうえ)
 月夜見尊 → 日に配(なら)ぶ
 素戔嗚尊 → 根の国

と書紀本文にはありますが、統治分については書紀の一書によっては記述が異なる複数のケースが見られ、さらに言うなら古事記では

 天照大神 → 高天原(たかあまのはら)
 月夜見尊 → 夜の食(おす)国
 素戔嗚尊 → 海原

となるなど、かなりバラつきが見られるのです。

なお、3貴子の誕生譚については、書紀の一書第六では伊弉諾が黄泉の国から戻った後、水の中で禊(みそぎ)をしている時に、伊弉諾の身体の一部から生まれ出たとあります。

 左目 → 天照大神
 右目 → 月夜見尊
 鼻  → 素戔嗚尊

いずれにせよ荒唐無稽な話なのですが、だからと言ってこれらの記述に全く意味がないと言うことでもなく、記紀編纂者はこの記述を通して何を伝えようとしているのか、そこを押さえることに意義が感じられるのです。

■素戔嗚の描写1(日本書紀)

それではこの世に誕生した素戔嗚が、その後どのように書かれているのか、それを簡単に箇条書きにすると次の様になります。

 ・母(イザナミ)が居る黄泉の国へ行きたがった
 ・姉の天照大神と誓約を交わす
 ・神々の不興を買う乱暴狼藉の数々
   高天原の田畑をきちんと手入れしない
   (畑に馬を放す、水路を壊す、間違った種まき)
   新米収穫祭の神聖な場所に大を排泄
   馬を機小屋の天井を破って投げ入れる
 ・天照大神を怒らせて岩戸に隠れさせていまう
 ・罪を咎められ、神々に高天原を追放されてしまう。
 ・地上で八股大蛇を退治して奇稲田姫を娶る

以上、こんな所かという点を書き出しましたが、この中にはご存知のストーリーも多いかと思います。要するに、素戔嗚とは子供の時から手が付けられず、天照大神をはじめ、周囲の神々に迷惑をかける困った存在のように描かれています。

ところが、高天原を追い出され地上に降りると、人の娘を食らう八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して奇稲田姫(くしいなだひめ)を娶り、諸説あるものの、その子孫が大国主(おおくにぬし)に始まる出雲国の祖となるなど、一転、神話のヒーロー的な扱いに描写が変わります。

画像1:素戔嗚と八岐大蛇

ここまでが一般的な素戔嗚のイメージなのですが、この何とも幅の広い性格と活躍の描写から、神話に登場する神々の中でも、天照大神と同等以上に存在感の大きい神であることが分かるのです。

そして、一連のストーリーの中で私が特に注目しているのが、八岐大蛇の身体の中から出てきた草薙剣(くさなぎのつるぎ)を天照大神に献上して、それが現在に至る天皇家の三種の神器の一つとなったという下りです。

ここまで大袈裟に脚色された神話と、天皇家に絡む現実性のある記述、これらの基となった歴史的事実とはいったい何であったのか?昔の史書編纂者はこの伝承によって歴史の何を伝えようとしたのでしょうか?

■素戔嗚の描写2(秀真伝)

以上は記紀に描かれた素戔嗚の基本的なイメージですが、これが神話ではなく史実的に描かれた秀真伝(ほつまつたえ)になるといささかそのイメージが変わります。

秀真伝研究家の池田満さんの分析によると、素戔嗚とは次の様な「人物」として描かれていると言います。

 ・ソサノオ(素戔嗚)は4兄妹の三男
 ・甘やかされて我儘に育った(のだろう)
 ・高天原から遠く離れた根の国を治めるよう派遣される
 ・優秀な兄アマテルカミ(天照大神)の日影的なポジション
 ・アマテルカミの妃(モチコ・ハヤコ)にそそのかされ高天原に反乱
 ・死刑は免れたが罰を受け毛と爪を抜かれる
 ・改心し妃を娶ろうとするも候補が次々と殺されてしまう(計8人)
 ・妃候補の暗殺者を排除する
 ・イナダヒメ(奇稲田姫)を娶り根の国の統治者となる

兄のアマテルカミ(天照大神)が女性ではなく男性だという点がそもそも記紀神話と大きく異なるのですが、テーマから外れるのでここではそれについて議論しません。

また、「根の国」というのは現在で言う「出雲」のことで、この点は記紀とも矛盾がないようです。

王位の跡目争いで、長子の母である王妃(複数居る)がソサノオに中央政府(高天原)への反乱をそそのかしたという下りは、何だか安っぽい歴史ドラマを観ているようでもありますが、人間社会とは昔も今もそんなものなのかもしれません。

秀真伝の記述で注目なのは、八岐大蛇の「八」という数字にどのような意味が込められているのか理解できるという点です。確かに、イナダヒメの前の8人の娘は大蛇に食われてしまうのですから、8人の娘(妃候補)の殺害という史実を敢えて婉曲表現したものであるという解釈は意外と的を射ているとも言えるのです。

■天津神と国津神

記紀神話における、天照大神に抗い神々に嫌われ追放される素戔嗚、秀真伝においては中央政府(高天原)に反乱を仕掛ける素戔嗚。当然ここには2局の対立関係が見られるのですが、これを

 天津神(あまつかみ)vs 国津神(くにつかみ)

と見立て、天津神を現天皇家に繋がる大陸からの侵入者民族、そして国津神を日本土着の民族、出雲の一族とし、古代期に入植してきた侵入者民族に徐々に屈服させられた姿なのではないかという見方もあります。

特に、八岐大蛇の身体から出てきた草薙剣を高天原の天照大神に献上したなどという描写は、国の統治権を「侵略者側に手渡した姿」と取れなくもありません。

しかし、高天原が存在していたと比定される地は現在の関東地方にあり、縄文遺跡が東日本に広く分布している現実を見れば、地勢的にはむしろ高天原中央政府の方が、日本土着の一派であったと見なせるのです。

どうやら、単純に「天津神 vs 国津神」と二元対立的な視点で古代史を見ていては、正確な理解を誤ってしまいそうです。

この古代史解釈の混乱に光を当てるのが、素戔嗚神話の正確な解釈ではないかと私は思うのです。

■牛頭天皇とソシモリ

過去行われた日本の神々と仏神のいわゆる神仏習合で、素戔嗚は牛頭天皇と同一視されるようになります。牛頭天皇については、Wikiに次のように書かれています。

 釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされた。
 蘇民将来説話の武塔天神と同一視され薬師如来の
 垂迹であるとともにスサノオの本地ともされた。

 (中略)

 『祇園牛頭天王御縁起』によれば、本地仏は
 東方浄瑠璃世界(東方の浄土)の教主薬師如来で
 あるが、かれは12の大願を発し、須彌山中腹にあ
 る「豊饒国」(日本のことか)の武答天王の一人
 息子として垂迹し、姿をあらわした。

 太子は、7歳にして身長が7尺5寸あり、3尺の牛の頭
 をもち、また、3尺の赤い角もあった。太子は王位を
 継承して牛頭天王を名乗るが、后を迎えようとする
 ものの、その姿形の怖ろしさのために近寄ろうとす
 る女人さえいない。牛頭天王は酒びたりの毎日を送
 るようになった。

 3人の公卿が天王の気持ちを慰安しようと山野に狩
 りに連れ出すが、そのとき一羽の鳩があらわれた。
 山鳩は人間のことばを話すことができ、大海に住む
 沙掲羅龍王(八大龍王)の娘のもとへ案内すると言
 う。牛頭天王は娘を娶りに出かける。

 旅の途次、長者である弟の古單將來に宿所を求めた
 が、慳貪な古単(古端、巨端)はこれを断った。そ
 れに対し、貧乏な兄の蘇民將來は歓待して宿を貸し、
 粟飯を振舞った。蘇民の親切に感じ入った牛頭天王
 は、願いごとがすべてかなう牛玉を蘇民に授け、の
 ちに蘇民は富貴の人となった。

 龍宮へ赴いた牛頭天王は、沙掲羅の三女の頗梨采女
 を娶り、8年をそこで過ごす間に七男一女の王子
 (八王子)をもうけた。豊饒国への帰路、牛頭天王
 は八万四千の眷属を差向け、古単への復讐を図った。
 古端は千人もの僧を集め、大般若経を七日七晩にわ
 たって読誦させたが、法師のひとりが居眠りしたた
 めに失敗し、古単の眷属五千余はことごとく蹴り殺
 されたという。

 この殺戮のなかで、牛頭天王は古単の妻だけを蘇民
 将来の娘であるために助命して、「茅の輪をつくっ
 て、赤絹の房を下げ、『蘇民将来之子孫なり』との
 護符を付ければ、末代までも災難を逃れることがで
 きる」と除災の法を教示した。

Wikipedia「牛頭天皇」から

関西地区に行くと、現在でも「蘇民将来」と書かれたの護符を災厄除けのお守りとして大事に扱う家が多いように見られますが、この大陸伝来の話とされる説話が素戔嗚とどのように繋がるのでしょうか?

実は、日本書紀一書第4に次のような下りがあります。

 一書に曰く、素戔鳴尊の所業無状(しわざあづきな)し。
 故、諸(もろもろの)の神(かみたち)、科(おほ)するに
 千座置戸(ちくらおきと)を以てし、遂に逐(やら)ふ。
 是の時にヽ素戔嗚尊ヽ其の子(みこ)五十猛神(いそたけ
 るのかみ)を師ゐて、新羅国(しらきのくに)に降到(あま
 くだ)りまして、曾尸茂梨(そしもり)の処(ところ)に居
 (ま)します。乃ち興言(ことあげ)して日はく、「此の地
 は吾(われ)居(を)らまく欲(ほり)せじ」とのたまひて、
 遂に埴土(はに)を以て舟に作りて、乗りて東(ひむがしの
 かた)に渡りて、出雲国の簸(ひ)の川上に所在(あ)る、
 鳥上(とりかみ)の峯(たけ)に到る。

岩波文庫 日本書紀(一) 第1巻

ここに登場する曾尸茂梨(そしもり)とは、現代韓国語で次のように記述できてしまうのです。

 소씨머리 = 牛の頭

ここに、素戔嗚と牛頭天皇、そして朝鮮半島の古代国家「新羅」との関係性が僅かに認められるのですが、それはどのようなものなのでしょうか?

そもそも「すさのお」という呼び名は「そさのお」が正しいという説もあり、確かに秀真伝では「ソサノオ」と「ソ」の字で呼んでいます。「ソ」とは「소」であり、「소」が意味するのは「牛」のことなのです。

そして、この「牛の頭」というキーワードは、次のシュメール文明の石板とも関連性が見出せるのです。

画像2:シュメールの石板に表現された王(牛頭)と女王(蛇)の象徴

素戔嗚と奇稲田姫が出会うのは、大蛇を介してのことであり、ここにシュメール文明における王の象徴である「牛の頭」と女王の象徴である「蛇」が同じように登場してくるのです。

この2つの古代ストーリーに共通して現れる象徴を、果たしてどのように解釈すればよいのでしょうか?


八雲立つ出雲八重垣妻籠に 八重垣作るその八重垣を
管理人 日月土

令和六年のブログ記事まとめ

2024年もあと1日となりました。昨年に引き続き、今年も本ブログにて掲載した記事のまとめをお届けします。

なお、今回は各記事の概要を箇条書にまとめたPDF文書を作成したので、ご興味のある方はそちらをご覧になってください。

画像1:「(神)ブログ2024年記事まとめ」から
※これ以前のものについては鋭意制作中です

■鹿に始まった令和六年

本年を振り返ると、今年は「鹿」に始まり「鹿」に終ったような気がします。そもそも年初の記事「もののけ姫と馬鹿」では、このアニメ映画の主人公アシタカが乗っていた、馬と鹿が合体したような謎の動物ヤックルについて、そのデザインにどのような歴史的意味が込められているのか、その考察から始まりました。

また、NHKの大河ドラマ「光る君へ」のテーマも、紫式部が主人公とは言え、常に藤原一族との絡みで描かれていましたよね。藤原氏と言えば春日大社であり、春日大社と言えば鹿せんべいに群がる奈良公園の鹿たちのことが直ぐに思い浮かぶはずです。

春日の「春」が出てきたところで、4年前に「クローゼットの中で首を吊る」という自殺としては不審な死を遂げた俳優の三浦春馬さんの件についても、歴史的事象との関係性を「三浦春馬と馬鹿」で考察しました。

また、同年全く同じように「クローゼットの中で首を吊る」という不可解な亡くなられ方をした竹内結子さんについても「竹内結子と鹿の暗号」の中で、古代史的な解釈を用いてその意味を考察しました。

「クローゼットの中での死」の他に、両者に共通するキーワードが「鹿」であり、また「馬」なのです。その一字に込められた意味は奥深く、その深さを私はまだ読み切れてはいませんが、取り敢えず導かれた結論が

 素姓を隠したまま死ね

という、少し恐ろしい結論になったのです。

問題なのはその「素姓」の部分であり、いったい、三浦さんも竹内さんもどのような素姓を隠していたのか、あるいは隠し続けられてきたたどんな秘密を象徴させられていたのか、そこが問題になってきます。

「鹿」には、日本神話に登場するタケミナカタ、タケミカヅチの2柱の神々が関わっており、神話の暗号的解釈から、両神がどうやら同一人物であることが分かってきました。

そして、これを神話ではなく、古代史的な史実として解釈すると上代(神武以前)に存在していたであろう

 タカミムスビ皇統

の存在が浮かび上がってくるのです。

タカミムスビ皇統は秀真伝の中だけで語られている王統であり、基本的に私たちが日ごろ目にする、現皇室とは異なる皇統です。

これは、万世一系を強調する現代の皇室観とは相容れない概念であり、もしかしたら、隠された素姓はこのことではないかとも考えられるのです。

■猿と烏

三浦春馬さんの死の要因を考察する中で得られたのが、「猿」の存在であり、それについての考察は「三浦春馬と猿の暗号」で行いました。

どうやら、「猿」が象徴する日本神話の神「猿田彦」とは、王朝並立時代の初代王ホノアカリを指すことが分かってきましたが、こちらも万世一系の概念とは大きく衝突するものです。

そうなると、現皇室の出自がいったいどのようなものであるのかが気になりますが、それについて強く暗示されていたのが、三浦春馬さんが最後に出演した「カネの切れ目が恋の始まり」の最終話だったのです。

その考察を伊豆半島でのロケシーンから分析したのが「三浦春馬のカネ恋と少女神」であり、どうやら現皇室は三嶋と呼ばれる人物から始まったものであることが見えてきました。それを系図にしたのが以下の図です。

三画像2:嶋神と現皇室の始まり

ただし、これを正しく理解するためには、「少女神」という古代の女系王権についての考察が不可欠です。

女系王権がいつ男系に置き換わったのか?それを暗に示唆していたのがカネ恋最終話だったというのが私の結論なのですが、もちろんこれが事実なら、神の子孫とされる現代の皇室観に大きな疑義を挟むことになるでしょう。

画像2に登場する玉依姫(たまよりひめ)については、上代女系王権から上古代(神武以降)の男系王権へと時代を繋いだ特に重要な少女神として、「サキタマ姫と玉依姫」で考察を加えています。

因みに、三嶋神とは別称「八咫烏」(やたがらす)であり、ここで、鹿・馬・猿に続いて烏(からす)が象徴的動物として登場することになります。

■虎と鹿

さて、今年の後半になってテーマとして取り上げたのが、アニメ「しかのこのこのここしたんたん」であり、子供向けのギャグアニメにしか見えないこの作品には、タイトルが示すように「鹿」が含まれているのです。

なぜ、今年はここまで「鹿」を前面に出して来るのか、そう思いこの鹿の子アニメを分析していったところ、どうやら鹿(しか)には次の意味が含まれていることが分かりました。

 鹿 → しか → 志賀 → 綿津見(わたつみ)の神

そして、綿津見の神とは各々「表・中・底」で象徴される三神であり、これが聖書及び世界の古代神話に登場する方舟(はこぶね)の三層構造を指すことが判明したのです。すなわち

 しか = 方舟

となります。これについては「鹿と方舟信仰」で考察しています。

加えて、鹿の子アニメには虎子という「虎」を象徴するキャラクターが準主役で登場しており、主役の「鹿」と親密な関係を保っています。

こちらの考察はまだ半ばではありますが、虎には「黒と黄」という色の象徴が含まれており、陰陽五行でこの色を解釈すると「水と土」を意味します。

ここで

 鹿 →  方舟
 虎 →  水と土

となりますが、方舟は「大洪水」の発生を同時に意味しており、両者の意味を繋ぎ合わせると必然的に

 大洪水に覆われる大地

という意味が浮かび上がってきます。

こうなれば、この何気ないアニメ番組が人々の意識をどこに誘導しようとしたものか、大体分かりますよね。

また、鹿の子アニメには古代メソポタミアの彫像に頻繁に現れる七枝樹、あるいはメノラーが描かれていたりするのですが、それについては「方舟と獣の数字」で少し触れています。

この七枝樹については、おそらく来年の主要テーマとなるかもしれません。

それにしても、NHK朝ドラの「虎に翼」といい、トランプ大統領の当選といい、今年は鹿だけに限らず「虎」尽くしでしたよね。ちなみに、トランプ政権で政府効率化省のトップに内定している実業家のイーロン・マスク氏ですが、英語のマスク(MUSK)とは

 MUSK DEER (ジャコウ鹿)

を表しているのですよ。

画像3:偶然だとは思いますが
あるいは全てが計画通りなのか?

それでは来年もよろしくお願いします。


管理人 日月土


侵略者と呼ばれた王

本ブログは歴史考察ブログと銘打ってはいますが、有名な史書や歴史文献に限らず、時より、現代アニメ作品の中に婉曲的に書き込まれた歴史的プロットも、非常に特殊な歴史資料として参考にしています。

なぜこんな手法を取るのか? これまでに何度かその理由はお伝えしていますが、改めてそれを説明すると

 日本書紀や古事記などの史書類はどれも改竄されている

という前提があり、改竄されているという事は、逆に言えば正史に近い底本がどこかに存在しており、限られた一部の関係者だけがそれにアクセスできるのだろうと予想するからです。

それだけでは、アニメや映画・ドラマなどに歴史的プロットが使われる理由にはなりませんが、おそらく、その底本に書かれた内容がメディア表現で頻繁に使用される一番の理由とは、

 事実でないものに大衆は強く反応しない

からであろうと私は考えるからです。

それは、心理学的には潜在意識や集合意識の記憶領域と強く連動している、はたまた遺伝子レベルでの記憶保存と何か関係があるからであろうと思われるのですが、この分野は学術的に議論が多い所なので、私も断言するまでには至っておりません。

しかし、本ブログでスタジオジブリさんのアニメ映画「もののけ姫」あるいは「千と千尋の神隠し」を記紀などの史書と照らし合わせながら分析した結果、かなり矛盾なく古代の様子が見えて来たので、今ではメディア作品の分析手法が、歴史考察においてかなり確度の高いものであると確信しています。

問題なのは「大衆が強く反応」することを利用して、作品提供側が何を意図しているのかです。

一つには、作品の大ヒットによる興行収入の増大などが考えられますが、もう一つ考えられる大変重要な要素とは

 大衆を納得させやすい

こと。どういうことかと言えば、顕在意識に昇らない古い記憶に直接訴えることによって、論理的な説明を省きながら話に説得力を持たせることができる。別の表現をすれば

 大衆を誘導し易い

と言い換えることができるかと思います。要するに「洗脳」ということです。

今回は、つい昨日、(真)ブログ記事「デデデデは諦めない」を上梓した経緯から、このアニメ作品「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」(以下「D4」と略す)について、歴史的事象が挿入された具体例を見て行きたいと思います。

■登場人物名に隠された記号

D4がどのようなアニメ作品かについては、公式ページ及びWikipediaなどを参考にしていただくか、現在ネット配信されているアニメシリーズを実際に視聴していただきたいのですが、今後の解説スタンスは基本的に(真)ブログ記事と同じですので、まずはそちらをお読みになっていただきたいと思います。

この作品には様々な切り口があるのですが、古代史的な観点から見るなら、なんと言っても登場キャラのネーミングでしょう。

画像1:D4の主要キャラ
左から 小山門出(こやまかどで)、中川凰蘭(なかがわおうらん)、大場圭太(おおばけいた)

このアニメ、個性的なキャラが大勢登場するのですが、とは言っても、話はこの二人の少女の関係を軸に展開します。

そして、変わり種は元男性アイドルグループのメンバーであった大場君なのですが、彼の中身は「侵略者」と呼ばれる宇宙人に入れ替わっています。

「二人の少女」が主人公と聞いただけで、読者さんも気付いたかもしれませんが、お分かりのように、本ブログでは日本の古代王室は、一人の王と

 二人の皇后

によって構成されていたと仮説を立てています。

そして、二人の皇后の内、呪術や託宣などシャーマン的な役割を受け持つ方を

 少女神

と呼んでいたことを思い出してください。そして、王権の継承権を保持するのは男性王ではなく、皇后となった女性側なのです。

さて、二人の少女キャラの名前についてですが、「門出」、「凰蘭」と王家を思わせるいかにもそれっぽい名前が付けられていますが、それに比して苗字の方は「小山」、「中川」なる普通と言うかよくありがちなものに留まっています。

この簡単な漢字の組み合わせについて分析すると、次の様な結果が導かれます。

画像2:隠された数字「7」

お分かりのように、どちらの苗字も基本的に単純な直線によって構成された漢字が使われており、このような文字は、呪術の世界では数字表現として暗示的に使われることが多いのです。

この場合、線数を数えるのが一般的ですが、漢字の画数も世間では通用している数え方ですので、この二人の場合は任意に適用するとしました。

ここで出てきた数字は「7」であり、これがユダヤの燭台「メノラー」の枝数を表す、あるいは、ユダヤよりもさらに古い古代メソポタミアの「七枝樹」を表すことは、過去記事「方舟と獣の数字」で既に述べています。

画像3:鹿の子アニメにも出てきたメノラー(七枝樹)

この数字の一致から、二人の少女を主役キャラに立てた理由が、どうやら、日本の王朝を越えたはるかに遠い古代王と女王の関係に行き着くことが見て取れるのです。

■女王は二人だった

上記「方舟と獣の数字」では次のような古代シュメールの彫像を掲載しました。

画像4:女王キ(左)と王アン(右)、中央に七枝樹

注目すべきは、左側の女王に向けて七枝樹の枝が4本向けられていることです。

歴史言語学の研究家、川崎真治氏の著書「日本最古の文字と女神画像」によると、シュメール文明における王と女王の象徴は、次の様に書き表されることがあると説明されています。

 王 :星が3つ
 女王:星が2つ(または4)

「星が2つ(または4つ)」これはいったいどういうことなのでしょうか?どちらの数字が正しいのでしょうか?

この問題は、本ブログで主張してきた「二人の皇后(女王)」の概念を適用すればあっさり解決します。なぜならば、

 女王が二人 (星2つが二人=星が4つ)

また、画像4で女王の彫像が一人だけなのは、

 一人は少女神(シャーマン的女王)

であり、表には現れない存在であること、あるいは二人で一人の扱いであると考えれば論理的にも矛盾はないのです。

この関係をD4の二人の少女キャラに当てはめると次の様になります。

画像5:二人の少女キャラと大場君

この画像を見ていただければ、何故「大場」という苗字がキャラ名に採用されたのかも見えてきます。「大」は「おお」または「おう」で「王」に通じ、「大場」という文字を遠目に見れば「太陽」と見えなくもありません。

世界の神話では太陽神とは一般的に男性であり、記紀で女神にされている天照大神も、秀真伝では人間の男性王「アマテルカミ」として記述されているのは、これまで何度もお伝えしてきたことです。

ちなみに、中川さんは物語の中で、侵略者の技術を借りて

 異なる世界線上の過去に移動

という超人的な、それこそシャーマン的なことをやってのけるという設定が与えられています。これはいったい何を象徴しているのでしょうか?

しかし、このキャラ設定の中で一番の問題は

 王が侵略者とはどういうことなのか?

という点なのです。

私は、これこそが、日本皇室の真の出自と大いに関係があるのではないかと睨んでいるのです。


管理人 日月土

古代の土木と呪術

今回も前回の続きで、千葉県房総半島を巡ったその続きとなります。

お伝えする場所は、房総半島の南端の館山から、外房(房総半島の太平洋側沿岸)沿いを100km以上北上したところにある、千葉県いすみ市内となります。

■東叡山飯縄寺

館山から国道128号線を北に向かって走り、太東埼灯台付近で東に折れると、そこにあったのが飯縄寺(いづなてら)です。

元々ここは訪れる予定のなかったところなのですが、江戸時代の有名な彫物師「波の伊八」(なみのいはち)の最高傑作があるというので、同行者の勧めもあって急遽ここに立ち寄ることにしたのです。

実は。「飯縄」という文字を見ただけで、修験の里、長野県の飯縄山を連想させるだけでなく、民間呪術である「飯縄法術」とも何か関係がありそうで、それだけでも興味をそそられてしまったのです。

画像1:飯縄寺本堂

この画像を見て気付かれた方もいらっしゃるかと思いますが、山門から一直線に続く参道は、本堂の前で左に角度を付けて曲がっているのです。

画像2:参道が左に折れている

気学や風水を学ばれた方ならもうお分かりのように、これは気の触りを防ぐ配置で、このお寺がその辺の知識を取り入れて設計されたものであることが一目瞭然なのです。

これは面白くなってきました。同行者がお堂の中の伊八の彫り物を見て感動しているところ、私は呪術的な細工を探すのにもはや心を奪われてしまったのです。

画像3:お堂の周りにお堀?

お堂の周囲をぐるっと取り囲むように彫られた小さなお堀。これは水を利用した典型的な結界術と考えられます。もっとも、この土地は水はけがあまり良くなさそうなので、水抜きの排水路とも考えられますが、結果的に結界を構成していることに変りありません。

あと、古い時代、確実に遺体を埋めていただろうなという場所も見つけましたが、あまりそんな事ばかり書くと歴史解説から逸脱してしまうので止めておきます。

波の伊八の大傑作、「弁慶と牛若丸」は写真撮影禁止と言う事で、ネットにあったものを代わりに掲載しておきましょう。

画像4:波の伊八「弁慶と牛若丸」
千葉県物産協会HPから

このお寺、創建は808年と古く、江戸時代に東叡山(上野寛永寺 – 天台宗)の管轄下に入ったようなのですが、なぜここに呪術の展示場のような寺が築かれたのか、次に興味を引かれたのがその点なのです。

■太東の雀島

いすみ市を訪れた本当の目的の一つが、雀島(すずめじま)なのです。この雀島、実は今年の3月初め頃に話題になったのを覚えておられるでしょうか?

画像5:崩れ落ちた太東の雀島
NHK NEWS WEB (’24-03-05)

NHKさんの報道では、なぜか「雀島」と呼ばず「夫婦岩」の呼称のみを使用しているのですが、どうしてなのでしょうか?地元では明らかに「雀島」で通っているのにも拘わらずなのに。

実は、この雀島と今年の元旦の能登半島地震、千葉県東方沖地震の関係性について、3月10日の(新)ブログ記事「観光スポットにされた理由」で既に取り上げているのです。

現地へは一度視察に行っているのですが、今回改めてこの雀島を見てきました。

画像6:太東の雀島

この写真の右側、黄線の枠で囲った部分にご注目頂きたいのですが、波で削られただろう岩の下に、何やら礎石のような平板な敷岩があるようなのです。

画像7:礎石か?

画像5の写真では見にくいのですが、実は中央および左側の小岩の下部にも継ぎ目のような痕跡が見られるのです。

削られ方が異なるのは、おそらく上下で岩の材質が違うからとだと考えられますし、下側の岩の上面が水平なのも気になる点です。

即ち、この雀島、元々人工物であった可能性もあるのですが、そうだとしたら、何時、誰が、何の目的で、そしてどのように人工島を造営したのか、それを説明しなければなりません。

想像の逞しさのが私の取柄(あるいは悪癖)なのですが、そもそもエジプトのピラミッドですら、その建築方法や目的がよく分っていないのですから、取り敢えず、詳細は不明のまま雀島が人工島であったと仮定しても問題はないかと思うのです。

■物部氏創建の玉﨑神社

いすみ市は、サーフィンで有名な千葉県一宮町(いちのみやまち)の南に位置します。この一宮町は、文字通り上総一ノ宮として知られる玉前神社(たまさき)でも有名です。特に、スピリチュアル系の人々からはパワースポットの一つとして捉えられているようです。

「たまさき」の呼び名で呼ばれる神社は、千葉県内に幾つかあり、いすみ市内にも小社が点在しています。

前節の飯縄寺・雀島からそれほど離れていない所にも玉﨑(たまさき)神社が鎮座しており、今回の現地調査の最後の場所として同神社を訪れました。

画像8:玉﨑神社(中原)

「たまさき」あるいは「さきたま」と名の付く神社は、基本的に玉依姫(たまよりひめ)が主祭神なのですが、由緒書によると、ここではその先代に当たる豊玉姫(とよたまひめ)が祭神の座を占めています。

また、この神社は現在の「椎木」と呼ばれる少し西方の土地から遷移されたものであることも記されています。

しかし、この神社で注目すべきなのは、「物部」(ものべ)系氏族によって創建されたとあることです。

画像9:玉﨑神社(中原)の由緒書

古代朝廷の軍事担当氏族、あるいは国家祭祀氏族とも言われている物部氏の名が何故わざわざここに書き残されているのか、非常に気になるところであります。

それ以外はいたって普通の神社という体なのですが、この神社の存在意義は、古代の地形を読み解くことで少しだけ見えてくるのです。

■外洋に突き出た小半島

まず、今回訪れた場所について地図上で整理してみましょう。まずは現在の地図上にプロットしたものです。

画像10:今回訪ねた場所(現代地図)

この地図を見ても特に特徴は掴めませんが、次に、中世まで続いたとされる海進期の水面(5~7m)で地形を考えます。

画像11:今回訪ねた場所(海進期予想)

半島の形が現れてきましたが、そもそも、この小半島、太平洋の荒波に細く突き出ているのが何か不自然です。もちろん、潮流の激しい太平洋にこんな入り江があったのなら、昔の船で行き来するには大変便利であったに違いありません。

ここで話を整理すると

 ・呪術の要素が漂う史跡
 ・人工物の疑いがある雀島(詳細不明)
 ・小半島周辺に固まっている
 ・太平洋に突き出た不自然だが便利な半島

ちょっと強引かもしれませんが、私はこの古代海進期に存在しただろうこの半島は

 古代土木による人工の半島

と捉えても良いのではないかと思っているのです。もちろん、仮説としてですが。

管理人 日月土

安房の国の忌部

ここ数回はアニメ「しかのこのこのここしたんたん」を元ネタに記事を展開してきましたが、意外にも同作品に組み込まれていた歴史的暗喩の範囲が広く、正直、その全てを解き明かせている訳ではありません。

今回は、そのアニメの構造解析はお休みにして、最近調査に向かった千葉県の館山市、古い地名で「安房」(あわ)と呼ばれた、千葉県房総半島の南端の地についてレポートしたいと思います。

■忌部氏(いんべうじ)と安房の国

11月初旬の朝、薄曇りの天候の中、館山市街を出発して向かったのは、市内南部にある洲宮神社(すのみやじんじゃ)です。

ここは忌部氏ゆかりの古代祭祀が行われた場所と聞いて向かったのですが、現地に着いてみると、外見はいたって普通の趣の神社でした。

画像1:洲宮神社

案内版には丁寧な解説が記述されていたので、その一部をここで書き出してみます。

 洲宮神社は安房開拓神話にまつわる神社で、安房
 神社の祭神である天太玉命(あめのふとだまのみ
 こと)の后神、天比理乃咩命(あめのひりのめの
 みこと)を祀っています。そのためか、神社に伝
 えられる縁起では忌部一族による安房の開拓や、
 安房神社、洲官神社、下立松原神社の創建の由来
 なとか語られています。本文のうち3分の1は、
 失われた『安房古風土記』ではないかと推定され
 ています。

 この縁起の成立年代は不明ですが、「古語拾遺」
(807年成立)からの引用があり、平安時代以降
 と推定されます。別紙となっている奥書に、慶長2
(1597)年に虫食いのため、元の本から写した
 と記してありますが、現代の縁起はそれを更に後
 世写し取ったものと考えられています。

画像2:洲宮神社の案内板

案内文の中に出てくる安房神社(あわじんじゃ)はこの神社の近くにあり、ここを離れた後にそちらへも訪れました。

画像3:安房神社

こちらは安房国一宮とされる古い神社で、一般に阿波国(徳島県)から移り渡ってきた忌部氏によって創建されたと言われています。

安房神社の主祭神は天太玉命で、相殿神として皇后の天比理乃咩命、阿波忌部の祖と言われる天日鷲命(あめのひわしのみこと)など6柱が祀られています。

さて、洲宮神社ですが、拝殿の裏に回ると古びた石柱のようなものが置かれていました。そこに掲げられた案内板を読むと、元のお社は谷を挟んだ向かいの山の中にあったらしく、どうやら私が訪ねたこの場所は、江戸時代の火災の後にここに建て直されたものだと言う事が分りました。

画像4:洲宮神社の拝殿裏の石柱

またこの古びた石柱は元宮の場所にあったものを、土地開発の事情でここに移設したものだということです。

なるほど、ここでは古代の雰囲気があまり感じられないなと思ったのは、そういう事情があったからのようなのです。

画像5:館山の忌部氏ゆかりの神社群

洲宮、安房と2つの神社を回った後に海岸沿いの布良崎神社(めらさきじんじゃ)へ立ち寄りましたが、ここでは忌部の歴史を感じる非常に面白いものを見つけました。

画像6:布良崎神社の大岩

敷地内の大きな岩に、直径10㎝程度、深さ3~4㎝程度の丸い穴が幾つも穿たれているのです。同行者のG氏の話では、どうやら古代祭祀の痕跡だとのことことなのですが、いったいここではどのような祭祀が行われていたのでしょう?呪術的なものに目がない私にとってはたいへん気になる大岩でした。

ちなみに、ここの祭神は天富命(あめのとみのみこと)・須佐之男尊(すさのおのみこと)・金山彦命(かなやまひこのみこと)です。天富命は上述した天太玉命の孫とされ、やはり忌部氏の関係者であることが窺われます。

■天太玉命とは何者か?

安房の土地、そして忌部氏を理解する上で、天太玉命がどのような人物(神)であったかを知らなければなりません。

日本神話の中で、天太玉命は次の様に描かれています。

 このときに天照大神は大変驚いて、機織の梭(ひ)
 で身体をそこなわれた。これによって怒られて、
 天の岩屋に入られて、磐戸を閉じてこもってしま
 われた。それで国中常闇(とこやみ)となって、
 夜昼の区別も分からなくなった。

 その時八十万の神たちは、天の安河のほとりに集
 まって、どんなお祈りをすべきか相談した。思兼
 神(おもいかねのかみ)が深謀遠慮をめぐらして、
 常世の長鳴鳥(ながなきどり=不老不死の国の鶏)
 を集めて、互いに長鳴きをさせた。

 また手力雄神(たちからおのかみ)を岩戸のわき
 に立たせ、中臣連(なかとみのむらじ)の遠い祖
 先の天児屋命(あまのこやねのみこと)、忌部の
 遠い祖先の太玉命は、天香山の沢山の榊(さかき)
 を掘り、上の枝には八坂瓊(やさかに)の五百箇
 (いおつ)の御統(みすまる)をかけ、中の枝に
 は八咫鏡(やたのかがみ=大きな鏡の意)をかけ、
 下の枝には青や白の麻のぬさをかけて、皆でご祈祷
 をした。

講談社学術文庫 日本書紀(上)訳:宇治谷孟

有名な天照大神の岩戸隠れのシーンで、岩戸の中の天照大神を外に出すために知恵を絞ったブレーンの一人(柱)として名前が挙げられています。

当然、何かの歴史的事実の比喩と考えられるのですが、これを人物史と捉えた時、少なくとも天太玉命は、当時の中央政権において、重要なポジションを占めていた重臣であったと考えられるのです。

そうであればこそ、忌部氏がその後の朝廷祭祀族として名を馳せたのにも納得が行くのです。

さて、以上は日本書紀の記述からなのですが、人物史として上代(神武以前)を記述している秀真伝では天太玉命はどのような血縁関係として描かれているでしょうか?

画像7:天太玉命の系図(秀真伝)

この図の緑枠の中には、参考のため、天太玉命に関する他の伝承を基に、天比理乃咩命と天宇受売命(あめのうずめのみこと)を書き加えています。

フトタマは、第7代タカミムスビ王統のタカギの息子として記述されています。ところが、タカミムスビ王統は7代で終ってしまっています。フトタマ、あるいはその他の兄弟は王統を継承できなかったのでしょうか?それはいったいどうしてなのでしょうか?

ここで、これまでこのブログで主張してきた、古代日本の王権継承の仕組み

 女系による王権継承

すなわち、「少女神」と呼ばれる女性の元へ婿入りすることで王権が授けられる、いわゆる少女神仮説でこの系図を組み直してみたいと思います。

少女神仮説で書き換えたこの時代の系図は次の様になると予想されます。

画像8:フトタマの時代、王権継承の一本化が図られたのでは?

アマカミ王統とタカミムスビ王統、双方にそれぞれ女系の王権継承家系があったところを、アマカミ側がその王権の名(男性)を、タカミムスビ側が実質の継承権(女性)を保有するという協定が出来たのではないか?この図はそれを示しています。

これがフトタマの時代を巡る背景だったと私は予想するのですが、お気付きのように、記紀の記述では10代アマカミとはニニキネ、すなわち瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)でないとおかしいのです。

また、この図では素戔嗚(すさのお)、大国主と続く大物主(オオモノヌシ)王統については説明できていません。

それらを含めて、やがて、現在の皇室へと続く統一王朝となるのですが、ここに、秀真伝が伝えきれなかった王権を巡る当時の深刻な対立、あるいは混乱があったと考えられるのです。


南国の花育みし白き風 また吹く時ぞ安房の波間に
管理人 日月土

方舟と獣の数字

今回に限っては、少しだけ触れて終わりにしようと思っていたアニメ分析ですが、この鹿の子アニメ(*)には思いの外多くの歴史的情報が埋め込まれていたので、まだ文字化ができていない点について今回もまた取り上げてみようと思います。

*タイトルは「しかのこのこのここしたんたん」

「いい加減にしろよ」と思われる読者さんも多いかと思いますが、あくまでもこれは「古代史分析」の一環であり、けっして酔狂でアニメについて語っている訳ではないので(本当です)、その点はご理解いただけますようお願いします。

■背振の山から見えたもの

実は1週間程前、現地の福岡県に飛んで、もう一度アニメに関係する土地を見てきました。具体的な行先は次になります。

画像1:脊振山気象レーダー観測所
画像2:気象レーダーの地図上の位置

気象レーダーは福岡県と佐賀県の県境となる背振山の尾根伝いの登山道上にあるのですが、レーダーまでは自動車が入れるように舗装されており(一般車両は不可)、県道から歩いておよそ30分くらいの所にあります。

私も現地に入ってから気付いたのですが、このポイントからは福岡県側に博多湾、そして佐賀県側は有明海はもちろん「鹿島と木嶋と方舟と」で取り上げた杵島までが見渡せるのです。

当日は少し霞んでいて写真では見にくいのですが、以上の重要ポイントをここから写真に収めました。

画像3:気象レーダーから見下ろした志賀島と能古島
画像4:気象レーダーから見下ろした佐賀の平野と杵島

志賀島と能古島は「志賀能古(しかのこ)=鹿の子」であり、志賀の神とはどうやら大船、すなわち「方舟」を指すだろうことは過去記事で述べた通りです。

また「杵島(きしま)」とは、古代シュメール語まで遡ればキッジュ(木)マァ(舟)で木舟であり、どうやらこれが「方舟」を指すことも、過去記事で既に述べています。

つまりこのレーダー観測所の位置は、方舟伝承に関わる2つの土地が同時に見下ろせる絶好のポイントであることが分かるのです。

これは私にとっても大きな発見で、わざわざここまで足を運んで良かったと思うだけでなく、古代史においてこの脊振の山々が、当時の信仰形態がどのようなものであったのか、それを理解する上で極めて重要な場所だという認識に至ったのです。

■虎虎虎

これまで鹿の子アニメの「鹿」について多くを考察してきましたが、このアニメには「虎」の文字を冠するキャラクターが準主役として登場していることを忘れてはなりません。

画像5:虎視姉妹

もうお気付きの様に、この二人合わせたキャラ名の中には「虎」の字が3回現れています。それを抜き出すと「虎虎虎(トラトラトラ)」となりますが、この「トラトラトラ」は第2次世界大戦で、日本海軍が真珠湾を奇襲攻撃する際に出された暗号文であることはつとに有名です。そう言えば同名タイトルの映画も作られていますよね。

それではどうして、真珠湾攻撃の暗号文がトラトラトラだったのか?そして、それがまた何でこのようなお気楽ギャグアニメの中に登場したのかが非常に気になります。

以下は私の考察なので合っているかどうかは分かりませんが、偶然と言うには余りにも意味的符牒が整っているので、参考までに紹介しておきましょう。

画像6:「トラ」をヲシテ文字で表記し、文字の構成要素を組み合わせる

以上のように、神代文字とも言われるヲシテ文字で「トラ」を表記し直すと、この音に隠された意味が見えてきます。そして、そこから見えてくるのは

 天地(の理)と六芒星、あるいはダビデの星

なのです。

これを意味的に日本語表現するならば

 天地(あめつち)の秘密(火水)

と読めなくもありません。

また、ここから「トラトラトラ」と「トラ」を3つ重ねた言葉に隠された意味の一つに3つの六芒星、すなわち

 666

があるだろうと考えられるのです。

ご存知の様に、666という数字は「獣の数字」として聖書の「ヨハネの黙示録」にも記述されています。

ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。

(ヨハネの黙示録 13章18節)

「鹿」からは「ノアの方舟」、そして「虎」からは「獣の数字666」、あくまでも日本古代史を扱っていたはずなのに、どちらも聖書の世界と繋がってしまうのです。一見能天気なお気楽アニメにしか見えないこの鹿の子アニメ、いったい何を企んでいるのでしょうか?

■七枝の線刻石

前回の記事「鹿と大船と祓祝詞」では、この鹿の子アニメの中で七枝のメノラー(古代ユダヤの7支の燭台)が描かれているとの指摘をしました。

画像7:アニメ中に描かれたメノラー

実はこのメノラー、日本国内の各地で見つかった線刻石や弥生式土器にも描かれていると言うのです。

画像8:下関市、彦島の線刻石(川崎真治著「日本最古の文字と女神画像」から)

古代言語の研究家、川崎真治さんによると、七枝の文様のルーツは聖書の時代を通り越してシュメール神話にまで遡ると推定されており、どうやらこれまで見てきた聖書と古代日本の奇妙な接点を理解する共通の鍵は、シュメール文明にあるようなのです。

シュメール神話に関する彫像で七枝樹が描かれる場面は、王「アン」と女王「キ」の間というのが定番のようなのですが、ここでやっと、アニメに登場した少女キャラクター(少女神の象徴)、すなわち皇后(=女王)とメノラーの関係性が見えてくるのです。

画像9:女王キ(左)と王アン(右)、中央に七枝樹
女王の象徴は左端に描かれた蛇、王の象徴は牛角の冠

ここから先は私もまだ不勉強なのでこれ以上の言及は避けたいと思いますが、このアニメの設定は、想像以上に深い歴史考証によって組み立てられているのが分るのです。


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