神武天皇と三嶋神

記紀を正史とする日本の古代史観では、日本の天皇の歴史は初代天皇である神武天皇(じんむてんのう)から始まるとされています。

神武天皇以前の歴史は、神代(かみよ)として、神話の世界、つまり人間ではない神様の世界として描かれ、その神様世界と人間世界の接点は、神の世界から地上に降りて来た神の子孫が現在の天皇家の祖となったことから始まります。いわゆる天孫降臨(てんそんこうりん)で地上に現れた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天皇家のルーツとなり、その3代目の神武天皇をして人皇(人の王)が誕生したことになっているのです。

ところが、このブログで時々参考に挙げている史書、秀真伝(ほつまつたえ)では、神武天皇以前から脈々と受け継がれた人間の歴史として、日本の王統が述べられているのです。要するに、そこには神様世界など存在していないのです。

現代の歴史研究者の間では、まさか神代の歴史が文字通り神様世界の歴史だと思う方はいらっしゃらないと思いますが、「天皇は神の子孫」という、どちらかと言えば宗教的信念に近い思想が、この国には現代でも蔓延している気分が認められます。

第2次世界大戦では、まさに現人神(あらひとかみ)、すなわち人の姿をした神様として天皇が奉られ、それが、戦場へ国民を駆り立てる大きな精神的支柱になったことはさすがに否めないでしょう。

事実はどうであれ、天皇の存在こそが日本と言う国の精神性を形作る大きなファクターであることは、終戦後も天皇制が残り現代に至っていることを見れば一目瞭然です。

では、その天皇制の祖となった神武天皇とはいったい何者なのか、あるいは神武天皇はどのように誕生したのか、それを考察してきたのが、前回までの都合3回に亘って述べて来た三嶋神(みしましん)と玉依姫のお話なのです。

 (1)3人の三島とひふみ神示 
 (2)サキタマ姫と玉依姫 
 (3)埼玉県とサキタマ姫 

読者の皆様なら既にご存知のように、このブログでは、記紀(古事記・日本書紀)を文字通りの史書としては扱っていません。

これらの記録は、編纂当時の政治的背景により大きく改竄されたものとして捉えているのですが、それでもここで歴史考察の素材として用いるのは、その改竄された史実の中にも、編纂当時の歴史家が残した「事実に繋がるヒント」が残されているからなのです。前からお伝えしているように、

 記紀は暗号の書

として読めば、かなり多くの隠された事実が読み解けるのです。

また、古事記と日本書紀の間にある微妙な記述の違いも、実は隠された事実を推測する上での大きなヒントと成り得るのです。

そのように読むことによって、これまで多くの事実(らしきもの)が見えてきたのですが、それらについては過去の記事に譲ります。ここではもう一度、神武天皇が誕生した血脈を辿ってみたいと思います。

■神武天皇の誕生

解説を始める前に改めてお断りしておくのが、このブログでの古代史解釈は、みシまる湟耳氏著の「少女神 ヤタガラスの娘」で述べられている少女神、すなわち「古代王権は女系によって継承されていた」という説を取ります。また、これまでの考察から、「少女神は二人、あるいは双子であっただろう」という解釈を取り入れます。

ここで、前回の記事「(3)埼玉県とサキタマ姫」で掲載した次の図を改めて見てみます。

画像1:変換古事記系図の対応人物

これは、前玉姫(さきたまひめ)に関する古事記の記述を少女神解釈に従って、女系系図に変換したものです。

繰り返しになりますが、女系変換することで、甕(みか)の名を冠する男性の継承関係がすっきりと理解できます。むしろ、これこそが古事記に仕掛けられた女系解釈を促す暗号であったと私は理解しています。

さて、前玉姫は玉依姫(たまよりひめ)の別名であることは分かっていますから、これに、伊古奈姫神社伝承、三宅記に残された三嶋神の皇后に関する考察を加味すると、図中に記した別名(青色・桃色の小字)のようになります。

もうお分かりのように、日本の神名は非常に別名が多く、それらが同一人物(あるいは神)であることを知るには、史書・伝承を互いに比較して検討するしかないのです。画像1はまさに、その検討結果を系図に表したものと言えるでしょう。

この図から分かるのは、三嶋神と呼ばれる人物が、本来は素戔嗚(すさのお)、大国主(おおくにぬし)に続く

 出雲王の継承者

であったことが分かります。この場合、鳥鳴海とはおそらく事代主(ことしろぬし)の別名であると考えられます。

ところが、この系図では4代続いた少女神の系統が、甕主日子(神武天皇)で途切れてしまってます。私は、この代替わりの時に

 現在の男系王権が誕生した

のではないかと考えています。つまり、神武天皇こそが、男系による王権継承の始まりだったのではないかと考えるのです。

実はこの系図はかなり簡略化されており、ここには三宅記に記載のある三島八王子とそこから選ばれた三王子についての反映がありません。それらの血縁関係を改めて系図に加えたのが、「(2)サキタマ姫と玉依姫」の最後に掲載した次の系図なのです。

画像2:三嶋神を巡る姻戚関係

これまでの文脈を追えば分かるはずと思い、この図では敢えて人名(あるいは神名)を省略しましたが、理解の為に人名を添えたものを以下に掲載します。

画像3:三嶋神を巡る姻戚関係(人名付)

父子婚姻、母子婚姻が重層的に行われているこの系図を見ると、現代の私たちはちょっと驚くかもしれませんが、古代期に拘わらず、日本では近代に入るまで親子婚、兄妹婚などは普通に行われていたと聞いています。

この系図で注目しなければならないのは

 神武天皇の父母共に三嶋神の血が入っている

という事実なのです。それも非常に濃厚にです。

そして、「(1)3人の三島とひふみ神示」でもお伝えしたように、三島三王子の残りの2人の血統は、どうやらこの国のどこかで影の皇統を今でも継いでいるようなのです。

画像4:昭和61年に即位20年目を迎えた天皇とは?

おそらく神武天皇が即位したこの時から、国体を表す男性王は神武天皇の血族の中から、そして皇后はこの時まで王権継承権を有していた女系家族から強制的に娶わせる仕組みが固まり、それが現代まで続いているのではないかと考えられます。

そして、同記事に記したように、皇后たる少女神は2人のペア、男系王家は3人というこの構成は、イザナギ(男)・イザナミ(女)の神話に記された「1500人:1000人」、すなわち「3:2」の関係にピタリと重なるのです(記紀の暗号)。

日本の天皇制は、三嶋(三島)の血が入った時に男系的な王政に変化し、本来の王権継承者である少女神の家系は、もはや形式的に皇后を輩出するだけの弱い立場に追いやられた、すなわち

 日本は三嶋に乗っ取られてしまった

と言えるのではないでしょうか?

前述しましたが、三嶋神は本来出雲皇統の少女神を娶り出雲王となるべき存在だったのですが、そうではなく、自分の血を分けた男女のペアから新たな王統を打ち立てた。実は「出雲の国譲り」の実態とは、三嶋によるこのような国内王権への血の浸食だったとも言えるのです。

そうなると、次に気になるのが三嶋神がいったいどこから来た何者なのかと言うことになるのです。

管理人 日月土


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