前回の記事「市杵島姫と少彦名」」では、市杵島姫(いちきしまひめ)を調べる中で、どうやら日本神話でも謎めいた神として扱われることの多い少彦名(すくなびこな)とどうやら関係がありそうだということが、静岡県沼津市の内浦湾に浮かぶ島、淡島に鎮座する厳島神社の存在から見えてきました。
今回は、それでは少彦名がどのような神なのか、まずは現在残されている文献から当たってみることにします。
大国主と同時代人であった少彦名
記紀などを通して、少彦名は、大国主(おおくにぬし)と共に日本の国造りに携わった功績の大きい神だとされていますが、その記述は極めて限られています。まずは、大国主との出会いと、その風貌がどのようなものであったかを、文献から読み解いてみます。
初め大己貴神((おおなむちのかみ)、国平(む)けしときに、
岩波文庫 日本書紀 神代上 一書から
出雲国の五十狹狹(いささ)の小汀(おはま)に行到(ゆき
ま)して、飮食(みおし)せむとす。是の時に、海(わたつ
み)の上に忽(たちまち)に人の声有り。乃(すなわ)ち驚
きて之(これ)を求むるに、都(ふつ)に見ゆる所無し。頃
時(しばらく)ありて、一箇(ひとり)の小男(おぐな)有
り。白蘞(かがみ)の皮を以ちて舟と爲し、鷦鷯(さざき)
の羽を以ちて衣(ころも)と爲し、潮水(しほ)の隨(まに
ま)に浮き到る
故(かれ)、この大国主神(おおくにぬしのかみ)、出雲(い
岩波文庫 古事記 大国主と少彦名から
ずも)の御大(みほ)の御前(みさき)に坐(いま)す時、波
の穂より、天(あめ)の羅摩船(かがみのふね)に乗りて、鵝
(ひむし)の皮を内剥(うつは)ぎに剥ぎて衣服(きもの)に
して、帰(よ)り来る神あり
ここで、文中の用語に関するそれぞれの編者の解説を添えると
日本書紀:
白蘞(かがみ) → 薬草のヤマカガミ
鷦鷯(さざき) → 野鳥のミソサザイ
古事記:
羅摩(かがみ) → 野草のガガイモ
鵝 (ひむし) → 蛾
少彦名が乗って来た舟の素材、そして衣服の素材について解釈の違いがあるようです。

ヤマカガミの花、ミソサザイ、一般的な蛾、ガガイモの花と実
しかし共通しているのが、野の草や、虫や小鳥の羽を材料にしていることから、日本書紀の記述にあるように、非常に小さな男性であることが分かります。
日本書紀の続きには、大国主が少彦名を掌に乗せている描写、淡島に生えていた粟の茎に登ったところ弾き飛ばされて常世に行ってしまったなどの記述すらあるのです。
まあ、神話だからそんな突拍子もない記述でもOKなのですが、当ブログでは神話は史実の婉曲表現であると仮定しているので、このような表現にもきっと何等かの意味があると考えます。
むしろ、これだけ人間離れしている記述を見せられると、多くの意味がその奇抜な表現の中に圧縮されているのだろうとすら思うのです。

なお、古代史を実在した「人間史」として記述している秀真伝(ほつまつたえ)では、少彦名は古代皇統タカミムスビの第6代王であるヤソキネの末子として簡単に記述されています。
以上をまとめると、少彦名とは素材に関する記紀の記述の相違を別として
1)舟でやって来た
2)羽の衣を着ている
3)小男で、
4)タカミムスビ/カミムスビの縁者であり
5)大国主と共に国造りをしたが
6)突然常世国に去ってしまった(粟に弾かれた?)
となるでしょうか。
常世国とは、その解釈が必ずしも定まっておらず、「常夜国」のイメージから黄泉の国(死者の国)を表すとも解釈可能ですが、決定的ではありません。少なくとも、少彦名は突然いなくなった、そう捉えるべきでしょう。
■少彦名の名に関する分析
少彦名は日本書紀の記述で、スクナビコナ、またはスクナヒコナと読みますが、古事記では「少名毘古那」(すくなひこな)、先代旧事本紀では「天少彦根命」(あまのすくなひこね)と表記のバリエーションが多く、漢字は後の時代の当て字と考えて良いので、ここでは秀真伝の音表記「スクナヒコナ」を標準として考察したいと思います。
「スクナヒコナ」とは意味的に分解すると
スクナ – ヒコ – ナ
となり、「ヒコ」が男性に与えられる名称とするなら「スクナ」は宮中における高位の身分を表す「宿禰」(すくね)が該当するのではないかと考えられます。
気を付けなければならないのは、身分としての「宿禰」は、600年代後半の天武天皇の時に定められたもので、宿禰が持つ本来の意味は、野見宿禰(格闘に長けていた)や武内宿禰(神祇祭祀に長けていた)など、特殊能力に長けていた人物に与えられていた称号ではなかったのかということなのです。
「ナ」についてはこれをどう解釈してよいか悩みますが、記紀が編纂された時に使われた万葉仮名にわざわざ「名」を用いたということは、そのまま「名前」の意味で取って良いのではないかと思われます。
すると、「スクナヒコナ」とは
特殊な能力を有した男性の名前
と解釈することが可能で、個人名と言うよりも特定の人物のことを指す一般名称だとも考えられるのです。
■能登生國玉比古神社と市杵島姫
さてWikipediaの「スクナビコナ」の記述を見ていると、気になる記述があるのを見つけました。
能登生國玉比古神社(中能登町金丸)の社伝によると、
Wikipedia「スクナビコナ」から
大己貴命と少彦名命が能登国の国魂神である多食倉長
命と共に国土を平定した際、少彦名命が多食倉長命の
娘の伊豆目比売命(市杵嶋姫命)を娶り、金丸村村主
遠祖の菅根彦命(金鋺翁菅根彦根)を産んだ。その子
孫が神主の梶井氏であるという
この記述を読むと、なんと
少彦名が市杵嶋姫を娶った
とあり、この記述が正しいかどうかは別として、なんと前回の記事で疑問点として挙げた市杵島姫と少彦名との関係があっさりと解き明かされているのです。
もちろん記紀にそんなことは書かれていないのですが、少彦名を象徴する駿河湾の淡島に何故か市杵島姫を祀る厳島神社が鎮座している、その理由として挙げるにはこの上なく好都合なのです。
仮に能登生國玉比古神社(のといくくにたまひこじんじゃ)の社伝がある程度正確だとすると、次の等式
イチキシマ姫の夫 = スクナビコナ
コノハナサクヤ姫の夫 = ニニギノミコト
は、既に分っている次の等式
イチキシマ姫 = コノハナサクヤ姫
を適用すると
スクナビコナ(少彦名) = ニニギノミコト(瓊瓊杵尊)
という関係が導かれるのです。要するに、上述したように少彦名とは瓊瓊杵尊を指す特殊な一般名称であり、大国主(オシホミミの別名)の補佐的役割から、次代の王になったということになるのです。

仮にこの等式を認めると、秀真伝に記された瓊瓊杵尊と火明命の二人の王が立ったとされる二王朝時代がどのようなものであったのかが見えてくるのと同時に、瓊瓊杵尊の天孫降臨の記述が実際にどのような意味を持つのかも分って来るのです。

加えて問題にするべきは、少彦名あるいは瓊瓊杵尊の「宿禰としての特殊性」であり、それは、先に掲げた少彦名に関する6つの記述ポイントについて、記紀の編者がどのような意味を込めてそう書いたのか、その真意そのものなのです。
それらについては次回の記事で私の考えを述べたいと思います。
彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 (ヨハネによる福音書 第20章16節)
管理人 日月土
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