古代の女王と文化庁

今回は、地味で目立たない古代史分野において、全国ニュースにもなったあの話題について取り上げてみたいと思います。そうです、何かと卑弥呼伝説と関連付けられることの多い佐賀県の吉野ヶ里遺跡の新規発掘のニュースです。

吉野ヶ里遺跡で見つかった「石棺墓」…「朱の痕跡」は邪馬台国論争に一石投じたか
2023/06/18 15:00

編集委員 丸山淳一

 国指定特別史跡の吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼市、吉野ヶ里町)で、弥生時代後期の有力者の墓の可能性がある 石棺墓(せっかんぼ) が見つかり、覆っていた4枚の石蓋を外して内部の調査が行われた。残念ながら遺骨や埋葬品は出土しなかったが、佐賀県の山口 祥義よしのり 知事は「調査の結果、石棺墓は 邪馬台国やまたいこく の時代の有力者の墓と裏付けられた」と発表した。


発掘調査を終えた石棺墓。遺骨や埋葬品は見つからなかった(説明しているのは白木原さん。6月14日午後)

 今回の調査地点は神社があったためにこれまで調査されていなかった「謎のエリア」で、神社が昨年移転したことから県が調査を進め、今年4月に石棺墓(長さ約192センチ、幅約35センチ)を発見した。遺跡内からはこれまでに18基の石棺墓が見つかっているが、今回調査された 墓坑ぼこう が大きく、見晴らしのよい丘に単独で埋葬され、石蓋には線刻があった。通常の墓とは異なる特徴から、集落を統治した首長の墓の可能性があるとみられていた。

昭和61年(1986年)に本格調査が始まった吉野ヶ里遺跡は、弥生時代の全時期にわたる遺跡とみられ、国内最大級の 環濠(かんごう)集落や600メートルにもわたる 甕棺墓かめかんぼ の列が見つかっている。調査地点のすぐ東には14基の大型甕棺と人骨、銅剣、管玉などが出土した紀元前1世紀ごろの墳丘(北墳丘墓)もある。しかし、邪馬台国時代(2世紀後半~3世紀中ごろ)の有力者の墓は見つかっていなかった。調査を担当した佐賀県文化財保護・活用室長の白木原 宜たかし さんは「吉野ヶ里遺跡の最盛期は弥生時代後期。そのときの有力者の墓は大きな問題になる。それが邪馬台国の時代の墓ということになれば、その論争に一石を投じることになるのでは」と話す。
(以下略)

引用元:讀賣新聞オンライン
https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20230616-OYT8T50003/

要するに世間の関心は「卑弥呼の墓かどうか」にあって、教科書に出て来る古代史上の有名人が実在したその証を求めているに過ぎないのでしょう。今回の発掘では特にこれといった出土品が発見されず、期待だけが膨らんで静かに終息していったというところなのだと思います。

卑弥呼伝説には様々な議論があり、特にその女王国がどこにあったのかについて話題になることが多いようです。中には「卑弥呼は存在しなかった」と主張する研究者もいらっしゃるので、この議論に素人の私が参入するのもどうなのかとは思いましたが、吉野ヶ里遺跡は私も10年前に訪ねた史跡でもあり、その所感くらいは書いてもよかろうと思い取り上げた次第です。

■卑弥呼と少女神

本ブログを読まれている方ならお分かりの通り、私は古代日本に女王国が存在したこと自体に特に驚きを感じていません。それは

 古代王権は女系によって継承されていた

という仮説を指示する立場をとっているからです。

いわゆる巫女的シャーマンである「少女神」(しょうじょしん)の血の継承と、その少女に婿入りできた男性が統治王として選任される、そのような王権授受の仕組みがあったのであろうと考えているのです。

どうしてそのように考えるのかについては、みシまる湟耳氏の著書「少女神 ヤタガラスの娘」に詳しいのですが、要するに記紀神話の中にそれを臭わせる記述が散見でき、おそらく女系による王権継承こそが日本古代史における本質的部分であり、後世にそれが改竄され、現代のように男系継承によって王家(天皇家)が続いてきたイメージに書き換えられたのだろうとするのです。

魏志倭人伝における「邪馬台国」とか「卑弥呼」という、日本人にとって極めて侮蔑的な漢字表記は、おそらく後世の反日的、女卑的な思想を反映したものであり、国名や本人の正式名は全く別のものであった可能性があります。

そもそも、魏志倭人伝は伝聞情報を元に書かれたものであり、当時の様子を生々しく記録した実見録とは言えないものなのです。そのようにかなり当てにならない史書であるからこそ、卑弥呼の存在を否定する研究者が出てくるのもある意味頷ける話ではあるのです。

しかし、史書と呼ばれるものはどれも書き手の思想に染まっている物ですから、どれが正しいとか正しくないとか議論しても仕方ありません。むしろ、

 どの史書も改竄されている

とみなし、それぞれの史書の思想性や書き手の意図を汲み、なおかつ史跡からの出土品を参考にしつつ事実を割り出していくしか、古代期を推察する術はないように思います。

本ブログではまさにそれを実践しようとしている訳なのですが、そんな中で、卑弥呼と記述される女王とは、

 媛蹈鞴五十鈴姫(ひめたたらいすずひめ)

である、すなわち神武天皇の皇后ではないかとしているのです。

日本書紀の神武記においては、神武天皇は九州の宮崎出身ですから、その意味で卑弥呼の女王国は九州内にあったとも考えられるのです。

そしてもう一つ、神武天皇は東征して畿内に大和王朝など作ってなどいない、神武天皇による王朝は九州内に作られたのだとする「九州王朝説」を顧みた場合、邪馬台国(大和国?)が九州内にあった可能性は一段と高まるのです。

■発掘の専門家G氏の見解

さて、ここで吉野ヶ里遺跡の発掘に話を戻しましょう。この話をする前に、今回の発掘対象となった「石棺墓」がどのような構造になっているのかを知っておかなければなりません。

画像1:石棺と地山(じやま)

たいへん下手なイラストで申し訳ないのですが、石棺は地山と呼ばれる土の上に石板を縦長に立て、これを側面とします。底板に当たる石板はなく地面の上に直接、あるいは敷物などを敷いてその上に亡骸を横たわらせるのです。これに石の蓋をすれば石棺として完成します。

日本のような酸性土壌に土葬した場合、100年程度もあれば骨は土にかえるのですが、土の上に直接置かれた遺体の場合でも、1000年以上もの時が経てば、その遺体は骨まで全て土にかえってしまうでしょう。ですから、身に付けていた小さな副葬品などは地面に落ち、やがて土に埋もれてしまいます。

ですから、石棺の蓋を取り外しても遺体の残骸はまず見つからないと言ってよいのですが、身に付けていた石や金属の小片は地面を掘り起こして探し出さなくてはなりません。

さて、転載した報道写真にあるような発掘状況を見た時、発掘の専門家である知人のG氏はちょっと驚いたそうです。

 地山を掘り返してないじゃないか!


先に述べたように、副葬品は土に埋もれてしまいますから、このような石棺を発掘する場合、地山まで掘り返すのが発掘作業の基本セオリーなのです。

G氏によると、同じ発掘同業者も同意見であり、どうしてこんな素人を煙に巻くようなことをするのかと同業者内で騒然となったそうです。

そして、その後遺跡発掘関係者の間で次の様な話が広まったと言います。

 吉野ヶ里の発掘責任者に文化庁から次の様な電話があった。

 「掘るのはもうその辺で良いのでは?」

もちろん、この話の真偽は分かりません。ただの噂と言えば噂です。しかし、実際に地山まで掘り返していないのは映像から明らかであり、その事実があるからこそ、このような噂が流れたとも言えるのです。

G氏は、これが事実であれば明らかに中央政府からの干渉であり、発掘を止める理由があるとすれば、出土品がこれまでの大和王権に関する定説に抵触する可能性があるからだろうと推測しています。

先にも述べたように、私は、どんな史書類にも改竄は見られるとしてますが、史実を検証する上で貴重な資料となる発掘作業までもが、もしも政治的に干渉を受ける対象とされているならば何とも残念で悲しい気分になるのです。

■時代設定は正しいのか?

さて、今回発掘の対象となった墳墓は、吉野ヶ里歴史公園内にある日吉神社の下にあったもののようです。

画像2:公園内にあった日吉神社

この神社を移設することで今回の発掘が可能になったとのことですが、私はこの墳墓の建造年代をどのように判定したのかについては疑問を持っているのです。

おそらく、神社の周囲にあった他の遺跡や石棺墓類の年代が弥生時代後期と確定していたため、一続きの遺跡として墳墓の年代が推定されたのではないでしょうか?しかし、ここは「通常の墓とは異なる特徴」である点をもう少し気にするべきであったのではないでしょうか?

古代から現代まで、人が集まるところには重層的に遺跡が積み上げられていくものです。つまり、吉野ヶ里のこの土地が重要であり、何代にも亘って、あるいは間欠的にこの土地が使われた可能性があり、必ずしも今回の発掘対象が弥生時代後期とは限らない、可能性としてはそれから数百年後の古墳時代のものであることも考慮に入れるべきだろうと考えるのです。

そうなると、先程の文化庁が干渉してきたという噂の蓋然性も増してくるのです。何故ならば、古墳時代とは、定説ではまさに畿内大和王権の時代であり、もしも、当時の特徴を持った副葬品などが出てきた場合、邪馬台国の所在問題どころか、現皇室の出自までが揺るぎかねない事態となるからです。

真偽の程は私もよく分かりませんが、今回の吉野ヶ里遺跡の発掘は、「卑弥呼」騒動を超えた、この国の始まりに大きく関わるものなのかもしれません。


老女子(おみなご)の 守るは都 吉野ヶ里 この先行かば 火の雨ぞ降る
管理人 日月土


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