現地調査のため今年の10月に2度にわたって訪れた福岡。そのレポートも今回と次の2回でひとまず終了にしたいと思います。
これまで、堅苦しい古代史の話にお付き合い頂いている読者様ならもうお分かりの通り、私の歴史分析は学術的な文献や他の研究者の成果を大いに参考にしているのはもちろんですが、更にこれに「呪術」という観点を加えています。
「呪術」とは、古代に生きた人々にとっては現代人の科学と同等であり、私たちが科学的判断を以って物事を決定するように、古代人も呪術的知識を拠り所に諸事全般の判断していたと考えられるのです。
例えば、病気になれば祈祷師の呪術によってそれを治そうとしたり、揉め事が起きればやはり呪術によって相手を病気にしたり時には呪い殺したりなどしていたことでしょう。
その呪術が科学的か非科学的かという議論をここでするつもりはありませんが、少なくとも実効性があると信じられているからこそ、呪術は生き残っているのだと言うことはできます。
現代でも、京都などでは日によって通る道順を変えるなど、方位除けの習慣が町ぐるみで行われていると言います。これなどまさに、呪術が生活に根差している好例と言うことができるでしょう。
ですから、呪術の存在を無視して古代史を眺めても、遺物の造形の意味や当時の人々の思考や行動原理が分かるはずもないのです。
私は別に呪術師でもないし、専門にそれを学んだこともありませんが、幸いと言うか不幸というか、日本の古代呪術や仏教呪術について概要を知らざるを得ない状況にあったため、何となくどのような呪術的思想が物事の背後に隠れているのかを言い当てることくらいはできるようになりました。
その視点を生かして、123便事件など過去の事件や日々の時事報道などに呪術が埋め込まれているとの指摘を、これまで(新)ブログや(真)ブログで行ってきたのは、もうご存知かと思います。
このブログでは、まさに呪術が社会活動の中心だった古代を取り扱うのですが、非常に興味深い事実として、古代遺跡には呪術、それも「封印術」が掛けられているケースが多いこと、それも、ごく最近掛けられたと思われるものが多く見られる点が挙げられます。それはそうでしょう、呪術の有効性には期限があり、誰かがその術式をメンテナンスする必要があるのですから。
つまり、科学万能の現代においても、コツコツと呪術を実践し過去の術式を継承している人々、あるいは集団があるということなのです。
福岡市民の方々にはたいへん申し訳ないのですが、福岡は私が「悪魔タウン」と呼ぶくらい、街の至る所で呪術的記号に欠くことのない特殊な都市です。その悪魔ぶりは、京都のそれともまた異質であり、遺跡の多さと相まって、私にとっては興味が尽きない魅力的な調査対象となっています。
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前置きが長くなりましたが、今回はその福岡の「悪魔タウン」らしさを、遺跡と共に例を挙げてお伝えしようかと思います。
■香椎浜の鳥居
福岡市内の古刹で有名なものに、筥崎(はこざき)宮と香椎(かしい)宮があります。筥崎宮の主祭神は
応神天皇、神功皇后、玉依姫
また、香椎宮の主祭神は
仲哀天皇、神功皇后
となっています。福岡は古史に言うところの三韓征伐出立の土地ですから、必然的にその主役である神功皇后を祀るお宮が多いのも頷けます。神功皇后の夫である第十四代仲哀天皇の時代ははっきりしていませんが、一般に3世紀末から4世紀半ばくらいまでではないかと推定されています。
画像2の地図をご覧になれば分かるように、どちらのお宮も福岡市の東寄りの市街地、それも博多湾の近くにあるのが分かります。昔は埋め立てもなく、海岸線も内陸側にあったと考えられるので、創建当時はまさに船着き場のすぐそばにお宮があったのでしょう。
このように、福岡の歴史は海や海運と切り離せない関係性が認められるのです。それを象徴するすよう、筥崎宮の場合は海に向かって参道が伸び、浜には鳥居が建てられています。
同じように、香椎宮の海側にも香椎浜があり、そこには海上に露出した岩に祠が設置されれ、鳥居が建てられているのです。
実は、筥崎宮と香椎宮のどちらにも過去数回訪れたことがあるのですが、今回の調査の注目点は、これまでほとんど注目することのなかったこの香椎浜の鳥居だったのです。
この、博多湾の奥に位置する香椎浜は、沖合が埋め立てられ「福岡アイランドシティ」という広大な新市街地が作られています。SoftBank社が運営するサイバー大学のキャンパスもこの中に建てられています。
そんな状況ですから、古代の面影を想像させる要素はほとんど失われ、コンクリートで固められた護岸と上方を走る高架道路、そして高層マンションが林立する、いたって現代的な街並みしかそこに見出せません。
そんな中に、ポツリと海上から姿を見せる古びた祠が、どこかアンバランスな印象を与えていたのです。
■公園に配置された石
さて、香椎浜の海に面する護岸はすっかり整備され、そこにはきれいな公園と散策路が作られていました。
この場所から海の祠と鳥居を観察したのですが、ここで少しおかしなことに気付いたのです。筥崎宮の例から類推すると、この浜は香椎宮に向けて開かれた浜辺であり、当然鳥居の向きも香椎宮の方を向いていると思われたのですが、地図を広げて方角を確認すると、どうやら香椎宮とは別の方角、お宮よりも西側の方角を指しているようなのです。
そこで、その方向に何があるのか、公園内を鳥居の向く方へ歩いたところ、ちょうどその直線上に大きな石が置かれていることに気付いたのです。そしてその石の周囲には、同じくらいの大きさの石が間隔を開けて配置されていたのです。
これについては(真)ブログ記事「歴史を隠したい福岡」で一度触れていますが、石を用いた封印術の一つで、それも「神封じ」を目的としたものなのです。正式な術名もあったと思いますが、残念ながら失念してしまいました。私は個人的に「八つ裂き封印」と呼んでいます。それは、神霊の身体をバラバラに刻んだ上、それぞれの部位を石毎に封印して身動きを取れなくするという、この術式のコンセプトから命名したものです。
実はこの呪術、全国のダムなどでほぼ確実に見ることができます。
これだけ見ると、そもそもダムの整備基準がそうなってるだけじゃないのかと思われるかもしれません。確かに、山間の風景に溶け込むように美観を重視した作りと言えなくもありません。しかし、次の写真を見たらどうでしょうか?
殺風景なダムの砂防施設に、どうして大きな石を等間隔に並べる必要があるのでしょうか?
実は、ダム建設のように山を削り谷を埋めるような、大きな自然破壊を伴う土木は、山神の祟りがあると考えられているのです。祟りに遭わず開発を進めるにはどうしたらよいのか、その解決策として帰結したのが
祟り神そのものを封印してしまう
という方法論なのです。これは、家を建てる前に地鎮祭を行うのとよく似ていますが、この場合の呪術は、神霊に恭しくお伺いを立てるのではなく、神霊そのものの働きを封じ自分の勝手を押し通そうとする点で極めて悪辣なのです。
鉱山開発などの場合も、専属の呪術師が事前に山神封じを行うことで、開発が可能になると信じられているのです。しかも、このような神封じが時には神社の中で行われており、これが世に言う「神国日本」の本当の姿であることを、読者の皆様には知っていただきたいのです。
話がだいぶ逸れましたが、そもそも、鳥居とは神を閉じ込める封印のシンボルであり、その存在自体が初めから禍々しいのですが、香椎浜の場合、鳥居が向く方向にかなり強力な呪術が使われていることが判明したので、ここから、その方向には表に出てきて欲しくない、何か重要な歴史的遺物があるのだろうと類推することができるのです。
関連記事:今日も鳥居で神封じ
■鳥居が指すもの
さて、鳥居の指す方向に何があるのか、それを地図上に落として分析したのが以下の図です。
黄色の線が鳥居の向く方角を表しているのですが、赤枠で囲んだ香椎宮を大きく外れていることが分かります。
この辺は広く市街地が続く場所なので、他にこれといったランドマークは見当たらないのですが、唯一、緑枠で囲んだ一帯が裾野からややきつい傾斜の丘陵地となっており、その頂上付近が松香団地公園なる緑地として残されています。こういう地形は福岡市内で多く見られるものです。
黄線はこの丘陵地をかすめていますが、この傾斜地には県営団地や小学校など公共用地が広く確保されていることから、それが土地の保全を目的とする別の意図を含むものとも考えられ、実際に松香団地公園内には舞松原古墳と言う古墳が残されています。
おそらく、この丘陵地の下には大規模な古代遺跡群が眠っていて、先ほどの鳥居もこの一帯を狙った封印術であると考えれば色々と辻褄が合います。そこで私は、香椎浜から急ぎ舞松原古墳へと向かったのです。
上の写真は、現地で撮影した古墳の全景です。全長約37m、高さ4m程度の中型の帆立貝式古墳で、4世紀終わり頃のものでないかと考えられているようです。
知人の歴史研究家G氏によると、埋蔵品はいくつか見つかっているものの、盗掘されているのは明らかで、被葬者の権威なり地位を表す重要なものは既に無く、ここに誰が葬られているのかは不明だと言うことです。
外部参考ページ:福岡市の文化財
福岡市の説明板では「地域の首長」という、要するに「土地の偉い人」という説明にもなっていない説明が適当に記述されているのみですが、遺物が喪失している状況ではそれも仕方がないかもしれません。
そこで、ここで地形と祭祀・呪術的形式からこの被葬者がどのような地位の人物であったかをざっくりと推測してみます。
松香団地公園内は木が生い茂り、もはや高台からの展望はほとんど望めないのですが、古墳への上り道から撮った写真(画像12)を見ると、この地が周囲を見渡す、特に博多湾の海上を見渡すことのできる好地にあることが分かります。
これは、海上交通を主としていた古代期においては非常に重要なことで、船の行き来を監視する見晴台として最適であるだけでなく、船からの目印としてもなくてはならないものです。
そのような誰もが仰ぎ見る重要な場所に、「土地の偉い人」レベルの小役人が埋葬されるのだろうかという疑問が生じます。そしてもっと大事な事実は、仲哀天皇の祀られている香椎宮がこの丘陵の東側の裾野に位置するということ、つまり、この古墳の被葬者を仲哀天皇が仰ぎ見ているという形がここに出来ているという事実です。
ここから推測されるのは、この古墳の被葬者がただの「偉い人」レベルの人物ではなく、天皇という日本の王が仰ぎ見るという位置付けから、仲哀天皇より前の時代に皇位にあった人物、あるいはその皇子など高貴な存在であった可能性が高いのです。
しかも、この古墳は円墳に「造り出し」という祭場がわざわざ設けられていることから、祭祀・呪術においても極めて重要な場所であったと考えられるのです。そして、現代においても香椎浜にあれだけ強力な神封じが掛けられていたことを考え併せると、呪術世界の常識として、ここには天皇クラスの被葬者が居たと考えざるを得ないのです。
歴史資料および以上の考察から、この古墳の被葬者が誰であるのか大体当たりが付いたのですが、まだ決定的とは言えないのでここには書きません。しかも、この仮説が成立するには、7世紀位までは九州に王朝があったという、いわゆる「九州王朝説」の正しいことが前提となるのです。
なぜここまで強い封印が掛けられているのか?その疑問こそが「太宰府に残る占領の印」で言及した、外国軍による福岡・太宰府占領を示す一つの証左になると考えたからです。つまりは、「第2次大戦の敗戦まで日本は一度も侵略されたことがない神の国」という歴史観自体が、侵略者によって後から創作された「神話ファンタジー」でしかなかったということになるのです。
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本来ならば、歴史の調査を謳うのであれば、謎の多い仲哀天皇、そしてその皇后である神功皇后についてもっと深く掘り下げるべきなのでしょうが、その歴史的所縁の地が現在どのような状況になっているのか、それを知っていただくために、敢えて「呪術的見地」による見解をここに記した次第です。
香椎宮三苫浮べし甕水に君の面影何を語るか
管理人 日月土
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