占領された福岡(2)

長々と続けてきた福岡の調査レポートですが、それも今回で一旦終了とします。福岡と言えば、博多どんたくやら豚骨ラーメン・もつ鍋などが有名ですが、そのような地方都市ならではの楽しみに加え、市内に残る数々の古代の面影こそが、歴史好きにとってはたまらなくこの街を魅力的なものとしてくれます。

■香椎浜の鳥居、その北側

さて、前回の「占領された福岡」では、香椎浜の鳥居が向く先に高台があり、その頂上部には舞松原古墳があることを紹介しました。また、博多湾を一望できるその地形的配置、およびこの古墳に向けて掛けられている呪術的造作から、この古墳の被葬者がかなり高貴な存在であっただろうという推測を述べました。

この高台に立って鳥居の方向を見た時、鳥居の反対側、つまり鳥居の北側に何があるのかが今度は気になったのです。

図1:地図で見た鳥居の北側の地域

上の地図で見ると、鳥居の北側には雁ノ巣、奈多、三苫、和白(わじろ)などと言った、福岡らしい趣のある地名が内湾である博多湾を取り囲み、その更に北側には玄界灘が広がるという地形的にもなかなか特徴的な場所であることが分かります。

そして、その玄界灘に接する奈多海岸をわずかに東に辿ると、福岡市に隣接する新宮町(しんぐうまち)へと入ります。

実はこの福岡市東部と新宮町の一帯も前から気になっていた場所であり、というのもこの地名には次の様な意味があるからです。

まず和白について見てみます。

和白というのは新羅の言葉で“会議”のことであり古代満州語、モンゴル語に共通している。『新唐書新羅伝』に「事必ず衆を議す。和白と号す。一人異とすれば、すなわち罷む。」とあり、『満州源流考』にも「事衆と議し和白を号す。按ずるに満州語赫伯は商議なり。これと音議ともに相和す。」とあり和白はHabe、赫伯はHebeでほぼ同じである。この“和白”の文字だけが伝わって読み方は日本流に“わじろ”となったものであろう。

福岡歴史探訪 東区編
柳猛直著(海鳥社 1995)

https://readyfor.jp/projects/f-urihakkyo/announcements/177998

ここにあるように、どうやら「和白」とは朝鮮由来の言葉だということなのです。同時に、朝鮮語起源の地名がここに残ったということは、古くからこの地に多くの朝鮮系人が住んでいたことを意味するのではないでしょうか?

次に三苫について見てみましょう。

三苫の地名の起源は4世紀の神功皇后の物語に始まる。

神功皇后が御西征のとき、対馬の沖で暴風雨に遭い、それが鎮まるようにと海神である志賀三神を祭って祈りを捧げ、その供物と苫を一緒に海に投じて苫の漂着した所に社を建てて祀ることを誓ったといわれる。そのときの苫が三枚、今の三苫の海岸に流れついたことから、その地を三苫と名付けられた。

https://www.mitoma-fukuoka.com/22298.html

苫(とま)とは、辞書などには「菅(すげ)・茅(ちがや)などで編んだ、こものようなもの。小屋や舟を覆って雨露をしのぐのに用いる」と書かれていますが、漢字の成り立ちを見れば分かるように、

 「三」枚の「草(かや)」で「占」う

の意であり、どうやら古代の宮廷占術を表しているようなのです。占術も呪術の一種と言えますが、全国にいらっしゃる三苫姓の人の中には、この宮廷占術師の血筋という方もおられるとか。

以上、この2つの地名から見えてくるのが、4世紀頃と言われる「神功皇后と三韓征伐」の伝承なのです。鳥居の南側には14代仲哀天皇が祀られている香椎宮があるので、時代的にも博多湾奥部のこの地域は、同時代の影響を大きく受けたと考えてよいでしょう。

古代史の中でも謎の多い「三韓征伐」ですが、その謎を解明する鍵はどうやらこの地域にあるようです。

ところが、この地域は現在はかなり市街地化されており、古代期の痕跡を探すのはなかなか難しいのです。そこで、今回の調査では、市境を超えてまだ緑が多く残るお隣の新宮町側に向かったのです。

■人丸神社と謎の給水塔

以前より、福岡市の東部と新宮町の市境付近には古代の痕跡が比較的見つけ易いと分かっていたので、今回は前から気になっていた同町の「人丸神社」(図1の赤星)へと向かったのです。

画像2:人丸神社の拝殿
画像3:人丸神社の由緒書き

この人丸神社自体はその由緒から、古代から中世へと移り変わる源平の時代のものらしいのですが、私が問題とするのは、どうしてここに神社を築いたのかその理由なのです。

由緒を読むだけでは平景清の娘は行きすがらたまたまこの地に辿り着いたように書かれていますが、古代期の記憶がまだ新しい当時の人々が、本当に成り行きだけで神社をそこに建てるのか、私はその点を疑問に思うのです。

このような時、香椎浜の鳥居の時と同じようにこの神社の建てられた向きについて私は考えるようにしています。というのも、神社の建造自体はここ最近のものだとしても、その立地や方角については呪術的に厳格に定められているケースが多く、その呪術パターンからその呪いの対象が特定できることがあるからです。

画像4:人丸神社の立地と拝殿の向き
古代海進期の予想海岸線を青色で示す

上の画像4を見ると分かりやすいのですが、海進期、この辺りの低い土地は海だった可能性が高く、人丸神社は船着き場として最適な入り江の奥という好位置に建てられているのが分かります。

なるほど、ここなら船に乗って平景清の娘が辿り着いたという話は成立するかもしれません。しかし、地図上に社殿を崇める方角に向かって直線を引くと(画像4の黄線)、なんとそこには怪しげな構造物があるではないですか。

実はこれ、この一帯の住宅地に水道水を供給する湊坂展望公園の給水塔なのですが、その威容とも思える存在感が現地ではひと際目を惹くのです。その写真を以下に掲載しましょう。

画像5:湊坂展望公園の給水塔

ここで、画像4と画像5を見比べてください。台地から海側に突き出した円形の土地、その中央部に建てられたやはり円形の給水塔。住宅地に給水塔があっても不思議ではないのですが、私が問題視するのは、どうしてこんな目立つところ、玄界灘を一望する好立地にわざわざ殺風景な給水塔を建てたのか言う点、そして、最も気になるのが、人丸神社の拝殿がまるでこの給水塔を拝むように配置されている点なのです。

ここまで気付いたところで、早速この給水塔のある湊坂展望公園へと足を向けたのは言うまでもありません。

画像6:湊坂展望公園からの展望
(上)福津方面、(下)が新宮港と相島方面

画像6はそこからの展望なのですが、この位置から北に広がる玄界灘が一面に見渡せるのがお分かりになるかと思います。同時に、この位置は海上のどこからも良く見える場所にあると言い換えることもできます。

さて、このパターンどこかで既に一度説明しませんでしたでしょうか?そうです、前回の「占領された福岡」で紹介した、舞松原古墳のケースとそっくりなのです。

 舞松原古墳
  立地: 博多湾を一望できる高台
  特徴: 香椎浜の鳥居が向けられている
  被葬者:皇位継承者か皇子クラス

 湊坂展望公園(給水塔)
  立地:博多湾の東側、玄界灘を一望できる高台
  特徴:人丸神社の拝殿が向けられている

以上の比較から、私はこう結論を出しました

 湊坂展望公園は古墳跡であり、被葬者は相当高貴な人物である

そして、読者の皆さんはほとんどご存知ないかと思いますが、封印術の術式の中には

 水棺(すいかん)

という方法があり、これは対象者の霊を池に沈める、海に沈めるなど水の底に葬り去るという呪いの形態を取るのです。

現代呪術の様式ではそれを人工建造物、例えばダムや給水塔・給水タンクで代用しているパターンが良く見られるのですが、この湊坂展望公園の場合はまさに給水塔を封印術に使用している典型的な例と言うことができるでしょう。

そして、これが現代呪術の一形態であることを裏付けるようなアイテムが、給水塔から少し下った所にある湊坂中央公園に置かれていたのを見て、私はこの推測はほぼ間違いないだろうことを確信したのです。

画像7:湊坂中央公園に置かれていたエジプト壁画風プランター
男たちが頭の上に支えているものは何か?
画像8:葬列を描いたエジプト壁画

さて、よく晴れ渡った青空の下、この古墳跡ではないかと思われる公園から美しい玄界灘を眺めていると、空の様子が段々怪しくなってきました。

別に天気が悪くなっという訳ではありません、気付いたら上空にヘリコプターが3,4機旋回するようになり、そのエンジン音がさすがに耳障りになってきたのです。

(色々な意味で)そろそろここも引き上げと観念し、その場を離れたのは言うまでもありません。

■考察:占領された福岡

実はこの後に、またもや現代呪術の至高とも言える作品を発見するのですが、それまでここに書くともはや歴史ブログでなくなってしまうので、そちらは割愛させていただきます(メルマガでお知らせします)。

さて、前節の給水塔は新宮町の湊坂という地名の場所にあるのですが、実はそのすぐ南側に市境があり、そこからは福岡市東区の「美和台」(ミワダイ)という地名が付けられています。

「美和」は「三輪」であり、また「三諸」(ミモロ)でもあります。つまり一般に言う出雲族の土地に付けられる地名であり、その予想に違うことなく、美和台には大国主を主祭神とする「大神神社」(オオミワ神社)が存在します。

ここまでの記述を箇条書きに並べると次の様になります。

 (1)神功皇后伝承の残る「三苫」
 (2)新羅の言葉が残されている「和白」
 (3)新宮町湊坂の封印された古墳
 (4)封印古墳の南に広がる出雲族の痕跡

そして、私の歴史研究アドバイザーでもあるG氏は次を付け加えます

 (5)新宮の海岸は神功皇后の船団が軍事訓練を行った場所

この(5)については、海進期の地形を知らなければ具体的なイメージが湧かないでしょう。おそらく神功皇后の時代には福岡・新宮の地形は以下のようであったと思われます。

画像9:海進期の博多湾と新宮
赤◎は今回の推定古墳跡

この図から、古代期、現在の博多湾と新宮の低地はほぼ内海として繋がっていた可能性があるのです。

すると、北の湊坂、南の美和台・和白を見下ろす給水塔(推定古墳跡)は両湾を行き来する船の往来、また港の状況を監視するには最適の場所であり、同時に軍事戦略上の要であったことが窺い知れるのです。

つまり、福岡北岸に集結した古代日本軍を打ち負かすのならば、絶対に攻略しなければならない要所でもあった訳です。

これら5つの要素に、「太宰府に残る占領の印」で解説した日本軍敗北による九州占領の可能性を加味することで、次のようなストーリーが組み立てられます。

“神功皇后の三韓征伐の時代に、安曇族など出雲系海洋族によってその強さを誇った九州北岸の船団は、7世紀の白村江の戦いに敗れた後、唐・新羅連合軍によって福岡周辺の要衝を占領された。

その記録として残されているのが現福岡市の「和白」という地名であり、また、太宰府政庁内に建てられた「都督府」の石碑である。

舞松原の古墳、そして湊坂の(推定)古墳は、倭国古代王の霊力が再び発現されることがないよう、渡来した大陸の呪術師によって厳重に封印され、それは現在においてもなお続いている。”
最後の呪いの部分について、実は、今回掲載を割愛した現代呪術の痕跡からも全く同じ内容が窺えるのです。

農薬や食品添加物など毒性物質の大幅規制緩和、無意味なワクチン接種等々、まるで日本人が日本人自身を追い詰めるような政策が、ここ最近矢継ぎ早に施行されています。

どうしてこんなことが起こるのか?西洋の大国・大資本にその責を問う以前に、もしかしたら日本という国は長い間被占領国であったのではないか?その厳しい現実を私たちはそろそろ受け入れなければならないかもしれません。


ニッポンの夜明けはにほんの没落
管理人 日月土


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