弥生の文字と田和山遺跡

いつもと違い、今回は時事ニュースから古代史に関するトピックを取り上げたいと思います。まずは元ネタになる報道記事を見てみましょう。

「正直、まさかと…」国内最古の文字?…実は「油性ペンの汚れ」だった
9/9(金) 19:56配信

1997年に島根県松江市の田和山遺跡で出土した、弥生時代中期の「すずり」とされる石。

表面に黒い線があり、日本最古の文字の可能性があるとされていましたが、松江市からの依頼を受けて、奈良県立橿原考古学研究所の所員などが分析した結果、「油性ペンの汚れ」だったとの結論が出たことが分かりました。
松江市埋蔵文化財調査課は、石自体は弥生時代中期の「すずり」であり、石の価値は変わらないとしています。

2020年に、国内最古の文字の可能性があると発表した福岡市埋蔵文化財センターの久住猛雄さんは、BSSの取材に対し次のように答えました。

福岡市埋蔵文化財センター 文化財主事 久住猛雄さん
「正直「まさか」と思いました。「風化でかすれたような文字」に見えたため、私を含めて実見した多くの専門家が「古い文字」と判断していました。
しかしながらこれは科学的検証であり、私からの直接反論は難しく、その分析結果が確定的となれば、この資料の「弥生時代の文字」説は撤回し、それを前提とする論も大きく修正する必要があります。しかしこれも学問の発展の上で仕方ないことでしょう。
ただし、このことをもって「板石硯」論は否定されません。
この石製品は、使用痕や形態、側面整形などから「板石硯」と考えていますし、「板石硯」登場以降(弥生時代中期以降)の「文字使用」の可能性は十分にあり、今後、弥生時代の文字資料が発見される可能性はあると考えています。
もう一つ重要なことは、どのような経緯で出土品にこのような「文字」状痕跡が生じたかについては、松江市による責任ある調査と検証が必要だろうとも考えています」

引用元:YAHOOニュース(BSS山陰放送) https://news.yahoo.co.jp/articles/e7516dce60d1ddf3da0eefb1cfd926708c313a05

このニュース、何が問題になっているかというと、田和山遺跡で発見された石の硯(すずり)に、日本最古と思われる文字使用の痕跡が残されていると期待されていたものの、科学分析の結果、それが油性ペンの汚れと判明したという点です。

画像1:島根県松江市内の田和山遺跡外観
引用元:文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/211960

同ニュースに掲載されていた硯の拡大写真は次の様になります。

画像2:問題の「すずり」拡大写真(引用元は上記報道と同じ)

上写真の〇で囲んだ部分が「文字」ではないかと思われた部分です。

田和山遺跡に関するサイト「田和山遺跡」では、ここに書かれた文字は「子戊」(ね・つちのえ)ではないかとしています。十二支十干を表す文字であり、古くから時や方位を表す漢字として使われていた文字ですから、このような古い遺物にその痕跡が残されていたとしてもそれほどおかしなことではありません。

画像3:堀氏による田和山文字についての考察
引用元:田和山文字から世界の文字の歴史まで http://tawayama.net/?page_id=2852

この硯は弥生時代中期、今から2100年ほど前の遺物と鑑定されてますから、同時代のものであればまさしく日本最古の文字と言ってよいでしょう。

実はこの報道には首を傾げる点が幾つかあります。

そもそも、文字云々が議論されていた遺物が硯(すずり)であり、それが文字を書くための道具であることは疑いようもないことなのですが、文字痕が油性ペンの跡であるとことさら強調する理由は何なのか?もちろん事実は事実として確認することは大事なことではありますが。

また、油性ペン跡だとして、どうしてそれが遺物に残されていたのか、その原因について報道では何も考察されていないのが気になります。もちろん鑑定と考察は別の作業ではありますが、油性ペン跡混在の理由まで追わないと、それは考古学調査における今後の問題点として残り続けると思われます。

これについて、私の歴史アドバイザーで、実際に発掘作業まで行うG氏は次の様に語ります。

 ・プロ発掘者なら遺物にペン跡が残るような取り扱いはしない
 ・一度研究機関に納めると、多くの場合再検証する機会が失われる

どういうことかと言うと、橿原考古学研究所など公的研究機関によって何らかの発表がなされると、それ以上の議論や再検証がストップしがちであるということ、すなわちそれが歴史的事実であるとして確定してしまうということへの危惧なのです。

科学的分析とは言いますが、近年非常に精度を高めてきた(誤差数10年程度)炭素14年代分析法によって、近畿地方よりも古くに作られた須恵器や瓦の遺物が九州で見つかっているにも拘わらず、この科学的結果については考古学会では未だに認められていません。

測定技術に問題あるという言うなら、今回の「科学的分析」についてもそれを直ちに確定事項と考えるのは早計だと思われます。そもそも、学問とは何か疑問があればいつでも再検討する自由と柔軟性を併せ持つべきものなのです。

この報道には測定方法や分析データが掲載されていないので何とも言えませんが、この報道を以て全てが確定したと考えてはいけない、それだけは言えると思います。

■田和山遺跡を巡る奇譚

G氏によると、田和山遺跡が現在のような史跡として残されるまでには複雑な経緯があったと言います。それは何かと言うと、この遺跡は松江市立病院の建設予定地として元々は取り壊される予定だったと言うのです。

ところが、ただの古墳があるだけの名も無き小山と思われていたものが、調査発掘により実は3重の環壕を巡らせた大遺跡であることが判明し、地元住民からも保存を求める声が高まったのです。

この声に対して、当時の松江市長であった宮岡寿雄氏は病院の建設を強行しようとしたのですが、2000年の5月、在職中に突然亡くなられています。

ネット上の書き込みなどによると、この時期に亡くなられたのは、市長の他に市議会議員が3人、そして地元の建設会社の関係者1名と計5名で、いずれも遺跡の完全撤去による病院建設を推進していた人達であると言われています。

画像4:田和山遺跡の現在と過去(1970年代)

この事実を地元がどう受け取ったのかは想像するしかありませんが、結果的に設計を変えて遺跡を残す形で病院建設が進められたのは画像4を見れば一目瞭然です。

もちろん、G氏など遺跡発掘関係者の間では、これが遺跡とその撤去計画にまつわる何らかの作用であると認識しています。というのも、発掘現場では、人型や鏡など古代祭事に関わる遺物を掘り当てた時、周囲の発掘関係者が全員熱を出して倒れたり、記録写真に見たこともないノイズ線が写り込むことがままあるということなのです。

「そんな非科学的なことを!」と思われるかもしれませんが、実は画像4の右の写真を見ても、病院を設計した建築士が遺跡の存在をたいへん気にしているのがよく分かります。

風水を学ばれた方ならお分かりになるかもしれませんが、この病院の不自然な湾曲形状は、明らかに南の山から降りて来る気の流れを受け止め、この地に溜め込むという発想の元に設計されています。

知り合いの風水師によれば、これは隣接する田和山遺跡と力負けしないように設計されているということなのですが、それについての見解は私の場合は目的の部分で少々異なります。古代呪術的にどう解釈できるのか、それについてはメルマガの方で説明したいと思います。

■田和山の田和とは何か

「大根」と書いた時、これを「だいこん」あるいは「おおね」と読む方が多いと思われます。実は「大根」と書いて「おおたわ」、つまり「根」を「たわ」と読む名字の方もいらっしゃるのです。どうやら「根」という漢字は、古くは「たわ」という音に宛てられていたようなのです。

万葉仮名とは漢字の方を語音に当てているものですから、表記のバリエーションは幾つも考えられ、「田和」も「根」と同じ「たわ」を指していると考えられるのです。

ここでは、「田和」を「根」と置き換えて考えます。「根」の字で最初に思い浮かべる古代の情景とは、日本書紀にも記述されている「根国(ねのくに)」、あるいは古事記の「根堅洲国(ねのかたすくに)」で、それは素戔嗚尊(すさのおのみことが)が高天原(たかあまはら)から追い出されて向かった国とされ、黄泉の国のことだとも言われています。

松江はまさに出雲国の中にありますから、ここで素戔嗚尊の日本神話と接点を持つことに違和感はありません。そうなると、この田和山遺跡は素戔嗚尊、あるいは素戔嗚尊が存命していた同時代の人物と関わるものであると第一に考えられるのです(※)

※もうご存知でしょうが、私は日本神話は実在した歴史を元に後世に書き直されたものであると考えています。

現地を実際に訪ねてないので確定的なことは言えませんが、Googleストリートビューで見る限り、遺跡の頂上にからの眺望は宍道湖やその先の日本海、松江市内、そして大山まで360度のぐるりを見渡せる、非常に良い立地であることが窺い知れます。

画像5:遺跡の頂上部には掘立柱の遺構があったらしい (写真提供G氏:2021年撮影)
画像6:市立病院側を見下ろす (写真提供G氏:2021年撮影)

このような立地は、宗教的斎場としての使用はもちろん、船による交通がメインであっただろう古代期には、見晴台や船舶のランドマークとして使用されていた可能性が非常に高いと考えられます。

そして、過去の調査事例から鑑みる限り、このような高台には、その国の象徴として

 当時の王墓が造られる

ケースが最も高いと考えられるのです。

あくまでも推測ではありますが、ならばその王とはいったい誰なのか、日本最古の文字の可能性も含め、田和山遺跡からはこれからも目が離せません。


ひたかみの神に会わむか田和山の頂
管理人 日月土


コメントする