欠史八代の天皇と皇后

これまで神代(神話の時代)とされていた頃の日本古代史上の人物について考察してきましたが、今回はそこから少し離れて、神代から人皇の時代へと移り変わった直後の記録について見て行きたいと思います。

記紀では、神武天皇が人の世の王として最初に現れた天皇とされていますが、神武天皇については一旦考察を保留し、その次ぎの2代目から9代天皇までについて、取り敢えず史書に残された記録を纏めてみることにします。

既にご存知の様に、2代目から9代目までの史書における記述は余りに少なく、その少なさ故に、

 欠史八代(けっしはちだい)

などと、「史実が欠けた八つの代の天皇」の意味で呼ばれていたりします。

この記録の少なさは、古代史研究者の間でも「その代の天皇は実在などしていなかったのでは?」と歴史の実在性への疑問を唱える声となっているようです。

それはそうでしょう、現在の歴史研究とは主に文献研究であり、その文献自体が存在しなければ、歴史学者にとってその時代は存在しないのも同然なのですから。

■史実が残されていない意味を考える

これまでの記事で、「史書類は改竄の書、暗号の書」と散々述べてきた手前、この史実欠落の理由についても一言私の考えを述べておかなくてはなりません。

神代の記述については、史実のファンタジー化・神話化により、都合の悪い史実を「まるっ」と改変しながら、事実を読み解く解読キーをこそっと文中に残す手法を取っていたと考えられます。そして、実際にその考え方を応用して神代の記録をこれまで読み解いてきたつもりです。

ところが、その史実そのものが記述されていない場合はどう解釈したら良いのでしょうか?おそらく、この時代は神代記のように「改変と暗号キー」でどうにか書き換えるのも叶わないほど、

 歴史的に大混乱した時代

だったと考えられるのです。つまり、時系列的に筋道を立てられるような改変が不可能な程、混乱に満ちた時代であったとも考えられるのです。

ですから、日本古代史、あるいは日本成立史を理解する上で、この欠史八代期の史実を知ることは非常に重要なのではないかと私は考えるのですが、如何せん記述が少ない件についてはどうにもなりません。そこで、今回はその僅かな記述を整理して、そこから何を読み取れるのか、あるいは読み取れないかを検証したいと思います。

■欠史八代の天皇と皇后

取り敢えず、日本書紀の記述には、娶った皇后の名前、生まれた子の名前、都(みやこ)が置かれた地名などが残されているので、まずは欠史代の天皇(すめらみこと)について、その皇后の名をリスト化してみました。

参考までに秀真伝(ほつまつたえ)に記述された皇后の名も添えています。

表1:欠史八代の天皇とその皇后(日本書紀・秀真伝)

皇后の名に注目したのは、これまでお伝えしてきたように、「日本の王権継承は女系によって行われてきた」という少女神仮説が成り立つであろうと考えたからです。

画像1の場合、赤枠で囲んだ二人の媛については「事代主の女(むすめ)・孫」と断り書きが付いており、この場合の「事代主」とは時代的に大国主の息子である事代主のことではなく、同事代主の孫に当たる「八重事代主(やえことしろぬし)」のことであろうと考えられます。

過去記事「三嶋神と少女神のまとめ」で述べたように、八重事代主は、史書によって「丹塗矢」、「大物主神」、そして「鵜葺草葺不合命(うがやふきあへず)」とその名が変えられており、いずれにせよ玉依姫(たまよりひめ)という少女神に婿入りしています。当然、その娘は少女神の継承者、すなわち王権の継承者であると考えられるのです。

またその娘の娘、すなわちその孫娘についても同じことが言えます。よって、書紀の記述にある「五十鈴依媛(いすずよりひめ)」と「渟名底仲媛(ぬなそこなかつひめ)」の両者についてはおそらく少女神であっただろうと判断できるのです。

さて、そこまでは良いのですが、4代目の懿德天皇以降はどうもその手掛かりが見つかりません。この後、日本書紀も秀真伝も男系継承として天皇の代が続いて行くのですが、それを覆すようなヒントは今のところ見つかっていないのです。

この欠史代期の考察については、これまで次の記事で取り上げています。

 1)ダリフラのプリンセスプリンセス 
 2)富士山は突然現れた? 
 3)菊池盆地の大遺跡と鉄 

1)はアニメ作品「ダーリン・イン・ザ・フランキス」に登場するナインズの8人のメンバーが欠史八代に対応していると仮定した場合の考察。

2)は旧事紀30巻本の孝霊天皇の代における富士山に関する異変についての考察。

3)は文中において特に欠史代に触れていないものの、第2代綏靖天皇が祭神とされている、熊本県菊池市の日置金凝神社(へきかなこりじんじゃ)を写真で紹介しています。

どれもまともな歴史資料とはちょっと言い難いのではありますが、少なくとも欠史代が存在していた痕跡を感じさせるものではあり、やはりこの代を全く無視して日本古代社会の成立過程は語れないのだろうと思わせるのです。

まだ漁るべき資料は幾つか残っています。少々尻切れトンボとなりましたが、次回、もしくはそれ以降の回で謎の欠史代について再び切り込んでみたいと思います。


フィオーレ(花)の森を登れば白壁の祈りの堂に君を見染めし
管理人 日月土


コメントする