公孫氏卑弥呼とは誰か

今回は、前回の記事「卑弥呼と邪馬台国の精密分析」の続きとなります。話を進めるに当たって、山形明郷著「卑弥呼は公孫氏」をベースに置いていることをお断りしておきます。

■「倭国」の再定義

前回述べた山形説による重要な結論とは

 古代倭国とは遼東半島以南の地域を指す

という点であり、すると、これまでの邪馬台国論争で語られてきた、畿内説vs九州説という論調が極めて怪しくなってくるのです。

なにせ「後漢書韓伝」に倭国は馬韓の南で接していたと明記されているのですから、ここで言う倭国とは朝鮮半島内、あるいは半島を含む以南の国を指しているとしか考えられません。

画像1:古代倭国の想像図

上の図は、現代の国境線による国土感覚で見れば、「倭国」という一つの大国があった様にも見えますが、実際には、それぞれの地域に独立国家のような小国家が点在し、緩やかな連合国家のような体をしていたのかもしれません。

遼東半島を支配していた古代朝鮮国家群や中国の駐留軍から見れば、朝鮮半島を含む南の地域は、日本列島を含めまとめて南の未開国、すなわち倭国という未開人の住むエリアとして一色旦に見られていた可能性があるのです。

その意味では、畿内説や九州説も完全に否定され得ないように見えますが、山形説によれば邪馬台国への行程分析からも、魏志倭人伝に記述される邪馬台国とは、朝鮮半島内にあったと考える方が妥当なのです。

■日本書紀と邪馬台国

次に年代関係を見てみましょう。古代期の年代特定は多くの研究者の努力によりある程度見通しが立ってきましたが、正確な年代となると、果たしてそれが正しいのかどうか、疑問の余地が残ります。

魏志倭人伝については、西暦200年代半ばの出来事とされていますが、ここで、岩波書店から出版された「日本史年表(第四版)」でこの時代がどのような時系列で記述されているかを見てみます。

岩波書店 日本史年表(第四版)

ここでは魏志倭人伝の記述を元に、西暦248年に卑弥呼は亡くなったことになっていますが、気になるのは西暦266年の記述です。

『「倭国の女王から使者が遣わされた」と晋書に書かれている』という何とも回りくどい記述なのですが、岩波文庫の注釈には、どうやら、日本書紀の編纂者は魏志倭人伝の卑弥呼を神功皇后(じんぐうこうごう)と同一視していたようだとの分析が書かれています。

日本書紀には漢籍からの引用と思われる箇所が各所に見られ、これが本当に日本正史なのか?と思わず首を傾げたくなることは多いのですが、ここではまず、日本書紀に該当箇所が具体的にどのように記述されているのかを見てみます。

六十六。年是年、晋の武帝の泰初(たいしょ)の二年なり。晋の起居(ききょ)の注に云はく、武帝の泰初の二年の十月に、倭の女王、訳(をさ)を重ねて貢献せしむといふ。

六十九年の夏四月の辛酉の朔丁丑に、皇太后、稚桜宮に崩りましぬ。時に年(みとし)一百歳(ももとせ)。

岩波文庫 日本書紀(二) 神功皇后

岩波文庫の解説によると、69年の神功皇后崩御に関する記述についても、晋書に書かれた「倭の女王」、すなわち卑弥呼と神功皇后が同一視されていたが故に、敢えて66年条より後に記述されたのだろうとしています。

それが事実かどうか知る由もありませんが、魏志倭人伝では248年に死去したことになっているのに、それより18年も後に晋に使者を送ったとするのは変な話です。詮索し出すと矛盾だらけなのではありますが、それでも

 卑弥呼と神功皇后は同時代の人物

とだけは言っても良いのではないかと考えられるのです。

神功皇后記には、他にも魏志倭人伝の「倭の女王」を模したと考えられる箇所が数か所ありますが、もしかしたら、これは単なる漢籍の引用・転載・借用などではなく、神功皇后と卑弥呼の関係性を示す、日本書紀編纂者からの重要サインなのかもしれません。

卑弥呼に関しては、魏志倭人伝以外に詳しい記述は少なく、それがその謎めいたキャラクター性を高めていますが、同じく謎めいた日本古代史上の女傑「神功皇后」の実体を分析することで、もしかしたら同時代人「卑弥呼」の正体が見えてくるかもしれません。

■倭国大乱と三韓征伐

神功皇后が出てきたところで、神功皇后の女傑としての大功績「三韓征伐」(さんかんせいばつ)について、Wikiの記述を読んでみます。

三韓征伐(さんかんせいばつ)は、仲哀天皇の后で応神天皇の母である神功皇后が、仲哀天皇の没後新羅に出兵し、朝鮮半島の広い地域(三韓)を服属下においたとする日本における伝承である。経緯は『古事記』『日本書紀』に記載されているが、朝鮮や中国の歴史書や碑文にも関連するかと思われる記事がある。

『日本書紀』では新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるためこの名で呼ばれるが、直接の戦闘が記されているのは対新羅戦だけなので新羅征伐と言う場合もある。『古事記』では新羅と百済の服属は語られているが、高句麗の反応は記されず、「三韓」の語も現れない。吉川弘文館の『国史大辞典』では、「新羅征討説話」という名称で項目となっている。ただし三韓とは馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那・加羅)・辰韓(後の新羅)を示し高句麗を含まない朝鮮半島南部のみの征服とも考えられる。

Wikipedia 三韓征伐 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%9F%93%E5%BE%81%E4%BC%90

最初の節で「倭国とは遼東半島の南の地域」と想定されるとしました。これにより卑弥呼と朝鮮半島との関係性がぐっと近くなったのですが、同時に魏志倭人伝に登場する「倭国大乱」を、

 朝鮮半島大乱

と記述することも可能になります。

前節では、卑弥呼と神功皇后の両者の同時代性について論評しましたが、この「三韓征伐」についても、Wikiの定義から「朝鮮半島出兵」と捉えて間違いありません。ここに

 倭国大乱(半島大乱) = 三韓征伐(半島征伐)

の同義性を見出すことができるのです。

どうやら、謎の女王「卑弥呼」とその国家「邪馬台国」は、朝鮮半島と日本列島を大きな一括りの「倭国」と再定義することによって、その歴史的真実が見えてきそうなのです。


桜なる 花咲く宮の裏手にぞ 君来るを待つ 紅の椿
管理人 日月土

卑弥呼と邪馬台国の精密分析

本歴史ブログでは、これまで「卑弥呼」なる女性については何度か触れてきたものの、古代史ファンが熱狂してやまない「卑弥呼・邪馬台国論争」には積極的に立ち入らないようにしてきました。

しかしながら、「少女神」という古代王権に関わる女性の役割がはっきりと見えてきた中で、話の展開上取り敢えず

 卑弥呼 = 媛蹈鞴五十鈴媛(タタラ姫+イスズ姫) = 神武天皇皇后

ということにしてきました。

ただし、この設定に関しては実は私もまだ釈然としない部分が残されており、いわゆる魏志倭人伝が伝えるところの西暦200年代中期の出来事に、神武天皇の后の話が登場するのはやはり時系列的に無理があるとも感じていたのです。

流石に皇紀が伝えるような紀元前660年ではないにしろ、神武天皇の即位は遅くても西暦100年よりは前だろうと考えられるからです。

ここは一旦、邪馬台国・卑弥呼について曖昧にしたままではなく、その出典たる魏志倭人伝について、精密に分析を掛ける必要があるだろうと考えたのです。

■異色の邪馬台国本

私も、邪馬台国論争がどういうものであるかは心得ていますし、どちらかというと畿内説より九州説の方が支持できるかなという極めて浅いレベルではその論争に身を置くこともできます。

しかし、邪馬台国の所在を巡る種々の議論に対し一斉に冷や水を浴びせる説があるのをご存知でしょうか?

画像1:山形明郷著「卑弥呼は公孫氏」1991
同PDF文書:http://grnba.jp/bbs_b/1-1himiko.pdf

ここから先は、上記PDFをお読みになって頂くのが早いのですが、10年以上前に同書に出会って以来、

 「倭人=日本人」と誰が決めた?

という疑問点については常々頭の片隅に入れていたのも間違いありません。そこで、同書の「倭人伝」から、その疑問に関する著者の強烈な皮肉について書き出してみました。

この『三国志』中の『魏書』の末尾に『烏丸鮮卑(うがんせんぴ)東夷伝第三十倭人之条(とういでんわじんのじょう)』という記録があり、これを我が国では、旧来、一般に「魏志倭人伝」と称し、この条文を以て、日本古代史の或時期のエピソードであったと看做(みな)し、我が国古代の歴史を語る上において欠かすことの出来ない重要文献の一つ、即ち「倭人伝= 日本古伝」と信じ込んでいる様である。

この様な固定観念を以て、倭人伝の語る内容を検討しているが、その実情は語呂合わせ的であり、かつ、附会曲解の一語に尽きる解釈足らざるを得ず、この種の研究がなされる様になって、既に3 世紀を費やしているといわれているが、未だに納得のゆく結論めいたものは出ず仕舞である。

山形明郷「卑弥呼は公孫氏」p12より

確かに、魏志倭人伝内に「伊都国(いとこく)」とあれば「糸島のことだ!」、「末羅国(まつらこく)」と来れば「松浦の事だ!」といったような、極めて短絡的な、それこそ語呂が少し合った程度で、それがあたかも確定事項のように、邪馬台国が日本国内に存在したかのような牽強付会な結論に導こうとする論調は多く見かけます。

確かに、この方法だと、自分にとって都合の良い解釈がいくらでも可能であり、その意味では私の掲げている説なども、同じ批判に晒される対象と成り得るでしょう。

■起点を定める

さて、その魏志倭人伝の書き出しはどうなっているのか、原文を見てみましょう。

倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國

「倭人は帯方東南、大海の中に在り。山島に依り国邑を為す。旧百余国。漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所は三十国なり。」

「倭人は帯方郡の東南、大海の中に在る。山がちの島に身を寄せて、国家機能を持つ集落を作っている。昔は百余国で、漢の時、朝見する者がいた。今、交流の可能な国は三十国である。」

引用元:https://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm

倭国の方位を指す最初の基準点として、古代中国の直轄県「帯方郡」(たいほうぐん)の名が記されているのが分かります。その帯方郡の存在位置についは一般的に、朝鮮半島の中西部に存在したとされています。

画像2:一般的な帯方郡の位置関係
「世界史の窓」さん(https://www.y-history.net/appendix/wh0203-099.html)から

しかし山形氏は、

 そもそも帯方郡が存在していた場所はどこなのか?

すなわち、いきなり倭国の位置探索を始める前に、そもそもどこを起点に倭国を巡ったのか、そこを問題としているのです。その為、同時代の中国古文献をほぼ余すことなく渉猟し、そこに記述されている国名や、河川名などを徹底的に絞り込んだ結果、楽浪郡・帯方郡、及び馬韓・弁韓・辰韓などの古朝鮮国家群の位置関係を次のように突き止めます。

画像3:山形氏による三韓所在略図

つまり、楽浪郡・帯方郡・古朝鮮国の一群は遼東半島の北方付近にあり、従来の古朝鮮国は朝鮮半島にあったという定説は誤りであるとしています。また、後漢書韓伝には

韓は三種あり。一は馬韓と曰ひ、二は辰韓と曰ひ、三は弁辰と曰ふ。馬韓は西に在り、五十四国あり。その北は楽浪と南は倭と接す。辰韓は東に在り、十有二国。その北は濊貊と接す。弁辰は辰韓の南に在り、また十有二国。その南はまた倭と接す。

とありますので、倭国とは画像3の馬韓南部、及び弁韓の南部と接する辺り、すなわち遼東半島南部沿岸から、始まることが分かるのです。

これに、魏志倭人伝の記述を当て嵌めると(「里」は海上では正確な距離を示さず、一昼夜程度の時間を百里見当としている)、結局、倭国とは

 遼東半島南部から朝鮮半島一帯を指す地域

であることが示されるのです。

即ち、日本列島内で「畿内だ、九州だ」と騒いでいる邪馬台国論争には実は何の意味もないと山形氏は看破しているのです。

■女王と公孫氏

この後、卑弥呼と遼東半島の有力氏族である公孫氏(こうそんし)との関係が述べられていますが、詳しくは同PDF文書を良くお読みになってください。

山形氏の指摘を受け入れると、私の卑弥呼=媛蹈鞴五十鈴媛説は見事に崩壊する訳なのですが、むしろ私はその方がスッキリするのです。

この二人は時代的には200年以上離れた存在であり、二人が別人とすれば、これで時系列問題がクリアされたことになります。そして、魏志倭人伝には卑弥呼登場の前に「倭国大乱」が短く表現されており、山形解釈によればそれは

 朝鮮大乱

と表現しても問題ないでしょう。

実は、媛蹈鞴五十鈴媛から200年位後の時代はちょうど、日本書紀にもある神功皇后による

 三韓征伐

が行われた当たりの時代と重なってきます。

ここで、魏志倭人伝における「卑弥呼」と日本書紀における「神功皇后」の距離がぐっと近づくこととなり、あらたな日本との関係性が浮上してくるのです。

この媛蹈鞴五十鈴媛から卑弥呼登場までの200年間は、日本古代史においても謎の多い欠史八代時代とも重なり、この謎の時代は、もしかしたら当時の朝鮮半島情勢を調べることで見えてくる可能性も出て来たのです。


百歳の時を繋げよ卑弥呼なる姫神
管理人 日月土