シタテルヒメと岩戸閉め

今月初め、長野県の戸隠高原に行ってきました。

長野の戸隠高原と言えば、美味しい信州蕎麦のお店が連なる観光避暑地としても知られていますが、何と言っても荘厳な

 戸隠神社

で有名なのは言わずもがなでしょう。

画像1:戸隠神社(奥社)公式ホームページより

その戸隠神社、奥社へと向かう上り坂の途中に置かれた、いくつかの神社で構成されているのは、現地を訪れた方ならよくご存知かもしれません。

同社の公式ホームページでは、火之御子社、九頭龍社、宝光社、中社、そして奥社の5社が紹介されています。

それぞれの御祭神は

 火之御子社:
  天鈿女命(あめのうずめのみこと)
  高皇産御霊命(たかみむすびのみこと)
  栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)
  天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)

 九頭龍社:
  九頭龍大神(くずりゅうのおおかみ)

 宝光社:
  天表春命(あめのうわはるのみこと)

 中社:
  天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)

 奥社:
  天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)

となっています。

栲幡千々姫命など、このブログで何度も話題にした上代の登場人物が神として祀られていますが、中でもこの神社で最も崇敬を集めている神様(おそらく実在した人物)とは、奥社に祀られた「天手力雄命」、そして中社の「天八意思兼命」だと思われます。

※簡単のため、以下この2柱の神名をそれぞれ「タチカラオ」、「オモヒカネ」と記述します。

さて、この2柱の神は当ブログでは初登場なのですが、記紀における日本神話では何と言ってもあの有名な

 天照大神(あまてらすおおかみ)の岩戸閉め

のシーンでの大活躍が知られています。

同社のホームページでは、それぞれ

天手力雄命:
 天照大神が天の岩屋にお隠れになった時、無双の神力をもって、
 天の岩戸を開き、天照大神をお導きになった神

天八意思兼命:
 素戔嗚尊の度重なる非行に天照大神が天岩戸にお隠れになった時、
 岩戸神楽(太々神楽)を創案し、岩戸を開くきっかけを作られた神

と紹介されています。

戸隠神社の「戸隠」とは、「戸に隠す」と読めますから、まさに神話の岩戸閉めに関わる神社であること、そして祀られている神様もこれら岩戸閉め神話に登場する神々であることに特段違和感は感じません。

■秀真伝に書かれたタチカラオの系図

以上はまさに日本神話中の有名なエピソードとして良く知られた話なのですが、それでは、神話ではなく実在人の史書として書かれた秀真伝(ほつまつたえ)では、この2柱の神(人物)はどのような関係として描かれているのでしょうか?

以下に、秀真伝研究家の池田満氏の解読による系図を掲載します。

画像2:秀真伝におけるタチカラオの系図

この系図を見ると、オモヒカネとタチカラオが父子関係であること、また「ウハハル」と記されているタチカラオの兄弟が、おそらく天表春命を指すであろうと予想され、戸隠神社の祭神となった男性たちがここで勢揃いすることになるのですが、秀真伝の系図で一番困るのが

 アマテラス(アマテルカミ・天照)は男性である

点で、ここで早くも記紀の記述と齟齬が生じるのです。

また、記紀では天照(女性)・月読(性別不明)・素戔嗚(男性)のいわゆる3貴子が姉弟の関係であることは良く知られていますが、秀真伝ではそれが単純に兄弟に置き換わっただけでなく、女性の

 シタテルヒメ(ワカヒメ・下照姫)

が兄妹の一人として加わっていることなのです。

これはいったいどういうことなのか?以前からお伝えしている様に、記紀は史実に大きく手が加えられている痕跡があり、また記紀よりも古いとされている秀真伝でさえも、どこまで正確に史実を伝えているのかは甚だ疑問なのです。

しかし、各史書の記述の差異を比較検討することで、実はその改竄意図やオリジナルの史実が読み取れることは、これまでお伝えしてきた通りなのです。

女性に変えられたアマテラス、そして記紀には登場しないアマテラスの妹「シタテルヒメ」、どうやら、このシタテルヒメの存在について深く掘り下げることで、ファンタジーに見られがちな「岩戸閉め神話」の史実的な実態が見えて来るのではないかと私は考えるのです。

なお、シタテルヒメは記紀では岩戸閉め神話とは全く異なるシーンで出て来る女神です。それについては、参考として次のWikiの解説が参考になるでしょう。

 『古事記』および『日本書紀』正伝によれば、葦原中国平定のために高天原から遣わされた天若日子が、大国主神に取り入ってあわよくば葦原中国を自分のものにしようと目論み、その娘である高比売命と結婚した。

 天若日子が高天原からの返し矢に当たって死んだとき、高比売命の泣く声が天(『古事記』では高天原)まで届き、その声を聞いた天若日子の父の天津国玉神や天若日子の妻子らは葦原中国に降臨し、天若日子の喪屋を建て殯を行った。

 そこに阿遅鉏高日子根神が訪れたが、その姿が天若日子にそっくりであったため、天津国玉神や妻子らは天若日子が生き返ったと喜んだ。

 阿遅鉏高日子根神は穢わしい死人と間違えられたことに怒り、喪屋を大量で斬り倒し、蹴り飛ばして去って行った。高比売命は、阿遅鉏高日子根神の名を明かす歌を詠んだ。

Wiki「シタテルヒメ」から

以前から当ブログを読まれている読者さんならご存知の様に、これまで行ってきた史書の比較やアニメ映画「もののけ姫」の分析などから

 天若日子=阿遅鉏高日子根=猿田彦=火明(ほのあかり)

であることが分かっており、その火明は第10代アマカミとして、正式な王朝継承者であると秀真伝では記述されているのです。

その火明の妻であったり妹であったりと、史書毎に記述に揺れが見られるのがシタテルヒメであり、シタテルヒメの分析は「岩戸閉め」神話の謎だけでなく

 記紀から削除された火明王朝

の謎を追う意味でも非常に重要なテーマになるであろうと私は睨んでいるのです。

八方の戸に隠されし白き姫飯綱の山より今ぞ出でけり
管理人 日月土

橘氏と佐賀

今回も5月31日の記事「もう一つの鹿島」(1)、前回7月14日の記事「鹿島と木嶋と方舟と」(2)に関連して、佐賀県の杵島(きしま)に調査に出向いた時の調査についてお伝えします。

■潮見神社の祭神と橘氏

記事(*1)では、現在の佐賀県武雄市の潮見神社(しおみじんじゃ)付近にあったと思われる自然の入り江が、古代期において朝鮮半島との重要な交易拠点の一つではなかったのかとの推察を簡単にお知らせしました。

画像1:潮見神社

その潮見神社なのですが、同神社の祭神を見ると少し気になる名前が記載されているのです。

同神社には、上宮・中宮・下宮の3宮が祀られているのですが、同神社宮司さんのブログには、それぞれの宮の祭神について次の様に書かれています。

上宮(じょうぐう) 
 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)  
 伊弉冉尊(いざなみのみこと)
 橘諸兄公(たちばなのもろえこう)

中宮(ちゅうぐう)
 神宮皇后(じんぐうこうごう)
 応神天皇(おうじんてんのう)
 武内宿禰公(たけうちのすくねこう)
 橘奈良麿公(たちばなのならまろこう)
 橘公業公(たちばなのきんなりこう)

下宮(げぐう)
 渋江宮(しぶえぐう):橘朝臣渋江公村公(たちばなのあそんしぶえきんむらこう) 
 中村宮(なかむらぐう):橘朝臣中村公光公(たちばなのあそんなかむらきみみつこう)
 牛島宮(うしじまぐう):橘朝臣牛島公茂公(たちばなのあそんうしじまきみしげこう)
 ※苗字が渋江、中村、牛島の方のルーツはここから始まっています

潮見神社公式ブログ https://ameblo.jp/shiomijinja/entry-12623206196.html

伊弉諾尊・伊弉冉尊は日本神話に登場する代表的な神様の名前ですし、神功皇后・応神天皇・武内宿禰公も、記紀の上古代期に登場するとりわけ重要な登場人物であり、特に九州では同名を祭神とする神社はよく見かけるものです。

ところが、橘諸兄公・橘奈良麿公・橘朝臣(渋江、中村、牛島)公など、いわゆる「橘氏」の重鎮の名前が、神名や天皇の名前と同列に並べられているのには、他の神社には見られない際立った特徴を感じます。

おそらく、この神社の大元の由緒は「橘氏」の出自に関係あると考えられ、その他の神名などは、後に形式的に揃えられたものでないかと推測されるのです。

何を隠そう、潮見神社の住居表示は

 佐賀県武雄市町大字永島

とありますから、この土地自体が「橘」(たちばな)と呼ばれていたことは大いに注目するべき点です。

ここで、伊弉諾・伊弉冉と同列に並べられた「橘諸兄」について、Wikiでは次の様に記述されています。

橘諸兄(たちばなのもろえ)は、奈良時代の皇族・公卿。初名は葛城王(葛木王で、臣籍降下して橘宿禰のち橘朝臣姓となる。敏達天皇の後裔で、大宰帥・美努王の子。母は橘三千代で、光明子(光明皇后)は異父妹にあたる。官位は正一位・左大臣。井手左大臣または西院大臣と号する。初代橘氏長者。

経歴

和銅3年(710年)無位から従五位下に直叙され、翌和銅4年(711年)馬寮監に任ぜられる。元正朝では、霊亀3年(717年)従五位上、養老5年(721年)正五位下、養老7年(723年)正五位上と順調に昇進する。

神亀元年(724年)聖武天皇の即位後間もなく従四位下に叙せられる。神亀6年(729年)長屋王の変後に行われた3月の叙位にて正四位下に叙せられると、同年9月に左大弁に任ぜられ、天平3年(731年)諸官人の推挙により藤原宇合・麻呂兄弟や多治比県守らとともに参議に任ぜられ公卿に列す。天平4年(732年)従三位。天平8年(736年)弟の佐為王と共に母・橘三千代の氏姓である橘宿禰姓を継ぐことを願い許可され、以後は橘諸兄と名乗る。
(以下略)

Wiki https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E8%AB%B8%E5%85%84

時代的にはいわゆる奈良時代、官吏として宮中における重職を務めた人物で、在職中に藤原氏の政治的台頭や、それに対する反乱等に巻き込まれた人物として紹介されています。

墓所とされているのは、奈良との県境に近い京都府綴喜郡井手町南開で、JR奈良線の玉水駅から東に向かった辺りとなります。

画像2:京都府井手町の橘諸兄公墓 (Google)

以上、文献から見れば、橘諸兄は奈良時代の都人となるのですが、それがどうして九州の佐賀で祭神に祭り上げられているのか?少々不思議な気分に陥ってしまうのです。

■葛城王は伽耶人か?

ここで、歴史アドバイザーのG氏に再びご登場いただくのですが、G氏は橘諸兄について次の様に説明します。

歴史研究家鹿島昇さんの説によると、橘諸兄の元の名は「葛城王」(かつらぎおう)であり、この「葛城」の名を与えられるのは、朝鮮半島の金官伽耶(きんかんかや)出身家系の人物に限られるそうなのです。

この時代、日本書紀などの記述からも分かるように、半島の百済や新羅の王族・貴族が国内紛争などの理由で波状的に日本列島に渡ってきた歴史が読み取れるのですが、橘諸兄は太政官を務めるなど朝廷政治の中心にいた人物であり、すなわち、古代後期の朝廷政治は宮中に取り込まれた半島系のエリート官僚によって治められていたであろうと想像されるのです。

確かに、それは橘諸兄の時に始まった事でもなく、それ以前から半島系渡来人が朝廷内に入り、彼らによって古代日本の政治が行われたり、あるいは政権交代を余儀なくされたのは間違いないでしょう。

もちろん、国史としてそのまま書き残すこともできないでしょうから、貴人の血筋として重職に登用されたと後世の歴史家によって改竄されたことは大いに考えられることなのです。

何よりもG氏の「橘諸兄=葛城王=金官伽耶」説の納得行く点は、潮見神社のある杵島が、半島交易の重要拠点であったと考えられる点であり、橘氏が伽耶系出身の大物家系であるならば、その権益を保全する意味でも、杵島に出張ってその存在を主張したとしても不思議はないのです。

ただ分からないのが、

 それがどうして九州なのか?

なのです。道の整備も交通手段もおぼつかない古代後期、果たして奈良・京都の都人が遠く離れた九州の港湾管理など、果たして現実にできるものなのでしょうか?

そして、橘諸兄の息子であり、朝廷に対して反乱を起こしたとされる橘奈良麿の墓が、何故か杵島にあることなのです。

画像3:杵島にある橘奈良麿公墓の案内板(Google)
「奈良」麿という名前も気に掛かる
画像4:この距離をどう統治していたのか?


千年の時は短しわが友の語りし金官伽耶の人々
管理人 日月土

鹿島と木嶋と方舟と

先々月5月31日の記事「もう一つの鹿島」では、この春に調査に向かった、佐賀県の杵島(きしま)についての考察をレポートさせて頂きました。

そこでは、古代の海運事情と朝鮮半島との繋がり、また、現在でも残る地名から、日本神話の登場人物(あるいは神)との関係性について考察し、またその中の「鹿」の文字から、古代ユダヤとの関連性も考えられるのではないかとの推察を述べています。

今回は鹿島、もとい杵島について、もう少し深いお話をお伝えさせていただきます。

■シュメール語による「きしま」の分析

前回もお伝えしたように、この調査では私にとって歴史の先生役でもあるG氏に同行して頂いたのですが、最近またG氏に会ってお話を聞く機会を得たので、その時聞いた内容をできるだけそのままお伝えできればと思います。

画像1:地図上の杵島
画像2:潮見神社側から見た杵島

前回お伝えしたように、潮見神社のある辺りの平地は、古代期には半島交易の重要な船溜まりとして機能していただろうと考えられ、その向かいにある300メートル程度の低い山が連なる杵島も、有明海側を見渡す見張り台として大変都合が良い場所であったはずです。

海運を生業としている古代人にとっては、杵島は現実的な要所であったと同時に、人々の生活を支える有難い山、いわば神が宿る聖なる山であったのかもしれません。

そんな古代人の信仰の表れが「杵島」(きしま)という地名から読み取れるとG氏は語るのです。

古代言語研究家の川崎真治さんの著書などから推察すると、「キシマ」という言葉は、どうやらシュメール語の「ギシュ・マァ・グル・グル」から来ているようなのです。

「ギシュ」は文字通りの「木」(wood)の意味、「マァ」は「船」(ship)、「グル・グル」船の「回遊する様」(wandering)を意味しており、直訳すれば、「彷徨う木の船」となりますが、どうやらこの「彷徨う木の船」とは

 方舟(はこぶね、または箱舟)

を指しているようなのです。後に、「グル・グル」の部分が脱落して「ギシュ・マァ」だけが残り、時間とともに日本語的に平易な響きの「きしま」に変化していったようなのです。

※初回投稿から一部修正があります

この話を聞いた時、当然ながら私は聖書の創世記に記された「ノアの箱舟」を思い出したのは言うまでもありません。

前回の記事の最後部で、(「鹿」など周囲の地名から)古代ユダヤとの繋がりが感じられる旨の感想を述べましたが、G氏のこの話はまさに直球で、旧約聖書における重要トピックとの繋がりを示唆するものだったのです。

これだけでも、大いに興味が湧いてくるのですが、G氏は次の様に話を続けます。

 あられふる きしみがたけを さがしみと くさとりはなち いもがてをとる

これは万葉集の巻3-385番の和歌ですが、これの漢字読み下しは

 あられふる 吉志美が岳を 険しみと 草取りはなち 妹が手を取る

となります。現代語訳は

 あられの降る吉志美の山が険しいので、草を取りそこねて妹の手を取ることだ

となり、一般的には吉野(奈良県)の男性が、姫に与えた歌と伝えられていますが、そもそも「きしみが岳」とはどこを指すのでしょう?またいったいこの歌にはどのような意味が込められているのでしょうか?

私は、吉志美(きしみ)とは杵島(きしま)ではないかと考えるのです。

「あられふる」は「霰降る」で、その後に出て来る「山」にかかる枕詞なのですが、そもそも「霰降る」とは文字通り以外に何を意味するのでしょうか?

これを聖書の箱舟伝説に関わる用語と捉えると、その意味が自ずと見えてくるのです。

聖書では、大洪水でこの世の陸地が水没した中、150日以上も漂流し続けたノアの箱舟は最終的に

  アララト山に漂着

することになるのです。

水は地上からひいて行った。百五十日の後には水が減って、第七の月の十七日に箱舟はアララト山の上に止まった。水はますます減って第十の月になり、第十の月の一日には山々の頂が現れた。

新共同訳聖書 創世記第8章3-5節
画像3:アララト山上の箱舟(想像図)

「箱舟」と「山」の関係はまさに聖書のままなのですが、では「あられふる」とは何なのか?G氏は次の様に推測します。

「あられふる」とは元々「アララト」であったのが、後に変容した言葉だと考えられるのです。

これには私も驚きました、もしもそうであるならば、「あられふるきしみがたけ」とは「あられふる」(アララト)の「きしみ」(箱舟)が漂着した「たけ」(山)と、聖書の記述とピッタリ一致するのです。

これはいったいどういうことなのか、G氏の説明は続きます。

■全国に見られる箱舟信仰

この和歌に出て来る「きしみ」が必ずしも佐賀の杵島を指しているとは言いませんが、おそらくこのような箱舟信仰は日本中にあったと考えられます。

それを象徴するのが、まさに「貴船神社」(きふねじんじゃ)です。「貴船」は「木船」と表記することもあり、やはり箱舟を指していると見るのが妥当なのです。

京都北部の貴船神社が有名ですが、どうしてあんな山深いところに「船」なんだろうと思ったことはありませんか?

しかし、これがノアの洪水伝説に従うなら、むしろ山間にある方が状況としては正しいのです。

同じく京都には蚕ノ社(かいこのやしろ)と呼ばれる「木嶋坐天照御魂神社」(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)がありますが、まさにこれも文字通り「きしま」なんです。

ここを訪れる方は、有名な3本鳥居ばかり注目していますが、この神社の北側に「雙ヶ岡」(ふたがおか)と呼ばれる小山があるのはあまりご存知無いようです。この小山とセットで本来の箱舟信仰は成立しているのですよ。

このお話を聞いた後、さっそくGoogleアースでこの2つの神社を調べてみました。その図が以下になります。

画像4:貴船神社と京都北部の山々
画像5:蚕ノ社と雙ヶ岡

これは非常に驚くべき視点です。古代ユダヤと日本の関係を探していたら、いきなり創世記の洪水・箱舟伝説と古代日本の信仰形態がリンクしてくるのですから。

そうなると、シュメール文明まで遡らないと、ユダヤとの日本の本当の文明起源を俯瞰できないということも示しており、今からそこまで掘り下げないといけないとなると、何やら頭がくらくらしてくるのです。

最後に、「あられふる」の枕詞を用いた和歌を一首紹介しましょう

 霰(あられ)降り鹿島の神を祈りつつ
  皇御軍(すめらみくさ)にわれは来にしを

万葉集の防人の歌であるこの歌には、次の様な解説が付けられています。

「霰降り」は、空から降るあられが地面を打ち付ける音がやかましい(=かしましい)ことから「鹿島」の枕詞(まくらことば)となっている。

産経新聞 https://www.sankei.com/article/20190501-QRPGUNC7UBJVHC7DA4GMTSWHSI/

以上はあくまでも現代日本語的な解釈であると考えられます。「鹿島」(かしま)が「杵島」(きしま)の言語的変化であることは既に述べていますので、おそらくこの歌の上の句の真意は

 箱舟の降り立ったアララト

を意味していると考えられ、歌全体の意味も

「大洪水から我らを守った神に祈りを捧げ、私は出征する」と解した方が、はるかにシンプルにその意味が伝わって来るのです。

そして、「鹿」はユダヤ十二支族「ナフタリ」族の象徴であることも、ここで改めて強調しておきましょう。


管理人 日月土

消えた火明の考察

前回の記事「八咫烏の兄弟」では、記紀や先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)の記述から、八咫烏(やたがらす)とも称される上代天皇彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)には、伝承によって出生順や兄弟の人数(2~4人)、名前の表記に揺らぎがみられるもの、概ね次の3兄弟が居たらしいことが読み取れました。

 ・火闌降命(ほのすそりのみこと)
 ・彦火火出見尊
 ・火明命(ほのあかりのみこと)

そして、この3兄弟誕生の説話の続きには、日本神話でも有名な「海彦・山彦」の物語が続くのです。

ここで、海彦が火闌降命、山彦が彦火火出見尊に該当するのですが、ここでは山彦が龍宮城へ向かった経緯から豊玉姫との出会い、兄弟同士の抗争へと比較的長い記述が続くにも拘わらず、何故か3兄弟の1人、火明命はこの話の中には全く登場しないのです。

 火明命はどこに消えてしまったのか?

その点を問題定義した上で、火明命とはかつてこのブログで指摘した、猿田彦(さるたひこ)あるいは味耜高彦根(あぢすきたかひこね)と呼ばれる人物と同一人物であるという結論を思い出しました。

それでは、彦火火出見と共に出生した火明命とは猿田彦であったのか、同時に、どうして海彦・山彦神話から名前が消されてしまったのか、その点について考察してみたいと思います。

■古代2王朝時代

秀真伝(ほつまつたえ)には、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を王とする王朝と、火明命を王とする王朝の2つの王朝が併存していたとの記述が残されています。

そして、本ブログの結論として、その火明が猿田彦あるいは味耜高彦根、あるいは天稚彦(あめわかひこ)の別名であると導いています。この導入については過去の記事を参考にしてください。

ここで改めて、秀真伝から彦火火出見の前後の代の系図を抜き出してみましょう。

画像1:彦火火出見と2王朝時代の関係(秀真伝)
「代」は神武天皇以前の古代皇統(アマカミ)の王統を表す

この時代は、本来は少女神解釈による女系継承による系図に変換する必要があるのですが、ここでは、秀真伝の記述のままとします。純粋な血統ではなく、王の世代順を表していると見てください。

注目すべきは火明命と饒速日命との関係で、秀真伝では饒速日命は養子として火明命王の跡継ぎに迎えられたことになっていますが、誰の子であるかは不明です。

王の継承者となるべき人物ですから、それなりの血筋は保証されていると考えると、図中に赤い点線で示したように、瓊瓊杵尊の子である可能性が高いでしょう。

実はこれまでにも、このブログでは饒速日命が瓊瓊杵尊とその母である栲幡千千姫命(たくはたちぢひめ)の間に生まれた子ではないかと予想しています。そうなると母子婚の子のように見えますが、女系継承が一般的なこの時代ですから、瓊瓊杵尊が必ずしも栲幡千千姫命の血の繋がった息子であったとは言えないでしょう。

ただし、前王の王妃を孕ませてしまったことから、その高貴な血筋の子である饒速日命は、当時もう一つ存在していた火明命の王朝に養子に出されてしまったことは十分に考えられるのです。

饒速日を瓊瓊杵尊の子と考えると、ここでも記紀の記述で言う所の3王子、あるいは3兄弟の存在と辻褄が合ってきます。

その対応関係は、おそらく

 ・火闌降命   → アメノカミ
 ・彦火火出見尊 → ホオデミ
 ・火明命    → ニギハヤヒ

となりますが、闌降命がアメノカミのことを表すかどうかは、正直なところはっきりとしません。しかし、火明命がニギハヤヒを指すのはほぼ間違いないでしょう。なぜなら、ここでいう火明とは

 王朝名、あるいは世襲名を表している

と考えられるからです。

そうなると、火明王朝に養子に出された饒速日命(2代目火明命)が、海彦・山彦という2人の兄弟の争いに加わらなかった理由も何となく見えてきます。

すると、ここで問題になってくるのは、

 ・火明王朝(饒速日王朝)はどこに消えてしまったのか?
 ・そもそもどうして2王朝時代は始まったのか?
 ・火闌降命は兄弟抗争に敗れた後どうなってしまったのか?

の3点なのですが、ここに初代神武天皇が誕生するに至った、隠された古代史があるのではないかと私は考えるのです。つまり、現天皇家がどのように誕生したのか、その経緯を表していると言ってよいでしょう。

特に秀真伝で言うアメノカミ(火闌降命?)が彦火火出見直系の子ウガヤフキアワセズの母であり同時にその王妃でもある玉依姫と婚姻関係を結んでいたとする記述が非常に気にかかるのです。

これはいったいどういうことなのでしょうか?

画像2:千と千尋の神隠しから千尋とハク
アニメ評論界隈では兄妹説が一般的だが、古代史解釈的には千尋のモデルが栲幡千千姫命、ハクのモデルが饒速日命なのは明らかなので、古代王朝における母子関係を表していると考えられる。


三重津浜雲追い追いて訪ぬれば、あれ出でませし白き龍神
管理人 日月土

八咫烏の兄弟

前々回の記事「神武天皇と三嶋神」では、三嶋神から神武天皇へとどのように血筋が繋がるのか、伊豆半島の伊古奈姫神社に残る伝承、そして三宅島に残る三島八王子の伝承から実際の有様がどうであったのかを推測してみました。

その結果が以下の系図です。

画像1:三嶋神を巡る姻戚関係(人名付)

上図で「三嶋神」の隣に添えてある、彦火火出見(ひこほほでみ)、賀茂建角身(かものたけつぬみ)、八咫烏(やたがらす)は伝承毎に呼び名が異なりますが、いずれも同じ三嶋神を表す別称であると、これまでの考察から結論付けています。

この中で、彦火火出見については、日本書紀・古事記において正当な皇孫(すめみま)の継承者としてその名が記載されており、三嶋神について調べるには、記紀神話の中で彦火火出見がどのように描かれているかを詳細に見ていく必要があると考えられます。

そこでまずは、日本書紀が彦火火出見をどの様に記述しているのかを改めて見ることにします。

■彦火火出見の誕生とその兄弟

彦火火出見がどのように誕生したのか、その一節をまずは日本書紀の本文から引用してみます。

皇孫(すめみま)因りて幸(め)す。即ち一夜にして有娠(はら)みぬ.皇孫、未信之(いつはりならむとおもほ)して日(のたま)はく、

「復天神(またあまつかみ)と雖(いふと)も、何(いかに)ぞ能(よ)く一夜の間に、人をして有娠(はら)ませむや。汝が所懐(はら)めるは、必ず我が子に非じ」

とのたまふ。故(かれ)、鹿葦津姫(かしつひめ)、忿(いか)り恨みまつりて、乃(すなは)ち無戸室(うつむろ)を作りて、其の内(なか)に入り居(こも)りて、誓ひて日(い)はく、

「妾(やつこ)が所娠(はら)める、若し天孫の胤(みこ)に非ずは、必当(かなら)ず[ヤ]け滅びてむ。如(も)し実(まこと)に天孫の胤ならば、火も害(そこな)ふこと能(あた)はじ」

といふ。

即ち火を放(つ)けて室を焼く。始めて起る烟の末より生り出づる児を、火闌降命(ほのすそりのみこと)と号く。[是(これ)隼人等(はやひとら)が始祖(はじめのおや)なり。火闌降、此をば褒能須素里(ほのすそり)と云ふ。]

次に熱(ほとぼり)を避(さ)りて居(ま)しますときに、生(な)り出づる児(みこ)を、彦火火出見尊と号(なづ)く。

次に生り出づる児を、火明命(ほのあかりのみこと)と号く。是(これ)尾張連等(をはりのむらじら)が始祖なり。全て三子(みはしらのみこ)ます。

※[ヤ]はフォントが見つからず読み仮名で代用

岩波新書 日本書紀(一)神代下

鹿葦津姫とは木花開耶姫(このはなのさくやひめ)の別称で、夫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)がたった一夜の契りにして懐妊したのを疑い、「私の子ではないのだろう」と言ったことに怒り、産屋に火を放ってお産をするという、何とも壮絶な状況が描かれています。

皇孫である夫の子なら決して火で焼かれることはないと、まさに身を挺しての自己証明だったのですが、そこで生まれたのが

 第一子 火闌降命(ほのすそりのみこと)
 第ニ子 彦火火出見尊
 第三子 火明命(ほのあかりのみこと)

の3人の子だったのです。

もちろん、この話自体が丸ごと荒唐無稽なのですが、ここで気になるのが、彦火火出見にはほぼ同時に生まれた兄と弟がいること、そして3人とも火の中で生れ、その名に「火」の字が与えられている点なのです。

この話が何かしらの史実を比喩的に表現したものであろうことはほぼ間違いなく、実際の血縁関係はともかく、この3人が兄弟として並べられたその理由、ここで象徴される「火」の字の意味を探ることが、三嶋神(彦火火出見)の出自を理解する上で重要なサインであると考えられます。

上記の引用は日本書紀本文からなのですが、これに付随する一書(あるふみ)には、これとは若干異なる彦火火出見誕生譚も併記されています。確認の為、出生順とその名前については、各一書毎に次の様になります。

ある一書(1)

 第一子 火酢芹命(ほのすせりのみこと)
 第ニ子 火明命
 第三子 彦火火出見尊 又の名を 火折尊(ほのをりのみこと)

別の一書(2)

 第一子 火明命
 第ニ子 火進命(ほのすすみのみこと)
 第三子 火折尊
 第四子 彦火火出見尊

別の一書(3)

 第一子 火酢芹命
 第ニ子 火折尊 又の名を 彦火火出見尊

別の一書(4)

 第一子 火明命
 第ニ子 火夜織命(ほのよりのみこと)
 第三子 彦火火出見尊 又の名を 火折尊(ほのをりのみこと)

別の一書(5)

 第一子 火酢芹命
 第ニ子 彦火火出見尊

ちなみに、古事記の方を見て見ると次の様になっています。

 第一子 火照命(ほでりのみこと)
 第ニ子 火須勢理命(ほすせりのみこと)
 第三子 火遠理命(ほをりのみこと) 又の名を 
      天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)

ここで更に「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)ではどう書かれているのかを加えます。これは日本書紀の一書(2)と同じなのが分ります。、

 第一子 火明命
 第ニ子 火進命
 第三子 火折尊
 第四子 彦火火出見尊

以上を眺めると、まずはっきりしている点に彦火火出見の名は全ての書において共通して見られること、そしていずれも長子でないことが挙げられます。

また、表現に揺らぎはありますが、火闌降/火酢芹/火須勢理/火進はおそらく同じ「ホノスセリ/ホスセリ」を指しているのだろうと考えられます。

火折/火遠理(ホノヲリ/ホオリ)については、彦火火出見を表す別称、あるいは全く別人なのかはっきりしませんが、この命名の意味が理解できれば、どちらが正しいのか見えてくるでしょう。ここでは彦火火出見の別称として扱います。

よく分からないのが、火照命と火夜織命なのですが、全体の出現パターンから見て、前者が火明命、後者が火酢芹命を指すのではないかと予想されます。

以上をまとめると、書紀本文の記述に有るように、火闌降・彦火火出見(火折)・火明の3人が、火の中で誕生するというこの極めて比喩的表現で描かれた登場人物ということになるのです。

「火」を縁に生まれたこの3兄弟なのですが、後に続く物語は少し奇妙な展開を見せてくるのです。

■消えてしまった火明命

子供の時に「海彦・山彦」という日本神話を聞いたことがある方は多いと思いますが、日本書紀でこの後に続くのはまさにその話なのです。

兄火闌降命、自(おの)づからに海幸(うみさち) [幸、此をば左知と云ふ。] 有(ま)します。弟彦火火出見尊、自(おの)づからに山幸(やまさち)有(ま)します。始め兄弟二人(あにおとふたはしら)、相謂(かたら)ひて日(のたま)はく、「試(こころみ)に易幸(さちがへ)せむ」とのたまひて、遂(つひ)に相易(あひか)ふ。各(おのおの)其(そ)の利(さち)を得ず。

岩波新書 日本書紀(一)神代下

海で漁をする兄の海幸(海彦:火闌降命)、そして山で狩りをする弟の山幸(山彦:彦火火出見)が互いに仕事道具を交換し、それぞれいつもとは異なるフィールドで仕事をするも、互いに成果は出ない・・・・

ご存知の様に、山彦は兄海彦の釣り針を失くしてしまい、兄に責め立てられて落胆しているところに1人の翁が現れ、龍宮城に行き豊玉姫を見初めて帰還するというあの神話の冒頭部分です。

ここで妙なことに気付きます。前段の話では3兄弟であったはずなのに、この海彦・山彦神話の段では、何故か兄と弟の2人だけの関係に終始しているのです。

ここで消えてしまった兄弟の名は

 火明

なのですが、この名前、実は本ブログでも日本神話において非常に重要な位置を占める人物の別名であることを既にお知らせしています。

それは、秀真伝において瓊瓊杵尊と共に並立王朝を築いたとされる

 猿田彦

の別名なのです。

画像2:失われたホノアカリ王朝とその変名
関連記事:猿と卑しめられた皇統

これはいったいどういうことなのか?どうやら三嶋神(彦火火出見)誕生の背後には、猿田彦、あるいはその別称の味耜高彦根(あぢすきたかひこね)が深く関係しているようなのです。


九十九浜 渡りて向かう玉前の姫
管理人 日月土

もう一つの鹿島

ここしばらくは、三嶋神を巡る神話解釈に時間を割いてきましたが、先日、九州は佐賀県へと歴史調査に向かったので、今回はその時の様子をお伝えしたいと思います。

短い日程だったので多くを訪れることは叶いませんでしたが、それでも、何もない、人々に忘れらたと歌にまで歌われる佐賀が、実は古代史的にたいへんに重要な場所であることを再認識する調査となりました。

もちろん、佐賀県神埼町の「吉野ヶ里遺跡」は歴史マニアの間ではあまりにも有名なのですが、今回訪れた場所はそこではありません。歴史分野における私のアドバイザーG氏の案内で、武雄(たけお)、白石(しろいし)という、現在では温泉と玉ねぎ生産で有名な土地へと出かけてきたのです。

■朝鮮半島出征の重要ポイント

古代史における、九州北部と朝鮮半島の密接な関係は言うに及びませんが、多くの方は半島への寄港地として、玄界灘沿岸の松浦・唐津・糸島・福岡(博多)・福津などの港湾集落を思い浮かべるかと思います。

もちろんそれはその通りなのですが、実は半島への重要出征ポイントが、有明海側にも存在していたことを忘れてはいけません。

これについては、次の地図が参考になるでしょう。古代の地理的事情を考える時には、現在よりも数メール海面が高かった、いわゆる海進時代の海岸線で地図を見る必要があります。

画像1:古代の九州北部海岸線予想図

この画像は現在の地図において海面を9mほど高く設定したものですが、もちろん当時の地形や海面の高さが正確に表現できている訳ではありません。あくまでも古代海岸線を予測する上での参考として見て頂きたいのです。

すると、佐賀県の有明海側の平地の殆どは海の底だったということになりますが、そもそも、古代期には、低地における広い平地なるものはほぼ存在していなかったと考えるべきで、あの吉野ヶ里遺跡も、集落のすぐ近くにまで海岸線が迫っっていたと捉えた上で、その存在意義を推し量るべきなのです。

また、画像に示した赤い線は、有明海北岸から対馬海峡方面へ抜けるルートを示していますが、それは有明海から諫早の海峡を抜け、大村湾を経てから西海(さいかい)の海峡を通って佐世保の沖合に出るルートが真っ先に思い浮かびます。

実は朝鮮半島に向かうには、玄界灘から対馬海峡を海流に逆らって強引に横断するよりは、西海を出てからしばらく西に向かい、対馬海流に乗りながら北上する方が、動力船のないこの時代においては、船舶運航上も合理的なルート選択であったと考えられます。

今回注目したのは、有明海北岸の船舶の着岸地点がどこであったのかという点なのです。着岸に適した場所があれば、そこが常設の港となり、船が集まると同時に人が集まります。そして、その土地が統治上の重要ポイントになることは容易に想像できるかと思います。

今回、古代有明海の接岸ポイントとして注目したのが、画像1の中央部に当たる次の場所なのです。

画像2:杵島と入り江

杵島(きしま)と呼ばれる南北に連なる島状の山地とそれに挟まれる入り江のような地形、ここはまさに、船の停泊地としては最適だった場所だと考えられますし、実際そうであっただろうというのが、現地に残る潮見神社(しおみじんじゃ)の名前から窺い知れます。

画像3:潮見神社

潮目を見るのは船舶の航行において欠かせないプロセスであることは、わざわざここで述べることでもないでしょう。この神社の裏からは6世紀中頃のものと見られる古墳も見つかっており、古代期に人がここに定住していただろう痕跡もしっかりと見られるのです。

この神社から入り江を挟んだ東の向かい側には杵島の山がそびえており、実際に有明海の潮目を見ていたのはこの山の高所であっただろうと考えられます。その一つが、現在歌垣公園となっている辺りではないかと考えられます。

画像4:歌垣公園の展望台から佐賀市方面を見下ろす
古代期は一面有明の海であっただろう

この杵島周辺にも多くの古墳が残され、ここが古代期における重要ポイントであることの思いはますます強くなるのです。

ここまで、古代期における杵島の姿を予想してきましたが、朝鮮半島との行き来がが絶えなかったこの時代、杵島が日本の国内統治においていったいどのような位置付けを保っていたのか、ますます気になる存在となってくるのです。

■武の暗号

地名には生きた歴史の情報が含まれている、当ブログではその考えを基に地名から歴史的事象の推察を試みています。

同地において気になる地名は、潮見神社の所在でもある武雄市(たけおし)なのです。過去記事「鹿の暗号と春日の姫」では「武」(タケ)の字が示す意味を考察しており、その時のセオリーをここで適用すると

 武雄とはタカミムスビ皇統の男性を表す

と解釈できます。

タカミムスビ皇統の男性の例として、具体的には日本神話に登場する武御雷(タケみかづち)や建御名方(タケみなかた)であり、同過去記事では、この両者が同一人物でないかとの仮説を提示しています。

武御雷とは、言わずと知れた鹿島神宮の祭神であり、春日大社の春日四神の一柱かつ藤原氏の祖神ともされています。また、秀真伝ではカシマカミとも呼ばれています。

今回の案内を頼んだG氏によると、「杵島」(きしま)の名は音が転じて「かしま」(鹿島)になるとおっしゃっており、なるほど、杵島の南端に接するのは

 鹿島市(かしまし)

なのです。

茨城県の鹿島、鹿児島県の県名となった鹿(児)島、これまで両者の関係性を追って来ましたが、佐賀県の鹿島市についてはその由来が今一つはっきりしませんでした。しかし、武雄なる地名を軸に、どうやら同地とタカミムスビ皇統との関連性が見えて来たのです。

更に気になる地名が「白石」の「白」の字で、白は白鬚神社の祭神「猿田彦」を表すとも考えられ、当ブログでは、これまでの考察から猿田彦は「火明」(ほのあかり)と同一人物であろうと結論付けています。

 関連記事:猿と卑しめられた皇統 

また、「白」は「百」から「一」を引くという意味合いから「九十九」と読み解くことが出来ますが、千葉県の九十九里浜、その北端の地である銚子市は、火明(=猿田彦)所縁の地であることは既に過去記事で述べています。

茨城県の鹿島市と千葉県の銚子市は地理的にごく近く、それは鹿島(=武御雷)と火明(=猿田彦)の関係性の近さを暗示しています。日本神話においても、この二柱の神は天孫降臨の節で片や出雲の国譲り、片や道案内の神として同時に出て来ます。同じような関係性が、佐賀県の武雄・鹿島市と白石町の間に見えてこないでしょうか?

そしてもう一つ、佐賀市内の諸富(もろどみ)、武雄市内の富岡(とみおか)、鹿島市内の納富分(のうどみぶん)、そして白石町内の福富(ふくとみ)と、杵島周辺にはやたら「富」(とみ)の付く地名が目立つのです。

「とみ」とは「登美」とも書け、この登美とは、日本書紀において

 饒速日(にぎはやひ)が磐船から降り立った地

とされているのです。

ちなみに、千葉県北部から茨城県南部に多く分布する鳥見(とみ)神社の祭神は、やはり

 饒速日

なのです。

 関連記事:麻賀多神社と高天原 

タカミムスビ皇統(鹿島神を含む)と朝鮮半島との関係は以前から何かあると踏んでいましたが、かなり具体的に半島との関連性を示す杵島の地で、この名が出て来たのには驚きを隠せません。

しかも、ブログ上ではまだ考察を示していませんが、饒速日とは火明(=猿田彦)王朝の後継者であったと私は見ています。

タカミムスビ皇統、火明王朝、そして朝鮮半島。大和朝廷とは異なるこれらの王統がどのように結び付くのか、ますます興味深いことになってきました。

■ユダヤのサイン

最後に、G氏は次の様な示唆を私に示してきました。杵島の「杵」には「午」(うま)の字、そして鹿島には「鹿」の字、つまり、馬と鹿なのです。この「馬鹿」(うましか)問題とは、今年に入って当ブログが追いかけている

 古代ユダヤ問題

であることも忘れてはならないのです。


管理人 日月土

神武天皇と三嶋神

記紀を正史とする日本の古代史観では、日本の天皇の歴史は初代天皇である神武天皇(じんむてんのう)から始まるとされています。

神武天皇以前の歴史は、神代(かみよ)として、神話の世界、つまり人間ではない神様の世界として描かれ、その神様世界と人間世界の接点は、神の世界から地上に降りて来た神の子孫が現在の天皇家の祖となったことから始まります。いわゆる天孫降臨(てんそんこうりん)で地上に現れた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天皇家のルーツとなり、その3代目の神武天皇をして人皇(人の王)が誕生したことになっているのです。

ところが、このブログで時々参考に挙げている史書、秀真伝(ほつまつたえ)では、神武天皇以前から脈々と受け継がれた人間の歴史として、日本の王統が述べられているのです。要するに、そこには神様世界など存在していないのです。

現代の歴史研究者の間では、まさか神代の歴史が文字通り神様世界の歴史だと思う方はいらっしゃらないと思いますが、「天皇は神の子孫」という、どちらかと言えば宗教的信念に近い思想が、この国には現代でも蔓延している気分が認められます。

第2次世界大戦では、まさに現人神(あらひとかみ)、すなわち人の姿をした神様として天皇が奉られ、それが、戦場へ国民を駆り立てる大きな精神的支柱になったことはさすがに否めないでしょう。

事実はどうであれ、天皇の存在こそが日本と言う国の精神性を形作る大きなファクターであることは、終戦後も天皇制が残り現代に至っていることを見れば一目瞭然です。

では、その天皇制の祖となった神武天皇とはいったい何者なのか、あるいは神武天皇はどのように誕生したのか、それを考察してきたのが、前回までの都合3回に亘って述べて来た三嶋神(みしましん)と玉依姫のお話なのです。

 (1)3人の三島とひふみ神示 
 (2)サキタマ姫と玉依姫 
 (3)埼玉県とサキタマ姫 

読者の皆様なら既にご存知のように、このブログでは、記紀(古事記・日本書紀)を文字通りの史書としては扱っていません。

これらの記録は、編纂当時の政治的背景により大きく改竄されたものとして捉えているのですが、それでもここで歴史考察の素材として用いるのは、その改竄された史実の中にも、編纂当時の歴史家が残した「事実に繋がるヒント」が残されているからなのです。前からお伝えしているように、

 記紀は暗号の書

として読めば、かなり多くの隠された事実が読み解けるのです。

また、古事記と日本書紀の間にある微妙な記述の違いも、実は隠された事実を推測する上での大きなヒントと成り得るのです。

そのように読むことによって、これまで多くの事実(らしきもの)が見えてきたのですが、それらについては過去の記事に譲ります。ここではもう一度、神武天皇が誕生した血脈を辿ってみたいと思います。

■神武天皇の誕生

解説を始める前に改めてお断りしておくのが、このブログでの古代史解釈は、みシまる湟耳氏著の「少女神 ヤタガラスの娘」で述べられている少女神、すなわち「古代王権は女系によって継承されていた」という説を取ります。また、これまでの考察から、「少女神は二人、あるいは双子であっただろう」という解釈を取り入れます。

ここで、前回の記事「(3)埼玉県とサキタマ姫」で掲載した次の図を改めて見てみます。

画像1:変換古事記系図の対応人物

これは、前玉姫(さきたまひめ)に関する古事記の記述を少女神解釈に従って、女系系図に変換したものです。

繰り返しになりますが、女系変換することで、甕(みか)の名を冠する男性の継承関係がすっきりと理解できます。むしろ、これこそが古事記に仕掛けられた女系解釈を促す暗号であったと私は理解しています。

さて、前玉姫は玉依姫(たまよりひめ)の別名であることは分かっていますから、これに、伊古奈姫神社伝承、三宅記に残された三嶋神の皇后に関する考察を加味すると、図中に記した別名(青色・桃色の小字)のようになります。

もうお分かりのように、日本の神名は非常に別名が多く、それらが同一人物(あるいは神)であることを知るには、史書・伝承を互いに比較して検討するしかないのです。画像1はまさに、その検討結果を系図に表したものと言えるでしょう。

この図から分かるのは、三嶋神と呼ばれる人物が、本来は素戔嗚(すさのお)、大国主(おおくにぬし)に続く

 出雲王の継承者

であったことが分かります。この場合、鳥鳴海とはおそらく事代主(ことしろぬし)の別名であると考えられます。

ところが、この系図では4代続いた少女神の系統が、甕主日子(神武天皇)で途切れてしまってます。私は、この代替わりの時に

 現在の男系王権が誕生した

のではないかと考えています。つまり、神武天皇こそが、男系による王権継承の始まりだったのではないかと考えるのです。

実はこの系図はかなり簡略化されており、ここには三宅記に記載のある三島八王子とそこから選ばれた三王子についての反映がありません。それらの血縁関係を改めて系図に加えたのが、「(2)サキタマ姫と玉依姫」の最後に掲載した次の系図なのです。

画像2:三嶋神を巡る姻戚関係

これまでの文脈を追えば分かるはずと思い、この図では敢えて人名(あるいは神名)を省略しましたが、理解の為に人名を添えたものを以下に掲載します。

画像3:三嶋神を巡る姻戚関係(人名付)

父子婚姻、母子婚姻が重層的に行われているこの系図を見ると、現代の私たちはちょっと驚くかもしれませんが、古代期に拘わらず、日本では近代に入るまで親子婚、兄妹婚などは普通に行われていたと聞いています。

この系図で注目しなければならないのは

 神武天皇の父母共に三嶋神の血が入っている

という事実なのです。それも非常に濃厚にです。

そして、「(1)3人の三島とひふみ神示」でもお伝えしたように、三島三王子の残りの2人の血統は、どうやらこの国のどこかで影の皇統を今でも継いでいるようなのです。

画像4:昭和61年に即位20年目を迎えた天皇とは?

おそらく神武天皇が即位したこの時から、国体を表す男性王は神武天皇の血族の中から、そして皇后はこの時まで王権継承権を有していた女系家族から強制的に娶わせる仕組みが固まり、それが現代まで続いているのではないかと考えられます。

そして、同記事に記したように、皇后たる少女神は2人のペア、男系王家は3人というこの構成は、イザナギ(男)・イザナミ(女)の神話に記された「1500人:1000人」、すなわち「3:2」の関係にピタリと重なるのです(記紀の暗号)。

日本の天皇制は、三嶋(三島)の血が入った時に男系的な王政に変化し、本来の王権継承者である少女神の家系は、もはや形式的に皇后を輩出するだけの弱い立場に追いやられた、すなわち

 日本は三嶋に乗っ取られてしまった

と言えるのではないでしょうか?

前述しましたが、三嶋神は本来出雲皇統の少女神を娶り出雲王となるべき存在だったのですが、そうではなく、自分の血を分けた男女のペアから新たな王統を打ち立てた。実は「出雲の国譲り」の実態とは、三嶋によるこのような国内王権への血の浸食だったとも言えるのです。

そうなると、次に気になるのが三嶋神がいったいどこから来た何者なのかと言うことになるのです。

管理人 日月土

埼玉県とサキタマ姫

前回の記事「サキタマ姫と玉依姫」では、埼玉県行田市にある前玉神社(サキタマ神社)の御祭神、前玉姫(サキタマ姫)について、古事記の記載からはその素性が追えないとしましたが、その後、その記述を再解釈することにより、その様子が朧気に見えてきました。

画像1:前玉神社(画像引用:Wikipedia

本件については、4月16日配信のメルマガ100号「記事解説」で既に触れていますが、改めてそれについてここで述べたいと思います。

■古事記の中の前玉姫

まずここで、前回でも引用した古事記の本文を再度ここで掲載します。

大国主神、また神屋楯比売(かむやたてひめの)命を娶して生みし子は、事代主神。また八島牟遅能(やしまむぢの)神の女(むすめ)、鳥取(ととりの)神を娶して生みし子は、鳥鳴海(とりなるみの)神。この神、日名照額田毘道男伊許知邇(ひなてるぬかたびちをいこちにの)神を娶して生みし子は、国忍富(くにおしとみの)神。この神、葦那陀迦(あしなだかの)神、亦の名は八河江比売(やがはえひめ)を娶して生みし子は、速甕之多気佐波夜遅奴美(はやみかのたけさはやぢぬみの)神。この神、天之甕主(あめのみかぬしの)神の女、前玉比売を娶して生みし子は、甕主日子(みかぬしひこの)神。

岩波新書 古事記(上) 神代 大国主神「大国主の神裔」より

これは大国主から続く系譜を、その皇后と共にただ名前を書き綴っただけであり、ここに登場する前玉姫がどのような方であるのか、これだけでは知る由もありません。

これを、系図に落とすと次のようになります。

画像2:古事記から作った系図

但し、系図に落してみると、少々気になる点があることに気付きます。それは図中の矢印で示した「甕」(みか)の文字なのです。

「甕」が家系を表す何かの記号ならば、前玉姫の父とその夫に同じ文字が使われているのは釈然としません。もちろん同族ということはあるのかもしれませんが、それならば、国忍富より前の代にその文字が全く使われていないのはどういうことなのでしょうか?

前からお伝えしているように、現在残されている史書は全て改竄されたものと見る必要があるのですが、それでも正史が消滅しないように、史書編纂者はそれと分るサインを文中に残していると私は考えています。

それが、私が

 史書は暗号の書

と呼ぶ理由なのですが、するとこの「甕」の文字の配置は、まさしくこの系譜に加えられた改竄の跡を示す記号とは考えられないでしょうか?

■系図の少女神解釈

「皇統は女系によって継承される」、これは本ブログの歴史解釈で採用している「少女神解釈」であることは、本ブログの読者様ならもはや説明は不要でしょう。

「ヤタ娘」ウラ本のお知らせ

本ブログの古代史解釈に大きな影響を与えた、みシまる湟耳氏著の「少女神 ヤタガラスの娘」。その完成に至る著者の思考や背景を暴露?した本

 正規ウラ本「ヤタガラスの娘」への旅と禁忌

が今年の1月に発刊されています。

その中身については正式な書評として取り上げたいと考えていますが、ここに記載された神社旧跡の多くに私も訪れていたこと、そして調査妨害とも思われる身の周りに起きた不可思議な出来事などについては、同じ経験を有する者として私も大いに共感したとここでお伝えしておきましょう。

電子書籍もあるようですが、私としてはペーパーバック版でじっくりと読まれることを強くお奨めします。


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また、秀真伝(ほつまつたえ)の記述では、古代期には現皇統の他に「オオモノヌシ」と「タカミムスビ」の2皇統が別に存在していたとあります。

ここで、他の2皇統についてその王権継承がどのように行われていたかが気になるのですが、秀真伝によると現皇統と同じく男系継承であったように記述されています。

3つの皇統の内、1つだけに女系継承を適用するのも少々強引であり、もしも少女神解釈を適用するならば、他の2皇統も同じ様に女系継承であったと仮定するのがむしろ自然ではないでしょうか?

つまり、画像2で示したいわゆる出雲皇統(オオモノヌシ皇統)も女系継承に変換する意味は十分あると考えられます。そして、同系図において男女の位置を交換すると次のようになるのです。

画像3:女系変換した古事記の系図

この系図では、女性を「緑」、男性を「赤」字で記述しています。注目して頂きたいのは、この変換処理によって、前述の「甕」の字が男系の系統を表す記号としてすんなりと理解できるのです。

この図が示す意味は2つあり、一つは出雲皇統も前玉姫までは少女神なる女系によって王権継承が行われていたのではないかという見方、二つ目には、甕主日子からそれが男系による王権継承に切り替わったのではないかという見方もできるのです。

前回記事では 

 タマサキ姫 = サキタマ姫 = 玉依姫

という関係性を採用しましたが、ここで埼玉の前玉姫を文字通り、三嶋神の第3皇后であるサキタマ姫と同一人物とした時、この変換系図の人物の関係性は次の様に導かれるのです。

画像4:変換古事記系図の対応人物

この図は伊古奈姫神社の伝承や、三島八王子など三宅記における複雑な血縁関係からはかなり単純化されていますが、それでも

 神武天皇がどのように誕生したのか

その家系を見事に説明しているとも取れるのですが如何でしょうか?

何故なら、古事記がどうして「甕」(みか)の文字を記号として選んだのか、その理由がここから見えてくるからです。「みか」とはつまり「かみ」(神)の変形であり、すなわちこれが「神武天皇」の(男性)血統を表しているとするならば、少なからず合理性が認められるからなのです。

同時にこれは、日本神話で「彦火火出見」(ひこほほでみ)とされる

 三嶋神こそが、現皇室の男系王家を生み出した

その祖であることも示しているのです。

この三嶋神がいったいどこから来た何者なのかは不明ですが、少なくともそれより以前のアマテルカミ(天照)時代の王家とは(男系的に)直接関係ないのは確かでしょう。三嶋神に王権を与えたのはやはり日本に先住していた少女神なのです。

■ダサイタマは失礼?

前回の記事で、前玉神社の読み「サキタマ」が現在の埼玉県(さいたま)の命名の元になったという話を紹介しましたが、これを、単純に埼玉の一小神社の名をもじって付けたとしたならば、あまりにも大抜擢過ぎて説明が付きません。

しかし、前玉姫が現皇室の租と言われる神武天皇の母君、玉依姫その方であるなら話は全く変わってきます。一転、埼玉県は何と尊い名をその県名に掲げたのかということになるのです。

これからはもう「ダサイタマ」などと埼玉県民を貶める発言は控えるべきなのではないでしょうか?(私はそんなことを言ったりしませんが)

これの他に、画像4の系図の中には「鳥取」の名が記されています。明らかに少女神の系統に座する皇后なのですが、この「鳥取」が埼玉県同様に県名になっていることはもちろん、私が気になるのは次の方なのです。

画像5:高円宮憲仁親王妃久子さま

久子さまは四国の鳥取家出身であること、そしてそのお嬢様である典子さんが、出雲大社の禰宜、千家に嫁いだことには、古代期だけに留まらないこの国の深い因縁を感じてならないのです。


四月二十九日 昭和の日に寄せて
管理人 日月土

サキタマ姫と玉依姫

今年1月30日の記事から前回3月30日の記事まで、2020年に不審な亡くなられ方をした俳優の三浦春馬さんについて、その死の意味について古代史的な考察を行ってきました。

 (1) 三浦春馬と馬鹿(1月30日) 
 (2) 竹内結子と鹿の暗号(2月15日) 
 (3) 三浦春馬と猿の暗号(2月27日) 
 (4) 三浦春馬のカネ恋と少女神(3月15日) 
 (5) 3人の三島とひふみ神示(3月30日) 

思いの外同じテーマが続いてしまい、手元にある材料も出尽くした感があるので、そろそろ別のテーマをとも思いましたが、まだ一つだけ気になる点が残っていましたので、今回もそちらについて話を続けたいと思います。

それはやはり、上記(4)・(5)の春馬さんが最期に出演したテレビドラマ「おカネの切れ目が恋の始まり」の最終第4話に関わるものとなります。

■サキタマ姫とは誰なのか? – 前玉神社

上記(4)の記事の中で、三嶋神の第3皇后として「佐岐多麻比咩」(サキタマ姫)が登場し、この方が伊豆七島の三宅島で三島八王子を産んだとの伝承があることをお伝えしました。

そして記事(5)では、その内の三人が後の天皇家(男性王)の祖となり、もしかしたら3人が同時に天皇として即位しているのではないかという、ちょっと突拍子もない結論が導かれたのですが、それは単なる私の妄想ではなく、現代に書き残されている記録からその様に読み解いたものなのです。

要するに、陰謀論界隈では時たま話題になる「裏天皇」が本当に実在するのではないかという話になるのです。

この件を確かめるためには、「三宅記」に登場する三島八王子の母「サキタマ姫」がどのような方なのかを歴史的に追う必要があります。

実はこの「サキタマ姫」を祭神に祀る神社が埼玉県の行田市にあるのです。それが「前玉神社」(さきたま神社)なのですが、同社のホームページによると、埼玉県の「さいたま」はこの「さきたま」が訛って付けられとの説まであるようなのです。

画像1:埼玉県行田市の前玉神社

この神社は、行田市内にある有名な「埼玉古墳群」の一角にある、やはり古墳と思われる小山の上の狭いスペースに鎮座しており、その様な理由から、社殿の全体写真が非常に撮影しにくく、画像1のようなアップ画像しか撮れませんでした(2020年6月撮影)。

撮影当時は「埼玉の名前の由来になった神社かも?」ということ以外には特に意識していませんでしたが、ここに来て再び「さきたま」に遭遇することになったのは少し意外な気がします。

そこで、前玉神社のホームページから、由緒と御祭神の記述を抜粋します。

御由緒

前玉神社は「延喜式」(927年)に載る古社で、幸魂(さいわいのみたま)神社ともいいます。700年代の古代において当神社よりつけられた【前玉郡】は後に【埼玉郡】へと漢字が変化し、現在の埼玉県へとつながります。

前玉神社は、埼玉県名の発祥となった神社であると言われています。

武蔵国前玉郡(むさしのくにさきたまのこおり)は、726年(神亀3年)正倉院文書戸籍帳に見える地名だと言われており、1978(昭和53)年に解読された稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文から、471年には大和朝廷の支配する東国領域が、北武蔵国に及んでいたのは確実であると言われています。

北武蔵国の地元豪族が眠ると思われるさきたま古墳群の真上に建てられています。

https://sakitama-jinja.com/%e5%89%8d%e7%8e%89%e7%a5%9e%e7%a4%be/%e5%89%8d%e7%8e%89%e7%a5%9e%e7%a4%be%e3%81%ae%e5%be%a1%e7%94%b1%e7%b7%92/

御祭神

前玉神社の御祭神は、『古事記』所載の出雲系の神である、前玉比売神(サキタマヒメノミコト)と前玉彦命(サキタマヒコノミコト)の二柱です。天之甕主神(アメノミナカヌシノカミ、アマノミナカヌシノカミ)の子で、甕主日子神(ミカヌシヒコノカミ)の母です。

https://sakitama-jinja.com/%e5%89%8d%e7%8e%89%e7%a5%9e%e7%a4%be/%e5%89%8d%e7%8e%89%e7%a5%9e%e7%a4%be%e3%81%ae%e5%be%a1%e7%a5%ad%e7%a5%9e/

また、この「御祭神」の箇所に書かれた古事記の原文には次のように記載されています。

大国主神、また神屋楯比売(かむやたてひめの)命を娶して生みし子は、事代主神。また八島牟遅能(やしまむぢの)神の女(むすめ)、鳥取(ととりの)神を娶して生みし子は、鳥鳴海(とりなるみの)神。この神、日名照額田毘道男伊許知邇(ひなてるぬかたびちをいこちにの)神を娶して生みし子は、国忍富(くにおしとみの)神。この神、葦那陀迦(あしなだかの)神、亦の名は八河江比売(やがはえひめ)を娶して生みし子は、速甕之多気佐波夜遅奴美(はやみかのたけさはやぢぬみの)神。この神、天之甕主(あめのみかぬしの)神の女、前玉比売を娶して生みし子は、甕主日子(みかぬしひこの)神。

古事記 神代 大国主神「大国主の神裔」より
※正しくはアメノミカヌシノカミ、アマノミカヌシノカミだと思われます

これを読むと、大国主から4代目、つまり曾孫の嫁と言うことになりますが、世代的には三嶋神と推定される、彦火火出見の代と合っています。

ただし、古事記の記述は男系継承に基づいて記述されており、サキタマ姫の出自は天之甕主の娘というだけでそれ以上は追えません。なおかつ、日本書紀にはもちろん秀真伝にも記述がなく、やはりここからも追えないのです。

ここまでで分かるのは、サキタマ姫は大国主の曾孫の嫁に入った女性というだけで、その夫である速甕之多気佐波夜遅奴美(はやみかのたけさはやぢぬみの)神の正体も不明なのです。こうなると、この神社の御祭神である前玉姫が三島八王子を産んだサキタマ姫と同一人物かどうかも分からないのです。

■サキタマ姫とは誰なのか? – 玉前神社

埼玉の前玉神社の場合はストレートに名前が合致していたのですが、残念ながら三島のサキタマ姫との関連はこれ以上探れません。ところが、「さきたま」を「たまさき」と少し変形させると、実は別の神社が現れてくるのです。それが千葉県の外房海岸沿いに鎮座する神社、「玉前神社」あるいは「玉崎神社」なのです。

画像2:千葉県内のタマサキ神社群(Google Map 上の検索)
画像3:旭市の玉崎神社

この中で、一之宮町の「玉前神社」、旭市の「玉崎神社」へは調査に向かったことがあるのですが、どちらの神社もその御祭神は

 玉依姫(たまよりひめ)

であるということなのです。

三嶋神あるいは彦火火出見尊の皇后が豊玉姫であり、次の王位継承者であるウガヤフキアワセズ王の皇后が玉依姫ですから、三島との関係は埼玉のサキタマ姫よりはぐっと近くなります。

ここで、過去記事「伊古奈姫と豊玉姫、そして123便」を読み返して欲しいのですが、ここでは

 豊玉姫 = 伊古奈姫

という関係を導き出しています。そして、第2皇后の伊古奈姫に対する本后として阿波姫の名とその阿波姫の娘である

 物忌名姫(ものいみなひめ)

が居たこともお伝えしています。

私が採用している少女神仮説においては、女系による王権継承という立場を取っているので、当然この物忌名姫にも王権継承権が与えられていると考えられます。

ここで、過去記事では取り扱わなかった「物忌名姫」の存在が大きくクローズアップされるのです。

以下は、これまでの幾つかの仮説の上で展開されていることを前提にお読みください。

 ・サキタマ=タマサキという関係を認めるなら
  三嶋神の第3皇后であるサキタマ姫とは玉依姫のことである

 ・三嶋神の本后阿波姫の娘である物忌名姫とは玉依姫のことである

これはつまりどういうことなのか?3人の三島王との関係を含め、それを図に表したのが以下の系図になります。

画像4:三嶋神を巡る姻戚関係

配色など、この図についてはもう少し説明しなければならないこともあるのですが、それについてはメルマガの記事解説でお伝えしましょう。

なお、私はこれこそが現皇室の始まりを示す本当の姿であると考えています。

よく旗印みてよと申してあろがな、お日様 赤いのでないぞ、赤いとばかり思ってゐたであろがな、まともにお日様みよ、みどりであるぞ、お日様も一つでないぞ。ひとりまもられているのざぞ。さむさ狂ふぞ。

ひふみ神示 カゼの巻 第2帖


管理人 日月土

3人の三島とひふみ神示

※リンク切れなど一部を修正しました(3/31)

今回の記事を書き進める前に、日本書紀の記述から、伊奘諾尊(イザナギのみこと)と伊奘冉尊(イザナミのみこと)が黄泉の国と現世との境にある、泉津平坂(よもつひらさか)の大岩越しに交わした有名な会話のシーンを読んで頂きます。

 故(かれ)便(すなは)ち千人所引(ちびき)の磐石(いは)を以て、其の坂路(さかぢ)に塞(ふさ)ひて、伊奘冉尊と相向(あひむ)きて立ちて、遂に絶妻之誓(ことど)建(わた)す。

 時に、伊奘冉尊の日(のたま)はく、「愛(うるは)しき吾が夫君(なせのみこと)し、如此(かく)言(のたま)はば、吾(われ)は当(まさ)に汝(いまし)が治す国民(ひとくさ)、日に千頭(ちこうべ)縊(くび)り殺さむ」とのたまふ。伊奘諾尊、乃ち報(こた)へて日(のたま)はく、「愛(うるは)しき吾が妹(なにものみこと)し、如此(かく)言(のたま)はば、吾は当に日に千五百頭(ちこうべあまりいほかうべ)産ましめむ」とのたまふ。

岩波新書 日本書紀(一)神代上 一書

以上は、死んだイザナミを追いかけて黄泉の国に下ったイザナギが、妻の朽ち果てた醜い姿を見て逃げ帰り、2つの世界を仕切る大岩を挟んで交わした会話です。

妻のイザナミは、日に1000人を殺すと呪い、夫のイザナミは、それならば日に1500人の人を産ませると宣言するのですが、一応これは神話なので、なんとなく凄まじい話だなと思いつつ、特に深くも考えず読み飛ばした方は多いと思います(私もそうでした)。

しかし、もはや暗号の書と言っても良い記紀には無駄なエピソードなどなく、この記述の中にも日本古代史を紐解く隠された意味があるのです。

それが、前回のブログ記事「三浦春馬のカネ恋と少女神」と大きく関連することを今回はお伝えしようと思います。

■3人の三島

前回の記事の中で、ドラマ「おカネの切れ目が恋の始まり」の最終話第4話で、ヒロインの九鬼玲子(くきれいこ)が、特に意味も無く、伊豆急行線の「片瀬白田駅」で下車し、いかめしを食べるシーンが挿入されており、そこに、三宅島と神津島に関する歴史的暗喩が含まれていると説明しました。

画像1:前回記事から。玲子と三宅島、神津島の位置関係

この片瀬白田駅の近くには、志理太乎宜神社(しりたおぎ神社)と片菅神社(かたすけ神社の2つがあり、それぞれの祭神である志理太乎宜命と片菅命とは、鎌倉時代の文書「三宅記」によると、三嶋神の第3皇后である佐岐多麻比咩(さきたまひめ)が三宅島で産んだ8人の王子の中の2人を指すことが分かります。

ここで、Shrine-heritagerさんの記事を参考に、この8人の王子の名前を列記すると次の様になります。

 第1王子:ナコ(南子命)
 第2王子:カネ(加彌命)
 第3王子:ヤス(夜須命)
 第4王子:テイ(氐良命)
 第5王子:イタヒ(志理太宜命)
 第6王子:クラヒ(久良恵命)
 第7王子:カタスケ(片菅命)
 第8王子:ヒンスケ(波夜志命)

8人の王子それぞれを祀る神社が三宅島にはあるようなのですが、その内の3人については、陸側の伊豆半島に分社が作られています。それは次の3名となります。

 第5王子:イタヒ(志理太宜命) 片瀬白田
 第7王子:カタスケ(片菅命)  片瀬白田
 第8王子:ヒンスケ(波夜志命) 下田

片瀬白田と下田、どちらもドラマで玲子が降り立った駅の名前です。さて、何故8人の王子の内、3人だけが分社を置かれたのか、それについては知る由もないのですが、ただ、幾つかの気になる点があります。

まず、何度も繰り返しますが、三嶋神とは

 三島大神=三嶋湟咋=彦火火出見=賀茂建角身

であることがこれまでの分析から分かっており、彦火火出見(ひこほほでみ)とは瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に続く王(天皇)ですから、第3皇后の息子であれ

 三島8王子は天皇の息子たち

ということになります。

本ブログで展開している少女神解釈では、王権を継承できるのはあくまでも女性側ですので、例え天皇の実子とはいえ、男性はそのまま自動的に王になれる訳ではないのです。

さて、ここで「8人の中の3人」の意味を考えてみます。とは言ってもただの言葉いじりなのですが、

 三島8王子 → 8 → 八
 分社3王子 → 3 → 三

 三八 → みや → 宮

と導くことができます。また、8王子たちが産まれた三宅島については

 三宅島 → みやけ島 → 宮家島

と変換することができるのです。

これだけと本当にただの言葉遊びなのですが、三島8王子が天皇の息子たちであるとすれば、「宮」あるいは「宮家」(天皇の血筋)の持つ意味とうまい具合に被って来るので、何かの冗談だと一笑に付すのも躊躇われるのです。

■王輩出家系と三嶋

少女神という女系による王権継承を考えた時、次の皇后が定まったとするならば、その配偶者、すなわち王はどのように決まるのかを考えてみます。

男系社会では、その女性配偶者を選ぶ時に「良家の子女」という相手の家柄を見て相手を選ぶ選択基準がありますが、それでは、女系継承の場合は何を基準に相手の男性を選ぶのでしょうか?

まさか、男なら誰でも良いという訳ではなく、その資質をある程度担保できる基準を定めるはずです。ましてや、一国の王となる人物なのですから。すると一番に思い付くのが、

 良家の男子

ということになるのですが、問題なのは何を以って「良家」とするかです。

現代なら、資産家の家系である、国家功労者の家系であるなど様々な基準があるかもしれませんが、その中でもやはり「宮家」の血筋は特別視されるのではないでしょうか?

つまり、古代日本においても王の血統は圧倒的優位性を保っていたと考えられるのです。但し、血筋は世代と共にネズミ算式に広がりを見せたり、はたまた断絶してしまう可能性があります。ですからそれを補う基準を設けなければいけません。一番考えられるのが、複数の王輩出家系を作り、その直系あるいは直系に最も近い男子を王に差し出すという仕組みです。

ここまで書くと私が何を言いたいかお分かりだと思います。すなわち

 伊豆分社三島3王子とは、後の王輩出家系の祖先だった

のではないかということなのです。

■もう一人の天皇

随分前の記事になりますが、2015年6月12日の(新)ブログ記事「2015年の慰霊(4)」で、中京地方のある神社に不思議な案内書きが建てられているのをご紹介したことがあります。

画像2:「2015年の慰霊(4)」から(個人名は消しています)

昭和61年に即位20年を記念するこの記述は、明らかにもう一人の天皇がこの国に居ることを示しています。

この国に「裏天皇」なる存在がいるのではないかとは、以前から囁かれていることですが、この案内板が存在することは、それが単なる噂などではなく事実を示すものであるとは考えられないでしょうか?

そうなると、前節で述べた三島3王子が男性王の輩出家系ではないかとする推測は、もしかしたら、3家から同時期に3人の王が選出されているのではないかという考えに変わるのです。もちろん、私たち一般国民が知らされる天皇はたった一人だけなのですが。

これを裏付ける確証とはならないかもしれませんが、この国には奇妙な「三」の符号が多く見られます。

 三島の「三」
 三つ巴の「三」
 門松の「三」本松
 「三」段の鏡餅

果たしてこれらは関係ないと言い切れるでしょうか?

画像3:門松と鏡餅。
近年は2段にみかんという鏡餅が主流だが、正式には3段。
みかんを飾りに乗せるのにも重要な意味がある。

■3人の王と2人の少女神

ここで話を少女神に戻します。このブログでは、少女神を王権授受権を有する皇后と捉えるほかに、政体とシャーマンの2人の少女神、あるいは双子の少女神が存在するとも見ています。

詳しくは、本ブログのサイト検索で「双子」と入れて関係記事を探してみてください。

ここで、前節の3人の王と2人の少女神という推測から

 三島王:3人
 少女神:2人

となりますが、これに冒頭で述べたイザナギ・イザナミの神話から、数字だけを取り出すと

 イザナギ(男性王):1500人
 イザナミ(皇后) :1000人

となり、

 三島王:少女神 = イザナギ:イザナミ = 3:2

という関係が導かれるのです。要するに王と王妃の割合を示していると解釈できるのですが、人は1以下には分割できないので、どうしても最小公約数であるこの人数の割合となってしまうのです。

これだけだとただの偶然かもしれませんが、これを補足すると考えられる次のような文面が、ひふみ神示には見られるのです。

五人あるぞ、中二人、外三人、この仕組 天の仕組。

五十黙示録 扶桑の巻 9帖

千引岩をとざすに際して、ナミの神は夫神の治(し)らす国の人民を日に千人喰ひ殺すと申され、ナギの神は日に千五百の産屋(うぶや)を建てると申されたのであるぞ。これが日本の国の、又地上の別名であるぞ、数をよく極めて下されば判ることぞ、天は二一六、地は一四四と申してあろうが

五十黙示録 至恩の巻 9帖

2番目の文書を補足すると

 千五百の産屋:千人 = 216(天):144(地) = 3:2

となることはもうお分かりでしょう。

ですから、三島3王子から少々苦しい導入でしたが、3人の王と2人の少女神という仮説はまんざら突拍子もないとは言い切れないのです。

そうであるならば、ドラマ「カネ恋」第4話は、3人の王と2人の少女神の存在を示しており、まさしくそれはこの国の隠された天皇統治の仕組みを示していたと言えるのです。

どうやら、三浦春馬さんはテレビドラマの体をした、どえらい呪詛に巻き込まれてしまったようです。


ささげてむ 和稲荒稲(わしねあらしね) 横山のごと。
管理人 日月土