東日流外三郡誌の故地を訪ねる

ここしばらくアニメの話題に偏ってしまったので、休憩と言う訳ではありませんが、現地調査の報告をさせていただきたいと思います。

今回の調査対象は、私もほとんど訪ねたことのない東北地方です。東北地方と言うと、歴史上では異郷人の蝦夷(えみし)の地ということで、「征夷大将軍」という言葉があるように、朝廷にまつろわぬ野蛮な地のイメージで語られることが多いようですが、その古代期については記紀などの史書を読んでも詳しく触れられることはなく、日本古代史上最も謎めいた土地の一つであることは間違いありません。

しかしながら、この7月、オリンピックの開催期間中に「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産に加えられるなど、再びこの地に注目が集まり始めています。

東北が歴史に登場するのは、神話時代におけるヤマトタケ(日本武尊のこと)の日高見国東征。西暦600年代半ばと推測される阿倍比羅夫(あべのひらふ)による征夷、西暦800年代初頭の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)による征夷などで、その後、西暦1000年代半ばの前九年の役とそれに続く後三年の役を経て、安倍氏・清原氏など東北の有力氏族が滅びるとなっています。

しかし、それだけでは東北地方でどのような人の営みが見られたのか、ましてや、世界遺産にも指定された日本を代表する縄文遺跡と西暦1000までの社会の繋がりがさっぱり見えてきません。

近年、縄文文化が極めて精神性の高い文化であることが分かってきており、東北地方を朝廷側に一方的に攻められるだけの未開の地であるようなイメージで捉え続けるのは、およそ正確でないことが分かります。

画像2:縄文遺跡の分布(出展:田中英道先生のメールマガジンより拝借)

上の画像2を見れば分かるように、縄文期の遺跡は関東・東北・東海地方に圧倒的に多く見られ、同地域を語らずして日本の古代史を知ることなど到底叶わないことがお分かりになると思います。記紀を文字通りに解釈すれば、その歴史は近畿など西日本を中心とした歴史であり、そこには、おそらく日本原初の人々であろう関東人、東北人、東海人の姿がリアルに見えてこないのです。

私はこれこそ、古代から続く日本史改竄政策の一環であると見ていますが、そのような仮定をするならば、日本古代史の何を残すと都合が悪いのかが問題となってきます。残念ながら私たちは既に色々と隠されてしまった歴史しか教えらえていませんので、まずは、失われた史実が何であったのかを少ない手がかりの中から見つけ出さなければなりません。

■東北について触れている秀真伝

これまで、このブログでは神代文字によって書かれた史書、秀真伝(ホツマツタエ)に非常にお世話になっています。記紀の原典とも言える秀真伝には、神話化されていない、人間としての古代期(上代)が生き生きと記されているのですが、そこには、タカミムスビの宮が築かれたと推定される宮城県の多賀城市や、大国主が追放された地とされる青森県の津軽地方のことがわずかながらも触れられています。

また、ヤマトタケによる小東北の遠征範囲(福島県の勿来(なこそ))や、当時日高見国と呼ばれた東北王朝との交渉の様子などが記されています。

こうなると、朝廷と東北地方の関係は、一般通史における単なる中央と外地と言う2極分化的な関係ではなく、複数の王朝(または皇統)とそれぞれのテリトリーとの関係性で考える必要が出てくるのです。

しかし、秀真伝も書かれていることは限られており、古代東北の実情を知るには、まだまだ資料として不十分であるとしか言いようがありません。

■東北王朝の存在を主張する東日流外三郡誌

そんな中、古代東北王朝について記述する「東日流外三郡誌」(つがるそとさんぐんし)は非常に魅力的に写る書物なのですが、歴史ファンならご存知のように、この書は「偽書」としての批判が絶えないものでもあります。

画像3:東日流三郡誌(古代編)

先に歴史隠蔽政策などと言ってるくらいですから、私にとっては記紀などのいわゆる正統本ですら「改竄の書」でしかありません。むしろ、人がその人の主観で記載する以上、いわゆる「正史」なるものは、この世に存在するはずがないとすら考えています。

その意味では、全ての史書にはどこか偽書的な性質があり、とりわけ東日流外三郡誌だけを偽書として排除する理由はないはずです。確信的に書かれた偽書には、むしろ偽るだけの大きな理由があり、そこを突き詰めれば逆に当時のリアルな事情が見えてくると考えられるのです。

東日流外三郡誌は、少なくとも東北を中心とした視点で古代を語っていますので、その記述の正確さはひとまず横において、他の史書や、遺跡などとの比較を通して、何が真実なのかを見つけ出すのには好都合な資料として使えるでしょう、たぶんですが。

■読み方に注意が必要な東日流外三郡誌

そうは言っても、現在販売されている東日流外三郡誌(以下三郡誌と略す)を手に取り、最初の方を読んで思ったのが

 これは相当癖があるなぁ

というものでした。

というのも、三郡誌は火事で消失した古資料を復活せんと、江戸時代後期の寛政期に、秋田孝季(あきたたかすえ)が年月をかけて聞き集めた断片的な伝聞を特に編集もせず残したものだからです。つまり、オリジナルの古伝ではないということです。そして、そのような寄せ集めの資料ですから、書籍編集者の苦労は偲ばれるものの、読み物としての一貫性に乏しく、非常に読みにくい一面があります。

なおよろしくないのが、この秋田氏は、長崎で外国人から当時最先端の西洋科学知識を学んでおり、ダーウィンの進化論や、地球起源に関する宇宙論などをこれぞ天下の事実として、文中に書き入れていることです。また、複数の出来事の繋ぎを古事記の記述で補っている形跡も多分に見られるのです。

これでは、どこまでが故事で、どこからが秋田氏の推測なのか混同してしまい、書物の全体的な信憑性が大きく阻害されてしまうなとも感じました。このように、一般的に偽書扱いされてしまうのもよく分かるのですが、それでも見るべき箇所は幾つもあり、注意深く読めば、それなりの史料価値はあるだろうというのが私の判断です。

■日本の始まりは津軽?

三郡誌の最古期の話は、日本列島が大陸と繋がっていた頃、大陸から渡って岩木山の東側に定住を始めた、モンゴロイドの阿蘇部族(アソベ)から始まります。そこに更に津保化族(ツボケ)が渡ってくると両者の間で争いが起き、後に大陸から逃げて来た中国は晋の皇帝の子孫、そして神武天皇の東征から逃げて来た安日彦・長髄彦の邪馬台国勢が加わり、その他の大陸移民が渡来混血して東北荒吐族(アラハバキ)が誕生したとあります。同書はこれが純粋な日本民族の始まりと主張しているのですが、果たしてどうなのでしょうか?

一方、秀真伝には、中央政治から追放されたオホナムチ(大国主)は、息子のシマツウシを頼って、津軽に身を寄せたとあります。オホナムチは長髄彦の数代前ですから、三郡誌の記述と無理に整合を取ろうとすると、安日彦・長髄彦が津軽を訪れる前に既に出雲皇統の一派が現地で統治を始めていたことになります。しかし、そんな大物が現地を訪れていながら、三郡誌には一切記録に残っていないのは解せない話です。そもそも、三郡誌は、東北荒吐族と中央の日向族(朝廷)の対立概念で書かれており、秀真伝の記すような、複数の皇統が全国に存在していたような記述は見られません。

画像4:現在の津軽地図と遺跡スポット

この時点で既に訳が分からない状況に出くわしてしまうのですが、こういう時はまず現地を見てみることです。そのような訳で、私は青森は津軽の地、現在の弘前へと視察に向かったのです。

■岩木山に古代出雲の痕跡か

私の場合、地方へ出かけたら情報を得るためにまずその土地の主要な神社へと向かいます。弘前に到着した翌日、早速同地のシンボルでもある岩木山、その麓にある岩木山神社へと向かいました。

この季節、林檎の実が赤く色付き始めるころで、気高く聳える岩木山と対照的に、裾野に広がる一面の林檎園が花咲くように美しかったのがたいへん印象的でした。

画像5:道路から眺める岩木山
画像6:岩木山神社と背景に写る岩木山の山頂
画像7:岩木山神社拝殿

岩木山神社の創建は今から約1200年前の宝亀11年(780)。坂上田村麻呂とも縁が深く、江戸時代に入ってからは津軽藩主の庇護を受けたこともあって、立派な神殿が残されています。こちらのご祭神は以下の通り。

 顕國魂神   うつしくにたまのかみ
 多都比姫神  たつひひめのかみ
 宇賀能賣神  うがのめのかみ
 大山祇神   おおやまづみのかみ
 坂上刈田麿命 さかのうえのかりたまろのみこと

特に、出雲色らしきものは感じられなかったのですが、驚いたのはその帰り道に見つけた近くの神社、高照神社なのです。

高照(たかてる)という言葉を聞いて最初に思い出すのは、映画「もののけ姫」の構造分析シリーズ「下照姫を巡る史書の暗号」でもご紹介したことのある、あの高照姫なのです。

秀真伝によるとタカテルヒメ(高照姫)はオホナムチ、すなわち大国主の娘であり、ここに僅かですが大国主の痕跡が見られたのです。

そして、高照姫の名前があるということは、その夫であるアメワカヒコ、すなわち当ブログの構造分析の結果、アメワカヒコと第10代アマカミのホノアカリは同一人物ですので、どうやら現皇統の血統がこの地に関係してくると言う流れになってきます。

画像8:高照神社拝殿

しかし、ここは普通の神社とは異なり、第四代津軽藩主の信政から、後の藩主の霊を祀る霊廟として機能していたようです。よって創建は1712年と比較的新しく、古代の色彩を残す神社とは言えない面があります。

そもそも、「高照」という社名を付けた理由が今一つはっきりせず、津軽氏がどうして大国主の娘の名をこの社に付けたのかは謎のままです。もちろん、良い名を思案している中で偶然この名を思い付いたとすることもできますが、それでも、秀真伝にある大国主追放の地との関連性は簡単に払拭することはできません。

少なくとも、この事実は当地を調査する上で何か重要な手掛かりとはなりそうです。

この後、世界文化遺産にも指定された縄文遺跡群などを数件訪れましたが、それについては次の記事でご紹介したいと思います。こちらは、有名な環状列石(ストーンサークル)や遮光器土偶が見つかった場所となります。


津軽北国 岩木の山に帰る時ぞ来る
管理人 日月土


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