太宰府に残る占領の印

今回の記事は、10月に向かった下記福岡調査レポートの続編となります。

 これまでのレポート:
  ・再び天孫降臨の地へ 
  ・再び天孫降臨の地へ(2) 

糸島の重要歴史スポットを幾つか巡って地元の宿に一泊した後、日程が限られていることもあり、翌日は福岡調査では絶対に外せない重要ポイントである太宰府へ向かいました。

画像1:宿の前の通りからは、前回の記事で話題にした「可也山」(かやさん)が見える

■糸島の芥屋の大門

太宰府に向かう前に、歴史というより観光スポットと呼ぶのが相応しい、糸島の西端にある「芥屋の大門」(けやのおおと)を訪ねてみました。ここは、岬の先端から内陸に向けて、奥行き90mの洞穴が続いているという珍しい場所です。

公式ホームページによると、玄武洞の中では国内最大級であるとか。以前何度かここを訪れたことがありますが、その時は地上から岬の突端を眺めただけで実際に洞穴の開口部を見た訳ではありません。

今回はこれまでと趣向を変えて、近くの漁港から遊覧船に乗り、海上からその景色を眺めてみることにしたのです。

画像2:芥屋の大門の位置
画像3:海上から見た芥屋の大門の全景

条件が整えば小型遊覧船が洞穴の中まで入るということですが、当日は晴天に恵まれたものの、海のうねりが大きく、残念ながら開口部から少し離れての見学となりました。しかし、それでも玄界灘に向けてぽっかりと開いた大きな穴の迫力は見る物を惹き付けます。

古代の人々は、海を渡って糸島と行き来した時、この岬をどのような思いで通り過ぎていたのか、思わず想像が膨らみます。

画像4:船上から撮影した開口部

実は、何枚か撮った開口部の写真の1枚に、およそ尋常でないものが写り込んでいました。いわゆる心霊写真と呼ばれるものに近いのですが、それを掲載するのはこのブログの主旨ではないのでやめておきました。

少しだけ説明するなら、それは古代から現在に至る何か呪術的なものに関係するようなのですが、これを歴史の流れの中で説明するには方法論的に逸脱していますし、それに関する予備知識がなければ、おそらく何を語ってもチンプンカンプンな話となるでしょう。

しかし、記紀などを読めば分かるように、古代人にとって御神託や祈祷というのは実学であると同時に日常生活の一部であり、現代科学を拠り所としてそれを迷信と決め付けては、古代人の当時の思考を推し量ることなどできないと私は考えます。

写真に写ってしまったこと自体は紛うことなき事実なので、実際に私はそれを歴史分析の対象に加えています。今回ここでお見せできない写真から分かったことは、芥屋の大門には有能な呪術集団が関わっているということです。

ここに、歴史の表に現れることのない仏教・神道・その他による呪術的側面が観測できるのですが、これ以上書くとオカルトブログになってしまうのでこの辺でやめておきましょう。もしもこの話が気になるという方は、ぜひその目で芥屋の大門を確認していただき、私の意図するものが何であるのかをご理解いただければ嬉しいです。

画像5:芥屋の大門の麓にある太祖神社
後の山は古くは高天原と呼ばれ洞穴へと続く。ここには海神族と月信仰の痕跡が見られる

■水城

さて、糸島から福岡市内を経由して太宰府市街に入る手前、道路を分断するかのように長く続く土手、「水城」(みずき)と呼ばれる古代遺跡が目に入り、まずはそこに寄ってみました。

水城とはWikiには次の様にあります。

白村江の敗戦後、倭国には唐・新羅軍侵攻の脅威があり、防衛体制の整備が急務であった。天智天皇三年(664年)の唐使来朝は、倭国の警戒を強めさせた。この年、倭国は辺境防衛の防人(さきもり)、情報伝達システムの烽(とぶひ)を対馬島・壱岐島・筑紫国などに配備した。そして、敗戦の翌年に筑紫国に水城を築く。また、その翌年に筑紫国に大野城が築かれた。ともに大宰府の防衛のためである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/水城
画像6:水城とその他の史跡の位置関係
画像7:水城

今では、住宅や田園に覆われていますが、かつては堤の前(博多側)に敵侵入防止のため、水が張られていたと言います。

また、水城が建設される前はここを流れる御笠川と現在の筑紫側が水路で結ばれ、博多湾と有明海は船で移動できたであろうと言われています。

なるほど、それならば太宰府は両海を結ぶ水路の途中にあり、九州北部と南部を行き来する人や物資の流通において最適の場所であったと考えられます。

画像8:古代、博多湾と有明海は水路で繋がっていた

さて、一般的にはWikiの説明にあるように、白村江の闘いに敗れた天智天皇が、唐・新羅軍の国内侵攻を防ぐために造営されたと言われてますが、この説には異論もあるようです。それについては次に述べましょう。

■都督府の石碑

太宰府と言えば、学問の神「菅原道真」が祀られている太宰府天満宮を思い浮かべる方は多いでしょう。修学旅行や合格祈願にここを訪れたという方も多いのではないかと思います。

しかし、当日は時間があまりないこともあり、私は太宰府天満宮には寄らず、以前から注目している場所、都府楼(とふろう)近くの政庁跡に向かったのです。

画像9:太宰府政庁跡 (C)太宰府観光協会

現在の年号「令和」も今年で3年、もうすぐ4年になろうとしていますが、「令和」の名の元となった万葉集に詠まれた花見の宴は、この政庁跡のすぐ近く、大宰帥(だざいのそち:大宰府政庁長官)大伴旅人の邸宅があったと言われる、現在の坂本八幡宮近辺で催されたのではないかとされています(確定ではない)。その意味では、この太宰府政庁跡は現在の日本に生きる私たちにとっても所縁深き場所と言えるでしょう。

歴史好きの方ならば、かつて太宰府が大陸交易の中心であり、外交の拠点として政庁が作られたと覚えておられるかもしれません。

現在の政庁跡には奈良時代の礎石が残されていますが、実は、その下にも更に古い遺構があると言われているのです。しかし、それより古い年代の地層は調査されておらず、政庁の来歴は一般的に知られているものより更に古い、上代(神武以前)、上古代期(神武以後)まで遡れる可能性があるのです(あくまで推測です)。

太宰府及びその周辺地域に関して調べる対象はあまりに多いので、今回はこの政庁跡にある一つの石碑に注目します。

画像10:政庁跡に残る都督府(ととくふ)の碑

この石碑は明治の頃、政庁跡の発掘調査時に建てられたそうなのですが、実はこの「都督府」という言葉が刻まれたことに深い意味がある、それを後で知人で歴史研究家のG氏に教わりました。

この都督府、Wikiペディア「都護府」の唐代の項には次の様にあります。

朝鮮半島
・熊津都督府…顕慶5年(660年)、百済を滅ぼしその旧域に設置。
・鶏林州都督府…龍朔3年(663年)4月、新羅の版図に設置。新羅王の文武王を鶏林州大都督に任命。
・安東都護府…総章元年(668年)9月、高句麗を滅ぼして平壌に設置。朝鮮北部および満州を支配。上元3年(676年)2月に新羅、高句麗遺民との抗争に敗退して遼陽へ後退。儀鳳2年(677年)、新城に移転。697年には大祚栄との抗争の影響で廃止されたが、神龍元年(705年)に大祚栄との和解により再び設置された。しかし、安史の乱の際に再び廃された。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/都護府

要するに、「都護府」・「都督府」とは、当時の唐が侵略占領した各地に置く占領機関の拠点に付けた名称だと考えられるのです。

この辺の解釈について、「南船北馬のブログ」さんは非常に的確な指摘をされています。

都督府とは何なのか? 『日本書紀』は六六三年の白村江敗戦後の六六六年、天智紀六年の閏十一月の記事に、唯一、それはこう登場する。

「十一月の丁巳の朔乙丑に、百済鎮将劉仁願、熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聡等を遣して、大山下境部連意志積等を筑紫都督府に送る」とある。
それを岩波『日本書紀』の注は、「筑紫大宰府を指す。原史料にあった修飾が残ったもの。」とし、九州王朝説の古田武彦は倭の五王が中国南朝から与えられた称号・都督に基づくとしてきた。

しかし、六六〇年に唐は百済を滅ぼすと、唐の占領機関として百済に熊津都督府を置き、さらに馬韓、東明、金漣、徳安にも配置し占領政策を徹底した。また六六八年,唐は高句麗を滅ぼすと、同じく安東都督府を置き占領政策を押し進めた。この間に、百済再興のために倭国は半島に軍を派遣し、六六三年に白村江の戦いで唐に敗れる。

それを『旧唐書』は四度戦い、「煙焔、天に漲り、海水、皆、赤し、賊衆、大いに潰ゆ。」と簡潔に倭軍の敗北を記す。唐に敗北した百済と高句麗に占領機関としての都督府が置かれたなら、その間の白村江で敗戦した倭国の首都・大宰府に置かれた筑紫都督府が、唐制の占領機関以外の何であるのか。先の『日本書紀』の一文は,百済の熊津の唐の占領機関から倭国の大宰府の唐の占領機関への派遣記事なのだ。

https://ameblo.jp/hokuba/entry-12174042062.html

つまり、こういうことです。663年の白村江の戦いで日本(倭国)軍は唐・新羅連合軍に敗北しただけでなく

九州北部に攻め込まれ占領された

と解釈することができるのです。

すると、前節の「水城」の項で述べたように、戦いに敗れた倭国軍が太宰府に最終防衛ラインを敷いて外国軍の侵入を防いだという定説とは全く矛盾する結論が導かれるのです。この説に従えば、水城とは占領軍によって攻略されたその残骸、あるいは占領軍の防塁として後から造営されたことになります。

また、もしも外国軍に占領されたならば、その後に日本の占領政策がどのように実施されたのか、何かその記録が残っていないとおかしいのですが、そのようなものを私も知りません。だからこそ、

 日本は一度も侵略を受けたことがない独立国

という、日本人として少し誇らしげな自負を覚えるのですが、ここで、占領軍の手によって「侵略の記録を国史から一切排除する」という「国史改竄計画」が、占領時から始まったと考えたらどうでしょうか?

この「国史改竄計画」の存在については、それこそが私のブログの主要テーマの一つだった訳ですが、もしかしたら、白村江の戦いこそが、日本国史改竄の大きなきっかけとなったことは十分に考えられるのです。

それは、

 633年 倭国軍唐に敗れる(九州北部占領される)
 712年 古事記編纂される(推定)
 720年 日本書紀編纂される(推定)

など、白村江の戦い以降に慌ただしく史書が整備された事実とも符合します。つまり、記紀とは正確な故事を記録に残すための書というよりも

 不都合な歴史(侵略の事実)を隠蔽するための書

である可能性が高いと考えられるのです。この視点に至った時、私が以前から指摘している

 ・上代の史実は敢えて神話ファンタジー化されている
 ・記紀は史実を暗号化によって伝えている

などが、占領下において何とか正確な史実を後代へ伝えようとした、当時の歴史家たちによる懸命の創意工夫であったとする予想に大きな根拠を与えるのです。

 
* * *

白村江の戦いによる倭国占領、そして史書から消えた占領の歴史。1300年前の侵略者はその後どうなったのか? 少なくとも、明治になって政庁跡にこれ見よがしに「都督府」の石碑が建立された事実から、その時まで占領政策が延々と続いてきたことが分かるのです。

もしかしたら、米国GHQによる第二次世界大戦後の日本占領などに私たち日本人は騒いでいる場合ではないのかもしれません。私たち日本人は古くから(緩やかな)被占領の民であったかもしれないのですから。


東風吹かば匂い起こせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ (菅原道真)
管理人 日月土


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