富士の高嶺と七支刀(2)

今回の記事は前回の「富士の高嶺と七支刀」の続きとなります。ここでは前回書けなかったタイトルにもある「七支刀」に触れてみようと思います。

山部赤人が歌を詠んだ場所と推測される福岡県みやま市高田町田浦については既にお伝えした通りですが、そこを訪れる前に、みやま市内の気になる神社を何箇所か訪ねてみたのです。

みやま市は福岡県南部に位置し、熊本県南関町に隣接します。その人口は3万6千人で人口150万人を有する大都市の福岡市に比べれば筑紫平野に田園が広がり、人影もまばらな実にのんびりした田舎街です(失礼)。古代遺跡類の宝庫とも言える玄界灘沿岸の福岡市、糸島市、太宰府市などに比べれば、言葉は悪いですが歴史的遺構など「何もない」ように見えてしまうことでしょう。

画像1:みやま市の地理的位置
画像2:みやま市の風景

実はここには、古代史上の謎の一つでもある「神籠石」(こうごいし)が築かれ、みやま市のそれは「女山神籠石」(ぞやまこうごいし)と呼ばれています。

女山神籠石についてはWikiに次のように書かれています。

女山城は文献上に記載のない城であるため、城名・築城時期・性格等は明らかでない。天智天皇2年(663年)の白村江の戦い頃の朝鮮半島での政治的緊張が高まった時期には、九州地方北部・瀬戸内地方・近畿地方において古代山城の築城が見られており、女山城もその1つに比定される。
1981年(昭和56年)の第4次調査によれば、築城時期は7世紀後半頃と推定される。城に関する伝承は知られていないが、かつては邪馬台国の卑弥呼の居地とする説などが挙げられていた。なお、城域内では築城に先立つ6世紀後半頃に山内古墳群が築造されているほか、女山中腹では銅矛2本の出土も知られる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%B1%A0%E7%9F%B3

要するに、古代期に造営された山城の石積みの遺構、それを神籠石と呼ぶのですが、同じ福岡県の糸島市や久留米市にもそれが残されています。

古代山城が築かれていたという点で、この一帯が古代期の重要拠点であることが容易に想像されるのですが、今回の調査ではぜひそれを確認したいという思いがあったのです。

ところが、残念なことに、当日は土砂崩れで現場への山道が塞がれており、神籠石の調査は断念せざるを得ませんでした。

画像3:通行止めになっていた女山神籠石への山道

しかし、それでもみやま市の隠れた見所は田浦地区をはじめ他にも色々と見つけることができ、今回はその中の幾つかをご紹介したいと思います。

■立派だが寂れた神社

太宰府天満宮があることより、九州北部では天満宮や菅原神社なる名前の神社をよく見かけますが、その天満宮系の神社として「老松宮」(おいまつみや)もまたポピュラーな神社です。

どこから調査の手を付けるか、その手始めとして女山神籠石に近いみやま市瀬高町の老松宮に寄ってみました。

画像4:瀬高町の老松宮

上の写真を見ると分かるように、本殿は最近改築されたらしく比較的きれいなのですが、その他の摂社や作りの立派な楼門はもうボロボロで、外観を維持するための人手がとにかく足りていないのがありありと分かります。

これはここに限ったことではなく、地方の小神社ではこのように荒れたところを多く見ます。人口減と都会への一極集中で、この先どうなるのかたいへん心配なところではあります。

画像5:立派な造りだがかなり傷んでいる楼門

この老松宮、一見何の変哲もない田舎の神社のように見えますが、とにかく敷地が広く、立派な楼門が建てられていることから、古くはこの一帯の中心を成し、役所のような機能を果たしていたのではないかと窺われるのです。

前回の記事で、この辺りの田園が古代の海進期には海水で覆われていただろうと予想図を示しましたが、その様子は「瀬高」という地名からも推測することができます。

かつて海だったとはいっても、基本的には浅瀬で、海面から顔を出している陸地が海上に点在していた、いわゆる多島海を形成していたと考えられ、「瀬高」とは文字通り瀬の高い箇所、要するに陸地部分であったことを想像させるのです。

そこからさらに類推されるのは、ここがかつては船の立ち寄り場所で、今の言葉で言うなら港湾事務所のような役割を担っていただろうと考えられるのです。

山部赤人の歌に詠まれたように、古代の有明海では多くの人々、船が行き来していた、そう考えると、神籠石の存在も不相応に広い老松宮の存在もどこか納得できるのです。

■塚が壊されていた

さて、この老松宮なのですが、敷地の中に蜘蛛塚と呼ばれる小さな古墳が残っています。

画像6:蜘蛛塚-お地蔵さんの祠が据え付けられている

また、この蜘蛛塚には次のような由緒書きが残されています。

伝説によると景行天皇の西征の時に、この地に朝廷に従わない者がいましたので、天皇は之を征伐して首長を葬った所だとされています。また、一説に土蜘蛛の首長田油津媛(たぶらつひめ)の墓であるとも云います。この墳(つか)の南約18mの田の中に小墳があってこれも大塚といい、一緒の前方後円墳であったのが道路作りの時、二分されたものと伝わります。大正二年春、田の中の小墳を崩して新道が作られました。往時は女王塚と言っていましたが、後世にはばかって大塚(蜘蛛塚)に改めたと云います。

平成29年3月 みやま市教育委員会

さて、ここに出て来る田油津媛とは日本書紀の巻第九、神功皇后紀に次の様に書かれています。

丙申(ひのえさる)に、転(うつ)りまして山門県(やまとあがた)に至りて、則ち土蜘蛛田油津媛を誅(つみな)ふ。時に田油津媛が兄(いろね)夏羽、軍(いくさ)を興して迎え来(まう)く。然るに其の妹(いも)の誅(ころ)されたることを聞きて逃げぬ。

※岩波文庫「日本書紀」による読み下し文

ここに出てくる山門県とは、旧山門郡山川村付近、現在のみやま市東部の地域を指すと見られています。山門と書いて「やまと」と読みますから、この付近が卑弥呼の女王国である邪馬台国があったのではという説もあるようです。

卑弥呼、景行天皇、神功皇后、これらの登場人物は現代の我々から見れば比較的近い世代のように見えますが、それでもけして同時代人と言えるものではありません。各伝承の間にはそれなりの時間的なギャップがあるのです。

伝承はあくまでも伝承で、それについては何か確定的なことを言えませんが、ここにはかつてある程度の大きさの古墳(前方後円墳)があり、後にそれが崩されてしまったという由縁からは、その具体性故に真実味が感じられるのです。

しかしながら、古今、人の都合で古墳が荒らされたり崩されたりという話は別に珍しくもありませんが、農地が目の前広がるこの土地で、わざわざお宮の前の古墳を崩してまで道を通した理由がよく分からないのです。

その疑問への答になると思われるのが、老松宮の南西、道路向かいに建てられた仏教形式のお堂です。不思議なことに、このお堂と老松宮は正面が互いに向き合っているのです。

しかもこのお堂、管理者もいなければ、門に鍵が掛けられ敷地の中に入れません。まるで訪問者を避けているかのように、田んぼの中にポツンと建てられているのです。

画像7:道路を挟み老松宮と向き合うお堂

このようなかなり不自然な配置を見て私がまず思い付くのは

 これは呪術ではないのか?

という疑念です。そして、その他の人工物の配置等をつぶさに見るにことによって、老松宮に対して何か強い封印術が掛けられていると確信したのです。

その呪術がどのようなものであるのか、詳細については次のメルマガでお知らせしたいと思いますが、呪術形態から垣間見える執念の強度から、この土地によほど表に出てきて欲しくない何かがあることだけは分かったのです。

そして、ここからみやま市一帯がただの静かな農村ではなく、古代日本史の定説を書き換えてしまうほど、何か重要な歴史的痕跡が残る土地であろうと思いを強くしたのです。

■こうやの宮と七支刀

さて、いよいよ七支刀の話題に入るのですが、まずは次の写真を見て頂きたいと思います。

画像8:カラフルな神像

この色彩鮮やかな神像は、みやま市瀬高町太神字鬼木の水田が広がる一角にある「こうやの宮」に置かれているものです。

画像9:こうやの宮全景
集落の外れにあり、背後には田園が広がる

また、このお宮の説明板には次のように書かれています。

こうやの宮「七支刀を持つ神像」

ここ「こうやの宮」の祠の中に、ご神体として神像が五体祀られている。
その中の一つが「七支刀を持つ神像」で百済の官人といった風態であり、西方の死者に相当する。当主の祝典(即位など)に参じて持参した宝刀、それが七支刀である。現在、奈良市石上神宮にある神宝七支刀には名分が彫られ、献上の趣旨が刻まれ、各種の読みが成されている。(以下略)

この神像については、九州王朝説を唱える古田武彦氏による文献等に詳しいので、それに重複する説明はここでは省略させていただきます。また、多くの歴史研究家がこれについて良い記事を書かれているので、「こうやの宮、七支刀」などのキーワードでネット検索すれば、興味深いものを見つけることができるでしょう。

この七支刀については、こうやの宮の正式名「磯上物部神社」に「物部」の文字があることからか、同じく物部氏の系列である奈良県の石上神社(いそがみ)から出た七支刀と比較されることが一般的なようです。そして、日本書紀の記述から、七支刀そのものは朝鮮半島の百済から伝来してきたもではないかと考えらているようです。

要するに、七支刀は古代期における朝廷と朝鮮の関係を表すもののようなのですが、それはさておき、説明板にプリントされたこの神像の写真を見る限り、神像そのものはそれほど古い物のようには見えないのです。

神像が製作されたのは鎌倉時代ではないかという説もあるようですが、塗料の色が現在でもはっきりと残っていることなどから、古くてもせいぜい江戸時代後期くらいなのではと、私は見立てるのです。

知人で歴史研究家のG氏によると、どうやら江戸時代に派手な色彩を施した人形状の神像が流行ったと言います。大事な点は神像の製作時期がどうこうではなく、後世の作品であるにせよ、なぜこのような像を作ることになったのか、むしろそちらなのです。

このような細部に拘った像を作る以上、製作者が何か歴史的な記録を元にこれらの像を作り上げたのは容易に想像されます。その記録がどのようなものであったのか、私はそちらの方に強い興味を惹かれるのです。

■こうやの宮と向き合う鷹尾神社

さて、こうやの宮の七支刀の意味を考察するのはもちろん重要なことなのですが、せっかく足を運んでまで調査に来ているのですから、地形や他の神社との位置関係など現地でしか分からない情報を良く見ておかなければなりません。

画像1の地形図で示したように、みやま市は東と南に標高の低い山々が成す丘陵地帯、西には海進期には浅瀬かつ多島海であったと予想される平野部が広がっています。このような地形的条件はまさに、人が集まるのに適していると言え、その意味でここに邪馬台国があったとする説が存在してもそれほどおかしくはないのです。

また、こうやの宮の周囲にどのような神社があるのか、それをいくつか回ってみました。

画像10:こうやの宮周辺の神社
左から時計回りに樋口八幡神社、廣武宮(鉾楯の杜)、太神(おおが)宮、釣殿宮
画像11:こうやの宮と周辺の神社の位置関係

どれも深く調べれば何か出てきそうな神社ばかりなのですが、ここで私が一番気になったのが、天智天皇が立ち寄ったとされる鉾立なのです。天智天皇の名前がこの地に現れるということは、時代的に白村江の戦いの時期と重なり、ここで前回も記事でも指摘した「外国軍(唐・新羅連合軍)による太宰府占領(仮説)」と話が繋がってくるのです。

この他、こうやの宮からほぼ真西に位置する、福岡県柳川市の鷹尾神社は、前節の老松宮と同様に、何故かこうやの宮と正面が互いに向き合うように建てられているのです。

画像12:柳川市の鷹尾神社

古代期は共に多島海に浮かぶ島々の上にあり、海面を挟んで互いを視認できる距離にあったと考えられますが、現在残る社殿は当然古代のものなどではなく、後から建てられたものをどうして向き合わせる必要があったのか、そこに作為のあることを感じさせるのです。ここに前節で指摘したのと同じ呪術性が見て取れるのです。

鷹尾神社が何か呪術目的で建てられた神社であることは、敷地内に置かれた次の摂社を見ればよく分かります。

画像13:鷹尾神社内の子安神社
木の根元にご神体の石が敷かれている

画像13の写真をよく見て頂ければお分かりの通り、この摂社のご神体は横にねそべった大きな石であり、その形状から、それが先月の記事「再び天孫降臨の地へ(2)」でも触れた「支石墓」であることが分かります。

問題なのはこの大石が、八角形の石枠で囲まれていることであり、見る人が見ればこれがかなり強力な呪術、それが封印術であることが分かります。つまり、この支石墓の中に入っている古代人の霊的発動を非常に恐れていることが、この造形から読み取ることができるのです。

■まとめ

ここで、前回及び今回の記事で書いた話を箇条書きにまとめてみましょう。

 ・みやま市の平野部は古代の多島海
 ・市内の田浦が山部赤人が歌に詠んだ場所である(仮説)
 ・古代山城の痕跡である神籠石が存在している(女山神籠石)
 ・広い敷地と立派な楼門の神社と土蜘蛛族伝承(老松宮)
 ・蜘蛛塚及び古墳の不自然な取り崩しと封印術の痕跡(老松宮)
 ・百済を象徴する七支刀を持った神像(こうやの宮)
 ・白村江の戦いと天智天皇の伝承(廣武宮)
 ・朝鮮式ドルメンと封印術の痕跡(鷹尾神社)

ここからざっと読み取れるのは、この地が古代海上交通の要所で、海外の船も出入りし、時に要人が天皇クラスの人物と謁見する為にここを訪れた。とりわけ山城・七支刀・ドルメンなど朝鮮半島との繋がりが深く、西暦600年代の白村江の戦いとも関連している。

更に付け加えるなら、この土地の歴史的事実が表に出ることをひどく嫌う存在があり、現在でも封印系の呪術が行われている点が挙げられるでしょう。

私は、ここが邪馬台国の存在した場所と比定する根拠はまだ薄いと見ていますが、非常に重要な古代都市(みやこ)かその出先機関が、この地、それも東側の丘陵部にあったことは間違いないだろうと見ています。

これより深い情報を得るには、みやま市周辺の八女市・柳川市(福岡県側)、南関町・和水町・玉名市・山鹿市(熊本県側)をよく見る必要がありますが、これらの地を知ることで、今まで隠され続けてきた日本という国の本当の成り立ちが見えてくるのだと確信しています。

また、それを知らない限り、現代日本社会の諸問題・歪みがどこから生じてくるのかを正しく理解することなど到底叶わないことでしょう。


有明の海にみかける百島に君ある国の近しきを知る
管理人 日月土

土偶は何を語るのか?

今回もまた、今月上旬に津軽地方を調査した時の報告となります。津軽の縄文遺跡と言えば、忘れてならないのはやはりこれでしょう。

画像1:五能線木造駅の駅舎
全長17mの遮光器土偶を象ったデザインで有名

駅舎モデルとなったこの遮光器土偶は、木造駅から北西方向へ10km程度離れた亀ヶ岡石器時代遺跡から出土したものとされています。

画像2:亀ヶ岡石器時代遺跡から出土した遮光器土偶
Wikiペディアから(東京国立博物館展示)

亀ヶ岡石器時代遺跡も訪れてみましたが、基本的に発掘跡は埋め戻され、これといった展示施設もなく、草が刈られた空き地に写真のような説明パネルが申し訳なさそうに建てられているだけで、正直なところ少々期待外れだった感は否めません。

それでも、現場におられた発掘中の作業員さん(皆さん女性)に土地の状況や今後の発掘の展望などお話を伺うことができ、この地の発掘や研究などはまだまだこれからの課題であり、遺跡の分析が進むにつれて、何か大きな成果が発見されるのではないか、そんな期待を抱くに十分魅力的な土地であったことは記録に留めておきたいと思います。

画像3:亀ヶ岡石器時代遺跡の発掘現場

■土偶の謎

一口に土偶と言っても、遮光器土偶の他、様々な土偶が全国で発見されています。以下、Wikiや博物館などネット上で公開されている写真画像を幾つかピックアップしてみました。

画像4:様々な土偶と出土遺跡
1. 長野県棚畑遺跡      
2. 山梨県鋳物師屋遺跡     
3. 岩手県長倉I遺跡      
4. 長野県中津原遺跡     
5. 青森県三内丸山遺跡     
6. 青森県二枚橋2遺跡      
7. 山形県西ノ前遺跡(縄文のビーナス)
8. 群馬県郷原遺跡(ハート型土偶)

土偶を出土場所を調べていて気付いたのですが、やはり土偶類も縄文遺跡の密集度に比例して、琵琶湖以東に当たる東日本・東北地方での出土が圧倒的多数を占めています。近年、その精神性や芸術性の高さが見直されている縄文時代の出土品ですが、そうなると、日本人の精神性が古くは東日本を中心に形成されたとは言えないでしょうか?もしもそうなら、九州から関西を中心に記述されている日本古代史、特に神代の解釈は、今後大きく修正される可能性を秘めているとも言えます。

さて、土偶を取り上げたところで、そもそも土偶は何を象徴しているのかという疑問が生じます。考古学の一般的な解釈では、多産・豊穣・地母神など「女性性」の象徴と言われていますが、画像4を見れば分かるように、土偶の形状は必ずしも女性性を表しているものばかりとも言い切れません。実際の所、土偶が何であるかという問いについては、最初の研究から100年以上経った現在でも、核心的なことは分からず謎のままであるようです。

そうやって謎であるのをいいことに、私が子供の時に読んだ本の中には「土偶=宇宙人」説という奇説まであり、私も一時期はそれもあり得るかもしれないと本気で信じていたものです(笑)

ここで人類学者の竹倉史人さんによる土偶の新解釈に関する記事を見つけたので、その記事から私が重要と思う部分を抜き出して紹介しておきましょう。

日本考古学史上最大の謎「土偶の正体」がついに解明
「土偶は女性モチーフ」の認識が覆った!驚きの新説(前編)

 (中略)
土偶の存在は、かの邪馬台国論争と並び、日本考古学史上最大の謎といってもよいだろう。なぜ縄文人は土偶を造ったのか。どうして土偶はかくも奇妙な容貌をしているのか。いったい土偶は何に使われたのか。縄文の専門家ですら「お手上げ」なくらい、土偶の謎は越えられない壁としてわれわれの前に立ちふさがっているのである。
 (中略)
結論から言おう。
 土偶は縄文人の姿をかたどっているのでも、妊娠女性でも地母神でもない。〈植物〉の姿をかたどっているのである。それもただの植物ではない。縄文人の生命を育んでいた主要な食用植物たちが土偶のモチーフに選ばれている。
 (中略)
 古代人や未開人は「自然のままに」暮らしているという誤解が広まっているが、事実はまったく逆である。かれらは呪術によって自然界を自分たちの意のままに操作しようと試みる。今日われわれが科学技術によって行おうとしていることを、かれらは呪術によって実践するのである。
  (中略)
つまり、「縄文遺跡からはすでに大量の植物霊祭祀の痕跡が発見されており、それは土偶に他ならない」というのが私のシナリオである。このように考えれば、そしてこのように考えることによってのみ、縄文時代の遺跡から植物霊祭祀の痕跡が発見されないという矛盾が解消される。
(以下略)

引用元:JBpress https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65038

結論は既に本文冒頭に書かれていますが、改めて簡潔に書き直すと次の様になるかと思います。

 土偶とは植物霊祭祀の一環として食用植物を擬人化したもの

そして、竹倉氏の記事は後編へと続くのですが、そこでは新説の実証として、縄文時代から自生する食用植物と土偶の形状との比較をオニグルミを題材に細かくかつ具体的に検証されています。

この食用植物擬人化説が定説と成り得るかどうかは今後の更なる検証を待つとして、「呪術」や「祭祀」を当時の人々の純粋な「必然的実践」として捉え直した点はたいへん重要であると私も評価します。

当時の人々にとって世界がどう見えていたのか、それは現代社会の常識でいくら俯瞰してみたところで理解できるはずがありません。彼らにとっては、それが生き残るために絶対に欠かせない要素であるからこそ土偶を作ったはずです。

彼らが土偶を必要としたその時代の論理と背景、それを追求することこそが土偶の謎を解明する上での最初のステップである、その点において私は竹倉氏のアプローチには全面的に賛同できるのです。

ただ一つ付け加える要素があるとすれば、せっかく「呪術」という歴史観を得たのなら、それを植物霊祭祀に限定して議論することは少し性急ではないかということです。というのも、古代呪術とは森羅万象に及ぶものであり、草木魚貝の形状のみに拘るような小さなものではないと考えられるからです。

例えば、東北地方に多く見られる環状列石をどう説明したらよいのでしょうか?一般的に天体の運行に関係しているのではないかと言われる環状列石も、呪術における一つの形態と考えれば、植物霊祭祀と全く無縁であったとも言い切れません。植物は陽によって育ち、雨によって育まれることくらい古代人も理解していたはずです。そのような天体を含むこの世の万物に対する信仰姿勢や呪術的手法まで突き詰めない限り、早々に結論を出すべきではないと私は考えます。

画像5:大森勝山遺跡の環状列石跡(背景は岩木山)

■東日流外三郡誌が記述する土偶

前回の記事で、東日流外三郡誌(以下三郡誌と略す)をご紹介しましたが、ここでまた、三郡誌が遮光器土偶についてどのように述べているのか、参考までに書籍から一部を抜粋し掲載したいと思います。

画像6:東日流外三郡誌に登場する遮光器土偶
※八幡書店 東日流外三郡誌1古代編(下)320ページより

同書によると、この絵が転写されたのは寛政5年ということですから、西暦で言うと1793年ということになります。1800年代後半の明治期に土偶の研究が始まったとされていますから、それよりも100年前に三郡誌は既に土偶について触れていたということになります。もちろん、この記述が本当ならばですが。三郡誌は後年になってかなり書き足された形跡も見られるので注意が必要なのです。

一応、記述が正直なものであると受け止めて解釈すると、遮光器土偶は荒吐国(アラハバキ)で崇拝された神の姿を象ったものであるということになります。

同書によると、荒吐国の信仰対象とは日月水木金火土鳥獣魚貝などの自然物や、雨風病死などの自然現象だったと言います。大きく捉えれば自然崇拝となるでしょうか。そして、それぞれの自然物・現象を神として崇めたとあり、それらが各々偶像化されたものが上図にあるような土偶の意味であると言ってるようです。

同書には上図に続き、遮光器土偶の姿をした神、ハート型土偶の姿をした神、そして変わり種としてはユダヤ教祭司のような姿をした神まで挿絵として登場します。その中で圧倒的に多いのは遮光器土偶型ですが、正直なところそれぞれの形状の違いは明瞭に見分けが付きません。各挿絵には草神・木神・魚神などの神名が添えられています。食料に関する神々も多数登場しますが、ここで大事なのは、土偶は信仰の対象として作られたと記述されている点でしょう。

残念なのは、なぜこのような遮光器を被っているような形状の頭部になるのか、あるいはハート形のような不思議な形状の頭部になったかの説明はなく、ただそれを「荒吐の神々」と断じている点です。また、画像4で示したような、全国で見られる土偶のバリエーションについては記されておらず、この記述を以って土偶とは何かを論ずるのは、やや早計かと思われます。その点では竹倉氏の考察の方がより説得力があると感じます。

土偶の意味は古代信仰・呪術、引いては古代社会の世界観を知る上でたいへん重要であると私は見ます。よって、三郡誌が土偶について触れた点も含めて、後日改めて考察を深めたいと考えています。

 * * *

このブログでこれまで取り扱った古代とは、記紀の神代に相当する部分であり、現在の歴史学的な区分では弥生時代に相当します。しかし、縄文や弥生を時代を区分する記号として使用するのは少しおかしくはないでしょうか?

中世時代に至るまで東北地方が弥生以降の文明の侵入を阻んでいたと言うなら、東北地方は2000年近くも長く旧来の縄文文化圏のままであったことになります。つまり、縄文とは時代を指す言葉ではなく、あくまでも文化スタイルの違いを表す言葉に過ぎないことになります。

そうなると、弥生・縄文の文化的併存時代が長期に亘って存在したことになり、古代の時代区分として弥生と縄文を使い分けるのに意味はなくなります。むしろ、2つの異文化がどう混じり合い進化してきたのか、そこを問うことに大きな意味があるのでしょう。

その意味でも、縄文文化の影響をより強く残す関東以北、つまり日本の東半分に注目しなければ真実の日本古代史は見えてこないだろうと私は予想するのです。


古人の山と語りせば神とぞ見ゆ
管理人 日月土

トンカラリン-熊本調査報告

今月23日の連休期間、遺跡調査のため熊本県を訪れました。熊本市内を滞在の拠点とし、複数の場所を回ってきましたが、中でも前々回の記事「チブサン古墳とトンカラリンの小人」で取り上げた謎の遺跡「トンカラリン」を、この目で実際に確かめることが最大の目的でした。

画像1:熊本市内の市電
久しぶりの熊本訪問では市電に乗るのも楽しみの一つでした

ところが、短期間で気になる場所をあちこち回っている間に時間が無くなり、結局のところ、トンカラリンを訪れたのは、熊本を離れる当日の早朝となってしまいました。朝6時のまだ暗い時間にホテルをチェックアウトし、夜が明けた頃の7時前にトンカラリンのある熊本県玉名郡和水町(なごみまち)に到着したのです。

現地に到着して、最初に見学したのは、トンカラリンではなく、すぐ近くにある江田船山古墳でした。同古墳は肥後古代の森公園内にあり、公園内には丁寧に芝の刈り込まれた形の整った古墳が幾つも点在していました。

画像2:肥後古代の森公園とトンカラリンの位置関係

以下、公園内の風景写真です。画像6のモニュメントには呪術的な意味があるのですが、現在は特に悪影響は無いとだけお伝えしておきます。

画像3:江田船山古墳(中央)
画像4:京塚古墳
画像5:九州の古墳でよく見られる石人
画像6:公園内のモニュメント
画像7:公園内案内板

次にトンカラリンの終点部分、高台に建てられた菅原神社を先に見に行きました。トンカラリンに関する資料等を見ると、この神社とトンカラリンの関係は不明とされていますが、現地で実物を鑑定するとその関係性は明らかです。

これについては歴史学や考古学でいくらアプローチしても理解できるはずがなく、そのシンボル的な意味は陰陽道や気学・気功の知識を以ってして初めて解明されるものです。古代の日本人は、簡単に言うと「呪術が大好き」であり、実効性のある技術として本気で信じ、実践していたのです。加持祈祷で病気を治すなどと言うのもその一例と言えるでしょう。ですから、それを非科学的なものとしてバカにして見る限り、古代人の考えが分かるはずもありません。

その観点から、この菅原神社は明らかに

 遺跡封じを目的に建てられたもの

と言うことができます。それは、例を挙げれば、境内の中に無暗に石柱や石碑を置いてることなどに見て取れます。この場合の石柱とは

 地に穿たれた剣

と呪術的に見ることができるからです。剣を突き刺された土地は生気を失い、過去にそこで起きた出来事について語るのを止めてしまうのです。これをゲームや劇画の用語で言うなら「封印」と言い換えることができるでしょう。要するに、この土地が記憶する過去を消してしまえという発想なのです。

画像8:菅原神社正面
画像9:鳥居脇の石柱
画像10:牛の像。これはこれで別の意味がある
画像11:こんな石碑がたくさん置かれている
画像12:蘇鉄の木も封印術で良く使われるアイテム

上記写真をご覧になれば分かるように、この神社は呪術的な封印アイテムに事欠かないのです。そうなると、どこの誰が、いったいどんな過去を消したくてこのような呪術を施したのかが問題になります。

それを説明する仮説として、「トンカラリンの小人」で私は、”国家的かつ世界的な歴史隠蔽政策の一環として、小人種や巨人種、有角種などの異形種人類が実在していた痕跡を消そうとしたのではないか?”という考えを示しました。

そして、菅原神社を訪れてその思いは一段と高まったのです。

さて、以下の写真はトンカラリンの出入り口やトンネル部を撮影したものです。基本的にネットなどで紹介されているものと変わらないので説明は省略しますが、実物を見た時に、予想以上に不可解な思いに囚われたことをここに記しておきます。その感覚とは、かつて生贄が捧げられていた祭場跡などで感じたものと同じなのです。

そこで、ここに小人種が居たのではないかという仮説はひとまず置いておくとして、もう一つの仮説についても検討しなければならない必要性を感じました。それは、トンカラリンは小人ならぬ

 小児生贄の場ではなかったのか?

というものです。もちろん、その両方が存在した可能性もあります。

画像13:トンカラリンの入り口と看板
画像14:入口付近の階段構造
画像15:この小径の下を石組みトンネルが通っている
画像16:地上部の切り立ったトンネル。奥に出口が見える

■和水町で見つけた謎の石祠

前掲の画像2の中に、水色のマークを付けた場所があります。そこは訪れる予定のない場所でしたが、前を通り過ぎた時に何故か気になり、車を止めて小高い丘の上まで続く階段を登りました。そこで見つけたのが、以下の写真17の石祠と石碑です。

画像17:謎の石祠

これが何の神を祀っているのか、帰りの飛行機の時間が迫り地元の方に尋ねる時間はありませんでしたが、おそらく、そうしたところで正しい答えは返ってこなかったでしょう。何故かと言うと、私の予想が当たっているなら、その祭神名を知っている人がそれを正直に口にするとは思えないからです。

この場所については、次の聖句を用いて私の推察を示すに留めたいと思います。そしてこの推察が正しいのなら、この辺り一帯の土地が古代期においてどのような場所であったか、より鮮明になることでしょう。

お前たちの住む所はどこにおいても、町は廃虚とされ、聖なる高台は荒らされる。祭壇も廃虚とされて荒らされ、偶像は粉々に砕かれ、香炉台は打ち壊され、こうしてお前たちの作ったものは一掃される。

(エゼキエル書 第6章6節)

今回の熊本調査では、トンカラリン以外にも多くの発見がありました。それらについては追ってお知らせしたいと思います。また、「トンカラリン」という不思議な命名についての考察を明日のメルマガで掲載する予定です。


奪い尽くされて、彼女は地に座る(イザヤ 3:26)
管理人 日月土

チブサン古墳とトンカラリンの小人

こ数か月、関東の記事が続いてしまいました。今回は少し視点を変えて、数年前に調査した九州の古墳・遺跡群についてレポートしたいと思います。

■装飾古墳とは何か

古墳と言えば、天然石で組まれた石室と石棺などがイメージされますが、中には棺や、それを納める石室の壁面に、模様を刻んだり、着色された絵などを施した装飾古墳(そうしょくこふん)というものがあります。

取りあえず、Wikiペディアではどのように説明されているのか調べてみましょう。

装飾古墳(そうしょくこふん)は、日本の古墳のうち、内部の壁や石棺に浮き彫り、線刻、彩色などの装飾のあるものの総称で、墳丘を持たない横穴墓も含まれる。大半が九州地方、特に福岡県、熊本県に集中している。福岡県桂川町の王塚古墳(国の特別史跡)、熊本県山鹿市のチブサン古墳などが有名である。

引用元:Wikiペディア「装飾古墳

Wikiの説明にもあるように、実はこの装飾古墳は九州にあるものが、他の地域におけるその数を圧倒しているのです。

私も、とても全部を回りきれてはいませんが、次の古墳に赴いてその装飾デザインを見てきています。

 竹原古墳   福岡県宮若市
 王塚古墳   福岡県桂川町
 チブサン古墳 熊本県山鹿市

画像1:竹原古墳の装飾
画像2:王塚古墳の装飾
画像3:チブサン古墳の装飾

※当時撮影した写真を紛失してしまったので、上記画像は福岡・熊本両県の各自治体公式ページから拝借しています。

 ・宮若市公式ページ:竹原古墳
 ・王塚装飾古墳館公式ページ:墳丘と石室
 ・山鹿市公式ページ:チブサン古墳

今回は、この中から特に熊本のチブサン古墳を取り上げたいと思います。

■チブサン古墳、謎の人物画

まずはこの古墳の名前の由来ですが、一般的な説明では、石室内の石屋形(いしやかた)内壁に描かれた装飾文様の中に丸い乳房のような形状が2つあるので、そこから名付けられたことになっています。仮にも古代の有力者のお墓なのに、そんな名前の付け方ってどうなんだろう?とは思うのですが、まあ、分かりやすいといえば分かりやすいですよね。

画像4:乳房の模様?(写真は屋外のレプリカ)

そして、チブサン古墳で最も注目されるのが、3方向に分かれた冠を被った、あるいは、3本の角を生やした人物のような絵がそこに描かれていることです。

画像5:冠を被った人物か?(写真は屋外のレプリカ)

この人物画とその上に描かれた7つの丸い円を以って、「UFOとそこから降り立った宇宙人だ!」と騒ぐ方もいらっしゃるようですが、想像するのは自由だとは言え、まずはなるべくオーソドックスな解釈から入るのが正道でしょう。普段から変なことばかり書いてる私が言うのも何なのですが…

■失われた石板の謎

現地にてたいへん物知りで熱心な学芸員さんの説明を聞きながら、私は覗き窓越しにこの装飾を眺めました。

そして、最初に違和感を感じたのが、

 石屋形の壁を構成している石板の1枚が欠けている

ことなのです(画像3)。学芸員さんの説明によると、この古墳が発見された時には既に盗掘されて古墳の口が開いており、石板もおそらく盗掘時かそれ以降に持ち出されたのだろうとのことです。

しかし、待ってください、石室内の祭具や宝飾品類が盗み出されるのまでは理解できますが、どうして、重くて大きな石板を持ち出したのでしょう?それも1枚だけ?もしも装飾に価値があるのなら、墳丘を崩して全部持ち出せばいいことです。それをわざわざ1枚だけ、狭い入り口からいそいそと運び出したその理由が理解できないのです。

ここで、このブログがこれまで主張してきた次の基本的な考え方を思い出してください。

 記紀は真の日本史を書き換えるために編纂された

つまり、上古代に実在したはずの古代天皇を全て超自然的な神様に祭り上げ、八百万の神々を創作してしまったというアレです。すると、国家的とも言えるこの歴史隠蔽政策は、記紀が編纂された西暦700年代以前の古代期には既に始まっていたと考えられるのです。そして、チブサン古墳が築かれたとされる古墳時代後期はちょうどその政策が全国に広がり始めた頃だと想像されるのです。

何が言いたいかというと、埋葬当時やそれ以前を想起させる歴史情報の多い「装飾文様」なる媒体は、同政策遂行上たいへん目障りだったと考えられるのです。だからこそ、装飾された石板の中でも、後世に最も知られてはならないものだけを、どこかの時点で運び出したのではないかと考えられるのです。

私は、おそらくその盗まれた石板に描かれていたのは「文字」だったのではないかと予想しています。

ここまで書くと、読者の皆様の中には

 ならば、石板を全て持ち出し、古墳を丸ごと潰してしまえばよいではないか

と思われる方もいらっしゃるかもしれません。それは、その通りなのです。私もそこまでして昔のことを知られたくない人たちが、どうしてその他の石板をそこに残したのだろうかと考えあぐねていましたが、よく考えたら、その答はとても簡単であることに気付きました。

 誤った歴史観を植え付けるのに利用すればいい

要するに、歴史文献における記紀と同じで、装飾そのもに手を加えて後代の発見者を誤誘導、あるいは攪乱させようと考えたはずなのです。そして、おそらく文字が書かれた石板だけは、盗掘者も解読の必要があり、資料として持ち出さざるを得なかった。そう考えると辻褄が合ってきます。

ですから、チブサン古墳の装飾文様が、果たして建設当初のままだったかどうかはたいへん疑わしいのです。そうなると、宇宙人と呼ばれる人物画の形状も、そのまま素直に受け取ってよいのだろうかという疑問が生じるのです。

何しろ、3本の角とは、悪魔バフォメットの象徴でもあり、こんなものを死者を安置する聖所に描くこと自体があり得ないのです。むしろ、埋葬者を侮辱するため、後からわざと悪魔を描いたと考える方が自然なのです。

画像6:バフォメット像
※呪術的観点からオリジナル画像に危険防止加工を施しています

なお、当時の人々が悪魔バフォメットの概念を理解していたのか?それについて疑問を持たれる方は、前回の記事で「ユダヤ人埴輪」を取り上げたことを今一度思い出してください。古墳時代には、旧約聖書における神と悪魔の対立概念が日本の地に存在していたと考える方が自然なのです。ですから、その時代以降から現在に至るまで、どの時代にバフォメット像が描かれたとしても不思議はないのです。

■チブサで読み解く人物画

ここから更に推論を加えて行きます。必ずしもこれが正解であると主張するつもりもありませんが、日本の国家的な歴史隠蔽政策という考え方に矛盾が無いよう論を進めると、どうしてもこういう結論になってしまうのだとご理解ください。

さて、ここでもう一度「チブサン」という違和感たっぷりの名前に焦点を当ててみます。この変な名前の由来は上述した通りなのですが、こういう命名にしたのは、親しみを感じるからというよりは、むしろ

 何かの暗号、あるいは暗示

を残したかったからだとも考えられます。ここで、画像4(チブサ)と画像5(人物)を見比べます。

画像7:チブサと人物の比較

そもそも、この乳房と呼ばれる模様自体が、全体の装飾文様の中では何か違和感を感じさせます。そして、これが「チブサン」なる暗号を残した意味だとすれば、おそらくこの乳房の絵は後から描き加えられたものであり、この中にに何かの意図が隠されていることになります。

私はこれをオリジナル装飾の復元コードなのではないかと解釈しました。乳房の絵は、「赤丸の中に白丸、そして白丸の中に小さな黒丸」となっており、それが少し離れて二つあるという構造を取っています。

これってどうなんでしょう、当初からこれは乳房の絵だという先入観から入りましたが、何の情報もなければ私たちはこれを見てこう思ったはずです

 これは「目」じゃないのか?

そして、この復元コードを先の人物画に適用して得られたのが次の図なのです。

画像8:復元した人物画

頭部の切れ込みのように赤く塗られた部分に、白目と黒目を入れるともう少し現実的な人物画が浮き出してくるのです。

ここまで紐解いたとき、次に問題になるのは、以下の点です、

 どうしてこの人物画を隠さなければいけなかったのか?

もちろん、バフォメット像をそこに描きたかったというのもあるでしょうが、理由がそれだけならば、わざわざ「チブサン」などという暗号名を残して、事情を知る関係者に対して特に注意喚起を求める必要などなかったはずなのですから・・・

■トンカラリンの住人

さて、ここでチブサン古墳から一旦離れ、周囲にある遺跡に目を向けます。熊本県山鹿市から隣の玉名市にかけては古墳等の遺跡が非常に多い所なのですが、今回はあの有名な石組みの遺構、玉名市にあるトンカラリンに注目します。

画像9:チブサン古墳とトンカラリンの位置関係

トンカラリンと言うと、あの戦時歌謡「トントン トンカラリと 隣組♪」の「隣組」を思い出す方もいらっしゃると思います。当然ながら、私はこの歌と遺跡の間に関係があると見ていますが、今回はそこにフォーカスしません。

トンカラリンがどのような遺跡なのか、それを知るのにちょうどよい観光PR動画があるので、まずはそちらをご覧になってください。

動画1:トンカラリンのPR動画

この動画の中で、縦横70㎝ほどの、大人が這ってやっと通れるような石組みのトンネル(動画では暗渠と呼ばれている)が出てくることにご注目ください。

これについては排水路なのではないかという意見もあるのですが、これに続く階段が設けられていたりするので、どうも水路とも言い切れず、一体全体いつ誰がどんな目的でこんな狭いトンネルを作ったのか、謎とされています。

ここで再び、先ほどのチブサン古墳の人物画(画像8)に注目してください。画像ではこの人物画がどれくらいの大きさで描かれているのか分かりませんが、石板の高さが1.4mですから、描かれた人物の身長は50cmくらいかと思われます。

私は、この人物画は実寸大に描かれているのではないかと考えています。つまり小人型の人間が古墳時代の当時この地域にいたのではないかということです。そう考える理由はこれまで述べてきた通りで、それをまとめると次のようになります。

 (1)わざわざ人物画を改竄し、注意を促す暗号を残している
 (2)トンカラリンの石組トンネルの小ささが説明できる

「またまた、変なことを言って~」という読者様の声が聞こえてきそうですが、実は過去記事「異形の人々考」で古代期における巨人の実在可能性を論じた時と、議論の本質は全く変わらないのです。

ただでさえ、童話の中では小人がたくさん登場し、それに加えギリシァ神話のピュグマイオイ、ガリバー旅行記のリリパット、北海道のコロボックルなど、小人に関する話題は昔から世界中で見られるのです。現存する小人では大人の身長が150cmほどの、アフリカのピグミー族が有名です。

画像10:世界の小人伝説(引用:Wikiペディア、フリー画像)
 左から、ピュグマイオイ、リリパット、コロボックル

以上のような事実を踏まえると、巨人種や有角種などと同じように、かつて小人種が地上に生存していた時代があったと仮定しても、それほど突飛な発想ではないだろうと思われます。

むしろ、米国スミソニアン博物館が必死になって巨人の骨を隠すように、この日本でも同じように巨人種や小人種などの異形種の痕跡を消そうとしている、そしてこの作業自体が、過去から連綿と続く歴史隠蔽政策の一環なのだろうと窺われるのです。

そのような、不都合な歴史の痕跡を漏らさず摘み取らんとする強い意志を表しているのが、実はこの「トンカラリン」という奇妙な名前なのですが、これはおそらく「トゥカラリーム」という音から来ているのでしょう。その考察については、メルマガ及び次回以降のテーマとしたいと思います。

最後に、チブサン古墳に描かれた七つの白丸とは、私が調べた限りではギリシャ神話に登場する「パンドラの箱から放たれた七つの災い」を象徴しているようなのです。そうなると、ユダヤどころかいよいよここは日本なのかギリシャなのかというヘンテコな話になってしまいます。

この話をヘンテコな珍説だと言って一笑に付すのは簡単なのですが、でもこうは考えられないでしょうか?歴史隠蔽政策は日本だけでなく

 かなり古い時代から世界規模で行われている

のではないのか?こう考えると、巨人や小人、有角人(鬼)など多様な異形種の伝承、ユダヤやギリシャが混在する日本の古代遺跡の姿、なおかつそれを隠そうとする現在の動きまでが全てカバーできるのです。

まさに歴史の陰謀論ですが、それではなぜ、隠蔽の首謀者たちはそこまで膨大なエネルギーと長大な時間を掛けてまで真の世界史を隠そうとするのか・・・という次の大問題が浮上してくるのです。

私が(新)(真)(神)の3つのブログで扱っているテーマとは、詰まるところ、複数のアプローチからその唯一の理由を追い求めているだけとも言えるのです。

災いだ、主を避けてその謀を深く隠す者は。彼らの業は闇の中にある。彼らは言う。「誰が我らを見るものか/誰が我らに気づくものか」と。
(イザヤ書 第29章15節)


永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
(ヨハネによる福音書 第17章3節)


奪い尽くされて、彼女は地に座る(イザヤ 3:26)
管理人 日月土

異形の人々考

この2か月、世間は新型コロナウィルスで大騒ぎです。報道などではこの騒ぎの負の面を強調しがちですが、国の危機と言うなら、改めてこの国=日本(にほん)とはどんな国なのか、そして、どのように成立したのかを考え、知見を深めることが重要ではないかと思います。

今回はまず、海外記事のご紹介から始めます。こちらのサイト、宇宙人だとか、超常現象を扱う、いわゆるオカルト系に分類されるちょっと注意が必要なサイトではありますが、こと超古代系に関しては歴史考察上見るべきものがあります。

まずは記事(和訳:日月土)をご覧ください。

スミソニアン協会、ついに巨人の骨やその他の証拠を隠滅した事実を告白するのか
2020-03-25

合衆国最高裁判所はスミソニアン協会に1900年代初頭からの機密文書を開示するよう命令した。どうやら同協会が主要な隠ぺい工作に関わっていたらしい。

同文書は米国全土で発見された巨人の遺跡について書かれたものだ。


複数の新聞が、人類進化の定説を守るため、これらの発見を遺棄するよう命令されたことを伝えている。

これらの真実はスミソニアンの内部告発者グループによって確認され、彼らは文書の遺棄により、身長3.6mにも届く数千もの人骨の存在を示す証拠が永遠に失われることになると表明している。


13メートル(*)もの長さの人間の大腿骨が巨人が存在した証拠として示されたとき、それは起きた。 その証拠は1930年代にスミソニアン協会員によって盗まれ、それからずっと彼の元で生涯の間保管されていたのだ。


その時点に遡り、合衆国最高裁判所はスミソニアン協会に対し、自国の文化と歴史にとって重要と考えられる証拠類の破棄、それに関するあらゆる機密文書を開示するよう命じた。


*訳者註:写真から13メートルは1.3メートルの誤りと思われます。一般的な米国人はメートル法の尺度感覚があまり強くありませんので

引用元:KNOWLEDGE TIME Smithsonian Finally Confess The Destruction of Giant Skeletons and Other Evidence

本件に関して、いつどのような判決が出たのかについては特に裏を取ってはいません。今回の引用で注目すべきは、米国では昔から、巨人の骨が見つかっては隠され続けているとの噂が絶えないことです。

これは米国大陸だけの話かと思ったら、実は日本でも東日本大震災の時に土砂崩れで巨人骨が露出したのでは、と話題になったことがありました。

画像1:動画「【巨人】日本で発見されたとされる巨人の画像」より

私は、日本航空123便事件の真相を追い続けて、つくづくこの国は、またこの世界は隠し事が多いなと、もはや驚きを通り越して呆れ果てています。この巨人種の話題もその中の一つであります。

なんで巨人種のことを隠すのか、その理由を考えた時、巨人種の存在を認めると次のような問題が生じてしまうことが分かります。

 (1)人類進化の問題
 (2)古代の地球環境の問題
 (3)歴史解釈の問題

■人類は本当に猿から進化したのか?

(1)の問題は、まさしくダーウィンが提唱した種の起源の根幹に関わる問題です。この進化理論の中で、巨人種の存在を認めてしまうと、巨人種の派生元もさることながら、我々人類の進化系統について大いに議論となることは間違いないでしょう。

このブログは「日本の成立史を考察する」ことがテーマですが、人類進化の問題に触ると、これはまさに「人類成立史」という根本的課題に発展することとなります。こちらも私たちにとっておろそかにできない重要事項ではありますが、ひとまずこれは置いておきます。

■古代の重力は今より軽かった?

(2)はさらに重要な課題を私たちに投げかけることになります。画像1を見る限り、頭部だけで少なく見ても1.5メートルはあるでしょう。全身を6頭身位と見積もれば、身長は9 メートルということになります。

全高だけで現人類の5倍強ですから、体内組成を現人類と同じと考えれば、体重は5の3乗倍、125倍となります。

身長180㎝の現人類の平均的体重が70キログラムとすれば、なんと、この巨人さんの体重は8,750キログラム、9トン近くも体重があることになります。

足裏の面積は5の2乗倍しか増えませんから、足裏の単位面積当たりに掛かる体重は5倍になります。これは私たちが自分の体重の4倍の重量のダンベルを担いだ状況を想像するとよいでしょう。それを持ち上げられますか?そもそも組成自体が現人類と同じなら、これだけの重量を脚が支えきれるのか、支えられたとしても満足に歩行できるのかという問題が生じます。

このような物理学的見地に立つと、この大きさの巨人種が存在することはまず否定されるのですが、それでもこれだけの大きさの骨が実際に出てきたとなると、客観的に考えて次のような仮説を想定しなければならなくなります。

 古代地球の重力環境は現在と異なる

これはたいへんなことです。だって、私たちは古代世界を推し量る時、すべからく世界の物理的環境は現在と同じであると想定しているからです。ここが崩れると、人類の進化論どころではなく、地球史観そのものに大きな変更を求められることになるからです。

■巨人は比較的最近まで存在したのでは?

巨人が存在していたとしても、記録に残らない遥か遠い昔の話だったら、まだ頭の中で整理が付きます。しかし、画像1はまた別の事実を突き付けるから問題なのです。

一般に、日本の酸性土壌では腐食の進みが早く、人骨は2000年も経つと原型を留めるのが難しいと言われています。ところが、画像1に写る人骨はその表面の質感まできれいに原型を留めています。

この状態を見ると、この骨はどんなに古くても数百年程度しか経っていないと考えられ、それはだいたい鎌倉時代(1200年代)から戦国時代(1500年代)の間であろうと、ざっくりと見積もれるのです。いわゆる中世の時代です。

私たちが学校教育で学ぶ歴史にはもちろん巨人種がいたなどと書いてはいません。しかし、その時代くらいまで巨人種がいたとなると(1)、(2)の問題も含め、私が扱おうとしている古代(1700年くらい前)、そして超古代(それ以前の神話時代)の時代にも巨人種が存在していたことを想定しなければ、真の日本成立史を考えることにならなくなります。

つまり、巨人種が存在することによって生じる(3)の問題は、このブログにとっても無視できない問題なのです。

画像2:エクアドルの博物館で展示されている身長7mの巨人の骨
20+ Foot Tall Ancient Giant Skeletons On Exhibit for World to See ECUADOR GIANTS. | 2017 より

■歴史における異形種問題

巨人と言えば、民話などに現れる「だいだらぼっち」が有名です。その足跡が湖となったとか、運んだ土塊が山になったとかいう伝説は全国に数多く残っています。

果たしてそれが、昔の人々の際限無き空想であったと決めつけるのは、もしかしたら歴史解釈上の大きな見落としなのではないでしょうか?すぐに現実と受け入れられない話を即座に空想の産物と見なすのは、現代社会しか知らず教科書的な歴史的事実しか知らされていない、それこそ私たちの勝手な空想なのかもしれません。

上述した(1)~(3)までの諸問題が考えられるように、巨人種の存在を認めることは、現代科学、歴史学の解釈を根底からひっくり返す可能性があるのです。だからこそ、米国スミソニアン協会は、その事実が表に出ないよう、必死に隠そうとしているのではないでしょうか?

本ブログ記事「ダリフラのプリンセスプリンセス」では、歴史上の人物である神武天皇、そしてその双子の皇后であるタタラヒメ、イスズヒメ(ヒミコ)に実際に角(つの)があったのではないかと予想しています。そして、その事実を隠すため、また印象を歪めるために、鬼退治や豆撒きなどの鬼の存在を悪と見なす、あるいは否定する風習が作られたのではないかというのが、私の考えです。そして、米国スミソニアン協会の日本版こそが現代の日本仏教界であり、神社本庁なのではないかと思われるのです。

現代人と見た目が異なる異形種の存在、それを否定しようとする考え方は「鬼」だけでなく「巨人」にも当てはまり、本当の古代の姿を私たちから遠ざけるために後から広められたものではないか?ならば、この問題を掘り下げることこそ日本成立史を知る大きな鍵となるかもしれません。

 * * *

明日発行のメルマガでは、本記事の解説の他に、時事の中心話題となっている新型コロナウィルスについて、その学術記号となっている「COVID-19」に込められた暗号の意味、及びその古代史的解釈について解説したいと思います。


誠の神力を現す世と成れる
管理人 日月土