富士の高嶺と七支刀

今回の記事も10月に行った福岡における調査レポートの続きとなります。

冒頭いきなりですが、次の和歌が今回の調査のテーマとなります。

 田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ
 富士の高嶺に 雪は降りつつ      
                    山部赤人

この和歌については、(真)ブログ記事「ラブライブ、忘れちゃいけない田子の浦」で一度話題に取り上げています。そこで書いた内容を要約すると次の様になります。

この和歌に出てくる「富士の高嶺」が現在私たちが認識している富士山を指しているのか、状況的に疑問な点がいくつかある。どこか別の地で読んだ歌なのではないか?

同記事にも書いていますが、そもそもこの歌が掲載されている万葉集と同時代(700年代)に編纂された日本書紀・古事記の両方に

 富士山の描写は一つもない

のです。

ですから、かなり突拍子もない説だと分かってはいますが、もしかしたら1000年以上前の同時代には、富士山そのものがなかった、あるいは現在の姿とは全く異なるものだったのではないかと論じたのが、過去記事「富士山は突然現れた」だったのです。

この奇説に基づいて冒頭の和歌がどこで詠まれたものなのかを考察した時、ヒントになったのが、次のこれまた有名な和歌だったのです。

 天の原 ふりさけ見れば 春日なる
 三笠の山に 出(い)でし月かも
         安倍仲麿

こちらについては(新)ブログ「三笠の山の月を詠む」で次の様に結論付けています。

この歌は、遣唐使として都(みやこ)のある大宰府から大陸へと向かった詠み人が、海上でふと都の方を振り返り、見慣れた御笠山(宝満山)から月が出ているのを見て、思わず郷愁にかられた心情を詠んだもの。

どういうことかと言うと、通説では奈良の地と考えられている「都(みやこ)」を、現在の太宰府に置き換えると、和歌に出てくる全ての地名、また地理的条件までピッタリと当てはまるのです。

この事実から、当時の都とは奈良ではなく九州、それも北部九州の太宰府にあったのではないかという、いわゆる九州王朝説を支持する証左が得られるのです。

今回は九州王朝説には深入りしませんが、当時(いわゆる奈良時代)の都が「太宰府」にあったとするなら、冒頭の歌の詠人である山部赤人も、太宰府を中心したその周辺地域が行動範囲であったと考えられるのです。

ですから、富士の高嶺は太宰府を中心としたその周辺にあるに違いない、私はそう予測したのです。

■九州の富士を探せ

富士という名前はポピュラーで、日本全国にその名が付けられています。富士山が見える関東地方ならば「富士見」という町名がどこにでもあることはご存知でしょう。

そこで、住所表記に「富士」の名が付けられている場所が何件あるかを調べたところ、北海道から九州までの29県にその名のあることが分かりました。そして、その中から上位10県を抜き出すと次の様になります。

画像1:「富士」が地名の地区件数

上位4県の内、静岡県は富士市があるように富士山のお膝元ですから数字が多いのは分かります。また、群馬県の場合は前橋市に合併した旧富士見村の名前がそのまま小地区名に残っているので、それで数字が増えているのが分かります。

また、北海道は歴史的に地名の付けられたのが新しいので、地名分析の対象とはしません。

そうなると、北部九州の佐賀県がなぜかダントツで富士の地名の多い県と言うことになってしまいます。

これには理由があり、先の群馬県のケースと同じように、佐賀県旧富士町が佐賀市に合併された後も、旧町名を小地区名に採用しているために数字が大きくなっているのです。

この検索結果から、さらに「富士見」や「○○富士」のような眺望や別の山、建物名や都市部の新地名を指しているものを取り除くと、九州地区では次の1件だけが「富士」を指す地名として残るのです

 佐賀県旧富士町(フジチョウ) ※現佐賀市富士町

実は、私は合併前にこの富士町を訪ねたことがあるのですが、その理由は、九州北部なのにも拘わらず、なんでこんなところに「富士神社」があるのかたいへん気になったからです。

画像2:佐賀の富士神社と周囲の風景 (C)Google

しかし、富士神社の由緒を調べると祭神は昭和10年(1935)に「富士権現」と「富士明神」の合祀とあり、村が誕生する前から「富士」の名がこの地にあったことを物語っているのです。おそらく「富士村」の名もこの神社の由緒から付けられたのではないかと想像されるのです。

「権現」(ごんげん)とか「明神」(みょうじん)は神仏習合の神の名で、修験道の名残が強く感じられます。ここから、中世期に富士山信仰の修験道者がこの地で何らしかの信仰を開いたとも考えられるのですが、そうだとしても、本州の富士山からこんなに遠く離れた場所で、富士山のスケール感など全く分からない土地の人々に富士山信仰を説いたとはちょっと考えにくいのです。

それを裏付けるかどうか分かりませんが、「富士」の名を冠する神社は九州では、

 ・長崎県南島原市の富士山神社
 ・福岡県福津市の富士白玉神社
 ・大分県武田氏の小富士神社

と限られています(他にあるかもしれません)。これらの神社と富士神社がどう関連するかはまだ調べが進んでないのでなんとも言えないのですが、同じく富士山信仰を象徴する浅間神社が九州では非常に少ない(なぜか長崎に多い)のを見ると、やはり違和感を覚えるのです。

話がだいぶ込み入ってしまいましたが、私が推測するのは、「富士」あるいは「ふじ」と呼ばれた古くからの呼称が、旧富士町(現在の佐賀市の北部山間地域)周辺にあったのではないかということです。

ラブライブ、忘れちゃいけない田子の浦」でも指摘したように、現在の富士山では雪が降り積もる様子を麓から眺めることなどできません。ですから冒頭の和歌で詠まれた「富士」とは、太宰府に近い九州北部にあった標高の低い山のことで、その富士なる山がどこであるかは、富士神社の所縁を調べることで見えてくるだろう、ひとまずこのように仮説を組み立てておきたいと思います。

■田子の浦とはどこか?

さて、冒頭の和歌に出てくる場所が次のように絞られたところで、次は「田子の浦」の場所特定に入ります。

  ・福岡県太宰府周辺
  ・佐賀県佐賀市旧富士町周辺

和歌本文の「浦」という字、「うちい出てみれば」を見れば分かるように、この地が海辺で船が着けられる内湾であることが見えてきます。

アルプスに残る海地名の謎」でも解説したように、海や船にまつわる古い地名は比較的最近まで残っていることが分かっていますので、ここでも地名検索で、該当の地を割り出してみることにします。

「浦」が付く地名は山ほどありますのが、前節までで、佐賀県南部・福岡県南部・長崎県島原地方・熊本県北部など、有明海北部沿岸付近であろうとエリアがだいぶ絞られてきたので、地名の検索範囲をこのエリアに限定します。

その結果、得られた選択肢は次の様になります。

画像3:該当地域の「浦」を含む地名。赤は有力候補、黄は次候補

次に、歌が詠まれた当時はまだ海進期のなごりで海岸線が内陸まで入り込んでいたと仮定します。その上で、この候補地名をプロットすると下図のようになります。

画像4:富士の高嶺がどの方角に見えるのか

この図によると、熊本の浦田からは山が壁になって佐賀地方の山岳部は見えません。ところが、島原の浦田、あるいはみやま市の田浦からだと、佐賀方面の少し高い山なら船着き場から海の向こうに遥かに眺めることが可能です。

画像5:現地で佐賀方面を眺める
古代期、海岸線がこの辺まで来ていたのだろう
画像6:高台の突端に鎮座する田浦の老松宮
かつて行き来する船の見張り台だったのではないか

そうなると、地名の語感から、「田子の浦」とはこの2つに絞られてくるのですが、私が現地を訪れて得た結論はやはり、みやま市の「田浦」なのです。それは、みやま市の現地調査で得らえたその他の傍証から確信できるのですが、それについては次回述べることにいたしましょう。

ここでは、田浦の南に道を辿ると、過去記事「トンカラリン-熊本調査報告」でお知らせした、熊本県和水町(なごみ)の江田船山古墳群、そして謎多きトンカラリンに至ることを指摘しておきます。

和歌が詠まれたのは古墳時代は既に過ぎている頃ですが、この古墳群が示す古代国家と太宰府の間に、もしかしたら陸海併用の連絡ルートがあったのかもしれない、そして山部赤人は九州王朝の役人として、熊本玉名方面での務めを果たしたその帰り道に、都が近いことを示す「富士の山」を見てこの歌を詠んだのかもしれないのです。

今回、タイトルに居れた七支刀が出てきませんでしたが、それについても次回触れることにします。


日子の宮遥かに望む有明の海
管理人 日月土


富士の高嶺と七支刀” への1件のフィードバック

コメントする