加茂と三嶋と玉の姫

※今回の記事は、3月20日に掲載したメルマガ購読者限定記事「加茂と三嶋の考察」に新たな考察を加筆したものです。

まず、前回の記事「甲と山の八咫烏」のまとめを箇条書にします。

  • 京都の代表的な神社、上賀茂/下賀茂神社の主祭神について記紀に記載がない
  • 賀茂建角身命 (かもたけつぬみのみこと)は八咫烏(やたがらす)と同一視される
  • 賀茂/加茂/鴨はどれも同じ「カモ」を指し表記が異なるだけではないか
  • 「鴨」の字は甲(きのえ)と鳥(からす)に分解され、八咫烏を現す符丁なのでは

そして、記事の最後に、同じ符丁が使われているとするなら、「三嶋」(みしま)はどのように読めるのかと、読者の皆様に問い掛けをして終わっています。

今回はその答について、私の考察を述べたものになります。

■賀茂一族は三嶋一族である

もうお気付きのように、「三嶋」の「嶋」の字が「山」と「烏」に分けられることから、賀茂一族同様、三嶋一族も八咫烏との関連性が同じ符丁で隠されているのだろうと考えたのです。

ここで、前回提示した賀茂一族の始祖、賀茂建角身命から始まる3代の系譜と、三嶋一族の始祖、三島溝橛(みしまみそくひ)から始まる3代の系譜を以下に比較してみることにします。

なお、賀茂の系譜は山城国風土記内の表記、また三嶋の系譜は秀真伝内の表記(ヲシテ文字→カタカナ)とします。史書文献によって表記文字がずい分と変わりますのでご注意下さい。基本的に音(読み)を軸に理解すると混乱は少ないと思います。


画像1:鴨(賀茂)と嶋(三嶋)の系図の比較

どうでしょうか。この図を見る限り、3代に渡る系図が両家共2代目の玉依姫、あるいは玉櫛姫を中心に同じように結ばれているのが見て取れます。それは単純に「そう見える」というだけの話ではありますが、ここに「烏」の文字の共通性を考慮すると、ただ同じように見えるだけでは済まないだろうという予感が湧いてくるのです。

ここで新たに注目しなくてはならないのが、古事記に書かれている以下の記述です。少々長目ですが、現代語訳を付けるのでその文意をよく読んでみてください。

 かれ、日向(ひむか)に坐(いま)しし時、阿多の小椅君(をばしのきみ)の妹(いも)、名は阿比良比売(あひらひめ)を娶して生みし子、多芸志美美命(たぎしみみのみこと)、次に岐須美美命(きすみみのみこと)、二柱坐しき。

 然れども更に大后(おおきさき)とせむ美人(をとめ)を求(ま)ぎたまひし時、大久女命(おおくめのみこと)白さく、「ここに媛女(をとめ)あり。こを神の御子といふ。その神の御子といふ所以(ゆゑ)は、三島湟咋(みしまみぞくひ)の女(むすめ)、名は勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)、その容姿麗美(かたちうるは)しかりき。かれ、美和(みわ)の大物主神(おおものぬしのかみ)見感(みめ)でて、その美人(をとめ)の大便(くそ)まる時に、丹塗矢に化(な)りてその大便まる溝(みぞ)より流れ下りて、その美人のほとを突きき。ここにその美人驚きて、立ち走りいすすきき。

 すなはちその矢を将ち来て、床の辺に置けば、忽ちに麗しき壮夫に成りぬ。即ちその美人を娶(めと)して生みし子、名は富登多多良伊須須岐比売命(ほとたたらいすすけひめのみこと)と謂ひ、亦の名は比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)と謂ふ。 こはそのほとといふ事を悪みてヽ後に名を改めつるぞ。 かれ、ここを以ちて神の御子といふなり」とまをしき。

岩波文庫 古事記(中) 神武天皇より

また、上原文の現代語訳は以下になります。

 さて、イハレビコノ命が日向におられたときに、阿多の小椅君の妹のアヒラヒメという名の女性と結婚してお生みになった子に、タギシミミノ命とキスミミノ命の二柱がおられた。

 けれどもさらに皇后とする少女をさがし求められたとき、オホクメノ命が申すには、「ここによい少女がおります。この少女を神の御子と伝えています。神の御子というわけは、三島のミソクヒの娘に、セヤダタラヒメという名の容姿の美しい少女がありました。それで三輪のオホモノヌシノ神が、この少女を見て気に入って、その少女が大便をするとき、丹塗りの矢と化して、その大便をする厠の溝を流れ下って、その少女の陰部を突きました。そこでその少女が驚いて、走り回りあわてふためきました。

 そしてその矢を持って来て、床のそばに置きますと、矢はたちまちりっぱな男性に変わって、やがてその少女と結婚して生んだ子の名を、ホトタタライススキヒメノ命といい、またの名をヒメタタライスケヨリヒメといいます。(これはその「ほと」ということばをきらつて、後に改めた名である。)こういうわけで神の御子と申すのです」と申し上げた。

岩波文庫 古事記(中) 神武天皇より現代語訳

ここに書かれているのは、神武天皇の新たなお后選びに大久女命が推した娘、それが 「神の御子」 と呼ばれている娘であり、何故そう呼ばれるのかその言われを大久女命が神武天皇に説明しているシーンです。

大物主(おおものぬし)神が丹塗矢に化けて現れ、 三島湟咋(三嶋)の娘を孕ませて生まれた子(*1)、それが 神の御子ヒメタタライスケヨリヒメ、日本書紀で表記するところの「媛蹈鞴五十鈴媛」(ひめたたらいすずひめ)となります。

*註1:丹塗矢が男性器を象徴しているのはもはや説明するまでもないでしょう

画像2:古事記における三島湟咋の系譜
上の画像と比較してみてください

ここに登場する三島湟咋(三嶋)の娘の名前「勢夜陀多良比売」は、上画像1の山城風土記・秀真伝に出て来る名前(玉依姫/タマクシヒメ)とは全く異なりますが、なぜか

 ・丹塗矢に孕ませられる(山城国風土記)
 ・大物主神と結ばれる(秀真伝)

と、画像1で示した両家の系譜に対してそれぞれ記述の共通性を併せ持っているのです(*2)。

*註2:秀真伝におけるヤヱコトシロヌシは大物主皇統の継承者ではありませんが、上の系図を見れば分かるように、歴代大物主の血筋であることは明白です。

ここまで来るとあまりにも話が出来過ぎであり、これら記述の微妙な共通点と差異の存在は、まさに史書編纂における共通した符丁のようなものの存在を示していると考えられるのです。

もしもこれが符丁であるならば、一つの歴史的事実に対し史書それぞれに異なる変名が使われ、同時にそれに合わせた別の物語が紐付けられているのではないかという推測が成り立つのです。しかも、「烏」や「丹塗矢」などという暗示性の強い言葉(記号)が使われているのを鑑みれば、その可能性は極めて高いだろうと断言できるのです。

これら系図の比較から私は次の仮説を提示したいと思います。

 賀茂と三嶋は同じ家を指す

つまり、カモ(賀茂/加茂/鴨)とミシマ(三嶋/三島)に違いはなく、ある一つの家内に起きた歴史的事実を、名前をそっくり変えて別の物語とし史書に残したのだろう、そう考えるのです。

どうしてそんな面倒なことをしなければならなかったのか?そうなのです、考えるべきはむしろそちらの理由の方なのです。

■もう一人の玉依姫

京都の下賀茂神社に祀られている「玉依姫」ですが、日本神話に詳しい方ならご存知のように、この方は神話の中で非常に重要な役回りを担っているのです。日本書紀から該当する原文をここに示します。

彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと)、其の姨(をば)玉依姫を以て妃(みめ)としたまふ。彦五瀬命(ひこいつせのみこと)を生(な)しませり。次に稲飯命(いなひのみこと)。次に三毛入野命(みけいりのみこと)。次に神日本磐余彦尊(かむやまといはれびこのみこと)。凡(すべて)て四(よはしら)の男(ひこみこ)を生(な)す。久しくましまして彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊、西洲(にしのくに)の宮に崩(かむあがり)りましぬ。因りて日向(ひむか)の吾平山上陵(あひらやまのうえのみささぎ)に葬(はぶ)りまつる。

岩波文庫 日本書紀 巻第二 神代下より

神日本磐余彦尊とは神武天皇のことであり、ここで玉依姫は神武天皇の母として登場しています。画像1に出て来る玉依姫が玉櫛姫と同一人物なら、また画像2の勢夜陀多良比売と同一人物なら、義理ではあっても二人の母息子関係は共通することになります。少なくとも同記述が指している世代は同じであると指摘できるでしょう。

ここに奇妙な共通性が垣間見れる訳ですが、何と言っても気になるのは、玉依姫の夫となった彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊、すなわち神武天皇の父の名前なのです。「鸕鷀」は「う」と読み、主に海鵜を指す古語だとのこと。この名には「鳥」の文字が含まれているだけでなく、鵜とは黒い羽に覆われた、まさに鳥(からす)のような鳥(とり)であり、ここにも他の史書に見られた不思議な共通項が認められるのです。

画像3:海鵜

天皇家を中心とする日本国史において、その国父として崇敬される神武天皇ですが、その皇后・母を巡る史書の記述がここまで乱れながらも何やら同じ事柄を示さんとしている理由とはいったい何なのか?

この謎を解明する鍵となるのが、おそらく皇后たるべき特殊な女系の血を継承する少女神たち、すなわち

 ヤタガラスの娘たち

であると私は考えるのです。


* * *

画像1,2に登場する①、①’または①”のおそらく同一人物と考えられる未詳の女性ですが、読者の皆様はこの方が一体誰だと思われるでしょうか?残念ながら記紀や秀真伝を端から端まで眺めても名前は出て来ません。

ある意味、史書から完全にその名前を消された女性だとも言えます。しかし、この方の素性を知る手掛かりが伊豆半島にありました。次のメルマガではこの方について少し語ってみたいと思います。


沖つ鳥夜の水面に浮かぶるは黒き鴨よと人は言うらむ
管理人 日月土

甲と山の八咫烏

今月初旬、琵琶湖周辺の調査へ向かい、その足で短い時間ですが京都市内にも立ち寄りました。その時、京都駅にも近い六角堂に立ち寄った時の状況については、(新)ブログ記事「京の知られざる観光地」で触れています。

六角堂を訪れたその前、私が向かった先が京都の北区にある「久我神社」(くがじんじゃ)なのです。北区の神社と言えば、それこそ賀茂川のほとりに佇む上賀茂神社が有名で、訪れる方も多いと思うのですが、今回。敢えてこの神社を目指して向かったのには訳があります。

画像1:京都北区の久我神社

それは、京都の南北を結ぶ幾筋もの通りの中で、特に「大宮通」と名付けられた、おそらく神社に関連付けられただろう古い通りの名前が気になり、その北側の終端がどこで終わっているのかを調べたところ、確かに上賀茂神社のすぐ西側で終わってはいるものの、同社と大宮通の間は賀茂川が遮っており、大宮通の終端部から上賀茂神社へ向かうには、一旦賀茂川沿いを南下し、御薗橋(みそのはし)を渡らなければなりません。

画像2:大宮通北端周辺と久我神社

要するに、現在の区割りからは上賀茂神社へと続く通りとは考えにくく、それではどうして「大宮」と名付けられたのか疑問だったのです。これについてWikipediaの「大宮通」では、その名前の由来を次の様に記述しています。

「大宮」は皇居を示す語で、「大内裏の東側に接していたため」との見方が一般的である。ちなみに、大内裏の西側に接していた通りを「西大宮大路」といった。

しかし、大徳寺通(旧大宮通)を経た北区紫竹下竹殿町にある、式内社「久我神社」周辺の地は、かつて大宮郷と呼ばれていた。ここは賀茂氏が京都盆地に最初に居を定めた場所とされ、上賀茂神社の旧地との説も残っている(上賀茂神社から賀茂川右岸側への渡しは、かつて「大宮の渡し」と呼ばれた)。

つまり、「大宮」という名称そのものは平安京の建設前から存在しており、大宮通、ひいては平安京の「大宮大路」命名の由来となったとしても不都合はない。むしろ、平安京建設時の基準線となった可能性さえも否定できない。

引用1:大宮通 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%AE%E9%80%9A

ここから、本来の歴史的重要地点は大宮通の北端周辺にあるのだろうと、かつての「大宮(皇居)」、あるいは「上賀茂神社の旧地」の姿を偲ぶには、まず神社として現在も形を残している「久我神社」を訪れるべきだろうと考えたのです。

■久我神社と賀茂建角身命

画像1をご覧になればお分かりの様に、久我神社は京の閑静な住宅・商店街の中に静かに佇む、檜皮葺の京都らしい美しい神社です。正直なところ、京都市内では良く見られる光景であり、現在観察できる様式から古い歴史的痕跡を追うのはちょっと難しそうです。

ここは素直にWikipediaさんの記述を拝借してみましょう。注目するのはやはりその主祭神についての部分です。

祭神は次の1柱。

 賀茂建角身命 (かもたけつぬみのみこと)

賀茂県主(賀茂氏)の祖神。上賀茂神社祭神の賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)の祖父にあたり、神武天皇の東征で先導した八咫烏(やたがらす)と同一視される。

古くより社名を「氏神社」を称することから、祭神は賀茂氏祖先神の賀茂建角身命とされるが、上賀茂神社文書によれば近世には国常立尊等の異説も存在した。

引用2:久我神社 (京都市北区) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%88%91%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82%E5%8C%97%E5%8C%BA)

ここで、「賀茂建角身命」という神名が登場しましたが、当然あの有名な上賀茂神社と下賀茂神社、正式名で言う「賀茂別雷神社」(かもわけいかづちじんじゃ)と「賀茂御祖神社」(かもみおやじんじゃ)と当然無縁ではありません。

それでは、上下賀茂社の主祭神についても見てみましょう

 賀茂別雷神社(上賀茂):
  賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)
   
 賀茂御祖神社(下賀茂):
  東殿 – 玉依姫命(たまよりひめのみこと)
  西殿 – 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)

以上の主祭神の血縁関係を系図に整理すると次の様になります。

画像3:賀茂家始祖の系譜

上系譜で「丹塗矢?」としたのは、Wikiに掲載されている次の解説に因るもので、すなわち不詳と言う意味となります。

『山城国風土記』逸文では、玉依日売(たまよりひめ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依日古(あにたまよりひこ)の子孫である賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝える。

引用3:賀茂別雷神社 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E8%8C%82%E5%88%A5%E9%9B%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE#%E6%91%82%E6%9C%AB%E7%A4%BE

この賀茂一族の始祖とされる神様たちなのですが、なんと日本書紀や古事記には登場しないのです。しかし、現地に残る神社を眺める限り、現在でも非常に大事にされているのが分かりますし、下賀茂神社の「葵祭」(あおいまつり)が、全国的にも有名な京都のお祭であることは皆様も既にご存知でしょう。

画像4:上賀茂神社(左)と下賀茂神社(右)

奈良時代以前から朝廷による厚い崇敬を受けたとされる賀茂一族始祖のお宮、それがどうして日本の代表的史書と呼ばれる記紀に登場しないのか、思えばこれは非常に不思議な事でもあります。

■甲の烏(カラス)

ここで、上記引用2の記述を再度見てみます。そこには「神武天皇の東征で先導した八咫烏(やたがらす)と同一視される」とあり、その根拠は書かれていないものの、単なる推測の一つと捨て置くには、余りにも重要な一文であると私は捉えます。

日本書紀において、八咫烏は次の各シーンで登場します。

【八咫烏派遣の夢のお告げ】
時に夜夢みらく、天照大神、天皇に訓(をし)へまつりて日はく、「朕今(あれいま)頭八咫鳥(やたのからす)を遣す。以て郷導(くにぐにのみちびき)としたまヘ」とのたまふ。果して頭八咫烏有りて、空より翔び降る。天皇の日はく、「此の烏の来ること、自づから祥(よ)き夢に叶えり。

【兄磯城(えしき)・弟磯城(おとしき)召喚の使い】
十有一月(しもつき)の癸亥(みづのとゐ)の朔己已(ついたちつちのとみのひ)に、皇師(みいくさ)大きに挙(こぞ)りて、磯城彦(しきひこ)を攻めむとす。先づ使者を遣して、兄磯城を徴(め)さしむ。兄磯城命(おほみこと)を承けず。更に、頭八咫烏を遣して召す。時に、烏其の営に到りて鳴きて日はく、「天神(あまつかみ)の子、汝(いまし)を召す。率(いざ)わ、率わ」といふ。

【行賞に預かる八咫烏】
又、頭八咫烏、亦賞の例に入る。

引用4:岩波文庫 日本書紀巻第三 神武記より

また、八咫烏は一般的に同巻に登場する次の金鵄(きんし)と同一視するのが一般的なようです。

【長髄彦(ながすねひこ)との戦いに金鵄現る】
十有二月(しはす)の癸已(みづのとみ)の朔丙申(ついたちひのえさるのひ)に、皇師(みいくさ)遂に長髄彦を撃つ。連(しきり)に戦ひて取勝(か)つこと能はず。時に忽然(たちまち)にして天陰(ひし)けて雨氷ふる。乃ち色の霊(あや)しき(とび)有りて、飛び来りて皇弓(みゆみ)の弭(はず)に止れり。其の鵄光り嘩煜(てりかがや)きて、状流電(かたちいなびかり)の如し。是に由りて、長髄彦が軍卒(いくさのひとども)、皆迷ひ眩(まぎ)えて、復力(またきは)め戦はず。

引用5:岩波文庫 日本書紀巻第三 神武記より

引用4にあるように、八咫烏は神武天皇から論功行賞を授かっていることから、実際には鳥(カラス)などという動物的象徴ではなく、東征において功績が認められた、実在した人物であると見るのが正しいのでしょう。

現在の京都において、賀茂一族の始祖が非常に大事にされている事実に反して、その人物の名が記紀に全く記載されていないというのも考えにくいことであり、やはりここは

 賀茂建角身命=八咫烏

と捉えて良いのではないかと私は考えます。問題なのは何故このような名前の書き換えを行ったのかというその点なのです。

加えて、記紀などの史書類を暗号の書と捉えている立場としては、「賀茂」(かも)という言葉の用法にも大きな意味があると予想するのです。

京都市内には、「下鴨梅ノ木町」や「加茂町青柳」、「上賀茂葵田町」といった町名がある様に、「カモ」の地名表示に使用される漢字が不統一だという事実があります。これは漢字表記に意味が無いとも言えると同時に、どの字を当てても構わないことを意味していると考えられます。

ここで、画像1の写真に見られる、提灯にデザインされている神紋の「二葉葵」の意味が重要になってきます。水草の「葵」(あおい)の葉が示すのは、上賀茂神社ホームページの解説では「あふひ=逢ふ霊」、すなわち神との出会いを意味しているのだと説明されています。

画像5:久我神社の提灯に描かれた神紋「二葉葵」

これはこれで非常に美しい説明なのですが、私はもっと直接的に、この紋が意図するのは水鳥が啄ばむ草、あるいは葵が群生する水辺にかならず居る鳥という意味であり、すなわち鳥類の「鴨」を指していると見るのです。

もうお気付きの様に、「鴨」の字は「甲」(かぶと)と「烏」(からす)の二字に分解されることから、

 鳥辺の一字は八咫烏の血筋を表す符丁

と考えられ、すると別の漢字を当てた「賀茂」や「加茂」についても、当て字自由の原則から同じく八咫烏の系統であるとみなせるのです。

この考え方を以ってすれば、日本書紀に記述された「鵄」(とび)についても同字に「烏」(からす)の文字が見られることから、

 金鵄=八咫烏

と見なしても解釈上の問題はなくなることになります。

さて、ここまでクドクドと細かい考察を続けてきましたが、これにどのような意図があったのかもうお気付きでしょうか?それはまさに前回記事「名前を消された三嶋」で尻切れトンボに終わってしまった「三嶋」のルーツを探求する為のものであったのです。

 三嶋

この字を見ればもうお分かりですよね?



烏なぜ鳴くの烏は山に可愛い目をした子があるからよ
管理人 日月土