アルプスに残る海地名の謎

地名はその土地の歴史を表す指標の一つです。それは、一度付けられた地名が定着すると長い時間が経過した後も変わることがめったにないからだと言われてます。実際にヤマタイコクの存在地を探し出す手法として、現代に残る地名を頼りにすることは珍しくありません。

例えば、魏志倭人伝に表現される伊都国(イトコク)は現在の福岡県の糸島(いとしま)であり、末盧国(マツラコク)は長崎県の松浦(まつうら)を指すといったような具合です。

画像1:推定伊都国(糸島)と推定末盧国(松浦)
  こんなに簡単に決めてよいのだろうか? 
    ★印の場所にも旧「松浦」という地名がある 

しかし、同じ地名は全国各地に付けられるていることが多く、どれがオリジナルか判別しにくいのはもちろん、オリジナルの方が〇〇字のようなごく小さなエリアを指していて現地の人しか知らなかったり、中にはほとんど消滅してたりするものもあるので、注意が必要なのも確かです。

私は諸説あるヤマタイコク論争の中で、最も大きな間違いとは、伊都国を現在の糸島と同定することにあると考えています。本当に糸島しか「イト」に該当する場所はないのか?それを研究者たちが精査したとはとても思えないからです。

また、記紀を読んでて分かるのが、それらが意図して歴史の捏造を目的に作られたファンタジーであることから、記紀編纂期において、何か国家的な歴史改変政策が取られていた可能性があると認められることです。

仮にも国家政策であるなら、史書を編纂して終わりということはないでしょう。改変した史書の記載と辻褄が合うように、新たな地名の命名、それまでの地名の付け替えを行うことくらいは当然やっただろうと思われるのです。

つまり、現在残る地名を無批判に頼るのは危険だと言いたいのですが、それでも古い地名はどこかに残ってるものであり、それを丹念に調べ上げてこそ地名による歴史分析は正確性を増すのだと思うのです。

以上は、今回の本題ではありませんのでこの辺にしておきますが、地名とはまた、歴史や文化だけでなくその土地の古い地形を表すので、過去の地理的条件を推測するのにも役立ちます。

■日本アルプス、昔は海だった?

不動産を選ぶ時、「”水”や”さんずい”がある地名は、過去に水が出た所だから気を付けろ」というのをよく聞きます。具体的には〇水とか 〇〇 沼、〇沢などの字が地名に表れた場所のことを指します。

昔湿地だった場所に家など建てると、屋内に湿気がこもって押し入れなどがジメジメと黴臭くなり、メンテナンスがたいへんになります。私のかつての実家もそれで苦労したので、この教訓は身に染みて理解できるのです。

それを予備知識として、地形を表す地名に関して私が「おやっ?」と思った次の事実についてご紹介いたします。まずは下記の地図を見て頂きたいのです。

画像2:中部山岳地帯の海関連地名
   ★印は123便の遭難地点    
       薄紫色の帯は大地溝帯(フォッサマグナ)

私が日本航空123便事件の調査している時に、遭難地点から西の長野側に山を下ると、いつも不思議に思っていたのが、「標高1400m前後の日本の屋根とも言える高原地帯なのに、どうしてこんなにも海の付く地名が多いのだろうか?」ということです。

おまけに場所によっては塩分を含む水まで出るらしく、山梨県北杜市の塩川ダムでは、その名の通り、昔は塩まで採っていたそうなのです。

そこで、同地区にて住所表示用の地名の中から漢字の「海」が付く地名、および「浜」・「浦」・「津」など海に関連する単語を含む地名を抜き出したのが、画像2なのです。

ちなみに、「浦」と「津」の意味はデジタル大辞泉によると次のように定義されています。どちらも海、あるいは大きな湖に関連する単語と捉えて問題がないでしょう。

 浦(うら):
 ※外海に対して内海
 1 海や湖が湾曲して陸地に入り込んだ所。入り江。
 2 海辺。浜。
 津(つ):
 1 船が停泊する所。また、渡船場。ふなつき場。港。
 2 港をひかえて、人の多く集まる所。また一般に、人の多く集まる地域

それにしても、長野・山梨といういわゆる「海無し県」にどうしてこんなにも海関連地名が多いのか?しかも長野県ともなれば、標高の高い土地が多く、諏訪湖などの湖を除けば、海や浜はもちろん、浦や津にも無縁としか考えられないのです。

そういえば、画像2上の中央部、小海や海瀬など海関連地名を縦貫し、山梨県の小渕沢から長野県の小諸までに走るのが、JR東日本の「小海線」です。地名の「小海」から取った名前だとは思いますが、日本で一番標高の高い地点を走る鉄道が、どうして「海」の文字を採用したのか?これは、名前を重視する「言葉の呪詛」の観点からも非常に興味深い問題だと思われます。

画像3:JR東日本の小海線

この鉄道路線に冠せられた地名の「小海」ですが、長野県以外のどこに同地名が残っているか調べると

 1) 静岡県 沼津市    内浦小海
 2) 徳島県 鳴門市    瀬戸町北泊(小海)
 3) 香川県 東かがわ市  小海
 4) 香川県 小豆郡土庄町 小海

となり、2)~4)は四国の地名なのでここでは除外すると、1)の内浦小海、私が以前からここには何か秘密があると度々指摘している、静岡県沼津市の内浦湾沿岸の町であることが分かります。但し、こちらは本当に海沿いの町なので、地名自体にそれほど奇異性はありませんが、画像2を見れば分かるように、他の海関連地名とまるで一繋がりのようにそこにあるので、これを無視する訳にはいきません。

そして、もう一つ指摘しておきたいのが、地図上の海関連地名のほとんどが、沼津から富士山を挟み、新潟県の直江津方面まで、日本の大地溝帯(フォッサマグナ)に沿って南北に連なっていることなのです。ここまでドンピシャだと、もはや海関連地名と大地溝帯に全く相関性が無いとも言えず、いったい両者にどんな関係があるのか、更に興味が惹かれるのです。

■歴史に表れた小海

ここで「小海」という地名が日本書紀に記載されている点をまず指摘し、そしてそれがどのように記述されているのかを見てみます。時代は上古代、第12代景行天皇の皇子である大和武尊(ヤマトタケル)が海を渡る場面です。

亦進相摸、欲往上總、望海高言曰「是小海耳、可立跳渡。」乃至于海中、暴風忽起、王船漂蕩而不可渡。時、有從王之妾曰弟橘媛、穗積氏忍山宿禰之女也、啓王曰「今風起浪泌、王船欲沒、是必海神心也。願賤妾之身、贖王之命而入海。」言訖乃披瀾入之。暴風即止、船得著岸。故時人號其海、曰馳水也。


亦(また)相摸(さがむ)に進(いでま)して、上總(かむつふさ)に往(みた)せむとす。海を望(おせ)りて高言(ことあげ)して曰(のたま)はく、「是(これ)小き海のみ。立跳(たちおどり)にも渡りつべし」とのたまふ。乃(すなは)ち海中(わたなか)に至りて、暴風(あらきかぜ)忽(たちまちに)起こりて、王船(みふね)漂蕩(ただよ)ひて、え渡らず。時に、王(みこ)に從(したが)ひまつる妾(をみな)有り。弟橘媛(おとたちばなひめ)と曰(い)ふ。穗積氏忍山宿禰(ほづみのうぢのおしやまのすくね)の女(むすめ)なり。王(みこ)に啓(まう)して曰(まう)さく、「今風起き浪(なみ)泌(はや)くして、王船(みふね)沒(しづ)まむとす。是(これ)必(ふつく)に海神(わたつみ)の心(しわざ)なり。願はくは賤しき妾(やつこ)が身を、王(みこ)の命(おほみいのち)に贖(か)へ海に入(い)らむ」とまうす。言訖(もうすことおは)りて、乃(すなは)ち瀾(なみ)を披(おしは)けて入りぬ。暴風(あらかぜ)即(すなは)ち止みぬ。船(みふね)、岸に著(つ)くこと得たり。故、時人(ときのひと)、其の海を號(なづ)けて、馳水(はしるみづ)と曰(い)ふ。
(日本書紀巻第七より)

さて、書紀によると、相模国に入る直前の段は有名な草薙(くさなぎ)の剣で草を払ったという焼津の向火のシーンなのですが、そこから相模国までにあるはずの駿河湾・伊豆半島を大和武尊がどのように通過したのかが全く記述されておらず、しかも途中で嫌でも目にするはずの富士山の記述が一切ないのです。

以上のような不可解な点を無視して現代地図に落とすとその行程は大雑把に次の様になるでしょうか?

画像4:現代地図で考えた小海
  富士山も伊豆半島もスルー?

そうすると、小海は現在の東京湾浦賀水道付近ということになり、確かに神奈川県の横須賀市に走水(はしりみづ)という地名が残っているので何となく辻褄は合ってるように感じます。しかしそれでは、沼津や長野の小海にどんな関連性があるのか分からず、結局、地名の謎は謎のまま残ってしまうことになります。

ところがです、私が参考にしている別の史書、「秀真伝(ホツマツタエ)」によると、相模国より一つ前段の焼津と思われる場所の位置が書紀と違うだけでなく、大和武尊の活動内容までが全く異なるのです。また、そこから相模国なる国の位置関係の解釈にも修正が迫られることが分かるのです。

それでは日本書紀と秀真伝は全く違うことを書いているのか?良く調べたところ、日本書紀に書かれている「焼津」とは暗号地名であり、実は秀真伝と同じ場所を指していたことが分かったのです。

しかし、それだけではまだ小海の謎が解明できる訳でなく、これに呪術的解釈を施すことによって、どうして沼津と長野の地に小海という名前が使われたのか、その意図がくっきりと明確に見えてくるのです。

謎の解明については次回以降の話題といたしますが、それはフォッサマグナがこの海関連地名の分布に重なることと無関係でないばかりか、現代の123便事件とも深く関わることを、ここで予告としてお伝えしておきます。

 * * *

画像2の甲府盆地周辺のプロットを良く見てください。盆地内の低地を取り囲むように「津」の字の地名が取り囲んでいます。つまり、かつて船着き場がそこにあったことを示す一方、低地一帯が一つの大きな水域であったことを彷彿とさせるのです。

昨日4月13日より山梨県警が県境の検問を強化し始めたとの連絡が、複数の現地の方から入っています。一般的なコロナ対策とはまた違うようなのでこちらで調べたところ、こじつけでも何でもなく、この旧水域問題と絡んでいることが分かってきました。

決して不安を煽る意図はないのですが、甲府市街地にお住いの方は、いざという場合にはすぐに高地に避難できるよう準備しておいてください。高地の基準は北杜市の小渕沢(標高800m)くらいが目安となります。

明後日(4月16日)発行のメルマガではこれから何が起きそうなのか、少し突っ込んだ情報を提供したいと思います。


誠の神力を現す世と成れる
管理人 日月土


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