天孫降臨と九州(2)

前回の記事「天孫降臨と九州」の中で、私は『九州全体を一つの「筑紫」とするのは、やはり受け入れ難い』としています。九州というのは文字通り九つの州(国)から成り立っているという意味で、それはご存知のように

 筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・薩摩・大隅

と区分けされます。

そして、Wikiペディアで「筑紫国」を調べてみると次の様に記述されています。

筑紫国(つくしのくに)は、のちの令制国での筑前国と筑後国にあたり、現在の行政区分では、福岡県のうち東部(豊前国の一部だった部分)を除いた大部分にあたる地域に大化の改新・律令制成立以前の日本古代にあった国である。
 (中略)
7世紀末までに筑前国と筑後国とに分割された。両国とも筑州(ちくしゅう)と呼ばれる。また、筑前国と筑後国の両国をさす語としては、二筑(にちく)・両筑(りょうちく)も用いられる。

画像1:九州の旧国名

大化の改心(西暦645年)よりも前に二つの筑州が既に地名として定着していたのならば、記紀が世に出された時には「筑紫」の地理概念が既に出来上がっていたはずで、九州全体を「筑紫」と見なす解釈は極めて不合理であると考えられます。

やはり、「筑紫」は北は現在の糸島市・福岡市から南は筑後川流域の久留米市・八女市辺りまでを指す地名であると考えるのが自然です。そうすると、天孫降臨の地は現在の福岡県内にほぼ限定されることになります。

■日向とは福岡県の日向峠である

以上の発想は何も私が最初に提唱した訳でなく、歴史研究家の古田武彦さんも指摘していることです。そして、福岡市と糸島市の山越えの市境には現在でも「日向(ひなた)峠)」が地名として残っているのです。

史書から天孫降臨の地を特定するのに必要な要素は次の3点です。

 1)筑紫
 2)日向
 3)高千穂あるいはクシフル岳

この内2)までが現在の福岡県内に特定できるのですが、3)については普通に調べていても見つかりません。これを特定したのが古田さんの業績で、九州黒田家の古文書の中に「クシフル」と呼ばれた峰があることを発見します。しかもそれが、日向峠の尾根続きにある峰であるとのことです。

私は原文そのものに当たってはいないので、ここからは古田さんの発見が正しいとする前提で話を進めます。

「クシフルの峰」は、日向峠から現在の高祖山(たかすやま)の頂きを結ぶ稜線の線上にあったということなので、それを地図に落としてみました。

画像2:ここなら3要素が全て揃う

画像2を見ると分かるように、この地には史書で記述された地名の3要素が狭い範囲に全て揃っています。高祖山でも標高が416mと、1時間足らずで麓から稜線まで登れる程度の高さです。

宮崎の高千穂峰(1573m)を登りきるのはそれなりに時間と体力を要しましたが、高祖山の頂上へは、麓の高祖神社に寄ったついでに楽々と登ることができました。これくらいならば、周囲を見渡す見晴台として適当なのではないでしょうか?

画像3:糸島側から眺めた高祖山とその尾根
画像4:高祖山から糸島方面を眺める

■2000年前の糸島はどのような土地だったのか?

次に、天孫降臨があったとされる今からおおよそ2000年前、糸島はどのような地形だったのかを考えます。

私は神武天皇をはじめ、人間である上古代天皇が本当に200~300歳まで生きたとは考えません。おそらくそれは、史書の中で神様にされてしまった神武以前のアマカミ(上代の天皇)の分を加算した数字と考えます。日本武尊がAD370年前後だとすると、神武天皇は西暦200年前後と見積もれます。すると、神武天皇より4代前の瓊瓊杵尊は西暦100年前後、おおよそ今から2000年前と考えられます。

また、2000年前は、縄文海進の名残りがまだ見られる頃と考えられ、様々な計算方法があるようですが、総じて海面は今より4~7m程度高かったのではないかと想定されます。そこで、現在の地形のまま海面が5m上昇した時、糸島の海岸線がどのようになるのかをシミュレーションしてみました。

画像5:糸島は本当に島だった

画像5は推定ではありますが、もしも古代の水面が現在より5m高かったのならば、現在の糸島市の市街地はほとんど海の下となり、九州本土と糸島が海峡で分離されることが分かります。糸島はその名前が示す通り、かつて本当に島であったと考えられるのです。

この考えを裏付けるよう、画像5右で海に沈む地域は、次の様に海岸地帯を表す「江」や「浦」などの漢字、あるいは水に関係がある「さんずい」の漢字を用いる名前が殆どなのです。これは、かつてそこが海であったことを示しているからなのではないでしょうか?

 波多江(はたえ)
 浦志(うらし)
 潤(うるう)
 泊(とまり)
 大浦(おおうら)
 荻浦(おぎのうら)

■糸島は天然の良港であった

すると、画像5右の図から、旧海峡部の沿岸は日本海の荒波に直接晒されることなく船が停泊できる、天然の港湾、あるいは港湾を建設するのにうってつけの土地であることが何となく予想されるのです。

ここで、瓊瓊杵尊とその配下の者たちの移動を船によるもの、その船団の上陸地点を糸島の旧海峡付近とします。この地に上陸した瓊瓊杵尊は、接岸地点から近く上陸の地を見渡すのに都合がよい高台、高祖山の尾根を目指します。そしてこの見晴らし台から土地を一望し、ここを拠点に子孫を増やしていくことを決断した。そう考えると

 福岡県糸島こそが天孫降臨の地

とは考えられないでしょうか?

ご存知のように、糸島には数多くの古墳が存在しています。それを一つ一つ調べていたらきりがないくらい沢山あるのです。それを以ってこの地に「イト国」なる、古代国家があったと想定する研究者は多いようですが、もしも、この地が天孫降臨の地であるならば、これらの古墳は瓊瓊杵尊以降、神武天皇以前の天孫族国家のものであるとも考えられるのです。

■天降る地の象徴

日本書紀の天孫降臨の記述には「日向(ひむか)の襲(そ)の高千穗峯(たかちほのたけ)に天降(あまくだ)ります。」とあります。ここでは、天孫降臨を「天降(あまくだり)」と表現していることに注意です。

画像6:糸島市内の神社(旧二丈町)

画像6は糸島市内にある神社で、日本の田舎にならどこでもありそうな飾り気のない質素な佇まいをしています。私が注目したのはむしろこの神社の名前なのです。

 天降神社

書紀の記述と同じく天降(あまくだり)と書いて「あもり」と読みます。この天降神社、あるいは天降天神社と同名の神社を地域内で調べたところ次のようになりました。まだ見落としている場所が幾つもあると思いますが、興味のある方は調べてみてください。

画像7:天降社分布図

※プロット座標
 〒819-1156 福岡県糸島市瀬戸(33.511664, 130.182787)
 〒819-1114 福岡県糸島市新田324(33.571975, 130.200278)
 〒819-0383 福岡県福岡市西区大字田尻(33.585679, 130.247325)
 〒819-1304 福岡県糸島市志摩桜井(33.611830, 130.202370)
 〒819-1626 福岡県糸島市二丈波呂(33.509439, 130.174210)
 〒819-1124 福岡県糸島市加布里(33.544936, 130.162708)
 〒819-1623 福岡県糸島市二丈石崎(33.515262, 130.163593)

先ほど3つの要素と書きましたが、オプション的な要素である「天降」までもが糸島には集中的に見られるのです。以上の材料を考えあわせた時、当然ながら次のような仮説に到るのです。

 天孫降臨の地は福岡県糸島である


 * * *

以上を結論とするためには、もちろんまだ多くの検証をこれから加えていかなければなりません。しかし、神社で神主さんが説明してくださる宮崎の天孫降臨に始まる天皇と日本の歴史よりは、糸島降臨説の方がはるかにその実在性を裏付ける材料が多いと私は考えます。

太平洋戦争中は、神武天皇に到る神話と神武東征に始まる天皇起源を拠り所として日本国民に国策への絶対的忠誠を強要したのは今更説明することではありません。

その悪夢のような呪縛から日本国民は目覚めたのかと言えば、相変わらず神主さんはファンタジーと虚飾に満ちた日本史を語り続けています。私たちが本当に過去の悪夢を払拭し、真の日本人になるためには、天皇起源、日本の起源というものを正確に捉え直す必要がある。私はつくづくそう思うのです。

誠の神力を現す世と成れる
管理人 日月土


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