再び天孫降臨の地へ

先日、私が天孫降臨の地ではないかと推定する福岡県は糸島市を再び調査に行ってきました。その前は青森県の弘前市ですから、北から南へと私も随分と忙しく移動しているものだと、我ながら呆れてしまいます。

天孫降臨ついては昨年の次の記事で私の考えを述べています。

 ・天孫降臨と九州 
 ・天孫降臨と九州(2) 

また、天孫降臨神話の脇役として重要な位置を占める猿田彦について、実在しただろう天孫降臨出立の地を現在の千葉県東部沿岸地域と推定した上で、幾つか考えを示しています。

 ・天孫降臨とミヲの猿田彦 
 ・椿海とミヲの猿田彦 
 ・麻賀多神社と猿田彦 

ご存知のように、天孫降臨の主役となるのは日本神話における瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)ですが、アニメ映画「もののけ姫」に登場するアシタカがどうやらこの瓊瓊杵尊をモデルに描かれていることを突き止め、最近までアニメストーリーを元ネタに、歴史的事実を考察してきたのは、このブログの読者様ならあえて尋ねるまでもないかと思います。

 ・愛鷹山とアシタカ 
 ・もののけ姫と獣神たち 
 ・犬神モロと下照姫 
 ・下照姫を巡る史書の暗号 
 ・モロともののけ姫の考察 
 ・サンがもののけ姫である理由 
 ・もののけ姫 - アマテルカミへの呪い 
  (以上掲載順)

アニメの構造分析対象は「もののけ姫」から「千と千尋の神隠し」へと移り、ここでは、偶然なのか、あるいは関連があるのか、天孫降臨の出立推定地である千葉県東部地方が再びクローズアップされます。

 ・千と千尋の隠された神 
 ・千と千尋の隠された神(2) 
 ・千と千尋の隠された神(3) 
  (以上掲載順)

このように、天から神が降りて来て現在の天皇家の祖先となったとする天孫降臨神話は、日本書紀や古事記の記述がファンタジーから現実的な史実へと切り替わる重要なターニングポイントであり、日本の成り立ち、日本の国史を考える上でも極めて重要な一節であることが窺えます。

そのような重要史実であるからこそ、国民的アニメ映画の題材に使われたと考えられ、同時にこの史実を解明することで、神話化・ファンタジー化されてしまった、私が上代と呼ぶ、太古の日本社会がどのようなものであったのかが見えてくると期待されるのです。

天孫降臨のあった時代は、現代の歴史学的には弥生時代に入ったところ(紀元前百年前後)と推定されますが、前回の記事でも書いたように、縄文式の生活スタイルは関東・東北地方などには長く残ったとも考えられ、この時代は弥生式・縄文式の両文化が並立していたのではないかと私は見ています。また、そのような異文化同士が交流し統合し合う時代だからこそ、天孫降臨なる一種の冒険譚のような物語が作られ、同時に消えていった側の文化が神話という、架空の物語に置き換えられてしまったのではないかとも思えるのです。

さて、昨年の記事では地図上の分析が中心で、糸島という土地の雰囲気が伝わりにくかったかと思います。歴史スポット、また観光名所としても糸島の見所は幾つもあるのですが、ここではまず、私もたいへん気に入っている糸島の櫻井神社とその周辺についてレポートしたいと思います。

■九州の伊勢

画像1:夫婦岩

九州北部にお住いの方ならば、この写真を見てすぐにどこか分かるかと思います。しかし、他地域の方はもしかしたら、こちら(画像2)の方を連想してしまったのではないでしょうか?

画像2:夫婦岩

画像1は糸島市志摩桜井にある二見ヶ浦、そして画像2は伊勢市二見町にある全国にも知られた二見ヶ浦の夫婦岩なのです。

同じような形状の夫婦岩なら日本全国どこにでもありそうですが、「二見ヶ浦」という地名も同じですし、「志摩」という地名も、伊勢志摩で一括りされることの多い、三重県伊勢地方の地名に呼び名がそっくりです。また「桜井」という地名も、どことなく三重県の隣、奈良県の桜井市を想像してしまいますよね。

私も初めてここを訪ねた時、「何だここは、伊勢のコピーか?」と思ったものです。しかし、時に地名というものは深い意味付けをされている場合もありますから、糸島と伊勢に何か同じような意味が込められていたとするなら、それを象徴する地名が似たり同じになったりするのはそれほどおかしなことではありません。全国の県庁所在地、多くは旧藩政の城下町だった都市に、赤坂や千代田があるのと同じだと考えられるのです。

伊勢の二見ヶ浦の場合は、第11代垂仁天皇の皇女、倭姫(ヤマトヒメ)が景色の美しさに二度振り返ったとの伝承がありますが、果たしてそれが地名の本当の由来なのか定かではありません。おそらく、神事に絡む別の深い意味があったのではないかと想像されます。

さて、糸島の二見ヶ浦の場合は、砂浜に大きな石が意図的に置かれている、あるいはそこだけ岩場が残されているのが、次の画像3から見て取れます。

画像3:夫婦岩の周辺だけ岩場になっている

この岩場は一体何なのでしょうか。そこで、岩場から夫婦岩を眺めた画像1の写真から、両岩間にある空間を拡大してみました。

画像4:手前の大石の向こうに小呂島が見える

夫婦岩を覗くとその向こうに小呂島(おろじま)が見え、それが見える丁度その位置に大石が置かれているのが次の画像5でお分かりになると思います。つまりこの大石と小呂島を一直線に繋ぐと、うまく夫婦岩の間を通るように配置されているのです。

画像5:手前の大石の向こうに小呂島が見える

白い鳥居が最近になって建てられたのは明白で、二見ヶ浦で重要なのはむしろ小呂島を強く意識したこの大石なのでしょう。なぜ小呂島なのかと言えば、次の地図を見ればその意図が見えてきます。

小呂島は海上移動の中継地点

画像6を見ればお分かりになるように、小呂島は小さな島ですが、壱峻島、唐津、福津などからほぼ等距離の位置にあり、海上交通の要衝として極めて重要な位置にあることが分かります。古代、海上での移動が危険だった頃、こうした中継地点の存在は欠かせなかったはずです。

特に福岡は朝鮮半島や大陸との窓口でしたから、ここを行き交う船は小呂島を経て壹岐、対馬、朝鮮半島、あるいはその逆を進んでいたと考えられます。その大切な小呂島を見守り航海の安全を祈願するのが、もしかしたらこの二見ヶ浦に持たされた役割だったのではないでしょうか?

これは蛇足かもしれませんが、画像6の地図に能古島(のこのしま)の位置を入れておきましたが、小呂島と能古島の両島名を合わせると

  おろ+ノコ → おノコろ

となるのが分かります。おのころ島とは、日本の国生み神話で、イザナギとイザナミの二神が最初に作ったとされている島のことです。二見ヶ浦の夫婦岩にはそのイザナギ・イザナミ神が祀られています。そして能古島には、イザナギ石・イザナミ石というちょっと風変わりな石積みが残されており、こうなると島名の関連性を単なる言葉遊びで片付けてよいのか気になるところであります。この話は長くなりそうなので、別の機会に考察することにしましょう。

■伊勢神宮を思わせる櫻井神社

福岡のパワースポットとして、福岡県人には良く知られた櫻井神社。この神社は二見ヶ浦のすぐ裏手の小山の上に鎮座しています。この神社の入り口から鳥居の奥を見ると次の写真のようになっています。

画像7:櫻井神社の入り口正面

鳥居を抜けたすぐ先には石造りの太鼓橋が掛かっており、画像7ではその先が橋に隠れて見えません。それでは橋を越えて真っすぐ石畳の参道を進めばそこが櫻井神社なのかというと、実はそうではないのです。参道の行き着く先、その末端にあるのは、

 猿田彦神社

なのです。

画像8:猿田彦神社。参道はここに向かっている
裏手も古墳か?

そもそも櫻井神社は江戸時代初期の1632年、二代目福岡藩主の黒田忠之(くろだただゆき)によって造営されたとその由来に書かれています。造営のきっかけとなったのは、天災によって土が流され、古墳の石室が現れことに始まります。それを藩主の黒田氏が社殿を建て丁重に祀ったことで現在に至っています。

その辺の詳しい云われは猫間障子さんのブログに詳しいので、そちらにお任せしますが、旧号で與止姫大明神(よどひめだいみょうじん)と呼ばれた櫻井神社の歴史は、比較的新しいと言えるでしょう。もちろん信仰の元となった古墳そのものは当然古墳時代のものであるでしょうけども。

よって正面入り口と参道、社殿の位置関係から、櫻井神社の本来の信仰対象はこの猿田彦神社でなかったのかと推測されるのですが、そのような事実は同社のホームページを見ても書かれていません。ここで櫻井神社の社殿の配置を図に表すと画像9のようになります。

画像9:櫻井宮と大神宮は参道の両脇にある

この、2つの宮の中央部分に猿田彦神社を配置する造作は、実は三重県の伊勢神宮でも見られるものです。しかし、伊勢と言えばやはり伊勢神宮の内宮と外宮がメインであり、猿田彦の子孫と言われる宇治土公(うじとのこう)氏が宮司を務める猿田彦神社についてあまり意識されることはありません。

画像10:伊勢神宮の場合も猿田彦神社が間にある

いつものことですが、私はこのように敢えて言葉で触れられていない事実を見ると、そこに物事の真意が隠されているのではないかと考えます。特に日本の歴史には隠し事が多いので、文字に残さずとも構造物を通して真実を残すやり方は大いにあり得ると考えます。

それはともかく、夫婦岩と言い、地名と言い、社殿の配置と言いとにかくこの社の作りは伊勢とそっくりなのですが、それもそのはずで、櫻井神社を造営する時にわざわざ宮大工を伊勢から招聘したというのですから、様々な部分で両者が似てくるのはさもありなんといったところでしょう。

実際に、境内の鳥居の一部は最近になって移築されたもののようです。また、一目見れば桜井大神宮は伊勢神宮の作りにそっくりですし、1800年代の後半まで20年に一度の式年遷宮まで行われていたそうです。現地には、かつて遷宮が行われていただろう、礎石を残した開けた場所が残されています。

画像11:どこか伊勢神宮ぽい櫻井大神宮

■謎の祭神、與止姫命

私も猫間障子さんのブログを読んで初めて知ったのですが、元の社号でもあり、由来にも祀られていると書かれている「與止姫大明神」こと與止姫命は、実はこの神社の創建以来一度として正式な祭神として祀られたことが無いようなのです。それって一体どういうことなのでしょう?

画像12:左上から櫻井神社の楼門・拝殿・岩戸宮

櫻井神社の造りはとにかく立派であり、さすが長く福岡藩主の厚い庇護を受けてきたものであると納得するものです。古びて派手さが薄れてきているのが、むしろ良い味を出しているとも言えます。

この神社の一番の見所は、年に一度お正月の頃に開かれる同社の奥宮に当たる岩戸宮でしょう。私もかつて友人に誘われ、開かれた岩戸宮の石室に入り中でお参りしたことがあります。それはもう厳かで、日本古来の信仰のあり方を肌身で感じることのできた良い体験でした。

そうなると、この石室の埋葬者、おそらく與止姫命のことではないかと思われるのですが、その人物がどのような方であったのか気になります。ところが、その肝腎の信仰主体が祭神にも祀られず、その正体も不明と言うのですから、何とも不可解な話です。

與止姫命の名は、猫間障子さんのブログにもあるように、実は佐賀県内の神社で多く見られます。おそらく、糸島から背振の山々を経て佐賀に至る地域に良く知られた古代人女性であったのだとは類推できるのですが、記紀にも登場せず、その他の伝承にも乏しいため、どのような人物だったのか特定するのは難しいようです。

Wikiによると、與止姫命と呼ばれる歴史上の人物(神様)の候補に、「神功皇后の妹」あるいは「豊玉姫」の二説があるようですが、それも定かではありません。

この謎の人物である與止姫命の正体については、次のメルマガで私の考察を述べさせて頂こうと考えています。私は、神社の名に冠せられているのに「祭神として祀られていない」という事実そのものが、この人物を特定する上で重要な鍵であると考えます。


 * * *

天孫降臨について少しは触れるつもりでしたが、今回は二見ヶ浦、櫻井神社という糸島の限られた一地域のご案内で終わってしまいました。しかし、ここを俯瞰するだけでも、この地に秘められた歴史の奥深さがお分かりになられたのではないでしょうか。

次回は、糸島に眠る王墓について見ていきたいと思います。ここにきていよいよアシタカ(瓊瓊杵尊のこと)の名前が登場してきます。


とこしえに思ふ椿麗し姫の園
管理人 日月土


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