古代を隠すコピー地名

昨年の記事「地名が語る古代史」では、同名の地名が全国に幾つも存在し、そもそもどれが地名の起源となったオリジナルなのか簡単に判別するのは難しいことをお伝えしました。ここでは、オリジナル以外の歴史的に後から付けられた地名を「コピー地名」と呼ぶことにします。

日本古代史において、文献を解釈するにあたり地名は重要な要素となることに異論はないかと思います。例えば、次の地名を目にした時、読者の皆さんは日本のどの土地の風景を思い描くでしょうか?

 (1)伊勢
 (2)出雲
 (3)春日

日本史に詳しい方ほど次の様に連想しがちなのではないかと思います。

 (1)伊勢 → 伊勢神宮 → 三重県伊勢市
 (2)出雲 → 出雲大社 → 島根県出雲町
 (3)春日 → 春日大社 → 奈良県奈良市

そして、(4)富士山と聞けばほぼ誰もが静岡県と山梨県にまたがる、あの雄大な富士山を思い浮かべるに違いありません。

図:左から伊勢神宮、出雲大社、春日大社。いずれも神不在の神社。

古文献にこのような地名が登場すれば、まず間違いなく第一印象としてこれらの土地を想起し、その印象に従って仮説を組むはずです。しかも、これらの土地には全国に名の知れた古刹・名山が現代も残っているのですから、そこが文献に現れたその場所であることは、まず疑いのない事実として確信されるのではないかと思います。

ところが、漢字で「伊勢」と書く地名が全国にどれだけあるか調べてみると

 市町村名レベル: 3県 4ケ所 (群馬県伊勢崎市、神奈川県伊勢原市など)
 地域名レベル :29県84ケ所 (宮城県石巻市伊勢町、佐賀県佐賀市伊勢町など)
 (2017年郵便番号データベースから)

など、全国的に同地名が使われているのが分かります。加えて、近代化以降整理されてしまった旧地名や、路地名など住所表記として使われないものまで含めると、いったいどれだけの「伊勢」が全国にあるのか分からないというのが現実です。

例えば、現在福岡県庁がある辺りは、旧土地名で「伊勢町」と呼ばれていたことが、古地図などを見ると確認できます。

しかも、伊勢神宮は全国にその分社がありますし、江戸時代には空前の伊勢参りブームが起きたとも言われてますので、伊勢神宮の名前にあやかって後から地名が付けられたケースも多いかと思います。

図:自作の地名検索ページで関東地方にある「伊勢」の地名を調べた結果。
性能上の問題があり、現在、関係者にのみアドレスを公開しています

本来ならば、これらの地名を冠する全ての土地を調べてから、古文献上の伊勢を特定しなければならないのですが、多くの歴史学者は現在の伊勢神宮のある三重県伊勢市をオリジナルの「伊勢」と決めつけてしまっているようです。

同じように、富士山の記述についても、現在の東海地方の富士山を指すのかどうか、どうも怪しいというお話は(真)ブログの「ラブライブ、忘れちゃいけない田子の浦」で述べています。

気を付けなければならないのは、記紀が神武天皇以前を「神代」と称してうやむやにしているように、古代から現代に至る日本の国史編纂者は、どうやら伝統的かつ意図的に国史を改ざんしていると見られることです。

つまり、コピー地名を全国に複数作り、オリジナルがどこにあるのか特定できないようにしているとさえ考えられるのです。その戦略が背後にあると見立てれば、伊勢神宮や出雲大社、春日大社などは、むしろ歴史のかく乱要素として長期戦略的に建立されたランドマークと考えなければなりません。

神武以前の皇統記を記述している「ホツマ伝」では、「ヒタチ宮」さんがふらっと「イセ宮」さんを訪ねるシーンが記述されています。これを言葉のイメージ通り正直に

 茨城県日立市 → 三重県伊勢市

と解釈すると、このイセ宮さんはどんだけ脚が速いのだということになってしまいます。飛行機でも使ったのでしょうか?これは冗談ですが、ホツマ文献研究者の池田満氏も同じトラップに嵌っているようで、結局、京都・奈良中心の大和朝廷というファンタジーから一歩も抜け出せないままとなっています。これは非常にもったいないことです。

この一点だけ考慮しても、次の様な仮説の方がまだ信憑性があると思うのですが如何でしょうか?

 伊勢とは群馬県伊勢崎のことではないか?

そして、伊勢崎市とその周辺には、下記のように関東を代表する大規模古墳があるのは古代史好きならよくご存知でしょう。

 ・お富士山古墳(群馬県伊勢崎市)
 ・太田天神山古墳(群馬県太田市) ※関東最大の前方後円墳
 ・八幡塚古墳墳(群馬県高崎市)
  等々多数の古墳群がある

関東の大古墳は皆「地方豪族の古墳」で片づけられていますが、その豪族が何者であるかという説明は聞いたとがありません。いわゆる天皇陵と同じ規模、同じ形状の大古墳を建設している事実から、その古墳の主とは豪族などという訳のわからない存在ではなく、大土木をまとめあげるだけの権威を有していた存在、すなはち

 古代天皇または古代天皇家の血縁者

とするのが、より合理的な説明なのではないでしょうか?そして、古代天皇と縁のあるそれらの土地土地こそが、古文献に記述された本来の所在地だと認めることで、謎とされてきた古代の様子がはっきりと見えてくるのだと思うのです。


誠の神力を現す世と成れる
管理人 日月土

三国志の呪い

今週初め、前からちょっと気になっていた場所を訪ねました。こちらのブログでも紹介した、愛知県田原市にある「阿志神社」です。この社の瓦には、ハングルに良く似た神代文字が使われており、ハングル読みではっきりと「アシ」と書かれている点を指摘しました。知人の調べによると、神代文字のアヒル草文字読みでも同じく「アシ」と発音されるそうです。

阿志神社-7月9日撮影

三方原の赤土

神社のある場所までは公共交通機関だと行きにくいので、浜松から知人の車に乗っての移動となりました。

浜松には三方原(みかたはら)という、台地が浜松市街地の西方に広がっています。織田・徳川連合軍が武田軍に敗れた「三方ヶ原の戦い」で知られた場所です。浜松起点ということで、今回はまずこの三方原を訪れました。

文献によって「三方ヶ原の戦い」の戦闘内容や規模はまちまちであり、実際ここで何が起きたのかは知る由もありません。個人的には戦国物には誇張が多く、そもそも日本通史における戦国ストーリーそのものに出来過ぎた感があると前から感じています。ある程度確実な事実があるとすれば、おそらく、合戦場所と記載された土地で多くの死者を生み出しただろうということくらいでしょうか。

この三方原台地の特徴は、一面に広がる黄色い土です。分類上は粘土分を多量に含む「赤土」とされており、耕作にはあまり向いていないようですが、馬鈴薯(じゃがいも)の生産地として知られています。含んだ水の量にも拠ると思いますが、その色合いは黄色がかった赤、あるいは赤味かかった黄色と呼ぶべきものです。埴輪の色と呼んでいいかもしれません。

三方原の赤土

この台地の不思議な点は、この特異な赤土が浜松西方にしか見られないことです。天竜川を挟んだ対岸の磐田市側の台地は普通の土色のようです。浜松市の中心部が鎮座する平野部は、一般的に天竜川が形成した扇状地と考えられますが、実際には南北に縦長の方形で、少なくとも浜松市北部は扇状と呼ぶには無理があると感じます。

とにかく衛星写真から見下ろしても、三方原の土色は際立って赤味が強く、その色合いも浜名湖北部の気賀付近になると途切れています。どうしてここだけ、地質が周囲とこれほど異なるのか、これは前から疑問でした。そこで、何か手がかりをと思い、とりあえず台地の上に築かれた三方原神社を訪れたのです。

浜松の平野部と三方原
航空写真でも土の色が他と異なるのが分かる

住宅地の中に比較的広い敷地を構えるごく普通の神社でしたが、陰陽道的に鑑定を行った結果、興味深いことが幾つか分かりました。専門的かつ煩雑になるので詳細については省略しますが、何故ここが「三方原」でなくてはならないのか、そして何故この地で「三方ヶ原の戦い」があったことにされたのか、それらの答に繋がるヒントを得ることができたと思います。

三方原神社

  ミカタハラ ハニミワタシテ ササグウタ

  コノオツチ コノアカツチヘト
   カミシメシ イマヨリイダク 
   アメメグミ キヨキミクニノ
   ヒトトナラムヤ

遠州灘の奇妙な海岸

この後、浜松市と湖西市を抜けて愛知県側に入り、県道42号線を通って豊橋から田原へと向かいます。42号線は緩やかなアップダウンが続き、視界には森林と畑が広がる、たいへん長閑な道です。地図上は遠州灘の海岸に沿って走っているのですが、南側に丘陵が続き海を見ることができません。そこで、田原に入る少し手前で脇道に入り、海岸線に出てみることにしました。

丘陵を抜けると、曇天ではありましたが目の前には遠州灘を一望できる砂浜が広がっていました。波も出ており、若干名のサーファーさんがすでに浜辺に佇んでおられました。非常に美しい風景なのですが、何か引っ掛かるものがあります。それは何だろうと周囲をよく見渡したところ、それがこの海岸を形作る地形であることに気付きました。

遠州灘と砂浜、右に切り立った丘陵

県道が通っていた丘陵よりもさらに高い丘陵が海岸近くまで迫り出しており、それが海側でストンと切り立っているのです。もちろん、海側が切り立った地形などいくらでもあるのですが、多くの場合それは波に浸食されたケースでしょう。ところが、ここは重機で削ったように丘陵が海岸線で途切れ、なんとその前方に狭いながらも砂浜が広がっているのです。しかもこの形状が20km以上は続いています。こういう地形はちょっと初めてです、他にもあるのでしょうか?

渥美半島の気になる海岸線地形
渥美半島断面のイメージ

阿志の字を考察する

阿志神社に到着する前に気になるお寺があったので寄ってみましたが、そちらは省略します。さて、同神社の境内は比較的狭いものの、社は手入れが行き届いており、全体として小ざっぱりした清清しい印象を受けます。どこにでもある普通の神社と言えばそれまでですが、やはり注目すべきは「アシ」と刻まれた丸瓦でしょう。そして瓦の縁に刻まれたもう一つの文字列は左から「ロシヤ」(右からだと「ヤシロ」)と読めるそうです。こちらは現代ハングルでは上手く読めませんが。

〇内はアシ、口内は左からロシヤと読める
ハングルと酷似しており大陸との繋がりを感じさせる

ここからは、筆者独自の想像と分析であると予めお断りします。

いつものように、まず「阿志」の字を分析します。神代文字で刻まれた「アシ」はおそらく表音文字なので、「阿志」の字は後から漢字を当てられたのだろうと考えられます。問題なのはなぜ、「阿」と「志」なのかです。

そもそも「アシ」とは何なのかですが、神社のすぐ近くに芦ヶ池という大きなため池があり、ここから、この「アシ」の字は水辺に生える植物の「芦」または「蘆」を表してると考えられます。なお、穂を付けた芦を「葦」とも書くようです。

「葦」は日本神話において極めて象徴的な意味を持ちます。天より日の御子が天孫降臨したのも、地上界の葦原中国(あしはらのなかつくに)であり、出雲の王である大国主(おおくにぬし)が天孫族に譲った国の名前も葦原中国です。葦原中国は豊葦原中国(とよあしはらなかつくに)と表記するのが正式のようですが、この「豊」の字を田原市に隣接する豊橋市、その隣の豊川市が市名に冠している (*) ことと何か関連があるようです。

*豊:会員ページに掲載された’19年3月の調査資料に、豊川・豊橋地域がかつて出雲族が治めていた地であり、後に秦氏によって支配されたことについて触れています。また、中国古代史における秦国とは、古代秦氏が日本を統治していた時代を指しているのではないかと、かなりまじめに考えています。つまり、アヒル草文字と同じく、漢字も日本国内で発明され使用されていたのではないか、そう考えるのです。

神代期に記述された地名に関連していること、また神代文字を伝統的に使用していることから鑑みると、この神社の本当の由緒は記紀が編纂されるはるか以前に遡れることは間違いないでしょう。もしかしたら、大国主と同時代またはそれ以前の出雲国の時代、いわゆる神代期に繋がるのかもしれません。

この国において、神武天皇より前の歴史は神代と称して、人の歴史として語ってはいけないことなっています。いわゆるタブーなのですが、有ったものを無きものとするため、後世の国史関係者は様々な呪術的工作を施します。その観点から見ると、「阿志」にもその工作の痕跡があると見るべきでしょう。

「阿」の字は一般的に「ア」の音に当てられることが多いので、ここでは深く分析しませんが、「志」の字にはちょっと問題があります。まず「志(シ)」の音そのものが「死」を意味することです。それだけならまだしも「志」の字は次の様に分解されます。

 志 → 土 + 心 → 心(人)の上に土 → 墓

死と墓で二重に「既に亡き者」の意味が完成しています。そして「ア」とは「天(あめ、あま)」など古代より広く「天」を表す音ですから、葦を阿志と二字縦書きにすることで、天地を分離し、地を死に満つる土地と定義しているようにも読めてしまいます。おそらく、その意味を込めてこの字を選んだのでしょう。出雲の国譲り神話に例えるなら、

 出雲国などなかった

と呪っているようにも取れます。

さて、豊橋・豊川との関連に触れましたが、そうするとその地続きの浜松についても何か関連があるかもしれません。そこで、前述した三方原との関連を調べてみました。まず三方ですが、方角を表すなら四方はあっても三方はちょっと変です。神事の供え物に使う三方もピントがずれている感じです。おそらくこの「方」の字は方形を表すと考えられます。いわゆる四角形(口)です。丸(〇)が日の天を表すなら四角(口)は地を表すのが象形のお約束ですので、

 三方 = 三口

人の住まう地面を古来「クニ」と読みますから、この口(地)はクニと読んで構わないでしょう。その土地を統べる王がいる場合には国と書きます。すると上等式は

 三方 = 三口 = 三国

つまり、三方原は三国原の意と捉えることが可能です。そして、三国原の「原」は豊葦原中国の「原」と同じであることは特に説明は要らないでしょう。

ここから、「出雲の三国?」というよく分からない概念が生じてしまいます。いったいこの三国とは何なのでしょうか?ここで、再び「豊葦原中国」とういう文字列に注目します。そう、まだ「中国(なかつくに)」が使われていません。「中国」と「三国」の字面から何を連想するかはもう聞くまでもありませんね、それはもちろん

 三国志

です。しかも、ここでは先ほど分析した「志」の字が使用されています。三国志と言えば、西暦200年代、中国大陸で魏呉蜀三国の覇権争いを綴った一大歴史スペクタクルですが、いくら後世の小説として脚色されているとしても、あの広大な中国中原で、推定800万人程度しかいなかったとされる人口、すなわち現在の東京都より少ない人口の人々が、レーダーも自動車も無い時代に日本全土の10倍以上もある広大な領地を互いに奪い合うなんてことが物理的に可能だったはずがありません。日本の東海地方に限定した話だったら全く別ですが。

何が言いたいかはもうお分かりだと思います。

三国志は現三河・遠州地方にあった出雲三国の歴史を中国史に置き換えたもの

だったのではないでしょうか?時代的にはヤマタイコク建国とほぼ同時代ですから、これまで詳細不明だった「倭国大乱」が何であったか、三国志を読み解くことで何か分かるのかもしれません。同時に、中国四千年の歴史というのもいよいよ怪しくなってきました。

ここまでの文字分析を下図に落としましたので、参考にしてください。

言霊による「阿志」・「三方原」の呪詛分析図


* * *

以前から、三国志が何故「三国史」でないのか疑問でしたが、もしかしたら、日本式呪詛の故に「志」の字が当てられていたのかもしれません。つまり、[三国志=三国死]です。

ここでは、「出雲の三国」という仮定で論を進めましたが、もしかしたら、この三国とは次の3国のことだった、あるいは意味を重ねていたのかもしれません。

 1.ニニギノミコトの天孫国
 2.ニギハヤヒノミコトの天神国
 3.オオクニヌシノミコトの出雲国

神代の系譜を辿れば、この三国の王はいずれも天界(高天原)に通じます。すると、これら3国全てを呪う存在とは、日本人の系譜から外れた「渡りてきた人々」なのではないかと予想されます。古代史上、天に弓引く外来種族とは

 球磨国(クマコク)=熊襲(クマソ)、隼人(ハヤト)

に推定されます。ヤマタイコク建国の時から1700年、これら渡りてきた人々の血脈は既に日本中に張り巡らされているでしょう。そして、その中には日本に同化した人々も居れば、出雲国造や尾張・橘氏のように高天原三国の中から外来種族の傘下に下った人々も多いはずです。

彼らは、大陸・半島にまで血脈を広げ、日本と同様その国の偽史を作り上げた後に、血縁外交を駆使し各国の戦力を動員して、恨み多き日本を奪おうとしているのかもしれません。これはまさに、ヤマタイコク建国時に起きたとされる大乱の繰り返し(*)なのではないかと思えてきます。

*繰り返し:明治新政府がどうして薩長関係者に主導されたのか、その意味をヤマタイコクの古代史から紐解く必要があるでしょう。警察内には今でも肥後閥なるものがあると聞き及んでます。また、新札の肖像に決定した北里柴三郎は、熊襲の地、小国(オグニ)の出身者であることに注目です。

古代に何があったか、本当のところは分かりませんが、1700年も共にこの地を生きた外来人は、もはや外来人ではなく日本人です。同国人として争いの愚を避け、共に手を取り合ってこの地に生きる、そのような選択肢が必ずあるはずです。

‘19.6.30 日本の頭越しに行われた3国首脳の電撃会談
日本の血縁外交は米国政府にはお見通しなのでしょう
引用元:日本経済新聞

参考:
 Trois Royaumes – Sol sur les coeurs (三国志-心に被る土 [仏語記事] ) 
 関東の地震と故山村新治郎氏 
 巫女っちゃけん。


奪い尽くされて、彼女は地に座る(イザヤ 3:26)
管理人 日月土

地名が語る古代史

歴史研究の中では、地名による分析も重要な意味をなします。例えば、九州に分布する地名が、近畿地方にも同じように分布しているなどは研究者の間でよく指摘されていることです。

参考:地名も地形も一致している九州・近畿・関東
  「たっちゃんの古代史とか」さんのブログより

古代人の名前に対するこだわりは、現代人のそれ以上だと考えられます。それはあたかも、自分の子供の名前を考えるのに、その子の一生を思い、時間を掛けるのと同じくらいの思い入れがあったのかもしれません。特に古代は「言霊(ことだま)」に対する感性が鋭い時代だったはずなので、機械的に土地の形状や伝承だけを根拠に名前を付けていたとは考えにくいのです(もちろんそういうケースもあるでしょうが)。

おそらくその当時の重要拠点と定めるような場所では、言葉における呪術的な要素をよくよく吟味・考慮した上で、その土地が長く栄えるように、あるいは、その土地の邪気が外界に及ばないように、シャーマンなども交えて、国家統治のための重要案件として決定されてきたのではないかと想像されるのです。

先に紹介したブログでは、九州=近畿=関東で地名と地形の共通性が見られると結論付けていますが、これが正しいとした時、どうしてそのような一致が見られるのかと、もう一段深く考察する必要があります。

例えば、「九州=近畿」の地名一致からは

 →九州で完成した国家統治の型が、近畿に転写された、あるいはその逆

と仮説を立てることができます。九州、近畿には多くの遺跡があることから、そのような仮説にもある種の信憑性が見られます。それが、邪馬台国の九州説だったり、畿内説の根拠になったりします。また、私が今後提示するように、日本の国家の根幹は九州で醸成され、神武天皇よりはるか後に畿内に移されたとする根拠にもなり得るのです。

しかし、ここで「九州=近畿=関東」となると、仮説の立て方はまた一段と複雑となります。最初の二つのエリアだけなら

 ・九州→近畿
 ・近畿→九州

の2パターンだけを考慮するだけなのですが、ここにもう一要素加わると、地名変遷の順列パターンは6パターンに増えることになります。それに加え、ある1箇所から、同時に残りの2箇所に移動したパターンも考えられ、合計9の変遷パターンを考慮する必要が出てきてしまいます。

日本の歴史教育の一般常識では、「九州神武→畿内大和朝廷→全国」で全てを説明しがちなのですが、それだけでは、どうして関東だけに地名の類似性が見られるのかが説明できなのです。そもそも、九州神武のその前が記紀が伝えるような「神代(かみよ)」とぼやかされ、九州神武より前が歴史としてすっかり抜け落ちているのが、日本の歴史観なのです。

私は、「神代→九州神武」という曖昧さそのものが、日本人の歴史認識を混乱させていると考えます。そして、その曖昧さに基く根拠無き権威が、現在まで社会に影響を与えていることを非常に憂慮します。

これは別に現皇室を揶揄しているのではなく、どちらかと言うと、神社や寺、時代時代の政治体制など、皇室権威の衣を借りて、日本社会を動かしてきた勢力に対してより大きな危惧を抱いているからです。

国民が一致して、自国を愛し、誇りに思いたいのなら、まず神武以前の歴史を明らかにすることが、急務であると考えます。宗教団体はもとより、怪しげな秘密結社や古代氏族が天皇家の権威を盾に社会の裏側で暗躍する時代は終わりにしなくてはなりません。

少々話しは逸れてしまいましたが、古代日本の真実を知る手がかりの一つとして、日本語起源の解明と同じく地名分析は有効な手法と考え、今後取り入れていく予定です。

「三輪」を含む地名の所在地
図:「三輪」を含む地名の所在地

上図には 福岡県内の旧町名である「三輪町」(現筑前町)は含まれない。残念ながら、市町村合併で伝統ある地名がこのように失われつつある。

公開マップはこちら
https://drive.google.com/open?id=1eGxpxoQCBN4Du-nmQ7qHwsg1IGQshKif&usp=sharing


奪い尽くされて、彼女は地に座る(イザヤ 3:26)
管理人 日月土


新元号「令和」と日本語起源

本日は平成31年4月30日。明日の令和への改元を前にした「平成」最後の日となりました。

令和という元号が決まった直後、万葉集に書かれた故事より前に漢籍の「文選」にそのルーツがあるとかないとか話題になったようですが、私としては、そんなことをほじくり返す前に、そもそも漢字のルーツとは何か、万葉集に使用されている日本語はどこに起源があるのかを一番の問題にすべきだと考えます。

何でそんなことを言うかと問われれば、日本語は1500年程度昔に作られた人工言語なのではないかとの強い疑いがあり、万葉集はそれから約200年後に編纂された歌集と言われてますから、新導入された日本語がやっと通用言語として当時の都市(都:みやこ)の住人の間で普及し始めた頃であると推測されるのです。

古代史を研究される方々の間では、神代文字(カタカムナ)という、現代の漢字や仮名文字よりも古い文字が日本に100種類以上あったことはもはや常識であると思います。

ホツマ文字

日本にも近い南の国、フィリピンに行くと、日本と同程度の国土面積の中に、実は100以上の言語がひしめき合っています。現在の公用語はタガログ語と英語に統一されていますが、地方に行くと、翻訳に辞書が必要なくらいかけ離れた言語が数10kmしか離れていない範囲に点在したりするのでとてもややこしいのです。

私が滞在した地域も、タガログ語が日常ではメインであっても、イロカノ語を話す人や、マイナーなパンガシナン語を話す人が集まり、中には数種類もの国内多言語を流暢に操る人も居たりしました。国語のタガログ語もフィリピン国内の一部族言語ですから、他の部族が用いるのには抵抗もある、そんな事情も含めて外国語である英語を敢えて同国の公用語に採用した経緯もあるようです。

この事実を以って日本を顧みたとき、確かに東北や沖縄など、極端に方言が強い地域はあるものの、言語そのものが違うと思うほどの差異は感じられません。実は日本語のこの言語的統一感そのものが極めて不自然なのです。

私は、1)神代文字が殆ど排除されてしまったこと、2)北から南まで2000km離れているにも拘わらずほぼ同一言語が普及していること、これらの事実から、ある時期、現代の日本語が国内政策的に全国に強制強要されたものであると予想します。

この時、フィリピンの様に既存の言語を公用語にしたのではなく、一旦それまでの全ての言語の使用を止め、新しい言語を普及させたからこそ、現代日本社会においても古い言語の痕跡をここまで排除することが可能であったのではないかと考えるのです。

■漢字は本当に中国起源なのか?

加治将一氏の小説「失われたミカドの秘紋」には非常に面白いことが書かれています。漢字の構成原理に旧約聖書の考え方が採用されているというものですが、これが絶対正しいとは言わないまでも、亀甲文字から現在のバリエーションに自然発展したという曖昧な通説よりははるかに信憑性が高いと感じます。

神代文字は、おそらく文字を神聖なものとして、主に神との交信に用いられたのではないかと考えられますが、エジプトのヒエログラフもそうであるように、古代の文字とはおそらくそういうものであったはずです。少なくとも現代の様なコミュニケーションツールとは意味合いが全く異なると考えられる訳で、漢字もそのような過程から生まれてきたとするならば、初期の文字一つ一つに神との関りが意味的に込められているはずです。

そう考えたとき、言語全般がどのように発生したのかは、全人類史を俯瞰する上で極めて重要な問題であると言えるでしょう。大陸での動きが極めて流動的だった古代世界で、果たして、漢字は中国の発明であると単純に割り切ってしまって良いのでしょうか?

つまりどういうことか?私は、漢字の発明は、実は日本起源なのではないかと考えているのです。もちろん、今充分な根拠がある訳ではありませんが、人工言語たる日本語の前身に、万葉仮名として敢えて漢字を用いたという事実、日本語としての強い親和性などを考慮すると、その可能性は高いのではないかと考えます。

そして、次の事実を知ると益々その思いは募ってくるのです


愛知県田原市の阿志神社と鬼瓦

ハングルを勉強したことがある人なら、この鬼瓦の上に書かれた文字がすぐに読めるはずです。そう

 아시 = アシ(阿志)

なのです。この文字をアヒル草文字と言う方もおりますが、伝承では豊国(トヨクニ)文字、もしくはサンカ文字と呼ばれており、日本古来の文字なのです。

私たちは通常、 大陸-朝鮮半島-日本列島 と並べたら、文明の進行方向を

 大陸 -> 朝鮮半島 -> 日本列島

の一方通行だと思いがちですが、いったい誰がそれを決めたのでしょうか?この反対

 大陸 <- 朝鮮半島 <- 日本列島

あるいは相互移動

 大陸 <-> 朝鮮半島 <-> 日本列島

もあるはずです。少なくとも、人の行き来とはそういうものであるはずです。

日本の古代史を考える上で、言語の起源も含め、大陸の圧力によって生まれた日本という歴史学上の既成概念はそろそろ打ち破るべきではないでしょうか?同時に、隣国である韓国・北朝鮮・中国を現在の国家概念でいうところの「外国」と見ていては自国の本当の歴史理解など覚束ないと言えるでしょう。


奪い尽くされて、彼女は地に座る(イザヤ 3:26)
管理人 日月土

太宰府で繋がる新元号とダリフラ

昨日4月1日、政府より新元号「令和」が発表されました。

情報が漏れないよう、新元号選定関係者は厳重に情報管理されていたとされていますが、暗号報道の形でかなり細部の情報まで事前に出回っていたことは(真)ブログ「新元号発表と前日の出来事」でお知らせした通りです。

今回の発表で、私もちょっと驚いたのは、元号制定の根拠となった古典が「万葉集」であったことです。そして、直接元号の由来となった序文が、

 太宰府

にて読まれたものだということです。新元号発表の2日前、3月30日に、ダリフラのアニメタイトルに「太宰府」が暗号として織り込まれているとの前記事「“ダリフラ”、タイトルに隠された暗号」を出したばかりですから、まさか、その話題に被るようこの元号が示されたことに、単なる偶然を越えた何かを感じずにはいられません

九州の地方紙、西日本新聞で出された記事

ここで、太宰府市における26の地区名の中から気になるものをピックアップしてみます。

 01.観世音寺     カンゼオンジ
 02.国分       コクブ
 03.五条       ゴジョウ
 04.宰都       サイト
 05.宰府       サイフ
 06.坂本       サカモト
 07.三条       サンジョウ
 08.白川       シラカワ
 09.朱雀       スザク
 10.高雄       タカオ
 11.通古賀      トオノコガ
 12.都府楼南     トフロウミナミ
 13.長浦台      ナガウラダイ
 14.梅香苑      バイコウエン
 15.御笠       ミカサ
 16.水城       ミズキ
 17.連歌屋      レンガヤ

また、隣接する福岡県大野城市36地区の中から次を取り出します。

 18.牛頸       ウシクビ
 19.大城       オオキ
 20.乙金       オトガナ
 22.乙金台      オトガナダイ
 22.乙金東      オトガナヒガシ
 23.上大利      カミオオリ
 24.雑餉隈町     ザツショノクママチ
 25.下大利      シモオオリ
 26.下大利団地    シモオオリダンチ
 27.東大利      ヒガシオオリ
 28.御笠川      ミカサガワ
 29.瑞穂町      ミズホマチ
 30.南大利      ミナミオオリ
 31.紫台       ムラサキダイ
 32.横峰       ヨコミネ
 33.若草       ワカクサ

全部について一つ一つ説明するとキリがありませんので、まず次のグループに分けます

 グループ1:国の中心を表す地区名
  04.宰都、05.宰府、12.都府楼南
 グループ2:都市の形状を表すもの
  03.五条、07.三条、09.朱雀
 グループ3:大利と付くもの
  23.上大利、25.下大利、26.下大利団地、27.東大利、30.南大利
 グループ4:地形を表すもの
  08.白川、13.長浦台、28.御笠川、32.横峰
 グループ5:歴史の用語によく登場するもの
  01.観世音寺、02.国分、16.水城、19.大城
 グループ6:皇子、皇女の名に関連すると思われるもの
  31.紫台、33.若草
 グループ7:歌に詠まれた、神話に登場したと思われるもの
  06.坂本、15.御笠、
 グループ8:その他

ここでは、グループ1~3に注目します。


太宰府が国の中心であることを表す「都」と「宰」の字

現在、地方行政区で「都(みやこ)」の字が付けられているのは、東京都のみ。日本の首都であり政治的中心地です。明治政府が成立する前は、現在の京都符が首都と言えますが、その名残りが京都の「都」の字に表れています。共に共通するのは、天子(天皇)がご在所する場所だ(だった)ということです。

単に「都」の字が付く地名なら、全国に色々ある訳ですが、太宰府が特別なのは、「宰」の字が付けられていることです。「宰」とは「宰相」という単語からも分かるように、「多くの役人を統率する人(長)」という意味があります。つまりこれが地名に付けられるということは、ここが政治的中心地であったことが窺われるのであり、更にそこに「都府楼=都(みやこ)にある府庁」という行政の中心ともとれる意味が付与されているのですから、

 太宰府は首都を現す地名

と捉えて良いはずです。それはすなわち

 天子(天皇)がご在所された土地

を意味します。加えて、ここが元々整備された都市であったことを示すのが、グループ2の語群にある、現在の京都と同じように真っ直ぐな通りを表す「条」であったり、都市の南に設置される門を示す「朱雀」であると考えられるのです。


「大利」を「ダイリ」と読めば

太宰府市に隣接する大野城市には、地名に「大利」の字が残る地域が、比較的多く存在します。現地ではこれを「オオリ」と呼ぶのですが、これは「大」を訓読み、「利」を音読みするいわゆる湯桶読みです。これを両方音読みするとどうなるでしょうか?

 大利 → ダイリ

ダイリとはすなわち「内裏」、おダイリ様のダイリと同音となります。その意味は、Wikipediaによると

 ”古代都城の宮城における天皇の私的区域のこと。 御所(ごしょ)、禁裏(きんり)、大内(おおうち)などの異称がある。”

とあります。やはりここでも、「天皇」との関連が顔をもたげてくるのです。そして、これはグループ1,2の語群とも意味的に整合するのです。

太宰府市と大野城市
周辺行政区の地名にも注意


歌に詠まれたのはやはり大宰府

(新)ブログ記事「三笠の山の月を詠む」で、次の有名な和歌

  天の原 ふりさけ見れば 春日なる
   三笠の山に 出(い)でし月かも  
                安倍仲麿

は、実は太宰府市にある宝満山(ほうまんざん)、別名「御笠山(みかさやま)」を詠んだ歌ではないかとの考えをご紹介しました。この歌に登場する「春日」という言葉に再度ご注意ください。古代、博多湾は現在春日市の北部まで迫っており、この歌が船から眺めた御笠山を詠んだものであるならば、旅立ちの港となる春日は、安倍仲麿にとってもたいへん印象が強い土地の一つであったはずです。

その春日の港の先に、都である太宰府があり、そこにそびえる御笠山に月がかかるのを見て、詠み人はふと郷愁を覚える。これこそが、この歌の本質であります。

安倍仲麿は奈良時代の官吏です。時代的には新元号の拠典が詠まれたのと同時代の人物です。通説なら、奈良の都を出立し遣唐留学生として唐に向かう旅の途中の出来事を歌に詠んだと解釈されるのですが、途中立ち寄った役所の一支所に過ぎない土地の山に、そんなにもしみじみと郷愁を覚えるものでしょうか?

ここで、都府・宰府・内裏、すなわち太宰府が天皇が居する当時の都であったとするならば、歌の解釈は、まさに都を離れんとする官吏の都への郷愁へと結ぶことが可能なのです。すると、ここからとんでもない仮説が導かれます。最近の記事で「神武天皇御陵は福岡県にある」とお伝えしておりますが、神武時代からおよそ700年ほど経た奈良時代、その時でも都はまだ太宰府にあったことになります。つまり

 奈良時代などなかった

という結論になり、勢い飛鳥時代などというものも存在しないという事になってしまいます。

それに関連して、懇意の遺跡発掘の専門家Cさんにこんなことを聞いたことがあります

 「もしかして、奈良時代や平安時代なんてなかったのではありませんか?」

バカにされるかと思って尋ねたのですが意外にも次のような答えが帰って来ました

 「日月土さん鋭いですね。平安時代が存在したという、遺跡上の根拠なんかないんですよ」

えっ、平安時代もなかった!?


フランキスとフランクス

太宰府でここまで引っ張りましたが、ここからアニメの解説となります。アニメ「ダーリン・イン・ザ・フランキス」を鑑賞された方は、作品を見始めた時に次のような疑問を最初に感じたはずです。

”タイトルは「フランキス」なのに、作中での呼び名は何で「フランクス」なのだ?”

アニメを観てない読者さんのために補足すると、フランクスとは作中に登場する戦闘ロボット(人工生命体)のことです。

物語の中では「キス(kiss)」が一つのキーワードになっており、何となくその台詞の勢いに押されて、タイトルは「フランキス」でいいのかな?と思ってしまうのですが、実はここにも大きな暗喩が潜んでいるのです。次の分析図を見てください。

ダリフラタイトル分析図

(1)の文字違いの比較から見てみましょう。呼び名が異なる「キ」と「ク」を抽出して並べると、①キク、②クキの2パターンが出てきます。このアニメが「日本成立史の情報開示」という大きなコンテキストの流れにあるのなら、この2語は次のように漢字変換できます。

 ①キク → 菊

 ②クキ → 九鬼

②の九鬼とはまさに作品中に出てくる、「叫竜(きょりゅう)」の血が入ったゼロツーのクローンによる戦闘集団、つまり9人の鬼の集団である「ナインズ」を指すのは明らかです。よって、この一文字違いは意図的にタイトルに埋め込まれていたことが明確になります。

なお、九鬼という言葉は、九鬼文書や日蓮宗の九鬼の秘術など、呪術世界でもよく使われる言葉ですが、その真意について明かされたものを私はまだ見たことがありません。

パパの近衛兵であるナインズ(九鬼)
図は、ゼロツーが欠けており8人である。実はこの8人構成に意味がある

すると①の菊も意図的に織り込まれた暗号であり、主人公「ヒロ(16)」の存在と重ね合わせると、これが何を指しているのかはもう明確ですよね。

16菊花紋-天皇家の象徴

次に(2)のキーワードの比較です。作品を通して「キス」が重要なキーワードになっていることは上述した通りですが、これをクスと読むとどんな意味が生まれるのでしょうか?

 ③クス → 九州

もちろん樹木の樟もあるのですが、樟の木は九州を代表する樹木であり、むしろその名は「九州」に由来するものだとも言えます。

新元号の太宰府、ダリフラの太宰府、そして今回の分析よって出てきた新なキーワード、「天皇」「九鬼」「九州」。ここまでの分析にとりあえず矛盾はなさそうです。

九州の太宰府に天皇の出自に関る何かがあるのか、九鬼とは何を指し、どう太宰府や天皇と繋がるのか、ダリフラに隠された暗号は、思いのほか深いものがあるようです。


奪い尽くされて、彼女は地に座る(イザヤ 3:26)
管理人 日月土

“ダリフラ”、タイトルに隠された暗号

この記事は、アニメ「ダーリン・イン・ザ・フランキス」を鑑賞し終わった読者さんを対象に書かれています。記事中に一部ネタバレ的な内容を含むかもしれませんのでご注意ください。

2018年のアニメ「ダーリン・イン・ザ・フランキス」

まずは、(真)ブログ「日本の始まりとダリフラ」で説明した内容のおさらいです。要点を挙げると次の様になります。

・ヒロイン名「ゼロツー」は「02」の別読み、すなわち「鬼(オニ)」、あるいは「和邇(ワニ)」を意味している。
・匿名の原作者名「000」は輪が3つ、すなわち「三輪」を表している

お分かりのように、これは歴史の年表を覚える時に、「何も無くし(794)た平安遷都」などと覚えるように、語呂合わせの要領で、逆に数字から元の語句を推測する方法を取っています。

このアニメをご覧になられた方は、登場人物がただの数字で呼ばれるなんて、何て味気ないのだと思われたかもしれませんが、実はその解読方法については主人公の「コード016」、通称「ヒロ」が仲間の名前を数字の語呂合わせから考案したという下りに凝縮されているのです。

もう一人の主人公となるヒロ(コード016)

日本人にとって数字は単なる記号でなく、数字に紐付けられる音によって数字以上の特別な意味を持つようになります。古神道の中に物部の数詞(かずうた)というものがあるのですが、それは「一二三四五六七八九十」と書いて「ひとふたみよいつむななやここたり」と読み、これだけで立派な祝詞、あるいは呪文として意味を持つのです。呪術の世界では生命を復活させる力があるとされています。

この漢数字の中で、例えば「四」を取り出せば、その音は「し」または「よ(ん)」であり、その音は更に「死」「子」「夜」「世」・・などの多くの意味を持つことになります。その点においては、数字の並びは、漢字や平仮名よりも多くの意味を同時に持たすことができるので、暗号を仕込む方法としては実はたいへん都合が良いのです。

■アナグラムで読む”ダリフラ”

さて、暗号を仕込む方法としては、アナグラムという文字の並べ替えが良く使われます。このアナグラムを用いて、このアニメのタイトルを分析しましょう。

タイトルは「ダーリン・イン・ザ・フランキス」ですが、英語のカタカナ表記なので、英文に合わせ「・」(なかぐろ)によって単語毎に言葉が区切られています。実はこの言葉を区切るというというのが曲者なのです。

以下は「いろは歌」の暗号としてかなり有名なものですが、まずこれを見てみましょう。

いろは歌の暗号
一般に、咎なくして死するを善しとした人物とは、イエス・キリストを指す

この暗号を抽出するには、どこで言葉を切るのかが重要になってきます。ところが、ダリフラのタイトルの場合はどこで言葉を切ったらよいのか、既に記号で示されているので、こんなに楽なことはありません。それではそちらも同じ様に分析してみましょう。

ダリフラのタイトル文字を分析

すると、「ダイザフ」なる言葉が浮き出してきました。これをアナグラムとして更に並べ直すと、意味のある言葉が出てきます。そう、もうお分かりですね、それは

 太宰府(だざいふ)

となります。あの学問の神様、菅原道真公を祭り全国的に有名な太宰府天満宮のある、福岡県太宰府市のことです。

いきなり太宰府が出てきて何のことと思われるかもしれませんが、実はこれまでに出てきたキーワードとちゃんと関連してくるのです。下の福岡県の地図を見てください。

太宰府市(赤)と旧三輪町(黄)、那珂川市(青)
三輪町は2005年に夜須町と合併して筑前町に、那珂川は昨年市に

前述の「三輪」を奈良県桜井市にある三輪山と想定すると、この関連性は分からないかもしれません。ここで言う三輪とは、福岡県にある旧三輪町のことを指します。太宰府と三輪が地理的に近いのは上記地図を見ればお分かりだと思います。そして、青く塗った(現)那珂川市は、(新)ブログ「両陛下へ繋ぐ神武天皇御陵」でもお伝えしたように、本物の

 神武天皇御陵

が鎮座する土地なのです。それらから、ダリフラが何故タイトルにまで「太宰府」なるキーワードを埋め込んできたのか、その真意が見えてきます。私はそれを「日本成立期に関る情報の開示」と見立てました。

実は、このタイトル、もう一つ別の意味を含んでいるのですが、太宰府に関する詳細な情報を含め、それはまた次回以降の話題に譲りましょう。

最後に、主人公の「ヒロ」について触れたところで、コード016の意味について考えましょう。語呂については既に「1(ヒ) 6(ロ)」と出ていますので、こここでは数字として単純に見ればその意は明らかです。

16菊花紋章-天皇家の象徴

16なんて数字はどうにでも解釈可能ではないかと思われるかもしれませんが、これが「菊」であるという暗示が実はアニメの中に示されています。それについては次回触れることにします。


奪い尽くされて、彼女は地に座る(イザヤ 3:26)
管理人 日月土

3番目の黒い霧ブログ

「(新)日本の黒い霧」を始めてまもなく10年、まさかここまで続くことになるとは、当時は全く予想もつきませんでした。

当初から、世に言う歴史の胡散臭さに疑問を抱き、真実の歴史を知りたいというのがテーマでしたが、そう切り出しておきながら、123便事件のあまりの闇の深さに引きずられ、これまで歴史問題については殆ど触れることがなかったように思います。

その反省に立ち、こちらのブログページでは歴史問題を専門に扱って行きたいと考えております。どうぞよろしくお願い申し上げます。


奪い尽くされて、彼女は地に座る(イザヤ 3:26)
管理人 日月土