ユダヤ人埴輪と六芒星

前々回の記事「麻賀多神社と高天原(2)」で、次の様な画像を掲載しました。

画像1:ユダヤ人埴輪と現代ユダヤ教徒の正装

これについて、知人であり遺跡発掘の専門家であるG氏にこの埴輪(はにわ)を見てどう思われるか感想を尋ねたところ、

「ああ、あのユダヤ人の姿をした埴輪でしょ?あれはどう見たってユダヤ人なのに、アカデミズムでは誰もそれを口に出さないんだよね。それがかえっておかしいと前から思っていたんですよ。」

他、次の様にも仰ってました。

「ユダヤ人の姿をした埴輪は、成田周辺だけでなく、少し離れた千葉市の人形塚古墳(椎名崎古墳群の一部)からも出土しています。おそらく、千葉県北総地区一帯にユダヤの影響があったのではないかと予想されるのです。」

画像2:椎名崎古墳群の位置

今回はそのユダヤ人埴輪について、形状及び、その形状が意味する呪術的側面から、これがほぼ間違いなくユダヤの教えの痕跡を示すものであることを説明したいと思います。

■武人ではなくユダヤ司祭か

このユダヤ人埴輪ですが、一般的には武人型埴輪と呼ばれています。それは、背の高い軍帽のような山高帽を被り、鎧のようなチョッキを着て、手には短剣を持っている。ぱっと見で武人に見えてしまうのはむしろ当然ではないかと思います。

画像3:姫塚から出土したユダヤ人埴輪

しかし、これが古墳と呼ばれるお墓に、当時の権威者と共に埋められたという点を普通に考えれば、直ぐに軍事と関連させて解釈するのは早計であると思われます。しかも、ユダヤ人埴輪は王の墓と思われる殿塚ではなく、そのお妃の墓とされる姫塚から出ているのですから。

日月神示には「玉とは御魂(おんたま)ぞ、鏡とは内に動く御力ぞ、剣とは外に動く御力ぞ、これを三種(みくさ)の神宝(かむたから)と申すぞ(富士の巻第3帖)。」とあり、また、ある神道関係者からは、鎧とは鏡を象徴するものであるという話を聞いたことがあります。

何が言いたいかというと、武具のように見える装束(鎧のような着衣と短剣)は、神示が語るように神宝(鏡と剣)を表しているのではないかということ、つまりこれらは祭祀道具であり、そうなると、この埴輪は武人などではなく、むしろ司祭を表しているのではないかということになります。

また、山高帽と表現とした被り物も、後方からの撮影写真を見ると、それが帽子の役目を全く果たしていないことが明らかとなります。

画像4:山高帽を後から撮影したもの

この画像4では、正面の三角に尖った部分を、後ろから支えているだけのように見えます。つまり、端から頭部を保護する目的ではないことは明らかで、古墳に入れられている点、前述の鏡と剣の関係性を考慮すると、これも祭祀道具として着用されたと考える方が自然なのです。

さて、この山高帽状の被り物、正面から見れば「烏帽子」、帽子の支えだけに注目すれば「冠」に見えてしまうのですが、読者の皆さんの目にはどう映るでしょうか?

画像5:(左)烏帽子と(右)冠 (Wikiペディアから)

中には、こんなにはっきりと冠の形としか思えない山高帽を被っているユダヤ人埴輪もあります。

画像6:冠形状の被り物をしたユダヤ人埴輪

また、左右にカールした髪型については、埴輪研究書でははっきりと「美豆良(ミズラ)」と書かれており、こうなると、この埴輪がユダヤ人司祭を指しているのか、それとも古代日本人の司祭を指しているのか、なんとも曖昧となってくるのです。

画像7:古代日本人像でお馴染みの角髪
または美豆良 (goo辞書から)

この曖昧さについて、古代ユダヤ人の影響ではないかと議論してきたのがこれまでの日ユ同祖論なのですが、この議論の前提にはこういう思い込みがあることに気付きませんでしょうか?

 古代ユダヤ人と古代日本人は別物

つまり、古代ユダヤ人が遠い昔に大陸の方から日本へ渡来してきたのだという思い込みです。前から同じことを言ってますが、お互いが遠く離れたA地とB地から同じ遺跡が出てきた場合、どちらが起源であるかなど、軽々に決められないのです。すなわち、

 ユダヤ人は日本発祥の民族

である可能性も、考察の一つとして残しておかなければ片手落ちなのです。

■ユダヤ人埴輪に見るカバラと陰陽道

Wikiペディアによると、「カバラとは、ユダヤ教の伝統に基づいた創造論、終末論、メシア論を伴う神秘主義思想である。」とあります。

日本にも同じ神秘主義的色彩の強い「陰陽道(おんみょうどう)」があります。一般的には、陰陽道は古代中国の陰陽五行思想から発展したものと理解されていますが、それについては今は議論しません。ここでは、日本独自に発展した暦などの実学的要素を含む陰陽道全般を指すことにします。

実は、このユダヤ人埴輪の出で立ちは、陰陽道の考え方であっさりと分析・説明できるのです。

画像8:二つの三角形状がポイント

顎鬚の末端が一点に集約され、全体で下向きの三角形を作っていることが重要です。これは地から登り空中で広がる「火」を表します。陽気です。

また、山高帽が上向きの三角形を形作っているのは一目で明らかです。これは天から下に落ちて広がる「水」を表します。陰気です。

これらを整理すると次のようになります。

 山高帽:△:水:陰
 顎鬚 :▽:火:陽

この二つの三角を重ね合すとどうなるでしょう?

画像9:ご存知、六芒星(ダビデの星)
またはカゴメ紋、麻紋、亀甲紋

この紋様が、海の向こうの某ユダヤ国家の国旗に使われていることは今更説明することではありませんね。加えて、このユダヤ人埴輪において重要なのは、この二つの要素が人の頭部で融合していることなのです。

「天地人」という言葉がありますが、まさに人とは天と地の間に生じる存在であり、人体の最も重要な器官が詰まっている頭部に、天地の創造のエネルギーを集約するという考え方が、この形状一つで理解されるのです。

また、カール状の頭髪(美豆良)は螺旋を表し、螺旋の中心部に気の流れが発生すると考えるのが気功術なので、ここからもまた、天地のエネルギーを頭部に集中させるという呪術的思考が垣間見れるのです。

このよく考えられた幾何学的なデザインだけを見ても、このユダヤ人埴輪が武人などではなく、宗教祭祀を象徴するものであることが見て取れるのです。

そして、ここでも前節と同じ疑問が生じます。この司祭像が執り行っている儀式は古代ユダヤ(カバラ)のそれを指すのか、はたまた、古代日本(陰陽道など)のそれなのか・・・

私は、両者に違いはないと思っています。つまりカバラも陰陽道も出所は同じであり、それを象徴するのが、姫塚のユダヤ人埴輪なのでしょう。但し、この埴輪は古墳時代のものですから、歴史的にはかなり新しい方です。この様式が本来のものであったかどうかは不明ですので、これより過去の時代に融合したという考えも捨ててはいません。

そうすると、古墳時代前後の日本の古代史はどう理解すればよいのか?

ここで、前から私が主張している次の考え方が極めて有効になってきます

 記紀とは真の古代を隠すために編纂された偽りの国史である

ここで言う「隠された日本の古代」とはまさにユダヤ人と日本人の真の関係性のことであると考えられるのです。加えて、現ユダヤ教、その派生であるキリスト教やイスラム教が一神教であることを鑑みれば、これはすなわち、

 日本人と唯一神との関係

と言い換えることができるでしょう。よく言われる「日本は八百万の神の国」という概念は、記紀が編纂された1300年前より以前に企図された、この古代史隠蔽政策の中で練り上げられた後代の創作であるということです。つまり、日本の伝統などではない。

言い換えれば、木は森の中に隠せと言うように、

 神は神々の中に隠せ

これこそが、実在人であった神武天皇以前の天皇一族を神と書き換えてしまった、記紀編纂の真の狙いであったと考えられるのです。

画像10:成田空港近隣の芝山町大里に建てられた
石井四郎書の忠魂碑

上の石碑は、旧帝国陸軍731部隊の創設者で有名な石井四郎氏の書が刻まれたものです。まさに、ユダヤ人埴輪の多出地域に建てられているのですが、この一帯は石井姓を名乗る家が多く、石碑の裏面にも、親族と思われる石井の名が多く刻まれています。

731部隊は初期の頃、賀茂村と呼ばれたこの土地の関係者を中心に設立されたと言います。おそらく731部隊の設立とユダヤ人埴輪は無関係ではない、つまり日本の古代史と現代史は密接にリンクしている。最後にそれを指摘して次回に繋げたいと思います。

※明日配信のメルマガでは、この関係性についてもう少し掘り下げて解説したいと思います。
※本記事で使用した埴輪写真は、六一書房刊、城倉正祥編「殿塚・姫塚古墳の研究 -人物埴輪の三次元計測調査報告書-」(平成29年)より抜粋したものです。


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隠された祭神と成田

これまで、「麻賀多神社」をキーワードに、同社が点在する千葉県の北総地域について調べてきました。

 ・麻賀多神社と高天原
 ・麻賀多神社と高天原(2)

また、同じ北総地域の話題として、神話に記された神、猿田彦(さるたひこ)が関連していることも既にお伝えしています。

 ・天孫降臨とミヲの猿田彦
 ・椿海とミヲの猿田彦
 ・麻賀多神社と猿田彦

話が少し複雑になってきたので、ここまでの流れがどのようになっているのか、できれば今一度過去記事を読み返していただくことをお勧めします。

■側高神社:新たな北総神社群

さて、前回の記事「麻賀多神社と高天原(2)」で、私は次の様な図を掲載しました。

画像1:主祭神による神社群の分布図(再掲)

上図にも書き込んでいますが、実はこの分布図にはまだ調査未確認のエリアがあります。これは、そこに何もなかったということではなく、単に私の調査が行き届いていなかったからであり、先日、同地区の調査を一部終了したので、今回はその結果を反映したいと思います。

必ずしも上図の未調査エリア内に限定される訳ではありませんが、同エリアを中心にやはり同名神社が香取海周辺に点在していることが後から分かったのです。その神社の名前は

 側高神社(そばたかじんじゃ)

であり、まだ訪れていない場所も含め、全部で15社あることが分かっています(他にあるかもしれません)。「そばたか」の漢字表記は複数あり、それらは次の様になります。

 側鷹・脇高・蘇羽鷹・相馬高・隣高

中には1か所で表記が混在している所もあります。おそらく万葉仮名よろしく、「そばたか」と読めることが大事で、漢字表記に拘る必要はあまりないと考えられます。

画像2:側高神社の分布

■祭神名を教えない側高神社(香取市大倉)

祭神については、私が訪れた社では直接判別できませんでしたが、ネット上の記載を見ると、場所によっては、「国常立大神(くにとこたちおおかみ)」や「火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)」と紹介されているところもあるようです。

今回訪ねてはいませんが、実は、千葉県香取市大倉の側高神社とその祭神については、知人から興味深い話を聞いています。なんと、ここの神社はその祭神名を「秘して語らず」とし、門外不出にしていると言います。あるいは適当に「側高大神」とし、祭神の由緒については多くを語らないという姿勢を取っているようです。この事実は、神社に詳しい関係者の間でも話題になっているようです。

画像3:香取市大倉の側高神社(写真Google)

通常、神を崇拝する場所であるはずの神社で、どうしてその名を参拝者に知らせないのか、ちょっと理解に苦しみます。

知人が香取市の側高神社を訪れた時、運よく祭事の日だったらしく、氏子さんたちが集まっていたそうです。そこで、改めて御祭神の名を教えてもらえないか尋ねたところ、

 「ここの神の名は教えられない」

と固く断られたそうです。それでも食い下がってお願いし続けたところ、とうとう

 「これをあげるから帰ってくれ」

と、縁起物を渡されて追い出されてしまったとか。

何とも解せない話ですが、それ故に、何かたいへん重要な史実がここに隠されている予感を禁じ得ないのです。そして、知人が同社を訪れた日付を聞いて、私はその思いをますます強めたのです。その日とは、年も押し詰まった

 12月24日

なのです。

■空港施設に取り囲まれた側高神社(成田市取香)

海外、関東地方へ行き来するのに利用することも多い成田空港。この空港敷地のすぐ脇にも側高神社があります。それも、空港ゲート、国道、ホテル、駐車場と四方を近代施設に囲まれ、まるでそこに取り残されたように、ぽつんと鎮座しているのです。

見たところ普通の神社なのですが、気になるのは、すぐ近くの成田市小菅の側鷹神社が空港建設に伴い移設されているのに、どうしてここはそのまま残されているのかです。見るからに邪魔に扱われているのですが。これには移設できない何か大きな理由があるのではと、ついつい勘繰り深くなるのです。

画像4:成田空港ゲート脇の側高神社(取香)
画像5:こちらは空港建設に伴い移設された側鷹神社(小菅)

成田空港と言えばかつてご紹介したように、その敷地そのものの形状が、コルナサインを表しています。コルナサインとは悪魔崇拝者の一員と思われる人物が、時々人前でみせる動物の角に似せたハンドサインです。偶然と言えばそれまでですが、私は、造形にシビアな建築デザイナーがそんな不吉な形状を見逃すはずはなく、むしろ、このコルナサイン型のデザインは意図して選ばれたのではないかと思っています。

画像6:成田空港上空写真とコルナサイン

そうなると、コルナサインを地上絵とする狙いはいったい何なのでしょうか?西欧の悪魔と日本の神社、何か関係あるのでしょうか?

その疑問への答の鍵となるのが、前節で取り上げた「12月24日」という、香取市大倉の側高神社の祭日なのです。

■ユダヤ人埴輪の地に建つ相馬高・隣高両神社

前回の記事で、千葉県の芝山町でユダヤ人の正装そっくりな埴輪が出土したというお話を紹介しました。芝山町は成田空港の少し南側に位置しますが、古代期にはここまで海の入江が入り込んでいたことが地形から窺えます。私はこの入江のことを「芝海(しばのうみ)」と呼んでいます。

その芝山の旧入江に臨む小高い土地に、相馬高神社は鎮座します。今ではすっかりさびれていますが、地形から判断する限り、かつては絶好の祭祀場だったのではないかと考えられるのです。

画像7:芝山の相馬高神社

そして、もう一つの隣高神社ですが、こちらはおそらく海に浮かぶ小島、あるいは土を盛った古墳と思われる小山の上に建てられています。

画像8:芝山の隣高神社

私が気になったのは、この神社よりも、小山の端にポツンと建てられた小さな祠の方です。立派な神社が山の上にあるのに、なぜこんな粗末な祠が全く別に作られているのか?

画像9:隣高神社の隅に建てられた小祠

そして、その不自然な配置に加えて印象深かったのが、この小祠をスマホで撮影しようとするとカメラアプリがフリーズしてしまうという、小さな怪異に見舞われたことです。

仕方がないので、呪術を取り除く作法を施し、それから撮影できるようになったのですが、呪詛技術的な観点で見る限り、かなり強力な呪いがここには掛けられていたようです。この小祠の何がそんなに疎まれたのでしょうか?

また、ここ芝山はユダヤ人埴輪が多出した土地でもあります。これを、「側高神社」に関わるキーワードに加えると

 12月24日 | コルナサイン | ユダヤ人

と、ここは日本なのか?と思わせる不思議な言葉の並びが現れてきます。これもおそらく、側高神社の隠された祭神と関係がありそうです。

■その他の側高神社

他にもいくつか同名の社を訪ねましたが、詳しい説明は省略します。これらに共通しているのは、いずれも香取の海を見下ろす高台の上に建てられているという点です。

画像10:印西市笠神
画像11:津冨浦(つぶうら)1
画像12:津冨浦2

■側高エリアの中心地は成田である

さて、決定的な祭神は不明ですが、側高神社も麻賀多神社などと同じく、同一氏族が居住した領域を表していると考えられます。

また、神社が点在している地形的位置関係をデフォルメして配置すると下図のようになります。

ここから、千葉県内にある多くの側高社が、実は古代期にあった内海のすぐ側にあることが分かります。同時に、成田市の取香(とっこう)と小菅にある社は海には面しておらず、下総台地の平らな部分、現在は成田空港、少し前までは三里塚の広大な牧草地の上にあったことが偲ばれるのです。

これは何を意味するのか?成田取香・小菅の社は周りの海辺のポイントから比較的短い陸路でアクセス可能ですから、古代期においては、南北に広がる海辺の海運を通して、人や物資がここに集中していたと考えられるのです。

画像13:側高神社の配置(デフォルメ図)

これは、成田国際空港を中心に空輸が行われている現在の姿と似ているとも言えます。そして、そのような土地にはおそらく宮が置かれ、どういう習俗かは不明なものの、都(みやこ)と呼ぶに相応しい古代都市がそこに広がっていただろうと想像されるのです。

ここで現代の成田を振り返ってみましょう

 ・真言宗の大寺、成田山新勝寺がある
 ・江戸時代は軍馬の生産地であった
 ・明治期以降、御料牧場が置かれていた
 ・731部隊の前身となる賀茂村があった
 ・空港用地買収に関わる三里塚闘争の長期化
 ・123便の残骸が一時的に成田空港に運ばれ保管された

他にもあるのですが、これだけ見ても、一癖も二癖もある土地柄であることが見えてきます。成田に関しては、私も123便事件の調査関係で、成田公安に執拗に追いかけられたことがあり、成田の地には国家的な何か大きな隠し事があるのだろうと、ずっと思っていました。

それが、今回の古代期におけるキーワードとどう関わるのか?実は私なりに一つの答に辿り着いたのですが、それについては、明日配信のメルマガで先行してお知らせしたいと思います。

事前に予告するなら、これこそが日本国の成立過程において決定的な事実であり、また123便事件を生み出した核心的事由であると、私は考えています。


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