これまで、「麻賀多神社」をキーワードに、同社が点在する千葉県の北総地域について調べてきました。
また、同じ北総地域の話題として、神話に記された神、猿田彦(さるたひこ)が関連していることも既にお伝えしています。
・天孫降臨とミヲの猿田彦
・椿海とミヲの猿田彦
・麻賀多神社と猿田彦
話が少し複雑になってきたので、ここまでの流れがどのようになっているのか、できれば今一度過去記事を読み返していただくことをお勧めします。
■側高神社:新たな北総神社群
さて、前回の記事「麻賀多神社と高天原(2)」で、私は次の様な図を掲載しました。
上図にも書き込んでいますが、実はこの分布図にはまだ調査未確認のエリアがあります。これは、そこに何もなかったということではなく、単に私の調査が行き届いていなかったからであり、先日、同地区の調査を一部終了したので、今回はその結果を反映したいと思います。
必ずしも上図の未調査エリア内に限定される訳ではありませんが、同エリアを中心にやはり同名神社が香取海周辺に点在していることが後から分かったのです。その神社の名前は
側高神社(そばたかじんじゃ)
であり、まだ訪れていない場所も含め、全部で15社あることが分かっています(他にあるかもしれません)。「そばたか」の漢字表記は複数あり、それらは次の様になります。
側鷹・脇高・蘇羽鷹・相馬高・隣高
中には1か所で表記が混在している所もあります。おそらく万葉仮名よろしく、「そばたか」と読めることが大事で、漢字表記に拘る必要はあまりないと考えられます。
■祭神名を教えない側高神社(香取市大倉)
祭神については、私が訪れた社では直接判別できませんでしたが、ネット上の記載を見ると、場所によっては、「国常立大神(くにとこたちおおかみ)」や「火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)」と紹介されているところもあるようです。
今回訪ねてはいませんが、実は、千葉県香取市大倉の側高神社とその祭神については、知人から興味深い話を聞いています。なんと、ここの神社はその祭神名を「秘して語らず」とし、門外不出にしていると言います。あるいは適当に「側高大神」とし、祭神の由緒については多くを語らないという姿勢を取っているようです。この事実は、神社に詳しい関係者の間でも話題になっているようです。
通常、神を崇拝する場所であるはずの神社で、どうしてその名を参拝者に知らせないのか、ちょっと理解に苦しみます。
知人が香取市の側高神社を訪れた時、運よく祭事の日だったらしく、氏子さんたちが集まっていたそうです。そこで、改めて御祭神の名を教えてもらえないか尋ねたところ、
「ここの神の名は教えられない」
と固く断られたそうです。それでも食い下がってお願いし続けたところ、とうとう
「これをあげるから帰ってくれ」
と、縁起物を渡されて追い出されてしまったとか。
何とも解せない話ですが、それ故に、何かたいへん重要な史実がここに隠されている予感を禁じ得ないのです。そして、知人が同社を訪れた日付を聞いて、私はその思いをますます強めたのです。その日とは、年も押し詰まった
12月24日
なのです。
■空港施設に取り囲まれた側高神社(成田市取香)
海外、関東地方へ行き来するのに利用することも多い成田空港。この空港敷地のすぐ脇にも側高神社があります。それも、空港ゲート、国道、ホテル、駐車場と四方を近代施設に囲まれ、まるでそこに取り残されたように、ぽつんと鎮座しているのです。
見たところ普通の神社なのですが、気になるのは、すぐ近くの成田市小菅の側鷹神社が空港建設に伴い移設されているのに、どうしてここはそのまま残されているのかです。見るからに邪魔に扱われているのですが。これには移設できない何か大きな理由があるのではと、ついつい勘繰り深くなるのです。
成田空港と言えばかつてご紹介したように、その敷地そのものの形状が、コルナサインを表しています。コルナサインとは悪魔崇拝者の一員と思われる人物が、時々人前でみせる動物の角に似せたハンドサインです。偶然と言えばそれまでですが、私は、造形にシビアな建築デザイナーがそんな不吉な形状を見逃すはずはなく、むしろ、このコルナサイン型のデザインは意図して選ばれたのではないかと思っています。
そうなると、コルナサインを地上絵とする狙いはいったい何なのでしょうか?西欧の悪魔と日本の神社、何か関係あるのでしょうか?
その疑問への答の鍵となるのが、前節で取り上げた「12月24日」という、香取市大倉の側高神社の祭日なのです。
■ユダヤ人埴輪の地に建つ相馬高・隣高両神社
前回の記事で、千葉県の芝山町でユダヤ人の正装そっくりな埴輪が出土したというお話を紹介しました。芝山町は成田空港の少し南側に位置しますが、古代期にはここまで海の入江が入り込んでいたことが地形から窺えます。私はこの入江のことを「芝海(しばのうみ)」と呼んでいます。
その芝山の旧入江に臨む小高い土地に、相馬高神社は鎮座します。今ではすっかりさびれていますが、地形から判断する限り、かつては絶好の祭祀場だったのではないかと考えられるのです。
そして、もう一つの隣高神社ですが、こちらはおそらく海に浮かぶ小島、あるいは土を盛った古墳と思われる小山の上に建てられています。
私が気になったのは、この神社よりも、小山の端にポツンと建てられた小さな祠の方です。立派な神社が山の上にあるのに、なぜこんな粗末な祠が全く別に作られているのか?
そして、その不自然な配置に加えて印象深かったのが、この小祠をスマホで撮影しようとするとカメラアプリがフリーズしてしまうという、小さな怪異に見舞われたことです。
仕方がないので、呪術を取り除く作法を施し、それから撮影できるようになったのですが、呪詛技術的な観点で見る限り、かなり強力な呪いがここには掛けられていたようです。この小祠の何がそんなに疎まれたのでしょうか?
また、ここ芝山はユダヤ人埴輪が多出した土地でもあります。これを、「側高神社」に関わるキーワードに加えると
12月24日 | コルナサイン | ユダヤ人
と、ここは日本なのか?と思わせる不思議な言葉の並びが現れてきます。これもおそらく、側高神社の隠された祭神と関係がありそうです。
■その他の側高神社
他にもいくつか同名の社を訪ねましたが、詳しい説明は省略します。これらに共通しているのは、いずれも香取の海を見下ろす高台の上に建てられているという点です。
■側高エリアの中心地は成田である
さて、決定的な祭神は不明ですが、側高神社も麻賀多神社などと同じく、同一氏族が居住した領域を表していると考えられます。
また、神社が点在している地形的位置関係をデフォルメして配置すると下図のようになります。
ここから、千葉県内にある多くの側高社が、実は古代期にあった内海のすぐ側にあることが分かります。同時に、成田市の取香(とっこう)と小菅にある社は海には面しておらず、下総台地の平らな部分、現在は成田空港、少し前までは三里塚の広大な牧草地の上にあったことが偲ばれるのです。
これは何を意味するのか?成田取香・小菅の社は周りの海辺のポイントから比較的短い陸路でアクセス可能ですから、古代期においては、南北に広がる海辺の海運を通して、人や物資がここに集中していたと考えられるのです。
これは、成田国際空港を中心に空輸が行われている現在の姿と似ているとも言えます。そして、そのような土地にはおそらく宮が置かれ、どういう習俗かは不明なものの、都(みやこ)と呼ぶに相応しい古代都市がそこに広がっていただろうと想像されるのです。
ここで現代の成田を振り返ってみましょう
・真言宗の大寺、成田山新勝寺がある
・江戸時代は軍馬の生産地であった
・明治期以降、御料牧場が置かれていた
・731部隊の前身となる賀茂村があった
・空港用地買収に関わる三里塚闘争の長期化
・123便の残骸が一時的に成田空港に運ばれ保管された
他にもあるのですが、これだけ見ても、一癖も二癖もある土地柄であることが見えてきます。成田に関しては、私も123便事件の調査関係で、成田公安に執拗に追いかけられたことがあり、成田の地には国家的な何か大きな隠し事があるのだろうと、ずっと思っていました。
それが、今回の古代期におけるキーワードとどう関わるのか?実は私なりに一つの答に辿り着いたのですが、それについては、明日配信のメルマガで先行してお知らせしたいと思います。
事前に予告するなら、これこそが日本国の成立過程において決定的な事実であり、また123便事件を生み出した核心的事由であると、私は考えています。
奪い尽くされて、彼女は地に座る(イザヤ 3:26)
管理人 日月土
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