アルプスに残る海地名の謎

地名はその土地の歴史を表す指標の一つです。それは、一度付けられた地名が定着すると長い時間が経過した後も変わることがめったにないからだと言われてます。実際にヤマタイコクの存在地を探し出す手法として、現代に残る地名を頼りにすることは珍しくありません。

例えば、魏志倭人伝に表現される伊都国(イトコク)は現在の福岡県の糸島(いとしま)であり、末盧国(マツラコク)は長崎県の松浦(まつうら)を指すといったような具合です。

画像1:推定伊都国(糸島)と推定末盧国(松浦)
  こんなに簡単に決めてよいのだろうか? 
    ★印の場所にも旧「松浦」という地名がある 

しかし、同じ地名は全国各地に付けられるていることが多く、どれがオリジナルか判別しにくいのはもちろん、オリジナルの方が〇〇字のようなごく小さなエリアを指していて現地の人しか知らなかったり、中にはほとんど消滅してたりするものもあるので、注意が必要なのも確かです。

私は諸説あるヤマタイコク論争の中で、最も大きな間違いとは、伊都国を現在の糸島と同定することにあると考えています。本当に糸島しか「イト」に該当する場所はないのか?それを研究者たちが精査したとはとても思えないからです。

また、記紀を読んでて分かるのが、それらが意図して歴史の捏造を目的に作られたファンタジーであることから、記紀編纂期において、何か国家的な歴史改変政策が取られていた可能性があると認められることです。

仮にも国家政策であるなら、史書を編纂して終わりということはないでしょう。改変した史書の記載と辻褄が合うように、新たな地名の命名、それまでの地名の付け替えを行うことくらいは当然やっただろうと思われるのです。

つまり、現在残る地名を無批判に頼るのは危険だと言いたいのですが、それでも古い地名はどこかに残ってるものであり、それを丹念に調べ上げてこそ地名による歴史分析は正確性を増すのだと思うのです。

以上は、今回の本題ではありませんのでこの辺にしておきますが、地名とはまた、歴史や文化だけでなくその土地の古い地形を表すので、過去の地理的条件を推測するのにも役立ちます。

■日本アルプス、昔は海だった?

不動産を選ぶ時、「”水”や”さんずい”がある地名は、過去に水が出た所だから気を付けろ」というのをよく聞きます。具体的には〇水とか 〇〇 沼、〇沢などの字が地名に表れた場所のことを指します。

昔湿地だった場所に家など建てると、屋内に湿気がこもって押し入れなどがジメジメと黴臭くなり、メンテナンスがたいへんになります。私のかつての実家もそれで苦労したので、この教訓は身に染みて理解できるのです。

それを予備知識として、地形を表す地名に関して私が「おやっ?」と思った次の事実についてご紹介いたします。まずは下記の地図を見て頂きたいのです。

画像2:中部山岳地帯の海関連地名
   ★印は123便の遭難地点    
       薄紫色の帯は大地溝帯(フォッサマグナ)

私が日本航空123便事件の調査している時に、遭難地点から西の長野側に山を下ると、いつも不思議に思っていたのが、「標高1400m前後の日本の屋根とも言える高原地帯なのに、どうしてこんなにも海の付く地名が多いのだろうか?」ということです。

おまけに場所によっては塩分を含む水まで出るらしく、山梨県北杜市の塩川ダムでは、その名の通り、昔は塩まで採っていたそうなのです。

そこで、同地区にて住所表示用の地名の中から漢字の「海」が付く地名、および「浜」・「浦」・「津」など海に関連する単語を含む地名を抜き出したのが、画像2なのです。

ちなみに、「浦」と「津」の意味はデジタル大辞泉によると次のように定義されています。どちらも海、あるいは大きな湖に関連する単語と捉えて問題がないでしょう。

 浦(うら):
 ※外海に対して内海
 1 海や湖が湾曲して陸地に入り込んだ所。入り江。
 2 海辺。浜。
 津(つ):
 1 船が停泊する所。また、渡船場。ふなつき場。港。
 2 港をひかえて、人の多く集まる所。また一般に、人の多く集まる地域

それにしても、長野・山梨といういわゆる「海無し県」にどうしてこんなにも海関連地名が多いのか?しかも長野県ともなれば、標高の高い土地が多く、諏訪湖などの湖を除けば、海や浜はもちろん、浦や津にも無縁としか考えられないのです。

そういえば、画像2上の中央部、小海や海瀬など海関連地名を縦貫し、山梨県の小渕沢から長野県の小諸までに走るのが、JR東日本の「小海線」です。地名の「小海」から取った名前だとは思いますが、日本で一番標高の高い地点を走る鉄道が、どうして「海」の文字を採用したのか?これは、名前を重視する「言葉の呪詛」の観点からも非常に興味深い問題だと思われます。

画像3:JR東日本の小海線

この鉄道路線に冠せられた地名の「小海」ですが、長野県以外のどこに同地名が残っているか調べると

 1) 静岡県 沼津市    内浦小海
 2) 徳島県 鳴門市    瀬戸町北泊(小海)
 3) 香川県 東かがわ市  小海
 4) 香川県 小豆郡土庄町 小海

となり、2)~4)は四国の地名なのでここでは除外すると、1)の内浦小海、私が以前からここには何か秘密があると度々指摘している、静岡県沼津市の内浦湾沿岸の町であることが分かります。但し、こちらは本当に海沿いの町なので、地名自体にそれほど奇異性はありませんが、画像2を見れば分かるように、他の海関連地名とまるで一繋がりのようにそこにあるので、これを無視する訳にはいきません。

そして、もう一つ指摘しておきたいのが、地図上の海関連地名のほとんどが、沼津から富士山を挟み、新潟県の直江津方面まで、日本の大地溝帯(フォッサマグナ)に沿って南北に連なっていることなのです。ここまでドンピシャだと、もはや海関連地名と大地溝帯に全く相関性が無いとも言えず、いったい両者にどんな関係があるのか、更に興味が惹かれるのです。

■歴史に表れた小海

ここで「小海」という地名が日本書紀に記載されている点をまず指摘し、そしてそれがどのように記述されているのかを見てみます。時代は上古代、第12代景行天皇の皇子である大和武尊(ヤマトタケル)が海を渡る場面です。

亦進相摸、欲往上總、望海高言曰「是小海耳、可立跳渡。」乃至于海中、暴風忽起、王船漂蕩而不可渡。時、有從王之妾曰弟橘媛、穗積氏忍山宿禰之女也、啓王曰「今風起浪泌、王船欲沒、是必海神心也。願賤妾之身、贖王之命而入海。」言訖乃披瀾入之。暴風即止、船得著岸。故時人號其海、曰馳水也。


亦(また)相摸(さがむ)に進(いでま)して、上總(かむつふさ)に往(みた)せむとす。海を望(おせ)りて高言(ことあげ)して曰(のたま)はく、「是(これ)小き海のみ。立跳(たちおどり)にも渡りつべし」とのたまふ。乃(すなは)ち海中(わたなか)に至りて、暴風(あらきかぜ)忽(たちまちに)起こりて、王船(みふね)漂蕩(ただよ)ひて、え渡らず。時に、王(みこ)に從(したが)ひまつる妾(をみな)有り。弟橘媛(おとたちばなひめ)と曰(い)ふ。穗積氏忍山宿禰(ほづみのうぢのおしやまのすくね)の女(むすめ)なり。王(みこ)に啓(まう)して曰(まう)さく、「今風起き浪(なみ)泌(はや)くして、王船(みふね)沒(しづ)まむとす。是(これ)必(ふつく)に海神(わたつみ)の心(しわざ)なり。願はくは賤しき妾(やつこ)が身を、王(みこ)の命(おほみいのち)に贖(か)へ海に入(い)らむ」とまうす。言訖(もうすことおは)りて、乃(すなは)ち瀾(なみ)を披(おしは)けて入りぬ。暴風(あらかぜ)即(すなは)ち止みぬ。船(みふね)、岸に著(つ)くこと得たり。故、時人(ときのひと)、其の海を號(なづ)けて、馳水(はしるみづ)と曰(い)ふ。
(日本書紀巻第七より)

さて、書紀によると、相模国に入る直前の段は有名な草薙(くさなぎ)の剣で草を払ったという焼津の向火のシーンなのですが、そこから相模国までにあるはずの駿河湾・伊豆半島を大和武尊がどのように通過したのかが全く記述されておらず、しかも途中で嫌でも目にするはずの富士山の記述が一切ないのです。

以上のような不可解な点を無視して現代地図に落とすとその行程は大雑把に次の様になるでしょうか?

画像4:現代地図で考えた小海
  富士山も伊豆半島もスルー?

そうすると、小海は現在の東京湾浦賀水道付近ということになり、確かに神奈川県の横須賀市に走水(はしりみづ)という地名が残っているので何となく辻褄は合ってるように感じます。しかしそれでは、沼津や長野の小海にどんな関連性があるのか分からず、結局、地名の謎は謎のまま残ってしまうことになります。

ところがです、私が参考にしている別の史書、「秀真伝(ホツマツタエ)」によると、相模国より一つ前段の焼津と思われる場所の位置が書紀と違うだけでなく、大和武尊の活動内容までが全く異なるのです。また、そこから相模国なる国の位置関係の解釈にも修正が迫られることが分かるのです。

それでは日本書紀と秀真伝は全く違うことを書いているのか?良く調べたところ、日本書紀に書かれている「焼津」とは暗号地名であり、実は秀真伝と同じ場所を指していたことが分かったのです。

しかし、それだけではまだ小海の謎が解明できる訳でなく、これに呪術的解釈を施すことによって、どうして沼津と長野の地に小海という名前が使われたのか、その意図がくっきりと明確に見えてくるのです。

謎の解明については次回以降の話題といたしますが、それはフォッサマグナがこの海関連地名の分布に重なることと無関係でないばかりか、現代の123便事件とも深く関わることを、ここで予告としてお伝えしておきます。

 * * *

画像2の甲府盆地周辺のプロットを良く見てください。盆地内の低地を取り囲むように「津」の字の地名が取り囲んでいます。つまり、かつて船着き場がそこにあったことを示す一方、低地一帯が一つの大きな水域であったことを彷彿とさせるのです。

昨日4月13日より山梨県警が県境の検問を強化し始めたとの連絡が、複数の現地の方から入っています。一般的なコロナ対策とはまた違うようなのでこちらで調べたところ、こじつけでも何でもなく、この旧水域問題と絡んでいることが分かってきました。

決して不安を煽る意図はないのですが、甲府市街地にお住いの方は、いざという場合にはすぐに高地に避難できるよう準備しておいてください。高地の基準は北杜市の小渕沢(標高800m)くらいが目安となります。

明後日(4月16日)発行のメルマガではこれから何が起きそうなのか、少し突っ込んだ情報を提供したいと思います。


誠の神力を現す世と成れる
管理人 日月土

古代を隠すコピー地名

昨年の記事「地名が語る古代史」では、同名の地名が全国に幾つも存在し、そもそもどれが地名の起源となったオリジナルなのか簡単に判別するのは難しいことをお伝えしました。ここでは、オリジナル以外の歴史的に後から付けられた地名を「コピー地名」と呼ぶことにします。

日本古代史において、文献を解釈するにあたり地名は重要な要素となることに異論はないかと思います。例えば、次の地名を目にした時、読者の皆さんは日本のどの土地の風景を思い描くでしょうか?

 (1)伊勢
 (2)出雲
 (3)春日

日本史に詳しい方ほど次の様に連想しがちなのではないかと思います。

 (1)伊勢 → 伊勢神宮 → 三重県伊勢市
 (2)出雲 → 出雲大社 → 島根県出雲町
 (3)春日 → 春日大社 → 奈良県奈良市

そして、(4)富士山と聞けばほぼ誰もが静岡県と山梨県にまたがる、あの雄大な富士山を思い浮かべるに違いありません。

図:左から伊勢神宮、出雲大社、春日大社。いずれも神不在の神社。

古文献にこのような地名が登場すれば、まず間違いなく第一印象としてこれらの土地を想起し、その印象に従って仮説を組むはずです。しかも、これらの土地には全国に名の知れた古刹・名山が現代も残っているのですから、そこが文献に現れたその場所であることは、まず疑いのない事実として確信されるのではないかと思います。

ところが、漢字で「伊勢」と書く地名が全国にどれだけあるか調べてみると

 市町村名レベル: 3県 4ケ所 (群馬県伊勢崎市、神奈川県伊勢原市など)
 地域名レベル :29県84ケ所 (宮城県石巻市伊勢町、佐賀県佐賀市伊勢町など)
 (2017年郵便番号データベースから)

など、全国的に同地名が使われているのが分かります。加えて、近代化以降整理されてしまった旧地名や、路地名など住所表記として使われないものまで含めると、いったいどれだけの「伊勢」が全国にあるのか分からないというのが現実です。

例えば、現在福岡県庁がある辺りは、旧土地名で「伊勢町」と呼ばれていたことが、古地図などを見ると確認できます。

しかも、伊勢神宮は全国にその分社がありますし、江戸時代には空前の伊勢参りブームが起きたとも言われてますので、伊勢神宮の名前にあやかって後から地名が付けられたケースも多いかと思います。

図:自作の地名検索ページで関東地方にある「伊勢」の地名を調べた結果。
性能上の問題があり、現在、関係者にのみアドレスを公開しています

本来ならば、これらの地名を冠する全ての土地を調べてから、古文献上の伊勢を特定しなければならないのですが、多くの歴史学者は現在の伊勢神宮のある三重県伊勢市をオリジナルの「伊勢」と決めつけてしまっているようです。

同じように、富士山の記述についても、現在の東海地方の富士山を指すのかどうか、どうも怪しいというお話は(真)ブログの「ラブライブ、忘れちゃいけない田子の浦」で述べています。

気を付けなければならないのは、記紀が神武天皇以前を「神代」と称してうやむやにしているように、古代から現代に至る日本の国史編纂者は、どうやら伝統的かつ意図的に国史を改ざんしていると見られることです。

つまり、コピー地名を全国に複数作り、オリジナルがどこにあるのか特定できないようにしているとさえ考えられるのです。その戦略が背後にあると見立てれば、伊勢神宮や出雲大社、春日大社などは、むしろ歴史のかく乱要素として長期戦略的に建立されたランドマークと考えなければなりません。

神武以前の皇統記を記述している「ホツマ伝」では、「ヒタチ宮」さんがふらっと「イセ宮」さんを訪ねるシーンが記述されています。これを言葉のイメージ通り正直に

 茨城県日立市 → 三重県伊勢市

と解釈すると、このイセ宮さんはどんだけ脚が速いのだということになってしまいます。飛行機でも使ったのでしょうか?これは冗談ですが、ホツマ文献研究者の池田満氏も同じトラップに嵌っているようで、結局、京都・奈良中心の大和朝廷というファンタジーから一歩も抜け出せないままとなっています。これは非常にもったいないことです。

この一点だけ考慮しても、次の様な仮説の方がまだ信憑性があると思うのですが如何でしょうか?

 伊勢とは群馬県伊勢崎のことではないか?

そして、伊勢崎市とその周辺には、下記のように関東を代表する大規模古墳があるのは古代史好きならよくご存知でしょう。

 ・お富士山古墳(群馬県伊勢崎市)
 ・太田天神山古墳(群馬県太田市) ※関東最大の前方後円墳
 ・八幡塚古墳墳(群馬県高崎市)
  等々多数の古墳群がある

関東の大古墳は皆「地方豪族の古墳」で片づけられていますが、その豪族が何者であるかという説明は聞いたとがありません。いわゆる天皇陵と同じ規模、同じ形状の大古墳を建設している事実から、その古墳の主とは豪族などという訳のわからない存在ではなく、大土木をまとめあげるだけの権威を有していた存在、すなはち

 古代天皇または古代天皇家の血縁者

とするのが、より合理的な説明なのではないでしょうか?そして、古代天皇と縁のあるそれらの土地土地こそが、古文献に記述された本来の所在地だと認めることで、謎とされてきた古代の様子がはっきりと見えてくるのだと思うのです。


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管理人 日月土

三国志の呪い

今週初め、前からちょっと気になっていた場所を訪ねました。こちらのブログでも紹介した、愛知県田原市にある「阿志神社」です。この社の瓦には、ハングルに良く似た神代文字が使われており、ハングル読みではっきりと「アシ」と書かれている点を指摘しました。知人の調べによると、神代文字のアヒル草文字読みでも同じく「アシ」と発音されるそうです。

阿志神社-7月9日撮影

三方原の赤土

神社のある場所までは公共交通機関だと行きにくいので、浜松から知人の車に乗っての移動となりました。

浜松には三方原(みかたはら)という、台地が浜松市街地の西方に広がっています。織田・徳川連合軍が武田軍に敗れた「三方ヶ原の戦い」で知られた場所です。浜松起点ということで、今回はまずこの三方原を訪れました。

文献によって「三方ヶ原の戦い」の戦闘内容や規模はまちまちであり、実際ここで何が起きたのかは知る由もありません。個人的には戦国物には誇張が多く、そもそも日本通史における戦国ストーリーそのものに出来過ぎた感があると前から感じています。ある程度確実な事実があるとすれば、おそらく、合戦場所と記載された土地で多くの死者を生み出しただろうということくらいでしょうか。

この三方原台地の特徴は、一面に広がる黄色い土です。分類上は粘土分を多量に含む「赤土」とされており、耕作にはあまり向いていないようですが、馬鈴薯(じゃがいも)の生産地として知られています。含んだ水の量にも拠ると思いますが、その色合いは黄色がかった赤、あるいは赤味かかった黄色と呼ぶべきものです。埴輪の色と呼んでいいかもしれません。

三方原の赤土

この台地の不思議な点は、この特異な赤土が浜松西方にしか見られないことです。天竜川を挟んだ対岸の磐田市側の台地は普通の土色のようです。浜松市の中心部が鎮座する平野部は、一般的に天竜川が形成した扇状地と考えられますが、実際には南北に縦長の方形で、少なくとも浜松市北部は扇状と呼ぶには無理があると感じます。

とにかく衛星写真から見下ろしても、三方原の土色は際立って赤味が強く、その色合いも浜名湖北部の気賀付近になると途切れています。どうしてここだけ、地質が周囲とこれほど異なるのか、これは前から疑問でした。そこで、何か手がかりをと思い、とりあえず台地の上に築かれた三方原神社を訪れたのです。

浜松の平野部と三方原
航空写真でも土の色が他と異なるのが分かる

住宅地の中に比較的広い敷地を構えるごく普通の神社でしたが、陰陽道的に鑑定を行った結果、興味深いことが幾つか分かりました。専門的かつ煩雑になるので詳細については省略しますが、何故ここが「三方原」でなくてはならないのか、そして何故この地で「三方ヶ原の戦い」があったことにされたのか、それらの答に繋がるヒントを得ることができたと思います。

三方原神社

  ミカタハラ ハニミワタシテ ササグウタ

  コノオツチ コノアカツチヘト
   カミシメシ イマヨリイダク 
   アメメグミ キヨキミクニノ
   ヒトトナラムヤ

遠州灘の奇妙な海岸

この後、浜松市と湖西市を抜けて愛知県側に入り、県道42号線を通って豊橋から田原へと向かいます。42号線は緩やかなアップダウンが続き、視界には森林と畑が広がる、たいへん長閑な道です。地図上は遠州灘の海岸に沿って走っているのですが、南側に丘陵が続き海を見ることができません。そこで、田原に入る少し手前で脇道に入り、海岸線に出てみることにしました。

丘陵を抜けると、曇天ではありましたが目の前には遠州灘を一望できる砂浜が広がっていました。波も出ており、若干名のサーファーさんがすでに浜辺に佇んでおられました。非常に美しい風景なのですが、何か引っ掛かるものがあります。それは何だろうと周囲をよく見渡したところ、それがこの海岸を形作る地形であることに気付きました。

遠州灘と砂浜、右に切り立った丘陵

県道が通っていた丘陵よりもさらに高い丘陵が海岸近くまで迫り出しており、それが海側でストンと切り立っているのです。もちろん、海側が切り立った地形などいくらでもあるのですが、多くの場合それは波に浸食されたケースでしょう。ところが、ここは重機で削ったように丘陵が海岸線で途切れ、なんとその前方に狭いながらも砂浜が広がっているのです。しかもこの形状が20km以上は続いています。こういう地形はちょっと初めてです、他にもあるのでしょうか?

渥美半島の気になる海岸線地形
渥美半島断面のイメージ

阿志の字を考察する

阿志神社に到着する前に気になるお寺があったので寄ってみましたが、そちらは省略します。さて、同神社の境内は比較的狭いものの、社は手入れが行き届いており、全体として小ざっぱりした清清しい印象を受けます。どこにでもある普通の神社と言えばそれまでですが、やはり注目すべきは「アシ」と刻まれた丸瓦でしょう。そして瓦の縁に刻まれたもう一つの文字列は左から「ロシヤ」(右からだと「ヤシロ」)と読めるそうです。こちらは現代ハングルでは上手く読めませんが。

〇内はアシ、口内は左からロシヤと読める
ハングルと酷似しており大陸との繋がりを感じさせる

ここからは、筆者独自の想像と分析であると予めお断りします。

いつものように、まず「阿志」の字を分析します。神代文字で刻まれた「アシ」はおそらく表音文字なので、「阿志」の字は後から漢字を当てられたのだろうと考えられます。問題なのはなぜ、「阿」と「志」なのかです。

そもそも「アシ」とは何なのかですが、神社のすぐ近くに芦ヶ池という大きなため池があり、ここから、この「アシ」の字は水辺に生える植物の「芦」または「蘆」を表してると考えられます。なお、穂を付けた芦を「葦」とも書くようです。

「葦」は日本神話において極めて象徴的な意味を持ちます。天より日の御子が天孫降臨したのも、地上界の葦原中国(あしはらのなかつくに)であり、出雲の王である大国主(おおくにぬし)が天孫族に譲った国の名前も葦原中国です。葦原中国は豊葦原中国(とよあしはらなかつくに)と表記するのが正式のようですが、この「豊」の字を田原市に隣接する豊橋市、その隣の豊川市が市名に冠している (*) ことと何か関連があるようです。

*豊:会員ページに掲載された’19年3月の調査資料に、豊川・豊橋地域がかつて出雲族が治めていた地であり、後に秦氏によって支配されたことについて触れています。また、中国古代史における秦国とは、古代秦氏が日本を統治していた時代を指しているのではないかと、かなりまじめに考えています。つまり、アヒル草文字と同じく、漢字も日本国内で発明され使用されていたのではないか、そう考えるのです。

神代期に記述された地名に関連していること、また神代文字を伝統的に使用していることから鑑みると、この神社の本当の由緒は記紀が編纂されるはるか以前に遡れることは間違いないでしょう。もしかしたら、大国主と同時代またはそれ以前の出雲国の時代、いわゆる神代期に繋がるのかもしれません。

この国において、神武天皇より前の歴史は神代と称して、人の歴史として語ってはいけないことなっています。いわゆるタブーなのですが、有ったものを無きものとするため、後世の国史関係者は様々な呪術的工作を施します。その観点から見ると、「阿志」にもその工作の痕跡があると見るべきでしょう。

「阿」の字は一般的に「ア」の音に当てられることが多いので、ここでは深く分析しませんが、「志」の字にはちょっと問題があります。まず「志(シ)」の音そのものが「死」を意味することです。それだけならまだしも「志」の字は次の様に分解されます。

 志 → 土 + 心 → 心(人)の上に土 → 墓

死と墓で二重に「既に亡き者」の意味が完成しています。そして「ア」とは「天(あめ、あま)」など古代より広く「天」を表す音ですから、葦を阿志と二字縦書きにすることで、天地を分離し、地を死に満つる土地と定義しているようにも読めてしまいます。おそらく、その意味を込めてこの字を選んだのでしょう。出雲の国譲り神話に例えるなら、

 出雲国などなかった

と呪っているようにも取れます。

さて、豊橋・豊川との関連に触れましたが、そうするとその地続きの浜松についても何か関連があるかもしれません。そこで、前述した三方原との関連を調べてみました。まず三方ですが、方角を表すなら四方はあっても三方はちょっと変です。神事の供え物に使う三方もピントがずれている感じです。おそらくこの「方」の字は方形を表すと考えられます。いわゆる四角形(口)です。丸(〇)が日の天を表すなら四角(口)は地を表すのが象形のお約束ですので、

 三方 = 三口

人の住まう地面を古来「クニ」と読みますから、この口(地)はクニと読んで構わないでしょう。その土地を統べる王がいる場合には国と書きます。すると上等式は

 三方 = 三口 = 三国

つまり、三方原は三国原の意と捉えることが可能です。そして、三国原の「原」は豊葦原中国の「原」と同じであることは特に説明は要らないでしょう。

ここから、「出雲の三国?」というよく分からない概念が生じてしまいます。いったいこの三国とは何なのでしょうか?ここで、再び「豊葦原中国」とういう文字列に注目します。そう、まだ「中国(なかつくに)」が使われていません。「中国」と「三国」の字面から何を連想するかはもう聞くまでもありませんね、それはもちろん

 三国志

です。しかも、ここでは先ほど分析した「志」の字が使用されています。三国志と言えば、西暦200年代、中国大陸で魏呉蜀三国の覇権争いを綴った一大歴史スペクタクルですが、いくら後世の小説として脚色されているとしても、あの広大な中国中原で、推定800万人程度しかいなかったとされる人口、すなわち現在の東京都より少ない人口の人々が、レーダーも自動車も無い時代に日本全土の10倍以上もある広大な領地を互いに奪い合うなんてことが物理的に可能だったはずがありません。日本の東海地方に限定した話だったら全く別ですが。

何が言いたいかはもうお分かりだと思います。

三国志は現三河・遠州地方にあった出雲三国の歴史を中国史に置き換えたもの

だったのではないでしょうか?時代的にはヤマタイコク建国とほぼ同時代ですから、これまで詳細不明だった「倭国大乱」が何であったか、三国志を読み解くことで何か分かるのかもしれません。同時に、中国四千年の歴史というのもいよいよ怪しくなってきました。

ここまでの文字分析を下図に落としましたので、参考にしてください。

言霊による「阿志」・「三方原」の呪詛分析図


* * *

以前から、三国志が何故「三国史」でないのか疑問でしたが、もしかしたら、日本式呪詛の故に「志」の字が当てられていたのかもしれません。つまり、[三国志=三国死]です。

ここでは、「出雲の三国」という仮定で論を進めましたが、もしかしたら、この三国とは次の3国のことだった、あるいは意味を重ねていたのかもしれません。

 1.ニニギノミコトの天孫国
 2.ニギハヤヒノミコトの天神国
 3.オオクニヌシノミコトの出雲国

神代の系譜を辿れば、この三国の王はいずれも天界(高天原)に通じます。すると、これら3国全てを呪う存在とは、日本人の系譜から外れた「渡りてきた人々」なのではないかと予想されます。古代史上、天に弓引く外来種族とは

 球磨国(クマコク)=熊襲(クマソ)、隼人(ハヤト)

に推定されます。ヤマタイコク建国の時から1700年、これら渡りてきた人々の血脈は既に日本中に張り巡らされているでしょう。そして、その中には日本に同化した人々も居れば、出雲国造や尾張・橘氏のように高天原三国の中から外来種族の傘下に下った人々も多いはずです。

彼らは、大陸・半島にまで血脈を広げ、日本と同様その国の偽史を作り上げた後に、血縁外交を駆使し各国の戦力を動員して、恨み多き日本を奪おうとしているのかもしれません。これはまさに、ヤマタイコク建国時に起きたとされる大乱の繰り返し(*)なのではないかと思えてきます。

*繰り返し:明治新政府がどうして薩長関係者に主導されたのか、その意味をヤマタイコクの古代史から紐解く必要があるでしょう。警察内には今でも肥後閥なるものがあると聞き及んでます。また、新札の肖像に決定した北里柴三郎は、熊襲の地、小国(オグニ)の出身者であることに注目です。

古代に何があったか、本当のところは分かりませんが、1700年も共にこの地を生きた外来人は、もはや外来人ではなく日本人です。同国人として争いの愚を避け、共に手を取り合ってこの地に生きる、そのような選択肢が必ずあるはずです。

‘19.6.30 日本の頭越しに行われた3国首脳の電撃会談
日本の血縁外交は米国政府にはお見通しなのでしょう
引用元:日本経済新聞

参考:
 Trois Royaumes – Sol sur les coeurs (三国志-心に被る土 [仏語記事] ) 
 関東の地震と故山村新治郎氏 
 巫女っちゃけん。


奪い尽くされて、彼女は地に座る(イザヤ 3:26)
管理人 日月土

地名が語る古代史

歴史研究の中では、地名による分析も重要な意味をなします。例えば、九州に分布する地名が、近畿地方にも同じように分布しているなどは研究者の間でよく指摘されていることです。

参考:地名も地形も一致している九州・近畿・関東
  「たっちゃんの古代史とか」さんのブログより

古代人の名前に対するこだわりは、現代人のそれ以上だと考えられます。それはあたかも、自分の子供の名前を考えるのに、その子の一生を思い、時間を掛けるのと同じくらいの思い入れがあったのかもしれません。特に古代は「言霊(ことだま)」に対する感性が鋭い時代だったはずなので、機械的に土地の形状や伝承だけを根拠に名前を付けていたとは考えにくいのです(もちろんそういうケースもあるでしょうが)。

おそらくその当時の重要拠点と定めるような場所では、言葉における呪術的な要素をよくよく吟味・考慮した上で、その土地が長く栄えるように、あるいは、その土地の邪気が外界に及ばないように、シャーマンなども交えて、国家統治のための重要案件として決定されてきたのではないかと想像されるのです。

先に紹介したブログでは、九州=近畿=関東で地名と地形の共通性が見られると結論付けていますが、これが正しいとした時、どうしてそのような一致が見られるのかと、もう一段深く考察する必要があります。

例えば、「九州=近畿」の地名一致からは

 →九州で完成した国家統治の型が、近畿に転写された、あるいはその逆

と仮説を立てることができます。九州、近畿には多くの遺跡があることから、そのような仮説にもある種の信憑性が見られます。それが、邪馬台国の九州説だったり、畿内説の根拠になったりします。また、私が今後提示するように、日本の国家の根幹は九州で醸成され、神武天皇よりはるか後に畿内に移されたとする根拠にもなり得るのです。

しかし、ここで「九州=近畿=関東」となると、仮説の立て方はまた一段と複雑となります。最初の二つのエリアだけなら

 ・九州→近畿
 ・近畿→九州

の2パターンだけを考慮するだけなのですが、ここにもう一要素加わると、地名変遷の順列パターンは6パターンに増えることになります。それに加え、ある1箇所から、同時に残りの2箇所に移動したパターンも考えられ、合計9の変遷パターンを考慮する必要が出てきてしまいます。

日本の歴史教育の一般常識では、「九州神武→畿内大和朝廷→全国」で全てを説明しがちなのですが、それだけでは、どうして関東だけに地名の類似性が見られるのかが説明できなのです。そもそも、九州神武のその前が記紀が伝えるような「神代(かみよ)」とぼやかされ、九州神武より前が歴史としてすっかり抜け落ちているのが、日本の歴史観なのです。

私は、「神代→九州神武」という曖昧さそのものが、日本人の歴史認識を混乱させていると考えます。そして、その曖昧さに基く根拠無き権威が、現在まで社会に影響を与えていることを非常に憂慮します。

これは別に現皇室を揶揄しているのではなく、どちらかと言うと、神社や寺、時代時代の政治体制など、皇室権威の衣を借りて、日本社会を動かしてきた勢力に対してより大きな危惧を抱いているからです。

国民が一致して、自国を愛し、誇りに思いたいのなら、まず神武以前の歴史を明らかにすることが、急務であると考えます。宗教団体はもとより、怪しげな秘密結社や古代氏族が天皇家の権威を盾に社会の裏側で暗躍する時代は終わりにしなくてはなりません。

少々話しは逸れてしまいましたが、古代日本の真実を知る手がかりの一つとして、日本語起源の解明と同じく地名分析は有効な手法と考え、今後取り入れていく予定です。

「三輪」を含む地名の所在地
図:「三輪」を含む地名の所在地

上図には 福岡県内の旧町名である「三輪町」(現筑前町)は含まれない。残念ながら、市町村合併で伝統ある地名がこのように失われつつある。

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奪い尽くされて、彼女は地に座る(イザヤ 3:26)
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