鹿と方舟信仰

前回のブログ記事「越と鹿乃子」では、この夏放映されたアニメ「しかのこのこのここしたん」を題材に、その中に密かに組み込まれたと考えられる日本古代史に関するメッセージを分析してみました。

画像1:アニメ「しかのこのこのここしたんたん」」
 ©おしおしお・講談社/日野南高校シカ部
 ※このブログはアニメ専門ブログではありません

前回記事掲載後に配信したメルマガでは、更に詳しく「鹿(シカ)」の意味について考察したのですが、思いの外これが重要な内容を含んでいると考えられたので、今回はブログでもその内容に修正を加えてご紹介したいと思います。

■志賀島と安曇族

前回のブログ記事のお伝えしましたが、アニメタイトルの「しかのこのこのこ」が、それぞれ

 しかのこ → 志賀島(しかのしま)
 のこのこ → 能古島(のこのしま)

を指すのではないかという点は予め押さえておいてください。福岡県在住の人なら良くご存知の、博多湾に浮かぶ二つの島のことです。

ここから、アニメの主人公「鹿乃子」が「志賀の娘」を指すだろうという話は、既に前回述べていますが、ここでは、志賀(しか)とは何か?という点について更に深く触れてみたいと思います。

さて、志賀島(しかのしま)には、かつて安曇(阿曇)族と呼ばれる海の民が居住していたという話を現地でもよく耳にたので、まずは阿曇族について調べてみます。

この阿曇族、実は日本書紀の神代の帖の中に登場する一節があるので、まずはその部分を書き出してみます。

 凡(すべ)て九(ここのはしらの)の神有(いま)す。
 其の底筒男命・中筒男命・表筒男命は、是即ち
 住吉大神(すみのえおおかみ)なり。底津少童命・
 中津少童命・表津少童命は、是阿曇連等(あづみ
 のむらじら)が所祭(いつきまつ)る神なり。

 然して後に、左の眼を洗ひたまふ。因りて生める
 神を、号(なづ)けて天照大神と日す。復(また)右
 の眼を洗ひたまふ。因りて生める神を、号けて月
 読尊と日す。復鼻を洗ひたまふ。因りて生める神
 を、号けて素戔嗚尊と日す。

岩波文庫 日本書紀(一) 神代上 一書6より

また、ここに出て来る阿曇連については、同文庫の補注に次の様に書かれています。

 阿曇連:全国各地の海部を中央で管理する伴造。
 天武十三年に宿禰と賜姓。此の三神を旧事紀、
 神代本紀は「筑紫斯香神」とし、延喜神名式には
 筑前国糟屋郡志加海神社三座とある。

 祖先伝承は記に「綿津見神之子、宇都志日金折命
 之 子孫也」、姓氏録、右京神別に「海神綿積豊
 玉彦神子、穂高見命之後也」とある。

補注の解説に従って読み解くと、阿曇連は

 底津少童命(そこつわたつみのみこと)
 中津少童命(なかつわたつみのみこと)
 表津少童命(うわつわたつみのみこと)

の3神を祀る民であり、この神は

 筑紫斯香神
 (ちくししかのかみ) 

もしくは、

 筑前国糟屋郡志加海神社三座
 (ちくぜんこくかすやぐんしかうみじんじゃさんざ)

と別の名で呼ばれていると記載されています。

どれが正式な名なのかは分かりませんが、おそらくこの3神こそが「志賀(しか)」と呼ばれる神様の正体であり、阿曇連はこの3神を奉る一族であったという記述から、この3神(志賀の神)をルーツとする伴造(とものみやつこ)、すなわち、古代期に公務として海洋管理を担当していた一族であったと理解することが出来ます。

ここで引用した書紀の一節は、黄泉の国から返ってきたイザナギが、その穢れを払うために「立花の小戸のあわぎはら」で禊をしていた時の様子であり、阿曇族の祖先はその時に生まれた神の中の3柱だったということになります。

ここで、私が注目したのは、この志賀神(しかのかみ)3神は、天照・月読・素戔嗚の三貴神よりも前に生まれていた、すなわち

 三貴神よりも古い神

というようにも読み取れます。

当然ながら、この記述はある歴史的事実が神話化されてこのような記述になったと思われるのですが、その史実解読のヒントになるのが、補注の後半に紹介されている、他史書に書かれた次の志賀神の別名であると考えられます。

 古事記:綿津見神之子、宇都志日金折命(うつしひかなさくのみこと)之子孫也
 姓氏録:海神綿積豊玉彦神子、穂高見命(ほだかみのみこと)之後也

宇都志日金折命の別名が穂高見命とも言われ、宇都志日金折命を祀る穂高神社があるのが信州の安曇野(あずみの)というのも、何か不思議な歴史の結びつきを感じます。

この安曇野にある穂高神社の有名なお祭りは

 御船祭(みふねさい)

と呼ばれ、大きな船型の山車が街を練り歩くことで有名です。

画像2:安曇野の街中を曳かれる大船
安曇野市観光協会の動画から

阿曇族は海の民とされていますから、神事に船形が見られるのは特段不思議でもなさそうですが、果たしてそれだけでしょうか?

■シカとカシ

日本の地名には読み順を転置させたのではないかと思われるものがいくつか見られます。私が思い付くのものに、多少強引かもしれませんが、以下の例があります。

 登美(トミ) → 水戸(ミト)
 三尾(ミオ) → 小見(オミ)
 香取(カトリ)→ 取香(トッコウ)※漢字の入れ替え

これは、古い昔に地名を名付ける時に取られた手法なのではないか、あるいは祭事的な意味を持たせてそうしたのかもしれませんが、「シカ」についてそれを適用するとどうなるでしょうか?

 シカ → カシ

となります。

「カシ」なる2文字の地名はなかなか見つかりませんが、この2文字から始まる地名ならかなりの数が見つかります。

「樫山、柏原」など「樫」や「柏」から始まる地名は全国に多く見られるのですが、今回取り上げた「鹿」の意を含むものとなれば、次の地名が最も適切なのではないでしょうか?

 鹿島(カシマ)

また、志賀島のすぐ対岸には香椎宮で有名な「香椎」(カシイ)なる地名があることも、非常に興味深いのですが、ここでは鹿島を志賀の転置語、あるいは志賀を鹿島の転置語から「マ」の字が脱落したものとして扱います。

■方舟で繋がる鹿嶋と志賀

さて、鹿島の地名の由来については、今年7月の記事「鹿島と木嶋と方舟と」で既に触れているのを覚えておられるでしょうか?

そこでは、シュメール語の「ギシュ・マァ・グル・グル」その意味は「漂える(グルグル)木(ギシュ)の舟(マァ)」で、すなわち、

 方舟

を指すと説明しました。

このシュメール語から「グル・グル」が脱落し、音が訛って「キシマ」から更に「カシマ」へと変化したのが「鹿島」という地名の始まりではないかとしたのですが、そうなると、鹿島の「鹿」とは、漢字が成立した後に当てられた文字と言うことになります。

同記事では、これを裏付ける傍証として、京都の貴船(木舟)神社や、木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)の例を挙げ、そのルーツが古代方舟信仰であった可能性を示しています。また「アラレフル」という和歌の枕詞がどうやら、方舟が上陸したとされる「アララト山」を指すのではないかとしています。

これらから

 志賀 = 鹿島 (※音の転置と脱落)

という予想が成り立つのですが、その説を補強する上で重要な記述が聖書に記されていることにここで気付きます。

 その造り方は次のとおりである。箱舟の長さは
 三百アンマ、幅は五十アンマ、高さは三十アン
 マ。箱舟には屋根を造り、上から一アンマにし
 て、それを仕上げなさい。箱舟の戸口は横側に
 付けなさい。また、一階と二階と三階を造りな
 さい。

創世記 第6章15,16節

聖書に記されている方舟の構造は非常に具体的で、その船の階層は1,2,3階の階層構造であることもここから窺い知れます。

ここで、前々節で述べた「志賀の神」が底津(そこつ)、中津(なかつ)、表津(うわつ)の綿津見(わたつみ)3神であることを思い出してください。

この3神は、日本神話では、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が禊のために入った水の、表面部分、中程、底の部分それぞれから神が生まれたという話になっているのですが、これを何か具体的な事象の比喩的表現(暗号表現)と解釈すれば、何かの構造を表していると考えられるのです。

もしもこれを、方舟の構造を表す表現と解釈すれば

 鹿島 → 方舟
 志賀 → 方舟の構造

となり、互いに関連し合うことが分かるのです。

すると、安曇野の穂高神社の例祭で練り歩く船形の山車がいったい何を象徴しているのか、その意味も明確になってくるのです。

画像3:方舟が繋ぐ志賀と鹿島の関係性


 * * *

これは驚きました、無意味に「シカ」を連発するだけのお気楽アニメかと思っていたら、ここにはそんな意味が隠れていたのです。

もしも、このアニメが古代方舟信仰について何かのメッセージを含んでいるとするなら、それはいったい何なのか?これまで、つまらない、面白くないとかなり否定的であったこのアニメ作品に対し、俄然強い興味が湧いてきたのです。


管理人 日月土

もう一つの鹿島

ここしばらくは、三嶋神を巡る神話解釈に時間を割いてきましたが、先日、九州は佐賀県へと歴史調査に向かったので、今回はその時の様子をお伝えしたいと思います。

短い日程だったので多くを訪れることは叶いませんでしたが、それでも、何もない、人々に忘れらたと歌にまで歌われる佐賀が、実は古代史的にたいへんに重要な場所であることを再認識する調査となりました。

もちろん、佐賀県神埼町の「吉野ヶ里遺跡」は歴史マニアの間ではあまりにも有名なのですが、今回訪れた場所はそこではありません。歴史分野における私のアドバイザーG氏の案内で、武雄(たけお)、白石(しろいし)という、現在では温泉と玉ねぎ生産で有名な土地へと出かけてきたのです。

■朝鮮半島出征の重要ポイント

古代史における、九州北部と朝鮮半島の密接な関係は言うに及びませんが、多くの方は半島への寄港地として、玄界灘沿岸の松浦・唐津・糸島・福岡(博多)・福津などの港湾集落を思い浮かべるかと思います。

もちろんそれはその通りなのですが、実は半島への重要出征ポイントが、有明海側にも存在していたことを忘れてはいけません。

これについては、次の地図が参考になるでしょう。古代の地理的事情を考える時には、現在よりも数メール海面が高かった、いわゆる海進時代の海岸線で地図を見る必要があります。

画像1:古代の九州北部海岸線予想図

この画像は現在の地図において海面を9mほど高く設定したものですが、もちろん当時の地形や海面の高さが正確に表現できている訳ではありません。あくまでも古代海岸線を予測する上での参考として見て頂きたいのです。

すると、佐賀県の有明海側の平地の殆どは海の底だったということになりますが、そもそも、古代期には、低地における広い平地なるものはほぼ存在していなかったと考えるべきで、あの吉野ヶ里遺跡も、集落のすぐ近くにまで海岸線が迫っっていたと捉えた上で、その存在意義を推し量るべきなのです。

また、画像に示した赤い線は、有明海北岸から対馬海峡方面へ抜けるルートを示していますが、それは有明海から諫早の海峡を抜け、大村湾を経てから西海(さいかい)の海峡を通って佐世保の沖合に出るルートが真っ先に思い浮かびます。

実は朝鮮半島に向かうには、玄界灘から対馬海峡を海流に逆らって強引に横断するよりは、西海を出てからしばらく西に向かい、対馬海流に乗りながら北上する方が、動力船のないこの時代においては、船舶運航上も合理的なルート選択であったと考えられます。

今回注目したのは、有明海北岸の船舶の着岸地点がどこであったのかという点なのです。着岸に適した場所があれば、そこが常設の港となり、船が集まると同時に人が集まります。そして、その土地が統治上の重要ポイントになることは容易に想像できるかと思います。

今回、古代有明海の接岸ポイントとして注目したのが、画像1の中央部に当たる次の場所なのです。

画像2:杵島と入り江

杵島(きしま)と呼ばれる南北に連なる島状の山地とそれに挟まれる入り江のような地形、ここはまさに、船の停泊地としては最適だった場所だと考えられますし、実際そうであっただろうというのが、現地に残る潮見神社(しおみじんじゃ)の名前から窺い知れます。

画像3:潮見神社

潮目を見るのは船舶の航行において欠かせないプロセスであることは、わざわざここで述べることでもないでしょう。この神社の裏からは6世紀中頃のものと見られる古墳も見つかっており、古代期に人がここに定住していただろう痕跡もしっかりと見られるのです。

この神社から入り江を挟んだ東の向かい側には杵島の山がそびえており、実際に有明海の潮目を見ていたのはこの山の高所であっただろうと考えられます。その一つが、現在歌垣公園となっている辺りではないかと考えられます。

画像4:歌垣公園の展望台から佐賀市方面を見下ろす
古代期は一面有明の海であっただろう

この杵島周辺にも多くの古墳が残され、ここが古代期における重要ポイントであることの思いはますます強くなるのです。

ここまで、古代期における杵島の姿を予想してきましたが、朝鮮半島との行き来がが絶えなかったこの時代、杵島が日本の国内統治においていったいどのような位置付けを保っていたのか、ますます気になる存在となってくるのです。

■武の暗号

地名には生きた歴史の情報が含まれている、当ブログではその考えを基に地名から歴史的事象の推察を試みています。

同地において気になる地名は、潮見神社の所在でもある武雄市(たけおし)なのです。過去記事「鹿の暗号と春日の姫」では「武」(タケ)の字が示す意味を考察しており、その時のセオリーをここで適用すると

 武雄とはタカミムスビ皇統の男性を表す

と解釈できます。

タカミムスビ皇統の男性の例として、具体的には日本神話に登場する武御雷(タケみかづち)や建御名方(タケみなかた)であり、同過去記事では、この両者が同一人物でないかとの仮説を提示しています。

武御雷とは、言わずと知れた鹿島神宮の祭神であり、春日大社の春日四神の一柱かつ藤原氏の祖神ともされています。また、秀真伝ではカシマカミとも呼ばれています。

今回の案内を頼んだG氏によると、「杵島」(きしま)の名は音が転じて「かしま」(鹿島)になるとおっしゃっており、なるほど、杵島の南端に接するのは

 鹿島市(かしまし)

なのです。

茨城県の鹿島、鹿児島県の県名となった鹿(児)島、これまで両者の関係性を追って来ましたが、佐賀県の鹿島市についてはその由来が今一つはっきりしませんでした。しかし、武雄なる地名を軸に、どうやら同地とタカミムスビ皇統との関連性が見えて来たのです。

更に気になる地名が「白石」の「白」の字で、白は白鬚神社の祭神「猿田彦」を表すとも考えられ、当ブログでは、これまでの考察から猿田彦は「火明」(ほのあかり)と同一人物であろうと結論付けています。

 関連記事:猿と卑しめられた皇統 

また、「白」は「百」から「一」を引くという意味合いから「九十九」と読み解くことが出来ますが、千葉県の九十九里浜、その北端の地である銚子市は、火明(=猿田彦)所縁の地であることは既に過去記事で述べています。

茨城県の鹿島市と千葉県の銚子市は地理的にごく近く、それは鹿島(=武御雷)と火明(=猿田彦)の関係性の近さを暗示しています。日本神話においても、この二柱の神は天孫降臨の節で片や出雲の国譲り、片や道案内の神として同時に出て来ます。同じような関係性が、佐賀県の武雄・鹿島市と白石町の間に見えてこないでしょうか?

そしてもう一つ、佐賀市内の諸富(もろどみ)、武雄市内の富岡(とみおか)、鹿島市内の納富分(のうどみぶん)、そして白石町内の福富(ふくとみ)と、杵島周辺にはやたら「富」(とみ)の付く地名が目立つのです。

「とみ」とは「登美」とも書け、この登美とは、日本書紀において

 饒速日(にぎはやひ)が磐船から降り立った地

とされているのです。

ちなみに、千葉県北部から茨城県南部に多く分布する鳥見(とみ)神社の祭神は、やはり

 饒速日

なのです。

 関連記事:麻賀多神社と高天原 

タカミムスビ皇統(鹿島神を含む)と朝鮮半島との関係は以前から何かあると踏んでいましたが、かなり具体的に半島との関連性を示す杵島の地で、この名が出て来たのには驚きを隠せません。

しかも、ブログ上ではまだ考察を示していませんが、饒速日とは火明(=猿田彦)王朝の後継者であったと私は見ています。

タカミムスビ皇統、火明王朝、そして朝鮮半島。大和朝廷とは異なるこれらの王統がどのように結び付くのか、ますます興味深いことになってきました。

■ユダヤのサイン

最後に、G氏は次の様な示唆を私に示してきました。杵島の「杵」には「午」(うま)の字、そして鹿島には「鹿」の字、つまり、馬と鹿なのです。この「馬鹿」(うましか)問題とは、今年に入って当ブログが追いかけている

 古代ユダヤ問題

であることも忘れてはならないのです。


管理人 日月土

三浦春馬と馬鹿

まず最初にお詫びから申し上げます。

今月令和6年1月は、元日から色々ありまして歴史関係の調査・整理が全く進みませんでした。よって今回のブログ記事では、これまでの記事の中から整理してまとめたものをお知らせしたいと思います。

今回取り上げるのは、2020年の7月18日にお亡くなりになられた、俳優の三浦春馬さんと、最近の歴史テーマに取り上げてきた「馬鹿」(うましか)の関係についてです。

画像1:三浦春馬さん

三浦春馬さんは、クローゼットの中で首を吊った「自殺」と認定されていますが、同年9月27には、やはり有名俳優の竹内結子さんも、同じようにクローゼットの中で自殺したとされています。

この二人について、自殺と言うにはあまりに奇妙な点が共通していることから、両者共にこれが他殺だったのではないかという疑いは今でも囁かれています。

このブログは歴史ブログと銘打っている以上、この件を単純な事件として扱うことはしません。但し、両者の亡くなり方、報道のされ方には呪詛的要因が見受けられるため、それが呪詛だった場合、何に起因し、何を目的としている呪詛なのか、歴史的に解釈することは可能であると判断しました。

まとめ記事故に、これまでお知らせした内容と被る箇所も多々ありますが、三浦春馬さんの死の一件の中に、どのような歴史的意味が込められていたのかを見て行きたいと思います。

■芸名「三浦春馬」に込められた暗喩

芸名にしろ本名にしろ、芸能人の名前が重要なのは、単にそれが個人を識別するだけの記号でなく、そこに使われる文字や読み方が多くの人々に認識されることから、芸能人個人のパーソナリティを超えた別の象徴として使われることは、芸能の世界では良く見られます。

氷川きよしさんの「氷川」が埼玉県大宮市にある「氷川神社」、綾瀬はるかさんの「綾瀬」が同じ埼玉県を流れる「綾瀬川」を象徴し、一つの地理的かつ歴史的呪詛体系を作り出している可能性については、(真)ブログ「氷川と綾瀬と昭和天皇と-皇室への呪い」で既に触れています。

同じように「三浦春馬」という文字列を見て行った場合

 三浦、春、馬

という要素に分解することができます。

ここで、これまでの分析から

 春 → 春日大社 → 鹿
 馬(字のまま)

と、ここでさっそく馬鹿(うましか)の記号が抽出できるのです。

次に「三浦」(みうら)ですが、一般的には神奈川県の三浦半島を想像しがちですが、これについては以下の地図より

画像2:鹿島三浦

茨城県鹿島地方の三つの浦(うら)、すなわち

 霞ヶ浦、北浦、外浪逆浦(そとなさかうら)

を指すとも考えられ、要するに「鹿島」あるいは「鹿」を表しているとも考えられるのです。

そして、この「三浦」(みうら)を音読みの「三浦」(みほ)と読み替えたらどうなるかというと

 三浦(みほ)→ 美浦(みほ)

となり、この美浦には、広大な

 中央競トレーニング・センター

が置かれているのです。しかも、美浦は画像2の地図の中にすっかり収まっているのです。

画像3:鹿島三浦と美浦
画像4:JRA美浦トレーニングセンター

即ち、「三浦」というどこでもあるような苗字には、「馬鹿」(うましか)の両方の意味が付されていると見なされ、有名芸能人が「三浦」の名で活躍すれば、本人の意識とは全く別に、もう一つの「馬鹿」(うましか)の意味が大衆の意識の中で一人歩きし始めると、呪術に通じている関係者ならば普通にそう考えるのです。

どうやら、「三浦春馬」という芸名には、「馬鹿」(うましか)という別の意味が込められていたようなのです。

■馬鹿(うましか)と馬鹿(ばか)

さて、ここまでは「馬鹿」を「うましか」と呼んできましたが、通常ならばこの漢字2字を書けば「ばか」と読むのが普通です。

前回記事「もののけ姫と馬鹿」では、侮蔑用語として「ばか」がどうして馬と鹿なのか、その起源については、国語辞典編集者の神永さんをして

 諸説あるがはっきりしない

としています。

大事なのは「諸説ある」と「はっきりしない」は意味的には同意であることで、某国営放送の看板番組のように、「諸説ある」のにある一説を以って「ボーっと生きてるんじゃねぇ」と他者をこき下ろすような下品なことはこのブログではやりたくありません。

ならば、「ばか」を「馬鹿」と書かせる諸説の一つに、今回の三浦春馬さんとの関係を考慮しても良いのではないかと思われるのです。

どういうことかといえば、三浦春馬さんの名前に関連付けられた「馬」と「鹿」の意味に対して、昔の人が後から何か侮蔑的な意味を持たせた造語だったのではないかということなのです。

正直なところ、私は三浦春馬さんが出演されたドラマはほとんど見たことがないのですが、彼の出演作を良く知る知人の話では

 少し間の抜けた美男子

という役割が多かったと聞いています。別の言葉で言い換えれば

 ちょっと馬鹿(ばか)っぽい美男子

と言えるのではないでしょうか。

しっかり見ていないので推測の域は出ませんが、もしも「三浦春馬」という名に「馬鹿」(うましか)の意が含まれているのを知っていれば、敢えて彼に「馬鹿」(ばか)のような役作りをさせる演出があったのではないかと想像してしまうのです。

■馬鹿の意味についての再考

そもそも「馬鹿」(うましか)の話は、鹿児島の「鹿」から出てきたもので、これまでの話の展開からその相関図は次のようになります。

画像5:鹿の相関図

この相関図には「鹿」はあっても「馬」らしきものは見えず、「馬」との関連性を考慮しなければならなくなったのは、まさに「三浦春馬」という芸名に「馬」が含まれていること、そして、日本古代史を原作モデルに置いているのは間違いないあの名作アニメ映画「もののけ姫」に、「馬」と「鹿」をミックスしたような架空の動物が描かれていることにあったのです。

画像6:「もののけ姫」のヤックル

多少素性が見えてきた「鹿」は良いとして、このペアに現れる「馬」とはいったい誰を、あるいはどの系統を指すのか思案していたところ、おあつらえ向きに次の様な紋章があることを思い出したのです。

画像7:馬(ロバ)と鹿の紋章

実はこれ、ユダヤ十二支族と言われる聖書の創世記に登場するヤコブ(イスラエル)の子孫(の家)に付けられた紋章なのです。

ヤコブはイサクの息子であり、イサクはまたその父アブラハムの息子です。ヤコブはアブラハムの孫に当たることになります。さて、イサクとアブラハムについては創世記の22章に次のような下りがあります。

 神の命がアブラハムに下った。息子イサクをモリヤにある山
 に連れて行き、そこでイサクの命を神に捧げるようにと。
 山に祭場を作った後、アブラハムが刃物を取りイサクを屠
 (ほふ)ろうとした時、神は手を下すのを止めろと命じた。
 神は愛する息子を捧げようとしたアブラハムを、神を畏れる
 者として祝福した。

この刃物を手にして子を撃とうし、直前でそれを取りやめる動作というのが、かつて諏訪大社の御頭祭において神事として演じられていたというのは、日本のユダヤ同祖論の中でよく聞く話です。

また、諏訪には守屋山もあることから、諏訪の地は聖書のこの記述と何か深い繋がりがあるのではないかと、多くの方が疑問を抱くのも無理はありません。

この件については既にご存知の方は多いと思われますが、これについては次のサイトがよくまとまっているので是非参考にしてください。

 外部リンク:諏訪 御頭祭:聖書のイサクはミシャクジ神か?

私がここで強調したいのは、一見突拍子もなく出したユダヤ十二支族の紋章の話が、聖書の記述を通して諏訪大社の御頭祭と繋がることなのです。

さて、ユダヤ十二支族とは一般的に、ヤコブの子である

 ルベン
 シメオン
 レビ
 ユダ
 イッサカル
 ゼブルン
 ダン
 ナフタリ
 ガド
 アシェル
 ヨセフ
 ベニヤミン

を指しますが、領地を継いだ一族という基準で見れば、ヨセフの代わりにヨセフの子であるマナセとエフライムの名を加え、そもそも所領を持たないレビ族を除けば

 ルベン
 シメオン
 ユダ
 イッサカル
 ゼブルン
 ダン
 ナフタリ
 ガド
 アシェル
 マナセ
 エフライム
 ベニヤミン

となります。他にヤコブの直接の子ではないマナセとエフライムの2族をここから除いて十氏族とする見方もまたあるのです。

さて、画像7で挙げた紋章なのですが、それぞれ次の支族を表します。

 馬:イッサカル族
 鹿:ナフタリ族

こうなると、「鹿はユダヤのナフタリ族を指しているのか!」とやりたくなるのですが、それを言うにはまず「馬」の痕跡が日本古代史のどこかに残っているのかを見つけなければ、早計というものでしょう。

■馬に象徴されるもの

まずは「鹿島」と「鹿」の関係よろしく、「馬」の字を含む地名のチェックから始めたのですが、そもそも馬は昔の生活に深く根差した生き物であり、全国ほぼ満遍なく「馬」の付く地名が存在します。

これでは良く分からないので、検索の対象を大きな単位、具体的には県市町村群名に絞ったところ、次の様な結果を得ました。

 群馬県
 福島県   相馬市
 福島県   南相馬市
 福島県   相馬郡
 茨城県   北相馬郡
 群馬県   北群馬郡
 東京都   練馬区
 長野県   北安曇郡白馬村
 徳島県   美馬市
 徳島県   美馬郡
 高知県   安芸郡馬路村
 長崎県   対馬市

これだけ見ても直ぐに何とも言えませんが、県名に「馬」の字を使う群馬県はまず一つ押さえておくべきかと思われます。そして、福島と茨城に見られる「相馬」もまた気になる地名です。特に福島県の南相馬市周辺は2011年の福島第一原発事故で大きな被害を受けた所でもあります。

あと、気になるのは徳島県の美馬郡で、ここにはやはりユダヤ同祖論で取り上げられることの多い「剣山」(つるぎさん)が位置しているのです。やはり「馬」とユダヤの支族が関係しているサインなのでしょうか?

結局良く分からないままなのですが、鹿島のある茨城県から太平洋岸に沿って続く、福島県の「相馬」エリアについては、馬との関連性で追ってみる必要がありそうです。

■三浦春馬と馬鹿

結局のところ、馬鹿(うましか)について核心を突く結論は得られていないのですが、状況証拠的にこれがどうも古代日本におけるユダヤ問題と関連がありそうだというところまでは掴めました。

ここで三浦春馬さんの不審な死の話に戻ると、この死に呪詛的な意味があると仮定した場合、それは古代日本のユダヤ問題に関連するだろうと考えられるのです。

そして、それは三浦さんの芸名が体現する2つのユダヤ支族「馬(イッサカル族)と鹿(ナフタリ族)」に対して死の宣告を向けたのだとも解釈できるのです。

この場合、鹿とは武御雷から藤原氏へと続く一族の血統を指すと考えられますが、馬については上述の通りその系統については未解決だとしておきます。

さて、「クローゼット」という言葉には「隠された性癖」という隠語があるのですが、その中で死亡したという事実と併せて解釈するならば

 素性を隠したまま死ね

と言う意味にも取れます。つまり、日本の中でユダヤの末裔を名乗ることは一切まかりならんと言う強い意志を表しているとも解釈できるのです。

三浦春馬さんは、このようにユダヤ支族への大きな呪いを背負わされて旅立たれたのでしょうか?

参考:

三浦春馬さんの出演ドラマ「おカネの切れ目が恋のはじまり」について、その中で表現されている種々の暗号メッセージの解読に挑んだ動画がありますので、ここでご紹介しておきます。

Youtubeチャンネル「外閣情報調査室」から

なお、同ドラマについては(真)ブログ記事「三浦春馬の死とカネ恋の呪い」において、そのドラマ設定に仕掛けられた呪術的な意味を、方位術の観点で解読を試みています。


管理人 日月土

猿と卑しめられた皇統

前回の記事「豚と女王と木花開耶姫」ではスタジオジブリのアニメ映画「紅の豚」を題材に取り上げ、そこに登場する少女キャラクターの「フィオ」が、どうやら日本神話に記載されている「木花開耶姫」(このはなさくやひめ)をモデルにしているだろうという結論を導きました。

画像1:フィオ

前回は他の登場人物については歴史モデルの分析を行っておりませんでしたが、残りの主要キャラ二人(マルコとジーナ)についてもその歴史モデルを確定させ、また、その意味について考察したいと思います。なお、この分析は前回2月1日配信のメルマガ71号の記事解説と重複する部分がありますので、メルマガの購読者様は予めご了承ください。

■木花開耶姫とその父母

マルコとジーナ、そしてフィオの3人の関係については、映画の設定上は血縁関係はありません。しかし、そのなんとも近しい関係が、「マルコとジーナ」の夫婦関係、そして「フィオ」が2人の間に生まれた娘をそれとなく匂わしているのは、物語の展開からそれほど異論がない解釈かと思います。

画像2:3者の関係

この設定、敢えて血縁関係にしなかった別の意図も見え隠れするのですが、ここでは血縁関係と捉えて考察を進めて行きます。

さて、まずはフィオのモデルとなった木花開耶姫なのですが、日本書紀や古事記、また秀真伝におけるその親子関係は次のようになります。

画像3:史書における関係

これをそのまま取れば、マルコのモデルは大山祇神なのかとなりそうなのですが、この母不詳というのが曲者で、何故に10代アマカミ(上代における天皇)瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の皇后ともなった方の、その母の素姓が記されていないのか、それ自体が大きな謎だとも言えます。

高貴な方なのに母の名が不詳である、これは何も木花開耶姫に限らず、瀬織津姫(せおりつひめ:アマテルカミ皇后)、栲幡千千姫命(たくはたちぢひめ:オシホミミ皇后)など他の上代皇后についても言える話なのです。

古い話だから情報が欠けいても仕方がないと思われそうですが、果たしてそれだけで済まされる問題なのでしょうか?

2年前の令和3年、アニメ映画「もののけ姫」を分析し、登場人物の少女「サン」が木花開耶姫をモデルとしていると結論を出しましたが、その時にこの父母問題を取り上げ、推敲を続けた結果、アニメで表現されている次の登場人物(動物)との関係性から、

 サン(少女) - モロ(犬神:父兼母)

これが

 木花開耶姫 - 味耜高彦根(あぢすきたかひこね)

の関係に対応することに気付きました。詳しくは次の動画を改めてご確認いただきたいと思います。

動画:もののけ姫とモロ

秀真伝には味耜高彦根の妻はシタテルヒメ(下照姫)またはオクラという名であると記されていますが、下照姫はアマテルカミの妹としても登場しているので、ここでまた、貴人と同名の姫が別家系に、それも比較的近い世代に再び現れると言う不自然さを覚えたのです。ですから私は、この時の分析では二人の下照姫を同一人物とみなしました。

これらの考察から、大山祇神は木花開耶姫の実の親ではなく養父であり、実際の父母は次のような関係であっただろうと結論付けたのです。

画像4:分析後の親子関係

但し、この解釈に全く問題が無い訳ではありません。味耜高彦根と下照姫は世代的に2代違うので、年齢的に孫と祖母位歳が離れていたと考えられます。いくら若年婚が普通だった昔とは言え、30~40年年長の女性を妻に迎え木花開耶姫を含む複数の子を残せるのかという疑問は残ります。

画像5:世代の違いがこの解釈の障害に

ここで解決のヒントを与えてくれたのが「少女神」という女系家系の概念なのです。既にお伝えしているように、下照姫は伊弉冉尊(いざなみのみこと)の血を継ぐ少女神であり、味耜高彦根が娶った下照姫とは、かの下照姫の血を継いだ少女神、つまり、世襲を表す意味で「下照姫」が使われたと考えれば筋が通ります。よってここでは、後継の下照姫のことを、秀真伝に従って「オクラ」と表記します。

この概念は非常に重要であり、前述したように上代皇后の母の名がどうして史書からきれいに消されているのか、その理由を考える上で大きな意味を持ちます。端的に言ってしまえば

 女系継承から男系継承へと史書の書き換えが行われた

と考えられるのです。これは史書を解釈する上での大きな方法論の転換を示唆しているのですが、ここではこれ以上触れないことにします。

以上の考察を以って、木花開耶姫の実の両親は次の様であっただろうとの推理が成り立つのです。

画像6:少女神の暗号と解釈して世代を調整

以上で主要登場人物の関係性は示せたのですが、問題なのはここに現れた味耜高彦根とオクラをどう解釈したら良いのか、あるいはモデルに使う意味とは何なのか、つまりは映画製作者の真意なのです。

■味耜高彦根の再考察

この問題を解決するために、まずは味耜高彦根の属性について整理してみます。まずは史書に記述されている描写、次にジブリ作品における描写について、その主要ポイントを書き出してみましょう。なお、これにはこれまでの分析結果を採用するものとします。

 A-(1)父は初代大物主の大国主、母はタケコヒメ(※秀真伝から)
 A-(2)妻の名は下照姫 (※下照姫後継のオクラのことを指す)
 A-(3)天稚彦(あめわかひこ)と見た目が良く似ている
 A-(4)妻から和歌を献上され御統(みすまる)と讃えられる
 A-(5)「もののけ姫」の作中で犬神の「モロ」と表現される
 A-(6)「紅の豚」の作中で呪われた豚の「マルコ」と表現される

さて、上記A-(3)に天稚彦が出てきたので、次にこの登場人物についてその主要属性を書き出してみます。

 B-(1)父は天国魂アマクニタマ(※秀真伝から)
 B-(2)葦原中国の平定に赴いたが帰還しなかった
 B-(3)返し矢に当たり死ぬ
 B-(4)「もののけ姫」の作中で「アシタカ」と表現される

B-(3)とB-(4)は深く関係しており、本来「アシタカ」は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)をモデルにしているのですが、作中に矢で打たれ一度絶命するシーンがあることから、同時に天稚彦をも表現していると結論が出ています。

そして、秀真伝には瓊瓊杵尊とホノアカリが兄弟で、二人でそれぞれ王朝を開く、2王朝並立時代があったとの記述があります。

画像7:秀真伝に残されている2王朝並立

瓊瓊杵尊とは天孫降臨にも登場する現皇統へと続く御正統ですから、間違っても他の家系と同一表現するとは考えにくく、史書において極めてマイナーな存在である天稚彦とは、瓊瓊杵尊とは同列の存在、すなわち「ホノアカリ」を指すとしか考えられないのです。よって、

 天若彦=ホノアカリ -[1]

という結論を既に分析によって得ています。

ここで、気になるのがA-(3)なのです。この「見た目が似ている」と表現から、私はそれを「両者共に正当な後継者(大物主出雲皇統とアマカミ天孫皇統)なのにも拘わらず、記紀からその史実を削除された気の毒な存在」と、境遇が似ているという観点で捉えていましたが、実はそっくりそのまま次の関係でも矛盾しないことに後から気付きました。

 味耜高彦根=天若彦 -[2]

何故ならば、[1]、[2]から

 味耜高彦根=ホノアカリ -[3]

が導かれるのですが、これがA-(4)の「御統」(みすまる)、すなわち歴代皇統という意味に実にぴったりと収まるのです。

A-(1)から味耜高彦根は大国主の出雲皇統と考えていましたが、そもそもホノアカリはアマカミ皇統から排除された存在ですから、後の史書編者が出雲皇統に付け替えたとしてもおかしくありません。そして、それを補強する暗号的記述がB-(2)であるとも考えられるのです。

何より、出雲皇統を強引に兄弟の事代主(ことしろぬし)に奪われたのならば、出雲皇統内での争いに関する記述がどこかにあってもよさそうなのに、今のところはそれは見つかっていません。

よって私は次の様に結論を出しました。

 味耜高彦根とは記紀から抹殺された上代天皇ホノアカリである

つまり、ジブリ映画キャラクターの「モロ」及び「マルコ」はホノアカリを指していることになります。当然ながら「ジーナ」はその妻オクラ(下照姫後継)を指すことになります。

画像8:千葉県船橋市の茂侶(もろ)神社
社名が出雲系なのに主祭神が木花開耶姫という不思議な神社。県内の他の茂侶神社は主祭神が出雲系の大物主。姫が味耜高彦根の娘なら話が通るが、実はそれ以上の隠された秘密があったのだ。

■猿から豚へ、豚から猿へ

前回の記事では「豚」の解釈について幾つか試みてみましたが、その中で同じジブリ映画の「千と千尋の神隠し」に出て来る豚についても簡単に触れています。

その中で「紅」と「豚」の組み合わせが千葉県銚子市・旭市周辺を指す、すなわち特定の土地を表す記号の意味があるのだろうと指摘しています。

詳しくは過去記事「千と千尋の隠された神(2)」をご覧になって頂きたいのですが、同記事の最後に

 油屋のモデルは猿田神社(千葉県銚子市)

とあるのにご注意ください。

「千と千尋の神隠し」は間違いなく、日本神話の神「猿田彦」(さるたひこ)を意識しているのです。それは、登場人物の「ハク」が「白」と書き換え可能で、この字は更に

 白 = 百 マイナス 一 = 九十九

となり、九十九とは銚子を北端に始まる九十九里浜を指すと考えられるのです。

また「白」は「白鬚」(しらひげ)すなわち「猿田彦」を表す符丁とも考えられます。

千葉県東総地区が猿田彦所縁の土地であることは過去記事「天孫降臨とミヲの猿田彦」、「椿海とミヲの猿田彦」にありますので、ぜひそちらにも目を通してみてください。

この猿田彦なる存在は天孫降臨時の道案内の神として有名ですが、謎が多く、秀真伝の研究者である池田満氏は

出自は不明だが、かなり高貴な家柄の出であろう

と述べており、私が師事を乞うている歴史研究家のG氏は、猿田彦と出雲の関係について

猿田彦の足跡は、出雲族の分布と被っている。おそらく、製鉄や土木など出雲社会を指導したのが猿田彦とその一族であろう。

と語っています。

猿田彦を祭神として祀る神社は全国に見られ、主祭神でなくとも神社の鳥居の傍に猿田彦神社と書かれた石碑や小さな祠を見ることは珍しくありません。これだけポピュラー神様なのに、他の神々との関係性がまるで希薄なのは、いったいどういう事なのでしょう?

そもそも、人(あるいは神)に向かって「猿」などと獣の名で呼ぶことは不遜の極みです。ですから私は

 猿田彦は呪われた神

と解釈していますし、その妻とされている猿女君(さるめのきみ)あるいは天鈿女命(あめのうずめのみこと)も同じように卑しめられた存在と見ています。

さて、以上の説明をご覧になって私が何を言いたいのかお分かりになったでしょうか?まとめてみると、猿田彦は

 ・高貴な人物と考えられるが出自は不明
 ・出雲族と関係が深い
 ・史書では卑しめられた存在

となります。

これらはまるで、前節で取り上げた「ホノアカリ」の境遇とそっくりではないでしょうか?そして何より、史書が獣(猿)の名前を冠したところなど、ジブリ映画の中で、獣(豚)の姿(※)で表現されたホノアカリと見事に共通性が見られるのです。
※「もののけ姫」では犬

以上はかなり荒っぽい論理展開ではありますが、ここで私はこの考察に一つの結論を出したいと思います。

 猿田彦とは上代天皇ホノアカリのことである

そして必然的に、猿女君とはその少女神皇后であるオクラ(下照姫後継)という結論に到るのです。

画像9:失われたホノアカリ王朝とその変名
記紀から名が消されたと同時に、複数の変名より事跡が残された
画像10:千葉県銚子市の猿田神社
もしかしたら、ここがホノアカリ王朝の名残なのかもしれない

例え2000年前の出来事であっても、この国の史実に絶対残してははならない存在、それがもう一つの王朝の始祖ホノアカリでありその妻オクラである。そして、失われた王朝への呪いが現代のアニメ作品に到るまで色濃く反映されている・・・

もしもそれが事実なら、日本とはなんと執念深くも恐ろしい国なのだと思わずにいられません。


秋深く赤城の山に踏み入れば清き流れの大猿の滝
管理人 日月土

玉名の疋野神社と長者伝説

この6月に実施した九州は熊本県、菊池川周辺(菊池市・山鹿市)の史跡調査について、これまで5回連続でお伝えしてきました。

気になる点を細かく掘り下げ続けているといつまでも終りそうにないので、今回はレポートの締めくくりとして、菊池川が海に注ぐ街、熊本県の玉名(たまな)市を取り上げてみたいと思います。

玉名レポートと宣言する以上、本来なら2,3日かけて調査した結果を報告するべきなのでしょうが、残念ながら、今回の調査日程では時間が十分に取れず、山鹿から帰りの便が待つ熊本空港へと移動するまでの数時間しか立ち寄ることができませんでした。

それでも、なかなか興味深いものが見れたのではないかと思います。

■古代菊池川流域文化圏

山鹿市から玉名市に入ってすぐに、私はまず玉名市街にある疋野神社に向かったのです。

画像1:疋野神社

ここで、、菊池川流域のこれまでに訪ねた史跡について、次の様に地図上にまとめました。なお、この地図には2020年に一度調査に訪れた、山鹿市のオブサン・チブサン古墳、和水(なごみ)町のトンカラリン・江田船山古墳も含まれています。

 関連記事:チブサン古墳とトンカラリンの小人

画像2:これまで訪れた菊池川沿いの史跡(元画像:Google)

この地図を見ればお分かりの様に、縄文から飛鳥時代初期まで、古代期とは言えそれぞれ少しずつ時代が異なるものの、菊池川流域にタイプの異なる様々な史跡が見られることに驚かされます。

ここから、かつての菊池川流域には、日本の古代期を知る上での重要なヒントが隠されているのでないかと考えられ、今回この調査を実行したのも、まさにそれを確かめる為でもあったのです。

この中で玉名は菊池川の最下流域であり、人が海から上陸し、菊池川沿いに遡上したと仮定するならば、ここが菊池川流域文化のスタート地点となり、同時に、菊池川流域と海外を繋ぐ重要拠点としてその後も発展し続けたのではないかと想像されるのです。

■疋野神社と日置氏

さて、話を疋野神社に戻しましょう。この神社の由緒については同社のホームページに非常に詳しく書かれているのでまずそこからの引用をご紹介しましょう。

由緒について:

疋野神社の創立は景行天皇築紫御巡幸の時より古いと伝えられ、2000年の歴史を持つ肥後の国の古名社です

祭神について:

・疋野神社は他の神社よりのご勧請の神様をお祀りした神社ではありません。大昔よりこの玉名の地に御鎮座の神社であり、この地方を古来より御守護なされてきた神様をお祀りする神社です。
・御祭神、「波比岐神」は日本最古の著『古事記』記載の神様であり、日本建国の場づくりをなされた神代の時代の尊い神様です。
・相殿には父神様であります「大年神」がお祀りされています。大年神は、天照大御神と御姉弟であります素盞鳴尊の御子神様です。

波比岐神(はひきのかみ)とは、古事記の中で大年神が天知迦流美豆比売(あまちかるみづひめ)を娶って生んだ神であると書かれています。しかし、日本書紀、秀真伝にその名は見当たりません。このように史書における出現回数が少ない神をどう解釈すれば良いのか難しいところですが、今でもこの神の名を掲げている神社が現存していることは、この謎多き神、ひいては実在した人物モデルが誰であったかを理解する上で大きなヒントとなります。

そして、疋野神社のホームページにはもう一つ重要なことが書かれているのです

当神社は奈良平安時代、玉名地方の豪族日置氏の氏神神社として、はなやかに栄え、また鎮座地の立願寺という地名は、疋野神社の神護寺であった「立願寺」というお寺の名前が起源です。

そう、神社の名となっている疋(ひき)とは日置(へき、ひき、ひおき)のことで、この神社は過去記事「菊池盆地の大遺跡と鉄」で紹介した、日置金凝(へきかなこり)神社の名前にもなっている同じ日置氏を指していると考えられるのです。おそらく波比岐神(はひきのかみ)の子孫という意味なのでしょう。

すると、祭祀族と考えられる日置氏が下流から上流まで菊池川の流域に進出し、この地域で一定の役割を担っていたことは容易に想像されるのです。

古代祭祀場の名残とも思われる菊池川流域の二つの神社に、日本書紀に書かれている祭祀族の日置部(ひおきべ)の名前が冠せられている、この事実は果たして古代のどのような事実を意味しているのでしょうか?

■疋野神社の長者伝説

さて、この疋野神社には面白い伝説が残されています。題して「疋野長者伝説」なのですが、これについて、やはり疋野神社のホームページから引用したいと思います。

千古の昔、都に美しい姫君がおられました。
「肥後国疋野の里に住む炭焼小五郎という若者と夫婦になるように」との夢を度々みられた姫君は、供を従えはるばると小岱山の麓の疋野の里へやってこられました。

小五郎は驚き、貧しさ故に食べる物もないと断りましたが、姫君はお告げだからぜひ妻にと申され、また金貨を渡しお米を買ってきて欲しいと頼まれました。

しかたなく出かけた小五郎は、途中飛んできた白さぎに金貨を投げつけました。傷を負った白さぎは、湯煙立ち上る谷間へ落ちて行きました。が、暫くすると元気になって飛び去って行きました。

お米を買わずに引き返した小五郎に姫君は「あれは大切なお金というもので何でも買うことができましたのに」と残念がられました。

「あのようなものは、この山の中に沢山あります」 との返事に、よく見るとあちこち沢山の金塊が埋もれていました。

こうして、めでたく姫君と夫婦になった小五郎は、疋野長者と呼ばれて大変栄えて幸福に暮らしました。

ほのぼのとした、如何にも昔話と言った風情の伝説なのですが、その基本プロットは以下のように整理されます。

 ・炭焼小五郎という貧しい男がいた
 ・美しい姫が夢のお告げに従い小五郎の元へ嫁ごうとする
 ・小五郎は貧しいゆえに初めはそれを拒む
 ・姫は金(きん)を携えそれで生活できると主張する
 ・小五郎は姫の金を石の様に扱う
 ・金は山の中にたくさんあったがその時まで小五郎はその価値を知らなかった
 ・二人は山の金で豊かに暮らした

さて、この話を取り上げたのは、実は同じような伝説が玉名以外にも見られるからなのです。その伝説の名は「真名野(まなの)長者伝説」です。

真名野長者伝説はWikiペディア「真名野長者伝説」に詳しいのですが、その中から疋野長者伝説と類似する箇所を拾い出してみましょう。ちょっと長いかもしれませんがご容赦ください。

継体天皇の頃、豊後国玉田に、藤治という男の子が産まれたが、3歳で父と、7歳で母と死に別れ、臼杵深田に住む炭焼きの又五郎の元に引き取られ、名前を小五郎と改めた。

その頃、奈良の都、久我大臣の娘で玉津姫という女性がいたが、10歳の時、顔に大きな痣が現れ醜い形相になり、それが原因で嫁入りの年頃を迎えても縁談には恵まれなかった。姫は大和国の三輪明神へと赴き、毎晩願を掛けていた。

9月21日の夜、にわか雨にあった姫は拝殿で休養していた所、急に眠気を覚え、そのまま転寝してしまった。すると、夢枕に三輪明神が現れ、こう告げた。「豊後国深田に炭焼き小五郎という者がいる。その者がお前の伴侶となる者である。金亀ヶ淵で身を清めよ。」

姫は翌年2月に共を連れて西へと下るが、途中難に会い、臼杵へたどり着いた時には姫1人となってしまっていた。人に尋ね探しても小五郎という男は見つからず、日も暮れ途方に暮れていた所、1人の老人に出会った。「小五郎の家なら知っておるが、今日はもう遅い。私の家に泊まり、明日案内することにしよう。」

翌日姫が目を覚ますと、泊まったはずの家はなく、大きな木の下に老人と寝ていたのであった。老人は目を覚ますと姫を粗末なあばら家まで案内し、たちまちどこかへ消えてしまった。

姫が家の中で待っていると、全身炭で真っ黒になった男が帰ってきた。男は姫を見て驚いたが、自分の妻になる為に来たと知り更に驚いた。

男は「私1人で食べるのがやっとの生活で、とても貴女を養うほどの余裕はない」と言うと、姫は都より持ってきた金を懐から出し「これで食べる物を買って来て下さい。」と言って男に渡した。

金を受取った男は不思議そうな顔をしながら出て行った。麓の村までは半日はかかるはずであるのに、半時もしないうちに手ぶらで帰ってきた男は言った。「淵に水鳥がいたので、貴女からもらった石を投げてみたが、逃げられてしまったよ。」

姫は呆れ返って言った。「あれはお金というものです。あれがあれば、様々な物と交換できるのです。」

すると男は笑いながら言った。「なんだ、そんな物なら、私が炭を焼いている窯の周りや、先程の淵に行けば、いくらでも落ちているさ。」

姫は驚き、男に連れて行ってくれるように頼んだ。行ってみると、炭焼き小屋の周囲には至る所から金色に光るものが顔を出しており、2人はそれらを集めて持ち帰った。

どうでしょう、ここまでの下りは殆ど疋野長者伝説と同じです。しかも炭焼小五郎の名は両者で共通しています。敢えて異なる点を挙げれば、真名野長者伝説には続きがあり、二人の娘である般若姫の話、舞台となった豊後(大分県)で有名な摩崖仏誕生の話へと繋がって行くのです。

疋野長者伝説の舞台は熊本県の「玉名」、一方、真名野長者伝説は大分県の「玉田」ですから、このあまりにも似通った地名から、どうやら二つの伝説は同じ出所から派生したと考えられるのです。ではいったい何がこの二つを繋ぐのか?

■長者伝説が繋ぐ百済と古代日本

実はこの二つの類似した長者伝説について、「(元)情報本部自衛官」さんが最近のブログ記事「炭焼き長者と百済王」でたいへん興味深い考察を述べています。

こちらを読んで頂くとお分かりになるように、古代百済にも「薯童(ソドン)と善花公主(ソンファゴンジュ)」という、日本の両長者伝説とそっくりな、

  貧しい男が美しい姫と結ばれ、金(きん)で成功する

というストーリーが存在するというのです。しかも、薯童は百済の王にまで登り詰めるというのですから、この辺は日本の長者伝説においてただ裕福になったとされるストーリーとは若干異なります。

しかし、男に嫁いだ姫が都(みやこ)出身の高貴な家の出であることは共通しており、ここから、これらの長者伝説がどうやらある高貴な女性の出自に関する一つの伝承から派生したことが見て取れるのです。

画像3:疋野長者伝説と類似する伝説を有する地
(他にあるかもしれません)

そして、同ブログ記事で最も興味深い記述とは以下の部分です。

タマナという地名は百済がかつて外地に設置した檐魯담로に由来するという説がある。

現代ハングル読みではDAM LOが鼻音化して ダムノ に似た発音となるが、古代語は概してゆっくり発音する傾向があるため、タムル、タマラといった発音だった可能性は高い。

何故なら古い済州島の呼称を耽羅と言い、日本語読みでもタンラ、現代ハングル読みでもタムナとなる。さらに屯羅、耽牟羅という表記も見られる。

屯という字はタムロと読むし、百済が駐屯した拠点にそうした地名をつけていたという百済研究家を笑い飛ばせる人は世間知らずである。

(元)情報本部自衛官さんのブログから

読者さんは、これがどのような意味かお分かりでしょうか?要するに、

 玉名・玉田は古代百済の拠点だったのではないか?

ということなのです。要するに、同じ百済民族であればこそ、この極めて似通った長者伝説がこれだけ離れた各地に残されたと考えられるのです。

もしもそうだとすれば、私たちが常識として思い描いている

  朝鮮半島の百済・新羅・任那と対馬海峡を隔てて存在する大和国

という古代史の地勢的な構図は全て再考し直さなければならなくなるのです。

一見とてもあり得なそうなことですが、この説を甘受したとき、過去記事「菊池盆地と古代」で紹介した次の写真にまた別の解釈が生まれてくるのです。

画像4:再現された鞠智城

私はここを、白村江の戦いに敗れた百済の難民を受け入れた、いわば難民キャンプのようなものではなかったのかと仮説を立てましたが、ここを元来の百済領地と見れば、無理なくここを「百済の城」または「百済の拠点」であると言い切ることができるのです。

この種の議論をする時に気を付けなければならないのは、そもそも古代期に現代のような国境概念があったのかどうか?いや、現代のような国民国家の認識があったかどうかも疑わしいのです。

もしかしたら、古代期は船が辿り着いた各地に点在する拠点こそが領土であり、いわば複数の「点」の集合で表現される国土認識ではなかったのかということなのです。

それと比較すれば、現代の国土感覚は国境で隔てられた連続する「面」の認識であると言えましょう。

つまり、現在鞠智城跡地とされているこの地こそが、百済の一部だったのではなかったのか、極端かもしれませんがその可能性を排除してはならないと思うのです。

そうすると、玉名から菊池にまで進出した日置氏とはどのような一族であったのか、また、菊池一族のルーツとは何であったのか、はたまたこの地で祀られる第2代天皇「綏靖天皇」やユダヤの痕跡とはどのような繋がりがあるのか、これらの疑問が古代百済との関係で読み解けるかもしれないのです。


大和とは大和成り為す諸国の国かも
管理人 日月土

富士の高嶺と七支刀(2)

今回の記事は前回の「富士の高嶺と七支刀」の続きとなります。ここでは前回書けなかったタイトルにもある「七支刀」に触れてみようと思います。

山部赤人が歌を詠んだ場所と推測される福岡県みやま市高田町田浦については既にお伝えした通りですが、そこを訪れる前に、みやま市内の気になる神社を何箇所か訪ねてみたのです。

みやま市は福岡県南部に位置し、熊本県南関町に隣接します。その人口は3万6千人で人口150万人を有する大都市の福岡市に比べれば筑紫平野に田園が広がり、人影もまばらな実にのんびりした田舎街です(失礼)。古代遺跡類の宝庫とも言える玄界灘沿岸の福岡市、糸島市、太宰府市などに比べれば、言葉は悪いですが歴史的遺構など「何もない」ように見えてしまうことでしょう。

画像1:みやま市の地理的位置
画像2:みやま市の風景

実はここには、古代史上の謎の一つでもある「神籠石」(こうごいし)が築かれ、みやま市のそれは「女山神籠石」(ぞやまこうごいし)と呼ばれています。

女山神籠石についてはWikiに次のように書かれています。

女山城は文献上に記載のない城であるため、城名・築城時期・性格等は明らかでない。天智天皇2年(663年)の白村江の戦い頃の朝鮮半島での政治的緊張が高まった時期には、九州地方北部・瀬戸内地方・近畿地方において古代山城の築城が見られており、女山城もその1つに比定される。
1981年(昭和56年)の第4次調査によれば、築城時期は7世紀後半頃と推定される。城に関する伝承は知られていないが、かつては邪馬台国の卑弥呼の居地とする説などが挙げられていた。なお、城域内では築城に先立つ6世紀後半頃に山内古墳群が築造されているほか、女山中腹では銅矛2本の出土も知られる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%B1%A0%E7%9F%B3

要するに、古代期に造営された山城の石積みの遺構、それを神籠石と呼ぶのですが、同じ福岡県の糸島市や久留米市にもそれが残されています。

古代山城が築かれていたという点で、この一帯が古代期の重要拠点であることが容易に想像されるのですが、今回の調査ではぜひそれを確認したいという思いがあったのです。

ところが、残念なことに、当日は土砂崩れで現場への山道が塞がれており、神籠石の調査は断念せざるを得ませんでした。

画像3:通行止めになっていた女山神籠石への山道

しかし、それでもみやま市の隠れた見所は田浦地区をはじめ他にも色々と見つけることができ、今回はその中の幾つかをご紹介したいと思います。

■立派だが寂れた神社

太宰府天満宮があることより、九州北部では天満宮や菅原神社なる名前の神社をよく見かけますが、その天満宮系の神社として「老松宮」(おいまつみや)もまたポピュラーな神社です。

どこから調査の手を付けるか、その手始めとして女山神籠石に近いみやま市瀬高町の老松宮に寄ってみました。

画像4:瀬高町の老松宮

上の写真を見ると分かるように、本殿は最近改築されたらしく比較的きれいなのですが、その他の摂社や作りの立派な楼門はもうボロボロで、外観を維持するための人手がとにかく足りていないのがありありと分かります。

これはここに限ったことではなく、地方の小神社ではこのように荒れたところを多く見ます。人口減と都会への一極集中で、この先どうなるのかたいへん心配なところではあります。

画像5:立派な造りだがかなり傷んでいる楼門

この老松宮、一見何の変哲もない田舎の神社のように見えますが、とにかく敷地が広く、立派な楼門が建てられていることから、古くはこの一帯の中心を成し、役所のような機能を果たしていたのではないかと窺われるのです。

前回の記事で、この辺りの田園が古代の海進期には海水で覆われていただろうと予想図を示しましたが、その様子は「瀬高」という地名からも推測することができます。

かつて海だったとはいっても、基本的には浅瀬で、海面から顔を出している陸地が海上に点在していた、いわゆる多島海を形成していたと考えられ、「瀬高」とは文字通り瀬の高い箇所、要するに陸地部分であったことを想像させるのです。

そこからさらに類推されるのは、ここがかつては船の立ち寄り場所で、今の言葉で言うなら港湾事務所のような役割を担っていただろうと考えられるのです。

山部赤人の歌に詠まれたように、古代の有明海では多くの人々、船が行き来していた、そう考えると、神籠石の存在も不相応に広い老松宮の存在もどこか納得できるのです。

■塚が壊されていた

さて、この老松宮なのですが、敷地の中に蜘蛛塚と呼ばれる小さな古墳が残っています。

画像6:蜘蛛塚-お地蔵さんの祠が据え付けられている

また、この蜘蛛塚には次のような由緒書きが残されています。

伝説によると景行天皇の西征の時に、この地に朝廷に従わない者がいましたので、天皇は之を征伐して首長を葬った所だとされています。また、一説に土蜘蛛の首長田油津媛(たぶらつひめ)の墓であるとも云います。この墳(つか)の南約18mの田の中に小墳があってこれも大塚といい、一緒の前方後円墳であったのが道路作りの時、二分されたものと伝わります。大正二年春、田の中の小墳を崩して新道が作られました。往時は女王塚と言っていましたが、後世にはばかって大塚(蜘蛛塚)に改めたと云います。

平成29年3月 みやま市教育委員会

さて、ここに出て来る田油津媛とは日本書紀の巻第九、神功皇后紀に次の様に書かれています。

丙申(ひのえさる)に、転(うつ)りまして山門県(やまとあがた)に至りて、則ち土蜘蛛田油津媛を誅(つみな)ふ。時に田油津媛が兄(いろね)夏羽、軍(いくさ)を興して迎え来(まう)く。然るに其の妹(いも)の誅(ころ)されたることを聞きて逃げぬ。

※岩波文庫「日本書紀」による読み下し文

ここに出てくる山門県とは、旧山門郡山川村付近、現在のみやま市東部の地域を指すと見られています。山門と書いて「やまと」と読みますから、この付近が卑弥呼の女王国である邪馬台国があったのではという説もあるようです。

卑弥呼、景行天皇、神功皇后、これらの登場人物は現代の我々から見れば比較的近い世代のように見えますが、それでもけして同時代人と言えるものではありません。各伝承の間にはそれなりの時間的なギャップがあるのです。

伝承はあくまでも伝承で、それについては何か確定的なことを言えませんが、ここにはかつてある程度の大きさの古墳(前方後円墳)があり、後にそれが崩されてしまったという由縁からは、その具体性故に真実味が感じられるのです。

しかしながら、古今、人の都合で古墳が荒らされたり崩されたりという話は別に珍しくもありませんが、農地が目の前広がるこの土地で、わざわざお宮の前の古墳を崩してまで道を通した理由がよく分からないのです。

その疑問への答になると思われるのが、老松宮の南西、道路向かいに建てられた仏教形式のお堂です。不思議なことに、このお堂と老松宮は正面が互いに向き合っているのです。

しかもこのお堂、管理者もいなければ、門に鍵が掛けられ敷地の中に入れません。まるで訪問者を避けているかのように、田んぼの中にポツンと建てられているのです。

画像7:道路を挟み老松宮と向き合うお堂

このようなかなり不自然な配置を見て私がまず思い付くのは

 これは呪術ではないのか?

という疑念です。そして、その他の人工物の配置等をつぶさに見るにことによって、老松宮に対して何か強い封印術が掛けられていると確信したのです。

その呪術がどのようなものであるのか、詳細については次のメルマガでお知らせしたいと思いますが、呪術形態から垣間見える執念の強度から、この土地によほど表に出てきて欲しくない何かがあることだけは分かったのです。

そして、ここからみやま市一帯がただの静かな農村ではなく、古代日本史の定説を書き換えてしまうほど、何か重要な歴史的痕跡が残る土地であろうと思いを強くしたのです。

■こうやの宮と七支刀

さて、いよいよ七支刀の話題に入るのですが、まずは次の写真を見て頂きたいと思います。

画像8:カラフルな神像

この色彩鮮やかな神像は、みやま市瀬高町太神字鬼木の水田が広がる一角にある「こうやの宮」に置かれているものです。

画像9:こうやの宮全景
集落の外れにあり、背後には田園が広がる

また、このお宮の説明板には次のように書かれています。

こうやの宮「七支刀を持つ神像」

ここ「こうやの宮」の祠の中に、ご神体として神像が五体祀られている。
その中の一つが「七支刀を持つ神像」で百済の官人といった風態であり、西方の死者に相当する。当主の祝典(即位など)に参じて持参した宝刀、それが七支刀である。現在、奈良市石上神宮にある神宝七支刀には名分が彫られ、献上の趣旨が刻まれ、各種の読みが成されている。(以下略)

この神像については、九州王朝説を唱える古田武彦氏による文献等に詳しいので、それに重複する説明はここでは省略させていただきます。また、多くの歴史研究家がこれについて良い記事を書かれているので、「こうやの宮、七支刀」などのキーワードでネット検索すれば、興味深いものを見つけることができるでしょう。

この七支刀については、こうやの宮の正式名「磯上物部神社」に「物部」の文字があることからか、同じく物部氏の系列である奈良県の石上神社(いそがみ)から出た七支刀と比較されることが一般的なようです。そして、日本書紀の記述から、七支刀そのものは朝鮮半島の百済から伝来してきたもではないかと考えらているようです。

要するに、七支刀は古代期における朝廷と朝鮮の関係を表すもののようなのですが、それはさておき、説明板にプリントされたこの神像の写真を見る限り、神像そのものはそれほど古い物のようには見えないのです。

神像が製作されたのは鎌倉時代ではないかという説もあるようですが、塗料の色が現在でもはっきりと残っていることなどから、古くてもせいぜい江戸時代後期くらいなのではと、私は見立てるのです。

知人で歴史研究家のG氏によると、どうやら江戸時代に派手な色彩を施した人形状の神像が流行ったと言います。大事な点は神像の製作時期がどうこうではなく、後世の作品であるにせよ、なぜこのような像を作ることになったのか、むしろそちらなのです。

このような細部に拘った像を作る以上、製作者が何か歴史的な記録を元にこれらの像を作り上げたのは容易に想像されます。その記録がどのようなものであったのか、私はそちらの方に強い興味を惹かれるのです。

■こうやの宮と向き合う鷹尾神社

さて、こうやの宮の七支刀の意味を考察するのはもちろん重要なことなのですが、せっかく足を運んでまで調査に来ているのですから、地形や他の神社との位置関係など現地でしか分からない情報を良く見ておかなければなりません。

画像1の地形図で示したように、みやま市は東と南に標高の低い山々が成す丘陵地帯、西には海進期には浅瀬かつ多島海であったと予想される平野部が広がっています。このような地形的条件はまさに、人が集まるのに適していると言え、その意味でここに邪馬台国があったとする説が存在してもそれほどおかしくはないのです。

また、こうやの宮の周囲にどのような神社があるのか、それをいくつか回ってみました。

画像10:こうやの宮周辺の神社
左から時計回りに樋口八幡神社、廣武宮(鉾楯の杜)、太神(おおが)宮、釣殿宮
画像11:こうやの宮と周辺の神社の位置関係

どれも深く調べれば何か出てきそうな神社ばかりなのですが、ここで私が一番気になったのが、天智天皇が立ち寄ったとされる鉾立なのです。天智天皇の名前がこの地に現れるということは、時代的に白村江の戦いの時期と重なり、ここで前回も記事でも指摘した「外国軍(唐・新羅連合軍)による太宰府占領(仮説)」と話が繋がってくるのです。

この他、こうやの宮からほぼ真西に位置する、福岡県柳川市の鷹尾神社は、前節の老松宮と同様に、何故かこうやの宮と正面が互いに向き合うように建てられているのです。

画像12:柳川市の鷹尾神社

古代期は共に多島海に浮かぶ島々の上にあり、海面を挟んで互いを視認できる距離にあったと考えられますが、現在残る社殿は当然古代のものなどではなく、後から建てられたものをどうして向き合わせる必要があったのか、そこに作為のあることを感じさせるのです。ここに前節で指摘したのと同じ呪術性が見て取れるのです。

鷹尾神社が何か呪術目的で建てられた神社であることは、敷地内に置かれた次の摂社を見ればよく分かります。

画像13:鷹尾神社内の子安神社
木の根元にご神体の石が敷かれている

画像13の写真をよく見て頂ければお分かりの通り、この摂社のご神体は横にねそべった大きな石であり、その形状から、それが先月の記事「再び天孫降臨の地へ(2)」でも触れた「支石墓」であることが分かります。

問題なのはこの大石が、八角形の石枠で囲まれていることであり、見る人が見ればこれがかなり強力な呪術、それが封印術であることが分かります。つまり、この支石墓の中に入っている古代人の霊的発動を非常に恐れていることが、この造形から読み取ることができるのです。

■まとめ

ここで、前回及び今回の記事で書いた話を箇条書きにまとめてみましょう。

 ・みやま市の平野部は古代の多島海
 ・市内の田浦が山部赤人が歌に詠んだ場所である(仮説)
 ・古代山城の痕跡である神籠石が存在している(女山神籠石)
 ・広い敷地と立派な楼門の神社と土蜘蛛族伝承(老松宮)
 ・蜘蛛塚及び古墳の不自然な取り崩しと封印術の痕跡(老松宮)
 ・百済を象徴する七支刀を持った神像(こうやの宮)
 ・白村江の戦いと天智天皇の伝承(廣武宮)
 ・朝鮮式ドルメンと封印術の痕跡(鷹尾神社)

ここからざっと読み取れるのは、この地が古代海上交通の要所で、海外の船も出入りし、時に要人が天皇クラスの人物と謁見する為にここを訪れた。とりわけ山城・七支刀・ドルメンなど朝鮮半島との繋がりが深く、西暦600年代の白村江の戦いとも関連している。

更に付け加えるなら、この土地の歴史的事実が表に出ることをひどく嫌う存在があり、現在でも封印系の呪術が行われている点が挙げられるでしょう。

私は、ここが邪馬台国の存在した場所と比定する根拠はまだ薄いと見ていますが、非常に重要な古代都市(みやこ)かその出先機関が、この地、それも東側の丘陵部にあったことは間違いないだろうと見ています。

これより深い情報を得るには、みやま市周辺の八女市・柳川市(福岡県側)、南関町・和水町・玉名市・山鹿市(熊本県側)をよく見る必要がありますが、これらの地を知ることで、今まで隠され続けてきた日本という国の本当の成り立ちが見えてくるのだと確信しています。

また、それを知らない限り、現代日本社会の諸問題・歪みがどこから生じてくるのかを正しく理解することなど到底叶わないことでしょう。


有明の海にみかける百島に君ある国の近しきを知る
管理人 日月土

富士の高嶺と七支刀

今回の記事も10月に行った福岡における調査レポートの続きとなります。

冒頭いきなりですが、次の和歌が今回の調査のテーマとなります。

 田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ
 富士の高嶺に 雪は降りつつ      
                    山部赤人

この和歌については、(真)ブログ記事「ラブライブ、忘れちゃいけない田子の浦」で一度話題に取り上げています。そこで書いた内容を要約すると次の様になります。

この和歌に出てくる「富士の高嶺」が現在私たちが認識している富士山を指しているのか、状況的に疑問な点がいくつかある。どこか別の地で読んだ歌なのではないか?

同記事にも書いていますが、そもそもこの歌が掲載されている万葉集と同時代(700年代)に編纂された日本書紀・古事記の両方に

 富士山の描写は一つもない

のです。

ですから、かなり突拍子もない説だと分かってはいますが、もしかしたら1000年以上前の同時代には、富士山そのものがなかった、あるいは現在の姿とは全く異なるものだったのではないかと論じたのが、過去記事「富士山は突然現れた」だったのです。

この奇説に基づいて冒頭の和歌がどこで詠まれたものなのかを考察した時、ヒントになったのが、次のこれまた有名な和歌だったのです。

 天の原 ふりさけ見れば 春日なる
 三笠の山に 出(い)でし月かも
         安倍仲麿

こちらについては(新)ブログ「三笠の山の月を詠む」で次の様に結論付けています。

この歌は、遣唐使として都(みやこ)のある大宰府から大陸へと向かった詠み人が、海上でふと都の方を振り返り、見慣れた御笠山(宝満山)から月が出ているのを見て、思わず郷愁にかられた心情を詠んだもの。

どういうことかと言うと、通説では奈良の地と考えられている「都(みやこ)」を、現在の太宰府に置き換えると、和歌に出てくる全ての地名、また地理的条件までピッタリと当てはまるのです。

この事実から、当時の都とは奈良ではなく九州、それも北部九州の太宰府にあったのではないかという、いわゆる九州王朝説を支持する証左が得られるのです。

今回は九州王朝説には深入りしませんが、当時(いわゆる奈良時代)の都が「太宰府」にあったとするなら、冒頭の歌の詠人である山部赤人も、太宰府を中心したその周辺地域が行動範囲であったと考えられるのです。

ですから、富士の高嶺は太宰府を中心としたその周辺にあるに違いない、私はそう予測したのです。

■九州の富士を探せ

富士という名前はポピュラーで、日本全国にその名が付けられています。富士山が見える関東地方ならば「富士見」という町名がどこにでもあることはご存知でしょう。

そこで、住所表記に「富士」の名が付けられている場所が何件あるかを調べたところ、北海道から九州までの29県にその名のあることが分かりました。そして、その中から上位10県を抜き出すと次の様になります。

画像1:「富士」が地名の地区件数

上位4県の内、静岡県は富士市があるように富士山のお膝元ですから数字が多いのは分かります。また、群馬県の場合は前橋市に合併した旧富士見村の名前がそのまま小地区名に残っているので、それで数字が増えているのが分かります。

また、北海道は歴史的に地名の付けられたのが新しいので、地名分析の対象とはしません。

そうなると、北部九州の佐賀県がなぜかダントツで富士の地名の多い県と言うことになってしまいます。

これには理由があり、先の群馬県のケースと同じように、佐賀県旧富士町が佐賀市に合併された後も、旧町名を小地区名に採用しているために数字が大きくなっているのです。

この検索結果から、さらに「富士見」や「○○富士」のような眺望や別の山、建物名や都市部の新地名を指しているものを取り除くと、九州地区では次の1件だけが「富士」を指す地名として残るのです

 佐賀県旧富士町(フジチョウ) ※現佐賀市富士町

実は、私は合併前にこの富士町を訪ねたことがあるのですが、その理由は、九州北部なのにも拘わらず、なんでこんなところに「富士神社」があるのかたいへん気になったからです。

画像2:佐賀の富士神社と周囲の風景 (C)Google

しかし、富士神社の由緒を調べると祭神は昭和10年(1935)に「富士権現」と「富士明神」の合祀とあり、村が誕生する前から「富士」の名がこの地にあったことを物語っているのです。おそらく「富士村」の名もこの神社の由緒から付けられたのではないかと想像されるのです。

「権現」(ごんげん)とか「明神」(みょうじん)は神仏習合の神の名で、修験道の名残が強く感じられます。ここから、中世期に富士山信仰の修験道者がこの地で何らしかの信仰を開いたとも考えられるのですが、そうだとしても、本州の富士山からこんなに遠く離れた場所で、富士山のスケール感など全く分からない土地の人々に富士山信仰を説いたとはちょっと考えにくいのです。

それを裏付けるかどうか分かりませんが、「富士」の名を冠する神社は九州では、

 ・長崎県南島原市の富士山神社
 ・福岡県福津市の富士白玉神社
 ・大分県武田氏の小富士神社

と限られています(他にあるかもしれません)。これらの神社と富士神社がどう関連するかはまだ調べが進んでないのでなんとも言えないのですが、同じく富士山信仰を象徴する浅間神社が九州では非常に少ない(なぜか長崎に多い)のを見ると、やはり違和感を覚えるのです。

話がだいぶ込み入ってしまいましたが、私が推測するのは、「富士」あるいは「ふじ」と呼ばれた古くからの呼称が、旧富士町(現在の佐賀市の北部山間地域)周辺にあったのではないかということです。

ラブライブ、忘れちゃいけない田子の浦」でも指摘したように、現在の富士山では雪が降り積もる様子を麓から眺めることなどできません。ですから冒頭の和歌で詠まれた「富士」とは、太宰府に近い九州北部にあった標高の低い山のことで、その富士なる山がどこであるかは、富士神社の所縁を調べることで見えてくるだろう、ひとまずこのように仮説を組み立てておきたいと思います。

■田子の浦とはどこか?

さて、冒頭の和歌に出てくる場所が次のように絞られたところで、次は「田子の浦」の場所特定に入ります。

  ・福岡県太宰府周辺
  ・佐賀県佐賀市旧富士町周辺

和歌本文の「浦」という字、「うちい出てみれば」を見れば分かるように、この地が海辺で船が着けられる内湾であることが見えてきます。

アルプスに残る海地名の謎」でも解説したように、海や船にまつわる古い地名は比較的最近まで残っていることが分かっていますので、ここでも地名検索で、該当の地を割り出してみることにします。

「浦」が付く地名は山ほどありますのが、前節までで、佐賀県南部・福岡県南部・長崎県島原地方・熊本県北部など、有明海北部沿岸付近であろうとエリアがだいぶ絞られてきたので、地名の検索範囲をこのエリアに限定します。

その結果、得られた選択肢は次の様になります。

画像3:該当地域の「浦」を含む地名。赤は有力候補、黄は次候補

次に、歌が詠まれた当時はまだ海進期のなごりで海岸線が内陸まで入り込んでいたと仮定します。その上で、この候補地名をプロットすると下図のようになります。

画像4:富士の高嶺がどの方角に見えるのか

この図によると、熊本の浦田からは山が壁になって佐賀地方の山岳部は見えません。ところが、島原の浦田、あるいはみやま市の田浦からだと、佐賀方面の少し高い山なら船着き場から海の向こうに遥かに眺めることが可能です。

画像5:現地で佐賀方面を眺める
古代期、海岸線がこの辺まで来ていたのだろう
画像6:高台の突端に鎮座する田浦の老松宮
かつて行き来する船の見張り台だったのではないか

そうなると、地名の語感から、「田子の浦」とはこの2つに絞られてくるのですが、私が現地を訪れて得た結論はやはり、みやま市の「田浦」なのです。それは、みやま市の現地調査で得らえたその他の傍証から確信できるのですが、それについては次回述べることにいたしましょう。

ここでは、田浦の南に道を辿ると、過去記事「トンカラリン-熊本調査報告」でお知らせした、熊本県和水町(なごみ)の江田船山古墳群、そして謎多きトンカラリンに至ることを指摘しておきます。

和歌が詠まれたのは古墳時代は既に過ぎている頃ですが、この古墳群が示す古代国家と太宰府の間に、もしかしたら陸海併用の連絡ルートがあったのかもしれない、そして山部赤人は九州王朝の役人として、熊本玉名方面での務めを果たしたその帰り道に、都が近いことを示す「富士の山」を見てこの歌を詠んだのかもしれないのです。

今回、タイトルに居れた七支刀が出てきませんでしたが、それについても次回触れることにします。


日子の宮遥かに望む有明の海
管理人 日月土

再び天孫降臨の地へ

先日、私が天孫降臨の地ではないかと推定する福岡県は糸島市を再び調査に行ってきました。その前は青森県の弘前市ですから、北から南へと私も随分と忙しく移動しているものだと、我ながら呆れてしまいます。

天孫降臨ついては昨年の次の記事で私の考えを述べています。

 ・天孫降臨と九州 
 ・天孫降臨と九州(2) 

また、天孫降臨神話の脇役として重要な位置を占める猿田彦について、実在しただろう天孫降臨出立の地を現在の千葉県東部沿岸地域と推定した上で、幾つか考えを示しています。

 ・天孫降臨とミヲの猿田彦 
 ・椿海とミヲの猿田彦 
 ・麻賀多神社と猿田彦 

ご存知のように、天孫降臨の主役となるのは日本神話における瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)ですが、アニメ映画「もののけ姫」に登場するアシタカがどうやらこの瓊瓊杵尊をモデルに描かれていることを突き止め、最近までアニメストーリーを元ネタに、歴史的事実を考察してきたのは、このブログの読者様ならあえて尋ねるまでもないかと思います。

 ・愛鷹山とアシタカ 
 ・もののけ姫と獣神たち 
 ・犬神モロと下照姫 
 ・下照姫を巡る史書の暗号 
 ・モロともののけ姫の考察 
 ・サンがもののけ姫である理由 
 ・もののけ姫 - アマテルカミへの呪い 
  (以上掲載順)

アニメの構造分析対象は「もののけ姫」から「千と千尋の神隠し」へと移り、ここでは、偶然なのか、あるいは関連があるのか、天孫降臨の出立推定地である千葉県東部地方が再びクローズアップされます。

 ・千と千尋の隠された神 
 ・千と千尋の隠された神(2) 
 ・千と千尋の隠された神(3) 
  (以上掲載順)

このように、天から神が降りて来て現在の天皇家の祖先となったとする天孫降臨神話は、日本書紀や古事記の記述がファンタジーから現実的な史実へと切り替わる重要なターニングポイントであり、日本の成り立ち、日本の国史を考える上でも極めて重要な一節であることが窺えます。

そのような重要史実であるからこそ、国民的アニメ映画の題材に使われたと考えられ、同時にこの史実を解明することで、神話化・ファンタジー化されてしまった、私が上代と呼ぶ、太古の日本社会がどのようなものであったのかが見えてくると期待されるのです。

天孫降臨のあった時代は、現代の歴史学的には弥生時代に入ったところ(紀元前百年前後)と推定されますが、前回の記事でも書いたように、縄文式の生活スタイルは関東・東北地方などには長く残ったとも考えられ、この時代は弥生式・縄文式の両文化が並立していたのではないかと私は見ています。また、そのような異文化同士が交流し統合し合う時代だからこそ、天孫降臨なる一種の冒険譚のような物語が作られ、同時に消えていった側の文化が神話という、架空の物語に置き換えられてしまったのではないかとも思えるのです。

さて、昨年の記事では地図上の分析が中心で、糸島という土地の雰囲気が伝わりにくかったかと思います。歴史スポット、また観光名所としても糸島の見所は幾つもあるのですが、ここではまず、私もたいへん気に入っている糸島の櫻井神社とその周辺についてレポートしたいと思います。

■九州の伊勢

画像1:夫婦岩

九州北部にお住いの方ならば、この写真を見てすぐにどこか分かるかと思います。しかし、他地域の方はもしかしたら、こちら(画像2)の方を連想してしまったのではないでしょうか?

画像2:夫婦岩

画像1は糸島市志摩桜井にある二見ヶ浦、そして画像2は伊勢市二見町にある全国にも知られた二見ヶ浦の夫婦岩なのです。

同じような形状の夫婦岩なら日本全国どこにでもありそうですが、「二見ヶ浦」という地名も同じですし、「志摩」という地名も、伊勢志摩で一括りされることの多い、三重県伊勢地方の地名に呼び名がそっくりです。また「桜井」という地名も、どことなく三重県の隣、奈良県の桜井市を想像してしまいますよね。

私も初めてここを訪ねた時、「何だここは、伊勢のコピーか?」と思ったものです。しかし、時に地名というものは深い意味付けをされている場合もありますから、糸島と伊勢に何か同じような意味が込められていたとするなら、それを象徴する地名が似たり同じになったりするのはそれほどおかしなことではありません。全国の県庁所在地、多くは旧藩政の城下町だった都市に、赤坂や千代田があるのと同じだと考えられるのです。

伊勢の二見ヶ浦の場合は、第11代垂仁天皇の皇女、倭姫(ヤマトヒメ)が景色の美しさに二度振り返ったとの伝承がありますが、果たしてそれが地名の本当の由来なのか定かではありません。おそらく、神事に絡む別の深い意味があったのではないかと想像されます。

さて、糸島の二見ヶ浦の場合は、砂浜に大きな石が意図的に置かれている、あるいはそこだけ岩場が残されているのが、次の画像3から見て取れます。

画像3:夫婦岩の周辺だけ岩場になっている

この岩場は一体何なのでしょうか。そこで、岩場から夫婦岩を眺めた画像1の写真から、両岩間にある空間を拡大してみました。

画像4:手前の大石の向こうに小呂島が見える

夫婦岩を覗くとその向こうに小呂島(おろじま)が見え、それが見える丁度その位置に大石が置かれているのが次の画像5でお分かりになると思います。つまりこの大石と小呂島を一直線に繋ぐと、うまく夫婦岩の間を通るように配置されているのです。

画像5:手前の大石の向こうに小呂島が見える

白い鳥居が最近になって建てられたのは明白で、二見ヶ浦で重要なのはむしろ小呂島を強く意識したこの大石なのでしょう。なぜ小呂島なのかと言えば、次の地図を見ればその意図が見えてきます。

小呂島は海上移動の中継地点

画像6を見ればお分かりになるように、小呂島は小さな島ですが、壱峻島、唐津、福津などからほぼ等距離の位置にあり、海上交通の要衝として極めて重要な位置にあることが分かります。古代、海上での移動が危険だった頃、こうした中継地点の存在は欠かせなかったはずです。

特に福岡は朝鮮半島や大陸との窓口でしたから、ここを行き交う船は小呂島を経て壹岐、対馬、朝鮮半島、あるいはその逆を進んでいたと考えられます。その大切な小呂島を見守り航海の安全を祈願するのが、もしかしたらこの二見ヶ浦に持たされた役割だったのではないでしょうか?

これは蛇足かもしれませんが、画像6の地図に能古島(のこのしま)の位置を入れておきましたが、小呂島と能古島の両島名を合わせると

  おろ+ノコ → おノコろ

となるのが分かります。おのころ島とは、日本の国生み神話で、イザナギとイザナミの二神が最初に作ったとされている島のことです。二見ヶ浦の夫婦岩にはそのイザナギ・イザナミ神が祀られています。そして能古島には、イザナギ石・イザナミ石というちょっと風変わりな石積みが残されており、こうなると島名の関連性を単なる言葉遊びで片付けてよいのか気になるところであります。この話は長くなりそうなので、別の機会に考察することにしましょう。

■伊勢神宮を思わせる櫻井神社

福岡のパワースポットとして、福岡県人には良く知られた櫻井神社。この神社は二見ヶ浦のすぐ裏手の小山の上に鎮座しています。この神社の入り口から鳥居の奥を見ると次の写真のようになっています。

画像7:櫻井神社の入り口正面

鳥居を抜けたすぐ先には石造りの太鼓橋が掛かっており、画像7ではその先が橋に隠れて見えません。それでは橋を越えて真っすぐ石畳の参道を進めばそこが櫻井神社なのかというと、実はそうではないのです。参道の行き着く先、その末端にあるのは、

 猿田彦神社

なのです。

画像8:猿田彦神社。参道はここに向かっている
裏手も古墳か?

そもそも櫻井神社は江戸時代初期の1632年、二代目福岡藩主の黒田忠之(くろだただゆき)によって造営されたとその由来に書かれています。造営のきっかけとなったのは、天災によって土が流され、古墳の石室が現れことに始まります。それを藩主の黒田氏が社殿を建て丁重に祀ったことで現在に至っています。

その辺の詳しい云われは猫間障子さんのブログに詳しいので、そちらにお任せしますが、旧号で與止姫大明神(よどひめだいみょうじん)と呼ばれた櫻井神社の歴史は、比較的新しいと言えるでしょう。もちろん信仰の元となった古墳そのものは当然古墳時代のものであるでしょうけども。

よって正面入り口と参道、社殿の位置関係から、櫻井神社の本来の信仰対象はこの猿田彦神社でなかったのかと推測されるのですが、そのような事実は同社のホームページを見ても書かれていません。ここで櫻井神社の社殿の配置を図に表すと画像9のようになります。

画像9:櫻井宮と大神宮は参道の両脇にある

この、2つの宮の中央部分に猿田彦神社を配置する造作は、実は三重県の伊勢神宮でも見られるものです。しかし、伊勢と言えばやはり伊勢神宮の内宮と外宮がメインであり、猿田彦の子孫と言われる宇治土公(うじとのこう)氏が宮司を務める猿田彦神社についてあまり意識されることはありません。

画像10:伊勢神宮の場合も猿田彦神社が間にある

いつものことですが、私はこのように敢えて言葉で触れられていない事実を見ると、そこに物事の真意が隠されているのではないかと考えます。特に日本の歴史には隠し事が多いので、文字に残さずとも構造物を通して真実を残すやり方は大いにあり得ると考えます。

それはともかく、夫婦岩と言い、地名と言い、社殿の配置と言いとにかくこの社の作りは伊勢とそっくりなのですが、それもそのはずで、櫻井神社を造営する時にわざわざ宮大工を伊勢から招聘したというのですから、様々な部分で両者が似てくるのはさもありなんといったところでしょう。

実際に、境内の鳥居の一部は最近になって移築されたもののようです。また、一目見れば桜井大神宮は伊勢神宮の作りにそっくりですし、1800年代の後半まで20年に一度の式年遷宮まで行われていたそうです。現地には、かつて遷宮が行われていただろう、礎石を残した開けた場所が残されています。

画像11:どこか伊勢神宮ぽい櫻井大神宮

■謎の祭神、與止姫命

私も猫間障子さんのブログを読んで初めて知ったのですが、元の社号でもあり、由来にも祀られていると書かれている「與止姫大明神」こと與止姫命は、実はこの神社の創建以来一度として正式な祭神として祀られたことが無いようなのです。それって一体どういうことなのでしょう?

画像12:左上から櫻井神社の楼門・拝殿・岩戸宮

櫻井神社の造りはとにかく立派であり、さすが長く福岡藩主の厚い庇護を受けてきたものであると納得するものです。古びて派手さが薄れてきているのが、むしろ良い味を出しているとも言えます。

この神社の一番の見所は、年に一度お正月の頃に開かれる同社の奥宮に当たる岩戸宮でしょう。私もかつて友人に誘われ、開かれた岩戸宮の石室に入り中でお参りしたことがあります。それはもう厳かで、日本古来の信仰のあり方を肌身で感じることのできた良い体験でした。

そうなると、この石室の埋葬者、おそらく與止姫命のことではないかと思われるのですが、その人物がどのような方であったのか気になります。ところが、その肝腎の信仰主体が祭神にも祀られず、その正体も不明と言うのですから、何とも不可解な話です。

與止姫命の名は、猫間障子さんのブログにもあるように、実は佐賀県内の神社で多く見られます。おそらく、糸島から背振の山々を経て佐賀に至る地域に良く知られた古代人女性であったのだとは類推できるのですが、記紀にも登場せず、その他の伝承にも乏しいため、どのような人物だったのか特定するのは難しいようです。

Wikiによると、與止姫命と呼ばれる歴史上の人物(神様)の候補に、「神功皇后の妹」あるいは「豊玉姫」の二説があるようですが、それも定かではありません。

この謎の人物である與止姫命の正体については、次のメルマガで私の考察を述べさせて頂こうと考えています。私は、神社の名に冠せられているのに「祭神として祀られていない」という事実そのものが、この人物を特定する上で重要な鍵であると考えます。


 * * *

天孫降臨について少しは触れるつもりでしたが、今回は二見ヶ浦、櫻井神社という糸島の限られた一地域のご案内で終わってしまいました。しかし、ここを俯瞰するだけでも、この地に秘められた歴史の奥深さがお分かりになられたのではないでしょうか。

次回は、糸島に眠る王墓について見ていきたいと思います。ここにきていよいよアシタカ(瓊瓊杵尊のこと)の名前が登場してきます。


とこしえに思ふ椿麗し姫の園
管理人 日月土

近江と美濃の彦坐王

今回の記事は、前回「秀真伝の土地を訪ねる」に引き続き琵琶湖周辺地域の調査報告となります。

前回のテーマは琵琶湖の西岸にある高島市でしたが、今回はその対岸にある東岸の長浜市が主な調査対象となります。

画像1:長浜市の位置(☆印は佐波加刀神社)

とは言え、一口に長浜と言ってもその範囲は広く、帰路も含めた1日足らずの限られた日程でくまなく調査するのはとても無理でした。そこで、ここで調べるテーマについてはピンポイントで次の歴史上の人物に絞りました。それは

 彦坐王(ひこいますのきみ)

です。

画像2:彦坐王の系図(日本書紀と古事記)
秀真伝も異なる部分はあるが大体似たようなもの

上古代の歴史を知る上で天皇系図が大事なのはもちろんですが、近い係累についての血脈についても侮れません。

この彦坐王、日本書紀ではその子についての記述はほとんど見られないのですが、古事記では、上図には書ききれないくらいの子沢山であることが記されています。

そこから続く孫、ひ孫の中には、後の神功皇后(14代仲哀天皇妃)、11代垂仁天皇のお后で12代景行天皇の母となる皇女が誕生しています。また、地方統治を務める各地の国造(くにつくり)の祖となる氏を輩出しており、この後の日本上古代史を考察する上で欠かせない存在となっています。

特に注目するべきは、丹波道主命の孫が後の日本武尊(ヤマトタケ)の妃を輩出し、神大根王の娘が日本武尊の兄の大碓命(おおうすのみこと)の妃に入ったと言う点です。大碓命は妃の里である現在の美濃地方に隠れたと伝えられています。

日本武尊が歴史に現れた時代は、天孫降臨の時以上に時代が大きく動いたと私は見ています。その意味で、彦坐王の足跡を訪ねておくことは、今後の考察のために重要であると捉えました。

■ヒコについて考える

前回の記事で、「旭」という地名が気になるという話題を出しましたが、高島市には日子主王(ひこうしのきみ)の古墳があり、長浜市には彦坐王を祭神とした佐波加刀(さわかと)神社があります(図1を参照)。

そこで気になったのが以下の3市の共通点です。

  高島市 新旭町 日子主王(人名)
  長浜市 新旭町 彦坐王(人名)
  彦根市 旭町  彦根(地名)

「旭」は日本ではポピュラーな地名ですし、「彦」は男性名として普通に用いられる文字です。これだけでは断定的なことは言えませんが、次の様に文字の成り立ちを考察すると何か必然性があるようには見えないでしょうか?

  旭=日(ひ)+九(こ)

そもそも、「ヒコ」の語源は「日の子」であると考えられ、太陽のような全てを照らす輝きを備えた子であると考えられます。つまり、「旭(ヒコ)」は日いづる所の御子と言う意味であり、これは本来、日本の皇統を位を継ぐ者、あるいはその血を受け継ぐ者と言う意味で名前に使われていたはずです。

実際に、日子主王も彦坐王も天皇家と縁が深く、その血縁者が天皇の妃に入ったり、天皇の地位を継いだりしています(26代継体天皇)。

また、第9代開化天皇と第10代崇神天皇の和風諡号は、それぞれ

 わかやまとねこヒコおおひひのすめらみこと
 みまきいりヒコいにえのすめらみこと

と読み、その名前の中に「日子」であることが示されています。

日の御子である「ヒコ」が高貴な血筋の男性名であることはもはや異論はないかと思いますが、そうなると、現在の日本神話にあるような、天照大神が女神であるという概念は極めておかしな話であり、太陽に対する本来の日本的考えでないことがここからも分かります。

天照大神を女神とする現在の神道は、今に生きる我々の目から見れば伝統的な信仰のように見えますが、はるか昔の日本の伝統と比較すれば、実は根本思想が逆転しており、これはすなわち、天照大神に関する記述が後世意図的に書き換えられていることを意味しているのではないでしょうか。

その点からも、女神天照大神を男性王アマテルカミと記述する秀真伝に真実味を私は覚えるのです。

■神社から御陵へ

彦坐王を祭神として祀る神社は全国でもあまり多くないようです。その一つが長浜にあるというのですから、これを機会にその神社を訪れました。

図3:長浜市の佐波加刀神社

町の中心を流れる高時川、川岸から町中を少し山に向かって歩くと、落ち着いた佇まいの佐波加刀神社の鳥居が現れます。

図4:佐波加刀神社の拝殿

そこからまた少し参道を登ると、山の木々に囲まれた拝殿が見えます。派手さはなく農村部の神社ではよく見られるお馴染みの光景です。

この時は特にこれといった発見をすることはできませんでしたが、しばらくここに滞在して、谷の方から聞こえてくる川のせせらぎを聴きながら、遠い日本の古代に思いを寄せてみたのです。

長浜市には他にも見ておきたい歴史ポイントが幾つもあるのですが、前述した通り、今回は彦坐王にフォーカスするということから、このまま長浜を離れ、伊吹山の麓を回り、関ヶ原を経由して岐阜市内へと向かったのです。

実は岐阜市内の長良川沿い、清水山という小山の麓に彦坐王の御陵があるというので、そちらへ行くことにしたのです。

御陵の脇には伊波乃西神社という立派な神社があり、そこでは彦坐王とその子である八瓜入日子命(神大根王)が祀られていました。

画像5:伊波乃西神社

御陵は神社の左手、少し登った山の中にあり、推定とは言え、上古代の比較的古い御陵を観ることができたのは貴重な体験であり、また、今後中京方面における調査を広げる上で非常に重要なポイントを確保できたと考えています。

画像6:彦坐王御陵

■アニメと彦坐王

さて、私は滋賀東部の湖畔沿いから岐阜まで、主に国道21号線を使って移動をしたのですが、読者の皆様はこの国道21号に何か見覚えはないでしょうか?

画像7:あのアニメシーンから

国道21号線は滋賀県の米原から関ヶ原を抜けて岐阜に入り、途中各務原を通って美濃の可児市まで向かうルートです。清水山は各務原に差し掛かったところで北に少し移動したところにあります。

別の言い方をすれば、国道21号線は近江と美濃を繋ぐルートとも言えます。その美濃の国造の祖となった彦坐王の名が共に21号線のほぼ両側、近江と美濃に現れ、しかもあの人気アニメ映画にもそれとなく登場していたというのは、単なる偶然と切り捨てるのは何か違う気がします。あのアニメとはそう、あの古代史てんこ盛り作品

 千と千尋の神隠し

なのです。

実はこの彦坐王御陵のある清水山は、1990年代の別のアニメでも遠回しに表現されており、何としても国民をここに注目させなければいけない大きな意図が感じられるのです。それについては、明日配信のメルマガの方でお知らせしたいと思います。


Blue Water、ただ青い水の色を知る
管理人 日月土

秀真伝の土地を訪ねる

5月の終わり頃、滋賀県の琵琶湖周辺を調査に行きました。一口に琵琶湖周辺と言っても琵琶湖は広いので、今回は西岸の高島市、そしてその東側の対岸に当たる長浜市を中心に巡ってきました。

画像1:高島市と長浜市の位置関係

高島市と言えば、私も古代史分析で大いに参考にしている秀真伝(ほつまつたえ)の和仁估安聡本(やすとし本)が残されていた土地です(発見は1992年)。同書には、この史書の編纂が日本書紀などにも登場する大田田根子(オオ・タタネコと読むのが正しい)によって為されたとあります。

加えて、秀真伝研究家の池田満氏は、かつて猿田彦がミオの地に宮を置いたとされるその場所こそが、現在の高島市にある水尾(みお)神社の周辺ではないかと推測を述べています。この地名にちなんでか、猿田彦は同書の中で別称「ミオノカミ」とも呼ばれています。

画像2:水尾神社(写真はWikiより)
時間の都合で現地には寄れず、通りすがりに車道から
眺めただけとなってしまいました。残念。

神武天皇以前の古代史を記紀が伝えるような創作的ファンタジー神話ではなく、古代期の人間の歴史として記述している秀真伝。そして、日本神話の中でも謎多き異形の神とされ、また全国の多くの神社で道案内の神として有名な猿田彦。この猿田彦がどんな人物だったのか、これら2つの気になる要素を併せ持つ琵琶湖西岸の高島を、遅まきながらこの目で確かめる必要があると思い、同地へと向かったのです。

■猿田彦を象徴する白鬚神社

南の大津から自動車で高島市へと近づくと、西側の山が琵琶湖の方に張り出し、山と湖水に挟まれた狭い土地がしばらく続きます。まるで高島へ入るための天然の関所のような所なのですが、そんな狭い土地の湖畔に鎮座するのが、近江地方最古の大社と称される白鬚神社です。

ここの白鬚神社の主祭神は猿田彦命です。一般的に白鬚神社と言えば猿田彦命を祀っていると考えられ、実際にこの神社から全国300社以上の白鬚神社に分祀されているようです。しかし、土地によってそうでもないことは、(元)情報本部自衛官さんがブログ記事「白髭神社全部行く!!!」で静岡県内を詳しく調査されていますので、そちらをご覧ください。

この神社に到着したのは既に暗くなり始めた頃で、細かい所まで十分見て回れたとは言えませんが、久しぶりに近畿圏の古社を訪れて、この地方独特の雰囲気を味わうことができたと思います。何より、社前に広がる琵琶湖の景色と、湖面に浮かぶ鳥居(*)の景観がたいへん印象的です。

*鳥居:(真)ブログの「今日も鳥居で神封じ?」で書きましたが、鳥居は基本的に神封じを意味した呪形なので、私は神気というよりは邪気を強く感じます。もちろん日本古来のものでもありません。個人的にはこちらの鳥居を含め、全ての鳥居は撤去されるべきだと考えます。門前は開かれた二本(日本)柱で良いのです。

画像3:白鬚神社前の湖上の鳥居

近所には有名な「白ひげ蕎麦」もあり、昼間に再度来てそこに入りましたが、たいへん美味しかったです。この神社に関する歴史的な検証はまだまだこれからですが、純粋に参拝を兼ねた食事と観光を楽しむ場所としては、私もお勧めできる場所です。

画像4:白ひげ蕎麦店内

■地名で考察する滋賀と千葉

高島市の市域はたいへん広いのですが、それもそのはずで、2005年に旧高島郡の以下の町村が合併して誕生した比較的新しい地方自治体なのです。

 マキノ町、今津町、新旭町、安曇川町、高島町、朽木町

市町村合併が行われ旧地名が失われていく中、ここ高島市では「今津町天増川」や「朽木麻生」のように旧町村名が地区名として残っているので、地名の来歴が追いやすく調査をする側としてはたいへん助かります。

ここで私が注目するのは次の2つの地名です。

 「安曇川(あどがわ)」と「新旭(しんあさひ)」

「安曇」は「あずみ」とも読むように、この地名からここが古代期に出雲系の安曇族が入植した場所であることが窺われるのです。出雲系と言えば、ここ最近は映画「もののけ姫」の構造分析を開始して以来、半年近く経過してしまいましたが、またしてもこ出雲の痕跡に出くわすこととなったのです。

「安曇」という字が使われている地名の全国分布を調べると、市町村名では長野県の安曇野市にその名が残っていますが、地区名で使用しているのは、長野県の松本市、鳥取県の米子市、そして滋賀県の高島市の3市にしか見られません。

次に「旭」という字の付く地名ですが、「あさひ」という言葉が日本人にとってなじみ深いせいか、この字を使った市町村名は北海道の旭川市など全国に5か所、地区名での使用に至っては全国47県中46県にこの字を冠した地名が見られるのです(2016年現在)。

このようなポピュラーな地名になぜ注目したかは、過去記事「椿海とミヲの猿田彦」をご覧になるとお分かりになると思います。タイトルの「椿海(つばきのうみ)」とは現在の千葉県旭市(あさひし)に該当します。そして、その土地での主役が前述した猿田彦であることにぜひご留意ください。

遠く離れ、互いに関係なさそうな琵琶湖西岸と本州の東の突端部にある二つの地域が、「ミオ(あるいはオミ)」、「旭」、「猿田彦」と3つのキーワードで繋がってくるのです。しかも、二つの地域は1985年の123便事件にも関係している可能性が疑われており、古代史実と同事件との関連性を追っている私の立場としては、やはり両者は外せないのです。

■イザナギ・イザナミの都が琵琶湖畔にあった?

事前に高島市にある史跡、主に神社と古墳を調べていたところ、少し気になることが分かりました。当然ながらいかにも古く由緒正しそうな神社は多いのですが、それにも増して「日吉」、「日枝」などの比叡山系の神社もまた多いのです。

画像5:高島史跡マップ

高島市は京都市街の北東部に位置している、つまり比叡山にもごく近いので、その系列の神社が多くても特に不思議はありませんが、何かひっかかります。Wikiの高島市について記述したページを見ると次の様に書かれています。

平安時代9世紀頃の高島郡は、『和名類聚抄』によると、木津・鞆結・善積・河上・角野・三尾など10郷の存在の記載がある。このうち木津荘(旧饗庭村)は、保延4年(1138年)山門領に加えられ、富永荘(伊香郡)、栗見荘(神崎郡)とともに、「三箇庄聖供領(千僧供領)」と言われ延暦寺の重要な経済基盤を担った。

引用:Wikiペディア

この様に比叡山延暦寺の寺領的な位置づけであることから、関連寺社が出張ってくるのはある意味当然なのでしょう。この地はまた、延暦寺創建前に壬申の乱(672)の戦場となったり、創建直後には藤原仲麻呂の乱(744)で藤原仲麻呂が斬り殺された場所でもあり、平安期前後はかなり重要な場所であったことは間違いなさそうです。

そして、こちらの日吉神社に関連して、秀真伝研究家の池田満氏は著書「ホツマ辞典」の中で次の様に述べています。

(ツボとは)政り事の中心となる、ツボ或いはカナメに相当するところのミヤコ(都)のことを言う。

(中略)

ヲシテ時代の書紀から初期から中期頃にかけて使われたため、ツホ(ツボ)の尊称のある地は極くわずかに限られる。

北の方から掲げると、ケタツホ・ハラミハツボ・オキツボの三箇所だけであるケタツホはヒタカミの中心の多賀城付近、ハラミハツボは富士山南麓、オキツボは琵琶湖南西岸の日吉大社)の所であろう

これはあくまでも池田満氏の推察ではありますが、琵琶湖西岸地域が神話時代から古代政治にとって重要な場所であったことは、現地を訪れた実感として肯定せざるを得ません。ちなみに、日吉大社は高島市の南に隣接した滋賀県大津市、延暦寺の東の麓に鎮座します。この位置関係からも、神話時代から数百年の時代を経て、この地域が比叡山の影響下に入ったことは明らかです。

■もう一つのミオ神社

さて、高島でミオと聞けば水尾神社を指すと一般的に思われていますが、それに近い名前の神社が市内に他にも存在します。それは三重生神社(みおう)神社です。ここでは毎年春に行われる「うしの祭」が関西方面ではよく知られているようです。

赤い天狗面を被り正装した社人が、参道脇の決まった土地で同じ方向に向けて三度飛びあがるという変わったお祭りです。この祭が何を意図して行われているのかを現地で分析しましたが、その結果についてはメルマガでのみお知らせいたします。お祭りに興味を持たれている方には少々残念なお話となるので。

画像6:三重生神社
画像7:飛びあがり神事の場所とその開催風景(ネットから)
民家と田んぼに囲まれた狭い土地。何でこんなところで?

この神社の祭神は、応神天皇の五世孫の彦主人王(ひこうしのおう)と、その妃である垂仁天皇の七世孫の振媛です。実は、この三重生神社からほど近い丘陵の上に田中古墳群というのがあり、その中の大きな円墳である田中王塚古墳の推定被埋葬者がその彦主人王なのです。

その丘陵への登り口付近には三尾神社旧跡が残っており、現在の水尾神社がここから移設されたものであることが分かります。

画像8:三尾神社旧跡
  秀真伝についても説明がある
画像8-2:同所の説明書き

どうやら、この辺り(高島市安曇川町常磐木周辺)が古代期におけるこの地の中心地のようなのですが、ここに現れている名称などからはすぐに猿田彦とは連動しません。また、旧地名が安曇川であることから、出雲族との関係も窺われるのですが、やはりはっきりとは分からないのです。

■田中神社と彦主人王御陵

丘陵の道路を田中古墳群の案内板が見える高さまで登ると、そこから一段下がった所に「田中神社」が現れます。この神社は高島市の南半分を見渡せる非常に眺望の良い所に立地しています。作りも荘厳で、ここが地元に大切にされてきた神社であることを窺わせます。

画像9:田中神社

こちらの祭神は、建速素盞嗚尊(たけはやすさのおのみこと)、奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)、八柱御子神(やばしらのみこのかみ)とあり、この神名から、ここがまさに出雲系一族の開いた土地であることを猛烈にアピールしているようです。

ちなみに、八柱御子神とはいわゆる八王子のことであり、日吉山王権現、もしくは牛頭天皇と呼ばれた神の八人の皇子を指したものと言われています。また、日本神話における「天照大神と素戔嗚尊の誓約」の時に出現した五男三女神を指すとも言われていますが、神仏習合時代に相当話が作り込まれ、何が元の話なのかよく分からなくなっています。少なくとも、古代期以降に日吉もとい比叡山の教義的影響を大きく受けた現われと言えるでしょう。

さて、この田中神社の裏手の方に鎮座しているのが、彦主人王が埋葬されているといわれている田中王塚古墳です。

画像10:田中王塚古墳

田中神社の祭神名と地名との関係から、応神天皇の五世代末裔と言われれている彦主人王とは、どうやら出雲系の血が色濃く入った王であったと解釈せざるを得ません。

この点について、私の歴史調査アドバイザーであるG氏は次の様に説明します。

彦主人王はおそらく大伴氏の一族であったはずです。それを示す一例として、彦主人王の三男は後に第16代継体天皇に抜擢されるのですが、継体天皇の和風諡号は「おほどのすめらみこと」、いきなり「おほ(現代読みでオオ)」ですよね、これは大伴の血が入っていることを意味しています。彦主人王の頃に、九州からこの地に入ってきたと考えられます。

そういえば、今回行けなかったのですが、高島には大田神社という神社があり、その社伝には次の様に書かれているとか

延暦年間(8世紀後半)、大伴大田宿禰の後裔である大伴福美麿河行紀が、当地にきたりて開拓し、祖先の名を地名となし、弘仁元年(810)祖神・天押日命を祀ったのが創祀

高島が秀真伝発見の地であり、その編纂者が大(おほ)田田根子であり、出雲系の大(おほ)物主とまた縁が深い、これらのことを考慮すると、ここで次の図のような関係が見えてきます。

画像11:高島出雲関係図

それはそれとして、ここには猿田彦が見えてこないのですが、もしかしたら、長い時間を経る中で猿田彦の一族と出雲の一族が融け合い、その痕跡が表面上見えにくくなったのではないか?それについてG氏に改めて訪ねたところ、

その通りだと思いますよ。農耕や製鉄など、日本の古代社会を発展させた基本技術は猿田彦の一族によって出雲族にもたらされたと見るべきです。その過程の中で両者が融合していったと考えるのが自然なんです。

これで、安曇川(出雲系)、新旭(猿田彦系)の二つの地名、そして田中王塚古墳(出雲系)、白鬚神社(猿田彦系)の二つの主要史跡が高島に併存している理由が見えてきました。

あくまでも仮説ではありますが、時系列的には、猿田彦系の一族が高島に入ったその数百年後に、出雲系大伴氏族の彦主人王がここに入って土地を発展させたと捉えるべきでしょう。もちろんそれまでに両者間で深い交流の歴史があったのでしょう。


  * * *

高島市のレポートについてはこれで終了です。ここで書けなかった重要な話題はメルマガでお知らせします。なぜここで書けないかと言うと、幻想の歴史を元ネタに飯を食べているいる人たちがこの日本には非常に多いと言う理由を挙げておきます。

実際に、この調査中に不審車両による監視行動を受けたという事実を、その根拠として最後にお伝えします。次回は長浜と岐阜について報告したいと思います。


近江なるうしの祭りのこととへば 五月の空に龍の出でまし
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