少女神の系譜と日本の王

今回の記事を書き進める前に、最近、知人に勧められて読んだ歴史読本を紹介したいと思います。

歴史、特に古代史に関しては多くの研究者が様々な説を面白おかしく持ち出すので(私も他人のことは言えませんが)、この手の読み物は基本的に避けていました。しかし、この書籍だけは、知人の勧めだけでなく、歴史研究のアドバイザーであるG氏からのお墨付きもあったので、どんなことが書かれているかちらっと読んでみたところ、私がこれまでブログに書いてきたこととあまりに符号する点が多く、ちょっと驚いてしまいました。

本のタイトルは「少女神 ヤタガラスの娘」、作者は「みシまる 湟耳」さんで今年の1月に幻冬舎から出版されたものです。

タイトルに「ヤタガラス」と付いていることから、どうしても陰謀論系の匂いを想像してしまうのですが、実際に読んでみると、文献類の精読と緻密な考察によって組み立てられた、非常に重厚な内容であることが分かります。

それほどページ数がある本ではないのですが、さらっと読めるような代物ではないので、私も読了まで少し時間がかかってしまいました。

画像1:少女神 ヤタガラスの娘

■少女神とジブリの暗号

さて、これまでの(神)ブログ記事とこの本に書かれた主張のどの辺が重なってくるのか、実際に同書を読んで頂かないと詳しく説明するのは難しいのですが、それでも、同書のエッセンスは冒頭の導入部分に述べられているので、ここでは同部分からの引用を掲載したいと思います。

 三人。少なくともヒミコと目される姫の名前が挙げられている。

 中でもふたりの少女に、出雲と大和の王が婿入りをしており、その少女たちは共通の名を持っている。

 出雲、大和といえば、日本人なら誰もが知る現代にも逓なる古代王朝だが、この出雲「最期」の王も、大和「最初」の王も、実は同じ氏族の少女へ婿入りしている事実は意外なほど知られていない。いや意図的に隠され、目を逸らされている、と言うべきか。

「出雲最期の王」イナバの白兎で知られる大国主の子とされるコトシロヌシは、神津島や紀伊の神社では少女の方の氏姓を名乗り「☆☆☆明神」として祀られている。

 なぜ、出雲の有名な国主が、わざわざ少女の氏族の名籍の方を名乗りたかったのか?

 「大和最初の王」神武死後には、皇位継承のため、その少女を奪い合った記録が残されるほどだ。このことは当時神武の子というだけでは権威としては弱く、少女の氏族の籍を伴わなければ「王」として認知される説得力がなかった事実を示している。

 カリスマは出雲の王にでも大和の帝にでもなく、「神の御子」と記される少女神の方にこそあった。

 この出雲にも、大和にも、双方にモテモテだった少女神とはいったい何者か?

 コトシロヌシが「主」から「神」へ神格を上げられた方法が『日本書紀』に記されている。すなわちワニに化身し、「神の御子」と記される「八咫烏」の娘=活玉依姫へ近づき婿に成ったと。大和初帝神武も「神の娘」がいると知り、自ら少女神の元へ赴き婿と成ったと記されている。

 この少女神は、出雲王や大和帝より遥か以前から「神の御子」として崇められていた。

みシまる湟耳著「少女神 ヤタガラスの娘」(2022)幻冬舎より

これを読んでいただければお分かりになるように、古代皇統の権威は特定家系である「☆☆☆」家の少女の元へ入婿することによって引き継がれてきたのだと述べているのです。

神様の子孫などというファンタジーは別として、一般的に天皇家は男系相続と信じられていますから、この主張は多くの方々にとっては驚くどころか、噴飯物であると感じられるかもしれません。

しかし、私が驚いたのは、この主張こそが前々回の記事「男神猿田彦の誕生」で伝えたかったことである点なのです。つまり、現在私たちが目にする日本神話とは、権威の継承について

 後世になって女系から男系に書き換えられたもの

ではなかったのかということなのです。

古代社会の在り方を同じように考えている方がいらっしゃるのを知り、私も非常に嬉しいのですが、私が漠然と「古代王家の継承とは本当は女系なのではないか?」と漠然と考えていたところに、「☆☆☆」家と具体的な氏(うじ)まで特定されたみシまる氏の分析力には脱帽するしかありません。

※「☆☆☆」が何を指すのかはぜひ同書を読んでお確かめください。

これまで、本ブログではシブリ作品の「もののけ姫」、そして「千と千尋の神隠し」が日本神話を元ネタに作られ、それも裏の裏まで知り尽くしている古代史の専門家によって考証されているだろうと予想していました。

ここで、今回のみシまる氏の指摘を踏まえ、改めて同ジブリ作品に登場するキャラクターと史書に登場する歴史上の人物の対応関係を下図にまとめてみました。

画像2:ジブリの女性キャラと史書に登場する女性たちの対応

作品を良く見れば、この二作品の物語を主導するのは「もののけ姫」のサンであり、「千と千尋の神隠し」の千尋という二人の少女です。そして周辺の主要キャラも女性ばかり、つまり女性こそが両作品の主役であることが分かります。

※ハクとカオナシはチヂヒメの双子の片割れを指すと考えられます。詳しくは過去の記事をお読みください。

この対応関係を見れば分かるように、本来主役として立てるべきなのは、これらの女神の相方となった皇祖であるニニギノミコト(アシタカ)であったり、作品に登場すらしないサルタヒコ・オシホミミ・神武天皇など、神話の主たる男神たちなのです。

天皇家の始祖とされる男神がここまでないがしろにされる描写、これはすなわち、古代社会においては、みシまる氏が主張するように特定の女系家系こそが真の権威を有する一族であったことを意味するのかもしれません。

■母系を追う

さて、ここで母系による血統こそが重要だとすれば、アニメに登場した媛神たちの、父ではなくその母が誰であったのかが問題になります。ここで秀真伝の系図を租を辿ってみると次の様になります。

 サルメノキミ     → 不明(父:不明)
 タクハタチヂヒメ   → 不明(父:タカギ)
 コノハナサクヤヒメ  → シタテルヒメ→イサナミ→不明(父:トヨケ)
 ヒメタタライスズヒメ → タマクシヒメ→不明(父:ミシマ、ミソクヒ)

※コノハナサクヤヒメの実父はオオヤマスミではなく、本ブログの結論であるアチスキタカヒコネであると仮定しています。前者の場合やはり母不明となります。

このように秀真伝も父系中心に記述がなされており、母系を追ってもすぐにその系統が見えなくなってしまいます。

これを逆に捉えれば、限られた母系一族が后(きさき)を輩出していたとも考えられ、そうなると古代王家はその一族の娘に婿入りすることによって王権を得ていたとも考えられるのです。この結論は「ヤタガラスの娘」の主張とも辻褄が合ってきます。

特に注目すべきはイサナミ(一般にはイザナミ)で、国生み神話の主人公にされたこの古代皇后と他の女性たちが同じ母系の血を継いでるとすれば、まさに母系によってこの国の初期の王権が成立していたと言えなくもありません。

そうなると、日本神話の次の箇所が非常に重要な意味を持ってきます。日本書紀から次を抜粋します。

そこでオノコロシマを国中の柱として、男神は左より回り、女神は右から回った。国の柱をめぐって二人の顔が行きあった。そのとき、女神が先に唱えていわれるのに、「ああうれしい、立派な若者に出会えた」と。男神は喜ばないでいわれるのに、「自分は男子である。順序は男から先にいうべきである。どうして女がさきにいうべきであろうか。不祥なことになった。だから改めて回り直そう」と。そこで二柱の神はもう一度出会い直された。

講談社学術文庫「日本書紀(上)」宇治谷孟現代語訳

男神(イサナキ)と女神(イサナミ)との国生みシーンですが、これは女神が最初に声かけしたことを強く否定しており、主導権は女性にはないと言ってるようにも取れます。

またここで、イサナキが黄泉の国から逃げ帰る次の有名な千引の磐のシーンを見てみましょう。

これが大きな川となった。泉津日狭女(よもつひさめ)がこの川を渡るうとする間に、伊奘諾尊(いざなぎのみこと)はもう泉津平坂(よもつひらさか)につかれたともいう。そこで干引きの磐で、壱の坂路を塞ぎ、伊奘冉尊(いざなみのみこと)と向い合って、縁切りの呪言をはっきりといわれた。  そのとき伊奘冉尊がいわれるのに、「愛するわが夫よ。あなたがそのようにおっしゃるならば、私はあなたが治める国の民を、一日に千人ずつ締め殺そう」と。伊奘諾尊が答えていわれる。「愛するわが妻が、そのようにいうなら、私は一日に千五百人ずつ生ませよう」と。そしていわれるのに、「これよりはいってはならぬ」としてその杖を投げられた。

講談社学術文庫「日本書紀(上)」宇治谷孟現代語訳より

このシーンでははっきりと男女の縁切りが宣言されています。これにより、女神であるイサナミは永遠に黄泉の国の住人となってしまうのですが、これはまさしく

 后の力を封印する

行為そのものであり、これこそが、後世に行われた母系継承から父系継承へと王権システムを変更した史実を示す史書の暗号と捉えることができます。それと同時に、それまでの母系王権に対する強い否定感の表現、あるいは「呪い」とも取れるのです。

以上から、古代日本が母系王権の国であったことがより確からしくなってくるのですが、そうなると問題になるなのが、

 なぜ父系王権に切り替える必要があったのか?

その理由と、現代においてもジブリ映画など多くのメディア作品を通して

 母系王権時代の古代女性を暗示的に取り上げる理由は何か?

という2つの点なのです。

実はこれ、古くから行われてきた「歴史改竄計画」の一環であり、加えて、母系王権時代をことさらちらつかせるのは、古代巫女でもあっただろう彼女たちの何か呪術的な能力と関連することが予想されるのです。

同書には、そのタイトルともなった八咫烏(ヤタガラス)と古代海洋民族、そしてこれら少女神との関連性が考察されているのですが、そちらで示唆されてた内容も無視できるものではなく、これについても本ブログにて追って取り上げたいと考えています。

画像3:香良須(カラス)神社 愛知県豊田市にて撮影


国始め烏追ひたり市木津へ求む媛神現れましを
管理人 日月土

男神猿田彦の誕生

過去行われた大掛かりな歴史改竄計画によって、現存する史書の殆どが書き換えられている。しかしながら、正確な史実に辿り着けるよう、あるいは完全にそれが忘れ去られないよう、史書編纂者の工夫によって史実が巧みに暗号化され、文書記録となって残されている。

それが、現在目にすることのできる日本書紀や古事記、その他の史書的文献の実態であるとするのがこのブログの基本姿勢です。

これらに加え、私などよりもはるかに解読が進んだ集団によって脚本がなされているだろう、ジブリアニメなどのメディア作品も、今では重要な史書解読のツールとなっています。

アニメ作品の分かりやすさについつい甘え、いつの間にかアニメ解説ブログになりかけているのが悩みの種ですが、今回も前回に続き、アニメ「千と千尋の神隠し」の表現をベースに、伊勢の猿田彦神社に関する考察を続けたいと思います。

■内削ぎの猿田彦神社

画像1:伊勢の猿田彦神社

上の写真は前回の「伊勢の油屋と猿田彦」でも掲載したものですが、少し日本神話や神社の造形に詳しい方なら「おやっ?」と思われたかもしれません。

それはこの神社の千木が内削ぎになっているからです。一般的に千木の切り口が垂直(外削ぎ)の場合は男神、水平(内削ぎ)の場合は女神が主祭神だと言われていますが、記紀では猿田彦は男神として描かれており、その猿田彦を祭神とする神社が内削ぎなのはちょっと違和感を覚えます。

画像2:内削ぎの猿田彦神社

一方、千木の形状で祭神の男女を判別するのは俗説だとも言われており、千木の様式も公式には既定されていないようです。ですから、これを以って特に不思議がる必要もないのですが、手水舎での柄杓の持ち方や拝殿前での礼の作法など、何かと参拝形式が語られる神社で、建築様式において祭神の男女の区別が曖昧なのは面白いと言うか、不思議な気もします。

これは、神社の世界ではとっくにSDGsだったということでしょうか?それならば、日本神道で天照大神(あまてらすおおみかみ)が女神であると強調する必然性は全くないと思うのですが、いかがでしょうか?

そもそも、明治期に国家神道が始まるまでは、神社とは土地のものであり統一された様式などなかったと言います。現在の様にある程度様式を揃えるに当たっては、西欧キリスト教の教会システムが参考にされたとも言いますから、神社の造りを見て日本の伝統を云々するのはそもそもお門違いなのかもしれません。

それでも祭神の性別が気になったのは、今回分析対象としてるアニメ映画「千と千尋の神隠し」の主人公が女の子(千尋)であり、それにも拘わらず、物語のモデルとなった古代史を追いかけると、千葉県銚子のケースだけでなくここ伊勢でも「男神」猿田彦が出て来てしまうからです。

■謎の登場人物ハク

映画「千と~」では千尋の他に、もう一人準主人公とも言えるキャラクター「ハク」が登場します。

画像3:呪術を使うハク(ニギハヤミコハクヌシ)
©︎2001 Studio Ghibli・NDDTM

これまでに、主人公の「千尋」が古代史上の人物である栲幡千千姫(タクハタチヂヒメ)をモデルとし、重要神様キャラ「顔なし」が栲幡千千姫の双子の姉妹ではないかとしてきましたが、実はこの「ハク」なるキャラのモデルについては、今でもまだはっきりこうだとは言えないのです。

一応、その名前がよく似ている古代史上の人物「饒速日」(ニギハヤヒ)ではないかとしていますが、記紀・秀真伝によると栲幡千千姫と饒速日の二人は母子の関係であり、その点では二人が物語の中心に据えられることに違和感はありません。

ただし、それでは「ハク」とネーミングされた理由が今一つ判然としないのです。「ハク」は「コハク」の一部であり、琥珀(コハク)とは主に岩手県の久慈、千葉県の銚子で産出される鉱石であることは「千と千尋の隠された神(3)」で既に説明しています。

この名前により、銚子が物語の舞台地であることが確からしくなったのですが、そうなると、ハクのモデルが饒速日である必然性が大変に薄くなてしまうのです。銚子と同定することで浮かび上がる名前とは、何度も書いているように男神「猿田彦」なのです。

その猿田彦、「白鬚」(しらひげ)の別名を持ち、実際に全国白鬚神社の総社と言われる近江白鬚神社の祭神は猿田彦なのです。「白」は音読みで「ハク」であり、その点でもハクなるキャラが猿田彦の方をより強く指しているのは明白なのです。

画像4:近江白鬚神社の湖上の鳥居

もう一つ気になるのがハクの正式名の最後に「ヌシ」が付けられていることで、ヌシの付く神名はいくつかありますが、これはおそらく出雲系の皇統名(神名ではない)である「大物主」(オオモノヌシ)を指すと考えられ、ここに、天孫系饒速日、[系不明]猿田彦、出雲系大物主と、複数の血統が混在している様が見受けられるのです。

そして、映画を観ていると自然にハクは少年であると思ってしまいますが、実はハクの性別については何も語られていないのです。何より顔や髪型のデザインは中性的であり、その衣装については白拍子(男装で巫女舞を踊る芸妓)を連想させるのです。

それが意図的に演出されていると考えられるのは、ハクの声を担当された入野自由(いりのみゆ)さんは、ジブリ作品では例が少ないオーディションで起用された声優さんであり、しかも、当時は声変わりの最中だったといいますから、男性性が声に現れる直前の中性的な声の持ち主を、敢えて狙って採用したとしか考えられないのです。

  参考:citar https://ciatr.jp/topics/45585

問題は、このような複合的なネーミングと性別をはっきりさせないキャラ設定をどうして行ったのかその理由なのです。実際には関係ないのかもしれませんが、それが先ほどの千木の形状に現れていると思えて仕方ないのです。

■猿女神社の暗号

前回記事「伊勢の油屋と猿田彦」の最後でも触れましたが、伊勢の猿田彦神社の片隅には猿田彦の妻となった天鈿女(アメノウズメ)を祀った「猿女」神社が本殿とは反対向き、斜めに向き合うように配置されています。

画像5:猿女神社

上の写真でも分かるように、千木の形状は内削ぎでありこれは本殿と全く同じです。こうなると、千木の形状による男女神の違いはないのかと思ってしまうのですが、実はこれには別の解釈もあり得るのです。

 猿田彦は女神である

おっと、「彦」と名にあるのだからやはり男だろうと素直に受け取るべきなのかもしれませんが、日本神道では、元々男性であり実在した古代王アマテルカミを女神に変えてしまった実績があるので、その反対も当然あり得るだろうと考えたらこうなるのです。

これをもう少し正確に表現するなら

 主が女神であり、従が男神である

ということ、すなわち猿田彦に相当する男性がいなかったという意味ではなく、女性の天鈿女が主人であり、夫たる猿田彦は言うなればその付属物であったということです。なお、「主従」と書きましたが、これは権威の上下ではなく、役割の違いを表していると解釈してください。神と繋がる女性(巫女)を中心に置くという意味です。

歴史研究アドバイザーのG氏によると、遺跡などの発掘調査から、縄文時代の日本社会が入り婿による相続を主とした女系社会であったことが最近少しずつ分かってきたとのことです。そして、武士集団(外国人)が渡来してきたことで、男系社会システムがそれにとって代わり、史書に残された血統は後代に男系相続に書き換えられてしまった可能性が極めて高いともおっしゃってました。

つまり、本来ならば女性シャーマンである天鈿女が中心となるべき話が、システム変更によりその夫を前面に出さざるを得なかった、その痕跡の現れているのが伊勢の猿田彦神社であり、現在の日本神道全体の姿であるということになります。

なぜに「千と千尋の神隠し」であれだけ女性キャラが強調されるのか、それも双子の女性が。この辺りに、日本神道でアマテルカミが女神にされてしまった本当の理由、卑弥呼なる女王中心の古代史国家が現代でも多く語られる理由、それらの秘密が隠れていそうです。


海原を越えて戻りし伊勢の地に眠る姫君今そ目覚めよ
管理人 日月土

伊勢の油屋と猿田彦

今回も前回に続けて、ジブリアニメ「千と千尋の神隠し」を題材に古代史考察を進めて行きます。

さて、これまでの関連記事の中では、千葉県銚子市にある猿田神社がアニメに登場する「油屋」の実際のモデルあろうとしていました。

 関連記事:
  ・千と千尋の隠された神   [2021/07/30] 
  ・千と千尋の隠された神(2) [2021/08/14] 
  ・千と千尋の隠された神(3) [2021/08/30] 

画像1:アニメに登場した油屋
©︎2001 Studio Ghibli・NDDTM
画像2:千葉県銚子市の猿田神社

油屋のモデルと言っても、銚子の場合は物語の設定上から読み取れるモデルであり、そのデザイン上の造形については、愛媛県の道後温泉本館など、複数の建築物がそのモデルに採用されたのであろうと、シリーズ最初の記事では述べています。

■調査対象は伊勢の猿田彦神社

先週、「千と千尋~」に関する史跡調査のため、日本人なら誰もが知るであろう三重県は伊勢市へと向かいました。

伊勢と言えば誰もが「伊勢神宮」を思い浮かべるかもしれませんが、今回向かうのはそこではありません。

以前の記事で「猿田神社」すなわち日本神話における「猿田彦」(さるたひこ)を祀る神社を扱った以上、同神を祀ることで有名な、三重県鈴鹿市の「椿大神社」(つばきおおかみやしろ)、そして、同県伊勢市の「猿田彦神社」は見ておかなければならないと思い、昨年の10月には椿大神社、そして今回は伊勢の猿田彦神社へと向かったのです。

順序としては椿大神社を先に報告するべきなのですが、アニメとの関連性を考える上で伊勢の猿田彦神社には象徴的な要素が多く見られ、まずはこちらについて取り上げることにしました。

■歌舞伎「伊勢音頭恋寝刃」と「油屋騒動

さて、猿田彦神社について触れる前に、伊勢にまつわる話題をここで一つ取り上げたいと思います。

歌舞伎の演目の中に「伊勢音頭恋寝刃」(いせおんどこいのねたば)があるのをご存知でしょうか?

私も最近まで知らなかったのですが、よく上演される人気の演目らしくYoutubeの動画でも観ることができます。

画像3:伊勢音頭恋寝刃2
引用元:https://www.youtube.com/watch?v=F_QlR6oJuak

ここで、動画から切り取った上の画像を見て頂くと、そこには「古市油屋店先の場」とタイトルが書かれいます。そう、そこに「油屋」の文字が見て取れるのです。

この演目、ネタ元になった次のような史実があり、それは「油屋騒動」(あぶらやそうどう)と呼ばれています。油屋騒動はWikiでは次のように書かれています。

寛政8年5月4日(1796年6月9日)の深夜、伊勢古市の遊廓油屋において9人の者が刀で斬られ、そのうち3人が死亡する事件が起きた。その顛末は当時の史料では下記のように記載されている。

引用:Wikiペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B9%E5%B1%8B%E9%A8%92%E5%8B%95

Wikiにはこの事件の顛末が詳しく書かれていますが、江戸寛政期に起きた殺人事件のことで、歌舞伎はそれを面白おかしくアレンジしたと言ったところでしょうか。タイトルにある「油屋」もそうですが、この他に私が特に注目したのは文末に書かれた次の部分です。

油屋は明治に入ると改装され旅館として営業し、山田駅前にも支店を出した。しかし第二次大戦の戦火により消失した。さらにその後、油屋のあった場所は近鉄鳥羽線の線路を引くために切り崩され、当時を偲ぶものはほとんど残っていない(伊勢街道の線路際に「油屋跡」の石碑が立っている)。

引用:Wikiペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B9%E5%B1%8B%E9%A8%92%E5%8B%95

 ”線路際に「油屋跡」の石碑が立っている”

「油屋と線路」この状況はまさにアニメの設定に近く、ここに偶然を超えた何かしらの意図が働いていると感じたのは言うまでもありません

画像4:現地に残る油屋跡
近鉄線の切通工事により跡地は崩されている

■おしら様と盃ノ間

このアニメには油屋の客として様々なタイプの神様キャラが登場しますが、その中でも、エレベータに乗りとまどう千尋を匿い、油屋の中を無言で案内する「おしら様」は特に印象深かたのではないでしょうか?

画像5:おしら様
©︎2001 Studio Ghibli・NDDTM

実はこのおしら様が、現実に存在した伊勢の油屋とこのアニメとの設定を繋ぐ重要なキャラでもあったのです。

以下の写真は、伊勢の地誌をまとめたサイト「ブラお伊勢」さんから拝借したものです。

画像6:油屋の盃ノ間(モノクロ)

この写真をAIによりカラー化したものが次になります。

画像7:油屋の盃ノ間(カラー)

カラー化とはいっても、AIの推測により着色しているためオリジナルの色彩が再現できている訳ではありません。しかし、提灯の模様に赤系の色が使われていたのはほぼ間違いないと思われます。

注目すべきは、外廊下に囲まれた中央の畳の間で、昔の旅館風ではありますが、廊下の縁に欄干が付けられているのは、ここが遊郭ならではのきらびやかな装飾であったと考えられます。

この作りだけ見ても、アニメに登場した油屋の内部装飾に良く似ているのがお分かりでしょう。

画像8:油屋の内部(アニメ)
©︎2001 Studio Ghibli・NDDTM

しかし、この写真で最も注目するべきなのは、赤い盃を被ったおしら様のデザインとこの「盃ノ間」の間に見られる類似性なのです。その関係を示したのが以下の図です。

画像9:おしら様と盃ノ間
©︎2001 Studio Ghibli・NDDTM

キーワードは「盃」(さかずき)であり、これにより、架空の存在である「おしら様」と実存した伊勢の「油屋」がイメージとして重なってくるのです。

線路と建屋の位置関係、欄干付の外廊下、盃のデザイン・・・ここまで状況が揃うと、もはやこれが偶然とは言えないでしょう。このアニメは明らかに伊勢の油屋をモデルに使っていると考えられるのです。

銚子モデル説の場合は、油屋は猿田神社を指しますが、今回の伊勢モデル説の場合はその名も同じ遊郭の「油屋」を指すことになります。

そうなると油屋のモデルとなった建物の意味合いが180度違うように思われてしまいますが、おしら様の「赤白」のデザインはそのまま「赤白」の巫女装束を表し、また、おしら様が顎の下に抱える2本の長い垂れ下がりは女性の乳房、すなわち女性を表していると捉えれば、両説の間で全く矛盾はないのです。

よく「千と千尋の神隠し」は暗に性風俗を表現したものではないかと指摘されることがありますが、伊勢のケースを見る限りその指摘もあながち間違っていないと言うことができます。

しかし、ここで重要なのはどうして「聖」(巫女)と「俗」(遊女)を重ねてきたのか、その狙いであり意図なのです。

■橋の向こうには猿田彦

以上、猿田彦神社の報告から随分と離れてしまいましたが、前節までの話の流れの中で、「猿田彦」なる神の存在が、このアニメの中核として欠かせないことが、銚子と伊勢の対比によって見えてきます。

画像10:銚子と伊勢の立地比較

この2つの地域を比較してよく分かるのは、

 橋向こうに居る猿田彦

という構図が見事に同じ点なのです。ですから、銚子と伊勢のどちらがよりアニメの設定モデルに近いのかという議論にはあまり意味がなく、密かに日本古代史をなぞるこのアニメの真の狙いが、何か「猿田彦に関わる奥義」を意図したものであることは、もはや疑い様もありません。

画像11:伊勢の猿田彦神社

主人公の千尋は両親に連れられて、本来人が近寄れない神の領域に入ります。そこで、ハクとカオナシに出会うのですが、前回記事「千と千尋の二人姫」でも書いたように、カオナシとは千尋の双子姉妹の片割れ、古代史的に表現するなら巫女に出された栲幡千千姫(タクハタチヂヒメ)の双子姉妹の片割れと予想されます。

千千姫がその姉妹と出会えたということは、油屋が象徴するものは「巫女修業の場(神域)」ということになり、今回の考察とも辻褄は合ってくるのですが、どうしてそれが猿田(彦)神社なのか、また、どうして巫女と遊女を重ねてきたのかその真意はまだよく分かりません。

ここに新たな仮説が生まれてくるのですが、それは画像11を良く見ること、加えて「遊女とは売り買いされる女」というその言葉の原義を押さえることで分かってきます。

ここが分かると、どうして古代王アマテルカミ(男性)が女神天照に変えられてしまったのか、この日本神道最大の呪詛についてもその真意が見えてくるのです。

※この話題は次回へと続きます


* * *

伊勢の猿田彦神社の中には摂社の佐瑠女(さるめ)神社があります。ここでは、日本神話の中で閉ざされた岩戸の前で踊り、そして猿田彦の妻となり猿女(さるめ)と呼ばれるようになった天宇受売命(あめのうずめのみこと)を祀っています。

画像12:佐瑠女神社

猿女さんは踊りの神話が縁となり、一般的に芸能の神様と呼ばれていますが、こちらにのぼり旗を献上している方々の中にあの著名人の名前を見つけました。

画像13:ご存知新海監督

芸能に縁のある神社ですから特に不思議でもありませんが、そう言えば「君の名は」のヒロイン「みつは」のアルバイトは「巫女」であり、物語の骨格となったテーマが「時を超えた出会い」と、ほとんど「千と千尋の神隠し」と同じであることにここで気付いたのです。

画像14:巫女姿のみつは

新海監督作品も含め、日本のアニメが隠された日本古代史をベースにし、日本人の大衆心理を巧みに操らんと企図されている、その疑いをますます深めた瞬間でもあったのです。



騙した岩戸開き。出てきた神はどこの誰?
管理人 日月土

千と千尋の二人姫

アニメネタから離れて約半年、ここで再びジブリアニメ「千と千尋の神隠し」と古代史の関係を考察したいと思います。

画像1:「千と千尋の神隠し」ポスター

その前に、これまでの3つの記事でこのアニメをどのように分析してきたのか以下に簡単にまとめておきます。

千と千尋の隠された神   [2021/07/30]   
 アニメのモデルになった地は、千葉県東総地区、現在の銚子市周辺である。それは、「椿」の暗号によって示されている。

千と千尋の隠された神(2) [2021/08/14] 
 油屋のモデルとなったのは、千葉県銚子市の猿田神社である。それは、同社前に敷設された鉄道の配置からも窺える。

千と千尋の隠された神(3) [2021/08/30] 
 銚子市がモデル地と特定できる理由の一つとして、同地が琥珀の産地であることが挙げられる。この「コハク」こそが登場人物「ニギハヤミコハクヌシ」の命名の由来であろう。

なお、基本的な大前提として、タイトル中の「千と千尋」すなわち「千」の字をわざわざ二つ重ねていることなどから、主人公「荻野千尋」の古代史モデルが日本神話(日本書紀)に登場する

 栲幡千千媛萬媛命(たくはたちぢひめよろづひめのみこと)

であると仮定しています。神話では、千千媛は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の母であり、その瓊瓊杵尊はまた、同じくジブリアニメ「もののけ姫」に登場したアシタカのモデルでもあります。

この仮説は、劇中の設定と本件に関する文献および現地調査の結果を照らし合わせたところ、今や確信へと変わりつつあります。

■3月から始まる舞台

昨年7月、(真)ブログ「舞台に現れる千千姫」で、「千と千尋の神隠し」が舞台化されるとお知らせしました。そして、その舞台がいよいよ来月2日から上演されます。

 舞台公式サイト:Spirited Away 

さて、同ブログ記事の中では、次の画像を示してある不思議な共通点があることを指摘しています。

画像2:映画ポスターと二人の舞台女優

そう、アニメ画の主人公および、二人の女優さんが皆同じ

 振り向き様のポーズ

を決めているのです。そしてもう一つ、舞台上演では比較的当たり前だとも言えますが、ダブルキャスト(二人一役)を採用していることです。

但し、このダブルキャストはロングラン公演など長期の上演が決まっている場合の役者のシフトを考慮した措置で、この舞台の3月いっぱいの帝劇公演、および、5~7月までの地方公演が果たしてロングランと言えるのかは微妙なところです。

そして、その二人のキャスティングに売れっ子の二人の女優さんを同格に配置するというのも、何かの意図を感じずにはいられません。もちろん、ダブルで売れ筋女優を起用したと言う商業的戦略はあるとは思いますが。

私はここに制作側の大きな意図を見出すのですが、それについては次節以降に説明します。

■仮面の持つ意味

ここで、アニメ「もののけ姫」の主人公「サン」について振り返ってみます。

画像3:二人のサン

画像2は仮面を被ったサンと素顔を出しているサンです。普通に考えれば、仮面を着けているかいないかの違いだけで、どちらも同じサンであることには変わりありません。

しかし、ここで呪術的考察を加えると解釈は変わってきます。仮面を着けるとはその人が別人に変身することを意味し、呪術的には仮面の装着により、新たな人格と力を獲得したと考えます。すなわち、画像2の二人は別人であるとみなされるのです。

過去記事「サンがもののけ姫である理由」でも解説したように、アシタカは物語中に石火矢に射抜かれて命を落とします。その後、シシ神によって息を吹き返すのですが、同一人物が2度目の命を得たという表現から、アシタカが瓊瓊杵尊だけでなく、同時に天稚彦(アメワカヒコ=第10代アマカミホノアカリ)をもモデルにしていると同記事では指摘しています。

画像4:日本神話では天稚彦は返し矢に当たり絶命する

つまり、アシタカに使われていた人名隠しのロジックがそのままサンに対しても使われている可能性があるということになります。サンの場合は石火矢ではなく仮面という違いはありますが。

サンの古代史モデルが「木花開耶姫」(コノハナサクヤヒメ)であることは、過去記事「愛鷹山とアシタカ」を読み直して頂きたいのですが、この木花開耶姫、瓊瓊杵尊への輿入れに関しては次の様な記述が古事記にあります。

 五 本花之佐久夜毘売

 ここに天津日高日子番能邇邇芸能命、笠沙の御前に麗しき美人に遇ひたまひき。ここに「誰が女ぞ」と問ひたまへば、答へ白さく、「犬山津見神の女、名は神阿多都比売、亦の名は木花之佐久夜毘売と謂ふ」とまをしき。また「汝の兄弟ありや」と問ひたまへば、「我が姉、石長比売あり」と答へ白しき。ここに、「吾汝に目合せむと欲ふは奈何に」と詔りたまへば、「僕はえ白さじ。僕が父犬山津見神ぞ白さむ」と答え白しき。かれ、その父犬山津見神に乞ひに遺はしたまひし時、いたく歓喜びて、その姉石長比売を副へ、百取の机代の物を持たしめて、奉り出しき。かれここに、その姉はいと凶醜さによりて、見畏みて返し送り、ただその弟木花之佐久夜毘売を留めて、一宿婚したまひき。

※日本書紀と古事記では漢字表記が異なります、ご注意ください

ここで重要なのは、本花之佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)と一緒にその姉の「石長比売」(イワナガヒメ)も輿入れさせたとあることです。つまり姉妹二人の嫁がいたということですが、石長比売は容姿が醜く能邇邇芸能命(ニニギノミコト)に返されてしまうのです。

ここで、疑問に思われるのが、「姉はひどく醜く妹はたいへんに美しい」という表現です。現実でそういうケースがあるかもしれませんが、一般的ではないでしょう。これは明らかに何か別の意味を象徴した表現、史書の暗号であると考えられます。

これについては、実は漫画家の星野之宣氏がその作品「宗像教授異考録」の中で、石長比売の醜さに関する記述について次の様な仮説を提示しています。

“謎多き熊本県の遺跡トンカラリン周辺で、顔面が平面に陥没した弥生時代の頭蓋骨が出土している。これは幼少期から顔に石の仮面を押し付け変形させたのではないかとも言われている”

画像5:石長比売の漫画表現

私もこの説はかなり有力であると考えており、なぜこんなことをするかと言えば、それは幼少の時より「優秀な巫女を育てるため」であると考えられるのです。先にも述べたように、仮面を装着すればそれはもう別人であり、託宣など巫女が重要な政治的ポジションを占めたと思われる古代期には、超人的な巫女としての能力を養うためにこのような極端な処置を行う慣習があったとしても不思議ではありません。

 関連記事:
  ・チブサン古墳とトンカラリンの小人 [2020/10/31]
  ・トンカラリン-熊本調査報告 [2020/11/30]

そして更に重要なのは

 正妻と巫女の二人の女性が天皇に嫁ぐ

という事象がここに描かれていることなのです。

以上から、「もののけ姫」に見る「二人のサン」の表現には、

 ・木花開耶姫 (仮面なし)
 ・磐長姫   (仮面あり)

の二人の姫の象徴が隠されていると考えられるのです。

■卑弥呼は双子であった

ここまで書いたところで、再び過去記事「ダリフラのプリンセスプリンセス」をご覧いただきたいのです。

この記事では卑弥呼と呼ばれる古代日本の女王が、実際は初代神武天皇の正皇后「ヒメタタライスズヒメ」すなわち

 イスズヒメ と タタラヒメ

の二人の后、それも双子の后を指しているのではないかと指摘しています。そして、どちらか一人が国家祭事を預かる巫女役として配置されており、それが、魏志倭人伝が伝えるところの「卑弥呼」だったのではないかと私は考えるのです。

どうして、年の違う姉妹ではなく、双子だと言えるのか?これは純粋に呪術的な理由でそうであろうと私は考えています。双子同士が互いの体調や何を考えているのかその思考まで、語らずとも理解し合えると言うのは経験的によく知られている話です。この神掛かり的な同調能力は、双子でしかなし得ない特殊能力であり、呪術者にとってはとても魅力的、つまり「おいしい」のです。

巫女能力の優劣が国運を左右したであろう古代期に、このような能力者を元首の傍に置くことは、政治的にも大きな意味を持ったことでしょう。

何か無理矢理な説明だなと思われる方も多いかと思いますが、実は「双子」という表現は「千と千尋の神隠し」の中でも採用されていたことを思い出してください。

画像6:銭婆婆(左)と湯婆婆(右)の双子表現

この2頭身の老婆は、ダリフラ(ダーリン・イン・ザ・フランキス)と同じ双子の姉妹、即ち、双子の卑弥呼(タタラヒメとイスズヒメ)を指していると考えられるのです。

■カオナシ:仮面の正体

さて、ここまで述べたところで再び舞台「千と千尋の神隠し」の話題に戻ります。前々節で「仮面」の話題に触れましたが、「千と千尋~」の中でも仮面を着けていた準主役的なキャラクターが居ましたよね?

画像7:カオナシ

もうお分かりの通り、仮面の存在とは「カオナシ」です。このキャラは作品を通して強く存在感をアピールしますが、結局その名前も正体も明かされないまま物語は終了してしまいます。

前節までに、ジブリ作品における「仮面」と「双子」について分析しましたが、ここで、その結果をこのカオナシに適用するとどうなるでしょうか?もうお分かりのように、

 カオナシはもう一人の千尋(双子姉妹)

であり、更にその古代史モデルに遡れば

 カオナシは巫女となった栲幡千千媛萬媛命の双子姉妹

と結論付けることができるのです。それを象徴するかのように、物語の終盤で千尋は湯婆婆の元へ帰り、カオナシは銭婆婆の元に残るのです。これは双子姉妹が別れてそれぞれの道に進むことを意味しているとは考えられないでしょうか?

画像8:二人は別れ別れに

また、物語に出て来るメッセージの一つに「名前を奪う」があります。湯婆婆が人を支配する為の魔術として描かれていますが、史実から消された双子の片割れとは「名前を奪われた存在」、別の言い方をすれば「顔を奪われた存在(カオナシ)」であることは明白です。

ここまで分析したところでやっと本題の結論が一つ答えられるようになりました。舞台がダブルキャストを採用した真意とは

 二人の千尋

を形を変えて表現したものなのです。そして、なぜそれをここで打ち出してきたのかについては更に別の考察を要しますが、それについては、振り返りポーズの意味と併せ別記事でお知らせしたいと思います。

これは、かつて人気を博した女性ボーカルバンド「プリンセス・プリンセス」、そして2年前に感染騒ぎで話題になった「ダイヤモンドプリンセス号」にも通じる問題なのです。


 * * *

おまけ

画像9:叶姉妹

上図は皆さんご存知の叶姉妹。いつの頃にか3人姉妹から2人姉妹になってしまいましたが、こう言っては失礼ですが、たいして芸も無いのにやたら露出が多いですよね。この「姉妹」が曲者で、実はここにも現皇室に向けた呪いのメッセージが込められているのです。

画像10:神奈川県浦賀の叶神社(2020年3月撮影)
入り江を挟んで東西の二社あることに注意

古代呪術は時の経過と共に忘れ去られた訳ではなく、現在に至るまで脈々と継承されているということです。



顔なしと呼ばれし君に会わむとぞ思ふ
管理人 日月土

二つの国譲りと津軽の荒吐

10月に訪れた福岡のレポートが長引いてしまいましたが、それから現在に至る3か月間、関東・東北・中部東海各地の遺跡地帯を訪ねています。その中でも、再び秋田・青森を回った東北の調査は極めて興味深く記憶に残っています。

東北については、私自身が同地のことを良く知らないこともあり、現地を訪ねてみても頭の中では日本古代史の1ページとしては上手く繋がらないもどかしさがあります。

一般的には古代東北は蝦夷(えみし:野蛮人)の土地として捉えられ、日本史的には平安期の坂上田村麻呂による奥州遠征から、鎌倉期に入る前の前九年・後三年の役、そして平泉に代表される奥州藤原氏の誕生と消滅など、古代期から中世期にかけて初めて登場した舞台であると認識されることが殆どです。

しかし、青森の三内丸山遺跡の出土品、環状列石群など東北地方の古代期の遺跡には見るべき特徴があり、ここを無視して日本の始まりを語ることはやはり何か片手落ちであると言わざるを得ません。

画像1:秋田県鹿角市の大湯環状列石(2021年12月撮影)

そこで、東北を語る数少ない資料として「東日流外三郡誌」(つがるそとさんぐんし)の古代編を通読してみたのですが、既にお伝えしているように、これがまた癖が強い書物で、言葉は比較的平易なのですが構成にとりとめがなく、読み終えるまでに私もずい分と時間がかかってしまいました。

なお、「東日流外三郡誌」と青森の遺跡に関する所見については、昨年の9月に次の現地調査レポートで記事にまとめています。今回はこれを補足・拡張する内容となります。

 (1) 東日流外三郡誌の故地を訪ねる 
 (2) 土偶は何を語るのか?

■荒吐(あらはばき)とは何か

過去記事(2)では荒吐とは古代東北国の名称であると同時に、その国が信仰する自然神の総称であるとしています。この辺の解釈については正確を期すため、東日流外三郡誌から荒吐の云われに関する記述を抜粋したいと思います。

なお、東日流外三郡誌には同じような記述が何度も繰り返し登場するのですが、以下の文は比較的短くまとまっていたのでここに採用することにしたものです。読み易さのために誤記の部分を修正および括弧、区切り記号などを付与しました。下線部は筆者が注目している記述です。

【抜粋1】

津軽実誌考抄

 古代津軽の里は水郷なり。
 十三湊を入江にして、行丘田舎郡に至るまで満々たる水郷なり。
 然るに、天変地移の立起や、今に至る大里となりけるは巌鬼山の噴火、八頭山の墳火に依りての流土水を埋出して、広き葦野を陸造れるなり。
 依て、地人是を神聖と崇め、父なる山、母なる川を巌鬼山、巌鬼川と称したり。また是を往来せる川故に行来川とも称し、海の彼方より見ゆる巌鬼山を遠望往来のめずるしとなる故に行来山と称したり。

 古歌に曰く、
 〽父母の 生れし里は 山川の 海を埋めける 巌鬼あれこそ
 〽山川に めぐみを受し つがるさと 葦と稲穂の 稔り豊けき
 〽火を山に 糧は海里 まかなひて 暮しは保つ あら人の国
 〽荒吐の 大も大なる 住むる地を 犯す者たち あらばたたらめ

 此の歌はいつの代に何人の詠ける歌ぞと、さだかならず。然るに、十三湊浜明神に奉舞せる歌とぞ古老は日ふ。察するに十三浜明神は興国二年に太津浪に消滅せし以前とせば、安倍一族の古歌と考ぜらるるなり。
 大古に雪深き津軽の国は、山海のみにして平地なく、人の住むるに難き土地なるも、異民よく故土に乱を免かれて落着せる処は津軽とぞ想ふ。
 支那に君派の乱は、日本国の日向族の東征より早期なり。依て、津軽の入海は豊けき山海の幸あり、永住せし者多し。(註1)
 初の土着民を津保化族と称し、安日及び長髄の一族北落以前なりせば、その古事来歴さたかならねども、小泊崎なる尾崎神社に支那移民の神を祀るを以て名残あり。
 亦、西海及びその山麓より土中に埋りき先住の遺物多くいでにけるは、津保化族の住ける名残りなり。
 荒吐族とは耶馬台国の二王、安日彦長髄彦の一族が日向一族に故地を追れ、津軽に脱落せし一族なり。この一族、津軽先住の津保化族と混じて、茲に荒吐族と誕じたる事実なり。(註2)
 安倍一族は荒吐一族より柤来す。依て茲に津軽より奥州を掌据し、更に東国一円を勢下に伏せんと、自ら日下将軍と自称せし安倍頼時は世伝の知れるところなり。
  寛政三年正月
 十三湊浜明神跡にて
                         考書 秋田孝季

引用元:東日流外三郡誌 古代篇上(2003) p226

註1:中国晋王朝からの移民。時代的に辻褄が合うかどうかは微妙。
註2:安日彦と長髄彦は兄弟とある。
補足:長髄彦の義弟は饒速日。先代旧事本紀では饒速日と瓊瓊杵尊は兄弟とされている。それぞれジブリアニメのニギハヤミコハクヒコ、アシタカのモデルとなった人物である。

次に荒吐の信仰形態についての記述を抜粋します。

【抜粋2】

荒吐抄

通称あらばき亦はあらはばきと号く。漢字にては荒脛巾/荒覇羽岐/荒吐/荒羽吐と社名を為すも何れも異はなし。依て荒脛巾神と通称多しきは東日流より外に存す。
 称題析願文には「あらはばきいしかばのりがこかむい」と唱ふるは止しき祈願法なり。意趣は天と地と水にして生命の実相なる原理を以て安心立命を宇宙の精気地水の素要に生死の輪廻を魂に銘じ久遠の人生に求道せるを本願とせるの信仰なり。(註3)
 宇宙の日輪地水みなながら神なり自然の法則とは主とし生けるものに安しきことなけれども是みな神の業なれば耐えて生くるぞ人の道なりと日ふなり。

  寛政五年六月
                           秋田孝季

引用元:東日流外三郡誌 古代篇上(2003) p229

註3:唯一神信仰とも汎神信仰とも取れる。人が神となる多神的信仰ではないが、人も神が想像した自然物と捉えるなら、多神・汎神・一神に大きな違いはない。むしろ、一神教と多神教を対立軸とする現代宗教論に大きな認識の誤りがある。

【抜粋3】

画像2:津軽に在ったと言われる「安東浦」の想像図
引用元:東日流外三郡誌 古代篇上(2003) p235

秋田氏による後世の知見がかなり混濁していると思われる東日流外三郡誌ですが、荒吐の由来を

“日向国に追われ津軽に逃げ延びた安日彦、長脛彦の二王が、現地民の阿蘇部族、津保化族、そして王族を含む晋からの移民を統一した国家が荒吐である”

という点については、古代篇を通して全くブレがないのです。

三郡誌に登場する安日彦については不明ですが、長脛彦については、日本書紀においては饒速日の義理の兄であり、東征した神武天皇と戦って敗れたとの記述で登場します。

三郡誌に登場する日向族を、書紀にある日向から東征を開始した神武天皇一行と素直に受け取るなら、邪馬台国すなわち大和(ヤマト)の本来の王が、新興の日向一族(天孫族)に追い出されたと解釈することで取り敢えず辻褄は合ってきます。

これこそが、三郡誌古代篇を貫く思想となり、それ以降の大和王朝支配に対する強い怨嗟となって所々登場するのですが、翻って大和王朝が中世に至るまで「蝦夷」(えみし:野蛮人)と東北民を蔑視する呼び名にも互いの敵対心が現れていると言えなくもありません。

書紀では、饒速日が神武天皇と同じ天孫族であるとして、義兄の長脛彦は抵抗するも饒速日によって大和の国(奈良地方)が禅譲されたように描かれていますが、三郡誌ではその饒速日も長脛彦と戦い長脛彦に致命傷を与えたとあります。

さて、以上の話を含めて日本神話には次の二つの国譲り伝承があるので、今度はそれを見てみましょう

 (1)大国主の国譲り
 (2)饒速日の国譲り(義兄の長脛彦は争う)

いずれも、多少の紛争があったにせよ、基本的に両者の合意によって平和裏に事が済んだように描かれていますが、実際にはどうだったのでしょう?これについては、神話などというファンタジーではなく、純然たる古代皇統史として記述されている秀真伝を参考にしてみたいと思います。

■宮廷から追放された二人の人物

秀真伝には二人の人物が、その罪により宮廷から追放されたとの記述があります。

 大国主:慢心により政務を怠った罪
 長脛彦:部外者禁の祝詞を盗み読んだ罪

当時の本当の事情など分かるはずもありませんが、まずは、両者が負った罪がそれほどの大罪だったのだろうかという疑問を覚えるのです。反逆した訳ではないしせいぜい官位の降格くらいで良かったのではないか?、それが私の最初の印象です。

そして、もっと言うなら、この程度の取って付けたような罪をわざわざ史書に書き残したのには、何か別の意図があるのではないか、すなわち史書暗号のような符号がこの記述に残されているのではないかとも疑っているのです。

ここで、二人のその後の顛末について、秀真伝・三郡誌の両方を突き合わせると

 大国主:津軽に住む息子のシマツウシの処に身を寄せる(秀真伝)
 長脛彦:日向族に追われて安日彦と共に津軽に逃げ延びる(三郡誌)

と、両者とも「津軽に向かった」という点で共通するのです。

ここから、私は次の様な仮説が成立するのではと考えます。

 津軽には何か特別に重要なものがある

つまり、その特別に重要なものを管理あるいは庇護するために、宮中の信頼できる高官を津軽に送るしかなかったが、それが反乱分子も紛れ込んでいる宮中の官吏に知られてはたいへんまずい。そこで、二人に罪を着せることによって、流刑、あるいは逃走という形で現地に走らせた、そう考えるのです。

もちろん、その大事なものが何であるのか一応考えてはいるのですが、これについてはもう少し考察が纏まってお知らせしたいと考えています。

それが一体どういうものであるか、私は現地で撮影した次の写真こそがこの謎を解明するヒントになると考えているのです。

画像3:青森県新郷村のキリスト里公園(2021年12月撮影)


葦船に乗せて流され辿り着く
管理人 日月土

太宰府に残る占領の印

今回の記事は、10月に向かった下記福岡調査レポートの続編となります。

 これまでのレポート:
  ・再び天孫降臨の地へ 
  ・再び天孫降臨の地へ(2) 

糸島の重要歴史スポットを幾つか巡って地元の宿に一泊した後、日程が限られていることもあり、翌日は福岡調査では絶対に外せない重要ポイントである太宰府へ向かいました。

画像1:宿の前の通りからは、前回の記事で話題にした「可也山」(かやさん)が見える

■糸島の芥屋の大門

太宰府に向かう前に、歴史というより観光スポットと呼ぶのが相応しい、糸島の西端にある「芥屋の大門」(けやのおおと)を訪ねてみました。ここは、岬の先端から内陸に向けて、奥行き90mの洞穴が続いているという珍しい場所です。

公式ホームページによると、玄武洞の中では国内最大級であるとか。以前何度かここを訪れたことがありますが、その時は地上から岬の突端を眺めただけで実際に洞穴の開口部を見た訳ではありません。

今回はこれまでと趣向を変えて、近くの漁港から遊覧船に乗り、海上からその景色を眺めてみることにしたのです。

画像2:芥屋の大門の位置
画像3:海上から見た芥屋の大門の全景

条件が整えば小型遊覧船が洞穴の中まで入るということですが、当日は晴天に恵まれたものの、海のうねりが大きく、残念ながら開口部から少し離れての見学となりました。しかし、それでも玄界灘に向けてぽっかりと開いた大きな穴の迫力は見る物を惹き付けます。

古代の人々は、海を渡って糸島と行き来した時、この岬をどのような思いで通り過ぎていたのか、思わず想像が膨らみます。

画像4:船上から撮影した開口部

実は、何枚か撮った開口部の写真の1枚に、およそ尋常でないものが写り込んでいました。いわゆる心霊写真と呼ばれるものに近いのですが、それを掲載するのはこのブログの主旨ではないのでやめておきました。

少しだけ説明するなら、それは古代から現在に至る何か呪術的なものに関係するようなのですが、これを歴史の流れの中で説明するには方法論的に逸脱していますし、それに関する予備知識がなければ、おそらく何を語ってもチンプンカンプンな話となるでしょう。

しかし、記紀などを読めば分かるように、古代人にとって御神託や祈祷というのは実学であると同時に日常生活の一部であり、現代科学を拠り所としてそれを迷信と決め付けては、古代人の当時の思考を推し量ることなどできないと私は考えます。

写真に写ってしまったこと自体は紛うことなき事実なので、実際に私はそれを歴史分析の対象に加えています。今回ここでお見せできない写真から分かったことは、芥屋の大門には有能な呪術集団が関わっているということです。

ここに、歴史の表に現れることのない仏教・神道・その他による呪術的側面が観測できるのですが、これ以上書くとオカルトブログになってしまうのでこの辺でやめておきましょう。もしもこの話が気になるという方は、ぜひその目で芥屋の大門を確認していただき、私の意図するものが何であるのかをご理解いただければ嬉しいです。

画像5:芥屋の大門の麓にある太祖神社
後の山は古くは高天原と呼ばれ洞穴へと続く。ここには海神族と月信仰の痕跡が見られる

■水城

さて、糸島から福岡市内を経由して太宰府市街に入る手前、道路を分断するかのように長く続く土手、「水城」(みずき)と呼ばれる古代遺跡が目に入り、まずはそこに寄ってみました。

水城とはWikiには次の様にあります。

白村江の敗戦後、倭国には唐・新羅軍侵攻の脅威があり、防衛体制の整備が急務であった。天智天皇三年(664年)の唐使来朝は、倭国の警戒を強めさせた。この年、倭国は辺境防衛の防人(さきもり)、情報伝達システムの烽(とぶひ)を対馬島・壱岐島・筑紫国などに配備した。そして、敗戦の翌年に筑紫国に水城を築く。また、その翌年に筑紫国に大野城が築かれた。ともに大宰府の防衛のためである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/水城
画像6:水城とその他の史跡の位置関係
画像7:水城

今では、住宅や田園に覆われていますが、かつては堤の前(博多側)に敵侵入防止のため、水が張られていたと言います。

また、水城が建設される前はここを流れる御笠川と現在の筑紫側が水路で結ばれ、博多湾と有明海は船で移動できたであろうと言われています。

なるほど、それならば太宰府は両海を結ぶ水路の途中にあり、九州北部と南部を行き来する人や物資の流通において最適の場所であったと考えられます。

画像8:古代、博多湾と有明海は水路で繋がっていた

さて、一般的にはWikiの説明にあるように、白村江の闘いに敗れた天智天皇が、唐・新羅軍の国内侵攻を防ぐために造営されたと言われてますが、この説には異論もあるようです。それについては次に述べましょう。

■都督府の石碑

太宰府と言えば、学問の神「菅原道真」が祀られている太宰府天満宮を思い浮かべる方は多いでしょう。修学旅行や合格祈願にここを訪れたという方も多いのではないかと思います。

しかし、当日は時間があまりないこともあり、私は太宰府天満宮には寄らず、以前から注目している場所、都府楼(とふろう)近くの政庁跡に向かったのです。

画像9:太宰府政庁跡 (C)太宰府観光協会

現在の年号「令和」も今年で3年、もうすぐ4年になろうとしていますが、「令和」の名の元となった万葉集に詠まれた花見の宴は、この政庁跡のすぐ近く、大宰帥(だざいのそち:大宰府政庁長官)大伴旅人の邸宅があったと言われる、現在の坂本八幡宮近辺で催されたのではないかとされています(確定ではない)。その意味では、この太宰府政庁跡は現在の日本に生きる私たちにとっても所縁深き場所と言えるでしょう。

歴史好きの方ならば、かつて太宰府が大陸交易の中心であり、外交の拠点として政庁が作られたと覚えておられるかもしれません。

現在の政庁跡には奈良時代の礎石が残されていますが、実は、その下にも更に古い遺構があると言われているのです。しかし、それより古い年代の地層は調査されておらず、政庁の来歴は一般的に知られているものより更に古い、上代(神武以前)、上古代期(神武以後)まで遡れる可能性があるのです(あくまで推測です)。

太宰府及びその周辺地域に関して調べる対象はあまりに多いので、今回はこの政庁跡にある一つの石碑に注目します。

画像10:政庁跡に残る都督府(ととくふ)の碑

この石碑は明治の頃、政庁跡の発掘調査時に建てられたそうなのですが、実はこの「都督府」という言葉が刻まれたことに深い意味がある、それを後で知人で歴史研究家のG氏に教わりました。

この都督府、Wikiペディア「都護府」の唐代の項には次の様にあります。

朝鮮半島
・熊津都督府…顕慶5年(660年)、百済を滅ぼしその旧域に設置。
・鶏林州都督府…龍朔3年(663年)4月、新羅の版図に設置。新羅王の文武王を鶏林州大都督に任命。
・安東都護府…総章元年(668年)9月、高句麗を滅ぼして平壌に設置。朝鮮北部および満州を支配。上元3年(676年)2月に新羅、高句麗遺民との抗争に敗退して遼陽へ後退。儀鳳2年(677年)、新城に移転。697年には大祚栄との抗争の影響で廃止されたが、神龍元年(705年)に大祚栄との和解により再び設置された。しかし、安史の乱の際に再び廃された。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/都護府

要するに、「都護府」・「都督府」とは、当時の唐が侵略占領した各地に置く占領機関の拠点に付けた名称だと考えられるのです。

この辺の解釈について、「南船北馬のブログ」さんは非常に的確な指摘をされています。

都督府とは何なのか? 『日本書紀』は六六三年の白村江敗戦後の六六六年、天智紀六年の閏十一月の記事に、唯一、それはこう登場する。

「十一月の丁巳の朔乙丑に、百済鎮将劉仁願、熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聡等を遣して、大山下境部連意志積等を筑紫都督府に送る」とある。
それを岩波『日本書紀』の注は、「筑紫大宰府を指す。原史料にあった修飾が残ったもの。」とし、九州王朝説の古田武彦は倭の五王が中国南朝から与えられた称号・都督に基づくとしてきた。

しかし、六六〇年に唐は百済を滅ぼすと、唐の占領機関として百済に熊津都督府を置き、さらに馬韓、東明、金漣、徳安にも配置し占領政策を徹底した。また六六八年,唐は高句麗を滅ぼすと、同じく安東都督府を置き占領政策を押し進めた。この間に、百済再興のために倭国は半島に軍を派遣し、六六三年に白村江の戦いで唐に敗れる。

それを『旧唐書』は四度戦い、「煙焔、天に漲り、海水、皆、赤し、賊衆、大いに潰ゆ。」と簡潔に倭軍の敗北を記す。唐に敗北した百済と高句麗に占領機関としての都督府が置かれたなら、その間の白村江で敗戦した倭国の首都・大宰府に置かれた筑紫都督府が、唐制の占領機関以外の何であるのか。先の『日本書紀』の一文は,百済の熊津の唐の占領機関から倭国の大宰府の唐の占領機関への派遣記事なのだ。

https://ameblo.jp/hokuba/entry-12174042062.html

つまり、こういうことです。663年の白村江の戦いで日本(倭国)軍は唐・新羅連合軍に敗北しただけでなく

九州北部に攻め込まれ占領された

と解釈することができるのです。

すると、前節の「水城」の項で述べたように、戦いに敗れた倭国軍が太宰府に最終防衛ラインを敷いて外国軍の侵入を防いだという定説とは全く矛盾する結論が導かれるのです。この説に従えば、水城とは占領軍によって攻略されたその残骸、あるいは占領軍の防塁として後から造営されたことになります。

また、もしも外国軍に占領されたならば、その後に日本の占領政策がどのように実施されたのか、何かその記録が残っていないとおかしいのですが、そのようなものを私も知りません。だからこそ、

 日本は一度も侵略を受けたことがない独立国

という、日本人として少し誇らしげな自負を覚えるのですが、ここで、占領軍の手によって「侵略の記録を国史から一切排除する」という「国史改竄計画」が、占領時から始まったと考えたらどうでしょうか?

この「国史改竄計画」の存在については、それこそが私のブログの主要テーマの一つだった訳ですが、もしかしたら、白村江の戦いこそが、日本国史改竄の大きなきっかけとなったことは十分に考えられるのです。

それは、

 633年 倭国軍唐に敗れる(九州北部占領される)
 712年 古事記編纂される(推定)
 720年 日本書紀編纂される(推定)

など、白村江の戦い以降に慌ただしく史書が整備された事実とも符合します。つまり、記紀とは正確な故事を記録に残すための書というよりも

 不都合な歴史(侵略の事実)を隠蔽するための書

である可能性が高いと考えられるのです。この視点に至った時、私が以前から指摘している

 ・上代の史実は敢えて神話ファンタジー化されている
 ・記紀は史実を暗号化によって伝えている

などが、占領下において何とか正確な史実を後代へ伝えようとした、当時の歴史家たちによる懸命の創意工夫であったとする予想に大きな根拠を与えるのです。

 
* * *

白村江の戦いによる倭国占領、そして史書から消えた占領の歴史。1300年前の侵略者はその後どうなったのか? 少なくとも、明治になって政庁跡にこれ見よがしに「都督府」の石碑が建立された事実から、その時まで占領政策が延々と続いてきたことが分かるのです。

もしかしたら、米国GHQによる第二次世界大戦後の日本占領などに私たち日本人は騒いでいる場合ではないのかもしれません。私たち日本人は古くから(緩やかな)被占領の民であったかもしれないのですから。


東風吹かば匂い起こせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ (菅原道真)
管理人 日月土

再び天孫降臨の地へ(2)

今回は前回の記事「再び天孫降臨の地へ」の続きとなります。実は前回の記事を書き上げてからまたしても調査のため福岡県に向かうこととなりました。個人的に縁の深い土地ではありますが、それ以上に古代史の秘密が凝縮された土地であり、これからも福岡詣では欠かせないだろうと予想しています。

さて、伊勢神宮とそっくりの櫻井神社を調査した後に私が向ったのは、支石墓(しせきぼ)で有名な、糸島市の志登(しと)周辺で、取り敢えず目標地点は志登神社に合わせました。

支石墓とはWikiペディアには次の様に説明されています。

支石墓(しせきぼ)は、ドルメンともいい、新石器時代から初期金属器時代にかけて、世界各地で見られる巨石墓の一種である。基礎となる支石を数個、埋葬地を囲うように並べ、その上に巨大な天井石を載せる形態をとる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%AF%E7%9F%B3%E5%A2%93

そして、ここ糸島の支石墓については、糸島市のホームページに志登支石墓群として次の様に説明されています。

この遺跡は糸島市北部の田園地帯、標高約3メートルの低地にある墓地群です。発掘調査は戦後間もない昭和28年(1953)に行われ、わが国における支石墓研究の貴重な1ページを飾ることとなった著名な遺跡です。

調査では、弥生早期から中期(約2500から2100年前)にかけての支石墓10基、甕棺墓8基などが発見されており、支石墓のうち4基が調査されました。支石墓とは遺体を埋葬した上に大きな上石を置くお墓です。元々は朝鮮半島によく見られるお墓ですが、弥生時代の始まった頃に日本にその作り方が伝えられました。上石は花崗岩や玄武岩を使用し、大きいものは長さ約200センチメートル、幅約150センチメートル、厚さ約60センチメートルにも及びます。埋葬施設は素掘りの穴(土壙)や木棺であったと考えられます。副葬品として6号支石墓から打製石鏃6点、8号支石墓から柳葉形磨製石鏃4点が出土しています。支石墓は弥生早期から前期(約2500から2200年前)に造られたと考えられます。

支石墓に副葬品が納められるのは非常に珍しく、特に柳葉形磨製石鏃の出土は朝鮮半島との交流を物語る貴重な資料です。

志登支石墓群から可也山を望む


https://www.city.itoshima.lg.jp/s033/010/020/010/110/130/shito-bogun.html

このページの写真に添えられたキャプションにも注目して頂きたいのですが、この背景に見える山は、糸島を象徴する山で、可也山(かやさん)と呼ばれています。

説明文には支石墓について「朝鮮半島によく見られるお墓ですが、弥生時代の始まった頃に日本にその作り方が伝えられました」とあります。ここで、山の名から朝鮮半島南部に存在したとされる伽耶国(かやこく)との関連性が気になります。もっとも、伽耶国の存在時期は3世紀から6世紀とされているので、時代的には糸島の支石墓が作られた時期とは合いませんが、伽耶国成立以前から長期に亘って糸島と朝鮮半島の間で行き来が続いていたことを連想させるのです。

ご存知のように、神話における天孫降臨の主人公である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)をモデルにして、アニメ映画「もののけ姫」の登場人物であるアシタカが描かれいるのですが、同じようにその母である栲幡千千姫(たくはたちちひめ)がカヤの名で同作品に登場します。

画像1:アシタカとカヤ

天孫降臨が現実の史実としていつ頃行われたのかは微妙なところですが、私の予想ではおそらく1~2世紀頃、時代的には志登に支石墓が作られたその後位で、伽耶国成立よりも前になるかと考えられます。

なぜアニメでは千千姫に「カヤ」という朝鮮を連想させる名前が付けられ、朝鮮様式の衣装をまとう姿でキャラクターがデザインされたのか、それが前から気になっていましたが、もしかしたら伽耶国と古代日本の関係を理解するヒントがここ糸島には残されているのかもしれません。

■志登神社は海の役所か?

実は7年前の2014年にも志登神社を訪れているのですが、その時は放火による火事で本殿が消失した直後であり、それはもう無残な姿でした。

今回の訪問はその時以来だったのですが、見事に再建されており、それを見てひとまず安心しました。

画像2:志登神社

さて、この志渡神社の周囲がどのようになっているのかを示したのが次の写真です。

画像3:志登神社前から周囲を見渡す(Googleより)

神社は四方を田んぼに囲まれ、見渡した向こうに背振の山々や可也山が見えるといった、非常に見通しの良い場所にあります。件の支石墓も、この田んぼの中に点在する小さな緑地として確認することができます。

何だかどこにでもある地方の神社のようですが、この神社のかつての役割は、支石墓が作られた海進期の頃の地形を知らないと見えてこないでしょう。

それは次の、当時の予想地形図を見るとはっきりするのです。

画像4:志登神社は海峡の中にあった
(☆は再建された志登神社、〇は三雲南小路遺跡)

現地に行くと分かるのですが、神社のある場所は周囲よりもわずかに標高が高い。同様にに支石墓のある場所もわずかに高いようです。これは、海進期において糸島が浅い海峡で分断されていた頃、ここが海峡の海面から僅かに顔を覗かせた中州のような小島であったことを思わせます。

おそらく、海峡に入ってきた小舟が船を寄せる場所だったのではないでしょうか。そして現在志登神社となっている場所は、海峡に入る船がその上陸許可を求める、関所のような海の役所的存在であったと考えられるのです。

ここに限らず、海辺にある神社とは、古くはお参りする場所と言うより行き交う船の目印であって、上陸や荷揚げに必要な手続きを行う、何か役所的な機能を担っていたと考えられるのです。現在は参道の灯篭に灯が入るのを見るのは稀ですが、かつては、夜間の灯台の如く、一晩中灯が灯されていたのではないでしょうか。

私の歴史アドバイザーであるG氏は、「志登」とは「七斗(しちと)」の変名であり、七斗とはその名の通り北斗七星を表す。そして北斗七星こそ操船を生業とする海神系民族にとっては航海における目印であり、それゆえ崇拝の対象でもあったのではないかと述べています。

■王墓と金印

志登神社を訪ねた後、私は糸島市の南寄り、背振の山々にも近い三雲へと向かいます。ここには3種の神器が出土した国内有数の王墓「三雲南小路遺跡(みくもみなみしょうじいせき)」があります(画像2を参照)。

画像5:三雲南小路遺跡

ここが何故王墓と呼ばれるかと言えば、それは出土品に剣・鏡・勾玉のいわゆる3種の神器が全て揃っているからです。この3種が揃って出土しているケースはこれまで調査された遺跡の中ではここを含めて確か数か所程度であると記憶しています。

すなわち、この遺跡の被葬者は、考古学上の分類でよくありがちな「地方豪族」で片付ける訳にはいかない身分の人物なのです。現地の案内板では「伊都国の王ではないか?」とされていますが、王墓の推定年代(約2000年前)からすると、ちょうど天孫降臨が行われた前後となるので、記紀の神代や、秀真伝のアマカミ時代にあたりに登場する人物の可能性も捨てきれないのです。

遺跡は埋め戻されて、現地を見ても田んぼの中の空地に案内板だけが立っている体なのですが、ここの見所はむしろそこから少し離れた所に鎮座する細石神社(さざれいしじんじゃ)なのではないかと私は考えています。

画像6:細石神社

この神社と王墓跡との位置関係は下図のようになっています。

画像7:細石神社と王墓の位置関係

上図をご覧になれば分かるように、この神社はまるで王墓を遥拝するかのように建てられているのです。ですから、ここはかなり古くからこの王墓と関係する場所であったと考えられるのですが、驚くのはこの神社にはあの有名な金印にまつわる伝承が残っているのです。

画像8:金印(福岡市博物館HPから)

金印を収蔵している福岡市博物館の説明には次の様にあります。

金印は江戸時代、博多湾に浮かぶ志賀島(しかのしま)で農作業中に偶然発見されました。その後、筑前藩主である黒田家に代々伝わり、1978年に福岡市に寄贈されました。
 金印に刻まれた「漢委奴国王」の五つ文字からは、漢の皇帝が委奴国王に与えた印であることが分かります。そして中国の歴史書『後漢書』には、建武中元二(57)年に、光武帝が倭奴国王に「印綬」を与えたことが書かれており、この「印」が志賀島で見つかった金印と考えられるのです。

http://museum.city.fukuoka.jp/gold/

ところがG氏が細石神社の宮司さんから直接聞いたという話によると

あの金印は元々細石神社の宝物として所蔵していたものだが、ある時、それを見たいという黒田藩主の要望に従い献上したところ、それ以来戻ってきていない。そして、志賀島で偶然発見されたという伝承と共に、黒田家から福岡市博物館に納められた。

ということらしいのです。これはおそらく、現皇室以外の王家が日本に存在したのではないかという史実を黒田家が恐れ、しばらくの間この金印の存在を隠匿した後に、金印の発見に直接関わっていないことを言い訳する理由として、このような志賀島発見譚を添えたのだろうと、G氏は推測します。

画像9:細石神社と金印発見場所の位置関係

糸島は一般的な解釈では、その地名から魏志倭人伝に登場する「伊都国」の地と考えられがちですが、王墓と細石神社の金印伝承から窺えるのは、この地が「伊都国」ではなくむしろ「奴国」だったのではないかということです。

少し話が逸れてしまいますが、邪馬台国論争の九州説が定まらない一番大きな理由とは、「伊都国」を勝手に「糸島」と解釈してしまっていることでないかと私は考えます。同じように末羅国(まつらこく)を現在の長崎県の松浦に同定していることも、その原因なのでしょう。

私が以前から繰り返し主張しているように、日本という国は古代から計画的に史実の改ざんを行っている節があるので、現在残る地名が本当に古代からのものかどうかは注意が必要なのです。

ですから、金印を巡り黒田家が本当に恐れたのは、現皇室以外の王の存在よりも、むしろ奴国の正確な所在が突き止められることだったのではないかとも考えられるのです。それならば、「王権の印綬が志賀島で偶然発見された」という冷静に考えれば作り話としか思えない発見譚が添えられた理由も見えてくるのです。

* * *

さて、以上の考察を続けてきて私の頭はますます混乱してきました。昨年の記事「天孫降臨と九州(2)」では、糸島こそが天孫降臨の現実の舞台なのではないかと仮説を提示しましたが、ここに来て、支石墓と伽耶を巡る朝鮮半島との関係、そして奴国と漢王朝(後漢)との関係性まで浮上してきてしまったのです。

現在の歴史学の定説に従い、これらを時代順に整理すると次のようになるかと思います。
 (1)支石墓の時代(朝鮮との行き来)
 (2)奴国王金印授受・天孫降臨
 (3)伽耶国誕生(朝鮮との行き来)
 (4)倭国大乱
 (5)邪馬台国時代(他に奴国、伊都国、末羅国等)

これを見ると、天孫降臨の推定時期と奴国王に金印を贈った後漢時代が重なってきますから、奴国王とはいわゆる現皇室の祖である天照(実在した男性王)と無関係だとは言い切れません。むしろ皇統関係者であると見るべきで、3種の神器が揃っていることが逆にそれを表しているとも考えられます。つまり、天孫降臨の地が糸島であったことを裏付ける補強材料となる可能性もあるのです。

頭がいっぱいになったところで、このトピックは取り敢えずここまでとし、次は福岡の重要歴史スポットである太宰府を見てみることにしたいと思います。


古の王可也の山見て何をか語らん
管理人 日月土

再び天孫降臨の地へ

先日、私が天孫降臨の地ではないかと推定する福岡県は糸島市を再び調査に行ってきました。その前は青森県の弘前市ですから、北から南へと私も随分と忙しく移動しているものだと、我ながら呆れてしまいます。

天孫降臨ついては昨年の次の記事で私の考えを述べています。

 ・天孫降臨と九州 
 ・天孫降臨と九州(2) 

また、天孫降臨神話の脇役として重要な位置を占める猿田彦について、実在しただろう天孫降臨出立の地を現在の千葉県東部沿岸地域と推定した上で、幾つか考えを示しています。

 ・天孫降臨とミヲの猿田彦 
 ・椿海とミヲの猿田彦 
 ・麻賀多神社と猿田彦 

ご存知のように、天孫降臨の主役となるのは日本神話における瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)ですが、アニメ映画「もののけ姫」に登場するアシタカがどうやらこの瓊瓊杵尊をモデルに描かれていることを突き止め、最近までアニメストーリーを元ネタに、歴史的事実を考察してきたのは、このブログの読者様ならあえて尋ねるまでもないかと思います。

 ・愛鷹山とアシタカ 
 ・もののけ姫と獣神たち 
 ・犬神モロと下照姫 
 ・下照姫を巡る史書の暗号 
 ・モロともののけ姫の考察 
 ・サンがもののけ姫である理由 
 ・もののけ姫 - アマテルカミへの呪い 
  (以上掲載順)

アニメの構造分析対象は「もののけ姫」から「千と千尋の神隠し」へと移り、ここでは、偶然なのか、あるいは関連があるのか、天孫降臨の出立推定地である千葉県東部地方が再びクローズアップされます。

 ・千と千尋の隠された神 
 ・千と千尋の隠された神(2) 
 ・千と千尋の隠された神(3) 
  (以上掲載順)

このように、天から神が降りて来て現在の天皇家の祖先となったとする天孫降臨神話は、日本書紀や古事記の記述がファンタジーから現実的な史実へと切り替わる重要なターニングポイントであり、日本の成り立ち、日本の国史を考える上でも極めて重要な一節であることが窺えます。

そのような重要史実であるからこそ、国民的アニメ映画の題材に使われたと考えられ、同時にこの史実を解明することで、神話化・ファンタジー化されてしまった、私が上代と呼ぶ、太古の日本社会がどのようなものであったのかが見えてくると期待されるのです。

天孫降臨のあった時代は、現代の歴史学的には弥生時代に入ったところ(紀元前百年前後)と推定されますが、前回の記事でも書いたように、縄文式の生活スタイルは関東・東北地方などには長く残ったとも考えられ、この時代は弥生式・縄文式の両文化が並立していたのではないかと私は見ています。また、そのような異文化同士が交流し統合し合う時代だからこそ、天孫降臨なる一種の冒険譚のような物語が作られ、同時に消えていった側の文化が神話という、架空の物語に置き換えられてしまったのではないかとも思えるのです。

さて、昨年の記事では地図上の分析が中心で、糸島という土地の雰囲気が伝わりにくかったかと思います。歴史スポット、また観光名所としても糸島の見所は幾つもあるのですが、ここではまず、私もたいへん気に入っている糸島の櫻井神社とその周辺についてレポートしたいと思います。

■九州の伊勢

画像1:夫婦岩

九州北部にお住いの方ならば、この写真を見てすぐにどこか分かるかと思います。しかし、他地域の方はもしかしたら、こちら(画像2)の方を連想してしまったのではないでしょうか?

画像2:夫婦岩

画像1は糸島市志摩桜井にある二見ヶ浦、そして画像2は伊勢市二見町にある全国にも知られた二見ヶ浦の夫婦岩なのです。

同じような形状の夫婦岩なら日本全国どこにでもありそうですが、「二見ヶ浦」という地名も同じですし、「志摩」という地名も、伊勢志摩で一括りされることの多い、三重県伊勢地方の地名に呼び名がそっくりです。また「桜井」という地名も、どことなく三重県の隣、奈良県の桜井市を想像してしまいますよね。

私も初めてここを訪ねた時、「何だここは、伊勢のコピーか?」と思ったものです。しかし、時に地名というものは深い意味付けをされている場合もありますから、糸島と伊勢に何か同じような意味が込められていたとするなら、それを象徴する地名が似たり同じになったりするのはそれほどおかしなことではありません。全国の県庁所在地、多くは旧藩政の城下町だった都市に、赤坂や千代田があるのと同じだと考えられるのです。

伊勢の二見ヶ浦の場合は、第11代垂仁天皇の皇女、倭姫(ヤマトヒメ)が景色の美しさに二度振り返ったとの伝承がありますが、果たしてそれが地名の本当の由来なのか定かではありません。おそらく、神事に絡む別の深い意味があったのではないかと想像されます。

さて、糸島の二見ヶ浦の場合は、砂浜に大きな石が意図的に置かれている、あるいはそこだけ岩場が残されているのが、次の画像3から見て取れます。

画像3:夫婦岩の周辺だけ岩場になっている

この岩場は一体何なのでしょうか。そこで、岩場から夫婦岩を眺めた画像1の写真から、両岩間にある空間を拡大してみました。

画像4:手前の大石の向こうに小呂島が見える

夫婦岩を覗くとその向こうに小呂島(おろじま)が見え、それが見える丁度その位置に大石が置かれているのが次の画像5でお分かりになると思います。つまりこの大石と小呂島を一直線に繋ぐと、うまく夫婦岩の間を通るように配置されているのです。

画像5:手前の大石の向こうに小呂島が見える

白い鳥居が最近になって建てられたのは明白で、二見ヶ浦で重要なのはむしろ小呂島を強く意識したこの大石なのでしょう。なぜ小呂島なのかと言えば、次の地図を見ればその意図が見えてきます。

小呂島は海上移動の中継地点

画像6を見ればお分かりになるように、小呂島は小さな島ですが、壱峻島、唐津、福津などからほぼ等距離の位置にあり、海上交通の要衝として極めて重要な位置にあることが分かります。古代、海上での移動が危険だった頃、こうした中継地点の存在は欠かせなかったはずです。

特に福岡は朝鮮半島や大陸との窓口でしたから、ここを行き交う船は小呂島を経て壹岐、対馬、朝鮮半島、あるいはその逆を進んでいたと考えられます。その大切な小呂島を見守り航海の安全を祈願するのが、もしかしたらこの二見ヶ浦に持たされた役割だったのではないでしょうか?

これは蛇足かもしれませんが、画像6の地図に能古島(のこのしま)の位置を入れておきましたが、小呂島と能古島の両島名を合わせると

  おろ+ノコ → おノコろ

となるのが分かります。おのころ島とは、日本の国生み神話で、イザナギとイザナミの二神が最初に作ったとされている島のことです。二見ヶ浦の夫婦岩にはそのイザナギ・イザナミ神が祀られています。そして能古島には、イザナギ石・イザナミ石というちょっと風変わりな石積みが残されており、こうなると島名の関連性を単なる言葉遊びで片付けてよいのか気になるところであります。この話は長くなりそうなので、別の機会に考察することにしましょう。

■伊勢神宮を思わせる櫻井神社

福岡のパワースポットとして、福岡県人には良く知られた櫻井神社。この神社は二見ヶ浦のすぐ裏手の小山の上に鎮座しています。この神社の入り口から鳥居の奥を見ると次の写真のようになっています。

画像7:櫻井神社の入り口正面

鳥居を抜けたすぐ先には石造りの太鼓橋が掛かっており、画像7ではその先が橋に隠れて見えません。それでは橋を越えて真っすぐ石畳の参道を進めばそこが櫻井神社なのかというと、実はそうではないのです。参道の行き着く先、その末端にあるのは、

 猿田彦神社

なのです。

画像8:猿田彦神社。参道はここに向かっている
裏手も古墳か?

そもそも櫻井神社は江戸時代初期の1632年、二代目福岡藩主の黒田忠之(くろだただゆき)によって造営されたとその由来に書かれています。造営のきっかけとなったのは、天災によって土が流され、古墳の石室が現れことに始まります。それを藩主の黒田氏が社殿を建て丁重に祀ったことで現在に至っています。

その辺の詳しい云われは猫間障子さんのブログに詳しいので、そちらにお任せしますが、旧号で與止姫大明神(よどひめだいみょうじん)と呼ばれた櫻井神社の歴史は、比較的新しいと言えるでしょう。もちろん信仰の元となった古墳そのものは当然古墳時代のものであるでしょうけども。

よって正面入り口と参道、社殿の位置関係から、櫻井神社の本来の信仰対象はこの猿田彦神社でなかったのかと推測されるのですが、そのような事実は同社のホームページを見ても書かれていません。ここで櫻井神社の社殿の配置を図に表すと画像9のようになります。

画像9:櫻井宮と大神宮は参道の両脇にある

この、2つの宮の中央部分に猿田彦神社を配置する造作は、実は三重県の伊勢神宮でも見られるものです。しかし、伊勢と言えばやはり伊勢神宮の内宮と外宮がメインであり、猿田彦の子孫と言われる宇治土公(うじとのこう)氏が宮司を務める猿田彦神社についてあまり意識されることはありません。

画像10:伊勢神宮の場合も猿田彦神社が間にある

いつものことですが、私はこのように敢えて言葉で触れられていない事実を見ると、そこに物事の真意が隠されているのではないかと考えます。特に日本の歴史には隠し事が多いので、文字に残さずとも構造物を通して真実を残すやり方は大いにあり得ると考えます。

それはともかく、夫婦岩と言い、地名と言い、社殿の配置と言いとにかくこの社の作りは伊勢とそっくりなのですが、それもそのはずで、櫻井神社を造営する時にわざわざ宮大工を伊勢から招聘したというのですから、様々な部分で両者が似てくるのはさもありなんといったところでしょう。

実際に、境内の鳥居の一部は最近になって移築されたもののようです。また、一目見れば桜井大神宮は伊勢神宮の作りにそっくりですし、1800年代の後半まで20年に一度の式年遷宮まで行われていたそうです。現地には、かつて遷宮が行われていただろう、礎石を残した開けた場所が残されています。

画像11:どこか伊勢神宮ぽい櫻井大神宮

■謎の祭神、與止姫命

私も猫間障子さんのブログを読んで初めて知ったのですが、元の社号でもあり、由来にも祀られていると書かれている「與止姫大明神」こと與止姫命は、実はこの神社の創建以来一度として正式な祭神として祀られたことが無いようなのです。それって一体どういうことなのでしょう?

画像12:左上から櫻井神社の楼門・拝殿・岩戸宮

櫻井神社の造りはとにかく立派であり、さすが長く福岡藩主の厚い庇護を受けてきたものであると納得するものです。古びて派手さが薄れてきているのが、むしろ良い味を出しているとも言えます。

この神社の一番の見所は、年に一度お正月の頃に開かれる同社の奥宮に当たる岩戸宮でしょう。私もかつて友人に誘われ、開かれた岩戸宮の石室に入り中でお参りしたことがあります。それはもう厳かで、日本古来の信仰のあり方を肌身で感じることのできた良い体験でした。

そうなると、この石室の埋葬者、おそらく與止姫命のことではないかと思われるのですが、その人物がどのような方であったのか気になります。ところが、その肝腎の信仰主体が祭神にも祀られず、その正体も不明と言うのですから、何とも不可解な話です。

與止姫命の名は、猫間障子さんのブログにもあるように、実は佐賀県内の神社で多く見られます。おそらく、糸島から背振の山々を経て佐賀に至る地域に良く知られた古代人女性であったのだとは類推できるのですが、記紀にも登場せず、その他の伝承にも乏しいため、どのような人物だったのか特定するのは難しいようです。

Wikiによると、與止姫命と呼ばれる歴史上の人物(神様)の候補に、「神功皇后の妹」あるいは「豊玉姫」の二説があるようですが、それも定かではありません。

この謎の人物である與止姫命の正体については、次のメルマガで私の考察を述べさせて頂こうと考えています。私は、神社の名に冠せられているのに「祭神として祀られていない」という事実そのものが、この人物を特定する上で重要な鍵であると考えます。


 * * *

天孫降臨について少しは触れるつもりでしたが、今回は二見ヶ浦、櫻井神社という糸島の限られた一地域のご案内で終わってしまいました。しかし、ここを俯瞰するだけでも、この地に秘められた歴史の奥深さがお分かりになられたのではないでしょうか。

次回は、糸島に眠る王墓について見ていきたいと思います。ここにきていよいよアシタカ(瓊瓊杵尊のこと)の名前が登場してきます。


とこしえに思ふ椿麗し姫の園
管理人 日月土

土偶は何を語るのか?

今回もまた、今月上旬に津軽地方を調査した時の報告となります。津軽の縄文遺跡と言えば、忘れてならないのはやはりこれでしょう。

画像1:五能線木造駅の駅舎
全長17mの遮光器土偶を象ったデザインで有名

駅舎モデルとなったこの遮光器土偶は、木造駅から北西方向へ10km程度離れた亀ヶ岡石器時代遺跡から出土したものとされています。

画像2:亀ヶ岡石器時代遺跡から出土した遮光器土偶
Wikiペディアから(東京国立博物館展示)

亀ヶ岡石器時代遺跡も訪れてみましたが、基本的に発掘跡は埋め戻され、これといった展示施設もなく、草が刈られた空き地に写真のような説明パネルが申し訳なさそうに建てられているだけで、正直なところ少々期待外れだった感は否めません。

それでも、現場におられた発掘中の作業員さん(皆さん女性)に土地の状況や今後の発掘の展望などお話を伺うことができ、この地の発掘や研究などはまだまだこれからの課題であり、遺跡の分析が進むにつれて、何か大きな成果が発見されるのではないか、そんな期待を抱くに十分魅力的な土地であったことは記録に留めておきたいと思います。

画像3:亀ヶ岡石器時代遺跡の発掘現場

■土偶の謎

一口に土偶と言っても、遮光器土偶の他、様々な土偶が全国で発見されています。以下、Wikiや博物館などネット上で公開されている写真画像を幾つかピックアップしてみました。

画像4:様々な土偶と出土遺跡
1. 長野県棚畑遺跡      
2. 山梨県鋳物師屋遺跡     
3. 岩手県長倉I遺跡      
4. 長野県中津原遺跡     
5. 青森県三内丸山遺跡     
6. 青森県二枚橋2遺跡      
7. 山形県西ノ前遺跡(縄文のビーナス)
8. 群馬県郷原遺跡(ハート型土偶)

土偶を出土場所を調べていて気付いたのですが、やはり土偶類も縄文遺跡の密集度に比例して、琵琶湖以東に当たる東日本・東北地方での出土が圧倒的多数を占めています。近年、その精神性や芸術性の高さが見直されている縄文時代の出土品ですが、そうなると、日本人の精神性が古くは東日本を中心に形成されたとは言えないでしょうか?もしもそうなら、九州から関西を中心に記述されている日本古代史、特に神代の解釈は、今後大きく修正される可能性を秘めているとも言えます。

さて、土偶を取り上げたところで、そもそも土偶は何を象徴しているのかという疑問が生じます。考古学の一般的な解釈では、多産・豊穣・地母神など「女性性」の象徴と言われていますが、画像4を見れば分かるように、土偶の形状は必ずしも女性性を表しているものばかりとも言い切れません。実際の所、土偶が何であるかという問いについては、最初の研究から100年以上経った現在でも、核心的なことは分からず謎のままであるようです。

そうやって謎であるのをいいことに、私が子供の時に読んだ本の中には「土偶=宇宙人」説という奇説まであり、私も一時期はそれもあり得るかもしれないと本気で信じていたものです(笑)

ここで人類学者の竹倉史人さんによる土偶の新解釈に関する記事を見つけたので、その記事から私が重要と思う部分を抜き出して紹介しておきましょう。

日本考古学史上最大の謎「土偶の正体」がついに解明
「土偶は女性モチーフ」の認識が覆った!驚きの新説(前編)

 (中略)
土偶の存在は、かの邪馬台国論争と並び、日本考古学史上最大の謎といってもよいだろう。なぜ縄文人は土偶を造ったのか。どうして土偶はかくも奇妙な容貌をしているのか。いったい土偶は何に使われたのか。縄文の専門家ですら「お手上げ」なくらい、土偶の謎は越えられない壁としてわれわれの前に立ちふさがっているのである。
 (中略)
結論から言おう。
 土偶は縄文人の姿をかたどっているのでも、妊娠女性でも地母神でもない。〈植物〉の姿をかたどっているのである。それもただの植物ではない。縄文人の生命を育んでいた主要な食用植物たちが土偶のモチーフに選ばれている。
 (中略)
 古代人や未開人は「自然のままに」暮らしているという誤解が広まっているが、事実はまったく逆である。かれらは呪術によって自然界を自分たちの意のままに操作しようと試みる。今日われわれが科学技術によって行おうとしていることを、かれらは呪術によって実践するのである。
  (中略)
つまり、「縄文遺跡からはすでに大量の植物霊祭祀の痕跡が発見されており、それは土偶に他ならない」というのが私のシナリオである。このように考えれば、そしてこのように考えることによってのみ、縄文時代の遺跡から植物霊祭祀の痕跡が発見されないという矛盾が解消される。
(以下略)

引用元:JBpress https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65038

結論は既に本文冒頭に書かれていますが、改めて簡潔に書き直すと次の様になるかと思います。

 土偶とは植物霊祭祀の一環として食用植物を擬人化したもの

そして、竹倉氏の記事は後編へと続くのですが、そこでは新説の実証として、縄文時代から自生する食用植物と土偶の形状との比較をオニグルミを題材に細かくかつ具体的に検証されています。

この食用植物擬人化説が定説と成り得るかどうかは今後の更なる検証を待つとして、「呪術」や「祭祀」を当時の人々の純粋な「必然的実践」として捉え直した点はたいへん重要であると私も評価します。

当時の人々にとって世界がどう見えていたのか、それは現代社会の常識でいくら俯瞰してみたところで理解できるはずがありません。彼らにとっては、それが生き残るために絶対に欠かせない要素であるからこそ土偶を作ったはずです。

彼らが土偶を必要としたその時代の論理と背景、それを追求することこそが土偶の謎を解明する上での最初のステップである、その点において私は竹倉氏のアプローチには全面的に賛同できるのです。

ただ一つ付け加える要素があるとすれば、せっかく「呪術」という歴史観を得たのなら、それを植物霊祭祀に限定して議論することは少し性急ではないかということです。というのも、古代呪術とは森羅万象に及ぶものであり、草木魚貝の形状のみに拘るような小さなものではないと考えられるからです。

例えば、東北地方に多く見られる環状列石をどう説明したらよいのでしょうか?一般的に天体の運行に関係しているのではないかと言われる環状列石も、呪術における一つの形態と考えれば、植物霊祭祀と全く無縁であったとも言い切れません。植物は陽によって育ち、雨によって育まれることくらい古代人も理解していたはずです。そのような天体を含むこの世の万物に対する信仰姿勢や呪術的手法まで突き詰めない限り、早々に結論を出すべきではないと私は考えます。

画像5:大森勝山遺跡の環状列石跡(背景は岩木山)

■東日流外三郡誌が記述する土偶

前回の記事で、東日流外三郡誌(以下三郡誌と略す)をご紹介しましたが、ここでまた、三郡誌が遮光器土偶についてどのように述べているのか、参考までに書籍から一部を抜粋し掲載したいと思います。

画像6:東日流外三郡誌に登場する遮光器土偶
※八幡書店 東日流外三郡誌1古代編(下)320ページより

同書によると、この絵が転写されたのは寛政5年ということですから、西暦で言うと1793年ということになります。1800年代後半の明治期に土偶の研究が始まったとされていますから、それよりも100年前に三郡誌は既に土偶について触れていたということになります。もちろん、この記述が本当ならばですが。三郡誌は後年になってかなり書き足された形跡も見られるので注意が必要なのです。

一応、記述が正直なものであると受け止めて解釈すると、遮光器土偶は荒吐国(アラハバキ)で崇拝された神の姿を象ったものであるということになります。

同書によると、荒吐国の信仰対象とは日月水木金火土鳥獣魚貝などの自然物や、雨風病死などの自然現象だったと言います。大きく捉えれば自然崇拝となるでしょうか。そして、それぞれの自然物・現象を神として崇めたとあり、それらが各々偶像化されたものが上図にあるような土偶の意味であると言ってるようです。

同書には上図に続き、遮光器土偶の姿をした神、ハート型土偶の姿をした神、そして変わり種としてはユダヤ教祭司のような姿をした神まで挿絵として登場します。その中で圧倒的に多いのは遮光器土偶型ですが、正直なところそれぞれの形状の違いは明瞭に見分けが付きません。各挿絵には草神・木神・魚神などの神名が添えられています。食料に関する神々も多数登場しますが、ここで大事なのは、土偶は信仰の対象として作られたと記述されている点でしょう。

残念なのは、なぜこのような遮光器を被っているような形状の頭部になるのか、あるいはハート形のような不思議な形状の頭部になったかの説明はなく、ただそれを「荒吐の神々」と断じている点です。また、画像4で示したような、全国で見られる土偶のバリエーションについては記されておらず、この記述を以って土偶とは何かを論ずるのは、やや早計かと思われます。その点では竹倉氏の考察の方がより説得力があると感じます。

土偶の意味は古代信仰・呪術、引いては古代社会の世界観を知る上でたいへん重要であると私は見ます。よって、三郡誌が土偶について触れた点も含めて、後日改めて考察を深めたいと考えています。

 * * *

このブログでこれまで取り扱った古代とは、記紀の神代に相当する部分であり、現在の歴史学的な区分では弥生時代に相当します。しかし、縄文や弥生を時代を区分する記号として使用するのは少しおかしくはないでしょうか?

中世時代に至るまで東北地方が弥生以降の文明の侵入を阻んでいたと言うなら、東北地方は2000年近くも長く旧来の縄文文化圏のままであったことになります。つまり、縄文とは時代を指す言葉ではなく、あくまでも文化スタイルの違いを表す言葉に過ぎないことになります。

そうなると、弥生・縄文の文化的併存時代が長期に亘って存在したことになり、古代の時代区分として弥生と縄文を使い分けるのに意味はなくなります。むしろ、2つの異文化がどう混じり合い進化してきたのか、そこを問うことに大きな意味があるのでしょう。

その意味でも、縄文文化の影響をより強く残す関東以北、つまり日本の東半分に注目しなければ真実の日本古代史は見えてこないだろうと私は予想するのです。


古人の山と語りせば神とぞ見ゆ
管理人 日月土

千と千尋の隠された神(3)

-琥珀に刻まれたメッセージ-

アニメ映画「千と千尋の神隠し」(以下「千と千尋」と記述を省略)、これまでの考察からその裏ストーリーが示すこの映画のモデル地を、

 千葉県東総地区(現銚子市・旭市・東庄町)

と特定し、また、映画に描写された構図などから、「油屋」のモデルが、千葉県銚子市に鎮座する

 猿田神社

であることを導きました。

この結論に対し、関東の東の外れにあるいかにも閑散とした地方都市と、あまり有名とも言えない田舎の神社が、どうしてあの大ヒット映画の聖地になり得るのか?と、まだ納得できない読者様も多いかと思います。

そこで、前回は省略しましたが、上記の結論でほぼほぼ間違いないだろうという、決定的な事実をここでお知らせします(メルマガ8月16日号では解説済)。

■舞台特定の決め手:琥珀

画像1:ハクは龍と人間の2形態を持つ
同じ設定が「竜とそばかすの姫」の「リュウ」にも使われている

ご存知の様に、上図はこの映画の主要登場人物の一人である通称「ハク」であり、そして湯婆に奪われたその本当の名は

 ニギハヤミコハクヌシ ・・・(1)

であることを思い出してください。次に以下の図を見ていただきたいと思います。

画像2:幼い頃に千尋は川で溺れた

溺れた千尋を助けたのが白い龍神となった「ハク」なのですが、この川の名前は何であったでしょうか?そうです、

 コハクガワ ・・・(2)

なのです。

(1)と(2)に共通する文字列が「コハク」となることはすぐに気付かれたと思いますが、同時に、この様に重ねて命名するからには、この文字列に何か特別な意味があろうことは、読者の誰もが想像し得るのではないでしょうか?

「コハク」とは素直に解釈すれば「琥珀」、英語で言うところの amber(アンバー)であり、太古の樹脂が化石化したものです。宝石などに興味がある方なら、宝石の原石の一種であることは既にご存知かと思います。

画像3:琥珀

実はこの琥珀、日本にもその産出地として知られた土地が二箇所あり、その一つが

 千葉県銚子市

なのです。そして、縄文時代には既に琥珀を加工していた痕跡が銚子の遺跡からは見つかっています。

画像4:日本における琥珀の産地
画像引用元:久慈琥珀株式会社

日本全国でも産地が限られている「琥珀」。その「コハク」の呼び名が映画の中で重ねて使われているだけでなく、その主要産地までが、これまでの考察によって得られた映画のモデル地「千葉県東総地区」とピッタリと重なるのは、もはや偶然で済まされる話ではありません。この映画は

 明らかに千葉県東総地区を意識している

と断言しても良いのです。

そして、琥珀とは元々樹脂でありますから、当然ながら油の一種です。前回の記事で取り上げた当地の産物を併せて列記すると次の様になり

 1)醤油
 2)椿 (種子から油)
 4)紅花 (食用油)
 3)キャベツ (アブラナ科)
 4)養豚 (脂肪の多い食肉)
 5)琥珀 (樹脂)

以上の様にどのアイテムも「油」に絡んでくるのです。ですから、映画の中で湯処であるはずの「湯屋」がどうしてわざわざ「油屋」と表記されているのか、この「油」の一文字を見ただけで、この映画のモデル地がどこであるのか特定できるようになっているのです。

画像5:「油」の字は映画モデル地の象徴である

■千尋の母の声は沢口靖子さん

ここまで諸要素が重なると、もはやモデル地を特定するアイテムを羅列することに意味は無いのですが、もう一つだけ、千尋の母の声を担当したのが女優の沢口靖子さんであったことは特筆しなければなりません。

沢口靖子さんと言えば、以前にも触れましたが、1985年4月~9月放映のNHK朝の連続テレビ小説「みおつくし」で主演デビューしたことで知られています。

画像6:千尋の母とみおつくしの沢口靖子さん

覚えておられる方も多いと思いますが、このドラマの舞台とは「銚子」の「醤油」蔵だったのです。ここにも、声優の配役を通して、銚子と繋げようとする映画制作側の強い意図を感じずにはいられません。

この「みおつくし」という名前、昨年の記事「椿海とミヲの猿田彦」で解説したように、非常に注意が必要です。なぜなら、秀真伝によると「みお」とは猿田彦が宮を築いた土地名を指し、「つくし」とはすなわち「筑紫」、日本神話においてニニギノミコトが天孫降臨した九州北部を指す地名で、その天孫降臨は猿田彦の導きによってなされたとされています。

ここでいよいよ歴史の暗号が絡んでくる訳なのですが、「銚子」と「猿田彦(神社)」というキーワードのセットが、沢口さんを通して「みおつくし」と「千と千尋」の両方に出現するという事実には何か非常に強い作意を感じます。

「みおつくし」が放映されていたその期間(1985年4~9月)に、ちょうどあの123便事件が発生しました。この1985年という年に注目することにより、「千と千尋」の細かい設定の中に別の意図が潜んでいることが分かってくるのです。

■千尋の家族が「荻野」姓である理由

千尋とその両親の荻野(おぎの)家は、廃墟となったリゾート地に迷い込みます。料理の良い匂いに誘われ、3人は無人の商店街に迷い込むのですが、その時の街の描写をよく見て頂きたいたいのです。

画像7:「荻野」と「尋」の名前が奪われようとしている
画像8:無人の街と荻野さん

私もそうでしたが、このシーンを見て誰もが薄気味悪さを覚えたのではないでしょうか?特に気になるのは、まるでつげ義春氏の漫画の世界を思い出させる次の看板だったのではありませんか?

画像9:「め」の看板とプロビデンスの目
プロビデンスの目とは「全てを見通す目」の意味

ここが眼医者なのか薬屋なのか、あるいは眼球そのものを売買しているお店なのか分かりにくい看板ではありますが、陰謀論でお馴染みの「プロビデンスの目」と見ることもできます。しかし、この気色悪さだけに注目しているとそのデザインの真意は見えてきません。

このシーンの中に「荻野」さんたちの居ることが非常に重要なのです。私たちは深層心理の中で、視覚や聴覚で得た膨大な情報を無意識の内に組み合わせて解釈していると考えられるのですが、すると、このカットから次の様なの組み合わせが生まれることもご理解できるでしょう。

 「荻野」+「め」 → 荻野目

「荻野目」とは普段はあまり聞きなれない言葉ですが、バブル時代に活躍したアイドル歌手に「荻野目洋子」さんがいたのをかすかに思い出します。そう言えば、彼女の代表曲で(唯一の?)大ヒット曲でもある「ダンシングヒーロ―」は、最近でも時々耳にすることがあったかもしれません。

動画:荻野目洋子さんの「ダンシングヒーロー」

ここまでの関連性は、何だか思い付きベースであまり説得力が無いように見えるかもしれません。しかし、ここで荻野家の一員である千尋の母、その声優が沢口靖子さんであることが意味を持ってきます。次を見てください、

 みおつくしの放映:1985年(4~9月)
 ダンシングヒーローの発売:1985年(11月21日)

この突拍子もない組み合わせは、「1985年」をキーに強く結びついてくるのです。さて、それではなぜ「ダンシングヒーロー」なのか?

実はこの曲にには次の様な英語のサブタイトルが付けられています。

 Eat You Up (お前を食ってやる)

これは、「食べたいくらい可愛い」などの意味で使われることの多いフレーズですが、状況が分からない場合は、上記の直訳の通りとなります。つまり、これこそがこの複雑かつ精密な設定が伝えようとしている最終メッセージであると考えられるのです。

映画では、千尋の両親は豚に変えられ、まさに「食われる」前に二人を助け出すことが千尋の急務となるのですが、観賞者の心理を利用したこの細かな伏線が、単に映画の切迫したムードを補強するために張られたとは考えにくいものがあります。

おそらく、裏ストーリーに描かれた日本古代史上の人物に対して、同時にこの映画の観客に対しても呪いを掛けていると思われるのですが、呪い云々については(真)ブログの方で取り上げるとして、ここでは現代においてもなお呪いをかけ続けられる古代史上の人物とはいったい誰なのか、そして千葉県東総地区とは古代どのような場所であったのか、史書などを基にそれを分析していきたいと考えています。

繰り返しますが、1985年は123便事件のあった年です。123便事件がその何年も前からメディア戦略を駆使して周到に準備されたものであることは(新)ブログの「芸能界の闇」シリーズで幾つか論証していますが、今回の分析により、少なくとも「千と千尋」が公開された2001年当時まで、123便事件に関わる、またはその流れを汲む大衆洗脳の心理戦術が継続され続けていたものと考えられるのです。その目的はいったい何であったのでしょうか?


* * *

主要登場人物の分析は次回より始めたいと思いますが、その一人である「ハク」という呪い名に、「琥珀」の他にどのような意味が込められているのかを考えてみてください。


古の世を刻みし琥珀石に問ふ
管理人 日月土