三浦春馬と馬鹿

まず最初にお詫びから申し上げます。

今月令和6年1月は、元日から色々ありまして歴史関係の調査・整理が全く進みませんでした。よって今回のブログ記事では、これまでの記事の中から整理してまとめたものをお知らせしたいと思います。

今回取り上げるのは、2020年の7月18日にお亡くなりになられた、俳優の三浦春馬さんと、最近の歴史テーマに取り上げてきた「馬鹿」(うましか)の関係についてです。

画像1:三浦春馬さん

三浦春馬さんは、クローゼットの中で首を吊った「自殺」と認定されていますが、同年9月27には、やはり有名俳優の竹内結子さんも、同じようにクローゼットの中で自殺したとされています。

この二人について、自殺と言うにはあまりに奇妙な点が共通していることから、両者共にこれが他殺だったのではないかという疑いは今でも囁かれています。

このブログは歴史ブログと銘打っている以上、この件を単純な事件として扱うことはしません。但し、両者の亡くなり方、報道のされ方には呪詛的要因が見受けられるため、それが呪詛だった場合、何に起因し、何を目的としている呪詛なのか、歴史的に解釈することは可能であると判断しました。

まとめ記事故に、これまでお知らせした内容と被る箇所も多々ありますが、三浦春馬さんの死の一件の中に、どのような歴史的意味が込められていたのかを見て行きたいと思います。

■芸名「三浦春馬」に込められた暗喩

芸名にしろ本名にしろ、芸能人の名前が重要なのは、単にそれが個人を識別するだけの記号でなく、そこに使われる文字や読み方が多くの人々に認識されることから、芸能人個人のパーソナリティを超えた別の象徴として使われることは、芸能の世界では良く見られます。

氷川きよしさんの「氷川」が埼玉県大宮市にある「氷川神社」、綾瀬はるかさんの「綾瀬」が同じ埼玉県を流れる「綾瀬川」を象徴し、一つの地理的かつ歴史的呪詛体系を作り出している可能性については、(真)ブログ「氷川と綾瀬と昭和天皇と-皇室への呪い」で既に触れています。

同じように「三浦春馬」という文字列を見て行った場合

 三浦、春、馬

という要素に分解することができます。

ここで、これまでの分析から

 春 → 春日大社 → 鹿
 馬(字のまま)

と、ここでさっそく馬鹿(うましか)の記号が抽出できるのです。

次に「三浦」(みうら)ですが、一般的には神奈川県の三浦半島を想像しがちですが、これについては以下の地図より

画像2:鹿島三浦

茨城県鹿島地方の三つの浦(うら)、すなわち

 霞ヶ浦、北浦、外浪逆浦(そとなさかうら)

を指すとも考えられ、要するに「鹿島」あるいは「鹿」を表しているとも考えられるのです。

そして、この「三浦」(みうら)を音読みの「三浦」(みほ)と読み替えたらどうなるかというと

 三浦(みほ)→ 美浦(みほ)

となり、この美浦には、広大な

 中央競トレーニング・センター

が置かれているのです。しかも、美浦は画像2の地図の中にすっかり収まっているのです。

画像3:鹿島三浦と美浦
画像4:JRA美浦トレーニングセンター

即ち、「三浦」というどこでもあるような苗字には、「馬鹿」(うましか)の両方の意味が付されていると見なされ、有名芸能人が「三浦」の名で活躍すれば、本人の意識とは全く別に、もう一つの「馬鹿」(うましか)の意味が大衆の意識の中で一人歩きし始めると、呪術に通じている関係者ならば普通にそう考えるのです。

どうやら、「三浦春馬」という芸名には、「馬鹿」(うましか)という別の意味が込められていたようなのです。

■馬鹿(うましか)と馬鹿(ばか)

さて、ここまでは「馬鹿」を「うましか」と呼んできましたが、通常ならばこの漢字2字を書けば「ばか」と読むのが普通です。

前回記事「もののけ姫と馬鹿」では、侮蔑用語として「ばか」がどうして馬と鹿なのか、その起源については、国語辞典編集者の神永さんをして

 諸説あるがはっきりしない

としています。

大事なのは「諸説ある」と「はっきりしない」は意味的には同意であることで、某国営放送の看板番組のように、「諸説ある」のにある一説を以って「ボーっと生きてるんじゃねぇ」と他者をこき下ろすような下品なことはこのブログではやりたくありません。

ならば、「ばか」を「馬鹿」と書かせる諸説の一つに、今回の三浦春馬さんとの関係を考慮しても良いのではないかと思われるのです。

どういうことかといえば、三浦春馬さんの名前に関連付けられた「馬」と「鹿」の意味に対して、昔の人が後から何か侮蔑的な意味を持たせた造語だったのではないかということなのです。

正直なところ、私は三浦春馬さんが出演されたドラマはほとんど見たことがないのですが、彼の出演作を良く知る知人の話では

 少し間の抜けた美男子

という役割が多かったと聞いています。別の言葉で言い換えれば

 ちょっと馬鹿(ばか)っぽい美男子

と言えるのではないでしょうか。

しっかり見ていないので推測の域は出ませんが、もしも「三浦春馬」という名に「馬鹿」(うましか)の意が含まれているのを知っていれば、敢えて彼に「馬鹿」(ばか)のような役作りをさせる演出があったのではないかと想像してしまうのです。

■馬鹿の意味についての再考

そもそも「馬鹿」(うましか)の話は、鹿児島の「鹿」から出てきたもので、これまでの話の展開からその相関図は次のようになります。

画像5:鹿の相関図

この相関図には「鹿」はあっても「馬」らしきものは見えず、「馬」との関連性を考慮しなければならなくなったのは、まさに「三浦春馬」という芸名に「馬」が含まれていること、そして、日本古代史を原作モデルに置いているのは間違いないあの名作アニメ映画「もののけ姫」に、「馬」と「鹿」をミックスしたような架空の動物が描かれていることにあったのです。

画像6:「もののけ姫」のヤックル

多少素性が見えてきた「鹿」は良いとして、このペアに現れる「馬」とはいったい誰を、あるいはどの系統を指すのか思案していたところ、おあつらえ向きに次の様な紋章があることを思い出したのです。

画像7:馬(ロバ)と鹿の紋章

実はこれ、ユダヤ十二支族と言われる聖書の創世記に登場するヤコブ(イスラエル)の子孫(の家)に付けられた紋章なのです。

ヤコブはイサクの息子であり、イサクはまたその父アブラハムの息子です。ヤコブはアブラハムの孫に当たることになります。さて、イサクとアブラハムについては創世記の22章に次のような下りがあります。

 神の命がアブラハムに下った。息子イサクをモリヤにある山
 に連れて行き、そこでイサクの命を神に捧げるようにと。
 山に祭場を作った後、アブラハムが刃物を取りイサクを屠
 (ほふ)ろうとした時、神は手を下すのを止めろと命じた。
 神は愛する息子を捧げようとしたアブラハムを、神を畏れる
 者として祝福した。

この刃物を手にして子を撃とうし、直前でそれを取りやめる動作というのが、かつて諏訪大社の御頭祭において神事として演じられていたというのは、日本のユダヤ同祖論の中でよく聞く話です。

また、諏訪には守屋山もあることから、諏訪の地は聖書のこの記述と何か深い繋がりがあるのではないかと、多くの方が疑問を抱くのも無理はありません。

この件については既にご存知の方は多いと思われますが、これについては次のサイトがよくまとまっているので是非参考にしてください。

 外部リンク:諏訪 御頭祭:聖書のイサクはミシャクジ神か?

私がここで強調したいのは、一見突拍子もなく出したユダヤ十二支族の紋章の話が、聖書の記述を通して諏訪大社の御頭祭と繋がることなのです。

さて、ユダヤ十二支族とは一般的に、ヤコブの子である

 ルベン
 シメオン
 レビ
 ユダ
 イッサカル
 ゼブルン
 ダン
 ナフタリ
 ガド
 アシェル
 ヨセフ
 ベニヤミン

を指しますが、領地を継いだ一族という基準で見れば、ヨセフの代わりにヨセフの子であるマナセとエフライムの名を加え、そもそも所領を持たないレビ族を除けば

 ルベン
 シメオン
 ユダ
 イッサカル
 ゼブルン
 ダン
 ナフタリ
 ガド
 アシェル
 マナセ
 エフライム
 ベニヤミン

となります。他にヤコブの直接の子ではないマナセとエフライムの2族をここから除いて十氏族とする見方もまたあるのです。

さて、画像7で挙げた紋章なのですが、それぞれ次の支族を表します。

 馬:イッサカル族
 鹿:ナフタリ族

こうなると、「鹿はユダヤのナフタリ族を指しているのか!」とやりたくなるのですが、それを言うにはまず「馬」の痕跡が日本古代史のどこかに残っているのかを見つけなければ、早計というものでしょう。

■馬に象徴されるもの

まずは「鹿島」と「鹿」の関係よろしく、「馬」の字を含む地名のチェックから始めたのですが、そもそも馬は昔の生活に深く根差した生き物であり、全国ほぼ満遍なく「馬」の付く地名が存在します。

これでは良く分からないので、検索の対象を大きな単位、具体的には県市町村群名に絞ったところ、次の様な結果を得ました。

 群馬県
 福島県   相馬市
 福島県   南相馬市
 福島県   相馬郡
 茨城県   北相馬郡
 群馬県   北群馬郡
 東京都   練馬区
 長野県   北安曇郡白馬村
 徳島県   美馬市
 徳島県   美馬郡
 高知県   安芸郡馬路村
 長崎県   対馬市

これだけ見ても直ぐに何とも言えませんが、県名に「馬」の字を使う群馬県はまず一つ押さえておくべきかと思われます。そして、福島と茨城に見られる「相馬」もまた気になる地名です。特に福島県の南相馬市周辺は2011年の福島第一原発事故で大きな被害を受けた所でもあります。

あと、気になるのは徳島県の美馬郡で、ここにはやはりユダヤ同祖論で取り上げられることの多い「剣山」(つるぎさん)が位置しているのです。やはり「馬」とユダヤの支族が関係しているサインなのでしょうか?

結局良く分からないままなのですが、鹿島のある茨城県から太平洋岸に沿って続く、福島県の「相馬」エリアについては、馬との関連性で追ってみる必要がありそうです。

■三浦春馬と馬鹿

結局のところ、馬鹿(うましか)について核心を突く結論は得られていないのですが、状況証拠的にこれがどうも古代日本におけるユダヤ問題と関連がありそうだというところまでは掴めました。

ここで三浦春馬さんの不審な死の話に戻ると、この死に呪詛的な意味があると仮定した場合、それは古代日本のユダヤ問題に関連するだろうと考えられるのです。

そして、それは三浦さんの芸名が体現する2つのユダヤ支族「馬(イッサカル族)と鹿(ナフタリ族)」に対して死の宣告を向けたのだとも解釈できるのです。

この場合、鹿とは武御雷から藤原氏へと続く一族の血統を指すと考えられますが、馬については上述の通りその系統については未解決だとしておきます。

さて、「クローゼット」という言葉には「隠された性癖」という隠語があるのですが、その中で死亡したという事実と併せて解釈するならば

 素性を隠したまま死ね

と言う意味にも取れます。つまり、日本の中でユダヤの末裔を名乗ることは一切まかりならんと言う強い意志を表しているとも解釈できるのです。

三浦春馬さんは、このようにユダヤ支族への大きな呪いを背負わされて旅立たれたのでしょうか?

参考:

三浦春馬さんの出演ドラマ「おカネの切れ目が恋のはじまり」について、その中で表現されている種々の暗号メッセージの解読に挑んだ動画がありますので、ここでご紹介しておきます。

Youtubeチャンネル「外閣情報調査室」から

なお、同ドラマについては(真)ブログ記事「三浦春馬の死とカネ恋の呪い」において、そのドラマ設定に仕掛けられた呪術的な意味を、方位術の観点で解読を試みています。


管理人 日月土

もののけ姫と馬鹿

今回のタイトルですが、ちょっと誤解されそうなので初めにお断りを入れて起きます。

ここで使った「馬鹿」はいわゆる侮蔑的な意味での「ばか」ではなく、是非とも動物の馬と鹿を表す「うましか」と読んで頂きたいのです。

どうしてそのような区別をするのかについては、この後の記事を読んで頂ければご納得頂けるのではないかと思います。

■もののけ姫の少女神解釈

今から3年前、2021年の今頃からアニメ映画「もののけ姫」について、その物語構成のモデルとなった日本神話の分析を行ってきました。

これまでにどのようなことが分かったのか、それについては当ブログの過去記事を参考にして頂きたいのですが、今回は、これまでの分析で触れていなかった箇所、及び昨年展開した「少女神仮説」に基づいてに再度この作品を考察したいと思います。

これまでのおさらいとして、主要登場人物に対応する各々の神話上の神(人物)の関係は以下の様になります。

 カヤ   = タクハタチヂヒメ
 アシタカ = ニニギノミコト
 サン   = コノハナサクヤヒメ

これを図で表すと以下の様になります。

画像1:映画「もののけ姫」の主要登場人物の関係図

もののけ姫分析を始めた頃には気付かなかったのですが、カヤとアシタカ、そしてサンとアシタカの男女関係、いわゆる三角関係については、少女神仮説を取り入れると非常に上手く説明できることが分かります。

神話の中で、皇后タクハタチヂヒメにはオシホミミという王がいたのですが、記紀・秀真伝の記述によると、ニニギノミコトはその二人の間の子ということになっています。

この映画もそうなのですが、ニニギノミコトとその母であるタクハタチヂヒメとの男女関係を示すサインが幾つか見られる事から、私は「二人は不義の関係」と解釈してきましたが、ここに少女神仮説、古代王権は女系によって継承されていたという考えを導入すれば、ニニギノミコトは入婿でありタクハタチヂヒメと直接の血の関係はなかったことになります。

前王の王妃を娶って王権が移譲されるものなのかどうかは何とも言えませんが、少なくとも「不義の関係」は言い過ぎではなかったかと訂正します。

史書においてはニニギノミコトはオオヤマツミの娘であるコノハナサクヤヒメを娶ることになっていますが、少女神仮説を以ってこの記述を変換すれば

 オオヤマツミの息子ニニギノミコトがコノハナサクヤヒメに婿入り

と置き換え可能なのです。

この新解釈を適用した場合、もののけ姫の問題シーンであり、この映画を観た世の女性たちを怒らせた

 カヤからもらった贈り物(黒曜石の短剣)をサンに渡した

という、まるで下衆男の振舞いとも取られかねないアシタカの行動にも重要な意味が隠されていたことに気付かされるのです。それは、

 王権の継承

であり、第9代アマカミ(古代天皇)のオシホミミが王権を獲得できたのは、その皇后であるタクハタチヂヒメに王権継承権があるからであり、その権威の象徴である短剣を別の女性に渡す行為はその女性の夫に王権を継がせる行為そのものなのです。

もしかしたら、カヤは新しい女性の元でアシタカに王になってもらいたかったのかもしれないのです。

すると、サンのモデルとなったコノハナサクヤヒメは誰の子だったのかが問題になるのですが、そちらについてもこれまでの分析から次の答を既に得ています。それは

 ホノアカリとアメノウズメの娘

であり、ホノアカリとは、神話の中で多くの変名・蔑称を持たされた王で、代表的なのがアヂスキタヒコネ、あるいは

 サルタヒコ

なのです。

アメノウズメ(別名サルメキミ)も当然王権継承権を持つ女性であり、その実の娘であるコノハナサクヤヒメがそれを有するのは言うまでもありません。

秀真伝には、ニニギノミコトとホノアカリの二王朝並立時代があったとされ、そうなるとニニギノミコトはもう一つの並立王朝の娘を娶ったことになります。

ホノアカリ王朝については秀真伝に若干の記述があるものの、記紀からは完全に消し去られており、獣の名を冠した「猿タヒコ」の名を以って道案内の神などとその地位を大きく蔑まれているのです。

■アシタカを導いた馬鹿(うましか)

以上はこれまでの解釈をまとめたものですが、ここで新たに注目すべきキャラクターを取り上げます。それは、このキャラです。

画像2:ヤックル

映画の中で、短剣を渡されたアシタカは不思議な生き物に乗って蝦夷の里から西へと向います。

鹿の様に立派な角を携え、サラブレッドのような身体を以って長距離を走り抜く不思議な生き物。このヤックルは、設定上は架空の生き物とされていますが、そのデザインから窺われるのは、明らかに

 馬と鹿の合いの子

なのです。

果たしてこれは宮崎駿監督の単なる思い付きと捉えてよいのでしょうか?ここまで作品設定内に日本古代史を取り込み、モロや乙事主など、動物デザインにもその深い意味を忍ばせているのに、果たしてヤックルだけが「何となく」描かれたなどと言えるのでしょうか?

実は、この話は亡くなられた次の俳優さんにも繋がるのです。

画像3:三浦春馬さん

この「三浦春馬」という芸名が、馬鹿(うましか)を意味するのは前回記事「令和五年のブログ記事まとめ」の最後部に「三浦春馬と春日の関係」という見出しで小さく触れています。

春日大社は放し飼いの鹿で有名ですが、そこに祀られているのは藤原氏の祖神(おやがみ)である武御雷(たけみかづち)の神、別名鹿島神(かしまかみ)なのです。

藤原氏と言えば、今年放映されるNHKの大河ドラマ「光る君へ」は平安の藤原氏の時代に生きる紫式部の生涯をドラマ化したものですが、第1回放送の中に非常に気になるシーンがありました。お菓子を失くしてしまった三郎に向ってまひろが放った言葉です。

画像4:1月7日放送のダイジェスト動画から(吹き出しは筆者が加工)
https://www.youtube.com/watch?v=F-0rxW7VU-8

「馬鹿」(ばか)?果たしてこれは単純に相手を侮蔑する子供のやりとりを現代語表現しただけのものなのでしょうか?

そもそも「馬鹿」(ばか)の語源とは何なのでしょうか?

これについては、国語辞典編集者の神永さんによるブログ記事「何でバカって言うの?」が参考になります。

同記事における結論は、「諸説あるものの語源がはっきりしない」ということなので、現代日本人はその意味も分からずに「馬」と「鹿」を使って人を侮蔑しているということになります。

現代の子供でさえふざけて使う、こんな一般的な言葉の語源が不明だと言うのも驚きなのですが、もしも「馬鹿」が何かの呪術的符号だとするならば、そこには必ず呪術を成立させる明確な論理が存在するはずなのです。

実は、その答は少し見えています。以下の図を見れば、お分かりになる人は直ぐにハッと気付かれるでしょう。

画像5:古代ユダヤの紋章
イッサカル族(左)とナフタリ族(右)

どうやらニニギノミコトの王権取得にはこの紋章を戴く2族が関わっているようなのです。

そして、藤原氏と鹿の一族との関係はもちろんですが、馬を戴く一族とは具体的に誰なのか、そして、アシタカをサンの下へ送り届けた馬鹿(ヤックル)の映画表現は何を意味するのか?

また、ニニギノミコトノの事跡である「天孫降臨」と呼ばれる神話的事象も、この2族との関係を無視して正確に語り得ないのです。

ジブリ映画の大ヒット作「もののけ姫」にはまだまだ古代日本の史実が隠されていたようです。

岩戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)
ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、
ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入
られたのが、そもそもであるぞ、
十の卵を八つ生んで二つ残して行かれた
のであるぞ、十二の卵を十生んだことに
もなるのであるぞ、五つの卵を四つ生ん
だとも言へるのであるぞ、総て神界のこ
と、霊界のことは、現界から見れば妙な
ことであるなれど、それでちゃんと道に
はまってゐるのであるぞ。

(日月神示 碧玉の巻 第十帖)


管理人 日月土

鹿の暗号と春日の姫

鹿児島県に実存する古代墳丘について考察を始め、ついに今回で4回目となってしまいまいそうです。

私もここまで長引くとは思わなかったのですが、アニメキャラのネーミングを初め色々と腑に落ちることが多く、この考察は鹿児島を離れ日本国内の関連個所に飛び火する勢いです。

 これまでの鹿児島関連記事:
  ・日本神話と鹿児島 
  ・日本神話と鹿児島(2) - 吾平山上陵 
  ・鹿児島と鹿の暗号 

■「鹿」が示すもの

前回の記事「鹿児島と鹿の暗号」では、鹿児島県に多い諏訪神社、その主祭神である建御名方神(たけみなかたのかみ)が、建御雷神(たけみかづちのかみ)と格闘して負け、最終的に出雲の国譲りが成立すると言う下りが古事記に記述されているという話を、当該部分の原文読み下し文と共にお伝えしました。

また、この格闘を行った二柱の神に共通するのが

 建御名方神 → 御頭祭(鹿の頭を献上)
 武御雷神  → 別名鹿島神(かしまかみ)

と「鹿」の文字であることも述べています。

このように、話は「鹿」を共通点に鹿児島から長野の諏訪、そして茨城の鹿島へと飛ぶのですが、ここで「鹿」を引き合いに出す上で忘れてはならない存在があることに気付きました。

それは何かというと、

画像1:春日の杜(画像引用元:春日大社公式ページ) 

写真は、現地を訪ねたことのある方ならすぐにお分かりになったかもしれませんが、「鹿」の放し飼いで有名な奈良県の春日大社です。

私も何度かここを訪れたことはありますが、鹿せんべいを求める鹿さんたちの激しいアピールにたじたじとなったことを覚えています。

この春日大社の御祭神については、公式ページには次の様に書かれています。

神山である御蓋山ミカサヤマ(春日山)の麓に、奈良時代の神護景雲2年(768)、称徳天皇の勅命により武甕槌命(タケミカヅチノミコト)様、経津主命(フツヌシノミコト)様、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)様、比売神(ヒメガミ)様の御本殿が造営され御本社(大宮)として整備されました。現在、国家・国民の平和と繁栄を祈る祭が年間2200回以上斎行されています。

その中でも1200年以上続く3月13日の「春日祭」は、現在も宮中より天皇の御代理である勅使が参向され、国家・国民の安泰を祈る御祭文を奏上されます。さらに、上旬・中旬・下旬の語源に関わる宮中の「旬祭」、上巳・端午・七夕などの「節供祭」も平安時代に移され、今に至るまで斎行されています。

引用元:春日大社公式ページ 

もうお気付きのように、春日大社の祭神の筆頭に武甕槌命(=武御雷神)が含まれているのが分かります。

鹿が神様の乗り物として大切にされるのはこの国では珍しい事ではありませんが、ここ春日大社の鹿愛は、その飼育規模から見ても飛び抜けていると言えるでしょう。

この様に、ここで鹿が非常に大事にされる理由とは、果たして「神様の乗り物」という一言で済ませられるものなのでしょうか?何か「鹿」に対する特別な思いがあるようにも思われます。

そして、鹿島神の異名を持つ武御雷神と何か関係があるのでしょうか?

■春日の下がり藤

春日大社の神紋は下図のように「下がり藤」となります。

画像2:春日大社の下がり藤

この神紋と同じ柄を家紋として使われている家は多いのではないでしょうか。それもそのはずで、この紋は有名な「藤原氏」の家紋でもあるのです。

藤原氏の子孫はその後全国に広がり、佐藤・加藤・伊藤など、「藤」の字を当てた名前に変化していくのですが、それを聞いただけでも下がり藤を家紋とした家が多いだろうと想像が付くのです。

そして、藤原氏およびそのルーツである中臣氏(なかとみし)の氏神とされているのが「武御雷神」なのですから、春日大社が藤原氏と関係が深く、その氏神を祭神の筆頭に上げるのも当然と言えば当然のことなのかもしれません。

■春日の姫

実は春日と鹿、そして下がり藤の神紋との関係に気付いたのは、先日、京都府の木津川へと調査に向かったことがきっかけだったのです。

画像3:綺原座健伊那太比売神社(画像引用元:神社巡遊録

上の画像の神社は、木津川市内にある神社で「かんばらにますたていなだひめ」と呼ばれているようです。

この姫神様、記紀はもちろん秀真伝(ほつまつたえ)にも名前が出て来ません。それ故に、どのような神様か色々と憶測があるようなのですが、私が気になったのはこの神社の神紋なのです

画像4:健伊那太比売神社の神紋:下がり藤

木津川は奈良県と接している土地ですし、春日大社の影響力が強かったであろうことは容易に想像が付きます。実際に近くには「春日神社」も幾つか点在しているのです。

ここで、春日の神紋と聞き知れぬ姫神の名の関係性が気にならないはずがありません。そうやって考えていると、この姫神の名「健伊那太比売」と春日大社の筆頭祭神「武御雷」の間に共通点が見られる事に気付きました。

まず「健伊那太比売」の「健」の字は「タケ」と読めること。そして「武」は「タケ」と読みます。

古事記の記述で武御雷の格闘相手となった「建御名方」の「建」はやはり「タケ」ですから、この3者は

 「タケ」と「鹿」で共通している

と考えられるのです。

前からお伝えしているように、私は史書に書かれた神話は実在人のデフォルメされた記録と見ていますので、この3者は

 同じ血族、家系の一員である

と考えられ、これら共通したキーワードは、史書編纂者が史実の記録に挿入した暗号だと解釈するのです。

ここから先は、メルマガで既にお知らせしている内容と重複しますが、この「タケ」の暗号には次の様に更に解釈を進めることが可能でしょう。

古代期の発音は母音が弱いと考えられるので、表記を次のように変えてみます

 「タケ」→ 「TK」

子音「TK」で始まる一族でこれに該当するのは、おそらく

 タカミムスビ

であると考えられるのです。

記紀にはそのような記述は見当たりませんが、秀真伝には

 アマカミ、オオモノヌシ、タカミムスビ

の3皇統が古代日本に並立したとあり、その中のタカミムスビ皇統は武御雷(カシマカミ)の代で系図から忽然と消えてしまっているのです。むしろ、出雲と称されるオオモノヌシ皇統はその後の代も何代か続いているのです。

ここから次の様な推論が成り立つはずです。

古事記における「建御名方神と武御雷神の格闘」、これが意味しているのは出雲の国譲りではなく、実際は

 タカミムスビの国譲り

であった。

それを、あたかも出雲の国譲りのように記述したのは、タカミムスビ皇統の存在そのものをこの国の歴史から消し去ろうとした後の為政者の作意によるものではなかったのか?

また、二柱の神の格闘とは、武御雷神が建御名方神にすり替えられたことを示唆する史書編纂者が示した暗合、すなわち

 武御雷神と建御名方神は同一神(人物)である

ことを意味しているのではないでしょうか?

「健」がタカミムスビ王統を意味するならば、健伊那太比売とはタカミムスビ王統の血統を支えた少女神の一人と考えられ、その少女神の中でよく名前が知られた姫とは、

 ククリヒメ(菊理媛)

であることが窺がい知れるのです。

そうすると前回の記事で得た「鹿目まどか」=「鹿島の玉依姫」という結論は

 タカミムスビ皇統の少女神、玉依姫

と置き換えることができますし、ここから玉依姫がククリヒメの血を受け継ぐ少女神の一人であることが分かるのです。


この宮の裏手に隠る姫神の立たれる時は今ぞ来にけり
管理人 日月土

鹿児島と鹿の暗号

前回、前々回と鹿児島と日本神話の関係について、現地調査の体験をを元に記してきました。

 ・日本神話と鹿児島 
 ・日本神話と鹿児島(2) – 吾平山上陵 – 

今回の記事は大きく視点を変えて、このブログでは恒例のアニメ作品による分析を試みてみたいと思います。

今回題材に取り上げるのは次の作品です。

画像1:「魔法少女まどか☆マギカ」から鹿目(かなめ)まどか

およそ歴史ブログには相応しくないキュートな絵柄なのですが、実はこの作品、スタジオシブリの「もののけ姫」、「千と千尋の神隠し」などと並んで、日本古代史をベースにした数あるアニメの中でも、最高峰に位置する作品であると私は睨んでいるのです。

このアニメ作品「魔法少女まどか☆マギカ」は(真)ブログの次の記事で既にご紹介済みです。

 関連記事:魔法少女は永遠に 

上の記事では、2011年の東日本大震災、そして最近のコ〇ナ騒動に関連したこのアニメ作品の呪術性について解説していますが、作品の重要なモチーフとなった日本古代史については触れていませんでした。今回はそこに少し踏み込んでみようという訳なのです。

■鹿児島と鹿目

このブログにお付き合いの長い読者様でなくても、既に「鹿児島」と「鹿目」が「鹿」の一字で関連性を持つことに気付かれたと思います。「何だ、それだけじゃないか!」とは思わないでください。当然この続きがあるのです。

前回記事「日本神話と鹿児島(2)」で、吾平山上陵(あいらさんりょう)と諏訪神社の関連性を指摘しました。ちなみに、吾平山上陵の所在地は鹿児島県の鹿屋市(かのやし)となります。

ここで諏訪神社の大元、諏訪大社の祭神の名を挙げておきたいと思います。表記は古事記に拠るものです。

 建御名方神(たけみなかたのかみ)

そして諏訪大社独自の奇祭とも言われるのが。

 御頭祭(おんとうさい)

です。

この御頭祭がどのような祭であるかは、ネットでも様々な情報が書かれていますが、ここでは諏訪大社の公式ページから抜粋してみましょう。

御頭祭(上社例大祭)4月15日

本宮で例大祭の神事執行後神輿行列を仕立て前宮に赴き十間廊で古式に依る祭典が行われます。古くは三月酉の日に行われたため酉の祭りとも言われ、農作 物の豊穣を祈って御祭神のお使いが信濃国中を巡回するに際して行われたお祭りで大御立座神事とも言います。

特殊神饌として鹿の頭を始め鳥獣魚類等が供え られるため一部では狩猟に関係したお祭りの如く言われています。唯今は鹿肉とともに剥製の鹿頭をお供えしますが、昔は七十五頭献じられたこともあり、中に必ず耳の裂け た鹿があって高野の耳裂鹿と言い七不思議の一つに挙げられています。

引用元:諏訪大社公式ページ
画像2:御頭祭の様子(画像引用元:おみやさんcom

既にお気付きの様に、諏訪大社と「鹿」の字の間には、どうやら切っても切れない関係がありそうなのです。ですから、鹿児島県内に諏訪神社が多いのと県名・市名の「鹿」の字の間には何か関係があると見るのは、それほど突飛な発想ではないと言えるでしょう。

■古事記に見る建御名方神

御頭祭がどうしてこのような形式を取るのか、その由来は定かではないようです。そこで、今度は祭神の建御名方神が古事記の中でどのように記述されているかを見てみます。

ここに天照大御神詔(の)りたまはく、「またいづれの神を遣はさば吉(よ)けむ」とのりたまひき。ここに思金神(おもひかね)また諸(もろもろ)の神白さく、「天の安河の河上の天の石屋に坐す、 名は伊都之尾羽張神(いつのをはばりのかみ)、これ遣はすべし。

もしまたこの神にあらずは、その神の子、建御雷之男神(たけみかづちのをのかみ)これ遣はすべし。またその天尾羽張神は、逆(さかさま)に天の安河の水を塞(せ)き上げて、道を塞き居る故に、他神(あたしかみ)は得行かじ。かれ、別に天迦久神(あめのかくのかみ)を遣はして問ふべし」とまをしき。かれここに天迦久神を使 はして、天尾羽張神に問ひたまひし時、答へて白さく

「恐(かしこ)し。仕へ奉らむ。然れどもこの道には、僕が子建御雷神を遣はすべし」とまをして、すなはち 貢進(たてまつ)りき。ここに天鳥船神(あめのとりふねのかみ)を建御雷神に副へて遣はしたまひき。

「天尾羽張神」と「建御雷神」(タケミカヅチノカミ)が出雲平定に向かった下りなのですが、ここで二柱の神は出雲の王「大国主命」と対面し国譲りを迫りますが、大国主命は息子の一人である八重事代主に判断を任せて、その八重事代主は「国を譲る」と決断します。

他の子もこれに同意しているのかと改めて大国主命に問い質した所、一人だけ同意しない子がいるとのこと。次にその段を見てみましょう。

かれここにその大国主神に問ひたまはく、「今汝(いまし)の子事代主神、かく白しぬ。また白すべき子ありや」ととひたまひき。ここにまた白さく、「また我が子建御名方神あり。これを除きては無し」と、 かく白す間に、その建御名方神、千引の石を手末(たなすゑ)にかかげて来て、「誰そ我が国に来て、忍び忍びかく物言ふ。

然らば力競(ちからくらべ)せむ。かれ、我まづその御手を取らむ」と言ひき。かれ、その御手を取らしむれば、即ち立氷(たちひ)に取り成し、また剣刃(つるぎは)に取り成しつ。かれここに懼(おそ)りて退き居りき。

ここにその建御名方神の手を取らむと、乞ひ帰して取りたまへば、若葦を取るが如、掴み批(ひし)ぎて投げ離ちたまへば、即ち逃げ去にき。かれ追ひ往きて、科野国(しなののくに)の州羽(すは)の海に迫め到りて、殺さむとしたまふ時、建御名方神白さく、「恐(かしこ)し。我をな殺したまひそ。此地を除きては、他処に行かじ。また我が父大国主神の命に違はじ。八重事代主神の言に違はじ。この葦原中国は、天つ神の御子の命のまにまに献らむ」とまをしき

そうなのです、一人だけ同意しない子とは建御名方神のことで、ここで、天から派遣された建御雷神と勝敗を決するための力比べを始めるのです。この力比べ、相撲の起源とも言われているようです。

結果としては、建御名方神は建御雷神に負かされ、信濃の諏訪湖に逃げるのですが、追い詰められた建御名方神は、命乞いと同時に出雲の国譲りを認め、今後諏訪の土地から出ないと宣言するのです。

ここまでは良く知られた神話の中の国譲り伝承なのですが、さてここに登場するもう一人の神、建御雷神とはいったいどのような神様なのでしょう?

ご存知の方はとっくにご存知のように、

 鹿島神宮の祭神

なのです。

画像3:鹿島神宮(画像引用元:Wikipedia

またもや「鹿」の字が登場するのですが、この鹿島神宮で有名なのが、地震を鎮めると言われている要石(かなめいし)なのです。

画像4:要石(画像引用元:Wikipedia

ここで、魔法少女「鹿目(かなめ)」まどかの鹿目がどうやら鹿島神宮との関係を指すのではないかと予想されるのです。

これまでの関係性を整理すると次のようになります。

 鹿児島>諏訪神社>諏訪大社>御頭祭>鹿

 諏訪大社>建御名方神>建御雷神>鹿島神宮>要石>鹿目

            ⇩

 鹿児島 >> 諏訪(御頭祭) >> 鹿島 >> 鹿目

これではまだまだアニメと関連が薄いように思われますが、この関係性を更に補強するのが、「まどか」という下の名前なのです。

■竈神社の祭神

「まどか」という文字列をアナグラムとして並べかえると、「竈(かまど)」となるのは良いでしょう。さて、この「竈」の名を冠している神社が九州には多く見られるのですが、その主祭神が誰なのかはご存知でしょうか?

画像5:福岡県太宰府市の竈神社(画像引用元:Wikipedia

竈神社の主祭神とは

 玉依姫(たまよりひめ)

なのです。これが何を意味するかは、再び少女神仮説による次の系図を見ればお分かりになると思います。

画像6:少女神仮説による系図

玉依姫は吾平山上陵の被葬者と比定されているウガヤフキアヘズノミコトの皇后なのです。これにより、「まどか」というキーワードが鹿児島の吾平山上陵との関連性を示唆しているとも言えるのです。

以上をまとめると、アニメキャラ「鹿目まどか」とは

 鹿島の玉依姫

を意味していると考えられるのですが、これが鹿児島及び諏訪・鹿島と具体的にどのように関連してくるのか、また、何故それがアニメによる呪いに使われたのか?それについては次回のメルマガの中で考察したいと思います。


磯前の大樹の下に鎮まるは はるかに旧き琥珀の思ひ
管理人 日月土

日本神話と鹿児島(2) – 吾平山上陵 –

前回記事「日本神話と鹿児島」では、鹿児島県内にある「神代三山陵」の内、霧島市内にある「髙屋山上陵」(たかやさんりょう)について取り上げました。

今回は、4年前に訪れた大隅半島中部の鹿屋(かのや)市にある「吾平山上陵」(あいらさんりょう)について、少し古くなった記憶を辿ってお伝えしたいと思います。

■吾平山上陵に眠る王

前回もお伝えしましたが、鹿児島県の神代三山陵に眠るとされる神代の王は次の様に比定されています。

 (1)可愛山陵 : 瓊瓊杵尊   (ににぎのみこと)
 (2)髙屋山上陵: 彦火火出見尊 (ひこほほでみのみこと)
 (3)吾平山上陵: 鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあわせずのみこと)

記紀に拠れば、(1)から(3)までこの順で血が繋がっていることになっていますので、これに従うと、吾平山上陵の被葬者は彦火火出見尊の子である鸕鶿草葺不合尊となります。

これについては、現地の案内にもはっきりとそう書かれています。

画像1:宮内庁による御陵の説明

吾平山上陵を訪ねたのは10月の中頃ですが、鹿児島の秋は遅く、山の緑はまだ青々としていたのを覚えています。

御陵は、姶良川(あいらがわ)が流れる岸辺の岩屋の中にあるとされ、山間の落ち着いた雰囲気と川のせせらぎが奏でる心地よい音が見事に調和しており、さすが「小伊勢」と呼ばれるだけの清冽な厳かさを感じることができます。

画像2:御陵までの遊歩道
画像3:岩屋の入り口

前回の髙屋山上陵は鬱蒼とした木々に覆われていましたが、こちらは川に沿ってよく整備された歩道が続き、散策するのにもたいへん気分が良い所であるとの印象を受けました。

美しい自然を見ながら、1000年以上前のこの国の古代に思いを馳せることができるなんて「何と最高なのだろう!」と当時は思ったのですが、日本神話研究を始めた今となっていは、この御陵の存在について単純にそうも言ってられなくなってきました。

■再び少女神仮説

ここでまた、瓊瓊杵尊から神武天皇までの4代を少女神仮説で表した例の系図を見てみましょう。

画像4:少女神仮説による系図
過去記事「三嶋神と少女神のまとめ」より

繰り返しとなりますが、少女神仮説では「女系による王権継承」を核としていますから、記紀が伝えるところの、

 彦火火出見尊(父) ー> 鸕鶿草葺不合尊(子)

という関係は必ずしも成立しません。これを実の父子と表現した記紀編者の意図とは、

 女系継承を男系継承に置き換えるため

であると考えるのです。

何故そのような改竄をわざわざ施すのかという問題については、また別のところで精密に考察したいと思いますが、男女の役割を逆転させる、それも為政者の権限に関してと言うことは、社会全体の価値観が大きく変わるということであり、それはSDGsの導入で社会の在り方に大きな見直しを迫られている現代社会を見れば、古代社会においてはそのインパクトが凄まじく大きかったであろうと容易に想像が付くのではないかと思います。

このことは、もはや歴史改竄の理由を述べているとも言えるでしょう。即ち、古代社会の在り方、価値観・歴史感をガラリと変えなければならない必然性がこの国の歩んだ歴史のどこかで生じたことを意味します。

そうなると、「鸕鶿草葺不合尊とは本当は誰なのか?」が大きな問題となるのですが、これまで史書類の表記の揺らぎなどを分析した結果から、画像4に記してあるように

 鸕鶿草葺不合尊 = 大物主 = 八重事代主 = (丹塗矢)

であることが分かっているのです。少女神仮説においては、もはや彦火火出見尊と鸕鶿草葺不合尊が実の親子であることを念頭に入れる必要などなく、純粋にこの等式の意味を考えれば良いことになります。

■大物主とは誰か

史書の一つ「秀真伝」(ほつまつたえ)に拠ると、「大物主」(おおものぬし)とは個人の名ではなく、大国主命(おおくにぬしのみこと)から代々継承された王統名であるとされています。大国主の血統ですから、同時にそれが出雲の王統であることを示します。

いわゆる世襲名のようなもので、「第□代大物主 〇〇命」のように表現されます。ここから、大物主でもある鸕鶿草葺不合尊とは

 出雲王統の誰か

という予想が成立し、もう一つの名である「八重事代主」とは、秀真伝の系図によるとまさに、「第3代大物主 ミホヒコ」の息子とされているので、大物主の家系として遜色がないのです。

すると、吾平山上陵の主はとりあえず「第3代大物主の息子 八重事代主」ではないかと予想が付くのですが、実はそれでは未だ釈然としない問題があるのです。

どういうことか?

鹿児島県には出雲系の神社と言われる「諏訪神社」が比較的多く置かれているのですが、諏訪神社の祭神とは、出雲から信州に逃げたと言われる

 建御名方命(たけみなかたのみこと)

なのです。諏訪神社は吾平山上陵の近くにも鎮座しています。

信州の神様を祀る神社が南国鹿児島に多い?一応出雲系の神様ではあるのですが、建御名方命の後の系統は秀真伝にも書かれておらず八重事代主との系図上の関係も不明なのです。

ここをクリアにしない限り、単純に吾平山上陵の被葬者を「八重事代主」に比定できないと言うのが今の私の考えなのです。


管理人 日月土

日本神話と鹿児島

(真)ブログ及び(新)ブログでもお伝えしているように、先日、鹿児島へ行ってきました。今回は、そこで見てきたものについてレポートしたいと思います。

 関連記事:
 ・山体膨張と黒い霧 
 ・高隈山と自衛隊機墜落事故 

■鹿児島残る神代の遺構

日本古代史の研究において、九州内における古墳などの遺跡類と言えば、まずは福岡、次に熊本・宮崎などを思い浮かべますが、九州の最南端、鹿児島についてはあまりそのような話は聞こえてきません。

勿論、調べれば普通に遺跡類はあるのですが、神武天皇の出征の地と言われる宮崎や、記紀で何かと登場する博多湾周辺や大宰府、そして装飾古墳で有名な熊本などに比べれば、知名度はそれほど高くないと思われます。

ですから、鹿児島と言えば、もっぱら島津藩が活躍した江戸時代以降から幕末・西南の役の頃くらいまでが話題の中心となるのですが、このような敢えて鹿児島の古代史に触れようとしないとも見える現状については、以前から少し疑問に感じていたのです。もちろん、単に優先順の問題だけなのかも知れませんが。

今回の調査に当たり、鹿児島の古代史を理解する上で、特に重要な鍵となるのが同県内に位置する次の遺跡・遺構です。

 (1)可愛山陵  (えのみささぎ) 薩摩川内市
 (2)髙屋山上陵 (たかやのやまの えのみささぎ) 霧島市
 (3)吾平山上陵 (あひらのやまの えのみささぎ) 鹿屋市

これらに関連する場所として、霧島市と宮崎県都城市内との境界付近にある

 (4)高千穂の峰 霧島市・宮崎県都城市

も挙げておきたいと思います。

画像1:神代三山稜と高千穂の峰

(1)~(3)まではいずれも鹿児島県内にあり、合せて「神代三山陵」と呼ばれているそうです。その被葬者として比定されているのが、それぞれ日本神話に登場する次の有名な人物(神?)となります。

 (1)瓊瓊杵尊   (ににぎのみこと)
 (2)彦火火出見尊 (ひこほほでみのみこと)
 (3)鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあわせずのみこと)

日本神話においては、(1)が地上に降臨した最初の神で、(2)、(3)がそれぞれ、子、孫と代を重ねます。そして、(3)の子に当たるのが初代天皇となる神武天皇であり、この系図だけ見ると、まさに神代の超重要人物(神?)が勢揃いなのです。

そして(4)の高千穂の峰については、(1)の瓊瓊杵尊が天孫降臨の際に降り立った山とされていますが、この神話の史実的解釈については既に過去に取り扱っているので、そちらの記事をご覧ください。

 関連記事:
  ・天孫降臨と九州 
  ・天孫降臨と九州(2) 
  ・天孫降臨とミヲの猿田彦 
  ・再び天孫降臨の地へ 
  ・再び天孫降臨の地へ(2) 

なお、これらの方々が、神なのか人物なのかという点なのですが、御陵(みささぎ)=墓という実体を以って祀られている以上、私は全て実在した人物と捉えるべきだと考えますし、以前からお伝えしているように、史書の一つ秀真伝(ほつまつたえ)では、明らかに実在人として表現されていることから、ここから先は人物として扱うことにします。

4年前に鹿児島を訪れた時には(3)の吾平山上陵を、そして今回は(2)の髙屋山上陵を見て回りました。ここでは、(2)の髙屋山上陵を視察した感想をお伝えすることにしましょう。

■彦火火出見尊

以下が現地で撮影した髙屋山上陵の正面です。現皇室の租という話ですから、宮内庁が管轄する御陵となっています。

画像2:髙屋山上陵
画像3:宮内庁管轄御陵

さて、ここに眠るとされる彦火火出見尊ですが、このような難しい名前よりも、子供の時に読み聞かされた方も多いであろう日本神話に出て来る「山彦」(やまひこ)の名の方が良く知られているかもしれません。世に知られる「海彦・山彦伝説」です。

それがどんなお話であったか、ここではまず粗筋を思い返すことにしましょう。

昔、海彦(兄)と山彦(弟)という兄弟がいた。海彦は海で漁を、山彦は山で狩りをそれぞれの生業としていた。

ある日、兄弟はそれぞれの仕事道具である釣り針と弓矢を交換し、海彦は山に狩りへ、山彦は海へ釣りに出かけたが、二人とも成果はさっぱりであった。

お互いの道具を返す段となったとき、山彦は海彦の大事な釣り針を海に落としたことに気付いた。海彦は大層怒り、山彦が自らの剣を溶かして作った代わりの釣り針も受け取らず、「同じものを返せ」と迫った。

海辺で途方に暮れていた山彦の前に翁が現れ、事情を話すと、籠に乗るよう促され、籠は海に流されると沈み、龍宮城へと辿り着く。

山彦は龍宮城で美しい姫と出会い、しばらく時を過ごすが、地上に戻るに当たり、失くした釣り針について竜宮城の神に尋ねたところ、ある魚の口に引っかかっていたのが分かる。

それを持って地上へ発つとき、龍宮城の神は2つの玉を山彦に渡す。潮干玉(しおひるたま)と潮満玉(しおみつたま)で、潮干玉は水を引かせ、潮満玉は水を満たす力があり、兄に意地悪された時にはそれを使って兄を困らせろと言う。

地上に戻った山彦は、2つの玉を使って兄を溺れさせるなど懲らしめ、兄の海彦は、命の懇願として今後山彦に従うと約束する。

どうでしょうか、この話を覚えていらっしゃる方は多いのではないかと思います。どこか荒唐無稽であり、神話と言うよりもおとぎ話に近いと感じられたことでしょう。

こんな話が日本の正史を記述したとされる日本書紀や古事記に、神代の記録、それも現皇室の先祖の記録として本当に書かれているのですから頭が混乱します。

当然、これらを文字通りに受け取る訳にはいかず、何かの歴史的事実を寓話的に脚色したものであると考えざるを得ないのです。

日本書紀に拠ると、これらの登場人物はそれぞれ次の様になります。

 海彦:火酢芹尊(ほすせりのみこと)
 山彦:彦火火出見尊
 翁 :塩土老翁(しおつちのおぢ)
 龍宮の神:海神の神(わたつみのかみ)
 姫 :豊玉姫(とよたまひめ)

このストーリーから窺える重大事象の1つは

 火酢芹尊と彦火火出見尊が争った

次に、

 塩土老翁と海神の神が彦火火出見尊に加勢した

そして、私が最も重要視するのが

 彦火火出見尊は豊玉姫を娶る

という点なのです。

■少女神豊玉姫

本ブログでは、これまで少女神仮説に基づいて古代王朝の成立過程について考察してきましたが、この海彦・山彦の神話の中に少女神の継承者と考えられる「豊玉姫」が登場したことにより、やはりこの仮説によって実際の史実が解明できるのではないかと考えるのです。

画像4:過去記事「三嶋神と少女神のまとめ」より 

少女神仮説の中核は「女系による王権継承」ですから、火酢芹尊や彦火火出見尊が誰の子であるかは、日本の王権とは直接関係しないのです。ですから、王位継承者の二人が争ったとする記紀の男系継承的な解釈は当てはまらず、そこにはひたすら「二人の男性による姫の奪い合い」があったと考えるべきなのです。

話の筋道から考えると

 海の支配者は元々火酢芹尊であった

と考えられ、それを味方の加勢を受けた彦火火出見尊が奪い取り、姫と同時に海の支配権を略奪したとも読めるのです。

画像4の記述で大事なのは、これまでの考察から彦火火出見尊が、三嶋湟咋(みしまみぞくい)もしくは賀茂建角身(かものたけつぬみ)と同一人物であると考えられることであり、この時に三嶋一族、あるいは賀茂建角身の別名である八咫烏(やたがらす)がこの国の中枢に侵入した事実を物語っているとも取れるのです。

そうなると、王権を剥奪され従者と成り下がった火酢芹尊とはいったい誰なのかが問題になるのですが、その答は日本書紀の次の節に書かれていると私は考えるのです。

始めて起こる烟(けぶり)の末より生り出づる児を、火闌降命(ほのすそりのみこと)と号(なづ)く。是(これ)隼人等が始祖(はじめのおや)なり。

日本書紀 神代下
画像5:隼人塚(霧島市)
書籍のご案内

当ブログで頻繁に取り上げている「少女神」という概念は、みシまる湟耳(こうみみ)氏による著書「少女神 ヤタガラスの娘」(2022/1/28 幻冬舎)によってインスピレーションを受けたものです。ブログ記事を読み進めるためにも、まず初めにこちらをお読みになられることを強くお勧めします。



この本を読むことで、日本国民が天皇家の成立ちについて誤解していること、あるいは意図的に誤解させられている事実に気付くはずです。

この本の出版が露骨に妨害されている動きが見られます。みシまる氏の今後の活動を応援する為にも、ぜひとも新刊での購入をお願いします。



髙屋山見下ろす隼人の御土地は守り鎮めし神の賜物
管理人 日月土

神功皇后の新解釈

前回はちょっとばかりアニメネタに触れましたが、ここでまた卑弥呼の時代に注意を向けたいと思います。

過去記事「公孫氏卑弥呼とは誰か」では、年表を比較する限り、魏志倭人伝の卑弥呼と記紀に登場する神功皇后(じんぐうこうごう)は同一人物とは言い切れないまでも、どうやら同時代の人物らしいというお話をしました。

また、この二人の記述の共通点として、魏志倭人伝では「倭国大乱」、記紀では「三韓征伐」と国同士の大きな争いがあったのも注目点であると述べました。

今回は、ここから少し踏み込んで、私なりの解釈を加えてみたいと思います。あくまでも自己流解釈なので、そんな根拠のない話は結構という方は、ここで読むのを止めてもらって構いません。

■神功皇后とは

ここ2年の間、「少女神」という女系が天皇の王権を保証しているという概念を用い、記紀や秀真伝(ほつまつたえ)の解読を試みていますが、何度もお伝えしているように、これは

 史書は暗号の書である

という前提で成り立っています。書かれたものが真実だと思いたい方には少々耐え難い仮定ではありますが、史書に残された内容の荒唐無稽さを考えれば、むしろ編者がそのような読み方を求めているのだと私は解釈しています。

今回は史書に登場する「神功皇后」について、その暗号解読的解釈を試みてみたいと思いますが、まず基本的な情報として、この神功皇后の日本書紀における名前は気長足姫(おきながたらしひめ)であり、第14代仲哀天皇の皇后であると記されています。

神代以降の日本書紀は、基本的に歴代天皇史の体裁を取っていますが、何故かこの神功皇后については、皇后でありながらも独立した一巻を占めており、まるで歴代天皇の一人の様に扱われているのです。ここからも、神功皇后は日本書紀の中でもかなり異質な存在であることが窺えるのです。

そして、神功皇后記には、現代の目から見れば不思議な記述が多く、詳しくは、日本書紀または古事記をご覧になって頂きたいのですが、それを箇条書にするなら凡そ次の様になります。

 実績
  ・王の仲哀天皇が崩御された年に、王に代わり
    九州熊襲征伐を達成する
    新羅を攻め、これに加え百済、高麗を服従させる(三韓征伐)
  ・仲哀天皇の嫡男、忍熊皇子(おしくまのみこ)と争う
  ・朝廷への貢物を巡り新羅を再征伐

 伝承その他
  ・船の上で食事をしていると鯛が集まってきた(浮鯛)
  ・新羅遠征の誓約(うけい)で釣りを試みた(松浦の釣り)
  ・自ら神主となり神と対話する
  ・三韓征伐時に子を宿していたが石を抱いて出産を遅らす(鎮懐石)

この他にも、福岡など九州北部に行けば、各地に神功皇后伝承や遺構が残されていますが、私が現地で見てきた中では

 ・水路の遺構と言われる那珂川市の「裂田の溝」(さくたのうなで)
 ・鎮懐石の実物が置かれていると言う糸島市の「鎮懐石八幡宮」
 ・半煮え料理の風習が残る春日市の「小倉住吉神社」

などが強い印象として記憶に残っています。

画像1:裂田の溝(日本遺産活性化協議会さんのHPから)

このように、あちこちにその痕跡が言い伝えられている神功皇后ですが、肝心の王である仲哀天皇は、神託を疑ったばかりに早く罷(まか)られたと考えられており、神功皇后はその王の代役として、神の託宣に従い勇猛とも言える様々な実績を残し、最終的には自ら産んだ皇子(第15代応神天皇)を天皇に立てたとあります。

皇后である女性が男性顔負けの活躍をしたという記述自体に何やら違和感を覚えますし(あくまでも当時の価値観として言ってます)、託宣の時に神の名を執拗に求める記述、また鎮懐石伝承にも現実感の薄さを覚えるのです。

私としては、この掴みどころの無さこそが、史書に刻まれた暗号メッセージであろうと考えるのですが、それにしても色々あり過ぎて、これをどのように再構築すれば実際の史実に近く組み立て直せるのかと長らく思案の時が続いていたのです。

■神功皇后の少女神解釈

さて、神功皇后はその名の通り「皇后」ですから、そこにこれまでと同様の解釈を加えると

 神功皇后は少女神である

となり、それまでの歴代天皇と同様、仲哀天皇も王権を得るために神功皇后の元へ婿入りしたと考えなければなりません。

以前からお伝えしているように、現代にまで残されている史書類の数々は、元々女系が引き継いでいた王権継承の権利を、史書編纂期に男系による継承に書き換えられた(改竄された)と私は考えており、すなわち、実際は男女の立ち位置が逆転していたのだろうとしているのです。

この「事実を正反対に記述する」という改竄手法を逆手に取れば、神功皇后を巡る実際の史実は次のようであったのではないかとも考えられるのです。

画像2:史実の反転

これを見ると、神功皇后は熊襲・三韓に敗れたようにも見えますが、実際には神功皇后は兵を率いて遠征などには出ておらず、三韓勢力の助力を得た熊襲・三韓連合に仲哀天皇が討たれたことにより、自動的に王権が入れ替わったのではないかとも考えられます。

というのも、少女神は外からの婿を受け入れる立場であり、好んで争いの場に出るようなポジションだったとは考えにくいこと、また、婿家系の男性は少女神の血統を強く欲する立場であり、ライバル亡き後、少女神は極めて大事に扱われただろうと予想できるからです。

そんなことを書くと「日本は半島の国々に負けたのか!」と思われるかもしれませんが、ここで最近の記事「卑弥呼と邪馬台国の精密分析」に提示した「倭国」の新解釈を思い出して頂きたいのです。三韓が朝鮮半島の国々であるということは、すなわち

 三韓も倭国(連合)の一員であった

ということであり、この状態は内乱、もしくは

 倭国大乱

と呼ぶに相応しいとも言えるのです。

すると、神功皇后が石を抱いてまで出産を遅らせて産んだとされる第15代応神天皇とは、この戦いの勝利者である熊襲・三韓系の王家の中から選出された別家系の王であると言えるようになります。

私は、熊襲・新羅とは倭国全土に広がっていた「出雲族」系の民族が建てた国であり、第10代崇神天皇の時に入れ替わった別家系の男性王が、再び神武天皇などと同じ出雲系に返り咲いたということなのではないかと見ているのです。

以上、極めて粗っぽい論理の組み立てなのですが、この説を裏付けるには、神功皇后の他の実績や伝承の類を細かく見て、そこに埋め込まれているコード(暗号)の意味を解読して行かなければなりません。

そして何より、この解釈が公孫氏卑弥呼とどのように関連するのか、その途方もない考察はまさに緒に就いたばかりなのです。

少女神本が買えなくなる?

以下は「少女神 ヤタガラスの娘」の著者、みシまる湟耳(こうみみ)氏のツイートです。
私の確認では電子版はAmazonで現在購入できるようですが、どうしてこのようなことになったのか、本人にも正式な回答が来ていないようです。

重要な書籍なので、書店や電子版で購入できる内にお求めになることを強くお勧めします。


白き衣夢に現る姫様の悲しきお顔に頷くのみかは
管理人 日月土

花嫁たちの故郷

今回はいきなりアニメの話題から始めたいと思いますが、毎度お断りしているように、ここはアニメブログではなく、歴史考察ブログであることをくれぐれもお忘れなきようお願いいたします。

先日、(真)ブログ「GOTO分の世界」で人気アニメ「五等分の花嫁」を話題とした記事を掲載しました。

画像1:アニメ「五等分の花嫁」から
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同記事では、作品の構造については具体的なことに殆ど触れていませんが、当然、このアニメの背景には日本古代史との関連も含まれています。今回は、その接点と見なされる歴史的事象にスポットを当てたいと思います。

■五嫁の聖地「太田川」

近年、アニメの背景デザインのモデルとなった土地を、「聖地」として取り上げたり、現地を訪れることを「聖地巡礼」と呼んだりしていますが、「五等分の花嫁」(以下五嫁)の場合は、それが愛知県の東海市、名鉄太田川駅周辺であることは既に確定しています。

それは同シリーズの第1期第1話に出てきた次のシーンに象徴されています。

画像2:既に街を挙げての地域起こしか?

この他にもデザインモデルになった同地の構造物は多い様なのですが、詳しくは地元市議会議員さんのホームページに詳しいので、アニメ好きの方はどうぞそちらをご覧ください。

さて、私がまず最初に気になったのは、画像2の背景モデルになっている建物なのです。この建物、駅前の複合商業施設で「ソラト太田川」と言うらしいのですが、私としては少しばかり仰天のネーミングなのです。

何故なら「ソラト」とは、シュタイナー人智学において

 太陽の悪魔

とされる、キリストに対する最大の敵対者であると位置付けらているのです。

 関連記事(外部):ソラト 太陽の悪魔 

メディア表現に「反キリスト」の象徴が描かれることは、スタジオジブリ作品や最近の「天気の子」なども含め珍しいことではありませんが、この能天気としか言えない学園ラブコメ作品の第1話が、いきなり悪魔の象徴から始まる事に関しては、少々驚きを隠せません。

当ブログではメディア作品の「呪詛」については詳しく触れませんが、少なくとも五嫁の冒頭から呪詛的要素が組み込まれていることは把握しておいてよろしいでしょう。そして問題なのは、その「呪い」がいったい何に向けられていて、どうしてそれが東海市太田川なのかという点なのです。

■知多半島北部は古墳地帯

私は中京地区には必ずしも強くないのですが、大都市名古屋の南東、知多半島の付け根から半島の中央部にかけての丘陵地に古墳が多く点在していることは把握しています。

これを Google Map の太田川周辺で「古墳」と検索すると次の様な結果を得ます。

画像3:太田川周辺古墳マップ

この中で太田川駅の東南にある岩屋口古墳などは、知多半島の古墳の中では最大であるとされており、そのような大型古墳の周辺にこれだけしか古墳が見当たらないというのは本来あり得ないことであり、おそらくその多くが、建造後千年以上に亘る歴史の中で、取り壊されたり人家や畑の下に埋もれてしまった、または、未だ古墳として認識されていない森林などに残されていると考えられます。

古墳の配置を考える時、中世まで続いたと考えられる海進時代の海岸線を考慮に入れなければなりません。「Flood Map」で今より海面が7m高かった場合を想定すると、その海岸線は凡そ次の様になると予想されます。

画像4:太田川は伊勢湾の底にあった
(現在の工業地帯は全て海面下にあったとしています)

この画像を見ればお分かりのように、画像3に表示された古墳(群)は、いずれも古代の海岸線上にあることが良く分かります。

現在の太田川駅周辺は海面下に没しているものの、古代期においては伊勢湾内における更なる小内海のような地形をしていたと考えられ、このような地形は船舶が主要な移動手段であった古代期においては、波風を避け船を停泊できる理想の土地であったと予想できるのです。

ですから、ここに人が集まり、巨大な墳墓を構築するような文化が栄えるのはむしろ必然と言えるでしょう。この場合の古墳とは、単なる墓ではなく、沖を行き交う船にとって、大事な目印となっていたのは予想に難くありません。

要するに、太田川駅周辺の旧海岸線上には、古墳時代以前にある程度の規模の文化圏が築かれていたと考えられるのですが、それと五嫁にはどのような関係があるのでしょうか?

■太田川は少女神エリアだった

実は、伊勢湾周辺の遺跡・古墳については昨年5月の過去記事「古代鈴鹿とスズカ姫(3)」で、少女神、すなわち「古代巫女皇后」を主要トピックとして取り扱っています。

その記事で使われた画像において、今回のテーマとなっている「太田川」の位置関係は次の様に表すことができます。

画像5:少女神ゆかりの地と太田川
地図は海進期の予想海岸線を採用

記画像をご覧になればお分かりの様に、太田川は伊勢湾を取り巻く、いわゆる

 少女神エリア

の圏内、その東岸に位置するのがはっきりと読み解けるのです。

五嫁とは、5人の同じ顔の少女達を主人公に置いた物語ですから、ここで「少女」をキーワードに、アニメ聖地と物語の微妙な繋がりが垣間見えるのです。果たして「ソラト」の呪いもこれと関係あるのでしょうか?

■椿古墳の支石墓

調査に出向く頻度があまり高くはない中京地区ですが、画像3,4の最南端に記されている「椿古墳」については現地に出向いて調査を試みています。

この古墳、古墳認定されているので、何らかの発掘資料が残っているのかネット検索してみましたが、残念ながらネット上には殆ど資料らしい資料が見当たりません。

なので、今もそうなのですが現地に出向いた時も手探りで、外観と土地の造形からこの古墳の成立ちを考えなくてはならない状況となりました。

現地へ向かったのは良いのですが、丘陵の麓から中腹にある神明社という神社までは参道が続いているものの、そこから先へは道らしきものが整備されておらず進めなくなってしまったのです。

道なき道を進む体力が私にはないので困っていたところ、同行者が代わりに登ってくださるということで、その方に丘陵頂上部の古墳があると思われる場所で写真を撮ってきていただきました。その写真が次のものです。

画像6:椿古墳の石(1)
画像7:椿古墳の石(2)

この写真を見た時に私も「えっ?」と思いました。何故なら地面に転がるこの石は平たく整形されたものであり、石棺などの構成物とも考えられますが、ならば端が整えられていない大きな石が、ごろっと数点だけこのように残されているのもどこか変なのです。

結論としてまだ断定できないのですが、私はこれを

 支石墓(ドルメン)

の残骸ではないかと推測するのです。

画像8:支石墓(韓国) (引用元:VisitKorea )

この支石墓、福岡など九州北部のものが有名ですが、基本的に朝鮮半島から渡ってきた人々が半島式に死者を埋葬する文化として残して行ったものと言われています。

そうすると、あくまでも仮定の話となりますが、この土地に半島ゆかりの諸民族が流入していたとも考えられ、ここに、これもまた微妙ではありますが、

 少女神 - 朝鮮半島

の繋がりが見出せるのです。

アニメ「もののけ姫」に登場し、少女神の象徴とみなされる少女「カヤ」が、古代朝鮮国である「加耶」と同音の名を持ち、同時に半島式の帽子を被っている点が、以前から不可解な点として残っていましたが、どうやら、少女神を語る時に古代朝鮮王朝の話は切り離せないという点が明確になってきました。

画像9:もののけ姫のカヤ

前回、前々回の記事では、魏志倭人伝の卑弥呼が居たとされる「倭国」とは、おそらく朝鮮半島と日本列島を含む広い地域を指すのではないかとしましたが、椿古墳が半島式支石墓だとすれば、少女神はこの広い「倭国」の中を移動していたのではないかとの類推も可能なのです。

すると、必然的に、古代倭国の女王と少女神の話も、朝鮮半島を支点に繋がってくるのです。

まだまだ、物事を断定するには不十分ではありますが、最後にこのドルメンが今年上映された宮崎駿監督の最新映画「君たちはどう生きるか」に登場したことを、映画をご覧になった方は今一度思い出して頂きたいのです。宮崎氏はなぜこのようなシーンを映画の中に盛り込んだのでしょう?

画像10:映画に登場した半島式ドルメン
公式パンフレットから

ここまでのキーワードを整理すると

 ・五人の少女
 ・少女神
 ・知多半島の支石墓
 ・古代倭国と卑弥呼

そして、アニメ作品に表現される

 ・古代朝鮮王国の象徴

その関係はいったいどのようなものなのでしょうか?そしてもしも「ソラト」が呪いのキーワードであるなら、まさに古代少女神こそが呪いのターゲットではないのかと私は考えるのです。

書籍のご案内

当ブログで頻繁に取り上げている「少女神」という概念は、みシまる湟耳(こうみみ)氏による著書「少女神 ヤタガラスの娘」(2022/1/28 幻冬舎)によってインスピレーションを受けたものです。ブログ記事を読み進めるためにも、まず初めにこちらをお読みになられることを強くお勧めします。



この本を読むことで、日本国民が天皇家の成立ちについて誤解していること、あるいは意図的に誤解させられている事実に気付くはずです。


内海の空の向こうには 隠れし少女の囚われの園
管理人 日月土

公孫氏卑弥呼とは誰か

今回は、前回の記事「卑弥呼と邪馬台国の精密分析」の続きとなります。話を進めるに当たって、山形明郷著「卑弥呼は公孫氏」をベースに置いていることをお断りしておきます。

■「倭国」の再定義

前回述べた山形説による重要な結論とは

 古代倭国とは遼東半島以南の地域を指す

という点であり、すると、これまでの邪馬台国論争で語られてきた、畿内説vs九州説という論調が極めて怪しくなってくるのです。

なにせ「後漢書韓伝」に倭国は馬韓の南で接していたと明記されているのですから、ここで言う倭国とは朝鮮半島内、あるいは半島を含む以南の国を指しているとしか考えられません。

画像1:古代倭国の想像図

上の図は、現代の国境線による国土感覚で見れば、「倭国」という一つの大国があった様にも見えますが、実際には、それぞれの地域に独立国家のような小国家が点在し、緩やかな連合国家のような体をしていたのかもしれません。

遼東半島を支配していた古代朝鮮国家群や中国の駐留軍から見れば、朝鮮半島を含む南の地域は、日本列島を含めまとめて南の未開国、すなわち倭国という未開人の住むエリアとして一色旦に見られていた可能性があるのです。

その意味では、畿内説や九州説も完全に否定され得ないように見えますが、山形説によれば邪馬台国への行程分析からも、魏志倭人伝に記述される邪馬台国とは、朝鮮半島内にあったと考える方が妥当なのです。

■日本書紀と邪馬台国

次に年代関係を見てみましょう。古代期の年代特定は多くの研究者の努力によりある程度見通しが立ってきましたが、正確な年代となると、果たしてそれが正しいのかどうか、疑問の余地が残ります。

魏志倭人伝については、西暦200年代半ばの出来事とされていますが、ここで、岩波書店から出版された「日本史年表(第四版)」でこの時代がどのような時系列で記述されているかを見てみます。

岩波書店 日本史年表(第四版)

ここでは魏志倭人伝の記述を元に、西暦248年に卑弥呼は亡くなったことになっていますが、気になるのは西暦266年の記述です。

『「倭国の女王から使者が遣わされた」と晋書に書かれている』という何とも回りくどい記述なのですが、岩波文庫の注釈には、どうやら、日本書紀の編纂者は魏志倭人伝の卑弥呼を神功皇后(じんぐうこうごう)と同一視していたようだとの分析が書かれています。

日本書紀には漢籍からの引用と思われる箇所が各所に見られ、これが本当に日本正史なのか?と思わず首を傾げたくなることは多いのですが、ここではまず、日本書紀に該当箇所が具体的にどのように記述されているのかを見てみます。

六十六。年是年、晋の武帝の泰初(たいしょ)の二年なり。晋の起居(ききょ)の注に云はく、武帝の泰初の二年の十月に、倭の女王、訳(をさ)を重ねて貢献せしむといふ。

六十九年の夏四月の辛酉の朔丁丑に、皇太后、稚桜宮に崩りましぬ。時に年(みとし)一百歳(ももとせ)。

岩波文庫 日本書紀(二) 神功皇后

岩波文庫の解説によると、69年の神功皇后崩御に関する記述についても、晋書に書かれた「倭の女王」、すなわち卑弥呼と神功皇后が同一視されていたが故に、敢えて66年条より後に記述されたのだろうとしています。

それが事実かどうか知る由もありませんが、魏志倭人伝では248年に死去したことになっているのに、それより18年も後に晋に使者を送ったとするのは変な話です。詮索し出すと矛盾だらけなのではありますが、それでも

 卑弥呼と神功皇后は同時代の人物

とだけは言っても良いのではないかと考えられるのです。

神功皇后記には、他にも魏志倭人伝の「倭の女王」を模したと考えられる箇所が数か所ありますが、もしかしたら、これは単なる漢籍の引用・転載・借用などではなく、神功皇后と卑弥呼の関係性を示す、日本書紀編纂者からの重要サインなのかもしれません。

卑弥呼に関しては、魏志倭人伝以外に詳しい記述は少なく、それがその謎めいたキャラクター性を高めていますが、同じく謎めいた日本古代史上の女傑「神功皇后」の実体を分析することで、もしかしたら同時代人「卑弥呼」の正体が見えてくるかもしれません。

■倭国大乱と三韓征伐

神功皇后が出てきたところで、神功皇后の女傑としての大功績「三韓征伐」(さんかんせいばつ)について、Wikiの記述を読んでみます。

三韓征伐(さんかんせいばつ)は、仲哀天皇の后で応神天皇の母である神功皇后が、仲哀天皇の没後新羅に出兵し、朝鮮半島の広い地域(三韓)を服属下においたとする日本における伝承である。経緯は『古事記』『日本書紀』に記載されているが、朝鮮や中国の歴史書や碑文にも関連するかと思われる記事がある。

『日本書紀』では新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるためこの名で呼ばれるが、直接の戦闘が記されているのは対新羅戦だけなので新羅征伐と言う場合もある。『古事記』では新羅と百済の服属は語られているが、高句麗の反応は記されず、「三韓」の語も現れない。吉川弘文館の『国史大辞典』では、「新羅征討説話」という名称で項目となっている。ただし三韓とは馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那・加羅)・辰韓(後の新羅)を示し高句麗を含まない朝鮮半島南部のみの征服とも考えられる。

Wikipedia 三韓征伐 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%9F%93%E5%BE%81%E4%BC%90

最初の節で「倭国とは遼東半島の南の地域」と想定されるとしました。これにより卑弥呼と朝鮮半島との関係性がぐっと近くなったのですが、同時に魏志倭人伝に登場する「倭国大乱」を、

 朝鮮半島大乱

と記述することも可能になります。

前節では、卑弥呼と神功皇后の両者の同時代性について論評しましたが、この「三韓征伐」についても、Wikiの定義から「朝鮮半島出兵」と捉えて間違いありません。ここに

 倭国大乱(半島大乱) = 三韓征伐(半島征伐)

の同義性を見出すことができるのです。

どうやら、謎の女王「卑弥呼」とその国家「邪馬台国」は、朝鮮半島と日本列島を大きな一括りの「倭国」と再定義することによって、その歴史的真実が見えてきそうなのです。


桜なる 花咲く宮の裏手にぞ 君来るを待つ 紅の椿
管理人 日月土

卑弥呼と邪馬台国の精密分析

本歴史ブログでは、これまで「卑弥呼」なる女性については何度か触れてきたものの、古代史ファンが熱狂してやまない「卑弥呼・邪馬台国論争」には積極的に立ち入らないようにしてきました。

しかしながら、「少女神」という古代王権に関わる女性の役割がはっきりと見えてきた中で、話の展開上取り敢えず

 卑弥呼 = 媛蹈鞴五十鈴媛(タタラ姫+イスズ姫) = 神武天皇皇后

ということにしてきました。

ただし、この設定に関しては実は私もまだ釈然としない部分が残されており、いわゆる魏志倭人伝が伝えるところの西暦200年代中期の出来事に、神武天皇の后の話が登場するのはやはり時系列的に無理があるとも感じていたのです。

流石に皇紀が伝えるような紀元前660年ではないにしろ、神武天皇の即位は遅くても西暦100年よりは前だろうと考えられるからです。

ここは一旦、邪馬台国・卑弥呼について曖昧にしたままではなく、その出典たる魏志倭人伝について、精密に分析を掛ける必要があるだろうと考えたのです。

■異色の邪馬台国本

私も、邪馬台国論争がどういうものであるかは心得ていますし、どちらかというと畿内説より九州説の方が支持できるかなという極めて浅いレベルではその論争に身を置くこともできます。

しかし、邪馬台国の所在を巡る種々の議論に対し一斉に冷や水を浴びせる説があるのをご存知でしょうか?

画像1:山形明郷著「卑弥呼は公孫氏」1991
同PDF文書:http://grnba.jp/bbs_b/1-1himiko.pdf

ここから先は、上記PDFをお読みになって頂くのが早いのですが、10年以上前に同書に出会って以来、

 「倭人=日本人」と誰が決めた?

という疑問点については常々頭の片隅に入れていたのも間違いありません。そこで、同書の「倭人伝」から、その疑問に関する著者の強烈な皮肉について書き出してみました。

この『三国志』中の『魏書』の末尾に『烏丸鮮卑(うがんせんぴ)東夷伝第三十倭人之条(とういでんわじんのじょう)』という記録があり、これを我が国では、旧来、一般に「魏志倭人伝」と称し、この条文を以て、日本古代史の或時期のエピソードであったと看做(みな)し、我が国古代の歴史を語る上において欠かすことの出来ない重要文献の一つ、即ち「倭人伝= 日本古伝」と信じ込んでいる様である。

この様な固定観念を以て、倭人伝の語る内容を検討しているが、その実情は語呂合わせ的であり、かつ、附会曲解の一語に尽きる解釈足らざるを得ず、この種の研究がなされる様になって、既に3 世紀を費やしているといわれているが、未だに納得のゆく結論めいたものは出ず仕舞である。

山形明郷「卑弥呼は公孫氏」p12より

確かに、魏志倭人伝内に「伊都国(いとこく)」とあれば「糸島のことだ!」、「末羅国(まつらこく)」と来れば「松浦の事だ!」といったような、極めて短絡的な、それこそ語呂が少し合った程度で、それがあたかも確定事項のように、邪馬台国が日本国内に存在したかのような牽強付会な結論に導こうとする論調は多く見かけます。

確かに、この方法だと、自分にとって都合の良い解釈がいくらでも可能であり、その意味では私の掲げている説なども、同じ批判に晒される対象と成り得るでしょう。

■起点を定める

さて、その魏志倭人伝の書き出しはどうなっているのか、原文を見てみましょう。

倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國

「倭人は帯方東南、大海の中に在り。山島に依り国邑を為す。旧百余国。漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所は三十国なり。」

「倭人は帯方郡の東南、大海の中に在る。山がちの島に身を寄せて、国家機能を持つ集落を作っている。昔は百余国で、漢の時、朝見する者がいた。今、交流の可能な国は三十国である。」

引用元:https://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm

倭国の方位を指す最初の基準点として、古代中国の直轄県「帯方郡」(たいほうぐん)の名が記されているのが分かります。その帯方郡の存在位置についは一般的に、朝鮮半島の中西部に存在したとされています。

画像2:一般的な帯方郡の位置関係
「世界史の窓」さん(https://www.y-history.net/appendix/wh0203-099.html)から

しかし山形氏は、

 そもそも帯方郡が存在していた場所はどこなのか?

すなわち、いきなり倭国の位置探索を始める前に、そもそもどこを起点に倭国を巡ったのか、そこを問題としているのです。その為、同時代の中国古文献をほぼ余すことなく渉猟し、そこに記述されている国名や、河川名などを徹底的に絞り込んだ結果、楽浪郡・帯方郡、及び馬韓・弁韓・辰韓などの古朝鮮国家群の位置関係を次のように突き止めます。

画像3:山形氏による三韓所在略図

つまり、楽浪郡・帯方郡・古朝鮮国の一群は遼東半島の北方付近にあり、従来の古朝鮮国は朝鮮半島にあったという定説は誤りであるとしています。また、後漢書韓伝には

韓は三種あり。一は馬韓と曰ひ、二は辰韓と曰ひ、三は弁辰と曰ふ。馬韓は西に在り、五十四国あり。その北は楽浪と南は倭と接す。辰韓は東に在り、十有二国。その北は濊貊と接す。弁辰は辰韓の南に在り、また十有二国。その南はまた倭と接す。

とありますので、倭国とは画像3の馬韓南部、及び弁韓の南部と接する辺り、すなわち遼東半島南部沿岸から、始まることが分かるのです。

これに、魏志倭人伝の記述を当て嵌めると(「里」は海上では正確な距離を示さず、一昼夜程度の時間を百里見当としている)、結局、倭国とは

 遼東半島南部から朝鮮半島一帯を指す地域

であることが示されるのです。

即ち、日本列島内で「畿内だ、九州だ」と騒いでいる邪馬台国論争には実は何の意味もないと山形氏は看破しているのです。

■女王と公孫氏

この後、卑弥呼と遼東半島の有力氏族である公孫氏(こうそんし)との関係が述べられていますが、詳しくは同PDF文書を良くお読みになってください。

山形氏の指摘を受け入れると、私の卑弥呼=媛蹈鞴五十鈴媛説は見事に崩壊する訳なのですが、むしろ私はその方がスッキリするのです。

この二人は時代的には200年以上離れた存在であり、二人が別人とすれば、これで時系列問題がクリアされたことになります。そして、魏志倭人伝には卑弥呼登場の前に「倭国大乱」が短く表現されており、山形解釈によればそれは

 朝鮮大乱

と表現しても問題ないでしょう。

実は、媛蹈鞴五十鈴媛から200年位後の時代はちょうど、日本書紀にもある神功皇后による

 三韓征伐

が行われた当たりの時代と重なってきます。

ここで、魏志倭人伝における「卑弥呼」と日本書紀における「神功皇后」の距離がぐっと近づくこととなり、あらたな日本との関係性が浮上してくるのです。

この媛蹈鞴五十鈴媛から卑弥呼登場までの200年間は、日本古代史においても謎の多い欠史八代時代とも重なり、この謎の時代は、もしかしたら当時の朝鮮半島情勢を調べることで見えてくる可能性も出て来たのです。


百歳の時を繋げよ卑弥呼なる姫神
管理人 日月土