弥生の文字と田和山遺跡

いつもと違い、今回は時事ニュースから古代史に関するトピックを取り上げたいと思います。まずは元ネタになる報道記事を見てみましょう。

「正直、まさかと…」国内最古の文字?…実は「油性ペンの汚れ」だった
9/9(金) 19:56配信

1997年に島根県松江市の田和山遺跡で出土した、弥生時代中期の「すずり」とされる石。

表面に黒い線があり、日本最古の文字の可能性があるとされていましたが、松江市からの依頼を受けて、奈良県立橿原考古学研究所の所員などが分析した結果、「油性ペンの汚れ」だったとの結論が出たことが分かりました。
松江市埋蔵文化財調査課は、石自体は弥生時代中期の「すずり」であり、石の価値は変わらないとしています。

2020年に、国内最古の文字の可能性があると発表した福岡市埋蔵文化財センターの久住猛雄さんは、BSSの取材に対し次のように答えました。

福岡市埋蔵文化財センター 文化財主事 久住猛雄さん
「正直「まさか」と思いました。「風化でかすれたような文字」に見えたため、私を含めて実見した多くの専門家が「古い文字」と判断していました。
しかしながらこれは科学的検証であり、私からの直接反論は難しく、その分析結果が確定的となれば、この資料の「弥生時代の文字」説は撤回し、それを前提とする論も大きく修正する必要があります。しかしこれも学問の発展の上で仕方ないことでしょう。
ただし、このことをもって「板石硯」論は否定されません。
この石製品は、使用痕や形態、側面整形などから「板石硯」と考えていますし、「板石硯」登場以降(弥生時代中期以降)の「文字使用」の可能性は十分にあり、今後、弥生時代の文字資料が発見される可能性はあると考えています。
もう一つ重要なことは、どのような経緯で出土品にこのような「文字」状痕跡が生じたかについては、松江市による責任ある調査と検証が必要だろうとも考えています」

引用元:YAHOOニュース(BSS山陰放送) https://news.yahoo.co.jp/articles/e7516dce60d1ddf3da0eefb1cfd926708c313a05

このニュース、何が問題になっているかというと、田和山遺跡で発見された石の硯(すずり)に、日本最古と思われる文字使用の痕跡が残されていると期待されていたものの、科学分析の結果、それが油性ペンの汚れと判明したという点です。

画像1:島根県松江市内の田和山遺跡外観
引用元:文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/211960

同ニュースに掲載されていた硯の拡大写真は次の様になります。

画像2:問題の「すずり」拡大写真(引用元は上記報道と同じ)

上写真の〇で囲んだ部分が「文字」ではないかと思われた部分です。

田和山遺跡に関するサイト「田和山遺跡」では、ここに書かれた文字は「子戊」(ね・つちのえ)ではないかとしています。十二支十干を表す文字であり、古くから時や方位を表す漢字として使われていた文字ですから、このような古い遺物にその痕跡が残されていたとしてもそれほどおかしなことではありません。

画像3:堀氏による田和山文字についての考察
引用元:田和山文字から世界の文字の歴史まで http://tawayama.net/?page_id=2852

この硯は弥生時代中期、今から2100年ほど前の遺物と鑑定されてますから、同時代のものであればまさしく日本最古の文字と言ってよいでしょう。

実はこの報道には首を傾げる点が幾つかあります。

そもそも、文字云々が議論されていた遺物が硯(すずり)であり、それが文字を書くための道具であることは疑いようもないことなのですが、文字痕が油性ペンの跡であるとことさら強調する理由は何なのか?もちろん事実は事実として確認することは大事なことではありますが。

また、油性ペン跡だとして、どうしてそれが遺物に残されていたのか、その原因について報道では何も考察されていないのが気になります。もちろん鑑定と考察は別の作業ではありますが、油性ペン跡混在の理由まで追わないと、それは考古学調査における今後の問題点として残り続けると思われます。

これについて、私の歴史アドバイザーで、実際に発掘作業まで行うG氏は次の様に語ります。

 ・プロ発掘者なら遺物にペン跡が残るような取り扱いはしない
 ・一度研究機関に納めると、多くの場合再検証する機会が失われる

どういうことかと言うと、橿原考古学研究所など公的研究機関によって何らかの発表がなされると、それ以上の議論や再検証がストップしがちであるということ、すなわちそれが歴史的事実であるとして確定してしまうということへの危惧なのです。

科学的分析とは言いますが、近年非常に精度を高めてきた(誤差数10年程度)炭素14年代分析法によって、近畿地方よりも古くに作られた須恵器や瓦の遺物が九州で見つかっているにも拘わらず、この科学的結果については考古学会では未だに認められていません。

測定技術に問題あるという言うなら、今回の「科学的分析」についてもそれを直ちに確定事項と考えるのは早計だと思われます。そもそも、学問とは何か疑問があればいつでも再検討する自由と柔軟性を併せ持つべきものなのです。

この報道には測定方法や分析データが掲載されていないので何とも言えませんが、この報道を以て全てが確定したと考えてはいけない、それだけは言えると思います。

■田和山遺跡を巡る奇譚

G氏によると、田和山遺跡が現在のような史跡として残されるまでには複雑な経緯があったと言います。それは何かと言うと、この遺跡は松江市立病院の建設予定地として元々は取り壊される予定だったと言うのです。

ところが、ただの古墳があるだけの名も無き小山と思われていたものが、調査発掘により実は3重の環壕を巡らせた大遺跡であることが判明し、地元住民からも保存を求める声が高まったのです。

この声に対して、当時の松江市長であった宮岡寿雄氏は病院の建設を強行しようとしたのですが、2000年の5月、在職中に突然亡くなられています。

ネット上の書き込みなどによると、この時期に亡くなられたのは、市長の他に市議会議員が3人、そして地元の建設会社の関係者1名と計5名で、いずれも遺跡の完全撤去による病院建設を推進していた人達であると言われています。

画像4:田和山遺跡の現在と過去(1970年代)

この事実を地元がどう受け取ったのかは想像するしかありませんが、結果的に設計を変えて遺跡を残す形で病院建設が進められたのは画像4を見れば一目瞭然です。

もちろん、G氏など遺跡発掘関係者の間では、これが遺跡とその撤去計画にまつわる何らかの作用であると認識しています。というのも、発掘現場では、人型や鏡など古代祭事に関わる遺物を掘り当てた時、周囲の発掘関係者が全員熱を出して倒れたり、記録写真に見たこともないノイズ線が写り込むことがままあるということなのです。

「そんな非科学的なことを!」と思われるかもしれませんが、実は画像4の右の写真を見ても、病院を設計した建築士が遺跡の存在をたいへん気にしているのがよく分かります。

風水を学ばれた方ならお分かりになるかもしれませんが、この病院の不自然な湾曲形状は、明らかに南の山から降りて来る気の流れを受け止め、この地に溜め込むという発想の元に設計されています。

知り合いの風水師によれば、これは隣接する田和山遺跡と力負けしないように設計されているということなのですが、それについての見解は私の場合は目的の部分で少々異なります。古代呪術的にどう解釈できるのか、それについてはメルマガの方で説明したいと思います。

■田和山の田和とは何か

「大根」と書いた時、これを「だいこん」あるいは「おおね」と読む方が多いと思われます。実は「大根」と書いて「おおたわ」、つまり「根」を「たわ」と読む名字の方もいらっしゃるのです。どうやら「根」という漢字は、古くは「たわ」という音に宛てられていたようなのです。

万葉仮名とは漢字の方を語音に当てているものですから、表記のバリエーションは幾つも考えられ、「田和」も「根」と同じ「たわ」を指していると考えられるのです。

ここでは、「田和」を「根」と置き換えて考えます。「根」の字で最初に思い浮かべる古代の情景とは、日本書紀にも記述されている「根国(ねのくに)」、あるいは古事記の「根堅洲国(ねのかたすくに)」で、それは素戔嗚尊(すさのおのみことが)が高天原(たかあまはら)から追い出されて向かった国とされ、黄泉の国のことだとも言われています。

松江はまさに出雲国の中にありますから、ここで素戔嗚尊の日本神話と接点を持つことに違和感はありません。そうなると、この田和山遺跡は素戔嗚尊、あるいは素戔嗚尊が存命していた同時代の人物と関わるものであると第一に考えられるのです(※)

※もうご存知でしょうが、私は日本神話は実在した歴史を元に後世に書き直されたものであると考えています。

現地を実際に訪ねてないので確定的なことは言えませんが、Googleストリートビューで見る限り、遺跡の頂上にからの眺望は宍道湖やその先の日本海、松江市内、そして大山まで360度のぐるりを見渡せる、非常に良い立地であることが窺い知れます。

画像5:遺跡の頂上部には掘立柱の遺構があったらしい (写真提供G氏:2021年撮影)
画像6:市立病院側を見下ろす (写真提供G氏:2021年撮影)

このような立地は、宗教的斎場としての使用はもちろん、船による交通がメインであっただろう古代期には、見晴台や船舶のランドマークとして使用されていた可能性が非常に高いと考えられます。

そして、過去の調査事例から鑑みる限り、このような高台には、その国の象徴として

 当時の王墓が造られる

ケースが最も高いと考えられるのです。

あくまでも推測ではありますが、ならばその王とはいったい誰なのか、日本最古の文字の可能性も含め、田和山遺跡からはこれからも目が離せません。


ひたかみの神に会わむか田和山の頂
管理人 日月土

玉名の疋野神社と長者伝説

この6月に実施した九州は熊本県、菊池川周辺(菊池市・山鹿市)の史跡調査について、これまで5回連続でお伝えしてきました。

気になる点を細かく掘り下げ続けているといつまでも終りそうにないので、今回はレポートの締めくくりとして、菊池川が海に注ぐ街、熊本県の玉名(たまな)市を取り上げてみたいと思います。

玉名レポートと宣言する以上、本来なら2,3日かけて調査した結果を報告するべきなのでしょうが、残念ながら、今回の調査日程では時間が十分に取れず、山鹿から帰りの便が待つ熊本空港へと移動するまでの数時間しか立ち寄ることができませんでした。

それでも、なかなか興味深いものが見れたのではないかと思います。

■古代菊池川流域文化圏

山鹿市から玉名市に入ってすぐに、私はまず玉名市街にある疋野神社に向かったのです。

画像1:疋野神社

ここで、、菊池川流域のこれまでに訪ねた史跡について、次の様に地図上にまとめました。なお、この地図には2020年に一度調査に訪れた、山鹿市のオブサン・チブサン古墳、和水(なごみ)町のトンカラリン・江田船山古墳も含まれています。

 関連記事:チブサン古墳とトンカラリンの小人

画像2:これまで訪れた菊池川沿いの史跡(元画像:Google)

この地図を見ればお分かりの様に、縄文から飛鳥時代初期まで、古代期とは言えそれぞれ少しずつ時代が異なるものの、菊池川流域にタイプの異なる様々な史跡が見られることに驚かされます。

ここから、かつての菊池川流域には、日本の古代期を知る上での重要なヒントが隠されているのでないかと考えられ、今回この調査を実行したのも、まさにそれを確かめる為でもあったのです。

この中で玉名は菊池川の最下流域であり、人が海から上陸し、菊池川沿いに遡上したと仮定するならば、ここが菊池川流域文化のスタート地点となり、同時に、菊池川流域と海外を繋ぐ重要拠点としてその後も発展し続けたのではないかと想像されるのです。

■疋野神社と日置氏

さて、話を疋野神社に戻しましょう。この神社の由緒については同社のホームページに非常に詳しく書かれているのでまずそこからの引用をご紹介しましょう。

由緒について:

疋野神社の創立は景行天皇築紫御巡幸の時より古いと伝えられ、2000年の歴史を持つ肥後の国の古名社です

祭神について:

・疋野神社は他の神社よりのご勧請の神様をお祀りした神社ではありません。大昔よりこの玉名の地に御鎮座の神社であり、この地方を古来より御守護なされてきた神様をお祀りする神社です。
・御祭神、「波比岐神」は日本最古の著『古事記』記載の神様であり、日本建国の場づくりをなされた神代の時代の尊い神様です。
・相殿には父神様であります「大年神」がお祀りされています。大年神は、天照大御神と御姉弟であります素盞鳴尊の御子神様です。

波比岐神(はひきのかみ)とは、古事記の中で大年神が天知迦流美豆比売(あまちかるみづひめ)を娶って生んだ神であると書かれています。しかし、日本書紀、秀真伝にその名は見当たりません。このように史書における出現回数が少ない神をどう解釈すれば良いのか難しいところですが、今でもこの神の名を掲げている神社が現存していることは、この謎多き神、ひいては実在した人物モデルが誰であったかを理解する上で大きなヒントとなります。

そして、疋野神社のホームページにはもう一つ重要なことが書かれているのです

当神社は奈良平安時代、玉名地方の豪族日置氏の氏神神社として、はなやかに栄え、また鎮座地の立願寺という地名は、疋野神社の神護寺であった「立願寺」というお寺の名前が起源です。

そう、神社の名となっている疋(ひき)とは日置(へき、ひき、ひおき)のことで、この神社は過去記事「菊池盆地の大遺跡と鉄」で紹介した、日置金凝(へきかなこり)神社の名前にもなっている同じ日置氏を指していると考えられるのです。おそらく波比岐神(はひきのかみ)の子孫という意味なのでしょう。

すると、祭祀族と考えられる日置氏が下流から上流まで菊池川の流域に進出し、この地域で一定の役割を担っていたことは容易に想像されるのです。

古代祭祀場の名残とも思われる菊池川流域の二つの神社に、日本書紀に書かれている祭祀族の日置部(ひおきべ)の名前が冠せられている、この事実は果たして古代のどのような事実を意味しているのでしょうか?

■疋野神社の長者伝説

さて、この疋野神社には面白い伝説が残されています。題して「疋野長者伝説」なのですが、これについて、やはり疋野神社のホームページから引用したいと思います。

千古の昔、都に美しい姫君がおられました。
「肥後国疋野の里に住む炭焼小五郎という若者と夫婦になるように」との夢を度々みられた姫君は、供を従えはるばると小岱山の麓の疋野の里へやってこられました。

小五郎は驚き、貧しさ故に食べる物もないと断りましたが、姫君はお告げだからぜひ妻にと申され、また金貨を渡しお米を買ってきて欲しいと頼まれました。

しかたなく出かけた小五郎は、途中飛んできた白さぎに金貨を投げつけました。傷を負った白さぎは、湯煙立ち上る谷間へ落ちて行きました。が、暫くすると元気になって飛び去って行きました。

お米を買わずに引き返した小五郎に姫君は「あれは大切なお金というもので何でも買うことができましたのに」と残念がられました。

「あのようなものは、この山の中に沢山あります」 との返事に、よく見るとあちこち沢山の金塊が埋もれていました。

こうして、めでたく姫君と夫婦になった小五郎は、疋野長者と呼ばれて大変栄えて幸福に暮らしました。

ほのぼのとした、如何にも昔話と言った風情の伝説なのですが、その基本プロットは以下のように整理されます。

 ・炭焼小五郎という貧しい男がいた
 ・美しい姫が夢のお告げに従い小五郎の元へ嫁ごうとする
 ・小五郎は貧しいゆえに初めはそれを拒む
 ・姫は金(きん)を携えそれで生活できると主張する
 ・小五郎は姫の金を石の様に扱う
 ・金は山の中にたくさんあったがその時まで小五郎はその価値を知らなかった
 ・二人は山の金で豊かに暮らした

さて、この話を取り上げたのは、実は同じような伝説が玉名以外にも見られるからなのです。その伝説の名は「真名野(まなの)長者伝説」です。

真名野長者伝説はWikiペディア「真名野長者伝説」に詳しいのですが、その中から疋野長者伝説と類似する箇所を拾い出してみましょう。ちょっと長いかもしれませんがご容赦ください。

継体天皇の頃、豊後国玉田に、藤治という男の子が産まれたが、3歳で父と、7歳で母と死に別れ、臼杵深田に住む炭焼きの又五郎の元に引き取られ、名前を小五郎と改めた。

その頃、奈良の都、久我大臣の娘で玉津姫という女性がいたが、10歳の時、顔に大きな痣が現れ醜い形相になり、それが原因で嫁入りの年頃を迎えても縁談には恵まれなかった。姫は大和国の三輪明神へと赴き、毎晩願を掛けていた。

9月21日の夜、にわか雨にあった姫は拝殿で休養していた所、急に眠気を覚え、そのまま転寝してしまった。すると、夢枕に三輪明神が現れ、こう告げた。「豊後国深田に炭焼き小五郎という者がいる。その者がお前の伴侶となる者である。金亀ヶ淵で身を清めよ。」

姫は翌年2月に共を連れて西へと下るが、途中難に会い、臼杵へたどり着いた時には姫1人となってしまっていた。人に尋ね探しても小五郎という男は見つからず、日も暮れ途方に暮れていた所、1人の老人に出会った。「小五郎の家なら知っておるが、今日はもう遅い。私の家に泊まり、明日案内することにしよう。」

翌日姫が目を覚ますと、泊まったはずの家はなく、大きな木の下に老人と寝ていたのであった。老人は目を覚ますと姫を粗末なあばら家まで案内し、たちまちどこかへ消えてしまった。

姫が家の中で待っていると、全身炭で真っ黒になった男が帰ってきた。男は姫を見て驚いたが、自分の妻になる為に来たと知り更に驚いた。

男は「私1人で食べるのがやっとの生活で、とても貴女を養うほどの余裕はない」と言うと、姫は都より持ってきた金を懐から出し「これで食べる物を買って来て下さい。」と言って男に渡した。

金を受取った男は不思議そうな顔をしながら出て行った。麓の村までは半日はかかるはずであるのに、半時もしないうちに手ぶらで帰ってきた男は言った。「淵に水鳥がいたので、貴女からもらった石を投げてみたが、逃げられてしまったよ。」

姫は呆れ返って言った。「あれはお金というものです。あれがあれば、様々な物と交換できるのです。」

すると男は笑いながら言った。「なんだ、そんな物なら、私が炭を焼いている窯の周りや、先程の淵に行けば、いくらでも落ちているさ。」

姫は驚き、男に連れて行ってくれるように頼んだ。行ってみると、炭焼き小屋の周囲には至る所から金色に光るものが顔を出しており、2人はそれらを集めて持ち帰った。

どうでしょう、ここまでの下りは殆ど疋野長者伝説と同じです。しかも炭焼小五郎の名は両者で共通しています。敢えて異なる点を挙げれば、真名野長者伝説には続きがあり、二人の娘である般若姫の話、舞台となった豊後(大分県)で有名な摩崖仏誕生の話へと繋がって行くのです。

疋野長者伝説の舞台は熊本県の「玉名」、一方、真名野長者伝説は大分県の「玉田」ですから、このあまりにも似通った地名から、どうやら二つの伝説は同じ出所から派生したと考えられるのです。ではいったい何がこの二つを繋ぐのか?

■長者伝説が繋ぐ百済と古代日本

実はこの二つの類似した長者伝説について、「(元)情報本部自衛官」さんが最近のブログ記事「炭焼き長者と百済王」でたいへん興味深い考察を述べています。

こちらを読んで頂くとお分かりになるように、古代百済にも「薯童(ソドン)と善花公主(ソンファゴンジュ)」という、日本の両長者伝説とそっくりな、

  貧しい男が美しい姫と結ばれ、金(きん)で成功する

というストーリーが存在するというのです。しかも、薯童は百済の王にまで登り詰めるというのですから、この辺は日本の長者伝説においてただ裕福になったとされるストーリーとは若干異なります。

しかし、男に嫁いだ姫が都(みやこ)出身の高貴な家の出であることは共通しており、ここから、これらの長者伝説がどうやらある高貴な女性の出自に関する一つの伝承から派生したことが見て取れるのです。

画像3:疋野長者伝説と類似する伝説を有する地
(他にあるかもしれません)

そして、同ブログ記事で最も興味深い記述とは以下の部分です。

タマナという地名は百済がかつて外地に設置した檐魯담로に由来するという説がある。

現代ハングル読みではDAM LOが鼻音化して ダムノ に似た発音となるが、古代語は概してゆっくり発音する傾向があるため、タムル、タマラといった発音だった可能性は高い。

何故なら古い済州島の呼称を耽羅と言い、日本語読みでもタンラ、現代ハングル読みでもタムナとなる。さらに屯羅、耽牟羅という表記も見られる。

屯という字はタムロと読むし、百済が駐屯した拠点にそうした地名をつけていたという百済研究家を笑い飛ばせる人は世間知らずである。

(元)情報本部自衛官さんのブログから

読者さんは、これがどのような意味かお分かりでしょうか?要するに、

 玉名・玉田は古代百済の拠点だったのではないか?

ということなのです。要するに、同じ百済民族であればこそ、この極めて似通った長者伝説がこれだけ離れた各地に残されたと考えられるのです。

もしもそうだとすれば、私たちが常識として思い描いている

  朝鮮半島の百済・新羅・任那と対馬海峡を隔てて存在する大和国

という古代史の地勢的な構図は全て再考し直さなければならなくなるのです。

一見とてもあり得なそうなことですが、この説を甘受したとき、過去記事「菊池盆地と古代」で紹介した次の写真にまた別の解釈が生まれてくるのです。

画像4:再現された鞠智城

私はここを、白村江の戦いに敗れた百済の難民を受け入れた、いわば難民キャンプのようなものではなかったのかと仮説を立てましたが、ここを元来の百済領地と見れば、無理なくここを「百済の城」または「百済の拠点」であると言い切ることができるのです。

この種の議論をする時に気を付けなければならないのは、そもそも古代期に現代のような国境概念があったのかどうか?いや、現代のような国民国家の認識があったかどうかも疑わしいのです。

もしかしたら、古代期は船が辿り着いた各地に点在する拠点こそが領土であり、いわば複数の「点」の集合で表現される国土認識ではなかったのかということなのです。

それと比較すれば、現代の国土感覚は国境で隔てられた連続する「面」の認識であると言えましょう。

つまり、現在鞠智城跡地とされているこの地こそが、百済の一部だったのではなかったのか、極端かもしれませんがその可能性を排除してはならないと思うのです。

そうすると、玉名から菊池にまで進出した日置氏とはどのような一族であったのか、また、菊池一族のルーツとは何であったのか、はたまたこの地で祀られる第2代天皇「綏靖天皇」やユダヤの痕跡とはどのような繋がりがあるのか、これらの疑問が古代百済との関係で読み解けるかもしれないのです。


大和とは大和成り為す諸国の国かも
管理人 日月土

翡翠の姫と糸魚川

しばらく三重の話が続きましたが、今度はこの5月に実施した北陸、新潟県糸魚川市における現地調査についてお伝えしたいと思います。

とは言っても、北陸を訪れるのは数年振りで、調査として訪れたのはこれが初めてになります。よって土地の事情については不案内なので、私も知ったように深くは語れません。今回は、現地を訪れたレポートとして、糸魚川の地を総覧的にお伝えしたいと思います。

さて、糸魚川といえば、外の人間にとっては次の項目が比較的知られているのではないでしょうか?

 1. フォッサマグナの北西端
 2. 薬石で有名な姫川
 3. 翡翠の産地
 4.出雲神話に登場する奴奈川姫
 5.長者ケ原遺跡 

この内1,2は歴史テーマにあまり関係ないようですが、地形や地質がその土地に住む人々の生活環境を作ると考えれば全く無関係でないことは言うまでも無く、天然のラジウム鉱石と言われる姫川薬石がそこに存在するのも、当地の歴史的事情に何かしらの関与があるのかもしれません。

■フォッサマグナの不思議

フォッサマグナ(中央地溝帯)が何であるのかは他を参考にしていただきたいのですが、一般には、幅100km程度の新しい地層の帯が、本州のど真ん中を南北に貫いていると言われています。

画像1:フォッサマグナ(Wikiの画像を加工)

糸魚川は新しい地層と古い地層の西側の境界線の北端に当たり、両地層の接続面が観察できる地として知られています。

画像2:現地フォッサマグナパークで撮影した新旧境界面
左右で地層の色が異なる

フォッサマグナの生成プロセスについては一般にプレート理論による大規模な地殻変動が原因だと言われていますが、プレートの存在自体が証明されていないのにどうしてそんなことが言えるのかというのが私の立場です。

このフォッサマグナについては(真)ブログ記事「改めて問う、横田空域とは何なのか?」で、何故か在日米軍の管制空域と重なる不思議について触れています。

また、糸魚川より南の静岡から信州までの内陸に、何故か海にちなむ地名が多く見られる点について「アルプスに残る海地名の謎」で触れています。

一般論では数百万年前に海底が隆起して現在の新しい地層を形成したと説明していますが、その時の名残が現在の地名に残っているとでも言うのでしょうか?その答は分からないままではありますが、今は取り敢えず、糸魚川が地形・地質的にも特殊な場所の一つであるということは念頭に置いて良いと思います。

■糸魚川の翡翠

古墳から出土する勾玉や管玉など、日本全国で古代の翡翠加工品が見つかっていますが、その原石が全て糸魚川産であることは、古代ファンの間ではよく知られた話です。ファンならずとも、糸魚川で翡翠が採れることは有名でありご存知の方は多いと思います。

画像3:糸魚川の翡翠原石

実は昭和初期まで日本で翡翠が採れることはほぼ全く知られておらず、外国産だと思われていたと言うのですから驚きです。後の考古学の発展と、地元郷土史家の尽力によって、糸魚川が古代期における翡翠の一大生産地であったことが近代になって明らかになったのです。

たいへん興味深いのが、朝鮮半島など海外に輸出するまで広がった古代日本の翡翠産業が、奈良時代に突然衰退してしまったこと、それ以前の弥生時代中期に翡翠の生産が一旦止まった形跡があるなどが報告されていることです。

今でも同地の海辺や河原で見かけることもある翡翠が、なぜ1000年近く忘れ去られてしまったのか、この理由を考える始めると、祭具や宝飾として珍重される翡翠の性質から、必然的に当時の日本の政治・文化・信仰において何某らの大転換が起きたと考えざるを得ません。

その考察については今後の課題となりますが、これら「翡翠再発見」の経緯についてはWikiペディアの「糸魚川のヒスイ」に詳しいのでぜひそちらをお読みになっていただきたいと思います。

■縄文遺跡と翡翠

糸魚川には遺跡スポットが幾つもあるのですが、今回の調査では最も有名な長者ケ原遺跡を見てきました。

日本海を見下ろす小高い丘、いわゆる海に突き出た舌状台地ということになりますが、そこに広がる森林の中に同遺跡は残されています。まさに古代人が好んで住居を構える絶好の条件を満たしている地形だと言えるでしょう。

周囲には運動場や美山公園やフォッサマグナミュージアムも整備されており、現地にアクセスし易かったのも今回の調査では助かりました。

何と言ってもこの遺跡の特徴は、5~4千年前の縄文遺跡であるということ、そして、翡翠産出の土地よろしく、石器類に固く割れにくい翡翠を利用してるものが見られ、なおかつ翡翠工房跡も見つかっていることです。遺跡の詳細については私がくどくど書くよりは、原資料をお読みいただいた方が間違いないと思うので省略しますが、縄文時代の遺物に翡翠が含まれていることから、糸魚川の翡翠文化は数千年も続いたことが窺われます。

そこでやはり浮上してくるのが、その土地の生活に深く根付いていたはずの翡翠文化がどうして突然途絶えてしまったのだろうという、先ほどの疑問なのです。

画像4:長者ケ原遺跡の案内板
画像5:長者ケ原遺跡の復元された竪穴式住居
画像6:考古館に展示された長者ケ原遺跡の石器

■奴奈川姫と少女神

糸魚川には、天津神社と言う古い神社があり、その境内社に奴奈川神社が置かれています。祭神は「奴奈川姫命」です。この奴奈川姫は「沼河姫」という記述で古事記、先代旧事本紀に大国主命と共に登場します。

画像7:奴奈川神社
画像8:天津神社
主祭神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、奴奈川神社が後方に置かれている
ことに注目。おそらく天孫系、出雲系の力関係を示したものだろう

以下に、古事記に記載された該当部分の現代語訳を掲載します。

 この八千矛神(大国主命)が、越国のヌナカハ姫に求婚しようとして、お出かけになったとき、そのヌナカハ姫の家に着いて歌われた歌は、

 八千矛の神の命は、日本国中で思わしい妻を娶ることができなくて、
 遠い遠い越国に賢明な女性がいるとお聞きになって、
 美しい女性がいるとお聞きになって、
 求婚にしきりにお出かけになり、
 求婚に通いつづけられ、大刀の緒もまだ解かずに、
 襲(おすい)をもまだ脱がないうちに、少女の寝ている家の板戸を、
 押しゆさぶって立っておられると、
 しきりに引きゆさぶって立っておられると、
 青山ではもう鵼(ぬえ)が鳴いた。野の雉はけたたましく鳴いている。
 庭の鶏は鳴いて夜明けを告げている。いまいましくも鳴く鳥どもだ。
 あの鳥どもを打ちたたいて鳴くのをやめさせてくれ、
 空を飛ぶ使いの鳥よ。
  - これを語り言としてお伝えします。

とお歌いになった。そのときヌナカハ姫は、まだ戸を開けないで、中から歌って、

 八千矛の神の命よ、私はなよやかな女のことですから、
 わたしの心は、浦州にいる水鳥のように、いつも夫を慕い求めています。
 ただ今は自分の意のままにふるまっていますが、
 やがてはあなたのお心のままになるでしょうから、
 鳥どもの命を殺さないで下さい、空を飛びかける使いの鳥よ。
  - これを語り言としてお伝えします。

 青山の向うに日が沈んだら、夜にはきっと出て、
 あなたをお迎えしましょう。そのとき朝日が輝くように、
 明るい笑みを浮かべてあなたがおいでになり、
 白い私の腕や、雪のように白くてやわらかな若々しい胸を、
 愛撫したりからみ合ったりして、玉のように美しい私の手を手枕として、
 脚を長々と伸ばしておやすみになることでしょうから、
 あまりひどく恋いこがれなさいますな、八千矛の神の命よ。
  - これを語り言としてお伝えします。

と歌った。そしてその夜は会わないで、翌日の夜お会いになった。

引用元:講談社学術文庫 古事記(上) 次田真幸訳

これを素直に読むと、情熱的でかつ少々強引な大国主が奴奈川姫の元へ夜這いにきて、好意は受け入れつつもその時は大国主を家の中に入れようとしなかった姫の様子を描いていると捉えることができます。

毎度のお断りとなりますが、私は日本神話は史実を神話的ファンタジーに置き換えた一種の暗号文と見ているので、歌によるこの男女の交情シーンにも史実の解明に繋がる重要な鍵が隠されていると考えます。

その手掛かりの一つとなるのが、この訳文に出て来る「少女」で、原文には「嬢子(をとめ)」と記述されています。つまり、求婚された時の奴奈川姫はまだいたいけな少女であったと考えられます。

これは過去記事「少女神の系譜と日本の王」でも触れた、権力のある男性王が少女、それも特別な呪力を有する「神の御子(少女神)」を王権授与の証として求め訪ねる様と同じであり、古代王の記述の中に繰り返し登場するいつものパターンなのです。

つまり、今回取り上げた奴奈川姫も、ほぼ同時代の女性と考えられる栲幡千千姫(タクハタチヂヒメ)や木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)と同じように、同系の血を受け継ぐ少女神ファミリーの一員であった可能性は極めて高いと考えられるのです。

この奴奈川姫について、古事記・先代旧事本紀には書かれていないエピソードが、民間伝承として次の様に残されています。

【奴奈川姫の鏡】
 青海町の福来口(ふくがくち)に住んで居られた奴奈川姫は、出雲族に攻められ、夜しめ川(今の姫川)を渡り大野村に、秘蔵の鏡を埋めてかくされた。今の信用組合裏の地蔵さんの所だという。

【神社伝1】
西頚城(にしくびき)郡田海(とうみ)村を流るゝ布川の川上に黒姫山と云ふ山あり、奴奈川姫命の御母黒姫命の住座し給ひし山なり、山頂に石祠あり黒姫明神と称す、又黒姫権現とも云う、此の神こゝにて布を織り其の川の水戸に持出で滌曝(てきぼう)まししによりて布川と云ふ。此神の御歌に
 ここに織る此の荒たへはかの海の小島にいますわがせの御衣 と。

【神社伝2】
糸魚川町の南方平牛(ひらうし)山に稚子ヶ池と呼ぶ池あり。このあたりに奴奈川姫命宮居の跡ありしと云ひ、又奴奈川姫命は此池にて御自害ありしと云ふ。即ち一旦大国主命と共に能登へ渡らせたまひしが、如何なる故にや再び海を渡り給ひて、ただ御一人此地に帰らせたまひいたく悲しみ嘆かせたまひし果てに、此池のほとりの葦原に御身を隠させ給ひて再び出でたまはざりしとなり。

【神社伝3】
姫川の上流なる松川に姫ヶ淵と名づくるところあり、之れ奴奈川姫命の身を投げてかくさせたまへるところなりと。

引用元:糸魚川市公式HP https://www.city.itoigawa.lg.jp/dd.aspx?menuid=3790

これらを読む限り、大国主による奴奈川姫への求婚は、古事記の記述するようなロマンチックなものではなく、ほぼ強引に押し入られ、最終的に奴奈川姫は自害へと追い込まれたように読むことができます。

また、「神社伝1」では機織りと奴奈川姫の家系が紐付けられており、これは奴奈川姫が本来「布川」と書くのか、機織りに関係する姫であった可能性も示唆しています。数ある少女神の一人と考えられる栲幡千千姫の「栲幡(たくはた)」とはまさに機を織ることであり、ここにもまた奴奈川姫が少女神ファミリーの一員である痕跡がかすかに認められるのです。

さて、それでは翡翠と奴奈川姫はどう結びつくのか?それはこれまで登場した少女神とそれに関連する鉱物のストーリーを比較すれば自ずと見えてきます。

 サルメノキミ     → 丹生(水銀)
 タクハタチヂヒメ   → 琥珀、丹生
 コノハナサクヤヒメ  → ?
 ヒメタタライスズヒメ → 鉄

要するに

 ヌナカワヒメ  →  翡翠

となり、どうやら少女神の重要性とは、古代社会において最も重要な「鉱物」と何か関連付けられていた可能性が高いのです。

そう仮定すれば、大国主は翡翠の何を求めて奴奈川姫に近づいたのか、それがまた大きな問題となってくるのです。

※今回の調査中に遭遇した異変と最近の記事との関連性についてはメルマガで詳しくお伝えしたいと思います。


雪解けの花咲く丘に眠られし目覚めの時ぞと姫に語りぬ
管理人 日月土

古代鈴鹿とスズカ姫(3)

今回は4月に三重県鈴鹿市内の史跡を調査した3回目の記事となります。

これまで、鈴鹿(スズカ)という地名から、同地の名が付けられたスズカ姫、すなわち記紀の神代記に登場する「タクハタチヂヒメ」についてその痕跡を追ってきた訳なのですが、何度もお伝えしているように、この方はシブリ映画「千と千尋の神隠し」で主人公「千尋」のモデルとなった歴史上の人物(*)であると推定されるのです。

*歴史上の人物:一般に日本神話の神様として扱われていますが、本ブログではそのような人が勝手に思い描いたファンタジーに付き合うつもりはありません。むしろ、神話とは史実を婉曲に表現するための暗号的記法であると捉えています。

鈴鹿市内の椿大神社(つばきおおかみやしろ)に祀られているスズカ姫、そして秀真伝(ほつまつたえ)に伝承によると、スズカ姫は鈴鹿峠の近くに葬られたと言われています。どうやら、鈴鹿とスズカ姫の間にはやはり深い関係があるようなのです。

■鈴鹿に残るコノハナサクヤ姫伝承

椿大神社にはスズカ姫の他に、サルタヒコの妻とされるサルメノキミ(アメノウズメ)も祀られているので、都合二人の姫君がこの地に関係していると考えられます。

そして、ほぼ同時期の姫君で、ニニギノミコト(秀真伝では第10代アマカミ)の后(きさき)であるコノハナサクヤ姫もこの鈴鹿に縁があると秀真伝には記されているのです。

秀真伝研究家の池田満さんの解説をここでご紹介しましょう。

 十代アマカミの弟の方の二二午ネのキサキとなったヒメの讃え名。コノハナサクヤヒメのイミナ(実名)はアシツヒメという。

 アシツヒメは、オオヤマスミ家の三代目カグヤマツミと夕キコヒメ(ヱツノシマヒメ)との間に生まれた。夕キコヒメは、アマテルカミの娘である。アシツヒメは、十代アマカミとなる二二キネのキサキに上るが、一夜にして身寵ったため、妬む人たちによって放たれた讒言により、ニニキネに疑いの心を抱かせてしまう。悲嘆にくれたアシツヒメは、帰途の途中にサクラの樹を植えた。

 正種ならば、子を産む日に咲くべしと誓っての植樹である。そして富土山南麓のサト(実家)に帰って、旧暦の6月1日(現往の暦では7月15日前後)に三つ子の男の子を産んだ。この日、植えたサクラは見事に花を咲かした。このことから、二二キネの疑いも晴れた。このサグラは、現代にも植え継がれて、三重県鈴鹿市寺家の比佐豆知(ひさつち)神社に植わっていて、白子の不断桜(ふだんざくら)として著名である。比佐豆知神社は木花開耶姫を祭神としていて、比佐豆知とは、ミコの生まれた日に奇しくもサクラが咲いたことを表わしている。

 コノハナサクヤヒメは、富士山の山中に入って亡くなったため、アサマノカミの謚号(おくりな)が贈られた。浅間神社の名称の元であるアサマは富土山の別称。

池田満著 ホツマ辞典より (※ニニキネ = ニニギノミコト)

またしても神話化された姫君が鈴鹿に登場!?こうなると、今回の調査でもこの比佐豆知神社は外せないと考え、現地へ向かうことになったのです。

画像1:比佐豆知神社
祭神は五十猛命 他だが伊勢国史などでは木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)の名も

近鉄名古屋線からほど近い所にある比佐豆知神社は、その窮屈な敷地の作りから、元々は隣に並ぶ子安観音寺の境内と一体であっただろうと見て取れます。おそらく、明治の神仏分離令により、お寺と神社の間に仕切りの壁が作られたのでしょう。外見がどちらかというとお寺ぽいのも、その名残だと考えられます。

さて、件の「不断桜」は神社側の敷地内にはありません。お隣の子安観音寺の敷地に移動する必要があります。比較的広々とした駐車場の片隅にその桜の木はありました。

画像2:不断桜

これを見てすぐに思ったのが、この枝ぶりでは、コノハナサクヤ姫が居たと思われる、およそ二千年前に植えられた樹木にはとても見えないというものです。

それは仕方ないとしても、側に掲げられている説明板を読んでもコノハナサクヤ姫のコの字もそこに見当たりません。

ちなみに説明板には次の様に書かれています。

             天然記念物不断桜
                       大正十二年三月七日国指定
                           白子山子安観音寺

この桜は、里桜の一種で四季を通じて葉が絶えず、聞花期も春秋冬に及ぶのが特長です。

永禄十年、連歌師 紹巴が、東国に下ったときの紀行富士見道記 に「白子山観音寺に不断桜とて名木あり」と配され、また観世流の貞享三 年版にある「不断桜」もこの桜をうたったもので古来より全国に有名です。

また当山の縁起によれば、天平宝字年中雷火のため焼失した伽藍跡に芽生えた桜と伝えられ本尊白衣観世音の霊験によって咲くとして尊ばれています。

なお不断桜の虫喰い葉の巧妙な自然の紋様に着目して伊勢型紙が創られたという由来があります。 

鈴鹿市教育委員会
鈴鹿市観光協会

よって、現地で秀真伝の伝承を確認することは不可能なのですが、ただし、言葉は悪いのですが、こんな大したこと無さそうな地方の桜の銘木に、どうして国指定の天然記念物認定が下りたのかがかえって不思議に思われます。

そして、再び神社に戻って良く見ると、気になる点が幾つか見受けられました。

画像3:人型の紙垂(しで)
画像4:鬼瓦の配置
写真右の壁と植栽で仕切られているが社殿は不断桜を向いている

お寺風の建築様式以外には目立った特徴のない神社ではありますが、普通の紙垂の他に、人型の紙垂が幾つか下げられていたのには目が留まりました。

立派な鬼瓦も、お堂か何かの解体時に出たものを境内の装飾として置いたように見えますが、実はどちらも

 呪術の形式

を踏襲したものなのです。

これはあくまでも私の見立てなのですが、これらをやってる神社は何かを強く封印していると考えられるのです。

その対象がいったい何なのかは判然としませんが、もしかしたらコノハナサクヤ姫の伝承と関係があるのかもしれません。そして、強い封印術をかける必要があるほどの重要物がここにある(あった)のなら、不断桜が国指定を受けたのも、何となくですが理解できるのです。

それ以上のことは特に何も見つけられず、この場所の調査で私が出来た事と言えば、所定の作法に従ってこの封印術の解除を行ったことくらいでしょうか。

■伊勢国と少女神

日本書紀によると、伊勢に天照大神が祀られるようになったのは、第11代垂仁天皇の第四皇女である倭姫(やまとひめ)が畿内各地を巡り、最終的に辿り着いたのが伊勢の地であったと言います。いわゆる元伊勢伝承です。そして、神話における天照大神が女神であることはもとより、ここでもまた「姫」が出てきたことはたいへん興味深いことです。

さて、今年の4月の記事「少女神の系譜と日本の王」では書籍「少女神 ヤタガラスの娘」を紹介しました。同書に関連し、この記事では、古代天皇の権威とは、特定の女系家族出身の少女を娶る(あるいは入婿する)ことで与えられていたのではないかと考察しました。

そして女系継承の話と「姫」伝承だらけの鈴鹿を含む伊勢地方の話がここでにわかに繋がってきます。

伊勢神宮と言えば、天皇家も参詣し、日本中から参拝客が詣でにやって来る、まさに神社の中の神社と言うイメージが一般的かと思われますが、実は日本書紀には次のような記述があります。

 三月三日、浄広肆広瀬王・直広参当麻真人智徳・直広肆紀朝臣弓張らを、行幸中の留守官に任ぜられた。このとき、中納言大三輪朝臣高市麻呂は、職を賭して重ねて諌め、「農繁の時の行幸は、なさるべきではありませぬ」といった。六日、天皇は諌めに従われず、ついに伊勢に行幸された

講談社学術文庫 日本書紀(下) 現代語訳 宇治谷孟

実はこれ、第41代天皇の持統天皇(女帝)が周囲の反対を押し切って伊勢国に行幸したという下りなのですが、およそ西暦700年代のこの時から明治に入るまでの千年以上、天皇は伊勢神宮に参拝などしていないのです(非公式はあるかもしれませんが)。

日本書紀の他の記述を見ても、伊勢に派遣する人物は皇女や女官など女性の斎王ばかりで、まるで天皇本人やその周囲が伊勢への参拝を拒んでいるようにすら思えるのです。そして、持統天皇は女帝であり、女性であればこそ伊勢国への行幸が可能であったようにも取れるのです。

ですから、

 伊勢神宮を中心とした神道は明治期に作られたもの

と考えるべきで、現在一般的に信じられているような伊勢神宮を頂点とする神道体系は本来あるべき日本の姿ではないとも言えるでしょう。

問題なのは、何故に伊勢には「姫」伝承がこんなにも集中するのかなのです。

画像5:伊勢湾を巡る姫神達
縄文海進期の予想海岸線で描いており、岐阜が湾の最奥部となる

上の図には「ヤタガラスの娘」でも紹介されている、愛知県豊田市の香良須(カラス)神社を加えていますが、現地を細かく調査すればこの他にも史書に登場する女神と関連する神社や史跡は他にも沢山あるだろうと予想されます。

以上から、古代伊勢国とは皇后輩出家系が治める国であり、その成り立ちは大和国や出雲国とはまた別のものであった。そして、その家の力を得て初めて天皇は日本の王として存立できる条件を得られた・・・そのように考えられるのです。

この予想を現代の状況にまで拡大すると、

 古代女系氏族を押さえることが日本を押さえること

に等しいと解釈できます。そうであればこそ、スタジオジブリが執拗に実在しただろう古代少女神をそのキャラクターのモデルに採用し、なおかつそれを呪う描写を表現し続ける理由も見えてくるのです。


吾が君の胸にこぼれし志摩の真珠
管理人 日月土

古代鈴鹿とスズカ姫(2)

前回の「古代鈴鹿とスズカ姫」では、三重県鈴鹿市が非常に古代遺跡の多い土地であることを簡単にご紹介しました。

しかし、全国に数ある遺跡地帯に比べるとその認知度はあまり高いと言えません。私も最近になって調査を始め、初めてこの事実を認識するに至りました。

一般的に鈴鹿の歴史スポットと言えば、観光パンフレットにもあるように、市の北西部、鈴鹿山脈の麓にある椿大神社(つばきおおかみやしろ)を思い出す方がほとんどでしょう。ここは、10年位前にスピリチュアリストの故船井幸雄氏によってパワースポットとして紹介されたことで多くの人に広まったと聞いています。

画像1:観光パンフレットに紹介された鈴鹿の歴史スポット

前回はこの有名ポイントについて殆ど触れていなかったので、まずは椿大神社についてご紹介したいと思います。

■猿田彦大神の社に祀られたスズカ姫

この4月に訪れた時はあいにく雨にたたられ、あまり良い写真が撮れませんでした。以下掲載する写真は、昨年10月に現地を訪れた時のものであるとお断りしておきます。

画像2:椿大神社の参道入口

椿大神社本殿に向かう参道の鳥居の前に立つと、大きく育った木が参道を挟み、そこそこ厳かな雰囲気を醸し出しています。

画像3:椿大神社の御祭神

撮影日は日差しが強く、画像3の御由緒書きが良く読み取れません。ここに祭神の名を書き出すと次の様になります。

 主祭神 猿田彦大神 (さるたひこおおかみ)
 相殿神 皇孫 瓊々杵尊 (ににぎのみこと)
     御母 栲幡千々姫命 (たくはたちちひめのみこと)
 前 座 行満大明神 (ぎょうまんだいみょうじん)

はい、既にここで、本ブログで行ってきたアニメ映画「千と千尋の神隠し」の構造分析で、主人公「千尋」の歴史上のモデルとして推定される栲幡千々姫こと「スズカ姫」の名前が見られるのです。もちろん、その姫神について調べるためにここを訪ねた訳なのですが。

そして、参道の左右に摂社や古墳、祭場を見ながら直進すると、入道ヶ岳(にゅうどうがたけ)あるいは高山を後背に、そこには立派な本殿が現れます。

画像4:椿大神社本殿

4月の調査では、雨にも拘わらず多くの方々が参拝に来られており、ここが人の集まる人気パワースポットなのだと実感されます。もちろん、本当にパワースポットなのかどうかは私には分かりませんが。

さて、猿田彦の名前が登場する以上、伊勢の猿田彦神社同様、その相方となった女神、猿女(さるめ)こと天鈿女(あめのうずめ)もどこかに祀られているはずなのですが、わざわざ探すまでもなく、本殿の東側に隣接するスペースに「椿岸(つばきぎし)神社」が置かれており、そこに天鈿女が祀られていました。

画像5:椿岸神社

さて、ここで椿岸神社の祭神について少々疑問が湧いてきます。

猿田彦・天鈿女は一対の夫婦神として考えられていますし、瓊々杵尊も天孫降臨の際に猿田彦に先導されたと神話にありますから、ここに祀られていてもおかしくありません。

しかし、いくら身内とはいえ、その母である栲幡千々姫(別名スズカ姫)まで合祀されるのはさすがにその理由が何であるのか気になります。その理由については、椿大神社の公式ページに次の様に書かれています。

人皇第11代垂仁天皇の御代27年秋8月(西暦紀元前3年)に、「倭姫命」の御神託により、大神御陵の前方「御船磐座」付近に瓊々杵尊・栲幡千々姫命を相殿として社殿を造営し奉斎された

https://tsubaki.or.jp/yuisyo/

つまり、倭姫(やまとひめ)のご神託により合祀さたということのようです。

これに加え、もう一柱の行満大明神については。椿大神社の公式ページには次の様に書かれています。

大神の神孫「行満大明神」は修験神道の元祖として、本宮本殿内前座に祀られ、役行者を導かれた事蹟など、 古来「行の神」として、神人帰一の修行・学業・事業・目的達成守導のあらたかな神として古くより尊信されております。

https://tsubaki.or.jp/yuisyo/

要するに、猿田彦の子孫で修験神道を開いた神様(人?)ということのようなのですが、境内には「高山土公神陵」という(おそらく)古墳があり、「土公」(とのこう)は猿田彦の子孫とも言われてますから、猿田彦の子孫が行満大明神としてここに祀られても、特に違和感はありません。

しかし、秀真伝(ほつまつたえ)の研究者、池田満氏の解釈によると、スズカ姫とこの地との関係性は、これとはずい分違うようなのです。

(1) 物欲に拘泥しない生き方をススカ(スズカ)という。

人が生活していると、何によらず欲しい欲しいと物欲にかられることが多い。しかし本来、人とは、そのタマシヰのタマはアメの中心から来たって、また元へ戻るのであるから、必要以上の物欲に取りからめられてしまうのは愚かなことといえる。物欲から自由になるこの考え方をススカ(スズカ)という。物欲に取りつかれ過ぎると、本来の人の幸せを 見誤ってしまい、楽しむことができなくなる。また他人の羨みを買ってしまうことになる。

物欲にとりつかれた状態をスズクラという。ススカ(スズカ)の考え方を解いたフミをススカノフミという。

(2) 九代アマカミのオシホミミのキサキ(后)となった、タクハタチチヒメのイミナをスズカヒメという。

アマテルカミから名付けてもらったこのスズカの名は、(1)の意味を受けていた。チチヒメの夫となった九代アマカミのオシホミミは比較的若くしてこの世を去ったため、チチヒメは義父のアマテルカミの老後をお世話することになる。伊勢神宮の内宮に相殿神(あいとののかみ)として萬幡豊秋津姫命(タクハタチチヒメのこと)が祭られているのは、その故である。そしてチチヒメの崩御に当たっては、現、三重県鈴鹿市坂下の三子山に亡骸が納められ、スズカノカミと尊称されて、後に片山神社としてまつられてゆく。

池田満著 ホツマ辞典

これを読むと、スズカ姫が同地と関係を持つのは、鈴鹿市内(現在の鈴鹿峠の近く)に亡骸が納められたという事だけで、「スズカ」の名の由来についても、秀真伝にある猿田彦の別名「ウツクシキスズ」との関係には特に触れられておらず、椿大神社との関係性も含め、猿田彦とは直接関係あるようには説明されていません。やはり、倭姫のご神託一つで合祀が決まったのでしょうか?

故事伝承の類は文献によって中身が大きく異なるものですが、ここでは、少なくとも鈴鹿という土地とスズカ姫の間にはなんらかの所縁があると、ざっくりと捉えておく方が良いかもしれません。

■丹生と椿大神社

前回の記事では鈴鹿周辺の地形図を掲載しましたが、そこから、椿大神社の周辺を次に切り出します。

画像6:椿大神社周辺の地形図

この図で注目するべきなのは、椿大神社の北側の尾根を越えたすぐその先に、旧水沢(すいさわ)鉱山があることです。

この水沢鉱山から採取されていた鉱物とは

 丹生(にう)

すなわち水銀(Hg)なのです。

丹生と言えば、白粉(おしろい)の原料、あるいは鳥居などに塗られる朱(しゅ)など顔料としての利用、あるいは大仏などのメッキ用素材として、古くから利用価値の高い鉱物として知られています。

水俣病やイタイイタイ病など、現在では水銀に毒性があるのは良く知られた話ですが、昔は不老長寿の秘薬として、朱が丹薬・仙薬として飲まれていたそうですから何とも恐ろしい話です。

実際に、水沢鉱山から流れる内部(うつべ)川は丹生毒に汚染され、水銀由来の奇病に河川周辺の住民が苦しんだと言う記録もあるようなのです。

私が指摘したいのは、椿大神社が現代のスピリチュアリストが言うような神聖なパワースポットとして初めから創建された土地なのかと言う疑いなのです。

今も昔も人には生活があり、その中でも利用価値の高い丹生鉱山の発見はその土地に住む人々の生活を大きく変え、その土地を巡る権益やそれを巡る争いなどを生じさせたと考えられるのです。

つまり、椿大神社がある場所とは、元々は水沢鉱山利権を巡る勝利者一族の権威を象徴する土地だったのではないかと考えるのです。この土地が丹生によって成り立っていたと考えられる一つの証左として、椿大神社の後背の山が

 入道ヶ岳=にうどうがたけ

と書けることがあります。

このように、丹生の生産こそが古代鈴鹿の性格を決定付ける重大因子ではなかったのかと想定する方が、より現実的に鈴鹿の古代の様相を理解できるのではないでしょうか。

さて、丹生が登場したところで、次に考えるべきは丹生とスズカ姫がどのように関係してくるのかという点です。

もしかしたら全く関係などないかもしれませんが、ここで再び「千と千尋の神隠し」を観返すと、次のシーンがスズカ姫と鈴鹿を繋ぐヒントになると考えました。

画像7:千尋に偽金(ニセキン)を渡すカオナシ

これがどういうことなのか、詳しくはメルマガで解説したいと思いますが。ヒントとしてWikipediaから次の一節を引用します。

賢者の石

錬金術における最大の目標は賢者の石を創り出す(あるいは見つけ出す)ことだった。賢者の石は、卑金属を金などの貴金属に変え、人間を不老不死にすることができる究極の物質と考えられた。また後述の通り、神にも等しい智慧を得るための過程の一つが賢者の石の生成とされた。

 (中略)

この作業で材料は黒、白、赤と色を変える。賢者の石は、赤くかなり重い、輝く粉末の姿であらわれるとされた。この賢者の石を、水銀や熱して溶かした鉛や錫に入れると大量の貴金属に変じたという。赤い石は卑金属を金に、白い石は卑金属を銀に変えるとされた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%AC%E9%87%91%E8%A1%93


赤石青石白い石、緑の石は奴奈川の石
管理人 日月土

古代鈴鹿とスズカ姫

先日、私の歴史研究における強力なアドバイザーG氏と共に、再び三重県の鈴鹿市を訪れました。同地の隣接地である菰野町の宿では、関係者に向けて次のようなタイトルで講演を行いました。

画像1:講演のタイトル画像
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この講演では、鈴鹿の「スズ」なるキーワードがここ数十年の日本のメディア界に頻出している事実、そして、それが同地鈴鹿の地理的条件及び歴史的経緯と密接に関連することをお伝えしました。

画像2:講演資料からスズとメディア作品に関する考察
今年もまた「スズ」を題材としたアニメ映画が上映予定

ブログを通して何度もお伝えしていますが、アニメ映画「千と千尋の神隠し」の主人公「千尋」のモデルになったのは、日本神話に登場する栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)で、この姫はまた別名「スズカ姫」と呼ばれています。

スズとスズカ姫との関係とは何か?このテーマは既に(真)ブログなどでアニメ作品を題材に記事にしていますが、それらはまだ表面的なものでしかなく、スズカ姫と所縁の深い現地を再び訪れることにより、その奥行きの広がり・繋がりの深さが更に実感されたものとなったのです。

 (真)ブログの関連記事:
  ・ドラえもんの暗号と世界大戦 
  ・すずめのポータル 
  ・そばかす顔の秘密 

■遺跡のまち鈴鹿

鈴鹿市における考古学資料を見ると、この一帯は遺跡が非常に多く出る地域であることが分かります。そうであるにも拘わらず、同地については椿大神社と鈴鹿サーキット以外はあまり知られていないのがむしろ不思議なくらいなのです。

画像3:鈴鹿市街地周辺の遺跡マップ(Google地図上にプロット)
注:全てのデータを反映していません               
  主要な遺跡名のみ地図中に記載しています           
  遺跡の中には中世鎌倉期のものも含まれます          
  遺跡の発見地域の中心から周囲1~2kmを遺跡エリアとしています

上図を見ると、鈴鹿川流域に多くの遺跡が見つかっているのが分かります。そして、そのほとんどが、道路工事や建築工事など際に文化財保護目的で調査発掘されたものです。

市街化区域に関しては空白となっていますが、全体の分布を見ると、これは発掘調査が為されていないだけで、実際には広大な遺跡エリアが広がると見てよいでしょう。

何より気になるのが、市街区域の大きな面積を占める本田技研工業の鈴鹿工場、旭化成の鈴鹿工場、そしてF1レースでも有名な鈴鹿サーキットなのです。

上図でも分かるように、サーキットに隣接する御園町・稲生(いのう)町にも遺跡が見つかっており、サーキットが建設された丘陵地区には、まだ多くの遺跡が眠っていると考えられるのです。

鈴鹿サーキットは昭和37年に完成していますが、そこで大遺跡群が発見されたという話は聞いたことがありません。当時は遺跡に関する保護意識が薄く、地中の埋設物については関知することなく建設が進められたのではないかと想像されます。

しかし、聞くところによると、同サーキットの設計思想は、なるべく地形をいじらないということらしいので、もしかしたら、同サーキット及び工場の敷地内を発掘するチャンスがあるならば、日本古代史に関する何か重大な発見があるかもしれないのです。

それを予感させる事実として、鈴鹿サーキット周辺の土地は元々近くの伊奈冨(いのう)神社の神領であり、同神社は現在サーキットを見下ろす小高い丘に残された東ヶ丘神社の辺りにあったそうです。

サーキット建設に伴い現在の位置に移転したとのことですが、神域に手を入れてまで工事を優先したという事実を知ると、地形を活かすという設計思想というのも、何やら疑わしく感じてしまうのは、いつもの悪い癖でしょうか?

この疑いを抱くもう一つの理由が、サーキットの入口にほど近い、三行庄野線とサーキット道路が交差する交差点は、この辺の丘陵地の最高点であり、ここからは、天気の良い日には南の松阪や伊勢の街々、そして伊勢湾口や神島を含む伊勢湾全体までが一望に見渡せる場所であることです。

画像4:サーキット傍の交差点の眺望
伊良湖と神島など伊勢湾口まで見渡せる

古代期の海上交通中心の社会を想像した時、伊勢湾全体を見渡せるロケーションというのは極めて重要です。

これまでの調査の例によれば、そのような眺望ポイントには海上からの目印、あるいは見張り台としての大型古墳が造られてもおかしくないのですが、同地にあったのは次の写真のような謎の建造物です。

画像5:謎の建造物

まあ、謎と言うのは冗談で、これは鈴鹿市水道局の「道伯配水池」という水道施設なのです。ここに配水施設が造られたという事実がまた、ここがこの周辺で最も高い場所であることを示しているのですが、実は遺跡エリアと貯水池という組み合わせは、以前にも記事にしたことがあるように呪術的に見ると極めて意味深いものなのです。

 関連記事:占領された福岡(2) 

私見としては、明らかに鈴鹿サーキット周辺には重大遺跡があると見なせるのですが、埋まって見えないものをあれこれと詮索しても仕方ありません。まずは確認可能なものから鈴鹿の土地を見ていくことにしましょう。

■鈴鹿の地形と猿田彦伝承

次に、鈴鹿市周辺の地形について調べてみます。国土地理院のデジタル地図で起伏状態を調べると次の様になります。地図には各重要ポイントにマークを入れていますので、画像3と比較して眺めてみてください。

画像6:鈴鹿市周辺の地形と重要ポイント

画像6の北西側にプロットされた椿大神社(つばきおおかみやしろ*)は猿田彦大神を祀る神社として知られていますが、G氏によると、その猿田彦(あるいは猿田彦一族)の鈴鹿上陸 地点は図中にある「大塚神社」付近だろうとのことです。

*椿大神社:ここには猿女(=天鈿女命)とスズカ姫(=栲幡千千姫命)が祀られていることも要注意です。

同地は現在海抜5m以下の低地で、古代海進期は海の底に隠れていそうなものですが、古代期はこの辺は海上から小島が幾つも顔を出す、おそらく小島群であっただろうと考えられます。現在平坦なのは、海岸線が後退した後に、おそらく小山が崩されて平地にならされたのではないかと考えられます。

画像7:大塚神社

この大塚神社近くの海側には、画像3にもあるように箕田遺跡という遺跡群があり、G氏によると、まだ本格的な発掘調査が行われていない(全体の10%以下)にも拘わらず、非常に多くの遺物が出ることで専門家にはよく知られた場所であるそうです。

ここからは古代期において、鈴鹿の古墳群がどのように発展したのか、G氏の予想を紹介したいと思います。

まず、大塚神社周辺の低地に根付いた猿田一族は、海水による浸水の影響を受けやすい同地を離れ、北西にある舌状台地に定住地を移す。

その台地で幾つも古墳を築きながら、その生活圏を少しずつ鈴鹿山脈側に広げていく。幸いなことに、この台地は画像6の②で分かるように、山が広く崩れたようななだらかな斜面を形成しているが、古代期においても起伏に乏しく開拓しやすい土地であった。

一団が入道ヶ岳(にゅうどうがだけ)付近に到達した時、そこに丹生(にう:水銀)の鉱山を発見する。後の水沢(すいさわ)鉱山だが、ここで猿田一族は古代社会では重要な丹生の鉱山利権を手にすることになる。

椿大神社とは、鉱山で発展した猿田一族の権勢を表し、また同地を支配運営する拠点でもあったのではないだろうか。

なお図中の①は台地に入り組んだ地形になっているが、古代海進期はここが入り江になっており、船着き場となっていたのだろう。国分寺がこの近くに造られたのも、実は海洋交通におけるこの利便性によるものと考えられる。

by G氏

画像6では、G氏の予想する「海から山」への発展移動ルートを黄色い点線で表しています。G氏の説明で非常に納得できるのが、現在の椿大神社の成り立ちが、私たち現代人が思い描く神社や鈴鹿山脈の「神聖さ」なる抽象的なものでなく、「丹生」という極めて現実的かつ実利的なものであったという点なのです。

椿大神社の後背にある入道ヶ岳も、「丹生道ヶ岳」と読み替えれば、その名の成立過程までもが見えてくるのです。

そして猿田彦のシンボルとして認識される「椿」の花なのですが、それについてG氏は次の様に語ります。

海洋民族は移動先の土地に椿を植えるんです。それは、後からやって来る海洋族に、そこが既に入植された土地であると直ぐに分かるよう知らせるためなのです。

by G氏

以上、なんとも大納得な話なのですが、冒頭の「スズ」あるいは「スズカ姫」の暗号と結び付けるにはまだ材料が不足しているようです。ここで、登場するのが前回の記事「少女神の系譜と日本の王」で取り上げた「少女神」なのですが、今回は長くなったのでその考察は次回に持ち越したいと思います。


* * *

画像8:鈴鹿サーキットのコース見取り図(公式ページより)

このコース、読者様には何を描いているように見えるでしょうか?図中の水色の◎印は道伯配水所、赤色の☆印は東ヶ丘神社の位置を表しています。


鈴鹿の浜の小高き社 沈む巫女神今ぞ出でたり
管理人 日月土

少女神の系譜と日本の王

今回の記事を書き進める前に、最近、知人に勧められて読んだ歴史読本を紹介したいと思います。

歴史、特に古代史に関しては多くの研究者が様々な説を面白おかしく持ち出すので(私も他人のことは言えませんが)、この手の読み物は基本的に避けていました。しかし、この書籍だけは、知人の勧めだけでなく、歴史研究のアドバイザーであるG氏からのお墨付きもあったので、どんなことが書かれているかちらっと読んでみたところ、私がこれまでブログに書いてきたこととあまりに符号する点が多く、ちょっと驚いてしまいました。

本のタイトルは「少女神 ヤタガラスの娘」、作者は「みシまる 湟耳」さんで今年の1月に幻冬舎から出版されたものです。

タイトルに「ヤタガラス」と付いていることから、どうしても陰謀論系の匂いを想像してしまうのですが、実際に読んでみると、文献類の精読と緻密な考察によって組み立てられた、非常に重厚な内容であることが分かります。

それほどページ数がある本ではないのですが、さらっと読めるような代物ではないので、私も読了まで少し時間がかかってしまいました。

画像1:少女神 ヤタガラスの娘

■少女神とジブリの暗号

さて、これまでの(神)ブログ記事とこの本に書かれた主張のどの辺が重なってくるのか、実際に同書を読んで頂かないと詳しく説明するのは難しいのですが、それでも、同書のエッセンスは冒頭の導入部分に述べられているので、ここでは同部分からの引用を掲載したいと思います。

 三人。少なくともヒミコと目される姫の名前が挙げられている。

 中でもふたりの少女に、出雲と大和の王が婿入りをしており、その少女たちは共通の名を持っている。

 出雲、大和といえば、日本人なら誰もが知る現代にも逓なる古代王朝だが、この出雲「最期」の王も、大和「最初」の王も、実は同じ氏族の少女へ婿入りしている事実は意外なほど知られていない。いや意図的に隠され、目を逸らされている、と言うべきか。

「出雲最期の王」イナバの白兎で知られる大国主の子とされるコトシロヌシは、神津島や紀伊の神社では少女の方の氏姓を名乗り「☆☆☆明神」として祀られている。

 なぜ、出雲の有名な国主が、わざわざ少女の氏族の名籍の方を名乗りたかったのか?

 「大和最初の王」神武死後には、皇位継承のため、その少女を奪い合った記録が残されるほどだ。このことは当時神武の子というだけでは権威としては弱く、少女の氏族の籍を伴わなければ「王」として認知される説得力がなかった事実を示している。

 カリスマは出雲の王にでも大和の帝にでもなく、「神の御子」と記される少女神の方にこそあった。

 この出雲にも、大和にも、双方にモテモテだった少女神とはいったい何者か?

 コトシロヌシが「主」から「神」へ神格を上げられた方法が『日本書紀』に記されている。すなわちワニに化身し、「神の御子」と記される「八咫烏」の娘=活玉依姫へ近づき婿に成ったと。大和初帝神武も「神の娘」がいると知り、自ら少女神の元へ赴き婿と成ったと記されている。

 この少女神は、出雲王や大和帝より遥か以前から「神の御子」として崇められていた。

みシまる湟耳著「少女神 ヤタガラスの娘」(2022)幻冬舎より

これを読んでいただければお分かりになるように、古代皇統の権威は特定家系である「☆☆☆」家の少女の元へ入婿することによって引き継がれてきたのだと述べているのです。

神様の子孫などというファンタジーは別として、一般的に天皇家は男系相続と信じられていますから、この主張は多くの方々にとっては驚くどころか、噴飯物であると感じられるかもしれません。

しかし、私が驚いたのは、この主張こそが前々回の記事「男神猿田彦の誕生」で伝えたかったことである点なのです。つまり、現在私たちが目にする日本神話とは、権威の継承について

 後世になって女系から男系に書き換えられたもの

ではなかったのかということなのです。

古代社会の在り方を同じように考えている方がいらっしゃるのを知り、私も非常に嬉しいのですが、私が漠然と「古代王家の継承とは本当は女系なのではないか?」と漠然と考えていたところに、「☆☆☆」家と具体的な氏(うじ)まで特定されたみシまる氏の分析力には脱帽するしかありません。

※「☆☆☆」が何を指すのかはぜひ同書を読んでお確かめください。

これまで、本ブログではシブリ作品の「もののけ姫」、そして「千と千尋の神隠し」が日本神話を元ネタに作られ、それも裏の裏まで知り尽くしている古代史の専門家によって考証されているだろうと予想していました。

ここで、今回のみシまる氏の指摘を踏まえ、改めて同ジブリ作品に登場するキャラクターと史書に登場する歴史上の人物の対応関係を下図にまとめてみました。

画像2:ジブリの女性キャラと史書に登場する女性たちの対応

作品を良く見れば、この二作品の物語を主導するのは「もののけ姫」のサンであり、「千と千尋の神隠し」の千尋という二人の少女です。そして周辺の主要キャラも女性ばかり、つまり女性こそが両作品の主役であることが分かります。

※ハクとカオナシはチヂヒメの双子の片割れを指すと考えられます。詳しくは過去の記事をお読みください。

この対応関係を見れば分かるように、本来主役として立てるべきなのは、これらの女神の相方となった皇祖であるニニギノミコト(アシタカ)であったり、作品に登場すらしないサルタヒコ・オシホミミ・神武天皇など、神話の主たる男神たちなのです。

天皇家の始祖とされる男神がここまでないがしろにされる描写、これはすなわち、古代社会においては、みシまる氏が主張するように特定の女系家系こそが真の権威を有する一族であったことを意味するのかもしれません。

■母系を追う

さて、ここで母系による血統こそが重要だとすれば、アニメに登場した媛神たちの、父ではなくその母が誰であったのかが問題になります。ここで秀真伝の系図を租を辿ってみると次の様になります。

 サルメノキミ     → 不明(父:不明)
 タクハタチヂヒメ   → 不明(父:タカギ)
 コノハナサクヤヒメ  → シタテルヒメ→イサナミ→不明(父:トヨケ)
 ヒメタタライスズヒメ → タマクシヒメ→不明(父:ミシマ、ミソクヒ)

※コノハナサクヤヒメの実父はオオヤマスミではなく、本ブログの結論であるアチスキタカヒコネであると仮定しています。前者の場合やはり母不明となります。

このように秀真伝も父系中心に記述がなされており、母系を追ってもすぐにその系統が見えなくなってしまいます。

これを逆に捉えれば、限られた母系一族が后(きさき)を輩出していたとも考えられ、そうなると古代王家はその一族の娘に婿入りすることによって王権を得ていたとも考えられるのです。この結論は「ヤタガラスの娘」の主張とも辻褄が合ってきます。

特に注目すべきはイサナミ(一般にはイザナミ)で、国生み神話の主人公にされたこの古代皇后と他の女性たちが同じ母系の血を継いでるとすれば、まさに母系によってこの国の初期の王権が成立していたと言えなくもありません。

そうなると、日本神話の次の箇所が非常に重要な意味を持ってきます。日本書紀から次を抜粋します。

そこでオノコロシマを国中の柱として、男神は左より回り、女神は右から回った。国の柱をめぐって二人の顔が行きあった。そのとき、女神が先に唱えていわれるのに、「ああうれしい、立派な若者に出会えた」と。男神は喜ばないでいわれるのに、「自分は男子である。順序は男から先にいうべきである。どうして女がさきにいうべきであろうか。不祥なことになった。だから改めて回り直そう」と。そこで二柱の神はもう一度出会い直された。

講談社学術文庫「日本書紀(上)」宇治谷孟現代語訳

男神(イサナキ)と女神(イサナミ)との国生みシーンですが、これは女神が最初に声かけしたことを強く否定しており、主導権は女性にはないと言ってるようにも取れます。

またここで、イサナキが黄泉の国から逃げ帰る次の有名な千引の磐のシーンを見てみましょう。

これが大きな川となった。泉津日狭女(よもつひさめ)がこの川を渡るうとする間に、伊奘諾尊(いざなぎのみこと)はもう泉津平坂(よもつひらさか)につかれたともいう。そこで干引きの磐で、壱の坂路を塞ぎ、伊奘冉尊(いざなみのみこと)と向い合って、縁切りの呪言をはっきりといわれた。  そのとき伊奘冉尊がいわれるのに、「愛するわが夫よ。あなたがそのようにおっしゃるならば、私はあなたが治める国の民を、一日に千人ずつ締め殺そう」と。伊奘諾尊が答えていわれる。「愛するわが妻が、そのようにいうなら、私は一日に千五百人ずつ生ませよう」と。そしていわれるのに、「これよりはいってはならぬ」としてその杖を投げられた。

講談社学術文庫「日本書紀(上)」宇治谷孟現代語訳より

このシーンでははっきりと男女の縁切りが宣言されています。これにより、女神であるイサナミは永遠に黄泉の国の住人となってしまうのですが、これはまさしく

 后の力を封印する

行為そのものであり、これこそが、後世に行われた母系継承から父系継承へと王権システムを変更した史実を示す史書の暗号と捉えることができます。それと同時に、それまでの母系王権に対する強い否定感の表現、あるいは「呪い」とも取れるのです。

以上から、古代日本が母系王権の国であったことがより確からしくなってくるのですが、そうなると問題になるなのが、

 なぜ父系王権に切り替える必要があったのか?

その理由と、現代においてもジブリ映画など多くのメディア作品を通して

 母系王権時代の古代女性を暗示的に取り上げる理由は何か?

という2つの点なのです。

実はこれ、古くから行われてきた「歴史改竄計画」の一環であり、加えて、母系王権時代をことさらちらつかせるのは、古代巫女でもあっただろう彼女たちの何か呪術的な能力と関連することが予想されるのです。

同書には、そのタイトルともなった八咫烏(ヤタガラス)と古代海洋民族、そしてこれら少女神との関連性が考察されているのですが、そちらで示唆されてた内容も無視できるものではなく、これについても本ブログにて追って取り上げたいと考えています。

画像3:香良須(カラス)神社 愛知県豊田市にて撮影


国始め烏追ひたり市木津へ求む媛神現れましを
管理人 日月土

男神猿田彦の誕生

過去行われた大掛かりな歴史改竄計画によって、現存する史書の殆どが書き換えられている。しかしながら、正確な史実に辿り着けるよう、あるいは完全にそれが忘れ去られないよう、史書編纂者の工夫によって史実が巧みに暗号化され、文書記録となって残されている。

それが、現在目にすることのできる日本書紀や古事記、その他の史書的文献の実態であるとするのがこのブログの基本姿勢です。

これらに加え、私などよりもはるかに解読が進んだ集団によって脚本がなされているだろう、ジブリアニメなどのメディア作品も、今では重要な史書解読のツールとなっています。

アニメ作品の分かりやすさについつい甘え、いつの間にかアニメ解説ブログになりかけているのが悩みの種ですが、今回も前回に続き、アニメ「千と千尋の神隠し」の表現をベースに、伊勢の猿田彦神社に関する考察を続けたいと思います。

■内削ぎの猿田彦神社

画像1:伊勢の猿田彦神社

上の写真は前回の「伊勢の油屋と猿田彦」でも掲載したものですが、少し日本神話や神社の造形に詳しい方なら「おやっ?」と思われたかもしれません。

それはこの神社の千木が内削ぎになっているからです。一般的に千木の切り口が垂直(外削ぎ)の場合は男神、水平(内削ぎ)の場合は女神が主祭神だと言われていますが、記紀では猿田彦は男神として描かれており、その猿田彦を祭神とする神社が内削ぎなのはちょっと違和感を覚えます。

画像2:内削ぎの猿田彦神社

一方、千木の形状で祭神の男女を判別するのは俗説だとも言われており、千木の様式も公式には既定されていないようです。ですから、これを以って特に不思議がる必要もないのですが、手水舎での柄杓の持ち方や拝殿前での礼の作法など、何かと参拝形式が語られる神社で、建築様式において祭神の男女の区別が曖昧なのは面白いと言うか、不思議な気もします。

これは、神社の世界ではとっくにSDGsだったということでしょうか?それならば、日本神道で天照大神(あまてらすおおみかみ)が女神であると強調する必然性は全くないと思うのですが、いかがでしょうか?

そもそも、明治期に国家神道が始まるまでは、神社とは土地のものであり統一された様式などなかったと言います。現在の様にある程度様式を揃えるに当たっては、西欧キリスト教の教会システムが参考にされたとも言いますから、神社の造りを見て日本の伝統を云々するのはそもそもお門違いなのかもしれません。

それでも祭神の性別が気になったのは、今回分析対象としてるアニメ映画「千と千尋の神隠し」の主人公が女の子(千尋)であり、それにも拘わらず、物語のモデルとなった古代史を追いかけると、千葉県銚子のケースだけでなくここ伊勢でも「男神」猿田彦が出て来てしまうからです。

■謎の登場人物ハク

映画「千と~」では千尋の他に、もう一人準主人公とも言えるキャラクター「ハク」が登場します。

画像3:呪術を使うハク(ニギハヤミコハクヌシ)
©︎2001 Studio Ghibli・NDDTM

これまでに、主人公の「千尋」が古代史上の人物である栲幡千千姫(タクハタチヂヒメ)をモデルとし、重要神様キャラ「顔なし」が栲幡千千姫の双子の姉妹ではないかとしてきましたが、実はこの「ハク」なるキャラのモデルについては、今でもまだはっきりこうだとは言えないのです。

一応、その名前がよく似ている古代史上の人物「饒速日」(ニギハヤヒ)ではないかとしていますが、記紀・秀真伝によると栲幡千千姫と饒速日の二人は母子の関係であり、その点では二人が物語の中心に据えられることに違和感はありません。

ただし、それでは「ハク」とネーミングされた理由が今一つ判然としないのです。「ハク」は「コハク」の一部であり、琥珀(コハク)とは主に岩手県の久慈、千葉県の銚子で産出される鉱石であることは「千と千尋の隠された神(3)」で既に説明しています。

この名前により、銚子が物語の舞台地であることが確からしくなったのですが、そうなると、ハクのモデルが饒速日である必然性が大変に薄くなてしまうのです。銚子と同定することで浮かび上がる名前とは、何度も書いているように男神「猿田彦」なのです。

その猿田彦、「白鬚」(しらひげ)の別名を持ち、実際に全国白鬚神社の総社と言われる近江白鬚神社の祭神は猿田彦なのです。「白」は音読みで「ハク」であり、その点でもハクなるキャラが猿田彦の方をより強く指しているのは明白なのです。

画像4:近江白鬚神社の湖上の鳥居

もう一つ気になるのがハクの正式名の最後に「ヌシ」が付けられていることで、ヌシの付く神名はいくつかありますが、これはおそらく出雲系の皇統名(神名ではない)である「大物主」(オオモノヌシ)を指すと考えられ、ここに、天孫系饒速日、[系不明]猿田彦、出雲系大物主と、複数の血統が混在している様が見受けられるのです。

そして、映画を観ていると自然にハクは少年であると思ってしまいますが、実はハクの性別については何も語られていないのです。何より顔や髪型のデザインは中性的であり、その衣装については白拍子(男装で巫女舞を踊る芸妓)を連想させるのです。

それが意図的に演出されていると考えられるのは、ハクの声を担当された入野自由(いりのみゆ)さんは、ジブリ作品では例が少ないオーディションで起用された声優さんであり、しかも、当時は声変わりの最中だったといいますから、男性性が声に現れる直前の中性的な声の持ち主を、敢えて狙って採用したとしか考えられないのです。

  参考:citar https://ciatr.jp/topics/45585

問題は、このような複合的なネーミングと性別をはっきりさせないキャラ設定をどうして行ったのかその理由なのです。実際には関係ないのかもしれませんが、それが先ほどの千木の形状に現れていると思えて仕方ないのです。

■猿女神社の暗号

前回記事「伊勢の油屋と猿田彦」の最後でも触れましたが、伊勢の猿田彦神社の片隅には猿田彦の妻となった天鈿女(アメノウズメ)を祀った「猿女」神社が本殿とは反対向き、斜めに向き合うように配置されています。

画像5:猿女神社

上の写真でも分かるように、千木の形状は内削ぎでありこれは本殿と全く同じです。こうなると、千木の形状による男女神の違いはないのかと思ってしまうのですが、実はこれには別の解釈もあり得るのです。

 猿田彦は女神である

おっと、「彦」と名にあるのだからやはり男だろうと素直に受け取るべきなのかもしれませんが、日本神道では、元々男性であり実在した古代王アマテルカミを女神に変えてしまった実績があるので、その反対も当然あり得るだろうと考えたらこうなるのです。

これをもう少し正確に表現するなら

 主が女神であり、従が男神である

ということ、すなわち猿田彦に相当する男性がいなかったという意味ではなく、女性の天鈿女が主人であり、夫たる猿田彦は言うなればその付属物であったということです。なお、「主従」と書きましたが、これは権威の上下ではなく、役割の違いを表していると解釈してください。神と繋がる女性(巫女)を中心に置くという意味です。

歴史研究アドバイザーのG氏によると、遺跡などの発掘調査から、縄文時代の日本社会が入り婿による相続を主とした女系社会であったことが最近少しずつ分かってきたとのことです。そして、武士集団(外国人)が渡来してきたことで、男系社会システムがそれにとって代わり、史書に残された血統は後代に男系相続に書き換えられてしまった可能性が極めて高いともおっしゃってました。

つまり、本来ならば女性シャーマンである天鈿女が中心となるべき話が、システム変更によりその夫を前面に出さざるを得なかった、その痕跡の現れているのが伊勢の猿田彦神社であり、現在の日本神道全体の姿であるということになります。

なぜに「千と千尋の神隠し」であれだけ女性キャラが強調されるのか、それも双子の女性が。この辺りに、日本神道でアマテルカミが女神にされてしまった本当の理由、卑弥呼なる女王中心の古代史国家が現代でも多く語られる理由、それらの秘密が隠れていそうです。


海原を越えて戻りし伊勢の地に眠る姫君今そ目覚めよ
管理人 日月土

伊勢の油屋と猿田彦

今回も前回に続けて、ジブリアニメ「千と千尋の神隠し」を題材に古代史考察を進めて行きます。

さて、これまでの関連記事の中では、千葉県銚子市にある猿田神社がアニメに登場する「油屋」の実際のモデルあろうとしていました。

 関連記事:
  ・千と千尋の隠された神   [2021/07/30] 
  ・千と千尋の隠された神(2) [2021/08/14] 
  ・千と千尋の隠された神(3) [2021/08/30] 

画像1:アニメに登場した油屋
©︎2001 Studio Ghibli・NDDTM
画像2:千葉県銚子市の猿田神社

油屋のモデルと言っても、銚子の場合は物語の設定上から読み取れるモデルであり、そのデザイン上の造形については、愛媛県の道後温泉本館など、複数の建築物がそのモデルに採用されたのであろうと、シリーズ最初の記事では述べています。

■調査対象は伊勢の猿田彦神社

先週、「千と千尋~」に関する史跡調査のため、日本人なら誰もが知るであろう三重県は伊勢市へと向かいました。

伊勢と言えば誰もが「伊勢神宮」を思い浮かべるかもしれませんが、今回向かうのはそこではありません。

以前の記事で「猿田神社」すなわち日本神話における「猿田彦」(さるたひこ)を祀る神社を扱った以上、同神を祀ることで有名な、三重県鈴鹿市の「椿大神社」(つばきおおかみやしろ)、そして、同県伊勢市の「猿田彦神社」は見ておかなければならないと思い、昨年の10月には椿大神社、そして今回は伊勢の猿田彦神社へと向かったのです。

順序としては椿大神社を先に報告するべきなのですが、アニメとの関連性を考える上で伊勢の猿田彦神社には象徴的な要素が多く見られ、まずはこちらについて取り上げることにしました。

■歌舞伎「伊勢音頭恋寝刃」と「油屋騒動

さて、猿田彦神社について触れる前に、伊勢にまつわる話題をここで一つ取り上げたいと思います。

歌舞伎の演目の中に「伊勢音頭恋寝刃」(いせおんどこいのねたば)があるのをご存知でしょうか?

私も最近まで知らなかったのですが、よく上演される人気の演目らしくYoutubeの動画でも観ることができます。

画像3:伊勢音頭恋寝刃2
引用元:https://www.youtube.com/watch?v=F_QlR6oJuak

ここで、動画から切り取った上の画像を見て頂くと、そこには「古市油屋店先の場」とタイトルが書かれいます。そう、そこに「油屋」の文字が見て取れるのです。

この演目、ネタ元になった次のような史実があり、それは「油屋騒動」(あぶらやそうどう)と呼ばれています。油屋騒動はWikiでは次のように書かれています。

寛政8年5月4日(1796年6月9日)の深夜、伊勢古市の遊廓油屋において9人の者が刀で斬られ、そのうち3人が死亡する事件が起きた。その顛末は当時の史料では下記のように記載されている。

引用:Wikiペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B9%E5%B1%8B%E9%A8%92%E5%8B%95

Wikiにはこの事件の顛末が詳しく書かれていますが、江戸寛政期に起きた殺人事件のことで、歌舞伎はそれを面白おかしくアレンジしたと言ったところでしょうか。タイトルにある「油屋」もそうですが、この他に私が特に注目したのは文末に書かれた次の部分です。

油屋は明治に入ると改装され旅館として営業し、山田駅前にも支店を出した。しかし第二次大戦の戦火により消失した。さらにその後、油屋のあった場所は近鉄鳥羽線の線路を引くために切り崩され、当時を偲ぶものはほとんど残っていない(伊勢街道の線路際に「油屋跡」の石碑が立っている)。

引用:Wikiペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B9%E5%B1%8B%E9%A8%92%E5%8B%95

 ”線路際に「油屋跡」の石碑が立っている”

「油屋と線路」この状況はまさにアニメの設定に近く、ここに偶然を超えた何かしらの意図が働いていると感じたのは言うまでもありません

画像4:現地に残る油屋跡
近鉄線の切通工事により跡地は崩されている

■おしら様と盃ノ間

このアニメには油屋の客として様々なタイプの神様キャラが登場しますが、その中でも、エレベータに乗りとまどう千尋を匿い、油屋の中を無言で案内する「おしら様」は特に印象深かたのではないでしょうか?

画像5:おしら様
©︎2001 Studio Ghibli・NDDTM

実はこのおしら様が、現実に存在した伊勢の油屋とこのアニメとの設定を繋ぐ重要なキャラでもあったのです。

以下の写真は、伊勢の地誌をまとめたサイト「ブラお伊勢」さんから拝借したものです。

画像6:油屋の盃ノ間(モノクロ)

この写真をAIによりカラー化したものが次になります。

画像7:油屋の盃ノ間(カラー)

カラー化とはいっても、AIの推測により着色しているためオリジナルの色彩が再現できている訳ではありません。しかし、提灯の模様に赤系の色が使われていたのはほぼ間違いないと思われます。

注目すべきは、外廊下に囲まれた中央の畳の間で、昔の旅館風ではありますが、廊下の縁に欄干が付けられているのは、ここが遊郭ならではのきらびやかな装飾であったと考えられます。

この作りだけ見ても、アニメに登場した油屋の内部装飾に良く似ているのがお分かりでしょう。

画像8:油屋の内部(アニメ)
©︎2001 Studio Ghibli・NDDTM

しかし、この写真で最も注目するべきなのは、赤い盃を被ったおしら様のデザインとこの「盃ノ間」の間に見られる類似性なのです。その関係を示したのが以下の図です。

画像9:おしら様と盃ノ間
©︎2001 Studio Ghibli・NDDTM

キーワードは「盃」(さかずき)であり、これにより、架空の存在である「おしら様」と実存した伊勢の「油屋」がイメージとして重なってくるのです。

線路と建屋の位置関係、欄干付の外廊下、盃のデザイン・・・ここまで状況が揃うと、もはやこれが偶然とは言えないでしょう。このアニメは明らかに伊勢の油屋をモデルに使っていると考えられるのです。

銚子モデル説の場合は、油屋は猿田神社を指しますが、今回の伊勢モデル説の場合はその名も同じ遊郭の「油屋」を指すことになります。

そうなると油屋のモデルとなった建物の意味合いが180度違うように思われてしまいますが、おしら様の「赤白」のデザインはそのまま「赤白」の巫女装束を表し、また、おしら様が顎の下に抱える2本の長い垂れ下がりは女性の乳房、すなわち女性を表していると捉えれば、両説の間で全く矛盾はないのです。

よく「千と千尋の神隠し」は暗に性風俗を表現したものではないかと指摘されることがありますが、伊勢のケースを見る限りその指摘もあながち間違っていないと言うことができます。

しかし、ここで重要なのはどうして「聖」(巫女)と「俗」(遊女)を重ねてきたのか、その狙いであり意図なのです。

■橋の向こうには猿田彦

以上、猿田彦神社の報告から随分と離れてしまいましたが、前節までの話の流れの中で、「猿田彦」なる神の存在が、このアニメの中核として欠かせないことが、銚子と伊勢の対比によって見えてきます。

画像10:銚子と伊勢の立地比較

この2つの地域を比較してよく分かるのは、

 橋向こうに居る猿田彦

という構図が見事に同じ点なのです。ですから、銚子と伊勢のどちらがよりアニメの設定モデルに近いのかという議論にはあまり意味がなく、密かに日本古代史をなぞるこのアニメの真の狙いが、何か「猿田彦に関わる奥義」を意図したものであることは、もはや疑い様もありません。

画像11:伊勢の猿田彦神社

主人公の千尋は両親に連れられて、本来人が近寄れない神の領域に入ります。そこで、ハクとカオナシに出会うのですが、前回記事「千と千尋の二人姫」でも書いたように、カオナシとは千尋の双子姉妹の片割れ、古代史的に表現するなら巫女に出された栲幡千千姫(タクハタチヂヒメ)の双子姉妹の片割れと予想されます。

千千姫がその姉妹と出会えたということは、油屋が象徴するものは「巫女修業の場(神域)」ということになり、今回の考察とも辻褄は合ってくるのですが、どうしてそれが猿田(彦)神社なのか、また、どうして巫女と遊女を重ねてきたのかその真意はまだよく分かりません。

ここに新たな仮説が生まれてくるのですが、それは画像11を良く見ること、加えて「遊女とは売り買いされる女」というその言葉の原義を押さえることで分かってきます。

ここが分かると、どうして古代王アマテルカミ(男性)が女神天照に変えられてしまったのか、この日本神道最大の呪詛についてもその真意が見えてくるのです。

※この話題は次回へと続きます


* * *

伊勢の猿田彦神社の中には摂社の佐瑠女(さるめ)神社があります。ここでは、日本神話の中で閉ざされた岩戸の前で踊り、そして猿田彦の妻となり猿女(さるめ)と呼ばれるようになった天宇受売命(あめのうずめのみこと)を祀っています。

画像12:佐瑠女神社

猿女さんは踊りの神話が縁となり、一般的に芸能の神様と呼ばれていますが、こちらにのぼり旗を献上している方々の中にあの著名人の名前を見つけました。

画像13:ご存知新海監督

芸能に縁のある神社ですから特に不思議でもありませんが、そう言えば「君の名は」のヒロイン「みつは」のアルバイトは「巫女」であり、物語の骨格となったテーマが「時を超えた出会い」と、ほとんど「千と千尋の神隠し」と同じであることにここで気付いたのです。

画像14:巫女姿のみつは

新海監督作品も含め、日本のアニメが隠された日本古代史をベースにし、日本人の大衆心理を巧みに操らんと企図されている、その疑いをますます深めた瞬間でもあったのです。



騙した岩戸開き。出てきた神はどこの誰?
管理人 日月土

千と千尋の二人姫

アニメネタから離れて約半年、ここで再びジブリアニメ「千と千尋の神隠し」と古代史の関係を考察したいと思います。

画像1:「千と千尋の神隠し」ポスター

その前に、これまでの3つの記事でこのアニメをどのように分析してきたのか以下に簡単にまとめておきます。

千と千尋の隠された神   [2021/07/30]   
 アニメのモデルになった地は、千葉県東総地区、現在の銚子市周辺である。それは、「椿」の暗号によって示されている。

千と千尋の隠された神(2) [2021/08/14] 
 油屋のモデルとなったのは、千葉県銚子市の猿田神社である。それは、同社前に敷設された鉄道の配置からも窺える。

千と千尋の隠された神(3) [2021/08/30] 
 銚子市がモデル地と特定できる理由の一つとして、同地が琥珀の産地であることが挙げられる。この「コハク」こそが登場人物「ニギハヤミコハクヌシ」の命名の由来であろう。

なお、基本的な大前提として、タイトル中の「千と千尋」すなわち「千」の字をわざわざ二つ重ねていることなどから、主人公「荻野千尋」の古代史モデルが日本神話(日本書紀)に登場する

 栲幡千千媛萬媛命(たくはたちぢひめよろづひめのみこと)

であると仮定しています。神話では、千千媛は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の母であり、その瓊瓊杵尊はまた、同じくジブリアニメ「もののけ姫」に登場したアシタカのモデルでもあります。

この仮説は、劇中の設定と本件に関する文献および現地調査の結果を照らし合わせたところ、今や確信へと変わりつつあります。

■3月から始まる舞台

昨年7月、(真)ブログ「舞台に現れる千千姫」で、「千と千尋の神隠し」が舞台化されるとお知らせしました。そして、その舞台がいよいよ来月2日から上演されます。

 舞台公式サイト:Spirited Away 

さて、同ブログ記事の中では、次の画像を示してある不思議な共通点があることを指摘しています。

画像2:映画ポスターと二人の舞台女優

そう、アニメ画の主人公および、二人の女優さんが皆同じ

 振り向き様のポーズ

を決めているのです。そしてもう一つ、舞台上演では比較的当たり前だとも言えますが、ダブルキャスト(二人一役)を採用していることです。

但し、このダブルキャストはロングラン公演など長期の上演が決まっている場合の役者のシフトを考慮した措置で、この舞台の3月いっぱいの帝劇公演、および、5~7月までの地方公演が果たしてロングランと言えるのかは微妙なところです。

そして、その二人のキャスティングに売れっ子の二人の女優さんを同格に配置するというのも、何かの意図を感じずにはいられません。もちろん、ダブルで売れ筋女優を起用したと言う商業的戦略はあるとは思いますが。

私はここに制作側の大きな意図を見出すのですが、それについては次節以降に説明します。

■仮面の持つ意味

ここで、アニメ「もののけ姫」の主人公「サン」について振り返ってみます。

画像3:二人のサン

画像2は仮面を被ったサンと素顔を出しているサンです。普通に考えれば、仮面を着けているかいないかの違いだけで、どちらも同じサンであることには変わりありません。

しかし、ここで呪術的考察を加えると解釈は変わってきます。仮面を着けるとはその人が別人に変身することを意味し、呪術的には仮面の装着により、新たな人格と力を獲得したと考えます。すなわち、画像2の二人は別人であるとみなされるのです。

過去記事「サンがもののけ姫である理由」でも解説したように、アシタカは物語中に石火矢に射抜かれて命を落とします。その後、シシ神によって息を吹き返すのですが、同一人物が2度目の命を得たという表現から、アシタカが瓊瓊杵尊だけでなく、同時に天稚彦(アメワカヒコ=第10代アマカミホノアカリ)をもモデルにしていると同記事では指摘しています。

画像4:日本神話では天稚彦は返し矢に当たり絶命する

つまり、アシタカに使われていた人名隠しのロジックがそのままサンに対しても使われている可能性があるということになります。サンの場合は石火矢ではなく仮面という違いはありますが。

サンの古代史モデルが「木花開耶姫」(コノハナサクヤヒメ)であることは、過去記事「愛鷹山とアシタカ」を読み直して頂きたいのですが、この木花開耶姫、瓊瓊杵尊への輿入れに関しては次の様な記述が古事記にあります。

 五 本花之佐久夜毘売

 ここに天津日高日子番能邇邇芸能命、笠沙の御前に麗しき美人に遇ひたまひき。ここに「誰が女ぞ」と問ひたまへば、答へ白さく、「犬山津見神の女、名は神阿多都比売、亦の名は木花之佐久夜毘売と謂ふ」とまをしき。また「汝の兄弟ありや」と問ひたまへば、「我が姉、石長比売あり」と答へ白しき。ここに、「吾汝に目合せむと欲ふは奈何に」と詔りたまへば、「僕はえ白さじ。僕が父犬山津見神ぞ白さむ」と答え白しき。かれ、その父犬山津見神に乞ひに遺はしたまひし時、いたく歓喜びて、その姉石長比売を副へ、百取の机代の物を持たしめて、奉り出しき。かれここに、その姉はいと凶醜さによりて、見畏みて返し送り、ただその弟木花之佐久夜毘売を留めて、一宿婚したまひき。

※日本書紀と古事記では漢字表記が異なります、ご注意ください

ここで重要なのは、本花之佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)と一緒にその姉の「石長比売」(イワナガヒメ)も輿入れさせたとあることです。つまり姉妹二人の嫁がいたということですが、石長比売は容姿が醜く能邇邇芸能命(ニニギノミコト)に返されてしまうのです。

ここで、疑問に思われるのが、「姉はひどく醜く妹はたいへんに美しい」という表現です。現実でそういうケースがあるかもしれませんが、一般的ではないでしょう。これは明らかに何か別の意味を象徴した表現、史書の暗号であると考えられます。

これについては、実は漫画家の星野之宣氏がその作品「宗像教授異考録」の中で、石長比売の醜さに関する記述について次の様な仮説を提示しています。

“謎多き熊本県の遺跡トンカラリン周辺で、顔面が平面に陥没した弥生時代の頭蓋骨が出土している。これは幼少期から顔に石の仮面を押し付け変形させたのではないかとも言われている”

画像5:石長比売の漫画表現

私もこの説はかなり有力であると考えており、なぜこんなことをするかと言えば、それは幼少の時より「優秀な巫女を育てるため」であると考えられるのです。先にも述べたように、仮面を装着すればそれはもう別人であり、託宣など巫女が重要な政治的ポジションを占めたと思われる古代期には、超人的な巫女としての能力を養うためにこのような極端な処置を行う慣習があったとしても不思議ではありません。

 関連記事:
  ・チブサン古墳とトンカラリンの小人 [2020/10/31]
  ・トンカラリン-熊本調査報告 [2020/11/30]

そして更に重要なのは

 正妻と巫女の二人の女性が天皇に嫁ぐ

という事象がここに描かれていることなのです。

以上から、「もののけ姫」に見る「二人のサン」の表現には、

 ・木花開耶姫 (仮面なし)
 ・磐長姫   (仮面あり)

の二人の姫の象徴が隠されていると考えられるのです。

■卑弥呼は双子であった

ここまで書いたところで、再び過去記事「ダリフラのプリンセスプリンセス」をご覧いただきたいのです。

この記事では卑弥呼と呼ばれる古代日本の女王が、実際は初代神武天皇の正皇后「ヒメタタライスズヒメ」すなわち

 イスズヒメ と タタラヒメ

の二人の后、それも双子の后を指しているのではないかと指摘しています。そして、どちらか一人が国家祭事を預かる巫女役として配置されており、それが、魏志倭人伝が伝えるところの「卑弥呼」だったのではないかと私は考えるのです。

どうして、年の違う姉妹ではなく、双子だと言えるのか?これは純粋に呪術的な理由でそうであろうと私は考えています。双子同士が互いの体調や何を考えているのかその思考まで、語らずとも理解し合えると言うのは経験的によく知られている話です。この神掛かり的な同調能力は、双子でしかなし得ない特殊能力であり、呪術者にとってはとても魅力的、つまり「おいしい」のです。

巫女能力の優劣が国運を左右したであろう古代期に、このような能力者を元首の傍に置くことは、政治的にも大きな意味を持ったことでしょう。

何か無理矢理な説明だなと思われる方も多いかと思いますが、実は「双子」という表現は「千と千尋の神隠し」の中でも採用されていたことを思い出してください。

画像6:銭婆婆(左)と湯婆婆(右)の双子表現

この2頭身の老婆は、ダリフラ(ダーリン・イン・ザ・フランキス)と同じ双子の姉妹、即ち、双子の卑弥呼(タタラヒメとイスズヒメ)を指していると考えられるのです。

■カオナシ:仮面の正体

さて、ここまで述べたところで再び舞台「千と千尋の神隠し」の話題に戻ります。前々節で「仮面」の話題に触れましたが、「千と千尋~」の中でも仮面を着けていた準主役的なキャラクターが居ましたよね?

画像7:カオナシ

もうお分かりの通り、仮面の存在とは「カオナシ」です。このキャラは作品を通して強く存在感をアピールしますが、結局その名前も正体も明かされないまま物語は終了してしまいます。

前節までに、ジブリ作品における「仮面」と「双子」について分析しましたが、ここで、その結果をこのカオナシに適用するとどうなるでしょうか?もうお分かりのように、

 カオナシはもう一人の千尋(双子姉妹)

であり、更にその古代史モデルに遡れば

 カオナシは巫女となった栲幡千千媛萬媛命の双子姉妹

と結論付けることができるのです。それを象徴するかのように、物語の終盤で千尋は湯婆婆の元へ帰り、カオナシは銭婆婆の元に残るのです。これは双子姉妹が別れてそれぞれの道に進むことを意味しているとは考えられないでしょうか?

画像8:二人は別れ別れに

また、物語に出て来るメッセージの一つに「名前を奪う」があります。湯婆婆が人を支配する為の魔術として描かれていますが、史実から消された双子の片割れとは「名前を奪われた存在」、別の言い方をすれば「顔を奪われた存在(カオナシ)」であることは明白です。

ここまで分析したところでやっと本題の結論が一つ答えられるようになりました。舞台がダブルキャストを採用した真意とは

 二人の千尋

を形を変えて表現したものなのです。そして、なぜそれをここで打ち出してきたのかについては更に別の考察を要しますが、それについては、振り返りポーズの意味と併せ別記事でお知らせしたいと思います。

これは、かつて人気を博した女性ボーカルバンド「プリンセス・プリンセス」、そして2年前に感染騒ぎで話題になった「ダイヤモンドプリンセス号」にも通じる問題なのです。


 * * *

おまけ

画像9:叶姉妹

上図は皆さんご存知の叶姉妹。いつの頃にか3人姉妹から2人姉妹になってしまいましたが、こう言っては失礼ですが、たいして芸も無いのにやたら露出が多いですよね。この「姉妹」が曲者で、実はここにも現皇室に向けた呪いのメッセージが込められているのです。

画像10:神奈川県浦賀の叶神社(2020年3月撮影)
入り江を挟んで東西の二社あることに注意

古代呪術は時の経過と共に忘れ去られた訳ではなく、現在に至るまで脈々と継承されているということです。



顔なしと呼ばれし君に会わむとぞ思ふ
管理人 日月土