天孫降臨と九州

太宰府で繋がる新元号とダリフラ」でご紹介したように、私は日本の現皇室の起源が九州北部にあるのではないかと考えています。なおこれは、現皇室が初代神武天皇から始まったとみなした場合の話で、神武以前、すなわち天皇が「カミ」と呼ばれたさらに古い時代については、その拠点となった場所がさらに別の地域にあったとみています。

これを考える上で参考になるのが、歴史学会ではどちらかというと異端のレッテルを貼られている古田武彦さんの

 九州王朝説

で、細部には異論があるも次の点では私も概ね同意できると思っています。

 ・天孫降臨の地は福岡県の高祖(たかす)山の峰である
 ・国政の中心となった都は福岡県の太宰府市である

もちろん、文献重視の歴史学研究においては異端も異端ですし、端から大和朝廷を否定しているのですから歴史学会はもとより、民族団体や神道系団体からの反発も激しいでしょう。

私の場合は、そもそも日本書紀、古事記、そして海外文献である隋書や魏志倭人伝に至っても記述そのものが信用に足るとは考えていないので、既存の文献を根拠とする九州王朝説の否定論はやはり参考以上のものではありません。

これまでも何度か書いていますが、日本の場合、とにかく古代の史実を伏せようとする傾向が強く、その最も極端な表れが、神武天皇以前の代を「神様」という曖昧というかファンタジーな存在に置き換えてしまっていることです。

海外の歴史的文献においても、その記述が為政者にとって都合の良いものであることは間違いなく、海外の目だから日本を客観的に記述している保証など何もないのです。特に日本と行き来のあった朝鮮半島や中国大陸の国であるならば、その深い関係性故に互いに都合よく歴史を改ざんし合ってる可能性すら考えられるのです。

しかし、本当に古代史を隠したいのなら文献など一切残す必要はなく、敢えて偽書を残すということは、利害を伴った歴史認識の誘導、及びそこに何か真実を残したいという意思が働いたからと考えられるのです。なので、私はいわゆる歴史文献をあくまで参考、あるいは「暗号の書」として読むようにしています。

文献がそれほど当てにならない以上、頼りになるのは、時間と共に変わりにくい地名や、地域伝承、そして文献よりは確かな物証となる墳墓などの遺跡です。今回は、小難しい話はなるべく省略して、私が九州に滞在していた時に調べた現地を、特に天孫降臨という歴史イベントに絞ってご紹介したいと思います。

■天孫降臨の記述

天孫降臨を語る前に、史書ではどのように記載されているかを見てみましょう。原文中の注釈部分は省略しています。

日本書紀(巻二)
時に、高皇産霊尊(たかぎむすびのみこと)、眞床追衾(まことおふふすま)を以って、皇孫(すめみま)天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)を覆(おほ)ひて、降(あまくだり)まさしむ。皇孫、乃(すなは)ち天磐座(あまのいわくら)を離(おしはな)ち、且(また)天八重雲(あめのやえたなぐも)を排分(おしわ)けて、稜威(いつ)の道別(ちわき)に道別(ちわき)て、日向(ひむか)の襲(そ)の高千穗峯(たかちほのたけ)に天降(あまくだ)ります。既にして皇孫(すめみま)の遊行(いでま)す状(かたち)は、槵日(くしひ)の二上(ふたかみ)の天浮橋(あまうきはし)より、浮渚在平処(うきじまりたひら)に立たして、膂宍(そしし)の空国(むなくに)を、頓丘(ひたを)から国覓(くにま)ぎ行去(とほ)りて、吾田(あた)の長屋(ながや)の笠狹碕(かささのみさき)に到ります。

古事記(邇邇藝命)
かれここに天津日子番能邇邇藝命(あまつひこほのににぎのみこと)に詔りたまひて、天の石位(いわくら)、天の八重たな雲を押し分けて、伊都(いつ)のちわきちわきて、天の浮橋にうきじまり、そりたたして、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穗くじふるたけに天降(あまくだり)ましき。

先代旧事本紀(巻第五 天孫本紀)
天津彦々火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)天降(あまくだり)て、筑紫(つくし)の日向(ひむか)の襲槵之触二上峯(そのくしふるふたかみのたけ)に坐(ましま)す。

以上の3文献に共通しているのは、天から使わされた超自然的な存在(神様)であるニニギノミコトが我らが地上の国に降り立ったこと。そして、その天孫ニニギが降りた地とは、「筑紫」の「日向」の「高千穂」、あるいは「高千穂のクシフル」の山であったということです。

天孫ニニギとは天照大神(アマテラス)の命により地上に降り、現皇室の祖になったとされる神様です。しかし、前述したように、神武以前の天皇は「カミ」と呼ばれていただけで、けして超自然的な存在ではないのです。ここがいつも曖昧なので、日本史の解釈・天皇家の解釈がどうしても歴史ではなくファンタジーになってしまうのです。今にある神社や神道なども基本的にファンタジーに根差したものであることは言うまでもないでしょう。

さて、もう一つの共通点である地名ですが、いずれもが現在の九州に残っていることは説明するまでもないかと思います。空想や幻想ではないより確実な実証方法として、地名や史跡を追うことで実在した歴史に迫ることができるかもしれません。

■天孫降臨の正統派解釈

天孫降臨の地に関する正統的解釈として知られるのは、宮崎県は霧島連山の中の一峰、高千穂峰が天孫ニニギ降臨の地だと言うものです。坂本龍馬が妻を伴って登ったという逸話のある山です。

この解釈を認めるに当たっては「筑紫」の概念を、筑紫平野に代表される九州北部ではなく、九州全体を表すと拡大解釈しなければなりません。何故なら、この場合の日向とは宮崎県北部の日向ですから、南部にある高千穂峰とはちょっと距離があり過ぎるからです。

画像1:筑紫・日向・高千穂峰(峡)の位置関係
オール宮崎、ちょっと筑紫が広すぎないか?

私は、この解釈はかなり無理があるのではないかと考えています。九州に滞在していた時の実感として「筑紫」とはやはり福岡県を中心とした九州北部のことであり、熊本から宮崎、鹿児島までを一つの国と捉えるのには、かなり無理があるからです。基本的に古代人が把握できる距離感とは、山の頂など高見台から見渡せる範囲のことです。地図でも見ないと把握できない九州全体を一つの「筑紫」とするのは、やはり受け入れ難いのです。

そんなことを思いつつも、数年前に高千穂峰に登ってきました。その時の写真を以下に掲載します。

画像2:霧島神宮の古宮。ここから登山開始です
霧島神宮の主祭神は「天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊」
(アメニギシクニニギシアマツヒタカヒコホノニニギノミコト)
画像3:馬の背から見上げた頂き。心が折れそうに…
画像4:鉾が刺さってますが、こんなの有難がる人がいるのか?
画像5:宮崎南部の西都原古墳群には宮内庁が管理する推定瓊瓊杵尊陵がある

この時は数名のパーティーで登ったので、閑談交じりの楽しい登山であったのを覚えています。確かに神秘的な山なので、歴史上何かあるのは間違いなさそうなのですが、それが史書が示す通りの天孫降臨かというと、甚だ疑問です。

そもそも、実際には人間であるニニギさんがどうやって、聳え立つ山の頂に降臨したのかという大きな疑問があります。あるとすれば、異国の地に足を踏み入れた後に、国見をするために高い山に登った、あるいは空飛ぶ乗り物にでも乗ってやって来た。そう考えるしかありません。それって降臨じゃありませんけどね。

ご存知の様に、宮崎県の北部には高千穂峰ならぬ、高千穂峡があります。町の名前も高千穂町ですし、天岩戸神社や高千穂神社、そして日本神話を題材とした夜神楽で全国的に有名な場所です。

画像6:高千穂町の夜神楽

霧島連山の高千穂峰よりもぐっと日向にも近く、こっちが本命の天孫降臨の地かとも思えるのですが、やはり阿蘇山よりも南側にある当地を「筑紫」と呼ぶには抵抗が大きいのです。もしも天孫降臨の宮崎高千穂説が怪しいとなれば、必然的に神武天皇が誕生し東征を開始したとする現皇室の宮崎起源説までもが非常に疑わしいものとなるのです。

 * * *

さて、この疑問から古田氏の九州王朝説に辿り着き、さらに古田氏が指摘する「天孫降臨」の地の調査に取り掛かったのですが、長くなりそうなのでこの話の続きは次に回したいと思います。

また、明日発行予定のメルマガでは、瓊瓊杵尊が九州に送り出されるその背景について、若干説明を加えたいと思います。

誠の神力を現す世と成れる
管理人 日月土

モリヤとユダヤ人

日本の古代史に関心を抱き、在野の研究者が記した膨大な書籍を調べていくと、必ず有名な「日猶同祖論(にちゆどうそろん)」に出会うことになります。

同論には色んなバリエーションがあるようですが、概ね次のような主張が骨格をなしているようです。

”紀元前、中東アッシリアに捕囚されたユダヤ北王国10氏族の指導層について、その後の記録がどこにも残されておらず、失われた10氏族と呼ばれている。どうやらその10氏族は東へ向かい日本列島に辿り着き、日本国建国の中心的役割を担ったようだ。”

要するに私たち日本人の血にはかつての古代イスラエル時代のユダヤ人の血が入り込んでいるというものです。同論の研究では宇野正美さん、久保有政さんなどがたいへん有名ですが、多くの研究者が、日本語とヘブライ語の語彙におけるその発音や意味の偶然とは思えない類似点、神道形式と古代ユダヤ神殿との共通点など、古代ユダヤが日本の成立に大きく関わったとする数々の傍証を示されています。

たいへん多くの研究がなされており、それをこのブログで一つ一つ紹介するのも今更なので、そちらについては、書籍なりネットなどで調べて頂きたいと思います。本ブログでは全国の地名に焦点を当てて、ユダヤ・キリストの痕跡を追ってみたいと思います。

■諏訪の守屋山

日猶同祖論の提唱者に多く取り上げられるトピックに、長野県は諏訪湖のほとり、諏訪大社に伝わる御頭祭が挙げられます。これについては久保有政さんの講演動画がYoutubeに公開されていますのでそちらを紹介したいと思います。

動画1:諏訪大社御頭祭とアブラハムの神事(久保有政講演)

この御頭祭の元になったストーリとされているのが聖書の次の一節です。

これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」


次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。


三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」


アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。


イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」


アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。


神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。


そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。


そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」


アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。


アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。


主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。


御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。


地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」


引用元:新共同訳聖書 創世記 第22章1-18節

後のユダヤ人の祖先となる大父「アブラハム」とその子「イサク」の物語であり、神の言い付けを守り、躊躇せず我が子を捧げようとしたアブラハムの神への畏れ深さを称え、それを祝福したという内容になっています。

そして諏訪大社の御頭祭は、その一節に記された出来事を祭事として今に伝えているとするのが、久保有政さんを初めとする日猶同祖論的な解釈なのです。

この解釈には無理な点は少なく、旧約聖書に描かれたアブラハムとイサク、そしてその子孫たるユダヤ人とこの日本の成立には少なからず関連がある。それは認めざるを得ない事実であろうと、私も思います。

さて、聖書に表れた「モリヤ」が、現代の住所表記にどのように表れているか調べたのが次の結果です。

 福島県須賀川市 守屋 モリヤ
 福島県須賀川市 守谷舘 モリヤタテ
 茨城県常総市 内守谷町 ウチモリヤマチ
 千葉県勝浦市 守谷 モリヤ
 神奈川県横浜市神奈川区 守屋町 モリヤチョウ
 富山県小矢部市 森屋 モリヤ
 大阪府南河内郡千早赤阪村 森屋 モリヤ

これが市町村名で現れているのが次です

 茨城県守谷市 イバラキケンモリヤシ

この中で、「守屋」は、見張り小屋をイメージさせ、まだ漢字の意味が取りやすいのですが、「守谷」「森屋」となると漢字の示す意味が漠然としており、これはおそらく万葉仮名と同じように、既に存在していたヤマト言葉に後から漢字を当てた地名なのではないかと推測されるのです。

実は、「モリヤ」で地名を検索すると、「森山(モリヤマ)」、「守山」と「山」の字を添えて出てくることが圧倒的に多いのです。その一部は例えば次のようになります。

 青森県西津軽郡深浦町 森山
 富山県高岡市 守山
 長野県小諸市 森山
 岐阜県美濃加茂市 森山町
 京都府京都市中京区 守山町
 大分県宇佐市 森山
 長崎県諫早市 森山町

この他

 滋賀県守山市
 愛知県名古屋市守山区 

など、ほぼ全国で「モリヤマ」の地名が見られるのです。聖書においては「わたしが命じる山の一つに登り」とあるように、「モリヤ」と「山」がセットであることは明白ですし、諏訪の御頭祭の場合も、諏訪大社前社の後背にある「守屋山」と聖所と見立てていることから、「守山」、「森山」の両表記の場合は「山」とセットの「モリヤ」と考えて良いかと思います。

また、諏訪の場合は「守屋山(モリヤサン)」と呼んでいるようですが、「モリヤヤマ」だとヤが重なり、発音が「モリヤマ」となまったとも考えられます。

そうなると、ユダヤ人の父たるアブラハムが神に祝福され子孫の繁栄を約束された地である「モリヤ」あるいは「モリヤの山」は全国各地にあるという、何とも凄い話になってくるのです。

■真里谷はマリアなのか

以下の写真はグーグルのストリートビューから切り抜いた写真です。交差点の名前に注目してください

画像1:真里谷交差点

この一見してドキっとする名前の交差点は千葉県木更津市の真里谷(マリヤツ)にあります。地名もそうなのですが、この写真の右側に写っている神社が諏訪大社と縁のある「諏訪神社」であることも注目点の一つです。

そして、この交差点からすぐ近くにある駅名を見るとさらにドキっとしてしまうのです。

画像2:馬来田駅(JR東日本久留里線)

クリスチャンではなくても聖書やキリストの生涯に関心がある方なら、この2つの写真を同時に見たらあの人の名を思い出すに違いありません。

 馬来田の真里谷 → マグダラのマリヤ

もちろん、たまたまこういう名前が重なっただけかもしれませんので、直ちに関連があると断定することはできません。マグダラのマリアとは、磔にされ後に埋葬されたキリストの死を見守った女性とされ、一部伝承にはキリストの妻であったとするものもあります。

さて、この真里谷ですが、諏訪神社に記載された伝承には、甲州から逃げてきた武田家の落ち武者たちがこの地に入って開いた土地である云々と書かれています。そして現地の七曲川沿いの古い集落を調べていた時に見つけたのが次の神社です。

画像3:森山神社

ここで冒頭の御頭祭に絡んで幾つかの事象が繋がることに気付きます。それを整理したのが次の図になります。

画像4:信仰は武田家と共に来たのか?

諏訪大社の起源も、武田家の出自もいったいどれだけ古いのかは分かりませんが、武田家が千葉県の上総の国に移ってきたのは大体1500年代頃と推定することはできます。

そして、その時に諏訪のモリヤ信仰(あるいはアブラハム信仰)を伴って来たことは十分考えられ、キリスト誕生から千年以上経過した時代のことですから、もしかしたら新しい信仰、新約聖書の教え(マリア伝承)を伴って当地に来たかもしれないのです。

もちろん、以上は名前から想像を巡らせただけなのですが、この想像を認めるとけっこうトンデモない話になることが分かります。地方の有力者である武田家にしてこうなのですから、

 日本は古来よりユダヤ国家だったのか?

という、まあ日猶同祖論と同じような結論になってしまうのですが、1500年代後半に日本を訪れた宣教師、ルイス・フロイスが「すでに聖書の教えを知っているようだ」と日本人を評したのは、案外その通りなのかもしれません。


 * * *

ここまで記述だけでは、一般の日猶同祖論とあまり大差なかったかもしれませんが、最後にいつもの指摘を残しておきたいと思います。

「大陸」と「島」から同じ壺が見つかった。この壺を作ったのはどちらなのか?これを「大陸です!」と反射的に答えられる様にしているのが現在の歴史教育なのです。日猶同祖論者においても、相変わらずその考え方の癖が抜けないようですね。

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管理人 日月土

アルプスに残る海地名の謎

地名はその土地の歴史を表す指標の一つです。それは、一度付けられた地名が定着すると長い時間が経過した後も変わることがめったにないからだと言われてます。実際にヤマタイコクの存在地を探し出す手法として、現代に残る地名を頼りにすることは珍しくありません。

例えば、魏志倭人伝に表現される伊都国(イトコク)は現在の福岡県の糸島(いとしま)であり、末盧国(マツラコク)は長崎県の松浦(まつうら)を指すといったような具合です。

画像1:推定伊都国(糸島)と推定末盧国(松浦)
  こんなに簡単に決めてよいのだろうか? 
    ★印の場所にも旧「松浦」という地名がある 

しかし、同じ地名は全国各地に付けられるていることが多く、どれがオリジナルか判別しにくいのはもちろん、オリジナルの方が〇〇字のようなごく小さなエリアを指していて現地の人しか知らなかったり、中にはほとんど消滅してたりするものもあるので、注意が必要なのも確かです。

私は諸説あるヤマタイコク論争の中で、最も大きな間違いとは、伊都国を現在の糸島と同定することにあると考えています。本当に糸島しか「イト」に該当する場所はないのか?それを研究者たちが精査したとはとても思えないからです。

また、記紀を読んでて分かるのが、それらが意図して歴史の捏造を目的に作られたファンタジーであることから、記紀編纂期において、何か国家的な歴史改変政策が取られていた可能性があると認められることです。

仮にも国家政策であるなら、史書を編纂して終わりということはないでしょう。改変した史書の記載と辻褄が合うように、新たな地名の命名、それまでの地名の付け替えを行うことくらいは当然やっただろうと思われるのです。

つまり、現在残る地名を無批判に頼るのは危険だと言いたいのですが、それでも古い地名はどこかに残ってるものであり、それを丹念に調べ上げてこそ地名による歴史分析は正確性を増すのだと思うのです。

以上は、今回の本題ではありませんのでこの辺にしておきますが、地名とはまた、歴史や文化だけでなくその土地の古い地形を表すので、過去の地理的条件を推測するのにも役立ちます。

■日本アルプス、昔は海だった?

不動産を選ぶ時、「”水”や”さんずい”がある地名は、過去に水が出た所だから気を付けろ」というのをよく聞きます。具体的には〇水とか 〇〇 沼、〇沢などの字が地名に表れた場所のことを指します。

昔湿地だった場所に家など建てると、屋内に湿気がこもって押し入れなどがジメジメと黴臭くなり、メンテナンスがたいへんになります。私のかつての実家もそれで苦労したので、この教訓は身に染みて理解できるのです。

それを予備知識として、地形を表す地名に関して私が「おやっ?」と思った次の事実についてご紹介いたします。まずは下記の地図を見て頂きたいのです。

画像2:中部山岳地帯の海関連地名
   ★印は123便の遭難地点    
       薄紫色の帯は大地溝帯(フォッサマグナ)

私が日本航空123便事件の調査している時に、遭難地点から西の長野側に山を下ると、いつも不思議に思っていたのが、「標高1400m前後の日本の屋根とも言える高原地帯なのに、どうしてこんなにも海の付く地名が多いのだろうか?」ということです。

おまけに場所によっては塩分を含む水まで出るらしく、山梨県北杜市の塩川ダムでは、その名の通り、昔は塩まで採っていたそうなのです。

そこで、同地区にて住所表示用の地名の中から漢字の「海」が付く地名、および「浜」・「浦」・「津」など海に関連する単語を含む地名を抜き出したのが、画像2なのです。

ちなみに、「浦」と「津」の意味はデジタル大辞泉によると次のように定義されています。どちらも海、あるいは大きな湖に関連する単語と捉えて問題がないでしょう。

 浦(うら):
 ※外海に対して内海
 1 海や湖が湾曲して陸地に入り込んだ所。入り江。
 2 海辺。浜。
 津(つ):
 1 船が停泊する所。また、渡船場。ふなつき場。港。
 2 港をひかえて、人の多く集まる所。また一般に、人の多く集まる地域

それにしても、長野・山梨といういわゆる「海無し県」にどうしてこんなにも海関連地名が多いのか?しかも長野県ともなれば、標高の高い土地が多く、諏訪湖などの湖を除けば、海や浜はもちろん、浦や津にも無縁としか考えられないのです。

そういえば、画像2上の中央部、小海や海瀬など海関連地名を縦貫し、山梨県の小渕沢から長野県の小諸までに走るのが、JR東日本の「小海線」です。地名の「小海」から取った名前だとは思いますが、日本で一番標高の高い地点を走る鉄道が、どうして「海」の文字を採用したのか?これは、名前を重視する「言葉の呪詛」の観点からも非常に興味深い問題だと思われます。

画像3:JR東日本の小海線

この鉄道路線に冠せられた地名の「小海」ですが、長野県以外のどこに同地名が残っているか調べると

 1) 静岡県 沼津市    内浦小海
 2) 徳島県 鳴門市    瀬戸町北泊(小海)
 3) 香川県 東かがわ市  小海
 4) 香川県 小豆郡土庄町 小海

となり、2)~4)は四国の地名なのでここでは除外すると、1)の内浦小海、私が以前からここには何か秘密があると度々指摘している、静岡県沼津市の内浦湾沿岸の町であることが分かります。但し、こちらは本当に海沿いの町なので、地名自体にそれほど奇異性はありませんが、画像2を見れば分かるように、他の海関連地名とまるで一繋がりのようにそこにあるので、これを無視する訳にはいきません。

そして、もう一つ指摘しておきたいのが、地図上の海関連地名のほとんどが、沼津から富士山を挟み、新潟県の直江津方面まで、日本の大地溝帯(フォッサマグナ)に沿って南北に連なっていることなのです。ここまでドンピシャだと、もはや海関連地名と大地溝帯に全く相関性が無いとも言えず、いったい両者にどんな関係があるのか、更に興味が惹かれるのです。

■歴史に表れた小海

ここで「小海」という地名が日本書紀に記載されている点をまず指摘し、そしてそれがどのように記述されているのかを見てみます。時代は上古代、第12代景行天皇の皇子である大和武尊(ヤマトタケル)が海を渡る場面です。

亦進相摸、欲往上總、望海高言曰「是小海耳、可立跳渡。」乃至于海中、暴風忽起、王船漂蕩而不可渡。時、有從王之妾曰弟橘媛、穗積氏忍山宿禰之女也、啓王曰「今風起浪泌、王船欲沒、是必海神心也。願賤妾之身、贖王之命而入海。」言訖乃披瀾入之。暴風即止、船得著岸。故時人號其海、曰馳水也。


亦(また)相摸(さがむ)に進(いでま)して、上總(かむつふさ)に往(みた)せむとす。海を望(おせ)りて高言(ことあげ)して曰(のたま)はく、「是(これ)小き海のみ。立跳(たちおどり)にも渡りつべし」とのたまふ。乃(すなは)ち海中(わたなか)に至りて、暴風(あらきかぜ)忽(たちまちに)起こりて、王船(みふね)漂蕩(ただよ)ひて、え渡らず。時に、王(みこ)に從(したが)ひまつる妾(をみな)有り。弟橘媛(おとたちばなひめ)と曰(い)ふ。穗積氏忍山宿禰(ほづみのうぢのおしやまのすくね)の女(むすめ)なり。王(みこ)に啓(まう)して曰(まう)さく、「今風起き浪(なみ)泌(はや)くして、王船(みふね)沒(しづ)まむとす。是(これ)必(ふつく)に海神(わたつみ)の心(しわざ)なり。願はくは賤しき妾(やつこ)が身を、王(みこ)の命(おほみいのち)に贖(か)へ海に入(い)らむ」とまうす。言訖(もうすことおは)りて、乃(すなは)ち瀾(なみ)を披(おしは)けて入りぬ。暴風(あらかぜ)即(すなは)ち止みぬ。船(みふね)、岸に著(つ)くこと得たり。故、時人(ときのひと)、其の海を號(なづ)けて、馳水(はしるみづ)と曰(い)ふ。
(日本書紀巻第七より)

さて、書紀によると、相模国に入る直前の段は有名な草薙(くさなぎ)の剣で草を払ったという焼津の向火のシーンなのですが、そこから相模国までにあるはずの駿河湾・伊豆半島を大和武尊がどのように通過したのかが全く記述されておらず、しかも途中で嫌でも目にするはずの富士山の記述が一切ないのです。

以上のような不可解な点を無視して現代地図に落とすとその行程は大雑把に次の様になるでしょうか?

画像4:現代地図で考えた小海
  富士山も伊豆半島もスルー?

そうすると、小海は現在の東京湾浦賀水道付近ということになり、確かに神奈川県の横須賀市に走水(はしりみづ)という地名が残っているので何となく辻褄は合ってるように感じます。しかしそれでは、沼津や長野の小海にどんな関連性があるのか分からず、結局、地名の謎は謎のまま残ってしまうことになります。

ところがです、私が参考にしている別の史書、「秀真伝(ホツマツタエ)」によると、相模国より一つ前段の焼津と思われる場所の位置が書紀と違うだけでなく、大和武尊の活動内容までが全く異なるのです。また、そこから相模国なる国の位置関係の解釈にも修正が迫られることが分かるのです。

それでは日本書紀と秀真伝は全く違うことを書いているのか?良く調べたところ、日本書紀に書かれている「焼津」とは暗号地名であり、実は秀真伝と同じ場所を指していたことが分かったのです。

しかし、それだけではまだ小海の謎が解明できる訳でなく、これに呪術的解釈を施すことによって、どうして沼津と長野の地に小海という名前が使われたのか、その意図がくっきりと明確に見えてくるのです。

謎の解明については次回以降の話題といたしますが、それはフォッサマグナがこの海関連地名の分布に重なることと無関係でないばかりか、現代の123便事件とも深く関わることを、ここで予告としてお伝えしておきます。

 * * *

画像2の甲府盆地周辺のプロットを良く見てください。盆地内の低地を取り囲むように「津」の字の地名が取り囲んでいます。つまり、かつて船着き場がそこにあったことを示す一方、低地一帯が一つの大きな水域であったことを彷彿とさせるのです。

昨日4月13日より山梨県警が県境の検問を強化し始めたとの連絡が、複数の現地の方から入っています。一般的なコロナ対策とはまた違うようなのでこちらで調べたところ、こじつけでも何でもなく、この旧水域問題と絡んでいることが分かってきました。

決して不安を煽る意図はないのですが、甲府市街地にお住いの方は、いざという場合にはすぐに高地に避難できるよう準備しておいてください。高地の基準は北杜市の小渕沢(標高800m)くらいが目安となります。

明後日(4月16日)発行のメルマガではこれから何が起きそうなのか、少し突っ込んだ情報を提供したいと思います。


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管理人 日月土

異形の人々考

この2か月、世間は新型コロナウィルスで大騒ぎです。報道などではこの騒ぎの負の面を強調しがちですが、国の危機と言うなら、改めてこの国=日本(にほん)とはどんな国なのか、そして、どのように成立したのかを考え、知見を深めることが重要ではないかと思います。

今回はまず、海外記事のご紹介から始めます。こちらのサイト、宇宙人だとか、超常現象を扱う、いわゆるオカルト系に分類されるちょっと注意が必要なサイトではありますが、こと超古代系に関しては歴史考察上見るべきものがあります。

まずは記事(和訳:日月土)をご覧ください。

スミソニアン協会、ついに巨人の骨やその他の証拠を隠滅した事実を告白するのか
2020-03-25

合衆国最高裁判所はスミソニアン協会に1900年代初頭からの機密文書を開示するよう命令した。どうやら同協会が主要な隠ぺい工作に関わっていたらしい。

同文書は米国全土で発見された巨人の遺跡について書かれたものだ。


複数の新聞が、人類進化の定説を守るため、これらの発見を遺棄するよう命令されたことを伝えている。

これらの真実はスミソニアンの内部告発者グループによって確認され、彼らは文書の遺棄により、身長3.6mにも届く数千もの人骨の存在を示す証拠が永遠に失われることになると表明している。


13メートル(*)もの長さの人間の大腿骨が巨人が存在した証拠として示されたとき、それは起きた。 その証拠は1930年代にスミソニアン協会員によって盗まれ、それからずっと彼の元で生涯の間保管されていたのだ。


その時点に遡り、合衆国最高裁判所はスミソニアン協会に対し、自国の文化と歴史にとって重要と考えられる証拠類の破棄、それに関するあらゆる機密文書を開示するよう命じた。


*訳者註:写真から13メートルは1.3メートルの誤りと思われます。一般的な米国人はメートル法の尺度感覚があまり強くありませんので

引用元:KNOWLEDGE TIME Smithsonian Finally Confess The Destruction of Giant Skeletons and Other Evidence

本件に関して、いつどのような判決が出たのかについては特に裏を取ってはいません。今回の引用で注目すべきは、米国では昔から、巨人の骨が見つかっては隠され続けているとの噂が絶えないことです。

これは米国大陸だけの話かと思ったら、実は日本でも東日本大震災の時に土砂崩れで巨人骨が露出したのでは、と話題になったことがありました。

画像1:動画「【巨人】日本で発見されたとされる巨人の画像」より

私は、日本航空123便事件の真相を追い続けて、つくづくこの国は、またこの世界は隠し事が多いなと、もはや驚きを通り越して呆れ果てています。この巨人種の話題もその中の一つであります。

なんで巨人種のことを隠すのか、その理由を考えた時、巨人種の存在を認めると次のような問題が生じてしまうことが分かります。

 (1)人類進化の問題
 (2)古代の地球環境の問題
 (3)歴史解釈の問題

■人類は本当に猿から進化したのか?

(1)の問題は、まさしくダーウィンが提唱した種の起源の根幹に関わる問題です。この進化理論の中で、巨人種の存在を認めてしまうと、巨人種の派生元もさることながら、我々人類の進化系統について大いに議論となることは間違いないでしょう。

このブログは「日本の成立史を考察する」ことがテーマですが、人類進化の問題に触ると、これはまさに「人類成立史」という根本的課題に発展することとなります。こちらも私たちにとっておろそかにできない重要事項ではありますが、ひとまずこれは置いておきます。

■古代の重力は今より軽かった?

(2)はさらに重要な課題を私たちに投げかけることになります。画像1を見る限り、頭部だけで少なく見ても1.5メートルはあるでしょう。全身を6頭身位と見積もれば、身長は9 メートルということになります。

全高だけで現人類の5倍強ですから、体内組成を現人類と同じと考えれば、体重は5の3乗倍、125倍となります。

身長180㎝の現人類の平均的体重が70キログラムとすれば、なんと、この巨人さんの体重は8,750キログラム、9トン近くも体重があることになります。

足裏の面積は5の2乗倍しか増えませんから、足裏の単位面積当たりに掛かる体重は5倍になります。これは私たちが自分の体重の4倍の重量のダンベルを担いだ状況を想像するとよいでしょう。それを持ち上げられますか?そもそも組成自体が現人類と同じなら、これだけの重量を脚が支えきれるのか、支えられたとしても満足に歩行できるのかという問題が生じます。

このような物理学的見地に立つと、この大きさの巨人種が存在することはまず否定されるのですが、それでもこれだけの大きさの骨が実際に出てきたとなると、客観的に考えて次のような仮説を想定しなければならなくなります。

 古代地球の重力環境は現在と異なる

これはたいへんなことです。だって、私たちは古代世界を推し量る時、すべからく世界の物理的環境は現在と同じであると想定しているからです。ここが崩れると、人類の進化論どころではなく、地球史観そのものに大きな変更を求められることになるからです。

■巨人は比較的最近まで存在したのでは?

巨人が存在していたとしても、記録に残らない遥か遠い昔の話だったら、まだ頭の中で整理が付きます。しかし、画像1はまた別の事実を突き付けるから問題なのです。

一般に、日本の酸性土壌では腐食の進みが早く、人骨は2000年も経つと原型を留めるのが難しいと言われています。ところが、画像1に写る人骨はその表面の質感まできれいに原型を留めています。

この状態を見ると、この骨はどんなに古くても数百年程度しか経っていないと考えられ、それはだいたい鎌倉時代(1200年代)から戦国時代(1500年代)の間であろうと、ざっくりと見積もれるのです。いわゆる中世の時代です。

私たちが学校教育で学ぶ歴史にはもちろん巨人種がいたなどと書いてはいません。しかし、その時代くらいまで巨人種がいたとなると(1)、(2)の問題も含め、私が扱おうとしている古代(1700年くらい前)、そして超古代(それ以前の神話時代)の時代にも巨人種が存在していたことを想定しなければ、真の日本成立史を考えることにならなくなります。

つまり、巨人種が存在することによって生じる(3)の問題は、このブログにとっても無視できない問題なのです。

画像2:エクアドルの博物館で展示されている身長7mの巨人の骨
20+ Foot Tall Ancient Giant Skeletons On Exhibit for World to See ECUADOR GIANTS. | 2017 より

■歴史における異形種問題

巨人と言えば、民話などに現れる「だいだらぼっち」が有名です。その足跡が湖となったとか、運んだ土塊が山になったとかいう伝説は全国に数多く残っています。

果たしてそれが、昔の人々の際限無き空想であったと決めつけるのは、もしかしたら歴史解釈上の大きな見落としなのではないでしょうか?すぐに現実と受け入れられない話を即座に空想の産物と見なすのは、現代社会しか知らず教科書的な歴史的事実しか知らされていない、それこそ私たちの勝手な空想なのかもしれません。

上述した(1)~(3)までの諸問題が考えられるように、巨人種の存在を認めることは、現代科学、歴史学の解釈を根底からひっくり返す可能性があるのです。だからこそ、米国スミソニアン協会は、その事実が表に出ないよう、必死に隠そうとしているのではないでしょうか?

本ブログ記事「ダリフラのプリンセスプリンセス」では、歴史上の人物である神武天皇、そしてその双子の皇后であるタタラヒメ、イスズヒメ(ヒミコ)に実際に角(つの)があったのではないかと予想しています。そして、その事実を隠すため、また印象を歪めるために、鬼退治や豆撒きなどの鬼の存在を悪と見なす、あるいは否定する風習が作られたのではないかというのが、私の考えです。そして、米国スミソニアン協会の日本版こそが現代の日本仏教界であり、神社本庁なのではないかと思われるのです。

現代人と見た目が異なる異形種の存在、それを否定しようとする考え方は「鬼」だけでなく「巨人」にも当てはまり、本当の古代の姿を私たちから遠ざけるために後から広められたものではないか?ならば、この問題を掘り下げることこそ日本成立史を知る大きな鍵となるかもしれません。

 * * *

明日発行のメルマガでは、本記事の解説の他に、時事の中心話題となっている新型コロナウィルスについて、その学術記号となっている「COVID-19」に込められた暗号の意味、及びその古代史的解釈について解説したいと思います。


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管理人 日月土

言葉は呪術-古代史探求のセオリー

日本書紀・古事記(記紀)が、実在する神武天皇以前の歴史を神話と言うファンタジーに付け替えてしまったのだろうという話は何度かここで出しています。また(新)ブログでは、記紀に書かれた神武東征伝は作り話(デタラメ)であり、そこに書かれている皇位継承の記録も正しいとは言えない、つまり古代期においてすでに万世一系という神話(のようなもの)も崩れているだろうと指摘しています。

今後、この辺の話を詳細に進めようと考えている訳ですが、古代史の話を記述するにあたり、まず使用する用語を明確にするべきだと思い、用語について大まかに約束を決めておきたいと思います。

現在の歴史学だと平安以前は古代に一括りにされてしまうようなので、神武以前と、記紀が扱う範囲、それ以降の古代を明確に区別するために次のように分類しました。

 (1)神武天皇より前の時代: 上代
 (2)初代神武天皇から15代応神天皇まで: 上古代
 (3)16代仁徳天皇から25代武烈天皇まで: 中古代
 (4)26代継体天皇から41代持統天皇まで: 下古代
 (5)42代文武天皇以降: 記紀後古代

神武以前が神話でなく実在の歴史であることを強調するため「神」という字は敢えて外すようにしました。なお、飛鳥時代という時代区分は「奈良の飛鳥に王朝があった」という決め付けに繋がるので、ここでは採用しません。それより一つ前の古墳時代も、いわゆる墳墓(マウンド)が作られ始めたのはそれよりもかなり前からなので、あまり積極的に使いたくない呼び名です。

そうすると、歴代天皇の代で機械的に分類するのが今のところは適当なようです。もちろん、歴史の連続性を考えたらこんなに単純に区分できるはずもなく、これはあくまでも表現上の便宜的なものだと思ってください。

なお、私は古代史で従来使われている縄文時代・弥生時代という分類はしません。縄文・弥生はあくまでもその生活様式の違いを表しているだけで、本当にそれが時間的変遷を表しているとは言い切れないからです。

最新の研究によると、縄文様式も弥生様式も同時期に点在して存在していた痕跡が年代測定などから認められており、どうも縄文時代や弥生時代という時代の区分けは正しくないことが分かってきています。要するに

 大陸から渡ってきた弥生式文化に西方から席巻された縄文文化

という概念はもはや通用しなくなりつつあるのです。この概念は、文明とは

 大陸から一方的に日本列島へ渡ってくるという先入観

や確証の無い思い込みを生み出してしまいます。私は日本の史書を疑わしく思うのと等しく、中国の史書や朝鮮半島の史書もかなり疑わしいと見ています。そもそも当時の記録家が史実を偏見無く正確に記述できたと考えること自体が誤っているのです。

これに加え、現代に残された史書とは何度も写本を繰り返されているのが当たり前であり、オリジナルが正確に転写された保証もなければ、その過程で悪意のある改ざんが行われたことを確かめる術もありません。

ですから、中国史書に裏付けられた日本の上代・古代の年代特定は十分に気を付けなければならないのです。例えば、多くの歴史解説書はヤマタイコクのヒメカ(ヒミコ)は248年に死去と何の疑いもなく書いていますが、実はその数字こそがすこぶる怪しいのです。

そんなことを言いだしたら、どうやって歴史検証すればいいのだ?確かに悩ましい問題ではあります。

遺跡だって必ずしも当てにならない

古代史を検証する上で、確実性の高い手法の一つが遺跡や出土品による時代背景の推定です。おそらくこれ以上に正確な証拠は他にはないでしょう。しかしです。知人である発掘研究者のC氏によると

“埼玉県の稲荷山古墳の出土品なのですが、そこから出た鉄剣に刻まれた銘文が問題なんです。実はそれが日本書紀の記述が示す内容そのままなんです。発掘の世界の常識では、史書とピッタリ合う例と言うのはほとんどなく、かえってその正確性が疑わしい。ぶっちゃけ、わざわざ証拠になるようそこに残されたのではないかとすら考えられるのです”

1000年以上前に書かれた記紀がわざと偽史を正史と装うなら、その頃から記述に合わせた偽装工作が古墳などの遺跡類に対して行われていたと考えても、確かに矛盾はありません。

引用元:東京大学総合研究博物館 記載の世界

全部が全部そうだと言えませんが、遺跡・出土品類などの物的証拠についても過信は禁物だということがこの話から分かります。そして、ますますどうしたらよいか悩ましくなります。

敢えて偽書として読む

ここまで書くと、「これじゃあ歴史的真実なんか調べようがないじゃないか!」と諦めに近い思いが込み上げてくるのですが、唯一取れる手法とは、前回の記事「ダリフラのプリンセスプリンセス」でも採用した、記紀などの史書を敢えて偽書、あるいは暗号の書として読むという方法です。

どういうことかと言うと、本当に正しい歴史を伝えたくなかったら、史書そのものを全く残さなければいい。それでも、偽書が現代まで残されているということは、後世代の歴史認識をどこかに誘導させる為なのでしょうが、誘導するというなら正史をだれかが把握してなければその目的自体が達成され得ません。

要するに、世の中の全員が偽史しか知らない状態になってしまうということは、偽史を創作する意味そのものが失われてしまうのです。だから必ず正史はどこかに残されている。もしかしたら、まだ世に出てない確度の高い史書があるのかもしれませんが、どうせ偽史を編纂するなら、その中に暗号として事実を落とし込む方が二度手間になりません。

私はここで、日本書紀と古事記という似たような二つの史書が同時期に編纂されたことに注目します。両者似たようなことを書いていますが、造化三神の名前が違っていたり、万葉仮名の表記が違ったり、出雲の説話など片方にしか存在しない項目もあります。同時期に書かれたものにこれだけの違いがある、おそらく、この違いのなかに巧妙に隠喩が組み込まれているのではないか、そう考えるのです。

よって私は、「日本書紀はデタラメだ!古事記はデタラメだ!」と言いながらも、実はこれらの史書を頼りにして、斜に構えながら古代正史を読み解くという手法を取るのです。

そして、この二書を補強するのが次のニつの史書です。世間ではどちらも偽書扱いですが、記紀だってそれは同じなので、私は同等に扱います。

 ・先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)
 ・秀真伝(ほつまつたえ)

そして、私には他の研究家にはない強みがあると思っています。それは日本の呪術思想について多少は理解があることです。なんといっても、古代日本人にとって

 言葉とは呪術の一部

なのですから。歴史は言葉によって綴られます。ですから、そこ(呪術思想)から読み解ける解釈も必ずあるはずなのです。

 * * *

今回は前置きだけの文になって申し訳ありません。しかし、これが私の考え方なので、この点を予めご理解いただくと今後の齟齬が少なくて済むのではないかと思います。

上記分類中の上古代は特に重要で、現在のコロナウィルス渦も含め、現代日本が抱える重要諸問題は、実はこの時代に原因があるものが少なくないのです。次回メルマガ2号ではその点にも少し言及したいと思います。


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管理人 日月土

ダリフラのプリンセスプリンセス

今月の節分の日、久しぶりにダリフラ関連の記事を(真)ブログ「ニッポン人だけが豆まきを祝う」の方で書きました。そこでの結論を以下に再掲します。

 (1) 主人公ゼロツーのモデルは古代女王のヒミコである
 (2) ヒミコとは神武皇后のヒメタタライスズヒメである
 (3) 上(1)(2)よりヒミコにはゼロツーと同じく角がある

そして、(新)ブログでも記事「DIAMOND PRINCESS」において、掲載同日、日本で進行している事柄と関連してヒミコを取り上げ、そこで次のような想定を用いています。

 (4) ヒミコは双子の姉妹である

ここで、(2)の項目に関しては説明不足であるとは認識していますので、これについては、同説を教授して頂いた知人の研究者と詳細を詰め、なぜヒミコがヒメタタライスズヒメと比定され得るのかについて、後日説明申し上げたいと思います。

ヒミコとは誰か、これまでの議論

ヒミコに関しては、様々なヤマタイコク本がどのような人物であったかを推測しており、その代表的なのが次の2点ではないかと思います。

 A. 天照大神説
 B. 神功皇后説

どちらも記紀に登場するキャラクターで、A説は言わずと知れた太陽神、皇室の祖先と崇められ、伊勢神宮で主祭神として祀られている有名な神様です。

そして、B説は女性ながら日本の三韓征伐軍を率いた傑女として描かれた、14代仲哀天皇の皇后であるオキナガタラシヒメを指すとするものです。

A説に関しては、神道における絶対神のアマテラスさんを、神格化を否定し実在人として捉えたまでは良いのですが、そのまま女性と解釈するところに大きな誤りがあります。ホツマ伝の記録では

 アマテラスは男性

とされ、アマカミ(現在の天皇)の地位にあったとされています。当然ながら后に女性(ムカツヒメ)を娶り、後代アマカミのオシホミミを授かります。

ホツマ伝の記述が必ずしも絶対的事実とは言えませんが、少なくとも神格化を否定したのならば、性別についてもその作為性について疑うべきでしょう。世界の神話においても、北欧神話などを除けば太陽神は男性であることが主流です。この点で最も興味を惹く事実とは、むしろ

 どうして太陽神の性別を女性としたのか?

そして、

 どうして天の岩戸開きなどという寓話を挟んだのか?

という日本神話の特異性そのものなのです。

天照大神の天の岩戸神話
画像1:岩戸開き神話(春斎年昌画、1887年)

B説については、その実在可能性については女性アマテラスさんより高いのですが、如何せん、中国三国時代に使者の行き来があった(魏志倭人伝)とされるヤマタイコクのヒミコが、それより100年以上後の三韓時代の皇后とされるオキナガタラシヒメと同時代と見るのはやはり無理が多いと思われます。

なお、魏志倭人伝はヤマタイコクの存在事実を攪乱するために後代の日本で書かれた偽書とも考えられますので、そこに記載されている年代についてはちょっと注意が必要ですが。。

どちらにせよ、A説、B説共に説得力に欠け、その実体は、何となく古代史に登場するヒロインをヒミコに当ててみたといったところでしょう。積極的な証拠がないという意味では私も似たようなものですが、それについては読者の皆さんがそれぞれご判断頂ければよいかと思います。

■アニメに描かれた双子の関係性

これ以降の話は、ヒメタタライスズヒメ=ヒミコ、と解釈する前提で進めます。(新)ブログでは、

 ヒメタタライスズヒメ = タタラヒメ & イスズヒメ

つまり、この姫は二人の姫(プリンセス・プリンセス)を表し、おそらく双子であろうと述べている訳ですが、名前をこのように分けた理由について説明すると

 タタラ=多々良 → 製鉄
 イスズ=五十鈴 → 鉄鉱

と、それらがお互い関連し合いながらもそれぞれ独立した意味を持つからです。ここから、神武天皇の時代は鉄、または鉄器が極めて重要視された時代だったのであろうと窺い知る事ができます。

さて、この関係を、ちょっと無理目ではありますが、アニメの設定に置き換えてみましょう。

 イスズ → 地下に眠る原石
 タタラ → 地上で原石の力を引き出す

ですから、つまり

 イスズ → Code:001 地中に潜む叫竜(きょりゅう)の姫
 タタラ → Code:002 地上人として能力を開花させたゼロツー

そして何より

 ゼロツーは叫竜の姫の遺伝子から作られたクローン人間

つまり、二人が同一遺伝子を持つ存在として描かれていることに注目です。これは

 二人が双子であること

の暗示的表現と捉えることができます。この部分だけでも、このアニメの制作者はヒメタタライスズヒメ(ヒミコ)が双子であったことをよく知っているなと、感心してしまうのです。

画像2:叫竜の姫とゼロツー
XXのペアは二人の女性を表す
画像3:ダリフラは初めから双子のプリンセスの物語として意図されていた
FLANXXの「XX」は女性の染色体を表す

知るべきところには知識は伝承されている。それを思うとヤマタイコクを巡るこれまで数十年間の議論自体が何だか虚しく聴こえてきますよね。

■ナインズは欠史代天皇の象徴

前回のダリフラ関連記事「太宰府で繋がる新元号とダリフラ」で、私は、登場人物のナインズ(NINES)が、ゼロツーがカウントされていないので9人でなく8人しか描かれていないが、

 実はこの8人構成に意味がある

と表現しました。ここまで書けば後はもうお分かりでしょう。ナインズの8人にはゼロツーの遺伝子が組み込まれているという設定ですから、つまり、ナインズとは

 ゼロツーの血を受け継ぐ者たち

すなわち

 ヒメタタライスズヒメの子孫たち

という事実の象徴であり、すなわち

 綏靖から開化までの欠史代天皇

を表現しているのです。ゼロツーのパートナー、ヒロ(Code:016)は神武天皇をモデルにしたとみなせますし、ストーリーの最終回ではナインズと共に戦っているので、ここからナインズの真のメンバーとは

 ヒロとその他のメンバーたち

つまり

 初代神武天皇、及び綏靖から開化までの天皇八代

を表しているのは間違いないでしょう。そして、全てのメンバーに有角遺伝子が引き継がれてたのですから、彼らの事を

 九鬼(くき)

とも呼ぶのです。そして、ヒミコと同じくやはり本当に角がある人間であったと考えられます。寺社用語として時より登場する「九鬼」という言葉は、初代から第九代までの歴代天皇のことを表し、すなわち、日本風水における独自の「鬼門」の設定や、寺社でこの時期に実施される節分の豆まきとは

 日本建国の古代王たちを呪う

という意味であり、後の反日的陰陽師、僧侶、その他祈祷師等によって開発された呪いの儀礼なのです。なぜここまで九鬼が嫌われるのか?そして現皇室との関係は?それについては記事を改めて推考を進めたいと思います。

* * *

その国の歴史を知ろうと思うなら、その国の宗教を知らねばならないと良く聞きます。しかし、日本の場合は、それよりも更に、宗教の奥底に潜む呪詛の思想、呪詛の技術を知らなければ、とてもじゃないですが過去起きた出来事の真意など掴むことはできません。

一見くだらないような言葉の組み合わせにも経験に裏付けされた心理操作のテクニックが詰まっており、それを巧みに操って、個人や集団を意図する方向に誘導することができます。記紀が編纂された本当の目的とは、子孫の代に渡って日本人の思考を支配するためではないかとすら思われるのです。

ダリフラというアニメはその描画表現と言葉のテクニック用いて、国内の一部にだけに残されている歴史の真実を、作品を通して視聴者に開示しようとしているのではないか?そう思える節が数多く見て取れるのです。

ヒミコの居た古代から現代にまで繋がる「双子の姫=プリンセス・プリンセス」の呪い。現代版のそれについては私たちにとってたいへん生々しい内容を含むため、これまで詳細をぼかしてきましたが、3月1日に開始するメルマガ第1版ではその細部をブログに先行して詳しくお知らせすることにしました。しばしお待ちください。

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古代を隠すコピー地名

昨年の記事「地名が語る古代史」では、同名の地名が全国に幾つも存在し、そもそもどれが地名の起源となったオリジナルなのか簡単に判別するのは難しいことをお伝えしました。ここでは、オリジナル以外の歴史的に後から付けられた地名を「コピー地名」と呼ぶことにします。

日本古代史において、文献を解釈するにあたり地名は重要な要素となることに異論はないかと思います。例えば、次の地名を目にした時、読者の皆さんは日本のどの土地の風景を思い描くでしょうか?

 (1)伊勢
 (2)出雲
 (3)春日

日本史に詳しい方ほど次の様に連想しがちなのではないかと思います。

 (1)伊勢 → 伊勢神宮 → 三重県伊勢市
 (2)出雲 → 出雲大社 → 島根県出雲町
 (3)春日 → 春日大社 → 奈良県奈良市

そして、(4)富士山と聞けばほぼ誰もが静岡県と山梨県にまたがる、あの雄大な富士山を思い浮かべるに違いありません。

図:左から伊勢神宮、出雲大社、春日大社。いずれも神不在の神社。

古文献にこのような地名が登場すれば、まず間違いなく第一印象としてこれらの土地を想起し、その印象に従って仮説を組むはずです。しかも、これらの土地には全国に名の知れた古刹・名山が現代も残っているのですから、そこが文献に現れたその場所であることは、まず疑いのない事実として確信されるのではないかと思います。

ところが、漢字で「伊勢」と書く地名が全国にどれだけあるか調べてみると

 市町村名レベル: 3県 4ケ所 (群馬県伊勢崎市、神奈川県伊勢原市など)
 地域名レベル :29県84ケ所 (宮城県石巻市伊勢町、佐賀県佐賀市伊勢町など)
 (2017年郵便番号データベースから)

など、全国的に同地名が使われているのが分かります。加えて、近代化以降整理されてしまった旧地名や、路地名など住所表記として使われないものまで含めると、いったいどれだけの「伊勢」が全国にあるのか分からないというのが現実です。

例えば、現在福岡県庁がある辺りは、旧土地名で「伊勢町」と呼ばれていたことが、古地図などを見ると確認できます。

しかも、伊勢神宮は全国にその分社がありますし、江戸時代には空前の伊勢参りブームが起きたとも言われてますので、伊勢神宮の名前にあやかって後から地名が付けられたケースも多いかと思います。

図:自作の地名検索ページで関東地方にある「伊勢」の地名を調べた結果。
性能上の問題があり、現在、関係者にのみアドレスを公開しています

本来ならば、これらの地名を冠する全ての土地を調べてから、古文献上の伊勢を特定しなければならないのですが、多くの歴史学者は現在の伊勢神宮のある三重県伊勢市をオリジナルの「伊勢」と決めつけてしまっているようです。

同じように、富士山の記述についても、現在の東海地方の富士山を指すのかどうか、どうも怪しいというお話は(真)ブログの「ラブライブ、忘れちゃいけない田子の浦」で述べています。

気を付けなければならないのは、記紀が神武天皇以前を「神代」と称してうやむやにしているように、古代から現代に至る日本の国史編纂者は、どうやら伝統的かつ意図的に国史を改ざんしていると見られることです。

つまり、コピー地名を全国に複数作り、オリジナルがどこにあるのか特定できないようにしているとさえ考えられるのです。その戦略が背後にあると見立てれば、伊勢神宮や出雲大社、春日大社などは、むしろ歴史のかく乱要素として長期戦略的に建立されたランドマークと考えなければなりません。

神武以前の皇統記を記述している「ホツマ伝」では、「ヒタチ宮」さんがふらっと「イセ宮」さんを訪ねるシーンが記述されています。これを言葉のイメージ通り正直に

 茨城県日立市 → 三重県伊勢市

と解釈すると、このイセ宮さんはどんだけ脚が速いのだということになってしまいます。飛行機でも使ったのでしょうか?これは冗談ですが、ホツマ文献研究者の池田満氏も同じトラップに嵌っているようで、結局、京都・奈良中心の大和朝廷というファンタジーから一歩も抜け出せないままとなっています。これは非常にもったいないことです。

この一点だけ考慮しても、次の様な仮説の方がまだ信憑性があると思うのですが如何でしょうか?

 伊勢とは群馬県伊勢崎のことではないか?

そして、伊勢崎市とその周辺には、下記のように関東を代表する大規模古墳があるのは古代史好きならよくご存知でしょう。

 ・お富士山古墳(群馬県伊勢崎市)
 ・太田天神山古墳(群馬県太田市) ※関東最大の前方後円墳
 ・八幡塚古墳墳(群馬県高崎市)
  等々多数の古墳群がある

関東の大古墳は皆「地方豪族の古墳」で片づけられていますが、その豪族が何者であるかという説明は聞いたとがありません。いわゆる天皇陵と同じ規模、同じ形状の大古墳を建設している事実から、その古墳の主とは豪族などという訳のわからない存在ではなく、大土木をまとめあげるだけの権威を有していた存在、すなはち

 古代天皇または古代天皇家の血縁者

とするのが、より合理的な説明なのではないでしょうか?そして、古代天皇と縁のあるそれらの土地土地こそが、古文献に記述された本来の所在地だと認めることで、謎とされてきた古代の様子がはっきりと見えてくるのだと思うのです。


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三国志の呪い

今週初め、前からちょっと気になっていた場所を訪ねました。こちらのブログでも紹介した、愛知県田原市にある「阿志神社」です。この社の瓦には、ハングルに良く似た神代文字が使われており、ハングル読みではっきりと「アシ」と書かれている点を指摘しました。知人の調べによると、神代文字のアヒル草文字読みでも同じく「アシ」と発音されるそうです。

阿志神社-7月9日撮影

三方原の赤土

神社のある場所までは公共交通機関だと行きにくいので、浜松から知人の車に乗っての移動となりました。

浜松には三方原(みかたはら)という、台地が浜松市街地の西方に広がっています。織田・徳川連合軍が武田軍に敗れた「三方ヶ原の戦い」で知られた場所です。浜松起点ということで、今回はまずこの三方原を訪れました。

文献によって「三方ヶ原の戦い」の戦闘内容や規模はまちまちであり、実際ここで何が起きたのかは知る由もありません。個人的には戦国物には誇張が多く、そもそも日本通史における戦国ストーリーそのものに出来過ぎた感があると前から感じています。ある程度確実な事実があるとすれば、おそらく、合戦場所と記載された土地で多くの死者を生み出しただろうということくらいでしょうか。

この三方原台地の特徴は、一面に広がる黄色い土です。分類上は粘土分を多量に含む「赤土」とされており、耕作にはあまり向いていないようですが、馬鈴薯(じゃがいも)の生産地として知られています。含んだ水の量にも拠ると思いますが、その色合いは黄色がかった赤、あるいは赤味かかった黄色と呼ぶべきものです。埴輪の色と呼んでいいかもしれません。

三方原の赤土

この台地の不思議な点は、この特異な赤土が浜松西方にしか見られないことです。天竜川を挟んだ対岸の磐田市側の台地は普通の土色のようです。浜松市の中心部が鎮座する平野部は、一般的に天竜川が形成した扇状地と考えられますが、実際には南北に縦長の方形で、少なくとも浜松市北部は扇状と呼ぶには無理があると感じます。

とにかく衛星写真から見下ろしても、三方原の土色は際立って赤味が強く、その色合いも浜名湖北部の気賀付近になると途切れています。どうしてここだけ、地質が周囲とこれほど異なるのか、これは前から疑問でした。そこで、何か手がかりをと思い、とりあえず台地の上に築かれた三方原神社を訪れたのです。

浜松の平野部と三方原
航空写真でも土の色が他と異なるのが分かる

住宅地の中に比較的広い敷地を構えるごく普通の神社でしたが、陰陽道的に鑑定を行った結果、興味深いことが幾つか分かりました。専門的かつ煩雑になるので詳細については省略しますが、何故ここが「三方原」でなくてはならないのか、そして何故この地で「三方ヶ原の戦い」があったことにされたのか、それらの答に繋がるヒントを得ることができたと思います。

三方原神社

  ミカタハラ ハニミワタシテ ササグウタ

  コノオツチ コノアカツチヘト
   カミシメシ イマヨリイダク 
   アメメグミ キヨキミクニノ
   ヒトトナラムヤ

遠州灘の奇妙な海岸

この後、浜松市と湖西市を抜けて愛知県側に入り、県道42号線を通って豊橋から田原へと向かいます。42号線は緩やかなアップダウンが続き、視界には森林と畑が広がる、たいへん長閑な道です。地図上は遠州灘の海岸に沿って走っているのですが、南側に丘陵が続き海を見ることができません。そこで、田原に入る少し手前で脇道に入り、海岸線に出てみることにしました。

丘陵を抜けると、曇天ではありましたが目の前には遠州灘を一望できる砂浜が広がっていました。波も出ており、若干名のサーファーさんがすでに浜辺に佇んでおられました。非常に美しい風景なのですが、何か引っ掛かるものがあります。それは何だろうと周囲をよく見渡したところ、それがこの海岸を形作る地形であることに気付きました。

遠州灘と砂浜、右に切り立った丘陵

県道が通っていた丘陵よりもさらに高い丘陵が海岸近くまで迫り出しており、それが海側でストンと切り立っているのです。もちろん、海側が切り立った地形などいくらでもあるのですが、多くの場合それは波に浸食されたケースでしょう。ところが、ここは重機で削ったように丘陵が海岸線で途切れ、なんとその前方に狭いながらも砂浜が広がっているのです。しかもこの形状が20km以上は続いています。こういう地形はちょっと初めてです、他にもあるのでしょうか?

渥美半島の気になる海岸線地形
渥美半島断面のイメージ

阿志の字を考察する

阿志神社に到着する前に気になるお寺があったので寄ってみましたが、そちらは省略します。さて、同神社の境内は比較的狭いものの、社は手入れが行き届いており、全体として小ざっぱりした清清しい印象を受けます。どこにでもある普通の神社と言えばそれまでですが、やはり注目すべきは「アシ」と刻まれた丸瓦でしょう。そして瓦の縁に刻まれたもう一つの文字列は左から「ロシヤ」(右からだと「ヤシロ」)と読めるそうです。こちらは現代ハングルでは上手く読めませんが。

〇内はアシ、口内は左からロシヤと読める
ハングルと酷似しており大陸との繋がりを感じさせる

ここからは、筆者独自の想像と分析であると予めお断りします。

いつものように、まず「阿志」の字を分析します。神代文字で刻まれた「アシ」はおそらく表音文字なので、「阿志」の字は後から漢字を当てられたのだろうと考えられます。問題なのはなぜ、「阿」と「志」なのかです。

そもそも「アシ」とは何なのかですが、神社のすぐ近くに芦ヶ池という大きなため池があり、ここから、この「アシ」の字は水辺に生える植物の「芦」または「蘆」を表してると考えられます。なお、穂を付けた芦を「葦」とも書くようです。

「葦」は日本神話において極めて象徴的な意味を持ちます。天より日の御子が天孫降臨したのも、地上界の葦原中国(あしはらのなかつくに)であり、出雲の王である大国主(おおくにぬし)が天孫族に譲った国の名前も葦原中国です。葦原中国は豊葦原中国(とよあしはらなかつくに)と表記するのが正式のようですが、この「豊」の字を田原市に隣接する豊橋市、その隣の豊川市が市名に冠している (*) ことと何か関連があるようです。

*豊:会員ページに掲載された’19年3月の調査資料に、豊川・豊橋地域がかつて出雲族が治めていた地であり、後に秦氏によって支配されたことについて触れています。また、中国古代史における秦国とは、古代秦氏が日本を統治していた時代を指しているのではないかと、かなりまじめに考えています。つまり、アヒル草文字と同じく、漢字も日本国内で発明され使用されていたのではないか、そう考えるのです。

神代期に記述された地名に関連していること、また神代文字を伝統的に使用していることから鑑みると、この神社の本当の由緒は記紀が編纂されるはるか以前に遡れることは間違いないでしょう。もしかしたら、大国主と同時代またはそれ以前の出雲国の時代、いわゆる神代期に繋がるのかもしれません。

この国において、神武天皇より前の歴史は神代と称して、人の歴史として語ってはいけないことなっています。いわゆるタブーなのですが、有ったものを無きものとするため、後世の国史関係者は様々な呪術的工作を施します。その観点から見ると、「阿志」にもその工作の痕跡があると見るべきでしょう。

「阿」の字は一般的に「ア」の音に当てられることが多いので、ここでは深く分析しませんが、「志」の字にはちょっと問題があります。まず「志(シ)」の音そのものが「死」を意味することです。それだけならまだしも「志」の字は次の様に分解されます。

 志 → 土 + 心 → 心(人)の上に土 → 墓

死と墓で二重に「既に亡き者」の意味が完成しています。そして「ア」とは「天(あめ、あま)」など古代より広く「天」を表す音ですから、葦を阿志と二字縦書きにすることで、天地を分離し、地を死に満つる土地と定義しているようにも読めてしまいます。おそらく、その意味を込めてこの字を選んだのでしょう。出雲の国譲り神話に例えるなら、

 出雲国などなかった

と呪っているようにも取れます。

さて、豊橋・豊川との関連に触れましたが、そうするとその地続きの浜松についても何か関連があるかもしれません。そこで、前述した三方原との関連を調べてみました。まず三方ですが、方角を表すなら四方はあっても三方はちょっと変です。神事の供え物に使う三方もピントがずれている感じです。おそらくこの「方」の字は方形を表すと考えられます。いわゆる四角形(口)です。丸(〇)が日の天を表すなら四角(口)は地を表すのが象形のお約束ですので、

 三方 = 三口

人の住まう地面を古来「クニ」と読みますから、この口(地)はクニと読んで構わないでしょう。その土地を統べる王がいる場合には国と書きます。すると上等式は

 三方 = 三口 = 三国

つまり、三方原は三国原の意と捉えることが可能です。そして、三国原の「原」は豊葦原中国の「原」と同じであることは特に説明は要らないでしょう。

ここから、「出雲の三国?」というよく分からない概念が生じてしまいます。いったいこの三国とは何なのでしょうか?ここで、再び「豊葦原中国」とういう文字列に注目します。そう、まだ「中国(なかつくに)」が使われていません。「中国」と「三国」の字面から何を連想するかはもう聞くまでもありませんね、それはもちろん

 三国志

です。しかも、ここでは先ほど分析した「志」の字が使用されています。三国志と言えば、西暦200年代、中国大陸で魏呉蜀三国の覇権争いを綴った一大歴史スペクタクルですが、いくら後世の小説として脚色されているとしても、あの広大な中国中原で、推定800万人程度しかいなかったとされる人口、すなわち現在の東京都より少ない人口の人々が、レーダーも自動車も無い時代に日本全土の10倍以上もある広大な領地を互いに奪い合うなんてことが物理的に可能だったはずがありません。日本の東海地方に限定した話だったら全く別ですが。

何が言いたいかはもうお分かりだと思います。

三国志は現三河・遠州地方にあった出雲三国の歴史を中国史に置き換えたもの

だったのではないでしょうか?時代的にはヤマタイコク建国とほぼ同時代ですから、これまで詳細不明だった「倭国大乱」が何であったか、三国志を読み解くことで何か分かるのかもしれません。同時に、中国四千年の歴史というのもいよいよ怪しくなってきました。

ここまでの文字分析を下図に落としましたので、参考にしてください。

言霊による「阿志」・「三方原」の呪詛分析図


* * *

以前から、三国志が何故「三国史」でないのか疑問でしたが、もしかしたら、日本式呪詛の故に「志」の字が当てられていたのかもしれません。つまり、[三国志=三国死]です。

ここでは、「出雲の三国」という仮定で論を進めましたが、もしかしたら、この三国とは次の3国のことだった、あるいは意味を重ねていたのかもしれません。

 1.ニニギノミコトの天孫国
 2.ニギハヤヒノミコトの天神国
 3.オオクニヌシノミコトの出雲国

神代の系譜を辿れば、この三国の王はいずれも天界(高天原)に通じます。すると、これら3国全てを呪う存在とは、日本人の系譜から外れた「渡りてきた人々」なのではないかと予想されます。古代史上、天に弓引く外来種族とは

 球磨国(クマコク)=熊襲(クマソ)、隼人(ハヤト)

に推定されます。ヤマタイコク建国の時から1700年、これら渡りてきた人々の血脈は既に日本中に張り巡らされているでしょう。そして、その中には日本に同化した人々も居れば、出雲国造や尾張・橘氏のように高天原三国の中から外来種族の傘下に下った人々も多いはずです。

彼らは、大陸・半島にまで血脈を広げ、日本と同様その国の偽史を作り上げた後に、血縁外交を駆使し各国の戦力を動員して、恨み多き日本を奪おうとしているのかもしれません。これはまさに、ヤマタイコク建国時に起きたとされる大乱の繰り返し(*)なのではないかと思えてきます。

*繰り返し:明治新政府がどうして薩長関係者に主導されたのか、その意味をヤマタイコクの古代史から紐解く必要があるでしょう。警察内には今でも肥後閥なるものがあると聞き及んでます。また、新札の肖像に決定した北里柴三郎は、熊襲の地、小国(オグニ)の出身者であることに注目です。

古代に何があったか、本当のところは分かりませんが、1700年も共にこの地を生きた外来人は、もはや外来人ではなく日本人です。同国人として争いの愚を避け、共に手を取り合ってこの地に生きる、そのような選択肢が必ずあるはずです。

‘19.6.30 日本の頭越しに行われた3国首脳の電撃会談
日本の血縁外交は米国政府にはお見通しなのでしょう
引用元:日本経済新聞

参考:
 Trois Royaumes – Sol sur les coeurs (三国志-心に被る土 [仏語記事] ) 
 関東の地震と故山村新治郎氏 
 巫女っちゃけん。


誠の神力を現す世と成れる
管理人 日月土

地名が語る古代史

歴史研究の中では、地名による分析も重要な意味をなします。例えば、九州に分布する地名が、近畿地方にも同じように分布しているなどは研究者の間でよく指摘されていることです。

参考:地名も地形も一致している九州・近畿・関東
  「たっちゃんの古代史とか」さんのブログより

古代人の名前に対するこだわりは、現代人のそれ以上だと考えられます。それはあたかも、自分の子供の名前を考えるのに、その子の一生を思い、時間を掛けるのと同じくらいの思い入れがあったのかもしれません。特に古代は「言霊(ことだま)」に対する感性が鋭い時代だったはずなので、機械的に土地の形状や伝承だけを根拠に名前を付けていたとは考えにくいのです(もちろんそういうケースもあるでしょうが)。

おそらくその当時の重要拠点と定めるような場所では、言葉における呪術的な要素をよくよく吟味・考慮した上で、その土地が長く栄えるように、あるいは、その土地の邪気が外界に及ばないように、シャーマンなども交えて、国家統治のための重要案件として決定されてきたのではないかと想像されるのです。

先に紹介したブログでは、九州=近畿=関東で地名と地形の共通性が見られると結論付けていますが、これが正しいとした時、どうしてそのような一致が見られるのかと、もう一段深く考察する必要があります。

例えば、「九州=近畿」の地名一致からは

 →九州で完成した国家統治の型が、近畿に転写された、あるいはその逆

と仮説を立てることができます。九州、近畿には多くの遺跡があることから、そのような仮説にもある種の信憑性が見られます。それが、邪馬台国の九州説だったり、畿内説の根拠になったりします。また、私が今後提示するように、日本の国家の根幹は九州で醸成され、神武天皇よりはるか後に畿内に移されたとする根拠にもなり得るのです。

しかし、ここで「九州=近畿=関東」となると、仮説の立て方はまた一段と複雑となります。最初の二つのエリアだけなら

 ・九州→近畿
 ・近畿→九州

の2パターンだけを考慮するだけなのですが、ここにもう一要素加わると、地名変遷の順列パターンは6パターンに増えることになります。それに加え、ある1箇所から、同時に残りの2箇所に移動したパターンも考えられ、合計9の変遷パターンを考慮する必要が出てきてしまいます。

日本の歴史教育の一般常識では、「九州神武→畿内大和朝廷→全国」で全てを説明しがちなのですが、それだけでは、どうして関東だけに地名の類似性が見られるのかが説明できなのです。そもそも、九州神武のその前が記紀が伝えるような「神代(かみよ)」とぼやかされ、九州神武より前が歴史としてすっかり抜け落ちているのが、日本の歴史観なのです。

私は、「神代→九州神武」という曖昧さそのものが、日本人の歴史認識を混乱させていると考えます。そして、その曖昧さに基く根拠無き権威が、現在まで社会に影響を与えていることを非常に憂慮します。

これは別に現皇室を揶揄しているのではなく、どちらかと言うと、神社や寺、時代時代の政治体制など、皇室権威の衣を借りて、日本社会を動かしてきた勢力に対してより大きな危惧を抱いているからです。

国民が一致して、自国を愛し、誇りに思いたいのなら、まず神武以前の歴史を明らかにすることが、急務であると考えます。宗教団体はもとより、怪しげな秘密結社や古代氏族が天皇家の権威を盾に社会の裏側で暗躍する時代は終わりにしなくてはなりません。

少々話しは逸れてしまいましたが、古代日本の真実を知る手がかりの一つとして、日本語起源の解明と同じく地名分析は有効な手法と考え、今後取り入れていく予定です。

「三輪」を含む地名の所在地
図:「三輪」を含む地名の所在地

上図には 福岡県内の旧町名である「三輪町」(現筑前町)は含まれない。残念ながら、市町村合併で伝統ある地名がこのように失われつつある。

公開マップはこちら
https://drive.google.com/open?id=1eGxpxoQCBN4Du-nmQ7qHwsg1IGQshKif&usp=sharing


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管理人 日月土


新元号「令和」と日本語起源

本日は平成31年4月30日。明日の令和への改元を前にした「平成」最後の日となりました。

令和という元号が決まった直後、万葉集に書かれた故事より前に漢籍の「文選」にそのルーツがあるとかないとか話題になったようですが、私としては、そんなことをほじくり返す前に、そもそも漢字のルーツとは何か、万葉集に使用されている日本語はどこに起源があるのかを一番の問題にすべきだと考えます。

何でそんなことを言うかと問われれば、日本語は1500年程度昔に作られた人工言語なのではないかとの強い疑いがあり、万葉集はそれから約200年後に編纂された歌集と言われてますから、新導入された日本語がやっと通用言語として当時の都市(都:みやこ)の住人の間で普及し始めた頃であると推測されるのです。

古代史を研究される方々の間では、神代文字(カタカムナ)という、現代の漢字や仮名文字よりも古い文字が日本に100種類以上あったことはもはや常識であると思います。

ホツマ文字

日本にも近い南の国、フィリピンに行くと、日本と同程度の国土面積の中に、実は100以上の言語がひしめき合っています。現在の公用語はタガログ語と英語に統一されていますが、地方に行くと、翻訳に辞書が必要なくらいかけ離れた言語が数10kmしか離れていない範囲に点在したりするのでとてもややこしいのです。

私が滞在した地域も、タガログ語が日常ではメインであっても、イロカノ語を話す人や、マイナーなパンガシナン語を話す人が集まり、中には数種類もの国内多言語を流暢に操る人も居たりしました。国語のタガログ語もフィリピン国内の一部族言語ですから、他の部族が用いるのには抵抗もある、そんな事情も含めて外国語である英語を敢えて同国の公用語に採用した経緯もあるようです。

この事実を以って日本を顧みたとき、確かに東北や沖縄など、極端に方言が強い地域はあるものの、言語そのものが違うと思うほどの差異は感じられません。実は日本語のこの言語的統一感そのものが極めて不自然なのです。

私は、1)神代文字が殆ど排除されてしまったこと、2)北から南まで2000km離れているにも拘わらずほぼ同一言語が普及していること、これらの事実から、ある時期、現代の日本語が国内政策的に全国に強制強要されたものであると予想します。

この時、フィリピンの様に既存の言語を公用語にしたのではなく、一旦それまでの全ての言語の使用を止め、新しい言語を普及させたからこそ、現代日本社会においても古い言語の痕跡をここまで排除することが可能であったのではないかと考えるのです。

■漢字は本当に中国起源なのか?

加治将一氏の小説「失われたミカドの秘紋」には非常に面白いことが書かれています。漢字の構成原理に旧約聖書の考え方が採用されているというものですが、これが絶対正しいとは言わないまでも、亀甲文字から現在のバリエーションに自然発展したという曖昧な通説よりははるかに信憑性が高いと感じます。

神代文字は、おそらく文字を神聖なものとして、主に神との交信に用いられたのではないかと考えられますが、エジプトのヒエログラフもそうであるように、古代の文字とはおそらくそういうものであったはずです。少なくとも現代の様なコミュニケーションツールとは意味合いが全く異なると考えられる訳で、漢字もそのような過程から生まれてきたとするならば、初期の文字一つ一つに神との関りが意味的に込められているはずです。

そう考えたとき、言語全般がどのように発生したのかは、全人類史を俯瞰する上で極めて重要な問題であると言えるでしょう。大陸での動きが極めて流動的だった古代世界で、果たして、漢字は中国の発明であると単純に割り切ってしまって良いのでしょうか?

つまりどういうことか?私は、漢字の発明は、実は日本起源なのではないかと考えているのです。もちろん、今充分な根拠がある訳ではありませんが、人工言語たる日本語の前身に、万葉仮名として敢えて漢字を用いたという事実、日本語としての強い親和性などを考慮すると、その可能性は高いのではないかと考えます。

そして、次の事実を知ると益々その思いは募ってくるのです


愛知県田原市の阿志神社と鬼瓦

ハングルを勉強したことがある人なら、この鬼瓦の上に書かれた文字がすぐに読めるはずです。そう

 아시 = アシ(阿志)

なのです。この文字をアヒル草文字と言う方もおりますが、伝承では豊国(トヨクニ)文字、もしくはサンカ文字と呼ばれており、日本古来の文字なのです。

私たちは通常、 大陸-朝鮮半島-日本列島 と並べたら、文明の進行方向を

 大陸 -> 朝鮮半島 -> 日本列島

の一方通行だと思いがちですが、いったい誰がそれを決めたのでしょうか?この反対

 大陸 <- 朝鮮半島 <- 日本列島

あるいは相互移動

 大陸 <-> 朝鮮半島 <-> 日本列島

もあるはずです。少なくとも、人の行き来とはそういうものであるはずです。

日本の古代史を考える上で、言語の起源も含め、大陸の圧力によって生まれた日本という歴史学上の既成概念はそろそろ打ち破るべきではないでしょうか?同時に、隣国である韓国・北朝鮮・中国を現在の国家概念でいうところの「外国」と見ていては自国の本当の歴史理解など覚束ないと言えるでしょう。


誠の神力を現す世と成れる
管理人 日月土