二人の姫を巡る探訪(その三)

前回、前々回と「二人の姫を巡る探訪」シリーズですが、主に千葉県東総地区に残る龍宮城に関わる姫神を祀る神社についてレポートしてきました。今回はいよいよその最終回となる三回目となります。

 ・二人の姫を巡る探訪(その一) 
 ・二人の姫を巡る探訪(その二) 

ここで、二人の姫を追いかけるきっかけとなった「二人の姫と犬吠埼」に掲載した関係諸神社の地図を再掲します。

画像1:龍宮城関係の神々を祀る神社(猿田神社は除く)

画像1の中でこれまでレポートしたのは

 ・編玉神社 
 ・豊玉姫神社
 ・東大社  
 ・渡海神社 
 ・海津見神社

となりますが、今回は以下の神社について取り上げようと思います。

 ・玉崎神社
 ・雷神社
 ・二玉姫神社

■玉崎神社

この神社については、実は「サキタマ姫と玉依姫」で一度取り上げているのですが、同過去記事では埼玉県行田市の前玉(さきたま)神社と千葉県に数か所存在する玉前(たまさき)神社あるいは玉崎神社と漢字の読み順が前後しているだけなので、おそらく行田の前玉神社の祭神「前玉比売」とは、おそらく玉崎神社の主祭神である

 玉依姫(たまよりひめ)

であろうとしています。

画像2:玉崎神社(千葉県旭市)

すると県名の「埼玉」はサイタマともサキタマとも読めることから、同記事で紹介したように、現在の「埼玉」という県名は、前玉姫の名を冠したもの、すなわち

 玉依姫県

と言い換えることができるでしょう。

神話において玉依姫とは、現天皇家の祖である神武天皇の母とされていますから、埼玉県とは実は非常に由緒正しい県名なのだとも言う事ができるのです。

これは余談ですが「翔んで埼玉」なるコメディ映画がこれまで2作作られていますが、その最初の作品の最後で「世界埼玉化計画」なるスローガンが掲げられています。これは別の言い方をすれば「世界玉依姫化計画」、すなわち、

 世界天皇支配計画

とも読み替えられ、そうなるとおふざけの過ぎたこのギャグ的発想も、その裏に何かシリアスな意味が込められているのではないかと急に笑えなくなってしまうのです。

画像3:世界埼玉化計画(「翔んで埼玉」から)

今回の探訪コースの中に千葉県旭市の玉崎神社が入っていたのが取り上げましたが、ここで注意しなければならないのは、どうしてこの地(千葉県東総地区)の中に玉依姫を主祭神とした神社、それも上総國二宮という比較的格の高い神社が置かれたのか、そこを考える必要がありそうです。

同神社のホームページ、「ご由緒」には次のような一文があります。

玉﨑神社は、景行天皇十二年の御創祀と伝えられている。

実はこれまでの記事で紹介した、編玉神社、豊玉姫神社、そして東大社の創建についても、景行天皇の時代、あるいはヤマトタケルが居たとされる時代のものだと記録が残っています。

前にも書きましたが、豊玉姫・玉依姫の二人の姫の時代から数百年後の世代が、どうして祭神に二人の姫を選んだのか?その理由がよく分からないのです。私のつたない憶測についてはメルマガで既にお伝えしていますが、簡単に言うと、二人の姫が実在していたと思われる時代は、二つの天皇家が並立してた二王朝時代だったことが、何か大きな要因だったと考えられるのです。

■雷神社

雷(いかづち)神社は元々旭市内ではあっても、元々椿海(つばきのうみ)であった低地ではなく、東の銚子側の丘陵地帯に置かれた神社です。

画像4:雷神社

その祭神は

 主祭神:天穂日命(あめのほひのみこと)
 併祀神:別雷命(わけいかづちのみこと)

となっており、一見龍宮城神話と関係あるのかと思われるのですが、別雷命とは、史書によって三嶋神、賀茂建角身命、八咫烏、彦火火出見尊と様々な別名で表記されていることが分かっており、この中で彦火火出見尊とは、まさに龍宮城に出向いたとされるその人ですから、実は無関係とはいえないのです。

同神社の由緒と祭神については、同社のホームページに詳しいので、そちらを引用します。

主祭神の「天穂日命」は、素戔嗚尊(スサノオノミコト)が天照大神と誓約した時生んだ男神五神の一柱で、その御子建比良鳥命は「出雲の国ゆずり」の後、香取・鹿島の両神と共に東国へ参られた。後に、その御孫の久都伎直(くずきのあたえ)が下海上(しもつうなかみ・海上郡、香取郡、匝瑳郡の一帯)の国造となり、この一帯を統治した。そして自らの祖神である天穂日命をこの地に奉祀したとも伝えられている。なお、出雲国造の祖神も天穂日命で、出雲大社はその子孫が歴代宮司として、大社創建から今日まで奉職している。

 併せ祀る「別雷命」は、奈良時代最後の年(西暦793年)に京都の賀茂別雷神社より御迎えした大神で、これにより、時の桓武天皇から「雷大神」の称号を賜ったと言われている。また、総社雷大神または雷神様・雷大明神・鳴神様(「鳴神」とは「雷」のことであり、御鎮座地一帯は鳴神山と呼ばれている)とも尊称されている。この大神は造化三神の一人である神産巣日神の孫の賀茂建角身命(カモノタケツヌミノミコト)の孫に当たる神である。

(中略)

 今でこそ干拓により湖は無いが、かつて「椿の海」が満々と水を湛え、人々は海の幸を享受していた。漁業と縁の深い別雷命をこの地に奉斎したのもこの椿の海があったればこそであろう。
(以下略)

雷神社ホームページ

椿海について書かれているものは珍しいので、このご由緒書はたいへん参考になるのですが、今一つ良く分からないのは「天穂日命」の存在です。

これについては、神話に記述されている天照大神と素戔嗚尊の誓約(うけひ)について分析しなければならないのですが、実はこの地に雷神社があることで、天穂日命が誰を指すのか一つの仮説が生まれてきました。それについてはメルマガでご紹介しましょう。

■二玉姫神社

今回の探訪で最後に訪れたのが二玉姫神社(仁玉とも書く)神社です。旧椿海の真中付近に置かれた神社で、旧海との関係から創建自体はそんなに古くないだろうとは、地形から予見できました。

画像5:二玉姫神社

外見から比較的最近に建て替えられたのが分る神社で、よく手入れされているのが印象的でした。境内に建てられた石碑には次ように書かれています。

二玉姫神社の由来と御神幸祭

二玉姫神社の御祭神は玉依姫命と申され鵜茅草萱不合尊のお后で神武天皇の母君に当るお方でございます。

明治八年に記された棟札により御祭神は玉依姫命であることが判明しお宝の二つの宝珠は満珠と干珠で二玉姫と称される所以ではないかと拝察いたします
今から四百七十八年前 大永五年西暦一五二五年この地に創めてお宮を造り 二玉姫神社と申し上げ人々の心のよりどころとして崇敬されました。

三十三年目毎に御神幸祭が行われるのは神仏一体の頃先祖様祭は三十三年で終りになり神様が氏子の生活の様子 農作物の状況 漁業の有様などを御覧になり 海で禊をして五穀豊穣漁業の発展をお祈りして神社にお帰りになる行事を申すのであります

平成十六年三月吉日

予想通り、中世頃、室町時代の後期に建てられたようで、龍宮城神話の時代から千五百年は経過した頃です。この時代はまだ椿海の干拓も始まっておらず、おそらく、浅瀬の砂洲のような陸地に建てられたのが始まりではないか、あるいは干拓の後に、ここに移されたのではないかと考えられるのです。

問題なのは、他の龍宮城関連神社と同じく、

 どうして祭神が玉依姫なのか?

という点であり、この神社の場合、景行天皇の時代から更に千年以上経過した中世にどうして玉依姫を祀る神社を海の真中に置いたのか、そこがたいへん気になったのです。

さて、この神社の名前の言われとなった「二つの玉」なのですが、石碑に書かれた説明はあくまでも一般向けのもので、実はここで言う二つの玉とは

 豊姫と依姫

の二人の姫を指しているのではないかと私は思うのです。そして、そのように捉える説もどうやらあるようなのです。

仮に、「二つの玉 = 豊玉姫+玉依姫」だとするならば、どうしてこの二人の姫のことをことさら強調するのでしょうか?

それはやはり、この二人の姫が

 豊玉姫 = タクハタチヂヒメ
 玉依姫 = アメノウズメノミコト

という、それぞれ二つ名を付けられた特殊な事情にあるのだと私は考えます。要するに、この二人の姫は

 奪われた姫

だったからではないでしょうか?

どこから奪ったかと言えば、二つあった王朝のどちらかであり、これは王権継承が女系よってなされており(少女神仮説)、王朝の正当性を謳うにはどうしても女系の血を取り入れる必要があったからです。

最後に、今回記事にした神社を、等高線毎に色分けして地図上にプロットしたものを掲載します。この地図は、古代期におけるこの地の特殊性を示すだけでなく、前述の天穂日命がどのような人物であったのか、それを推察する大きなヒントを与えてくれたのです。

画像6:椿海周辺の神社


管理人 日月土

二人の姫を巡る探訪(その二)

今回は前回記事「二人の姫を巡る探訪(その一)」に引き続き、先月下旬に訪れた、千葉県東総地区にある、豊玉姫、玉依姫、そして記紀の龍宮城伝説にまつわる神様を祭神としている神社についてレポートします。

 前回取り上げた神社
  ・編玉神社 
  ・豊玉姫神社

 今回取り上げる神社
  ・東大社  
  ・渡海神社 
  ・海津見神社

 次回以降
  ・雷神社
  ・仁玉姫神社
  ・二玉姫神社

■東大社

東大社(とうだいしゃ)は、豊玉姫神社から下総台地の畑の中を車で15分くらい走ったところにある、周囲が開けている上に境内が比較的広く、手入れも行き届いていて地元の氏子さんたちに大事にされているのがよく伝わる神社でした。

画像1:東大社

この神社の創建に関わる縁起は案内に次の様に記されています。

画像2:東大社略記

ここから、気になる点を書き出すと

 御祭神
 主神に玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)、相殿に鵜葺草葺不合尊
 (ウガヤフキアワセズノミコト)を祀る

 創立
 (第十二代景光)天皇は追慕の御心抑え難く、息子(日本武尊)の
 歴戦の後を親しくご視察なさるため この東国へ御幸なさり、
 その途上 当社の裏の白幡の地に船でお着きになったと言われ
 る。そこで 7日間お留まりの際に、東海の鎮護として一社を営
 まれたのが当社の創めと伝えられる。千八百数十年前のことで
 ある。

豊玉姫神社の場合、その創建には日本武尊が直接関わったような書き方でしたが、ここでは、その父とされる景行天皇が、息子の東国での活躍を偲ぶために、後日この地を訪れ、その時に創建されたものだとあり、前者と多少経緯が異なっています。

いずれにせよ、編玉神社、豊玉姫神社、そしてこちらの東大社のいずれもが、景行天皇の時代、すなわち日本武尊が活躍したとされる時代に創建されたものであると伝えられている点に共通性があります。

ここで注目なのは「当社の裏の白幡の地に船でお着きになった」とはっきり記述されている点で、これはすなわち、東大社がかつては海辺にあった、すなわちこの地が香取海(かとりのうみ)、あるいは椿海(つばきのうみ)の海岸にほど近かったことが今に伝えられている点なのです。

現代の地形から古代の海岸線を予想すると、この3者は次の様な位置関係で建てられたと考えられます。

画像3:3社と香取海・椿海

東大社の社殿は南を向いていますから、社の裏とはおそらく北側、すなわち香取海を指していると考えられます。この伝承が正しいとするなら、景行天皇はここより北の東国を視察した後、香取梅を船で渡ってこの地に到着したのでしょう。

さて、画像3を見れば分かるように、これら3社が置かれたこの土地は、香取海と椿海の両内海を最短の陸路で繋ぐ、船を乗り継いで移動するには最適の地であったと予想されるのです。ちなみに、図中の矢印が示す直線距離はたったの2kmほどです。

すなわち、ここは人・物資両方の海上輸送において古くから要衝の地であったと考えられ、多くの人の行き来や、定住者もそれに見合うだけの人数が居たはずです。ならばこそ、この狭い台地に幾つもの貝塚や土器の出土が見らるのでしょう。

同時に、このような交通要衝の地は

 海上輸送利権・軍事を巡る紛争の地

となったとも考えられ、景行天皇、日本武尊の時代にどうしてここに宮が置かれたのか、おそらく、背後に戦略・戦術的な理由があったと見るのが合理的なのです。

ただし、そのような戦術の中で、朝廷側がどうして宮の祭神を当時から見ても100年以上前の豊玉姫・玉依姫としたのか、それについては、ただ単に初代神武天皇の祖母、母に当たるからというのではまだ少し弱いような気もするのです。

■渡海神社

東大社を出て銚子港に向かい、そこで昼食を済ませた後に向かったのが、千葉県銚子市の突端部にほど近い渡海神社です。

画像4:渡海神社

この神社は犬吠埼の南側の海を見下ろす高台の端に、千葉県の天然記念物にも指定されている極相林(きょくそうりん)に囲まれて鎮座しています。

地形も植生もたいへん面白い所なのですが、それを上手く伝える作画的センスがないので、取り敢えず次の図で勘弁してください。

画像5:渡海神社と周囲の地形

この画像に映る海の、右手方向に延長した先が外川(とがわ)なのですが、先に述べた豊玉姫神社、東大社にはこちらの海まで渡り奉納する神事があるのはお伝えした通りです。

主祭神は綿津見大神(わたつみおおかみ)、すなわち海神で、神話では豊玉姫の父ということになっています。すなわち龍宮城に関わる神様となります。

さて、この神社ではちょっと問題が発生し、画像4の写真を撮った場所から神殿に近付くことができませんでした。その理由やその後の経過を細かく書くと歴史ブログではなくなってしまうので、たいへん申し訳ありませんが、この神社についてはこれ以上は割愛させてください。

■海津見神社

犬吠埼からお隣の旭市の市境付近まで、太平洋に壁の如く連なる高台、屏風ヶ浦(びょうぶがうら)が続きますが、なんでもそこは「東洋のドーバー」と呼ばれているそうな。

その屏風ヶ浦が途切れた、崖の中腹付近に据えられたのが、海津見神社です。

画像6:海神神社

今回見た神社の中では結構荒れていた方で、事前の調べでは主祭神は豊玉姫だったのですが、時間の都合もあり、現地では細かく観察できませんでした。

ただ、台地の切れ目の中腹付近に社を構えるこの位置取りには、何か別の意味があるのではないか、そう思ったことはここに書き残しておきます。

* * *

何度も調査に訪れた千葉県東総地区ですが、回れば回る程新しい発見があることに驚きます。古代期には、ここはいったいどんな土地だったのでしょうか?


管理人 日月土

二人の姫を巡る探訪(その一)

前回の記事「二人の姫犬吠埼」では、アニメ映画「千と千尋の神隠し」の舞台モデル地の一つと思われる千葉県東総地区(銚子市・香取市・旭市・東庄町)に、豊玉姫・玉依姫など、神話の中の龍宮城伝説に関わる神様を祀る神社が比較的多く見られることを指摘しました。

繰り返しになりますが、この映画の主人公「千尋」と脇役「リン」がモデルとしている日本神話上の登場人物(あるいは神)は、これまでの分析から次のような関係であることが分かっています。

 千尋 = 豊玉姫 = タクハタチヂヒメ
 リン = 玉依姫 = アメノウズメ

そして、二人が住み込みで働く「油屋」とは、神話に記述された「龍宮城」をモチーフにしているところまで見えて来たのです。

前回は、あくまでもネット上の検索から神社の当りを付けただけですが、そのままでは少々気持ち悪いので、記事で取り上げた以下の神社を実際に訪ねてみることにしました。今回はその時のレポートとなります。

今回の記事対象となる神社
 ・編玉神社 
 ・豊玉姫神社

次回以降
 ・東大社  
 ・渡海神社 
 ・海津見神社
 ・雷神社
 ・仁玉姫神社
 ・二玉姫神社

■編玉神社

5月の下旬、まず最初に訪れたのは千葉県香取市阿玉台に鎮座する「編玉神社」です。この辺りは大地と低地が複雑に入り組んでおり、その複雑に入り組んだ高低差はやはり現地を訪れてみなければ分かりません。

古代期において、地形は神社や古墳の設置場所を決める重要な要素ですから、最近はそこの地形を見るだけ、古墳や神社、貝塚などの遺跡がそこにあるだろうと少し想像が付くようになってきました。

実際、編玉神社の近くには阿玉台貝塚、少し離れた豊玉姫神社には良文貝塚が見つかっており、後者の場合は地名も「貝塚」ですから、そこが古代から人が多く住み着いた土地であることを物語っています。

画像1:編玉神社

編玉神社は関東地方の農村ならどこにでもありそうな神社ですが、ここで目を惹いたのは、それが低地を見下ろす高台にあることです。

以前お伝えしたように、現在水田になっている利根川南岸の低地部は、かつて存在した香取海(かとりのうみ)の一部であり、ここに宮が設けられた当初は海を見下ろすように配置され、海上からは航行の目印としてこの宮が見えたのではないかと想像されます。

おそらく、このお宮の下にはここの集落の船着き場があったのではないかと考えられ、同時に、この周辺に多くの貝塚が見つかっていることから、かなり大人数の集落がこの旧海岸線に沿って形成されていたのでしょう。

画像2-1:神社前の道路から見下ろした水田(旧香取海)
画像2-2:推定される旧地形

もう一つ意外だったのが、事前の調べではこの神社の旧名が「編玉豊玉姫神社」で祭神も文字通り「豊玉姫」だと見当を付けていたにも拘わらず、現地の案内表示では祭神は次の三柱であると謳われていたことです。

 天津日高日子穂々出見尊(アマツヒダカヒコホホデミノミコト)
 大巳貴命(オオナムチノミコト)
 少彦名命(スクナヒコナノミコト)

これだけ見ると龍宮城の姫神と関係ないように見えますが、日子穂々出見尊とは彦火火出見尊の別表記であり、これまでの分析から

 彦火火出見 = 賀茂建角身 = 八咫烏 = 三嶋神

であることが分かっていますし、彦火火出見の皇后は豊玉姫・玉依姫ですから、その意味では、龍宮城関係者と言えないこともありません。

それよりも、意外なのは大巳貴命(=大国主命)と少彦名なるいわゆる出雲系の神々が併記されていることであり、その時の社会的な状況により扱う祭神名が変わることはあったとしても、どうして出雲系の神々が合祀されているのかについては少し首を傾げてしまいます。

この神社の社伝や地域の伝承を詳しく調べた訳ではないので、歴史的変遷については分かったように言えませんが、次に調べる時の留意点として覚えておきたいと思います。

画像3:編玉神社案内表示

案内表示の記述が正しいとすれば、勧請は第12代景行天皇の頃で、実は豊玉姫・玉依姫の時代からは200年位後になると推計されます。

時代的な隔絶を考慮すれば、龍宮城の神々と日本武尊の東征の間には特に関連性があるとは思えませんが、そもそも日本武尊がどうして東を目指して来たのかと考えた時、一般的には朝廷に逆らう東国の蛮族を征伐するためと言われていますが、何度も書いてるように、千葉県北部から茨城県南部の旧香取海沿岸は、神話に登場する高天原(たかあまはら)が実在していた土地と考えられ、そうなると、「東国の蛮族」という捉え方自体がそもそも誤った解釈だとも考えられるのです。

こうなると、龍宮城の神々の存在と日本武尊の東国遠征の間に何かしらの関係があるとも言えるのですが、これについてはまた別に考察してみたいと思います。

■豊玉姫神社

編玉神社から自動車で数分移動した所に豊玉姫神社は鎮座しています。直線距離だと2kmに届かない位でしょうか。

ここも編玉神社と同じく、低地(旧香取海)を望む高台に位置しており、おそらく元々は香取海の海上航行と深く関わる場所であったと考えられます。

画像4:豊玉姫神社

こちらも、地方でよく見かける風の神社なのですが、さすがに社名に「豊玉姫」なる現皇室の始祖にも繋がる神名を冠しているだけに、神紋には元々皇室専用であった五三桐紋と十六菊花紋の両方が使われているのには目を見張りました。

画像5:豊玉姫神社の神紋
(逆光で見辛い点はご容赦ください)

この神社についてはもっと詳しく調べる必要があるなと思いましたが、案内板によると、やはりこの神社も創建に日本武尊が関わっていることが記されています。

画像6:豊玉姫神社案内表示

そして注目なのが4月8日の例祭に関する記述で、そこには

 二十年毎に東大社、雷神社と共に銚子市戸川浜
 まで御神幸し大祭を挙行する

とありますが、その例祭の様式にどのような意味が込められているのか非常に興味が惹かれるところです。そして、東大社・雷神社の両方だけでなく、外川浜のすぐ傍にある渡海神社も今回の現地調査の対象であり、今回の二人の姫を巡る探訪が、偶然にもここで何かしらの歴史的意味を持つことを直感したのです。

* * *

今回はこの2社までのレポートとしますが、日本武尊と豊玉姫の関係がやはり気になります。どうして、日本武尊は悪天候時の無事を祈った海神(わたつみ)の神ではなく、その娘とされる豊玉姫を祭神としたのか、その謂われの意味するものが非常に気になるのです。


管理人 日月土

二人の姫と犬吠埼

前回の記事「『千と千尋の神隠し』と龍宮城」では、このアニメ映画で表現されていた「油屋」が、日本神話に登場する龍宮城をモデルにデザインされたのではないか、そして龍宮城の姫神として登場する豊玉姫(とよたまひめ)、玉依姫(たまよりひめ)が、それぞれアニメキャラの「千尋」と「リン」に対応しているのではないかと仮定しました。

画像1:千と千尋の神隠しからリンと千尋

再三述べている様に、神話と同映画作品との比較による構造分析から、これまでに次の関係が分っています。

 千尋 = タクハタチヂヒメ(または スズカヒメ)
 リン = アメノウズメ(または サルメノキミ)

また、前回の考察では次の関係が導かれました。

 千尋 = 豊玉姫
 リン = 玉依姫

つまり三段論法的には次の関係が成立すると言えます。

 豊玉姫 = タクハタチヂヒメ
 玉依姫 = アメノウズメ

これの他にも様々な事例を取り上げてきましたが、どうやら、日本神話の中では、一人の実在した人物に複数の別名を与えることによって、それぞれ別のキャラクターとして話を進めることが普通に行われている様なのです。

それが単なる別の呼び名とかではなく、明らかに異なる人物として描かれている点には特に注意しなくてはなりません。なんだか、神話に対するロマンチシズムをぶち壊すようで申し訳ないのですが、日本神話における八百万(やおろず)の神々とは、実は

 水増しされた神々

と言い換えることができるのかもしれません。

逆に言えば、上代(神武以前)の日本古代史は、神話というファンタジーとして記述しなければとても表現できないほど、複雑なものであっただろうと想像されるのです。

今回は、この豊玉姫と玉依姫について、更にもう少し周辺情報を取り上げてみたいと思います。

■千と千尋と犬吠埼

次の2021年の過去記事では、「千と千尋~」の舞台モデルの一つが、現在の千葉県銚子市、旭市周辺であることを考察しています。

 ・千と千尋の隠された神 
 ・千と千尋の隠された神(2) 

ここでの結論は、取り敢えず油屋のモデルになったのは銚子市内にある「猿田神社」としましたが、他にも三重県伊勢市内に実在した女郎茶屋の「油屋」もアニメデザインに大いに参考にされたのだろうと見ていました。

しかし今回、そのデザインのベースが日本神話に出て来る龍宮城にありそうなことが分かったので、ここでもう一度、銚子市・旭市周辺の状況について調べてみます。

4年前の考察では、龍宮城関係の神名については全く考慮していなかったので、今回は二人の龍宮城の姫神について、どちらかの神名及び、龍宮城繋がりと思われる神名を主祭神にしている神社を検索でピックアップしてみました。

その結果が次の図です。

画像2:龍宮城関係の神々を祀る神社(猿田神社は除く)

他にも該当する神社はあるとは思いますが、取り敢えず以上の図だけでも、密集とは言わないまでも、関係する神社がそこそこ鎮座しているのが分ります。

それぞれの神社の祭神をまとめたのが次のリストになります。

  社名    主祭神             所在地
 ——————————————————————————
 東大社    玉依姫 (旧名:八尾社)    東庄町宮本
 豊玉姫神社  豊玉姫            香取市貝塚
 編玉神社   豊玉姫 (編玉豊玉姫神社)   香取市阿玉台
 海津見神社  豊玉姫            旭市下永井
 二玉姫神社  玉依姫            旭市中谷里
 玉崎神社   玉依姫            旭市飯岡

 渡海神社   綿津見大神 (併:猿田彦)   銚子市高神西町
 雷神社    天穂日 (併:別雷命)     旭市広見

「豊玉姫」と「玉依姫」は日本神話の中でもメジャーな女神なので、この分布が特別多い、あるいは偏在しているとすぐには断定できませんが、それでも自分がこれまで地方の神社を見てきた感覚から言って、やはり多いのではないかと思います。

中でも「玉崎神社」は、昨年の記事「サキタマ姫と玉依姫」で、埼玉県行田市にある前玉神社(さきたまじんじゃ)と共に、その祭神についての考察を既に行っています。この神社は下総國二宮ということで、同地区でも格の高い神社とされており、そこから、玉依姫のがここでは特に大事にされているのが窺われるのです。

次に注目すべきなのが、神話の中で豊玉姫の父とされる綿津見の神を祭神とする渡海神社で、やはり龍宮城繋がりであること、また雷神社(いかづちじんじゃ)に合祀されている「別雷命」(わけいかづちのみこと)とは、京都の上賀茂神社の祭神「賀茂別雷神」(かもわけいかづちのかみ)のことであり、上賀茂社の伝承においてこの神の母に当たるのが下鴨神社の祭神、玉依姫なのです。

雷神社の祭神は上賀茂神社から分祀されたと記録に残されているようですが、やはりこの地が玉依姫所縁の地であればこそ、そのような計らいが為されたと考えられるのです。

ちなみに、「別雷命の母 = 玉依姫」という関係から、

  別雷命とは神武天皇の別称である

ことが分かるのです。それは以前掲載した次の系図を見ても明らかでしょう。

画像3:三嶋神から神武天皇までの系図

問題なのは、現皇室の皇祖と呼ばれる神武天皇の母親がアニメキャラ(リン)のモデルにされ、しかもそれが千葉県銚子市周辺と大いに関係ありそうだということなのです。

これは繰り返しになりますが、1985年8月12日に123便事件が起きたその時期、NHK朝のテレビ小説で放映されていたのが、沢口靖子さん主演の「澪つくし」であり、

 ドラマの舞台が銚子

であったことに、同事件との大きな繋がりが見え隠れするのです。因みに澪(=ミオ)とは猿田彦の別名であり、それについては「椿海とミヲの猿田彦」で既に説明済です。

以上から、私が何故

 123便事件は現天皇家の出自と関係がある

とするのか、お分かり頂けたでしょうか?



管理人 日月土

「千と千尋の神隠し」と龍宮城

初めに、今回の記事はメルマガ124号(令和7年4月16日号)の記事解説に掲載した 「『千と千尋の神隠し』再び」を再構成したものであることをお断りします。

このブログを読んでから長い読者の皆様なら、大ヒットしたスタジオジブリのアニメ映画「もののけ姫」及び「千と千尋の神隠し」の中に、日本神話をモチーフとした登場人物が描かれているのを既にご存知かと思います。詳しくは過去記事「千と千尋の二人姫」をご覧になっていただきたいのですが、その登場人物(あるいは神)が、今年調査に向かった高知県の足摺岬と何やら関係あるだろうという話になります。

■「千と千尋の神隠し」と「もののけ姫」

前回の記事「足摺岬と奪われた女王 」では最後に次の様なカットを掲載しました。

画像1:千尋(左)とリン(右)

リンは元からそこ(油屋)に居たお風呂屋の女中、また、千尋は新入りの女中見習いというポジションで、まだ仕事に慣れていない千尋のことをリンは厳しくも優しく見守るという設定になっています。

さて、これまでの分析から、この二人は各々次の日本神話上の登場人物をモチーフにしていることが分かっています。

 千尋 : タクハタチヂヒメ
 リン : アメノウズメ

ここで、やはり前回の記事に掲載したこの時代の予想系図をここに再掲します。

画像2:二王朝時代と王権移譲の推移予想

さて、この画像2に注目すると、少女神(皇后)の系譜は

  9代:タクハタチヂヒメ
 10代:アメノウズメ
 11代:コノハナサクヤヒメ

と推移しますが、ここに記載されているコノハナサクヤヒメをモデルにしたのが「もののけ姫」の主人公「サン」であり、実はこの作品の冒頭に登場する「カヤ」のモデルが「千尋」と同じタクハタチヂヒメであることを、皆さん覚えておられるでしょうか?

画像3:「もののけ姫と馬鹿」から

「もののけ姫」の中では、黒曜石の短剣を象徴に王権が「カヤ」から「サン」へと移譲されるのですが、実はこの解釈だと画像2の系図で第10代の王権継承権を受けるはずのアメノウズメが一つ飛ばされることになります。

実はここに、アメノウズメの夫で後に猿田彦の蔑称を付されたホノアカリが正史から皇統の正式な後継者を抹消された痕跡が見えるのです。ただし、それならば「千と千尋」の中でどうしてわざわざ「リン」と「千尋」、すなわち「アメノウズメ」と「タクハタチヂヒメ」が親しい関係として描かれているのか疑問が湧いてくるのです。

■油屋は龍宮城なのか?

画像2で第12代王権継承権を有したと見られるミカシキヤヒメですが、これはアメノウズメと同様に正史から消された側の王朝だとすれば、同時期を扱ったジブリ作品に登場しないのも頷けるのですが、次に疑問なのが、コノハナサクヤヒメに続く皇統の系譜です。

系図では、豊玉姫(とよたまひめ)、玉依姫(たまよりひめ)と2人の少女神(皇后)がコノハナサクヤヒメに続くのですが、ミカシキヤヒメが正史から排除されてしまった後、王権継承の順をどのようにナンバリングしたらよいのか、もうここで分からなくなってしまうのです。

神武天皇の皇后となるタタラヒメとイスズヒメについては、「千と千尋」の中で「湯婆婆」と「銭婆」の双子の姉妹として描かれているのは確認していますが、それを繋ぐ豊玉姫と玉依姫についての言及がないのはいったいどうしたことなのでしょうか?

ここで、「リン」と「千尋」が住み込みで働かされていた「油屋」が何かの象徴ではないかと考えてみます。

画像4:油屋

以前、油屋は三重県伊勢市内に実在した同名の女郎茶屋がモデルではないかとしましたが、アニメに描かれた「お城」のように立派な構えと、庭に植えられた「木」、そしてお風呂屋ということで「水」に縁がある存在、そこで思い出されるのが

 龍宮城

なのです。

その龍宮城、日本書紀には次の様に記述されています。

 その宮は立派な垣が備わって、高殿が光り輝いていた。
 門の前に一つの井戸があり、井戸の上に一本の神聖な桂
 の木があり、枝葉が繁茂していた。彦火火出見尊は、そ
 の木の下をよろよろ歩きさまよった。

講談社学術文庫 日本書紀(上) 現代語訳 宇治谷孟監修

彦火火出見はその井戸の前で豊玉姫と出会うのですが、垣と高殿、木に井戸(水)などという記述は、むしろ画像4を描く上での想像上の情景と瓜二つと言えないでしょうか?

油屋のモデルが神話の中の龍宮城だとするならば、そこに囲われていた「千尋」と「リン」はいったい何を意味しているのか?神話に於いては、豊玉姫と玉依姫は共に龍宮城出身の姫神とされています。

そこで私はこう考えます

 豊玉姫はタクハタチヂヒメの別称
 玉依姫はアメノウズメの別称

であると(代の順で)。

即ち、既に王権継承を経験したことのある二人の少女神(皇后)が、再び王権の継承者として男性王を迎え入れることになったのでないか、ということなのです。

2代前の少女神ならば、再婚時点ではもうお婆ちゃんではないかと思われるかもしれませんが、当時の婚姻は10代半ば前後で行われていたと考えられ、2代くらい後ならばまだ30代であり、再婚する年齢としては特に問題がなかったはずなのです。

しかし、ここで二人に豊玉姫、玉依姫と別の名が与えられたのは、その行為が何かやましいからであり、元の名では正史に残せなかったのではないでしょうか?

少女神仮説においては、王権の継承権は女性側にあり、現実的な解釈としては、王権を手中にしたかった彦火火出見(ホオデミ)(註1)は、先々代の皇后(タクハタチヂヒメ)及びホノアカリの皇后であるアメノウズメを略奪し、ホノアカリに対抗する王朝を強引に立ち上げたのではないかと推測されるのです。

註1:彦火火出見には三嶋神、賀茂建角身命(かものたけつぬみ)、そして八咫烏(ヤタガラス)の別名が付されていることも既に説明済みです。

正史においては、日本の初代天皇は神武天皇であり、神武天皇以前の王は神話の神とされてしまってますが、実はそのような史実の改変を行った一番の理由とは、ホノアカリ正統王朝を史実から抹消するだけではなく、女系王権の系統がこのように混乱してしまったので、新たに王権の系譜を作り直す必要に迫られたからではないかと考えられるのです。

そうなると、現在ある天皇家は古代の略奪者の血統なのか?と疑う向きも出て来るかもしれませんが、ここで注意しなければならないのは、日本における王権の継承者はあくまでも女系家系であり、実は現代においても、その血統がどこかで脈々と続いているのではないかとも考えられるのです。

足摺岬では龍宮城の神々と同時に、正史から消されてしまった王、ホノアカリ(蔑称猿田彦)の名前の痕跡が見られますが、これは、少女神の獲得競争、すなわち王権を巡る当時の激しい争いを表しているのかもしれません。


姫神の願い継がれる日本(ひのもと)は ただ弥栄ぞここに有らなむ
管理人 日月土

足摺岬と奪われた女王

前回は高知県土佐清水市にある巨石群「唐人駄場」(とうじんだば)へ向かった件についてお話しましたが、その中で、現地に残る名称に気になる点があるのを指摘しました。

今回はその続編として、日本神話との関係性について考察したいと思います

■龍宮城の神々

足摺岬の西、土佐清水市の松尾には、竜宮神社というパワースポットとして全国的に有名な神社があります。

海に突き出た岩場に置かれたこの神社、今回の調査ではすぐ近くまで行ったものの、時間の関係上立ち寄れなかったのですが、写真を見るだけも景観の素晴らしい所にあるのが分ります。

画像1:竜宮神社(土佐清水市ホームページから)

この竜宮神社の祭神は、豊玉彦命(とよたまひこのみこと)と豊玉姫命(とよたまひめのみこと)の父娘の神様ということになっていますが、この豊玉姫は日本神話における龍宮城のお姫様で、話の中では、失くした釣り針を求めて龍宮城に辿り着いた神武天皇の祖父に当たる彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)を見初めて、後にそのお后になるというストーリーが展開します。

「神話は事実を基に(派手に)脚色された創作である」というのは私の持論ですが、前回も掲載した次の画像からも、どうやら足摺の地が龍宮伝説の元ストーリーと関係ある場所であることが予想されるのです。

画像2:足摺岬周辺の地名・名所等

図中の竈戸(かまど)神社については、祭神不詳ということなのですが、よく知られた福岡県太宰府市の竈門(かまど)神社の祭神が玉依姫(たまよりひめ)であること、また、神話において玉依姫が豊玉姫の次の代の王妃であり、やはり龍宮城関係者であることから、この竈戸神社の祭神も、玉依姫、もしくは豊玉姫だったと考えられるのです。

画像3:足摺岬の竈戸神社(Googleマップから)

さて、この豊玉姫と玉依姫ですが、実は当ブログの過去記事ではこの二人の姫(后)と王の関係を系図に落していたことを覚えておられるでしょうか?以下にその系図を再掲します。

画像4:三嶋神を巡る姻戚関係(神武天皇と三嶋神から)

この図は、伊豆半島下田市の伊古奈姫神社の伝承他を基に作成した系図ですが、ここで言う三嶋神とはこれまでの考察から彦火火出見命と同一人物であり、ここに龍宮城伝説の登場人物が揃うことになります。

また、画像2の「鵜の岬」の「鵜」とは、画像4に登場する鵜葺草葺不合命(鸕鶿草葺不合尊 ウガヤフキアワセズ)を指すと考えられ、王と王妃の名が2代に亘って登場することから、やはり足摺岬も伊豆半島と同じく同時代の痕跡を残した地であると考え得るのです。

伊豆半島と足摺岬、両者は互いに遠く離れていますが、どちらも太平洋に突き出た半島の地であり、ここに神話伝承だけでなく、古代海洋民族の移動ルートについても新たな視点を提供してくれるのです。

■二王朝時代の痕跡

さて、以上の考察で終るならば美しいのですが、ここで問題になるのが、画像2の図中に記した次の名称なのです。

 佐田山の「佐田」
 椿のトンネルの「椿」
 白山洞穴の「白」

いずれのキーワードからも、同じ神(あるいは人物)が連想されるのです。

 佐田 → 佐田彦  → 猿田彦
 椿  → 椿大神社 → 猿田彦 (※つばきおおかみやしろ)
 白  → 白鬚神社 → 猿田彦

そして、猿田彦とは秀真伝(ほつまつたえ)に記された二王朝並立時代の王、火明命(ほのあかりのみこと)であることが、これまでの分析で分かっているのです。二王朝時代の始まりから神武天皇までの王権移譲を、秀真伝に従って系図に示すと次の様になります。

画像5:二王朝時代と王権移譲の推移予想

この図では、男性王の代を青字、女王の代を赤字で記述していますが、以前からお伝えしている様に、この時代の王権継承権は女王が有していたと考えられるので(少女神仮説)、実は王権移譲の推移を見るには女王の代に注視する必要があるのです。

その時問題になるのは、二王朝が並立するということは王権移譲に乱れが生じることになり、まず女王が立つと考えれば女王は代が重複せず、重複するのはもっぱら男性側であるはずなのです。

画像5を見る限り、二王朝時代とは、どうやら瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が先代(火明命)からの王権移譲を待たずに即位した形跡が見て取れ、それが男性王の代と女王の代が不一致に至る原因になったようなのです。

11代女王であるコノハナサクヤ姫はおそらく順当だとして、それでは12代の女王は、豊玉姫なのかミカシキヤ姫なのかと迷うところでありますが、豊玉姫・玉依姫が「(水中の)龍宮城の姫」という記紀の神話表現には、敢えて地上との繋がりを遠ざけているようにも見え、おそらく

 正当な12代女王とはミカシキヤヒメ(三炊屋姫)

であっただろうと考えられるのです。

と言うのも、当時から現皇室に至る王家の継承はあくまで豊玉姫側でありますが、記紀ではわざわざ火明命の継承者である饒速日尊は神武天皇に王権を譲った(国譲り)とまで記されており、それはまさに史書による王家の正当性を主張する修辞句そのものなので、実際には

 火明命・饒速日尊の王朝は滅ぼされた

と見るのが正しいのではないかと思われるのです。

すると、「豊玉姫と玉依姫はどこぞの馬の骨なのか?」と疑いたくなりますが、当時の日本はあくまでも王位継承権は女王側にあったと考えられ、正しく承認された女王との成婚でなければ当時の社会に王として認められなかったはずなのです。

この混乱した状況でしぶしぶながらでも民衆に王権の移譲を認めさせる方法、おそらくそれはかつての女王と再婚すること、もっと乱暴に言えば

 かつての女王を強奪すること

だったのではないかと私は予想するのです。

そう考えた時、奪われた女王の豊玉姫・玉依姫の元の名はいったい何であったのか、そこに焦点が移るのです。そして、その答とは足摺岬に残された地名(画像2)が既に示していると私は考えるのです。

画像6:アニメ映画「千と千尋の神隠し」のリンと千尋
答はこの作品の中にもしっかり描き込まれています


管理人 日月土

唐人駄場の巨石と神話の神々

今回の記事を書く数日前、私は四国の南端部、高知県の土佐清水市へと出向き、足摺岬、および世界一の規模とも言われる巨石群、唐人駄場(とうじんだば)を見てきました。

現地に着いては以前から知人に話を聞いており、いつかは一度訪ねてみたかった所なのですが、何せ移動するには遠く、出向くのに少々躊躇していたスポットだったのです。

画像1:唐人駄場と足摺岬

高知竜馬空港から鉄道とバスを乗り継いで土佐清水市街に到着した時には、空はもう暗くなりかけており、結局、移動だけに1日を要したことになります。

■足摺岬の縄文遺跡

土佐清水市観光協会のホームページには、足摺岬周辺の古代遺跡について、次の様に極めて簡単に書かれています。

 足摺半島の先端近くの海岸段丘の一角に、縄文時代早期
 (紀元前5000年頃)から弥生時代にかけての石器や
 土器片が数多く出土。

 一帯にはストーンサークルと思われる石の配列や、高さ
 6~7メートルもある巨石が林立している唐人岩があり、
 太古の巨大文明の名残ではないかと言われています。

引用元:https://www.shimizu-kankou.com/spot/toujindaba/

足摺岬周辺の遺跡についてネット上で資料を検索してみましたが、これ以上の詳しい資料にはヒットしなかったので、更に詳しく知るには現地で考古資料等を物色する必要がありそうです。

土佐清水市のホームページに唯一、縄文土器の記述があったので、以下にその箇所を貼り付けておきましょう。

画像2:片口縄文土器の解説
引用元:土佐清水市ホームページ

この地はどちらかと言うと、足摺岬からの景観はもちろん、ジョン万次郎の生誕地や四国八十八箇所38番札所の金剛福寺の方が有名ですので、古代遺跡への注目度はあまり高くないかもしれません。

しかし、その地味なイメージを打ち破るのが、唐人駄場巨石群の存在なのです。

画像3:巨石群の中から唐人石

画像3の他、当然ながら何枚も写真を撮ってきたのですが、その写真からでは今一つ現場のスケール感が伝わらないので、代わりに、ここでは土佐清水市が作成したドローンからの空中撮影映像をご紹介しておきます。

動画1:唐人駄場 https://www.youtube.com/watch?v=Lg3I8zVKoO0

とにかくその規模には驚かされるのですが、ここだけに巨石が集中して配置されているというのもどこか不自然で、何かしら人為的な手が入っていると考えざるを得ないのですが、そうなると、どのようにこの巨石を移動させたのかという問題に突き当たってしまうのです。

この巨石群の中には「祭壇石」(さいだんせき:画像4)と呼ばれる一組の石のセットがあり、

画像4:巨石群の中から祭壇石

その説明書きには、次の様な実に興味深いことが書かれています。

 前の2石と後方の岩との組成が違うことから、
 石に残る過去の地磁気を分析した結果、前の
 2石が移動していることが確認されています。

つまり、少なくともそこにある石の一部が人為的に移動させられている可能性が窺われるのです。

こうなると、「古代巨石文明の痕跡かっ!」あるいは「知られざる縄文テクノロジーかっ!」と俄然興味が湧いてくるのですが、当然ながら直ぐにその結論に結び付ける訳にもいかず、結局のところ真実は謎のままということになるのです。

ただし、そのような歴史ロマンに浸るだけでは済まない事情が、現地に残る地名から見えてくるのです。

■日本神話の神々と足摺岬

今回の調査は、現地の地名など殆ど予習しないで出かけたので、現地に着いて観光ガイド地図を見た時、そこに書かれた地名・名所名に違和感と言うか、どこか聞き覚えのある響きが重なって表記されているのを見て私は不思議に思ったのです。

それを地図上にピックアップすると以下のようになります。

画像5:足摺岬周辺の地名・名所名

このブログに長くお付き合い頂いた方なら、画像5の黄枠の名称から日本神話との関連性が読み取れるのではないでしょうか?

まず、「佐田山」「白山洞門」「椿のトンネル」なのですが、これらは

 佐田山 → 佐田 → 佐田彦 → 猿田彦
 白   → 白鬚 → 猿田彦
 椿   → 猿田彦

と、神話の神「猿田彦」を象徴するキーワードを含むことが見て取れます。

次に「龍宮神社」「竈戸神社」「鵜の岬」を分析すると

 竜宮 → 豊玉姫・玉依姫・彦火火出見
 竈戸 → 玉依姫(一般的な竈神社の祭神)
 鵜  → ウ(鵜)ガヤフキアワセズ

との関連性が導かれ、玉依姫(たまよりひめ)はウガヤフキアワセズの皇后となる姫神ですから、組み合わせ的にもドンピシャなのです。

※以上の分析がどうしてそうなるのかは、過去の記事で詳しく解説しているので、そちらを参考にしていただければと思います。

これ迄の神話解釈から、猿田彦というのは、正統な皇位継承者である火明命(ほあかりのみこと)の蔑称であり、火明命と瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)との二人の王が並立する2王朝時代があったと秀真伝には記されています。

ウガヤフキアワセズは瓊瓊杵尊王朝の継承者であり、現在の皇室のルーツとされている古代王です。記紀など一般的な史書から消滅した火明命王朝とは別の系統なのですが、なぜかこの足摺岬では

 2つの王朝の王の名が両方見られる

のです。これはいったいどういうことなのでしょうか?そして、巨石群と何か関連はあるのでしょうか?

これについての考察は、改めてメルマガの中でお伝えしたいと思います。

■唐人駄場で遭遇した謎のサイン

バス停「唐人駄場入口」から巨石群まで舗装された山道を歩いて登ったのですが、その途中、山道脇の岩に下図の様な不可解な文様が刻まれていました。

画像6:岩に刻まれた記号の意味は?
画像7:2つ目の線刻岩。ご丁寧に矢印の案内まで

これを目にした瞬間、もの凄い違和感に襲われたのは言うまでもありません。

一見、漢字か古代の線刻文字の様に見えますが、彫りは深く滑らかで最近刻まれたのは間違いありませんし、わざわざ文様を赤く塗装しているのがあまりにもわざとらしいのです。しかも、この赤い塗料も数日以内に吹き付けられたものらしく、発色がやけに鮮明なのです。

ここ数回のブログ記事では、古代文字に関するトピックを扱ってきましたから、どうやら私にこれを見せたかった誰かからのメッセージであると私は理解しました。

現代漢字に似せたこれら似非古代文字にも一応意味があり、これについてはメルマガの中でその分析やメッセンジャーの意図についての考察をお知らせしたいと思います。

なお、今回の調査で最も訝しく感じたのは、帰りの飛行機に搭乗する際に高知竜馬空港で目撃した次の戦闘機です。

画像8:緊急着陸していた米軍のF-35戦闘機
Strange Coincidence in Shikoku」から

トラブルで緊急着陸していたということですが、本当にそうだったのでしょうか?この数日前に四国で山火事騒ぎも発生しており、上述の偽線刻文字の件を含め単なる偶然では済まされない何かが動いているとしか思えないのです。


奪われし王妃の血なる現世は岩戸開きて御代に帰らむ
管理人 日月土

七枝樹と弥生土器

ここ数回のブログ記事の内容をまとめると、日本神話の素戔嗚(すさのお)と奇稲田姫(くしいなだひめ)に関わる重要アイテムとして

 牛頭天皇(素戔嗚の別称) → 牛
 八岐大蛇と奇稲田姫    → 蛇

があり、この動物による象徴が、シュメール神話の円筒印章に描かれた、次の象徴と重なることをお伝えしました。

 王(ハル) → 牛角冠
 女王(キ) → 蛇

そして、シュメールの王と女王を表す記号として

 王(ハル) → 3枝
 女王(キ) → 4枝 (または2枝)

があり、これが一つの樹の幹から伸びた枝、すなわち七枝樹として描かれていることも併せてお伝えしています。

2つの神話の間で、「牛」と「蛇」が奇妙に共通しているのも驚きですが、「世界の中の素戔嗚伝承」でお伝えしたように、日本の縄文時代の線刻石に

 牛角冠・蛇・3点・2点

とほぼ共通するパターンが見られることから、もはや

 素戔嗚神話とシュメール神話の共通性は確実にある

と断定しても良いのではないかと思われるのです。

画像1:東京都町田市で発見された線刻石
出典:川崎真治著「日本最古の文字と女神画像」(1988 六興出版)

■弥生土器に描かれた七枝樹

神話とされる伝承には、その元ネタとなった史実があるだろうと以前からお伝えしていますが、素戔嗚伝承は記紀が示す通り神武天皇が登場する以前の出来事と想定されます。およそ、紀元前から紀元後に移り変わる前後であったと思われます。

前回の記事「蛇と樹とシュメールの女王」では、正倉院に収められている奈良時代の「鳥毛立女図」に七枝樹をモチーフとした樹木が描かれていると見られることから、この七枝樹思想または信仰は、少なくともその時代まで日本国内で続いていたと考えられます。

その数百年もの長い期間があったなら、他にも七枝樹をモチーフとした遺物が何か残っているだろうと資料を見回すと、鳥取県米子市淀江町稲吉の角田(すみだ)遺跡から出土した弥生式土器に、それらしき絵画がヘラ描きで描かれているのに気付きます。

画像2:角田遺跡絵画土器(A~Eの記号は筆者による)
出典:一般財団法人米子市文化財団 
※ 図中青丸で囲った部分は、考古学会員の佐々木謙氏が
考古学雑誌に発表したものに後から描き足されている部分

ここで注目すべきは「B」の画像で、この資料を掲示していたサイトでは「木にぶらさげられた物体」と、それこそ見たままを簡単に説明されています。

これについて多少踏み込んで考察しているのが、磐座(イワクラ)学会さんの論文で、そこでは、土器に描かれている絵画が単純な風景や事物の描写であるというそれまでの見方を排して、祭祀、それも太陽祭祀の祭具であろうとの仮説を打ち立てています。

 2 従来の解釈の問題点

  従来の解釈は、現在のところ一般的には銅鐸の
 祭りの風景を描いたものとされ、その銅鐸の祭り
 は農耕儀礼あったと推測されている。しかし、そ
 れが真の解釈であろうか。

 その疑問の理由は、図Bにある。私にはこれが「木
 に吊るされた銅鐸」にはどうしても見えないからで
 ある。これを、自信をもって「木に吊るされた銅鐸」
 だと言い切れる人はいないであろう。

 ならば、「銅鐸の祭り」の解釈も、この絵に関して
 は成立しがたいと言わざるを得ない。裾のすぼまった
 紡錘状の銅鐸などありえないし、その銅鐸を吊るして
 いる樹木の枝も棒のようである。

 従って、「木に吊るされた銅鐸」は農耕儀礼と結びつ
 けるためのいささか強引な解釈と言わざるをえない。

  (中略)

 [鏡の祭具]
 ここで、土器絵画(図B)を鏡を取り付けた祭具と
 考えるに至った発想の根拠を示そう。

 <土器絵画(図B)の特徴の推定>
 ①紡錘状の物体は、上下左右対称である。
 ②二つの紡錘状の物体は、同じ形状で左右対称の
  位置にある。
 ③樹木状の物体は直線的に描かれており、樹木の
  ような天然のものでなく、人工物である。

 これに、使用される鏡は弥生前期末に楽浪郡より
 渡来した多鈕細文鏡と推定する。

同論文から抜粋

私も、このような文様は、物作りがたいへんだった古代期においては、祭祀など何か特別な催事の為に描かれたと考えるのが順当だと思います。

この論文は、その形状を非常に細かく観察しており、仮説に至ったプロセスを丁寧に積み上げていますが、この棒状の祭具と思われるものの上部、そこから突き出ている横棒が何であるか、また左4本、右3本の非対称であることについては特に言及していません。

もうお分かりの通り、この4本と3本の左右の非対称性に注目すると、これまで考察してきたテーマと俄然話が噛み合ってくるのです。

画像3:シュメール円筒印章と角田弥生絵画の比較

枝の数もそうですが、何と言っても、枝から垂れ下がっている2つの楕円形の物体までがデザイン的にそっくりなのです。

これはもはや、弥生中期と呼ばれる時代にも、七枝樹思想があったと見なして良いのではないでしょうか?

■2つの楕円物体の考察

ここで、昨年10月31日の記事「方舟と獣の数字」で紹介した。山口県下関市、彦島で発見された線刻石から、七枝樹の象形と思われるものを再度見てみます。

画像4:彦島線刻石の七枝樹

こちらの描画パターンは角田弥生絵画とは少し異なるメノラー型ですが、7つの枝のその下に、楕円形の物体こそ描かれていませんが、中心線から下方に向って左右に垂れさがる枝の様なものが描かれています。

私はこれも、シュメール円筒印章、弥生絵画に描かれた樹木のようなものと同じと考えますが、この垂れ下がったものがいったい何なのかが少し気になります。

樹下美人図では、七枝樹は明らかに樹木として描かれているので、これを樹木の象徴と見なした時、木の枝に垂れ下がるものと言えば、一般的に

 果実

ということになります。

シュメール円筒印章ではその樹木の左右に王(ハル)と女王(キ)が相対していますので、「二人の男女の間の果実」と言えば、それは明らかに

 世継ぎ、王位継承者

ということにならないでしょうか?

すると、ここで問題になるのが、

 どうして王位継承者が2人なのか?

という点なのです。

2人の王権継承者・・・このフレーズを聞いて本ブログに長くお付き合い頂いた読者さんなら次のフレーズを思い出すことでしょう。

 少女神:二人の王権継承者

どうやら、これまで見てきた「少女神」というテーマは、日本古代王朝から素戔嗚、そしてシュメールの王にまで話が広がりそうなのです。


イザナギ二百十六、イザナミ百四十四の仕組み
管理人 日月土

蛇と樹とシュメールの女王

これまで「牛の頭(牛頭)」、あるいは牛冠を戴いた王が、どうやら古代アジア全域で共通の象徴として残っているのではないかというお話をしました。

当然、牛頭天皇(ごずてんのう)の異名を持つ日本神話のヒーロー「素戔嗚命」(すさのおのみこと)もその中にに含まれることになります。

そして、前回記事「世界の中の素戔嗚伝承」では、東京都町田市の綾部原で見つかった縄文時代中期頃のものと見られる石の上に、古代シュメールの円筒印章(*1)と同様のパターン

 牛頭とその象徴三(3)、蛇とその象徴二(2)

が刻まれているのを確認しました。

*1: 粘土の上を転がして文様を刻む円筒形の印章

この石がシュメールの円筒印章と同一コンセプトを象徴すると見るならば、牛頭(あるいは牛冠)は男性の王を表し、蛇はその王妃を指すことになります。

日本の素戔嗚神話と比較するのは脇に置いて、今回は王妃の象徴について少し考察してみたいと思います。

■正倉院の樹下美人図

今回の話を進めるに当たって、綾部原の線刻石が紹介されていた歴史言語学の研究者である川崎真治さんの著書「日本最古の文字と女神画像」(1988 六興出版)を全面的に参考にしていることを先にお断りしておきます。

極めて密度の高い内容が書かれている書籍であり、ここではその中の極々一部を私がご紹介する形になりますが、浅学故に、間違いや思い違いもあるかと思いますので、その点は予めご容赦ください。

さて、今回ご紹介するのは、歴史の教科書や美術書などで見た方も多い次の絵画についてです。

画像1:正倉院《鳥毛立女屏風》(とりげりゅうじょびょうぶ)第五扇
作者不明 奈良時代(752〜756)
引用元:artscape https://artscape.jp/study/art-achive/10106681_1982.html

これは樹木の下の美しい女性、いわゆる「樹下美人図」(じゅかびじんず) と呼ばれる構図のカテゴリーで、同様の構図の美術作品は中国の墳墓、インドの寺院の彫刻などでも見つかっています。

樹下美人図(模本)伝トルファン(アスターナ古墳群出土 
原本はMOA美術館が所蔵
引用:東京国立博物館 画像検索 https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0020987

これについては、コトバンク(出典は株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」)に詳しいので、少し長いですがその解説をここに転載します。

樹下美人図 (じゅかびじんず)

〈樹下美人図〉と通称されるのは,正倉院《鳥毛立女屛風(とりげりつじよのびようぶ)》やアスターナ出土の《樹下人物図》(東京国立博物館,MOA美術館)などを指し,樹木の傍らに立つ男女,ことに女性を描くことが,古代アジアにおいて特殊な画題であったと考えられる。

8世紀を中心に,唐王朝の文化の及んだ東は日本から西はトゥルファンに至る広い範囲に,この画題の作品が見られる。しかし画題の意味するところは必ずしも明確ではない。

正倉院の《鳥毛立女屛風》においても,唐装の美人が樹下にたたずんだり,あるいは岩に腰をおろして憩っている情景とみるほかはなく,特別意味ある所作をなしているともみえない。

《鳥毛立女屛風》については,用いられた鳥毛が日本産の鳥の毛であり,また裏張りに天平勝宝4年(752)の反古紙が用いられており,同年から756年に正倉院宝物が東大寺へ奉納される間に制作されたことになろう。

男女一対のアスターナ出土の樹下人物図についても,侍者を伴った男女の会遇の場面と解釈する説もあるが必ずしも明らかでない。この両図は同一の墓室からの出土で,裏張りに唐の開元の年記を有する反古紙を用いており,その制作は開元中期(730ころ)以降とされる。

またこのほかのアスターナ出土の《官女図》(1972出土)や《胡服美人図》(大谷探険隊請来),さらに《春苑奏楽図》(スタイン請来。ニューデリー)では,楽器を奏でる情景や座して囲碁を打つ女性,立ち姿で鳥とたわむれる女性など,いわゆる風俗美人図ないしは官女図というにすぎない。

 中国中原地方にこの種の作品を求めると,独立した作品は見当たらないが,705年(神竜1)に造営された永泰公主墓や章懐太子墓などの壁画中に,宮廷の官女たちが庭先に居並ぶ中に樹木の傍らに鳥とたわむれる情景を描いた個所がある。しかも樹下人物図は中原やトゥルファンにおいては,いずれも墳墓内に用いられた例であり,風俗人物図と墓室内の装飾という結びつきが興味深い。

一方,この樹下人物図の起源については古くより西方説があり,インドのヤクシーやペルシアの〈生命の樹〉の傍らに立つ女神などとの共通性が指摘されてきた。しかし,現存作品はむしろ唐朝風俗画としての華麗な唐朝文化の香りこそ伝えているが,西方的要素はむしろ少ないと思われる。

執筆者:百橋 明穂

コトバンク「樹下美人図」(じゅかびじんず) から

この解説を読むと、鳥毛立女屏風については「特別意味ある所作をなしているともみえない」、またアスターナ出土の樹下美人図については「侍者を伴った男女の会遇の場面と解釈する説もあるが必ずしも明らかでない」と、要するに、この構図(画題)に関してはその意味について「よく分かっていない」という言うのが本音なのでしょう。

しかし、この構図にこそ非常に大きな意味が込められているとするのが、川崎説なのです。

鳥毛立女屏風の構図について、川崎説では女性の顔に描かれている、インドの方がよく額に付けているマーク(ティーカ/ティクリ)に似た印から、その真意を見出しているのです。

 鳥毛立女図の樹下美人の額にあった菱形四点マークは「四」の枝
 をあらわすマークであり、すなわち、

   Ki-lam-ā-da (キ・ラム・アーダ) = 四枝の蛇女神キ

 をあらわすマークなのだ。また、唇の左右の「二点」はすでにの
 べておいた「三」と結ばれる(「牡牛神ハル」と結婚する)とい
 う意味のタブ(二)だった。

川崎真治著「日本最古の文字と女神画像」から

ここで川崎説を補足する次の図を掲載します。

画像3:シュメールの牡牛神「ハル」と蛇女神「キ」

シュメールの牡牛神(男神)の名は「ハル」、蛇女神の名は「キ」と呼ばれ、中央に置かれた七枝樹はハル側に3本、キ側に4本突き出ています。

これを以て川崎説による鳥毛立女図の解読を図中に示すと次のようになるでしょう。

画像4:鳥毛立女図の分析図

要するに、ここに描かれた「樹」とは七枝樹の象徴であり、その内の四枝を示す記号として額の四点が描かれているのだろうということなのです。

川崎説で少し曖昧なのは、女神を指すのが「ラム:四(4)」なのか「タブ:二(2)」なのかなのですが、その混乱がこの図の分析にも現れています。

これについては既に説明したように

 二人の皇后(正妃と少女神)

というこれまでの古代史考察で得た知見を取り入れることで簡単に解決することが分かります。

正妃(2)と少女神(2)の二人を合わせて一組の女王「4」となりますが、記録上王と結ばれるのは正妃(2)のみであり、少女神は影の存在となり、国家シャーマンとして国家的神事に専従するというものです。

少女神の概念はあくまでも日本古代史を分析することで得た一つの仮説ですが、シュメールの印章の意味をこれで説明できてしまうのは私も少々驚きなのです。

■素戔嗚の皇后

鳥毛立女屏風は奈良時代、国内で描かれたものとされていますが、そうなると、今から1300年前の日本では

 牡牛神「ハル」と蛇女神「キ」、七枝樹

の概念が、いくらか形骸化したとはいえ残っていたことになります。

冒頭で述べたように、日本神話における牡牛神とは素戔嗚であり、牡牛神「ハル」が素戔嗚に相当するなら、女王「キ」は誰に相当するのでしょうか?

記紀に拠れば

 神大市比売(かむおおいちひめ 古事記)
 奇稲田姫(くしいなだひめ 日本書紀・古事記)

となりますが、そう言えば、奇稲田姫と素戔嗚の出会いは

 八岐大蛇(やまたのおろち)

すなわち大きな蛇がそこに介在しているのです。

神話に記された牛と蛇との邂逅、東京都町田市で発見された牛頭と蛇が刻まれた縄文の石、そしてそれに類似するパターンのシュメール円筒印章と樹下美人図、これらはいったどのように日本古代史と結びついて 来るのでしょうか?


管理人 日月土

世界の中の素戔嗚伝承

前々回の記事「素戔嗚と牛頭天皇」では、日本神話の三貴子の一人で、なお且つ神話のヒーロー的存在である素戔嗚(すさのお)が、仏教説話に登場する牛頭天皇(ごずてんのう)と同一視されているというお話をしました。

そして、日本書紀の一書の中に、素戔嗚が新羅(しらぎ)の「曾尸茂梨」(そしもり)と言う土地に降り立ち、その「ソシモリ」という言葉が韓国語で

 牛頭

を意味するという点を指摘しました。

■神農と牛頭

炎帝神農(えんていしんのう)とは、古代中国の「殷」(いん)や「夏」(か)の時代より前の三皇五帝時代の統治者の一人と伝えられている人物で、様々な説はあるものの、一般には医薬と農業の神として知られています。

日本でも、大阪の他東京の湯島聖堂に神農廟があり、毎年11月23日の新嘗祭と同じ日に「神農祭」というお祭が行われているようです。

さて、その神農ですが、Wikiペディアによるとその風貌について次のように書かれています。

伝説では炎帝と黄帝は異母兄弟であり、『国語』には、
炎帝は少典氏が娶った有蟜氏の子で、共に関中を流れ
る姜水で生まれた炎帝が姜姓を、姫水で生まれた黄帝
が姫姓を名乗ったとある。

また『帝王世紀』には、神農は、母が華陽に遊覧の際、
龍の首が現れ、感応して妊娠し姜水で産まれ、体は人間
だが頭は牛の姿であった。火の徳(木の次は火であるこ
と、南方に在位すること、夏を治めること)を持ってい
たので炎帝とも呼ぶ。とある。

Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%BE%B2

この「頭は牛の姿」という下りはまさに「牛頭」そのものなのですが、高句麗(現在の北朝鮮)の言葉では神農のことを

 スサ

と呼ぶらしいので、ここでも牛頭天皇と素戔嗚の間に見られた関係が古代の言葉を通して繋がってくるのです。

画像1:神農図(伝楊月筆、16世紀、東京国立博物館)

上の画像では、頭に瘤にも見える牛の様な角を生やした、草を食みつつ薬草になるかどうかを試している神農の姿(想像図)が描かれています。

この極めて特徴的な「牛の頭」というキーワードを用いて、これまで出てきた人物の呼び名を並べると

 神農(中国)
 スサ (高句麗)
 ソシモリ(新羅)
 素戔嗚(日本)
 牛頭天皇(中央アジア?)

となり、これらは同じ一人の人物(あるいは神)を指すのではないかと考えると、牛の頭の王(あるいは皇・帝)とは、アジア地域に広く行き渡っていた一人の偉大な王の伝承を表しているのではないかと考えられるのです。

しかし、やはりここで忘れてならないのは、次のシュメール文明の円筒印象に見られるデザインなのです。

画像2:王(牛頭)と女王(蛇)の象徴

牛頭の王が各国伝承それぞれの共通のシンボルであるならば、その範囲は東端の日本から始まり、朝鮮半島、東アジア・中央アジアを通り越して西アジアのチグリス・ユーフラテス川流域(シュメール文明の地)にまで及ぶことになるのです。

古代期文明の広がりをそのように捉えると、素戔嗚はもはや日本国内だけのローカルな神話的ヒーローに留まらなくなってくるのです。

■東京で見つかったシュメールの象徴

歴史言語学を研究されている川崎真治さんの著書「日本最古の文字と女神画像」(1988 六興出版)の中では、次の様な文様が刻まれた線刻石が東京の町田市で見つかったとの報告が書かれています。

画像3:町田市綾部原で見つかった線刻石(同書 p152)

画像の中に書き込んでいますが、牛頭と蛇のペアであること、七枝樹の枝の数である3(王)、2または4(女王)までもが画像2のシュメールの紋章と構図がそっくり同じなのです。

これまで、日本古代史の分析作業はあくまでも記紀やその他の史書、漢書等の記述に頼ってきましたが、ここまで明確な類似点を見せつけられると、分析手法について再考する必要が出てきました。

神話ヒーローの素戔嗚がいったいどのような王であったのか、そして古代世界がどのようなものであったのか、新たな実像が見えて来そうです。

■多摩川流域の遺跡地帯

前節の線刻石は町田市で見つかったものですが、町田市は丘陵部が多く石器時代からの遺跡が数多く見つかっている土地でもあります。

画像4:顔面把手(縄文時代中期)
町田デジタルミュージアムから

そこと、前回の記事「ソシと祖師と世田谷事件」でお伝えした世田谷区の祖師谷とは直線距離で10km程度しか離れていません。そして2つの場所の間には多摩川が流れており、まさに古代人が好んで居住しそうな条件が揃っています。

画像5:町田と世田谷

祖師谷の祖師(そし)とはソシモリのソシ、すなわち素戔嗚と何か関係があるのではないかとしましたが、それほど離れていない町田で「牛頭と蛇」の文様が見つかったということは、言葉の類似性に加えて物的にもに説得力が増したように感じられます。

東京と言えば大都会で、古代遺跡と関係なさそうですが、これまでの現地調査では、多摩川周辺、例えば川崎や大田区などにも、多くの古代の痕跡が残っているのを確認しています。

どうやら、東京からもう一度古代史を見直す必要がありそうです。


管理人 日月土