日本神話と鹿児島(2) – 吾平山上陵 –

前回記事「日本神話と鹿児島」では、鹿児島県内にある「神代三山陵」の内、霧島市内にある「髙屋山上陵」(たかやさんりょう)について取り上げました。

今回は、4年前に訪れた大隅半島中部の鹿屋(かのや)市にある「吾平山上陵」(あいらさんりょう)について、少し古くなった記憶を辿ってお伝えしたいと思います。

■吾平山上陵に眠る王

前回もお伝えしましたが、鹿児島県の神代三山陵に眠るとされる神代の王は次の様に比定されています。

 (1)可愛山陵 : 瓊瓊杵尊   (ににぎのみこと)
 (2)髙屋山上陵: 彦火火出見尊 (ひこほほでみのみこと)
 (3)吾平山上陵: 鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあわせずのみこと)

記紀に拠れば、(1)から(3)までこの順で血が繋がっていることになっていますので、これに従うと、吾平山上陵の被葬者は彦火火出見尊の子である鸕鶿草葺不合尊となります。

これについては、現地の案内にもはっきりとそう書かれています。

画像1:宮内庁による御陵の説明

吾平山上陵を訪ねたのは10月の中頃ですが、鹿児島の秋は遅く、山の緑はまだ青々としていたのを覚えています。

御陵は、姶良川(あいらがわ)が流れる岸辺の岩屋の中にあるとされ、山間の落ち着いた雰囲気と川のせせらぎが奏でる心地よい音が見事に調和しており、さすが「小伊勢」と呼ばれるだけの清冽な厳かさを感じることができます。

画像2:御陵までの遊歩道
画像3:岩屋の入り口

前回の髙屋山上陵は鬱蒼とした木々に覆われていましたが、こちらは川に沿ってよく整備された歩道が続き、散策するのにもたいへん気分が良い所であるとの印象を受けました。

美しい自然を見ながら、1000年以上前のこの国の古代に思いを馳せることができるなんて「何と最高なのだろう!」と当時は思ったのですが、日本神話研究を始めた今となっていは、この御陵の存在について単純にそうも言ってられなくなってきました。

■再び少女神仮説

ここでまた、瓊瓊杵尊から神武天皇までの4代を少女神仮説で表した例の系図を見てみましょう。

画像4:少女神仮説による系図
過去記事「三嶋神と少女神のまとめ」より

繰り返しとなりますが、少女神仮説では「女系による王権継承」を核としていますから、記紀が伝えるところの、

 彦火火出見尊(父) ー> 鸕鶿草葺不合尊(子)

という関係は必ずしも成立しません。これを実の父子と表現した記紀編者の意図とは、

 女系継承を男系継承に置き換えるため

であると考えるのです。

何故そのような改竄をわざわざ施すのかという問題については、また別のところで精密に考察したいと思いますが、男女の役割を逆転させる、それも為政者の権限に関してと言うことは、社会全体の価値観が大きく変わるということであり、それはSDGsの導入で社会の在り方に大きな見直しを迫られている現代社会を見れば、古代社会においてはそのインパクトが凄まじく大きかったであろうと容易に想像が付くのではないかと思います。

このことは、もはや歴史改竄の理由を述べているとも言えるでしょう。即ち、古代社会の在り方、価値観・歴史感をガラリと変えなければならない必然性がこの国の歩んだ歴史のどこかで生じたことを意味します。

そうなると、「鸕鶿草葺不合尊とは本当は誰なのか?」が大きな問題となるのですが、これまで史書類の表記の揺らぎなどを分析した結果から、画像4に記してあるように

 鸕鶿草葺不合尊 = 大物主 = 八重事代主 = (丹塗矢)

であることが分かっているのです。少女神仮説においては、もはや彦火火出見尊と鸕鶿草葺不合尊が実の親子であることを念頭に入れる必要などなく、純粋にこの等式の意味を考えれば良いことになります。

■大物主とは誰か

史書の一つ「秀真伝」(ほつまつたえ)に拠ると、「大物主」(おおものぬし)とは個人の名ではなく、大国主命(おおくにぬしのみこと)から代々継承された王統名であるとされています。大国主の血統ですから、同時にそれが出雲の王統であることを示します。

いわゆる世襲名のようなもので、「第□代大物主 〇〇命」のように表現されます。ここから、大物主でもある鸕鶿草葺不合尊とは

 出雲王統の誰か

という予想が成立し、もう一つの名である「八重事代主」とは、秀真伝の系図によるとまさに、「第3代大物主 ミホヒコ」の息子とされているので、大物主の家系として遜色がないのです。

すると、吾平山上陵の主はとりあえず「第3代大物主の息子 八重事代主」ではないかと予想が付くのですが、実はそれでは未だ釈然としない問題があるのです。

どういうことか?

鹿児島県には出雲系の神社と言われる「諏訪神社」が比較的多く置かれているのですが、諏訪神社の祭神とは、出雲から信州に逃げたと言われる

 建御名方命(たけみなかたのみこと)

なのです。諏訪神社は吾平山上陵の近くにも鎮座しています。

信州の神様を祀る神社が南国鹿児島に多い?一応出雲系の神様ではあるのですが、建御名方命の後の系統は秀真伝にも書かれておらず八重事代主との系図上の関係も不明なのです。

ここをクリアにしない限り、単純に吾平山上陵の被葬者を「八重事代主」に比定できないと言うのが今の私の考えなのです。


管理人 日月土

日本神話と鹿児島

(真)ブログ及び(新)ブログでもお伝えしているように、先日、鹿児島へ行ってきました。今回は、そこで見てきたものについてレポートしたいと思います。

 関連記事:
 ・山体膨張と黒い霧 
 ・高隈山と自衛隊機墜落事故 

■鹿児島残る神代の遺構

日本古代史の研究において、九州内における古墳などの遺跡類と言えば、まずは福岡、次に熊本・宮崎などを思い浮かべますが、九州の最南端、鹿児島についてはあまりそのような話は聞こえてきません。

勿論、調べれば普通に遺跡類はあるのですが、神武天皇の出征の地と言われる宮崎や、記紀で何かと登場する博多湾周辺や大宰府、そして装飾古墳で有名な熊本などに比べれば、知名度はそれほど高くないと思われます。

ですから、鹿児島と言えば、もっぱら島津藩が活躍した江戸時代以降から幕末・西南の役の頃くらいまでが話題の中心となるのですが、このような敢えて鹿児島の古代史に触れようとしないとも見える現状については、以前から少し疑問に感じていたのです。もちろん、単に優先順の問題だけなのかも知れませんが。

今回の調査に当たり、鹿児島の古代史を理解する上で、特に重要な鍵となるのが同県内に位置する次の遺跡・遺構です。

 (1)可愛山陵  (えのみささぎ) 薩摩川内市
 (2)髙屋山上陵 (たかやのやまの えのみささぎ) 霧島市
 (3)吾平山上陵 (あひらのやまの えのみささぎ) 鹿屋市

これらに関連する場所として、霧島市と宮崎県都城市内との境界付近にある

 (4)高千穂の峰 霧島市・宮崎県都城市

も挙げておきたいと思います。

画像1:神代三山稜と高千穂の峰

(1)~(3)まではいずれも鹿児島県内にあり、合せて「神代三山陵」と呼ばれているそうです。その被葬者として比定されているのが、それぞれ日本神話に登場する次の有名な人物(神?)となります。

 (1)瓊瓊杵尊   (ににぎのみこと)
 (2)彦火火出見尊 (ひこほほでみのみこと)
 (3)鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあわせずのみこと)

日本神話においては、(1)が地上に降臨した最初の神で、(2)、(3)がそれぞれ、子、孫と代を重ねます。そして、(3)の子に当たるのが初代天皇となる神武天皇であり、この系図だけ見ると、まさに神代の超重要人物(神?)が勢揃いなのです。

そして(4)の高千穂の峰については、(1)の瓊瓊杵尊が天孫降臨の際に降り立った山とされていますが、この神話の史実的解釈については既に過去に取り扱っているので、そちらの記事をご覧ください。

 関連記事:
  ・天孫降臨と九州 
  ・天孫降臨と九州(2) 
  ・天孫降臨とミヲの猿田彦 
  ・再び天孫降臨の地へ 
  ・再び天孫降臨の地へ(2) 

なお、これらの方々が、神なのか人物なのかという点なのですが、御陵(みささぎ)=墓という実体を以って祀られている以上、私は全て実在した人物と捉えるべきだと考えますし、以前からお伝えしているように、史書の一つ秀真伝(ほつまつたえ)では、明らかに実在人として表現されていることから、ここから先は人物として扱うことにします。

4年前に鹿児島を訪れた時には(3)の吾平山上陵を、そして今回は(2)の髙屋山上陵を見て回りました。ここでは、(2)の髙屋山上陵を視察した感想をお伝えすることにしましょう。

■彦火火出見尊

以下が現地で撮影した髙屋山上陵の正面です。現皇室の租という話ですから、宮内庁が管轄する御陵となっています。

画像2:髙屋山上陵
画像3:宮内庁管轄御陵

さて、ここに眠るとされる彦火火出見尊ですが、このような難しい名前よりも、子供の時に読み聞かされた方も多いであろう日本神話に出て来る「山彦」(やまひこ)の名の方が良く知られているかもしれません。世に知られる「海彦・山彦伝説」です。

それがどんなお話であったか、ここではまず粗筋を思い返すことにしましょう。

昔、海彦(兄)と山彦(弟)という兄弟がいた。海彦は海で漁を、山彦は山で狩りをそれぞれの生業としていた。

ある日、兄弟はそれぞれの仕事道具である釣り針と弓矢を交換し、海彦は山に狩りへ、山彦は海へ釣りに出かけたが、二人とも成果はさっぱりであった。

お互いの道具を返す段となったとき、山彦は海彦の大事な釣り針を海に落としたことに気付いた。海彦は大層怒り、山彦が自らの剣を溶かして作った代わりの釣り針も受け取らず、「同じものを返せ」と迫った。

海辺で途方に暮れていた山彦の前に翁が現れ、事情を話すと、籠に乗るよう促され、籠は海に流されると沈み、龍宮城へと辿り着く。

山彦は龍宮城で美しい姫と出会い、しばらく時を過ごすが、地上に戻るに当たり、失くした釣り針について竜宮城の神に尋ねたところ、ある魚の口に引っかかっていたのが分かる。

それを持って地上へ発つとき、龍宮城の神は2つの玉を山彦に渡す。潮干玉(しおひるたま)と潮満玉(しおみつたま)で、潮干玉は水を引かせ、潮満玉は水を満たす力があり、兄に意地悪された時にはそれを使って兄を困らせろと言う。

地上に戻った山彦は、2つの玉を使って兄を溺れさせるなど懲らしめ、兄の海彦は、命の懇願として今後山彦に従うと約束する。

どうでしょうか、この話を覚えていらっしゃる方は多いのではないかと思います。どこか荒唐無稽であり、神話と言うよりもおとぎ話に近いと感じられたことでしょう。

こんな話が日本の正史を記述したとされる日本書紀や古事記に、神代の記録、それも現皇室の先祖の記録として本当に書かれているのですから頭が混乱します。

当然、これらを文字通りに受け取る訳にはいかず、何かの歴史的事実を寓話的に脚色したものであると考えざるを得ないのです。

日本書紀に拠ると、これらの登場人物はそれぞれ次の様になります。

 海彦:火酢芹尊(ほすせりのみこと)
 山彦:彦火火出見尊
 翁 :塩土老翁(しおつちのおぢ)
 龍宮の神:海神の神(わたつみのかみ)
 姫 :豊玉姫(とよたまひめ)

このストーリーから窺える重大事象の1つは

 火酢芹尊と彦火火出見尊が争った

次に、

 塩土老翁と海神の神が彦火火出見尊に加勢した

そして、私が最も重要視するのが

 彦火火出見尊は豊玉姫を娶る

という点なのです。

■少女神豊玉姫

本ブログでは、これまで少女神仮説に基づいて古代王朝の成立過程について考察してきましたが、この海彦・山彦の神話の中に少女神の継承者と考えられる「豊玉姫」が登場したことにより、やはりこの仮説によって実際の史実が解明できるのではないかと考えるのです。

画像4:過去記事「三嶋神と少女神のまとめ」より 

少女神仮説の中核は「女系による王権継承」ですから、火酢芹尊や彦火火出見尊が誰の子であるかは、日本の王権とは直接関係しないのです。ですから、王位継承者の二人が争ったとする記紀の男系継承的な解釈は当てはまらず、そこにはひたすら「二人の男性による姫の奪い合い」があったと考えるべきなのです。

話の筋道から考えると

 海の支配者は元々火酢芹尊であった

と考えられ、それを味方の加勢を受けた彦火火出見尊が奪い取り、姫と同時に海の支配権を略奪したとも読めるのです。

画像4の記述で大事なのは、これまでの考察から彦火火出見尊が、三嶋湟咋(みしまみぞくい)もしくは賀茂建角身(かものたけつぬみ)と同一人物であると考えられることであり、この時に三嶋一族、あるいは賀茂建角身の別名である八咫烏(やたがらす)がこの国の中枢に侵入した事実を物語っているとも取れるのです。

そうなると、王権を剥奪され従者と成り下がった火酢芹尊とはいったい誰なのかが問題になるのですが、その答は日本書紀の次の節に書かれていると私は考えるのです。

始めて起こる烟(けぶり)の末より生り出づる児を、火闌降命(ほのすそりのみこと)と号(なづ)く。是(これ)隼人等が始祖(はじめのおや)なり。

日本書紀 神代下
画像5:隼人塚(霧島市)
書籍のご案内

当ブログで頻繁に取り上げている「少女神」という概念は、みシまる湟耳(こうみみ)氏による著書「少女神 ヤタガラスの娘」(2022/1/28 幻冬舎)によってインスピレーションを受けたものです。ブログ記事を読み進めるためにも、まず初めにこちらをお読みになられることを強くお勧めします。



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髙屋山見下ろす隼人の御土地は守り鎮めし神の賜物
管理人 日月土

神功皇后の新解釈

前回はちょっとばかりアニメネタに触れましたが、ここでまた卑弥呼の時代に注意を向けたいと思います。

過去記事「公孫氏卑弥呼とは誰か」では、年表を比較する限り、魏志倭人伝の卑弥呼と記紀に登場する神功皇后(じんぐうこうごう)は同一人物とは言い切れないまでも、どうやら同時代の人物らしいというお話をしました。

また、この二人の記述の共通点として、魏志倭人伝では「倭国大乱」、記紀では「三韓征伐」と国同士の大きな争いがあったのも注目点であると述べました。

今回は、ここから少し踏み込んで、私なりの解釈を加えてみたいと思います。あくまでも自己流解釈なので、そんな根拠のない話は結構という方は、ここで読むのを止めてもらって構いません。

■神功皇后とは

ここ2年の間、「少女神」という女系が天皇の王権を保証しているという概念を用い、記紀や秀真伝(ほつまつたえ)の解読を試みていますが、何度もお伝えしているように、これは

 史書は暗号の書である

という前提で成り立っています。書かれたものが真実だと思いたい方には少々耐え難い仮定ではありますが、史書に残された内容の荒唐無稽さを考えれば、むしろ編者がそのような読み方を求めているのだと私は解釈しています。

今回は史書に登場する「神功皇后」について、その暗号解読的解釈を試みてみたいと思いますが、まず基本的な情報として、この神功皇后の日本書紀における名前は気長足姫(おきながたらしひめ)であり、第14代仲哀天皇の皇后であると記されています。

神代以降の日本書紀は、基本的に歴代天皇史の体裁を取っていますが、何故かこの神功皇后については、皇后でありながらも独立した一巻を占めており、まるで歴代天皇の一人の様に扱われているのです。ここからも、神功皇后は日本書紀の中でもかなり異質な存在であることが窺えるのです。

そして、神功皇后記には、現代の目から見れば不思議な記述が多く、詳しくは、日本書紀または古事記をご覧になって頂きたいのですが、それを箇条書にするなら凡そ次の様になります。

 実績
  ・王の仲哀天皇が崩御された年に、王に代わり
    九州熊襲征伐を達成する
    新羅を攻め、これに加え百済、高麗を服従させる(三韓征伐)
  ・仲哀天皇の嫡男、忍熊皇子(おしくまのみこ)と争う
  ・朝廷への貢物を巡り新羅を再征伐

 伝承その他
  ・船の上で食事をしていると鯛が集まってきた(浮鯛)
  ・新羅遠征の誓約(うけい)で釣りを試みた(松浦の釣り)
  ・自ら神主となり神と対話する
  ・三韓征伐時に子を宿していたが石を抱いて出産を遅らす(鎮懐石)

この他にも、福岡など九州北部に行けば、各地に神功皇后伝承や遺構が残されていますが、私が現地で見てきた中では

 ・水路の遺構と言われる那珂川市の「裂田の溝」(さくたのうなで)
 ・鎮懐石の実物が置かれていると言う糸島市の「鎮懐石八幡宮」
 ・半煮え料理の風習が残る春日市の「小倉住吉神社」

などが強い印象として記憶に残っています。

画像1:裂田の溝(日本遺産活性化協議会さんのHPから)

このように、あちこちにその痕跡が言い伝えられている神功皇后ですが、肝心の王である仲哀天皇は、神託を疑ったばかりに早く罷(まか)られたと考えられており、神功皇后はその王の代役として、神の託宣に従い勇猛とも言える様々な実績を残し、最終的には自ら産んだ皇子(第15代応神天皇)を天皇に立てたとあります。

皇后である女性が男性顔負けの活躍をしたという記述自体に何やら違和感を覚えますし(あくまでも当時の価値観として言ってます)、託宣の時に神の名を執拗に求める記述、また鎮懐石伝承にも現実感の薄さを覚えるのです。

私としては、この掴みどころの無さこそが、史書に刻まれた暗号メッセージであろうと考えるのですが、それにしても色々あり過ぎて、これをどのように再構築すれば実際の史実に近く組み立て直せるのかと長らく思案の時が続いていたのです。

■神功皇后の少女神解釈

さて、神功皇后はその名の通り「皇后」ですから、そこにこれまでと同様の解釈を加えると

 神功皇后は少女神である

となり、それまでの歴代天皇と同様、仲哀天皇も王権を得るために神功皇后の元へ婿入りしたと考えなければなりません。

以前からお伝えしているように、現代にまで残されている史書類の数々は、元々女系が引き継いでいた王権継承の権利を、史書編纂期に男系による継承に書き換えられた(改竄された)と私は考えており、すなわち、実際は男女の立ち位置が逆転していたのだろうとしているのです。

この「事実を正反対に記述する」という改竄手法を逆手に取れば、神功皇后を巡る実際の史実は次のようであったのではないかとも考えられるのです。

画像2:史実の反転

これを見ると、神功皇后は熊襲・三韓に敗れたようにも見えますが、実際には神功皇后は兵を率いて遠征などには出ておらず、三韓勢力の助力を得た熊襲・三韓連合に仲哀天皇が討たれたことにより、自動的に王権が入れ替わったのではないかとも考えられます。

というのも、少女神は外からの婿を受け入れる立場であり、好んで争いの場に出るようなポジションだったとは考えにくいこと、また、婿家系の男性は少女神の血統を強く欲する立場であり、ライバル亡き後、少女神は極めて大事に扱われただろうと予想できるからです。

そんなことを書くと「日本は半島の国々に負けたのか!」と思われるかもしれませんが、ここで最近の記事「卑弥呼と邪馬台国の精密分析」に提示した「倭国」の新解釈を思い出して頂きたいのです。三韓が朝鮮半島の国々であるということは、すなわち

 三韓も倭国(連合)の一員であった

ということであり、この状態は内乱、もしくは

 倭国大乱

と呼ぶに相応しいとも言えるのです。

すると、神功皇后が石を抱いてまで出産を遅らせて産んだとされる第15代応神天皇とは、この戦いの勝利者である熊襲・三韓系の王家の中から選出された別家系の王であると言えるようになります。

私は、熊襲・新羅とは倭国全土に広がっていた「出雲族」系の民族が建てた国であり、第10代崇神天皇の時に入れ替わった別家系の男性王が、再び神武天皇などと同じ出雲系に返り咲いたということなのではないかと見ているのです。

以上、極めて粗っぽい論理の組み立てなのですが、この説を裏付けるには、神功皇后の他の実績や伝承の類を細かく見て、そこに埋め込まれているコード(暗号)の意味を解読して行かなければなりません。

そして何より、この解釈が公孫氏卑弥呼とどのように関連するのか、その途方もない考察はまさに緒に就いたばかりなのです。

少女神本が買えなくなる?

以下は「少女神 ヤタガラスの娘」の著者、みシまる湟耳(こうみみ)氏のツイートです。
私の確認では電子版はAmazonで現在購入できるようですが、どうしてこのようなことになったのか、本人にも正式な回答が来ていないようです。

重要な書籍なので、書店や電子版で購入できる内にお求めになることを強くお勧めします。


白き衣夢に現る姫様の悲しきお顔に頷くのみかは
管理人 日月土

花嫁たちの故郷

今回はいきなりアニメの話題から始めたいと思いますが、毎度お断りしているように、ここはアニメブログではなく、歴史考察ブログであることをくれぐれもお忘れなきようお願いいたします。

先日、(真)ブログ「GOTO分の世界」で人気アニメ「五等分の花嫁」を話題とした記事を掲載しました。

画像1:アニメ「五等分の花嫁」から
©春場ねぎ・講談社/「五等分の花嫁」製作委員会
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同記事では、作品の構造については具体的なことに殆ど触れていませんが、当然、このアニメの背景には日本古代史との関連も含まれています。今回は、その接点と見なされる歴史的事象にスポットを当てたいと思います。

■五嫁の聖地「太田川」

近年、アニメの背景デザインのモデルとなった土地を、「聖地」として取り上げたり、現地を訪れることを「聖地巡礼」と呼んだりしていますが、「五等分の花嫁」(以下五嫁)の場合は、それが愛知県の東海市、名鉄太田川駅周辺であることは既に確定しています。

それは同シリーズの第1期第1話に出てきた次のシーンに象徴されています。

画像2:既に街を挙げての地域起こしか?

この他にもデザインモデルになった同地の構造物は多い様なのですが、詳しくは地元市議会議員さんのホームページに詳しいので、アニメ好きの方はどうぞそちらをご覧ください。

さて、私がまず最初に気になったのは、画像2の背景モデルになっている建物なのです。この建物、駅前の複合商業施設で「ソラト太田川」と言うらしいのですが、私としては少しばかり仰天のネーミングなのです。

何故なら「ソラト」とは、シュタイナー人智学において

 太陽の悪魔

とされる、キリストに対する最大の敵対者であると位置付けらているのです。

 関連記事(外部):ソラト 太陽の悪魔 

メディア表現に「反キリスト」の象徴が描かれることは、スタジオジブリ作品や最近の「天気の子」なども含め珍しいことではありませんが、この能天気としか言えない学園ラブコメ作品の第1話が、いきなり悪魔の象徴から始まる事に関しては、少々驚きを隠せません。

当ブログではメディア作品の「呪詛」については詳しく触れませんが、少なくとも五嫁の冒頭から呪詛的要素が組み込まれていることは把握しておいてよろしいでしょう。そして問題なのは、その「呪い」がいったい何に向けられていて、どうしてそれが東海市太田川なのかという点なのです。

■知多半島北部は古墳地帯

私は中京地区には必ずしも強くないのですが、大都市名古屋の南東、知多半島の付け根から半島の中央部にかけての丘陵地に古墳が多く点在していることは把握しています。

これを Google Map の太田川周辺で「古墳」と検索すると次の様な結果を得ます。

画像3:太田川周辺古墳マップ

この中で太田川駅の東南にある岩屋口古墳などは、知多半島の古墳の中では最大であるとされており、そのような大型古墳の周辺にこれだけしか古墳が見当たらないというのは本来あり得ないことであり、おそらくその多くが、建造後千年以上に亘る歴史の中で、取り壊されたり人家や畑の下に埋もれてしまった、または、未だ古墳として認識されていない森林などに残されていると考えられます。

古墳の配置を考える時、中世まで続いたと考えられる海進時代の海岸線を考慮に入れなければなりません。「Flood Map」で今より海面が7m高かった場合を想定すると、その海岸線は凡そ次の様になると予想されます。

画像4:太田川は伊勢湾の底にあった
(現在の工業地帯は全て海面下にあったとしています)

この画像を見ればお分かりのように、画像3に表示された古墳(群)は、いずれも古代の海岸線上にあることが良く分かります。

現在の太田川駅周辺は海面下に没しているものの、古代期においては伊勢湾内における更なる小内海のような地形をしていたと考えられ、このような地形は船舶が主要な移動手段であった古代期においては、波風を避け船を停泊できる理想の土地であったと予想できるのです。

ですから、ここに人が集まり、巨大な墳墓を構築するような文化が栄えるのはむしろ必然と言えるでしょう。この場合の古墳とは、単なる墓ではなく、沖を行き交う船にとって、大事な目印となっていたのは予想に難くありません。

要するに、太田川駅周辺の旧海岸線上には、古墳時代以前にある程度の規模の文化圏が築かれていたと考えられるのですが、それと五嫁にはどのような関係があるのでしょうか?

■太田川は少女神エリアだった

実は、伊勢湾周辺の遺跡・古墳については昨年5月の過去記事「古代鈴鹿とスズカ姫(3)」で、少女神、すなわち「古代巫女皇后」を主要トピックとして取り扱っています。

その記事で使われた画像において、今回のテーマとなっている「太田川」の位置関係は次の様に表すことができます。

画像5:少女神ゆかりの地と太田川
地図は海進期の予想海岸線を採用

記画像をご覧になればお分かりの様に、太田川は伊勢湾を取り巻く、いわゆる

 少女神エリア

の圏内、その東岸に位置するのがはっきりと読み解けるのです。

五嫁とは、5人の同じ顔の少女達を主人公に置いた物語ですから、ここで「少女」をキーワードに、アニメ聖地と物語の微妙な繋がりが垣間見えるのです。果たして「ソラト」の呪いもこれと関係あるのでしょうか?

■椿古墳の支石墓

調査に出向く頻度があまり高くはない中京地区ですが、画像3,4の最南端に記されている「椿古墳」については現地に出向いて調査を試みています。

この古墳、古墳認定されているので、何らかの発掘資料が残っているのかネット検索してみましたが、残念ながらネット上には殆ど資料らしい資料が見当たりません。

なので、今もそうなのですが現地に出向いた時も手探りで、外観と土地の造形からこの古墳の成立ちを考えなくてはならない状況となりました。

現地へ向かったのは良いのですが、丘陵の麓から中腹にある神明社という神社までは参道が続いているものの、そこから先へは道らしきものが整備されておらず進めなくなってしまったのです。

道なき道を進む体力が私にはないので困っていたところ、同行者が代わりに登ってくださるということで、その方に丘陵頂上部の古墳があると思われる場所で写真を撮ってきていただきました。その写真が次のものです。

画像6:椿古墳の石(1)
画像7:椿古墳の石(2)

この写真を見た時に私も「えっ?」と思いました。何故なら地面に転がるこの石は平たく整形されたものであり、石棺などの構成物とも考えられますが、ならば端が整えられていない大きな石が、ごろっと数点だけこのように残されているのもどこか変なのです。

結論としてまだ断定できないのですが、私はこれを

 支石墓(ドルメン)

の残骸ではないかと推測するのです。

画像8:支石墓(韓国) (引用元:VisitKorea )

この支石墓、福岡など九州北部のものが有名ですが、基本的に朝鮮半島から渡ってきた人々が半島式に死者を埋葬する文化として残して行ったものと言われています。

そうすると、あくまでも仮定の話となりますが、この土地に半島ゆかりの諸民族が流入していたとも考えられ、ここに、これもまた微妙ではありますが、

 少女神 - 朝鮮半島

の繋がりが見出せるのです。

アニメ「もののけ姫」に登場し、少女神の象徴とみなされる少女「カヤ」が、古代朝鮮国である「加耶」と同音の名を持ち、同時に半島式の帽子を被っている点が、以前から不可解な点として残っていましたが、どうやら、少女神を語る時に古代朝鮮王朝の話は切り離せないという点が明確になってきました。

画像9:もののけ姫のカヤ

前回、前々回の記事では、魏志倭人伝の卑弥呼が居たとされる「倭国」とは、おそらく朝鮮半島と日本列島を含む広い地域を指すのではないかとしましたが、椿古墳が半島式支石墓だとすれば、少女神はこの広い「倭国」の中を移動していたのではないかとの類推も可能なのです。

すると、必然的に、古代倭国の女王と少女神の話も、朝鮮半島を支点に繋がってくるのです。

まだまだ、物事を断定するには不十分ではありますが、最後にこのドルメンが今年上映された宮崎駿監督の最新映画「君たちはどう生きるか」に登場したことを、映画をご覧になった方は今一度思い出して頂きたいのです。宮崎氏はなぜこのようなシーンを映画の中に盛り込んだのでしょう?

画像10:映画に登場した半島式ドルメン
公式パンフレットから

ここまでのキーワードを整理すると

 ・五人の少女
 ・少女神
 ・知多半島の支石墓
 ・古代倭国と卑弥呼

そして、アニメ作品に表現される

 ・古代朝鮮王国の象徴

その関係はいったいどのようなものなのでしょうか?そしてもしも「ソラト」が呪いのキーワードであるなら、まさに古代少女神こそが呪いのターゲットではないのかと私は考えるのです。

書籍のご案内

当ブログで頻繁に取り上げている「少女神」という概念は、みシまる湟耳(こうみみ)氏による著書「少女神 ヤタガラスの娘」(2022/1/28 幻冬舎)によってインスピレーションを受けたものです。ブログ記事を読み進めるためにも、まず初めにこちらをお読みになられることを強くお勧めします。



この本を読むことで、日本国民が天皇家の成立ちについて誤解していること、あるいは意図的に誤解させられている事実に気付くはずです。


内海の空の向こうには 隠れし少女の囚われの園
管理人 日月土

公孫氏卑弥呼とは誰か

今回は、前回の記事「卑弥呼と邪馬台国の精密分析」の続きとなります。話を進めるに当たって、山形明郷著「卑弥呼は公孫氏」をベースに置いていることをお断りしておきます。

■「倭国」の再定義

前回述べた山形説による重要な結論とは

 古代倭国とは遼東半島以南の地域を指す

という点であり、すると、これまでの邪馬台国論争で語られてきた、畿内説vs九州説という論調が極めて怪しくなってくるのです。

なにせ「後漢書韓伝」に倭国は馬韓の南で接していたと明記されているのですから、ここで言う倭国とは朝鮮半島内、あるいは半島を含む以南の国を指しているとしか考えられません。

画像1:古代倭国の想像図

上の図は、現代の国境線による国土感覚で見れば、「倭国」という一つの大国があった様にも見えますが、実際には、それぞれの地域に独立国家のような小国家が点在し、緩やかな連合国家のような体をしていたのかもしれません。

遼東半島を支配していた古代朝鮮国家群や中国の駐留軍から見れば、朝鮮半島を含む南の地域は、日本列島を含めまとめて南の未開国、すなわち倭国という未開人の住むエリアとして一色旦に見られていた可能性があるのです。

その意味では、畿内説や九州説も完全に否定され得ないように見えますが、山形説によれば邪馬台国への行程分析からも、魏志倭人伝に記述される邪馬台国とは、朝鮮半島内にあったと考える方が妥当なのです。

■日本書紀と邪馬台国

次に年代関係を見てみましょう。古代期の年代特定は多くの研究者の努力によりある程度見通しが立ってきましたが、正確な年代となると、果たしてそれが正しいのかどうか、疑問の余地が残ります。

魏志倭人伝については、西暦200年代半ばの出来事とされていますが、ここで、岩波書店から出版された「日本史年表(第四版)」でこの時代がどのような時系列で記述されているかを見てみます。

岩波書店 日本史年表(第四版)

ここでは魏志倭人伝の記述を元に、西暦248年に卑弥呼は亡くなったことになっていますが、気になるのは西暦266年の記述です。

『「倭国の女王から使者が遣わされた」と晋書に書かれている』という何とも回りくどい記述なのですが、岩波文庫の注釈には、どうやら、日本書紀の編纂者は魏志倭人伝の卑弥呼を神功皇后(じんぐうこうごう)と同一視していたようだとの分析が書かれています。

日本書紀には漢籍からの引用と思われる箇所が各所に見られ、これが本当に日本正史なのか?と思わず首を傾げたくなることは多いのですが、ここではまず、日本書紀に該当箇所が具体的にどのように記述されているのかを見てみます。

六十六。年是年、晋の武帝の泰初(たいしょ)の二年なり。晋の起居(ききょ)の注に云はく、武帝の泰初の二年の十月に、倭の女王、訳(をさ)を重ねて貢献せしむといふ。

六十九年の夏四月の辛酉の朔丁丑に、皇太后、稚桜宮に崩りましぬ。時に年(みとし)一百歳(ももとせ)。

岩波文庫 日本書紀(二) 神功皇后

岩波文庫の解説によると、69年の神功皇后崩御に関する記述についても、晋書に書かれた「倭の女王」、すなわち卑弥呼と神功皇后が同一視されていたが故に、敢えて66年条より後に記述されたのだろうとしています。

それが事実かどうか知る由もありませんが、魏志倭人伝では248年に死去したことになっているのに、それより18年も後に晋に使者を送ったとするのは変な話です。詮索し出すと矛盾だらけなのではありますが、それでも

 卑弥呼と神功皇后は同時代の人物

とだけは言っても良いのではないかと考えられるのです。

神功皇后記には、他にも魏志倭人伝の「倭の女王」を模したと考えられる箇所が数か所ありますが、もしかしたら、これは単なる漢籍の引用・転載・借用などではなく、神功皇后と卑弥呼の関係性を示す、日本書紀編纂者からの重要サインなのかもしれません。

卑弥呼に関しては、魏志倭人伝以外に詳しい記述は少なく、それがその謎めいたキャラクター性を高めていますが、同じく謎めいた日本古代史上の女傑「神功皇后」の実体を分析することで、もしかしたら同時代人「卑弥呼」の正体が見えてくるかもしれません。

■倭国大乱と三韓征伐

神功皇后が出てきたところで、神功皇后の女傑としての大功績「三韓征伐」(さんかんせいばつ)について、Wikiの記述を読んでみます。

三韓征伐(さんかんせいばつ)は、仲哀天皇の后で応神天皇の母である神功皇后が、仲哀天皇の没後新羅に出兵し、朝鮮半島の広い地域(三韓)を服属下においたとする日本における伝承である。経緯は『古事記』『日本書紀』に記載されているが、朝鮮や中国の歴史書や碑文にも関連するかと思われる記事がある。

『日本書紀』では新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるためこの名で呼ばれるが、直接の戦闘が記されているのは対新羅戦だけなので新羅征伐と言う場合もある。『古事記』では新羅と百済の服属は語られているが、高句麗の反応は記されず、「三韓」の語も現れない。吉川弘文館の『国史大辞典』では、「新羅征討説話」という名称で項目となっている。ただし三韓とは馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那・加羅)・辰韓(後の新羅)を示し高句麗を含まない朝鮮半島南部のみの征服とも考えられる。

Wikipedia 三韓征伐 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%9F%93%E5%BE%81%E4%BC%90

最初の節で「倭国とは遼東半島の南の地域」と想定されるとしました。これにより卑弥呼と朝鮮半島との関係性がぐっと近くなったのですが、同時に魏志倭人伝に登場する「倭国大乱」を、

 朝鮮半島大乱

と記述することも可能になります。

前節では、卑弥呼と神功皇后の両者の同時代性について論評しましたが、この「三韓征伐」についても、Wikiの定義から「朝鮮半島出兵」と捉えて間違いありません。ここに

 倭国大乱(半島大乱) = 三韓征伐(半島征伐)

の同義性を見出すことができるのです。

どうやら、謎の女王「卑弥呼」とその国家「邪馬台国」は、朝鮮半島と日本列島を大きな一括りの「倭国」と再定義することによって、その歴史的真実が見えてきそうなのです。


桜なる 花咲く宮の裏手にぞ 君来るを待つ 紅の椿
管理人 日月土

卑弥呼と邪馬台国の精密分析

本歴史ブログでは、これまで「卑弥呼」なる女性については何度か触れてきたものの、古代史ファンが熱狂してやまない「卑弥呼・邪馬台国論争」には積極的に立ち入らないようにしてきました。

しかしながら、「少女神」という古代王権に関わる女性の役割がはっきりと見えてきた中で、話の展開上取り敢えず

 卑弥呼 = 媛蹈鞴五十鈴媛(タタラ姫+イスズ姫) = 神武天皇皇后

ということにしてきました。

ただし、この設定に関しては実は私もまだ釈然としない部分が残されており、いわゆる魏志倭人伝が伝えるところの西暦200年代中期の出来事に、神武天皇の后の話が登場するのはやはり時系列的に無理があるとも感じていたのです。

流石に皇紀が伝えるような紀元前660年ではないにしろ、神武天皇の即位は遅くても西暦100年よりは前だろうと考えられるからです。

ここは一旦、邪馬台国・卑弥呼について曖昧にしたままではなく、その出典たる魏志倭人伝について、精密に分析を掛ける必要があるだろうと考えたのです。

■異色の邪馬台国本

私も、邪馬台国論争がどういうものであるかは心得ていますし、どちらかというと畿内説より九州説の方が支持できるかなという極めて浅いレベルではその論争に身を置くこともできます。

しかし、邪馬台国の所在を巡る種々の議論に対し一斉に冷や水を浴びせる説があるのをご存知でしょうか?

画像1:山形明郷著「卑弥呼は公孫氏」1991
同PDF文書:http://grnba.jp/bbs_b/1-1himiko.pdf

ここから先は、上記PDFをお読みになって頂くのが早いのですが、10年以上前に同書に出会って以来、

 「倭人=日本人」と誰が決めた?

という疑問点については常々頭の片隅に入れていたのも間違いありません。そこで、同書の「倭人伝」から、その疑問に関する著者の強烈な皮肉について書き出してみました。

この『三国志』中の『魏書』の末尾に『烏丸鮮卑(うがんせんぴ)東夷伝第三十倭人之条(とういでんわじんのじょう)』という記録があり、これを我が国では、旧来、一般に「魏志倭人伝」と称し、この条文を以て、日本古代史の或時期のエピソードであったと看做(みな)し、我が国古代の歴史を語る上において欠かすことの出来ない重要文献の一つ、即ち「倭人伝= 日本古伝」と信じ込んでいる様である。

この様な固定観念を以て、倭人伝の語る内容を検討しているが、その実情は語呂合わせ的であり、かつ、附会曲解の一語に尽きる解釈足らざるを得ず、この種の研究がなされる様になって、既に3 世紀を費やしているといわれているが、未だに納得のゆく結論めいたものは出ず仕舞である。

山形明郷「卑弥呼は公孫氏」p12より

確かに、魏志倭人伝内に「伊都国(いとこく)」とあれば「糸島のことだ!」、「末羅国(まつらこく)」と来れば「松浦の事だ!」といったような、極めて短絡的な、それこそ語呂が少し合った程度で、それがあたかも確定事項のように、邪馬台国が日本国内に存在したかのような牽強付会な結論に導こうとする論調は多く見かけます。

確かに、この方法だと、自分にとって都合の良い解釈がいくらでも可能であり、その意味では私の掲げている説なども、同じ批判に晒される対象と成り得るでしょう。

■起点を定める

さて、その魏志倭人伝の書き出しはどうなっているのか、原文を見てみましょう。

倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國

「倭人は帯方東南、大海の中に在り。山島に依り国邑を為す。旧百余国。漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所は三十国なり。」

「倭人は帯方郡の東南、大海の中に在る。山がちの島に身を寄せて、国家機能を持つ集落を作っている。昔は百余国で、漢の時、朝見する者がいた。今、交流の可能な国は三十国である。」

引用元:https://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm

倭国の方位を指す最初の基準点として、古代中国の直轄県「帯方郡」(たいほうぐん)の名が記されているのが分かります。その帯方郡の存在位置についは一般的に、朝鮮半島の中西部に存在したとされています。

画像2:一般的な帯方郡の位置関係
「世界史の窓」さん(https://www.y-history.net/appendix/wh0203-099.html)から

しかし山形氏は、

 そもそも帯方郡が存在していた場所はどこなのか?

すなわち、いきなり倭国の位置探索を始める前に、そもそもどこを起点に倭国を巡ったのか、そこを問題としているのです。その為、同時代の中国古文献をほぼ余すことなく渉猟し、そこに記述されている国名や、河川名などを徹底的に絞り込んだ結果、楽浪郡・帯方郡、及び馬韓・弁韓・辰韓などの古朝鮮国家群の位置関係を次のように突き止めます。

画像3:山形氏による三韓所在略図

つまり、楽浪郡・帯方郡・古朝鮮国の一群は遼東半島の北方付近にあり、従来の古朝鮮国は朝鮮半島にあったという定説は誤りであるとしています。また、後漢書韓伝には

韓は三種あり。一は馬韓と曰ひ、二は辰韓と曰ひ、三は弁辰と曰ふ。馬韓は西に在り、五十四国あり。その北は楽浪と南は倭と接す。辰韓は東に在り、十有二国。その北は濊貊と接す。弁辰は辰韓の南に在り、また十有二国。その南はまた倭と接す。

とありますので、倭国とは画像3の馬韓南部、及び弁韓の南部と接する辺り、すなわち遼東半島南部沿岸から、始まることが分かるのです。

これに、魏志倭人伝の記述を当て嵌めると(「里」は海上では正確な距離を示さず、一昼夜程度の時間を百里見当としている)、結局、倭国とは

 遼東半島南部から朝鮮半島一帯を指す地域

であることが示されるのです。

即ち、日本列島内で「畿内だ、九州だ」と騒いでいる邪馬台国論争には実は何の意味もないと山形氏は看破しているのです。

■女王と公孫氏

この後、卑弥呼と遼東半島の有力氏族である公孫氏(こうそんし)との関係が述べられていますが、詳しくは同PDF文書を良くお読みになってください。

山形氏の指摘を受け入れると、私の卑弥呼=媛蹈鞴五十鈴媛説は見事に崩壊する訳なのですが、むしろ私はその方がスッキリするのです。

この二人は時代的には200年以上離れた存在であり、二人が別人とすれば、これで時系列問題がクリアされたことになります。そして、魏志倭人伝には卑弥呼登場の前に「倭国大乱」が短く表現されており、山形解釈によればそれは

 朝鮮大乱

と表現しても問題ないでしょう。

実は、媛蹈鞴五十鈴媛から200年位後の時代はちょうど、日本書紀にもある神功皇后による

 三韓征伐

が行われた当たりの時代と重なってきます。

ここで、魏志倭人伝における「卑弥呼」と日本書紀における「神功皇后」の距離がぐっと近づくこととなり、あらたな日本との関係性が浮上してくるのです。

この媛蹈鞴五十鈴媛から卑弥呼登場までの200年間は、日本古代史においても謎の多い欠史八代時代とも重なり、この謎の時代は、もしかしたら当時の朝鮮半島情勢を調べることで見えてくる可能性も出て来たのです。


百歳の時を繋げよ卑弥呼なる姫神
管理人 日月土

美濃の姫神

今年の6月の下旬頃、調査の為に岐阜県へ行ってきました。目的地はJR東海太多線(たいたせん)の駅である「姫(ひめ)」駅の周辺、昭和35年まで姫治村(ひめじむら)と呼ばれていた地域です。

画像1:姫駅

この村は、南北に分割され、分かれた地区はそれぞれ多治見市、可児市に併合されています。

この「姫」という駅名があまりにもあからさまな印象を与えることもありましたが、何より太多(たいた)という名前が、その時海外ニュースで何かと話題になっていた

 タイタン号の沈没

と言葉の響きが被っていたことが、どことなく気に掛かっていたのです。

単なる駄洒落の話であれば、そのまま忘却の彼方に消え失せてしまうのですが、このタイタン号の沈没事件、調べるとおかしな話や奇妙な点が多く見られ、それらについてはこれまでブログ記事でもご紹介しています。

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ただの駄洒落繋がりと言われればそれまでですが、「姫」についての話は、これまで少女神に関して考察してきた見地からも興味がそそられる話題でもあり、ここは一丁、現場を見て来るかと、実に気楽な思いで現地に向かったのです。

■現地に残る姫伝承

ところで、どうしてこの地域が「姫」と呼ばれるのでしょうか?それについては、可児市のホームページにその謂われが詳しく掲載されています。まずは、長文ではありますが、主要な部分を抜き出したので、そちらをお読みになっていただければと思います。

序章

大国主之(おおくにぬしの)命(みこと)が因幡(いなば)の白(しろ)兎(うさぎ)を助け各地で、国造りを進めていたころの話です。

大国主之命の娘で、農耕・医療・織物に長けた下照姫之(したてるひめの)命(みこと)は、高天原(たかまがはら)から遣わされた天稚彦之(あめのわかひこの)命(みこと)と結婚し二人の娘を儲け美濃で国造りをされていました。

8年の間、高天原(たかまがはら)に戻らなかった罪で天稚彦之(あめのわかひこの)命(みこと)は大矢で討ち取られました。

その死が高天原に届くと、天稚彦之命の両親も悲しみ美濃の大矢田に下り、喪屋(もや)で弔(とむら)いをしていると、下照姫之命の兄の味耜高彦根之(あぢすきたかひこねの)命(みこと)も弔いにきました。

その兄が天稚彦之命に似ており、両親は「天稚彦が生きている」と喜び勇み高天原に戻りました。

死人に間違われた味耜高彦根之命は怒り、喪屋を藍(あい)見(み)川(がわ)に蹴り落としました。川に流された喪屋をこの地の民が拾い、川に流されないよう天王山に納め弔いました。のちにこの山を喪山(もやま)と呼ぶようなりました。

これを見て下照姫之命はまた民と手を取り合いこの地の国造りを進められました。ふたりの娘も成長し、姉の御手洗姫之(みたらいひめの)命(みこと)をこの地に残し、下照姫之(したてるひめの)命(みこと)は妹の姫之(ひめの)命(みこと)とともに、信州に届く国造りに向かわれることになりました。

なんと、かつて本ブログでも取り上げたことのある、日本神話の神々(あるいは古代人)が勢揃いしているではないですか。しかも、いわゆる「返し矢」のエピソードもここには記されており、これはもはや日本古代史に関わる話であり、駄洒落から生まれた興味として軽々と取り掛かれません。

ここに登場する下照姫(したてるひめ)は、大国主之命の娘とされている点から、記紀・秀真伝の3者の中では、古事記に記されている関係に近いと考えられます。

画像2:天稚彦と登場人物との関係(史書の比較表)

目新しいと思われるのは、夫の天稚彦(あめわかひこ)に先立たれた後、その妻下照姫と二人の娘の様子が描かれていることです。これは、記紀・秀真伝には残されていない伝承なのです。

特に気になるのが「二人の姫」の存在で、これについては記紀・秀真伝の中では触れられていません。つまり、この地方伝承は単なる記紀の焼き直しではなく、史書にはない新たな史実を伝えている可能性があるのです。

それでは、その二人の姫の一人、美濃の地にその名を残した「姫之命」についてもう少し見て行きましょう。こちらも長文となります。

姫之命

木曽川に着くと夕方となり、一夜を過ごして川を渡ることとされました。次の日早朝、荷物を持つお供達とともに木曽川を渡りました。

可児の地に入り川沿いの薮道を東に歩き始めると、白い兎が出てきました。姫之命様が兎についていくと、藪の中に竹籠を背負い座る古老がいました。

古老が見上げると、靄(もや)に射す陽の中に美しい姫が立っておられました。古老は思わず「お待ちしていましたお姫様」といって泣き出しました。

下照姫之命様と姫之命様が訳を聞くと、「仲間と筑紫・出雲・丹波などに住まいながら東国をめざして来ました。地の長や民に竹具作りや手ほどきをしながらこの地に着き数十年がたち、仲間もいなくなりました。私は各地の経験や古老を理由に人々の相談に乗るまでになりましたが、水害や凶作などの良い相談相手にならず困っております。ある夜夢で、この地を治める神の御子を待てとのお告げがありました。今日、いつものように薮に竹を取りにいくと、珍しい白兎が出てきましたので、追って来たらこの藪にたどり着き、疲れて座り込んでいました。」といいました。

お二人の姫様は、「この白兎は何かの縁、案内を」と申されました。姫様達が霧漂う洞(香ケ洞)に着かれると、長く霧と雲で覆われていた空が開き日差しが下霧(下切)の周りを照らし、霧はいつの間にか消えました。

古老は下照姫之命様のお名前のご威光を目の当りにしました。

雲間の青空が大きくなる様子を見上げた人々は空に向かう白く細い煙に気が付くと、煙の出る古老の住みかに寄ってきました。

集まった人々は古老から経緯を聞くと、美しく神々しい姫様達に手を合わせました。姫様達は持ってきた干し米飯を湯戻しして少しずつ分け与えられました。米ができないこの地の人々は美味しい飯に喜び、この米の作り方を教えてほしいと口々に申しました。

お二人の姫様は、この夜の満点の星をみながら、姫之命様とお供の一部がこの地に残り国造りを進めることを決められました。

下照姫之命様は、亡き天雅彦之命を偲び夫の両親や兄を想い読まれた

 天(あめ)なるや 弟(おと)棚(たな)機(ばた)の 頸(うな)がせる 
 玉の御統(みすまる)に 孔(あな)玉(たま)は 
 深谷二(みたにふた)渡(わた)らす 味耜高彦根之(あぢすきたかひこねの)神ぞ

 ※天の織姫の首飾りの連なりのように輝く天の川が両岸の星をまたいで
  輝き渡らしているのは味耜高彦根之(あぢすきたかひこねの)命(みこと)です

との歌を、天の川を見上げ、若い姫之命様に贈られ「父や母は、いつもあの2つの星から見守っている」と言われました。

下照姫之命様とお供が信濃に向かわれた後、白兎は長く山にいましたが、仲秋の満月を境に消えてしまいました。「月に戻ったのかな」といい白兎の縁に感謝し、人々は月に祈ったそうです。兎のいた場所を兎田とも呼ぶようになりました。

「もう何年も天気も悪く粟(あわ)や稗(ひえ)の実りが少ない」との話を聞かれた姫之命様は、この湿気(尻毛)の粟(あわ)田の水はけを良くするように細い溝を田にめぐらすと良いことや山裾に広がる稗(ひえ)田に流れ込む山水の沢に小さな堰(せき)と水を引く溝(みぞ)や畦(あぜ)を作り、田の水を加減すると良いことを話されました。言われたように溝を作ると弱っていた粟がしだいに元気になりました。

秋には、粟も稗も穂が垂れるほど実りました。姫之命様は、この実りをもたらした田や自然の恵みに感謝をし、笹で作った斎(いみ)竹(だけ)を立て、真菰(まこも)で作った新菰(あらごも)を敷いた斎庭(ゆにわ)(神事の場所)で人々と共にお祈りをされました。ここに真菰や神田の字名が残ります。

時に暦の神事を行い老若男女が集まり語らいをすることで、諍(いさか)いを無くし助け合えるようにされました。

何年か後には人々が望んだ米づくりも始まりました。火傷や外傷をした人には、傷口を水で洗い、川辺のガマの花粉を塗りガマの穂を敷き、休ませました。熱や腹痛などの病気の人がいれば、笹の葉を煎じた薬茶を処方されました。弱気になった病人には、竹取の古老が作った折(おり)樽(たる)を捧げ快方を祈られました。

人々の困りごとの相手もされ、人々が平穏に暮らせるようにと、神と人を結ぶ青木の枝を御神木(ごしんぼく)として立てて、神様のご加護を願われました。榊の名を持つ青木が地名として今も残っています。

姫之命様は、人々に親しまれこの地に住まわれ下切を中心とする姫庄と呼ばれた地域を治められました。
(以下略)

引用元:姫治のむかし話 https://www.city.kani.lg.jp/20554.htm

日本書紀、古事記、そして秀真伝に記述されている、天雅彦(あめわかひこ)、味耜高彦根(あぢすきたかひこね)、そして下照姫(したてるひめ)の関係性については、宮崎駿監督のアニメ映画「もののけ姫」のモチーフに使われていることを過去記事で指摘し、逆にアニメ中の表現から、これらの史書に書かれていない関係性について考察しています。

動画1:モロともののけ姫の考察(アップデート)

画像2を見ると、古事記では下照姫はこの文中の歌は詠んでおらず、詠み人は、味耜高彦根の妹である高照姫(たかてるひめ)となっているのです。どうやらこの伝承、記紀の記述がごっちゃになっているようで、これは史書のつまみ食いとも取れますが、逆に、この伝承の方がオリジナルで、後に史書毎に記述が代わったとも取れなくもありません。

この問題は、古事記に登場する高照姫が下照姫と同一人物であると解釈することで、取り敢えずの解決を見るのですが、何故こんなことが起こるのか疑問は払拭できません。

そんなことよりも、ここで注目すべきは、姫之命に関する次の点なのです。

 1)正式な名が残されておらず、一般名称の「姫」のみである
 2)出雲大国主との関係(白い兎の登場)
 3)水利による土地改良の知識
 4)祈りによる病気快癒、人々の相談事

2)、3)については、白い兎は因幡の白兎を連想させ、優れた土地改良のノウハウも出雲系民族を連想させます。4)についてはシャーマン(巫女)としての能力の高さを謳っていると解釈して良いでしょう。

しかし、それほどまで優れた血筋であり、能力が高い女性にも拘わらず、その名が残されていないのがまたまた気になるのです。このような場合、意図的に名が伏せられたと考えるのがこれまで本ブログで行ってきた史書の読み方なのです。

■姫之命は木花咲耶姫である

ここで、これまでの考察で得られた結果が応用できます。まずは、過去記事「猿と卑しめられた皇統」で導いた次の結論を思い出してください。

画像3:失われたホノアカリ王朝と史書の変名

上の図から、下照姫とその夫である天雅彦の間に生まれた娘の姫之命、その方が

 木花咲耶姫 (このはなさくやひめ)

であると導かれるのです。

加えて、木花咲耶姫に関する史書の伝承は、その姉である磐長姫(いわながひめ)の存在も伝えており、姫之命の姉である御手洗姫が磐長姫の変名、あるいは本当の名であることも分かってくるのです。

ここは取り敢えず

 美濃の姫之命は「木花咲耶姫」である

と結論付けてよいでしょう。

■再現される木花咲耶姫

上述では、宮崎駿監督の「もののけ姫」のタイトルを挙げましたが、今年の夏、その宮崎監督が引退宣言を撤回して新作を出してきました。ご存知の通り「君たちはどう生きるか」です。

この中の登場人物である「夏子」について、そのキャラ付けが人気アニメ作品であった「ぼっち・ざ・ろっく」のぼっちちゃんこと「後藤ひとり」と同じであると指摘したのが、(真)ブログ記事「ぼっちと夏子は似た者同士」であり、その理由について述べたのが(新)ブログ記事の「ひとりぼっちのナツコ」だったのです。

画像4:夏子とぼっち

また、この映画を理解するヒントとして、(真)ブログ記事「どう生きるかと問われても」の中で、日本書紀の一節を引用しています。

この後に神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)が、皇孫をご覧になっていわれるのに、「私、天孫の御子を身ごもりました。こっそりと出産するわけに参りません」と。皇孫がいわれるのに「天神の子であると言ってもどうして一晩で妊ませられようか もしや、わが子ではないのではあるまいか」と。

木花咲耶姫は大変恥じて、戸のない 塗籠(ぬりこ)めの部屋を作って、誓っていわれるのに「私のはらんだ子がもし他の神の子ならば、きっと不幸になるでしょう。 また本当に天孫の子だったら、きっと無事で生まれるでしょう」と。そしてその室(むろ)の中に入って火をつけて室を焼いた そして 炎が初めて出たとき、 生まれた子を 火酢芹命(ほすせりのみこと)、 次に火の盛んなときに生まれた子を 火明命(ほのあかりのみこと)と名付けた。 次に生まれた子を、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)という。

日本書紀 神代 下 (現代語訳:宇治谷 孟)

この引用部分を読んでいただければ分かるように、これは木花咲耶姫の出産シーンについて書かれた一節で、アニメ作品の中では、病院で焼け死んだ「ひみ」を直接的に指していると考えられるのです。

すると、その姉妹である「夏子」は必然的に「磐長姫」となるのですが、その解釈を更に補強するのが、

 ろっく = Rock = 岩 = 磐

というネーミングであることにお気付きになったでしょうか?

26年前の大ヒット映画「もののけ姫」の中で「サン」という、木花咲耶姫を模したキャラを出してきた宮崎監督、引退を撤回した今回の新作でも再び

 木花咲耶姫と磐長姫

の姉妹を取り上げてきたのです。

果たして、この歴史モチーフを再び取り上げた理由とは何であったのか?そして6月の不可解なタイタン号報道は一体何であったのか?特に後者に関しては偶然と片付けるにはあまりにも不可解な点が多いのです。

しかも、この最新作には「B (=13)」の記号も秘められており、その記号がまるでこの時期(特に8月11日)をターゲットに、他作品(米映画「バービー」)の中や社会事件(ビッグモーター不正請求事件)の中にも見出せるのは、もはや偶然と片付けるには余りあるのです。

 関連記事:ひとりぼっちのナツコ 

これらメディアを通して幾重にも発信される記号は、おそらく「二人の少女神」と言う古代史実の概念を用いなければ理解できない、私はそう考えるのです。

皐の岡の山奥に神田なる池姫の池
眠れる森の姫様は鷺の羽音に目を覚ます


管理人 日月土

欠史八代の天皇と皇后

これまで神代(神話の時代)とされていた頃の日本古代史上の人物について考察してきましたが、今回はそこから少し離れて、神代から人皇の時代へと移り変わった直後の記録について見て行きたいと思います。

記紀では、神武天皇が人の世の王として最初に現れた天皇とされていますが、神武天皇については一旦考察を保留し、その次ぎの2代目から9代天皇までについて、取り敢えず史書に残された記録を纏めてみることにします。

既にご存知の様に、2代目から9代目までの史書における記述は余りに少なく、その少なさ故に、

 欠史八代(けっしはちだい)

などと、「史実が欠けた八つの代の天皇」の意味で呼ばれていたりします。

この記録の少なさは、古代史研究者の間でも「その代の天皇は実在などしていなかったのでは?」と歴史の実在性への疑問を唱える声となっているようです。

それはそうでしょう、現在の歴史研究とは主に文献研究であり、その文献自体が存在しなければ、歴史学者にとってその時代は存在しないのも同然なのですから。

■史実が残されていない意味を考える

これまでの記事で、「史書類は改竄の書、暗号の書」と散々述べてきた手前、この史実欠落の理由についても一言私の考えを述べておかなくてはなりません。

神代の記述については、史実のファンタジー化・神話化により、都合の悪い史実を「まるっ」と改変しながら、事実を読み解く解読キーをこそっと文中に残す手法を取っていたと考えられます。そして、実際にその考え方を応用して神代の記録をこれまで読み解いてきたつもりです。

ところが、その史実そのものが記述されていない場合はどう解釈したら良いのでしょうか?おそらく、この時代は神代記のように「改変と暗号キー」でどうにか書き換えるのも叶わないほど、

 歴史的に大混乱した時代

だったと考えられるのです。つまり、時系列的に筋道を立てられるような改変が不可能な程、混乱に満ちた時代であったとも考えられるのです。

ですから、日本古代史、あるいは日本成立史を理解する上で、この欠史八代期の史実を知ることは非常に重要なのではないかと私は考えるのですが、如何せん記述が少ない件についてはどうにもなりません。そこで、今回はその僅かな記述を整理して、そこから何を読み取れるのか、あるいは読み取れないかを検証したいと思います。

■欠史八代の天皇と皇后

取り敢えず、日本書紀の記述には、娶った皇后の名前、生まれた子の名前、都(みやこ)が置かれた地名などが残されているので、まずは欠史代の天皇(すめらみこと)について、その皇后の名をリスト化してみました。

参考までに秀真伝(ほつまつたえ)に記述された皇后の名も添えています。

表1:欠史八代の天皇とその皇后(日本書紀・秀真伝)

皇后の名に注目したのは、これまでお伝えしてきたように、「日本の王権継承は女系によって行われてきた」という少女神仮説が成り立つであろうと考えたからです。

画像1の場合、赤枠で囲んだ二人の媛については「事代主の女(むすめ)・孫」と断り書きが付いており、この場合の「事代主」とは時代的に大国主の息子である事代主のことではなく、同事代主の孫に当たる「八重事代主(やえことしろぬし)」のことであろうと考えられます。

過去記事「三嶋神と少女神のまとめ」で述べたように、八重事代主は、史書によって「丹塗矢」、「大物主神」、そして「鵜葺草葺不合命(うがやふきあへず)」とその名が変えられており、いずれにせよ玉依姫(たまよりひめ)という少女神に婿入りしています。当然、その娘は少女神の継承者、すなわち王権の継承者であると考えられるのです。

またその娘の娘、すなわちその孫娘についても同じことが言えます。よって、書紀の記述にある「五十鈴依媛(いすずよりひめ)」と「渟名底仲媛(ぬなそこなかつひめ)」の両者についてはおそらく少女神であっただろうと判断できるのです。

さて、そこまでは良いのですが、4代目の懿德天皇以降はどうもその手掛かりが見つかりません。この後、日本書紀も秀真伝も男系継承として天皇の代が続いて行くのですが、それを覆すようなヒントは今のところ見つかっていないのです。

この欠史代期の考察については、これまで次の記事で取り上げています。

 1)ダリフラのプリンセスプリンセス 
 2)富士山は突然現れた? 
 3)菊池盆地の大遺跡と鉄 

1)はアニメ作品「ダーリン・イン・ザ・フランキス」に登場するナインズの8人のメンバーが欠史八代に対応していると仮定した場合の考察。

2)は旧事紀30巻本の孝霊天皇の代における富士山に関する異変についての考察。

3)は文中において特に欠史代に触れていないものの、第2代綏靖天皇が祭神とされている、熊本県菊池市の日置金凝神社(へきかなこりじんじゃ)を写真で紹介しています。

どれもまともな歴史資料とはちょっと言い難いのではありますが、少なくとも欠史代が存在していた痕跡を感じさせるものではあり、やはりこの代を全く無視して日本古代社会の成立過程は語れないのだろうと思わせるのです。

まだ漁るべき資料は幾つか残っています。少々尻切れトンボとなりましたが、次回、もしくはそれ以降の回で謎の欠史代について再び切り込んでみたいと思います。


フィオーレ(花)の森を登れば白壁の祈りの堂に君を見染めし
管理人 日月土

古代の女王と文化庁

今回は、地味で目立たない古代史分野において、全国ニュースにもなったあの話題について取り上げてみたいと思います。そうです、何かと卑弥呼伝説と関連付けられることの多い佐賀県の吉野ヶ里遺跡の新規発掘のニュースです。

吉野ヶ里遺跡で見つかった「石棺墓」…「朱の痕跡」は邪馬台国論争に一石投じたか
2023/06/18 15:00

編集委員 丸山淳一

 国指定特別史跡の吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼市、吉野ヶ里町)で、弥生時代後期の有力者の墓の可能性がある 石棺墓(せっかんぼ) が見つかり、覆っていた4枚の石蓋を外して内部の調査が行われた。残念ながら遺骨や埋葬品は出土しなかったが、佐賀県の山口 祥義よしのり 知事は「調査の結果、石棺墓は 邪馬台国やまたいこく の時代の有力者の墓と裏付けられた」と発表した。


発掘調査を終えた石棺墓。遺骨や埋葬品は見つからなかった(説明しているのは白木原さん。6月14日午後)

 今回の調査地点は神社があったためにこれまで調査されていなかった「謎のエリア」で、神社が昨年移転したことから県が調査を進め、今年4月に石棺墓(長さ約192センチ、幅約35センチ)を発見した。遺跡内からはこれまでに18基の石棺墓が見つかっているが、今回調査された 墓坑ぼこう が大きく、見晴らしのよい丘に単独で埋葬され、石蓋には線刻があった。通常の墓とは異なる特徴から、集落を統治した首長の墓の可能性があるとみられていた。

昭和61年(1986年)に本格調査が始まった吉野ヶ里遺跡は、弥生時代の全時期にわたる遺跡とみられ、国内最大級の 環濠(かんごう)集落や600メートルにもわたる 甕棺墓かめかんぼ の列が見つかっている。調査地点のすぐ東には14基の大型甕棺と人骨、銅剣、管玉などが出土した紀元前1世紀ごろの墳丘(北墳丘墓)もある。しかし、邪馬台国時代(2世紀後半~3世紀中ごろ)の有力者の墓は見つかっていなかった。調査を担当した佐賀県文化財保護・活用室長の白木原 宜たかし さんは「吉野ヶ里遺跡の最盛期は弥生時代後期。そのときの有力者の墓は大きな問題になる。それが邪馬台国の時代の墓ということになれば、その論争に一石を投じることになるのでは」と話す。
(以下略)

引用元:讀賣新聞オンライン
https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20230616-OYT8T50003/

要するに世間の関心は「卑弥呼の墓かどうか」にあって、教科書に出て来る古代史上の有名人が実在したその証を求めているに過ぎないのでしょう。今回の発掘では特にこれといった出土品が発見されず、期待だけが膨らんで静かに終息していったというところなのだと思います。

卑弥呼伝説には様々な議論があり、特にその女王国がどこにあったのかについて話題になることが多いようです。中には「卑弥呼は存在しなかった」と主張する研究者もいらっしゃるので、この議論に素人の私が参入するのもどうなのかとは思いましたが、吉野ヶ里遺跡は私も10年前に訪ねた史跡でもあり、その所感くらいは書いてもよかろうと思い取り上げた次第です。

■卑弥呼と少女神

本ブログを読まれている方ならお分かりの通り、私は古代日本に女王国が存在したこと自体に特に驚きを感じていません。それは

 古代王権は女系によって継承されていた

という仮説を指示する立場をとっているからです。

いわゆる巫女的シャーマンである「少女神」(しょうじょしん)の血の継承と、その少女に婿入りできた男性が統治王として選任される、そのような王権授受の仕組みがあったのであろうと考えているのです。

どうしてそのように考えるのかについては、みシまる湟耳氏の著書「少女神 ヤタガラスの娘」に詳しいのですが、要するに記紀神話の中にそれを臭わせる記述が散見でき、おそらく女系による王権継承こそが日本古代史における本質的部分であり、後世にそれが改竄され、現代のように男系継承によって王家(天皇家)が続いてきたイメージに書き換えられたのだろうとするのです。

魏志倭人伝における「邪馬台国」とか「卑弥呼」という、日本人にとって極めて侮蔑的な漢字表記は、おそらく後世の反日的、女卑的な思想を反映したものであり、国名や本人の正式名は全く別のものであった可能性があります。

そもそも、魏志倭人伝は伝聞情報を元に書かれたものであり、当時の様子を生々しく記録した実見録とは言えないものなのです。そのようにかなり当てにならない史書であるからこそ、卑弥呼の存在を否定する研究者が出てくるのもある意味頷ける話ではあるのです。

しかし、史書と呼ばれるものはどれも書き手の思想に染まっている物ですから、どれが正しいとか正しくないとか議論しても仕方ありません。むしろ、

 どの史書も改竄されている

とみなし、それぞれの史書の思想性や書き手の意図を汲み、なおかつ史跡からの出土品を参考にしつつ事実を割り出していくしか、古代期を推察する術はないように思います。

本ブログではまさにそれを実践しようとしている訳なのですが、そんな中で、卑弥呼と記述される女王とは、

 媛蹈鞴五十鈴姫(ひめたたらいすずひめ)

である、すなわち神武天皇の皇后ではないかとしているのです。

日本書紀の神武記においては、神武天皇は九州の宮崎出身ですから、その意味で卑弥呼の女王国は九州内にあったとも考えられるのです。

そしてもう一つ、神武天皇は東征して畿内に大和王朝など作ってなどいない、神武天皇による王朝は九州内に作られたのだとする「九州王朝説」を顧みた場合、邪馬台国(大和国?)が九州内にあった可能性は一段と高まるのです。

■発掘の専門家G氏の見解

さて、ここで吉野ヶ里遺跡の発掘に話を戻しましょう。この話をする前に、今回の発掘対象となった「石棺墓」がどのような構造になっているのかを知っておかなければなりません。

画像1:石棺と地山(じやま)

たいへん下手なイラストで申し訳ないのですが、石棺は地山と呼ばれる土の上に石板を縦長に立て、これを側面とします。底板に当たる石板はなく地面の上に直接、あるいは敷物などを敷いてその上に亡骸を横たわらせるのです。これに石の蓋をすれば石棺として完成します。

日本のような酸性土壌に土葬した場合、100年程度もあれば骨は土にかえるのですが、土の上に直接置かれた遺体の場合でも、1000年以上もの時が経てば、その遺体は骨まで全て土にかえってしまうでしょう。ですから、身に付けていた小さな副葬品などは地面に落ち、やがて土に埋もれてしまいます。

ですから、石棺の蓋を取り外しても遺体の残骸はまず見つからないと言ってよいのですが、身に付けていた石や金属の小片は地面を掘り起こして探し出さなくてはなりません。

さて、転載した報道写真にあるような発掘状況を見た時、発掘の専門家である知人のG氏はちょっと驚いたそうです。

 地山を掘り返してないじゃないか!


先に述べたように、副葬品は土に埋もれてしまいますから、このような石棺を発掘する場合、地山まで掘り返すのが発掘作業の基本セオリーなのです。

G氏によると、同じ発掘同業者も同意見であり、どうしてこんな素人を煙に巻くようなことをするのかと同業者内で騒然となったそうです。

そして、その後遺跡発掘関係者の間で次の様な話が広まったと言います。

 吉野ヶ里の発掘責任者に文化庁から次の様な電話があった。

 「掘るのはもうその辺で良いのでは?」

もちろん、この話の真偽は分かりません。ただの噂と言えば噂です。しかし、実際に地山まで掘り返していないのは映像から明らかであり、その事実があるからこそ、このような噂が流れたとも言えるのです。

G氏は、これが事実であれば明らかに中央政府からの干渉であり、発掘を止める理由があるとすれば、出土品がこれまでの大和王権に関する定説に抵触する可能性があるからだろうと推測しています。

先にも述べたように、私は、どんな史書類にも改竄は見られるとしてますが、史実を検証する上で貴重な資料となる発掘作業までもが、もしも政治的に干渉を受ける対象とされているならば何とも残念で悲しい気分になるのです。

■時代設定は正しいのか?

さて、今回発掘の対象となった墳墓は、吉野ヶ里歴史公園内にある日吉神社の下にあったもののようです。

画像2:公園内にあった日吉神社

この神社を移設することで今回の発掘が可能になったとのことですが、私はこの墳墓の建造年代をどのように判定したのかについては疑問を持っているのです。

おそらく、神社の周囲にあった他の遺跡や石棺墓類の年代が弥生時代後期と確定していたため、一続きの遺跡として墳墓の年代が推定されたのではないでしょうか?しかし、ここは「通常の墓とは異なる特徴」である点をもう少し気にするべきであったのではないでしょうか?

古代から現代まで、人が集まるところには重層的に遺跡が積み上げられていくものです。つまり、吉野ヶ里のこの土地が重要であり、何代にも亘って、あるいは間欠的にこの土地が使われた可能性があり、必ずしも今回の発掘対象が弥生時代後期とは限らない、可能性としてはそれから数百年後の古墳時代のものであることも考慮に入れるべきだろうと考えるのです。

そうなると、先程の文化庁が干渉してきたという噂の蓋然性も増してくるのです。何故ならば、古墳時代とは、定説ではまさに畿内大和王権の時代であり、もしも、当時の特徴を持った副葬品などが出てきた場合、邪馬台国の所在問題どころか、現皇室の出自までが揺るぎかねない事態となるからです。

真偽の程は私もよく分かりませんが、今回の吉野ヶ里遺跡の発掘は、「卑弥呼」騒動を超えた、この国の始まりに大きく関わるものなのかもしれません。


老女子(おみなご)の 守るは都 吉野ヶ里 この先行かば 火の雨ぞ降る
管理人 日月土

神津島の少女神たち

今回は再び、三嶋神、そして三嶋神に関わる少女神の話題に触れたいと思います。このテーマに関わる記事については、「三嶋神と少女神のまとめ」に記事のリストと要点を記していますので、そちらをお読みになってください。

さて、上記三嶋神シリーズの中で「伊古奈姫と豊玉姫、そして123便」のタイトルで伊豆の下田にある伊古奈比咩(いこなひめ)神社に触れました。これまでの推察から、伊古奈姫とは、おそらく記紀で言う所の「豊玉姫」(とよたまひめ)を指すのであろうと、一応の結論が出ています。

同記事の中で、伊古奈比咩に関する研究文献に触れましたが、ここでは同書から更に大事な部分を取り上げてみます。

次に神系に關しては、續日後紀卷九仁明天皇承和七年九月二十三日乙未、阿波神と物忌奈乃命が崇をなされる條に、この二神は三嶋神の本后と御子神であるにも係らず、嚢(さき)にその後后に冠位を授賜せられ、我が本后にその沙汰のないのを憤り給うた記事があって、前後の事情から推察すれば、この後后とは伊古奈比咩命を指すものと認められるから、伊古奈比咩命が三嶋神の後后にまします點が知り得られ、又前紀三宅記にいふ「天地今宮の后」や、伊豆國神階帳に「一品當きさきの宮」とあるものに當るとせられてゐる。

引用元: 伊古奈比咩命神社公式ホームページより
要約:続日本紀には、阿波神(あわのかみ)と物忌奈命(ものいみなのみこと)の祟りに関する条があり、この二柱は三嶋神の正皇后とその子であるにも拘らず、後后である伊古奈姫に官位が授けられ、本后(阿波姫)にはそれがなかったので、二柱の神はたいへんに怒ったと言われている。

前回は、伊古奈姫と豊玉姫の関係性に注目したのですが、この記述を読んでしまった以上、伊古奈姫について語るならば、やはり三嶋神の正皇后とされる阿波姫とその子である物忌奈命についても触れない訳には行きません。

実は、この二柱の神については、下田の更に沖合にある伊豆七島の神津島(こうづしま)にそれぞれの神名を冠した二つの神社、阿波命神社と物忌奈命神社のあること分かっており、やはり同島の調査は外せないだろうと、6月下旬に入って東京の竹芝桟橋から船に乗り、現地へと向かったのです。

画像1:3つの神社の位置関係
画像2:神津港と島のシンボル天上山

■黒曜石の島、神津島

神津島と言えば、スキューバダイビングや釣りなど、マリンレジャーの島として知られている一方、良質の黒曜石(こくようせき)が採れる島としてご存知の方は結構いらっしゃるのではないかと思います。

これに関し、過去記事「瀬織津姫 - 名前の消された少女神」では、静岡県御前崎の「星の糞遺跡」で発掘される黒曜石の剝片の9割が神津島産であったことをお伝えしています。

神津島の黒曜石は他産地に比べても粘り気があり、加工に向いているらしく、縄文の古代から本土の各地に持ち出されていたようなのです。

黒曜石はその割れ目が鋭く尖る性質があるので、石器時代には矢じりや刃物として使用され、鉄などの金属器の普及と共に衰退していったとされています。

それにしても、数千年前、けっして陸に近いとは言えない太平洋上の小島から、わざわざ船で石を持ち出していたというのだから、驚きと言うより何か不思議な気がしてくるのです。これについては、改めて研究する必要があるのかもしれません。

画像3:現地の人に見せてもらった黒曜石の塊

■島で語られる二柱の神

島に着くと、観光用ガイドとして次の無料パンフレットが観光案内所に置かれていました。

画像4:神津島神社めぐりガイド
公式サイト:https://kozushima.com/shrine/

そこには、先に述べた2つの神社、及びその他について触れられていましたが、神々の系図も描かれていたので、当該部分を抜粋し、これまで当ブログで考察した結果を添えて以下に掲載します。

画像5:ガイドブックに記された系図(修正済)

この系図についてですが、既に論じてきたように、一般的に出雲の事代主とされている三嶋神は後世の誤解で、実際は賀茂建角身(かものたけつぬみ)及び彦火火出見(ひこほほでみ)と同一人物であったと考えられるのです。よって、画像5の系図にはその旨を追記してあります。

また、このパンフレットには「とうなえの王子」と「ただないの王子」と、島に着くまで私も知らなかった名前が書かれており(黄色の枠内)、こちらについての考察は保留とします。ただし、「王子(皇子)」と敬称が付けられていることから、この二人が高貴な人物で、しかも男性であることが窺えるのです。

島ではガイドさんに案内してもらったのですが、物忌奈神社の説明を受けた時、物忌奈命について「阿波姫のせがれ」と語っていたのが気になりました。そう言えば、続日本紀の記述には物忌奈命について性別が記述されていないのです。この事実は逆に、物忌奈命が女性である可能性も示唆しているのではないのでしょうか?

到着後すぐに、島の北西部にある阿波命神社へと向かいました。天気は快晴ではありませんでしたが、ちょうど百合の咲く時期であることから、海岸線に咲き誇る百合のオレンジ色と白、そして少し暗く沈んだ海の青色とのコントラストが非常に美しく感じられたのです。

画像6:阿波命神社

写真を見ればお分かりになるように、お社は比較的立派で赤色の瓦が良い雰囲気を醸し出しています。これくらいの神社は全国どこにでもありそうですが、神津島は人口2000人足らずの小さな島なので、この規模のお社を維持していくには、それ相応の信仰心や思いなどがあるのでしょう。ここに祀られた阿波姫のことが益々気になってきました。

その後、しばらく車で島内を巡った後、神津港にほど近い宿舎から徒歩で町はずれにある物忌奈神社へと向かいました。

画像7:物忌奈命神社

ここもまた立派な造りで、阿波命神社と同様、島の人々の思い入れの強さがひしひしと感じられます。但し、呪術家的視点でこの境内を眺めると若干の気になる点があったことはお伝えしなければなりません。

それについては既に解決済みなので、詳細をここで述べるのは控えたいと思いますが、この神津島が特殊な島で、どうして三嶋神の本后である阿波姫がこの島へ渡ったのか、その事情も朧気ながら見えてきました。それについては、私の推測をメルマガでお知らせしたいと思います。

■二人の皇后と豊玉姫

さて、これまでの考察から仮に「伊古奈姫=豊玉姫」としてきましたが、そうなるとここに登場した阿波姫はどう扱えばよいのでしょうか?ここで、このブログが開設当初から扱ってきた次のテーマが鍵となってきます。それは

 二人の皇后 または 双子の皇后

なのです。

どういう事かは過去記事を読み直して頂きたいのですが、どうやら、皇室内に皇后は二人置かれているらしいことを、例えば私が卑弥呼であろうと比定する媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)の名前に「媛(姫)」の字が二つ含まれていることを初めとし、古代皇后をモデルにしたアニメ作品(「千と千尋の神隠し」等)に、ヒロインが二人存在するニュアンスで描かれていることなどを取り上げ解説してきました。

その例に倣えば、伊古奈姫と阿波姫の関係は次のように捉えることができます。

 豊玉姫 =阿波姫(正) + 伊古奈姫(後)

つまり、記録上一人の存在でも、その実態は二人の姫、二人の皇后であったということなのです。

ただし、私はこれまで正皇后が政治的皇后(政体皇后)、後皇后が巫女的皇后(祭祀皇后)と捉えていましたが、どうして政体皇后である阿波姫が本土を離れ島に渡ったのか、その点が今一つ理解できないのです。

画像8:最新アニメ「推しの子」にも描かれた双子の皇后のイメージ
引用元:同アニメPV https://www.youtube.com/watch?v=ZRtdQ81jPUQ

■物忌奈命は少女神

先程、物忌奈命の性別が不明で、どうやら神津島の島民は阿波姫の息子と認識しているようだとお伝えしました。

それならば、どうして次男・三男が王子(皇子)で長子が命(みこと)の尊称を得たのでしょうか?

三嶋神のシリーズは古代天皇家を女系継承で追ってみること、すなわち、少女神の血統で解釈し直すことですから、三嶋神の第一皇后である阿波姫の継承者となれば、当然女性であると考えられるのです。すなわち

 物忌奈命 = 物忌奈姫

と考えるべきなのです。

ここで、古代天皇家を女系継承と仮定した場合の系統図を再び見てみましょう。

画像9:女系による王権継承と上代の王

豊玉姫の娘で王権を継承したのは「玉依姫」(たまよりひめ)とありますので、これをそのまま当て嵌めれば、自然に次の等式が導かれるのです。

 物忌奈姫 = 玉依姫

ここで、物忌奈姫について大いに考えなければならない疑問が浮かび上がるのです。それは、神名に含まれる「物忌」(ものいみ)なるワードなのです。この物忌について、コトバンクでは次のように解説しています。

公事、神事などにあたって、一定期間飲食や行動を慎み、不浄を避けることをいう。潔斎、斎戒。平安時代には陰陽道(おんみょうどう)により物忌みが多く行われ、貴族などは物忌み中はだいじな用務があっても外出することを控えた
(以下略)

引用元:コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%89%A9%E5%BF%8C%E3%81%BF-398337

要するに、「不浄を避ける為に外に出ない = 閉じ込もる」という意味であり、これは呪術的に解釈すれば、「外に出さない」という言霊によるかなり強力な呪いの一形態と捉えることができるのです。

つまり、物忌奈姫とは

 玉依姫を外に出さない

という、かなり赤裸々な文言であり、実際に私が実見した物忌奈命神社では、その呪いの形態がはっきりと認められたのです。

■もう一人の物忌奈姫

さて、二人の皇后が歴代女性王の継承事項であるならば、もう一人の物忌奈姫(あるいは玉依姫)はどこにいるのでしょうか?実は、神津島からほぼ真北の日本海側に、同じ「物忌」の字をあてがわれた神様のお社が存在していたのです。

画像10:鳥海山大物忌神社(吹浦口ノ宮)

先月、私も鳥海山の麓、山形県の庄内を回ってきましたが、移動中に「物忌」の名を冠した小社がいくつか目に入ったので、「なんか縁起が悪いなぁ」と思っていたところでした。ですので、まさかこのように繋がるとは思ってもいなかったのです。

この大物忌大神について、Wikiには「記紀には登場しない神で、謎が多い。」と解説されているのですが、ここには次の様な気になる伝承も添えられているのです。

手長足長の悪事を見かね霊鳥である三本足の鴉を遣わせ、手長足長が現れるときには「有や」現れないときには「無や」と鳴かせて人々に知らせるようにした。

引用元:Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%89%A9%E5%BF%8C%E7%A5%9E

この伝承にある三本足の鴉(からす)とは、まさに八咫烏(やたがらす)のことであり、この大物忌神を神津島の物忌奈姫と同一人物、あるいはもう一人の玉依姫と解釈するならば、みシまる湟耳氏の著書「少女神 ヤタガラスの娘」のタイトルが示すまま、少女神物忌奈姫(あるいは大物忌姫)が神津島からはるか北の鳥海山で意味的に繋がることになるのです。そもそも、どうして鳥海山に「鳥」の字が使われているのか、その謎にも関連してくるのでしょう。

少々複雑になりましたが、この話の中では、次の関係性があることにご留意ください。

 玉依姫 = 物忌奈姫 + 大物忌姫 = ヤタガラスの娘 ?

豊玉姫と玉依姫については、このお二方の男性王である、彦火火出見尊、そして鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあわせずのみこと)、そして、彦火火出見尊と同一人物である三嶋神、そしてやはり三嶋神と同一人物と考えられる大山祇神(おおやまつみのかみ)についても詳しく見て行かなければなりません。

どうやら、少女神を軸とした上代日本の実体が朧気ながら見えてきたようです。

海の御守護は竜宮のおとひめ様ぞ。海の兵隊さん竜宮のおとひめ殿まつり呉れよ。まつわり呉れよ。竜宮のおとひめ殿の御守護ないと、海の戦は、けりつかんぞ。
(日月神示 松の巻第八帖)

竜宮の乙姫殿とは玉依姫の神様のおん事で御座るぞ。
(日月神示 水の巻第十帖)


管理人 日月土